11. 前世持ちアリシアと闇堕ちレイフの場合(1)
「『やっと、会えた! あの、助けてください!』」
黒髪の年若い少女が駆け寄ってくるのを、アリシアは呆然と見つめた。
見慣れない服装と、見慣れない鞄を背に背負っている。アリシアの中の記憶が、それは制服とリュックというものだと教えている。
声が二重に聞こえた。王国公用語とここでは誰も話さないはずの言葉。日本語だ。
アリシアに縋ろうとした女性の手が、ぱしりと音を立ててはじかれた。
敵意や害意は感じないが、触れる許可をアリシアが出していないので、守護石が反応したようだ。
「『あ、あの……』」
少女は弾かれた手をぎゅっと握りしめている。深い茶色の瞳に、涙が滲んでいた。
「……許可なく体に触れるのは、マナー違反よ。まずは、お名前から教えていただける?」
「『黒崎まひろです』」
「どうして、ここに?」
「『わかりません。気がついたら、この森の中にいて。ずっと誰かいないか、探していたんです』」
「どれくらい前の話かしら?」
ぱっと見たところ、彼女の着る服は汚れてはいない。
「『ええと』」
呟いてポケットから出したものに、アリシアは衝撃を受けた。
ここにはないはずのスマートフォンだった。
画面の時刻を確認してから、黒髪の少女は答える。
「『三時間くらいです』」
界渡りという、違う世界の記憶を持った人間がいることは知られている。アリシアもその一人だ。
だが、異世界から生身のまま、渡ってきた人間がいただろうか。
残念ながら、アリシアはその例を知らない。
「『あの、ここはどこなんでしょうか』」
泣きそうな顔でたずねる彼女に、アリシアはどう答えるべきか考え、とりあえず正当な答えを返した。
「ステイリー王国の王都近郊ね」
「『ステイリー王国? ええと、ヨーロッパですか?』」
彼女はここが地球上ではないと気づいていないようだ。
黙ったままのアリシアに、少女は困ったように、眉尻をさげた。
「『ええ? 日本じゃないの? 携帯、圏外だし、地図も表示されないし。え、もしかして誘拐とか、そういう? え、なんで? うち、お金なんてないのに』」
どうしたらいいのかわからず、アリシアは困ってしまう。
ここが彼女が暮らしていた世界ではないと告げるのは簡単だ。だが、それで問題がなくなるわけではない。
異世界の人間とわかれば、国がらみの問題となる。まず間違いなく、王家が出てくるだろう。
なにより言葉の問題がある。アリシアは王国公用語で話している。こちらの言葉は理解しているが、返ってくるのは日本語だ。このままでは会話も困難だろう。翻訳スキルを持つものでなければ、彼女の言葉は理解できない。そして、アリシアは自分以外で、翻訳スキルを持っている人物を知らない。同じ立場のはずのアリシアの夫も、翻訳スキルを持っていなかった。
「アリシア」
噂をすればなんとやら。駆け寄ってきた夫のレイフに、アリシアは嘆息した。
よくわからないが、彼には、いま、すごく、会いたくなかった気がした。
「おれも連れていってほしいって言ったのに」
「魔法の実験に誰かがいたら危ないもの」
「おれは自分の身くらい自分で守れるよ」
アリシアの無事を確認するように頬に当てられた彼の手に、アリシアはすりっと頬を寄せてしまう。
「アリシア?」
驚いたように顔を覗き込んでくるレイフから、アリシアはついと視線を逸らした。
なぜだか、すごく視線を合わせたくない。
「『うわ、すごいイケメン……』」
横からあがった声に、弾かれたようにレイフが振り返った。
少女の声に、アリシアは、ますます顔を伏せた。
「『あ、わたし、黒崎まひろっていいます。迷子っていうか、その、警察まで連れていってもらえませんか?』」
レイフの服を、アリシアはぎゅっと握りしめる。
彼は、違う世界で、違う人間として生きた記憶を持っている。それをアリシアと出会うまで妄想だと思っていたと言っていた。アリシアがある言葉を呟いたから、その記憶が正しいものだとわかったという。それで彼は救われたのだと、結婚した夜に教えてくれたのだ。
