第55話 先生
「化粧ってのは、ほんま凄いもんやな」
「……なんです? 急に?」
服を脱いで裸になった慧臣を見て、李楽は笑っていた。
顔から首にかけて塗られた白粉の境目があまりにはっきりしていて、体と顔の肌の色があまりにも違いすぎて、それが奇妙に見えたのだ。
それに、化粧を落としていないため顔だけ美少女で、体はやせっぽちの少年の体というのも、なんだかおかしかった。
「そりゃぁ、何だか凄い塗られましたから。本当は手にも塗られたんですよ。でも、手を洗ったら流れてしまって」
「まぁ、わからんでもないわ。俺も、ふざけた烏岳に女装させられたことがあるしなぁ。なんか顔についてる感覚が気持ちいよなぁ」
「え、李楽様が女装!?」
がっしりした体型の李楽が白粉を塗った顔を想像して、慧臣は笑ってしまった。
(……絶対似合わない)
顔を念入りに洗い、全身の汚れを洗い流してさっぱりすると、慧臣は初めて温泉に浸かる。
露天風呂なんて初めてで、見上げれば星空に向かってもくもくと湯気が上がって消えていった。
(変な匂いだけど、すごく心地がいいなぁ……ずっと入っていたい)
身体中が温まって来たところで、ぼーっとお湯を眺めていると、泡がぶくぶくと立っている。
(なんだろう、温泉だからかな? ……ん?)
湯けむりでよく見えていなかったが、目を凝らしてじーっと見ていると、目があってしまった。
温泉の中に、何かがいる。
「うわああああ!!」
「な、なんや? どないした慧臣!?」
頭を洗っていた李楽が、慧臣の声に驚いて振り向いた瞬間、それは水面からざばああああんと勢いよく顔を出した。
「……死ぬかと思ったわい」
長い白髪に、同じく白い髭を生やした背中の曲がった老人が、しゃがれた声でそう言った。
*
「おや、変ですねぇ……」
番頭は声をかけたが、明かりはついているのに離れから返事がしない。
いつもなら、しゃがれた声がすぐに聞こえるはずだ。
「ちょっと中を確認してまいります。もしかしたら、倒れているかもしれません」
「倒れて……? なんだ? その人形職人はどこか悪いのか?」
「いえ、健康そのものではありますが、何しろご高齢ですので……少々、こちらでお待ちくださいね」
番頭が中を確認しに行き、離れの前で待たされることになってしまった。
藍蘭は退屈そうに近くにあった四角い井戸の縁に腰をかけ、浮いた足をぶらぶらと揺らしている。
「……遅いな。本当に倒れているんじゃないだろうな?」
「殿下、まだ全然時間は経っていませんよ。そんなに焦らなくても……」
「藍蘭、これは私の人生に関わる一大事だぞ? どうにか異国人の女か、呪いをかけた祖父と連絡を取る方法を見つけなければ、私の月へ行くという夢が————」
「まったく、またそのような……月になんて行けませんってば。いい加減、良い歳なのですから諦めて、妻の一人や二人くらい娶ってはどうです? どうしても月に行きたいというなら、その子に王位を継がせた後でもいいではありませんか。なぜ、そんなに頑なに拒むのですか? 女子が嫌いというわけでもないでしょう?」
「だから、それは私より美しいのがいないからだと言っているだろう。美しくないなら、せめて面白い女でなければ……私は父上や兄上と違って、妻は一人で十分だからな。お前こそどうなんだ?」
「……わ、私ですか?」
「お前にだって、好いた男くらいいるだろう?」
突然、自分の話をされて、藍蘭は戸惑った。
侍女の恋愛話なんて、そんなものに令月が興味を持っているというのかと。
「……私の好いた男はとっくの昔に死にました」
その瞬間、もう思い出したくない男の顔と令月が重なって見えて、藍蘭は下を向く。
「恋だの愛だの、あんなものは一度きりで十分です。私はただ、殿下の侍女として、殿下の将来が不安でなりません。殿下こそ、この国の王に相応しいんですから」
「それがわからない。藍蘭、お前が私の侍女になってもう何年だ?」
「六年ほど……でしょうか?」
「初めて会った時で数えたら、もっと前だ。そんなに長い間、私のそばにいて、どうして分かってくれないんだ? 私は、本当に王位などどうでもいい。ただ、母上の死の真相と、月へ行くというこの願いさえ叶えば、それで……」
「ですから、それは————」
藍蘭が何か言いかけたその瞬間、番頭がとても申し訳なさそうに戻って来た。
「す、すみません。やっぱり、中にいませんでした!! それで、その……多分、露天風呂の方に行ったんじゃないかと思うんですが」
「露天風呂? だったら、そこへ行ってみればいいだけじゃないか」
「いや、そのぉ……うちの露天風呂は混浴でして————先ほどの、あのとても可愛らしいお連れの方が、危険かもしれません」
「え……?」
何が危険なのかわからなくて、令月も藍蘭も小首を傾げる。
「はずがしながら、先生はその……女性の……とくに、人形の参考になりそうな十代前半くらいの女の子の裸が……好きでして」
「は?」
「てっきり、離れの方にいる時間帯なので大丈夫だろうとお通ししたんですが……先に確認しておけばよかった。申し訳ありません」
番頭は頭を深々と下げたが、時すでに遅し。
露天風呂の方から、慧臣の叫び声が響いていた。