第38話 理想の母親
令月は変人として有名ではあるが、何を隠そう、彼には母親というものに対する理想や幻想が誰よりも強い。
令月の母親は側室妃であったが、令月を産んですぐに亡くなったと言われている。
自分の母親がどんな人物であったか、令月は人伝いにしか聞いたことがない。
だが、腹違いとは言え兄弟が多いため、母親とはどういうものか、羨望の眼差しでよく見てきたからこそわかっている。
どの側室妃も、自分の子供に向ける眼差しは優しかった。
子供が病気になったり、怪我をしたら、まるで自分のことのように悲しそうな、辛そうな表情になる。
我が子を失って、泣いている母親たちの姿を、何度も見ている。
(母親とは、そういうものだ。そうあるべきだ)
それを、赤鬼という異物が壊したのが許せなかった。
(我が子を手にかけるなんて、ありえない。母親のすることではない)
令月が知っている莢迷は、まさに令月にとっては理想の母親そのものだった。
常に我が子のことを心配し、看病し、そばに寄り添って————それを、赤鬼がおかしくしたのが、許せなかった。
赤鬼の目的が何であれ、何の罪のない信子を……それも母親に殺させたことが許せない。
「————梔子、毒とは具体的に何を入れたかわかるか?」
令月が尋ねると、梔子は書いて答える。
『大伯父様が狩で使う矢に塗っていたもの』
「な……なんだって!?」
芳白の顔から血の気が一気に引く。
梔子がいう大伯父様とは、現在の紅家の当主のことだ。
莢迷の父の兄である。
彼の趣味が狩であることは有名で、芳白もつきあいで何度か一緒に狩に行ったことがある。
狩を生業としている男からつくり方を聞いたというその毒を塗った矢は、大きくどう猛な動物を射るのに使われることが多い。
何度か紅家の本家の屋敷に遊びに行ったことのある梔子も、その大伯父が狩で使う矢に毒を塗っている様子を覚えていた。
『大伯父様の家にあった毒が入った壺と、同じものが倉庫にあるの』
梔子は、莢迷がその毒を入れたところを偶然目撃した。
食事を作るのは使用人の仕事であるが、具合の悪い信子にその食事を食べさせるのは莢迷。
匙や箸で口元まで運んでやる。
そこまでして信子に食べさせていた。
「……白の兄上、すぐに倉庫を調べてください。管理は誰が?」
「おそらく、妙菊————俺と莢迷が結婚した時に、紅家から莢迷と一緒にこちらに移ってきた使用人だ。さ、探して来る」
芳白は慌てて部屋を飛び出した。
令月は泣いている梔子の頭を軽く撫でたあと、慧臣に指示を出す。
「慧臣、鬼を退治するのに必要なのは、豆だ」
「豆……?」
「私の収集品の中に、『除霊砂』というものがあるんだが……あれは倭国で鬼を退治した僧侶の霊力が込められているもので————乾いた大豆をすりつぶしたものに、そこへさらに清めの塩が混ぜられている。あれを使おう。月宮殿に行って、急ぎ取ってこい」
「あ……あの————それなら、俺、今持ってます!!」
「何!?」
慧臣は懐から除霊砂が入っている巾着を取り出した。
「どうして、持ってるんだ?」
「令月様があまりにも何もできないので、いざという時の自衛のためです。あのがらくたの中で、一番使えそうに見えたので————」
「がらくたとは失礼な……」
「でも、これ……てっきり幽霊とか悪霊に使うものだと思っていました。鬼にも使えるんですか?」
「使えるはずだ。それを買った時に藍蘭もいたんだが、珍しくそれは本物だから買っておいた方がいいと言っていた」
「やっぱり!」
「それに、もう一つ効果がある————」
なぜか令月は懐から月と太陽の模様が掘られた、王族が護身用に常に持ち歩いている小刀を出した。
そして、鞘を抜いて、床に投げると空いた手を慧臣の方に伸ばす。
「慧臣、手を出せ」
「へ……!? な、何をする気ですか!?」
慧臣は嫌な予感がして後ずさったが、令月は無理やり慧臣の手を掴んだ。
「いぎゃぁぁぁぁぁぁ!!!」
抵抗むなしく、慧臣の悲鳴が響き渡った。
*
一方、芳白は妙菊の行方を捜した。
ところが、他の使用人に聞いても、誰も居場所がわからない。
むしろ妙菊がいなくて、こちらが困っているくらいだと言っていた。
いつもなら、こんな風に屋敷に客人が多い時は、中心になって使用人たちを取り仕切るのが妙菊の役目だ。
彼女はよく気の回る人物で、自分があの有名な紅家の使用人をしていたことに誇りを持っている。
紅家は使用人たちの中では一番、給金が良いと言われており、それゆえに優秀な者しかやっていけないと言われているからだ。
彼女は葬儀のためにたくさん人が集まっている中、仕事をさぼって何処かへ行くような人間では決してない。
芳白は屋敷中の部屋という部屋の扉を開けて捜し回った。
「妙菊……!! どこだ!! どこにいる!?」
そうして、一人広い屋敷を必死で捜し回って、莢迷の自室の扉を開けた時、返事のなかったその部屋の床に、倒れている人を見つける。
肩から上に黒い衣で覆われていて、顔が見ないが、倒れているのは女であることはわかった。
「……妙菊?」
名前を呼んでも、動かない。
芳白は恐る恐る、衣を持ち上げる。
見た目より重いのは、なぜかその衣がじっとりと濡れているせい。
「どうして……そんな————」
散大した妙菊の双眸と、目があった。