そのアリシアの記憶よりもなによりも、明確に異世界を証明する存在が、いま、ここにいる。
学校の制服を着て、リュックを背負い、スマートフォンを持った少女。それは、彼の記憶を肯定するなによりの証拠だ。
夫となった彼が渇望していたもの。
彼がアリシアに執着する理由。
「アリシア、大丈夫? 真っ青だ」
衝撃から立ち直ったのか、レイフがいつものようにアリシアの体調を気遣う。
答えないアリシアの膝下に腕を差し入れると、レイフはアリシアを抱え上げた。
「すぐに休めるところまで連れていくから。もうちょっとだけ我慢して」
そのまま去ろうとしたレイフの背中に、焦った声がかかる。
「『お願いします! 警察まで連れていってください!』」
「どこに連れていけって? だいたい、そんな義務、おれたちにないよね?」
冷たい笑顔で切って捨てたレイフに、黒髪の少女は怯んだように身をすくめた。
「『それは、そうかもしれないですけど』」
「それじゃ、そういうことで」
さっと身を翻したレイフの腕の中から、途方に暮れたこどものような顔がみえた。日本から来たのだとしたら、中学生か高校生か。どちらにしろ、まだ親の庇護下にあるはずの未成年だ。
アリシアは小さく息をついた。
彼女とこれ以上、関わりたくはない。それでも理性は、彼女を放っていってはいけないと訴える。
レイフの服をくいくいとひっぱって、注意をひく。
「なに、アリシア? 気分が悪い? 『治癒』をかけようか?」
アリシアの返答を待たずに、ぽうと体が光った。レイフが『治癒』魔法をかけたらしい。アリシアの緊張していた体から、ふっと力が抜ける。
「ありがとう、レイフ」
すぐに返ってくるはずの応えはない。つねにはないことに、アリシアは心に不安がしのびこむ。
見上げると、なにかに驚いたように、レイフはアリシアをじっと見つめていた。
「レイフ?」
そっと名を呼ぶと、ようやく気づいたようにレイフはぎこちない笑みを浮かべた。
むりやり作られたような笑顔に、アリシアの胸がざわりとする。
「ごめん。ちょっとぼうっとしてた。気分はどう? 少しはましになった?」
そう話しかける表情は、もういつもと変わらない様子だ。だから、アリシアもさわぐ胸などなかったように答える。
「ええ、だいぶよくなったわ。だからね、あの子、連れていきましょう?」
「アリシア、言葉がつながってないけど?」
真顔で指摘する彼に苦笑を返して、ちらりと立ちすくんでいる黒髪の少女に目をやる。
レイフの耳元に口を寄せるとアリシアはささやいた。
「同胞を見捨てるわけにもいかないでしょう?」
王都近くの比較的安全な森とはいえ、危険がないわけではない。
五分後、この少女が生きている確証はどこにもない。ここは、日本とは違う。異世界の少女をこのままにしていくことは、彼女を見捨てるということだ。
レイフは、はあっと大きく息をついた。眉間にしわができている。アリシアはレイフの判断を待つ。彼はアリシアの意見を無碍にすることはない。
アリシアを抱えたまま、くるりとレイフは体の向きを変えた。
「選択肢をやる」
「『え?』」
「このまま、ここに残るか、おれたちと一緒に行くか。三秒で決めて?」
「『は?』」
「それじゃあ、そういうことで」
「『行きます!』」
ふたたび身をひるがえそうとしたレイフに、少女は悲鳴のように叫んだ。
苦い顔で舌打ちをする彼に、アリシアは力なく笑った。
◇◇◇
クロサキマヒロと名乗った少女は、幼く見えたが、アリシアと同じ十七歳、高校生らしい。放課後、バイト帰りに道を歩いていて、後ろから強い衝撃があって、意識を失った。気づいたら森の中にいたという。
森の中にある湖のほとりに、アリシアの『空間』魔法で取り出した敷物を敷いて、アリシアたちは座っていた。
なにもないところから、敷布が出てくるのをマヒロは唖然と見ていた。
差し出された水を疑うこともなく飲んで、彼女は一息をつく。
「『ねえ、ほんとに、この世界に日本ってないの?』」
レイフから日本という国はないと言われたマヒロが、信じられないように言い募る。
