第56話 どろどろ
「まったく、いい感じの幼女が入ってきたと思っておったのに、ついているじゃないか!! 潜っておった時間を返せぇ!!」
「はあああ!?」
この温泉の中に潜んでいた白髪の老人こそ、人形職人・超横柄。
人形職人としての技術は確かであるが、年を重ねるにつれて性格が歪んでしまって、この『猫屋敷』の露天風呂を利用する客————特に、自分好みの少女の裸を見て作品作りに着想を得ようとしているとんでもない老害である。
その噂のせいで、ここ最近、女性客がめっきり減ってしまていた。
番頭は「売上が下がってしまっては、先生も創作する場所を失うことになります」となんとか説得し、露天風呂には近づかないように何度もお願いして、最近はほとんどの時間離れに引きこもって作業をしていたのだが、たまたま離れを出て宿の周りを少し散歩しようと外に出た。
そこで、たまたま慧臣たちが露天風呂の方へ行ったのを目撃し、別の入り口から中に入って風呂の中に潜っていた。
「その顔で、どうしてついているんじゃ!! ややこしいことをしおって!! 驚いて、寿命が沈むかと思ったわ!!」
(な、何言ってるんだ、この人!!)
そんな事情なんて全く知らない慧臣と李楽は、完全にこの老人は不審者だと思った。
温泉で混浴はよくあることであるが、こんなにあからさまに覗きをしようとするだなんて、変態である。
「おいおい、なんやねん、おっちゃん! 勝手に潜っといてそりゃないやろ!?」
「ふん! うるさい! 男は黙っとれ! 気分が悪いわ!!」
「あんたの方が気持ち悪いわ!! ボケ!! 失礼なジジイやなぁ」
二人が言い争っているのを、慧臣は湯に浸かったままぼーっと見上げていた。
驚きはしたものの、とりあえず生きている人間のようでホッとしたのだ。
温泉に住んでいる妖か幽霊の類かと驚いたから。
特になんの武器も持っていない真っ裸の状態で、そんな得体の知れないものに突然襲われたら、ひとたまりもない。
僵尸がいた村の件で、得体の知れないものに襲われるかも知れないというのは、恐怖でしかないと散々思い知っている。
「慧臣、この変態爺さんは俺がとっ捕まえとくから、誰か呼んでこい。さっきの番頭でもええ! こんな変態がおったらせっかくのいい温泉が台無しや!!」
「わ、わかりました!」
慧臣は大慌てで露天風呂から出ると、濡れたままだが適当に衣を一枚羽織って、脱衣所から出た。
「うわっ!!」
「きゃっ!」
すると、飛び出したその瞬間、こちらに向かってきていた藍蘭とおもいきりぶつかってしまう。
「痛たた……すみません、藍蘭さん大丈夫ですか?」
衝撃で背中から床に倒れた藍蘭。
慧臣は藍蘭に覆いかぶさるように倒れてしまったため、慌てて顔を起こすと、慧臣の濡れた髪から雫が落ちる。
「慧臣、いきなり出てくるなんて危ないじゃない……ちゃんと前を確認しなさいよ!!」
「す、すみません……! 変態がでたもので————」
「————変態?」
(って、え?)
藍蘭の顔をここまで間近に見たのは慧臣は初めてだった。
だからこそ、この時初めて慧臣は気がつく。
「藍蘭さん……あの……」
雫が落ちたところから、藍蘭の肌に変化が起こる。
どろどろになって、剥がれ落ちる。
髪の色も、雫のかかったところだけ色が薄くなっている。
「白粉……を、塗っているんですよね? でも、なんで……」
普通、白粉は肌を白く見せるために塗るものだ。
(白い……肌?)
それが、白粉の剥がれた場所の方が白かった。
「————おい、どうした? 大丈夫か? 二人とも」
慧臣が藍蘭に覆いかぶさったまま動かないため、令月が不思議に思って声をかけると、その瞬間、藍蘭は慧臣の肩をおもいきり押しのけて、逃げた。
「えっ!?」
何が起きたのかわからなくて、慧臣は唖然としていると、令月はニヤニヤと笑いながら聞く。
「なんだ、慧臣。藍蘭の胸でも触ったのか?」
(そういう問題じゃない)
「まったく、藍蘭も逃げなくてもいいだろうに。今のは明らかな事故ではないか」
(今のは……なんだ? 藍蘭さんは女性なんだから、化粧をしていても全然おかしくない。でも、俺もそうだけど、普通、女性は肌を白く見せようとするはずだ。それが、どうして……なんで、逆に黒くなるようにな化粧をしている……? 髪だって……変だった。濡れたところだけ、色が……薄くなって————)
慧臣はゆっくりと令月の顔を見上げる。
誰よりも白く美しい肌と、老人でもないのに真っ白で月のように輝く髪。
(————この人は、このことを知っているのだろうか)
「……なんだ? 違うのか?」
「……」
慧臣はしばらくじっと令月の顔を見ていたかと思うと、すぐに立ち上がって藍蘭が逃げた方へ走り出した。
「おい、慧臣! お前までどこへ行くんだ!?」
「確かめたいことがあるので、失礼します!! あ、あと、風呂に変態がいるので……後はお願いします!!」
(俺の思い違いかも知れない。だけど……妙だ)
藍蘭の姿は見失ってしまったが、廊下にはあとが残っていた。
慧臣の髪から落ちた雫と混ざり合って、どろりと溶け落ちた、藍蘭の肌についていた何か。
それをたどって行くと、猫屋敷の裏にある山へ続いている。
必死に追いかけたその時、慧臣は山の上空に浮いている謎の飛行物体を目にする。
丸くて、白くて、一つ瞬きをするたびに、あり得ない早さで近づいてくる。
「藍蘭さん!! 待ってください!!」
「……慧臣!? どうして、ここまで————」
謎の飛行物体は、温泉の上に架けられたつり橋の真ん中に立っていた藍蘭を照らすように上空から光を放っていた。
藍蘭は振り向いて慧臣の方を向いたが、またすぐに逃げようとする。
「なんなんですか! ちゃんと、説明してください!! あなたは、一体————」
藍蘭の体が、その光に引き寄せられるように宙に少し浮く。
慧臣は藍蘭の手を掴んで、必死に引っ張った。
「放して!! 危ないから!!」
「嫌です!!」
慧臣の体ごと、光は藍蘭を上へ引っ張り上げようとしていたが、精一杯の力で抵抗すると、藍蘭の体が光の中心からそれた瞬間、上に向かっていた力が消える。
「うわっ!!」
その反動で、二人は橋から転落。
温泉のお湯に全身が浸かってしまった藍蘭の肌と髪、瞳……
どろりと溶けて、色が抜けて行くのを、底に沈みながら慧臣は見た。