第49話 純愛
合点に取り憑いていた紅雪の霊は、何度も生前に近い若い女官の姿と悪霊と呼べる恐ろしい姿を交互に繰り返しながら頷いた。
暗い影を落とし、全く見えていなかった彼女の目元には、両方の下まぶたの近くに小さな黒子がある。
慧臣がそれに気づいて、生前の紅雪を知っている宦官や女官たちに伝えると、間違いないと皆驚いていた。
「ずっと、僕のそばに……紅雪が————?」
「そのようです。あの人……明了さんが言っていましたよね? 悪霊ではあるけれど、合点様を守っているって————それは、紅雪さんだからではないですか? きっと、紅雪さんも合点様のことを想ってのことだったんじゃないでしょうか?」
「僕を……想って?」
合点は後ろを向いた。
合点の目には何も見えない。
けれど、そこに愛しい紅雪がいるのかと思うと、涙が止まらなかった。
「紅雪、君はずっと、僕と一緒にいてくれたんだな。でも……でも、それなら、どうして、あの時、約束の時間に来てくれなかったんだ? どうして、君は、いなくなった? 君は、いったい、いつ死んでしまったんだ?」
死霊となっていると言うことは、紅雪はすでに死んでいる。
紅雪は泣いている合点に向かって、口をパクパクと動かして何かを必死に伝えようとしているが、その声は慧臣にも聞こえなかった。
紅雪は強い力を持つ悪霊であっても、話すことができないようだ。
「慧臣、どうなっている? 何か紅雪は何か言っているのか?」
「いえ、それが……話はできないみたいで————」
「そうか……それなら、ものは動かせるだろうか?」
「もの……ですか?」
紅雪の方を見ると、彼女は何度か頷いてすぐに宦官その一の被っていた烏帽をひょいっと持ち上げて見せる。
「ひゃっ!?」
急に毛が薄く、寂しい頭皮があらわになり、宦官その一は必死に宙に浮いていた烏帽を引っ張り戻した。
「な、なんなんだ! いきなり!!」
宦官その一は顔を真っ赤にして恥ずかしそうにしていたが、令月は目の前で起きた怪奇現象に、腹を抱えて笑った後、こう提案した。
「ものを動かせるのであれば、方法はある。とりあえず、翠蓮妃様のところに行こう」
*
翠蓮妃の部屋で、令月は紙と筆を借りると、筆を紅雪に使うように言った。
幽霊と筆談をしようというのだ。
「まぁ……どうなっているの!?」
誰もいないはずなのに、勝手に筆が動く。
その光景に、慧臣以外の何も見えていない翠蓮妃とその侍女たちは驚きの声をあげる。
「うん、難なく動かせるな」
『はい。ありがとうございます』
翠蓮妃は棚の奥から出しておいた写本の文字と、その文字を見比べる。
「すごい。そこにいるのね、紅雪」
「翠蓮妃様、これは?」
「紅雪が書き写した『竹取物語』という倭国の話よ。煌妃様に言われて、書き写していたの。紅雪は字が綺麗だったから……」
文字が同じであるからこそ、そこにいる霊が紅雪だと確信できた。
これは決して、怖いものではない。
かつての友人が、そこにいる。
「それで、あなたにいったい何があったの? 突然いなくなってしまって……本当に驚いたのよ?」
『驚いたのは私の方よ。まさか、死ぬなんて思ってもいなかった』
「いったい、何があったの?」
『詳しいことはわからない。気付いた時には死んでいた。死んだ前後の記憶はないの』
「そんな……」
紅雪は、自分がどうやって死んだのか、どこで死んだのかもわからない。
だが、確実に言えることがある。
殺されたのだ。
その証拠に、首のあたりにはよく見ると絞め殺されたような、手のあとが残っている。
『あの夜、私は蜜姫妃様に言われて、そばにいたの。みんなお産に気を取られている隙に、宮廷を抜け出したらいいって。蜜姫様は私に想い人がいることを知っていたから、後宮から出て、その人と結ばれるべきだって。あなたのそれは、純愛だから……と』
予定通り、蜜姫妃は男の子を出産した。
西の宮殿は、美しい王子の誕生に沸いていた。
白い髪に、白い肌。
元気に泣いているその姿は、この世のものとは思えないほど美しかった。
すぐに先王が息子を抱き上げ、皆がその王子に夢中だった。
紅雪は、お産で使ったお湯を捨てに外に出た。
そのまま、どさくさに紛れて宮廷から抜け出すつもりでいた。
ところが、こちらに向かってくる白い髪の男と鉢合わせしてしまう。
約束の場所へ向かっている最中の出来事だった。
白い髪の美しい男が数人、何かを探しているように歩いているのを見た。
この世のものとは思えないほどの、まるで月のような神秘的な美しさを持った異国の男たちに驚いて、紅雪は西の宮殿に戻る。
以前、自分の居場所が父親に知られたら、蜜姫妃は異国に連れ戻されてしまうかもしれないと言っていたのを思い出したからだ。
すぐに逃げるように伝えようと、走った。
だが、そのあとの記憶がない。
蜜姫妃に状況を説明できたかどうかも覚えていないのだ。
『気がついたら、私は幽霊になっていました。自分の体はどこにもなく、行方不明ということになっている。私は急いで合点様と約束した場所まで行きましたが、あれからもう五日も経っていたのです。それからずっと、合点様のお側にいました。私の姿は、合点様には見えないけれど……それでも、合点様をお守りしようと』
紅雪は合点の方を愛おしそうに見つめる。
『私は自分の体がどこにあるのかもわかりません。ですから、せめて、魂だけでも合点様と一緒にいられるように、ずっとこうして、待っているのです。合点様の魂が天に昇る時、あちらの世界へ、一緒に逝きたいのです』