「ないね。聞いたことがない」
「『アメリカは?』」
「ないよ」
マヒロはがっくりとうなだれた。
「『どこよ、ここ。まさか、異世界転移とか、そういうやつ? ありえないんだけど』」
誰に聞かせるでもなくつぶやくマヒロを、アリシアはじっと見つめた。
彼女自身が、嫌な人間というわけではない。むしろ、この状況で気丈にふるまっているほうだろう。なのに、どうしても受け入れがたいのは、なぜなのだろう。彼女を見ていると、すごく不安な気持ちになるのだ。
「つまり、君はここじゃない世界から来たってことでいいのかな?」
レイフが、わかりきっていることを確認する。アリシアの言葉が少ないのも、レイフが言葉をかなり選んでいるのも、自分たちに異世界の記憶があることをマヒロに悟られないためだ。
「『たぶん? よくわからないけど』」
「へえ。興味深いな」
「『帰れないの、わたし?』」
「ない国にどうやって帰るって?」
レイフの返答に、マヒロは絶望的な表情を浮かべた。
「帰りたいのよね」
アリシアの言葉にこくりと頷くと、彼女は抱えた膝に顔を伏せる。
アリシアに個人的記憶はないので、あちらの世界に懐かしいという感覚はない。それでも、故郷から訳も分からず、無理やり引き離されたら帰りたいと思うのは、当たり前のことだろう。
だけど、どういった原理で彼女がここに現れたかわからない以上、帰る方法もまたわからない。
「どうしたものかしらね」
「えー、悩むことないでしょ? 国に任せたらいい」
嘆息しつつこぼれたアリシアの言葉に、レイフがなんでもないように答える。
レイフの言葉に、マヒロは顔をあげた。
「『国?』」
「迷子の保護は、一応、国の管轄だ」
「『国が保護してくれるってこと?』」
「君が異世界の人間とわかれば、そう悪い扱いはされないと思うよ。保障はしないけどね」
「『あなたたちが保護してくれたらいいんじゃないの?』」
「だから、なんでおれたちが?」
「レイフ」
とがめるようにアリシアが、彼の名を呼ぶ。
レイフは肩をすくめた。
「クロサキさんはどうしたいかしら?」
「『どうしたいって』」
「現実として、元の世界に帰るのは、いまの時点ではできないわ。いつかできるようになるとしても、それまでの間、どうにか暮らしていかないといけないでしょう? いちばん簡単なのは、冒険者になることだけど、命の保障はないわ」
「『命の保障はないって』」
「冒険者の登録タグは身元保証にもなるから、作っておいてもいいけど、一定の仕事の実績がないと取り消されるの」
「『命がかかっているのは、ちょっと……』」
「身元の保証がないと、まともな職につくのは難しいわ。それを思うと、国に保護されるのは悪い選択ではないのだけれど。言葉の問題があるしね」
「『言葉……?』」
「クロサキさん、わたしたちの言葉はわかっているみたいだけど、話しているのは異国の言葉よね?」
「『え? あ、日本語?』」
「わたし、たちは、翻訳スキルを持っているから、あなたの言っていることがわかるんだけど。このスキルは珍しいから、国の誰かがあなたの言葉を理解してくれるか、わからないわ」
「『え、じゃあ、アリシアさんたちが通訳してくれれば』」
「わたしたちは、国には関わりたくないの」
アリシアがきっぱりと告げると、マヒロは途方に暮れた顔をした。
助けてあげたいとは思うが、アリシアにも譲れない一線がある。アリシアの前世の記憶のことや、レイフの出生を考えると、いまの王家とは近づきたくない。
「アリシアは、言葉だけなんとかなればと思っているの?」
「聞くのは問題ないのだから、あとは話せればいいんじゃないかしら? 自分の意志や要求を伝えられるのは大事でしょう?」
レイフは腕を組んで、あごに手をあてる。
「わかった。じゃあ、君が言葉を話せるようになるまでの間、面倒みてもいい」
「『あ、ありが』」
「君が条件をのむならね」
「『条件って?』」
「君を研究させて?」
「『研究って?』」
「君の体に興味がある」
ぴしりと空気が凍った。
「あ、違う、違う。君の転移に興味があるだけ。生身で世界を渡ったのなら、なにか防御を使っているだろうし。そういうのを調べたいんだ」
あわてて補足したレイフに、怖々といった様子でマヒロはレイフを見た。
「『……それ、痛いことしたりしない?』」
「さあ?」
マヒロの顔がひきつった。にこりとレイフがいい笑顔を浮かべる。
「それじゃあ、交渉決裂ってことで」
「『……わざと怖いこと言って、断るようにしてない?』」
「それくらいしないと、君の面倒をみるのは割に合わないんだけど?」
異世界からきた少女などやっかい事でしかない。
アリシアとしても、関わりたくない気持ちは大いにある。正確にいうと、レイフには、この少女にあまり関わってほしくない。
「あと、異世界の道具があったら、それも研究させてほしいな」
しぶしぶではあったが、マヒロがうなずいた。
「アリシアもそれでいい?」
確認されてアリシアはまた黙り込む。
「アリシアが嫌なら、ここに置いていってもいいけど?」
「それはだめ」
アリシアにしては煮え切らない態度に、レイフは首をかしげた。いつもすぱっと決断を下すアリシアには珍しい態度だ。
「アリシア? なにかあるなら、ちゃんと言って?」
「……よく、わからないの。ただ、あんまり関わりたくないなって」
「じゃあ、ここに捨てていったらいいよ。それとも、殺しておく?」
「だから、それはだめだって」
自分でもよくわからない感情をもてあまして困惑しているアリシアを、レイフはしげしげとしばらく眺めてから、口を開く。
「アリシアが悩むなんて、めずらしいね」
「……わたしにも、よくわからないの。置いていってはいけないとわかっているのに、それがどうしても受け入れがたいの。ただ、あなたにとっては、大事なことだろうから」
「おれにとって大事なのは、アリシアだけだよ」
「彼女は大事な証拠でしょう?」
「まあ、そうだけど」
記憶を証明する証拠が目の前にあって、嬉しくないわけがない。
レイフがアリシアに執着するのは、アリシアに同じ前世の知識があるせいだ。
でも、マヒロはアリシア以上に、レイフの記憶を肯定する確かなものだ。彼が執着するのに充分だろう。
もっと確かな証拠があるなら、アリシアはもう用済みかもしれない。
きゅっと噛み締めていたアリシアの唇を、レイフの指がなぞる。
「唇に傷がつくよ」
「レイフ?」
仕方がないなあという顔で微笑むレイフから、アリシアは視線をそらした。
なんだか、すごく恥ずかしい。
これまで、どうやって、この行為を平気で受け入れていたのか、わからないくらいだ。
「とにかく屋敷に戻ろうか。アリシアも実験はまた今度でいい?」
「構わないわ」
小気味いいほどの即答が戻る。それがいつものアリシアで、先ほどの煮え切らない態度が嘘のようだ。それを面白そうに見てからレイフは、殺すという言葉に怯えてすっかり気配を消していたマヒロに向き直る。
「それじゃあ、口裏合わせだ」
レイフが悪い顔で笑う。
「君は見知らぬ異国から転移してきた。異世界じゃないこの世界のどこかからね。だから、言葉も風習も違う。君はそれなりに裕福な平民の子で、ステンリー王国なんて聞いたこともなかった。転移自体は、この国にもあるからね。見知らぬ転移陣で飛ばされてきたとなれば、そうおかしい話でもないだろう」
「でも、気をつけたほうがいい。君が異世界人だと知られれば、遅かれ早かれ王族が出てくる。王族が出てきたら、おれたちはそこで一切の手を引く。君が困ろうが、死のうが、関知しない」
告げられた言葉に、マヒロの表情が凍る。それでも、ここで切り捨てられるわけにはいかないと思ったのか、抗議の声はあげない。
「アリシア、トライト領の保養地は、どこを参考にしたことになってるの?」
「東の端にある半島の小国だけど」
「とりあえず、そこの出身にしておくか」
東の小国の名前とともに、アリシアが知っているかぎりのその国の情報を、マヒロにたたきこむようにして覚えさせる。
「とにかく君は、必死になって王国公用語を覚えることだね」
レイフの忠告に、マヒロは必死にうなずいていた。




