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くだらない嘘

 ――先生、覚えてますか。こんな生徒がいたことを――



 いつ頃からだろう。この郷愁にも似た感覚を覚えたのは。つまらない。虚しい。寂しい。気だるい。それらにも少し似ていて、でもやっぱり違っていて。後ろで黒板にかつ、かつと線が引かれ、続けてかっかっと字が書かれる。この感覚は何と言うのか。自分はそれを表す言葉を知らない。RPGの終盤を一気に突き進み、エンディングを見終わった後のような。と言っても、感動できるシナリオのゲームもあまり発売されなくなった。それは単純に寂しい。先生の威勢の良い声。公式の説明。最近目にするのは、もっぱらお子様ウケするような薄っぺらいものばかりだ。そんなもんやったって、いったい何が残るのか。いっせいにノートがめくられる。下敷きが差し込まれる。かりかりとあちこちで書き写されている。まぁ、自分みたいな中学生の、子供の考えることじゃない。澄んだ青色の空をゆっくりと流れていく。窓の外、雲を見ていた。そのさまに、何かを重ね合わせる。それは、テレビや漫画で思い浮かんだ世界の一部であったり、いつか夢で見たもやもやとした感情の色や形だけの映像だったり。

「――を五木君、解いて」

 BGMに名前が混じっていた。何か当てられた。慌てて教科書をめくっていく。さっきの公式のあるページに行き着き、問いを探す。

「Aが3で、Bは6」

「……あぁ、そうだな」

 前に向き直り、解説を始める先生。この中年の数学教師は、二年になってからの担任だ。自分に問題を振る時は、決まって何か物思いに耽っているときだった。よそ見するなという意味だろう。いや、いつか恥をかかせてやろうなんてとこかもしれない。でも、やっぱり自分は授業を聞く気がない。そもそも半年以上前に塾で習っている内容だ。ノートも取っていない。授業が開始されてすぐ、集中して今日の分の問いを全部解く。そして後はぼんやりと何かを考え、感じる。とりとめもなく、答のないことを。それが今、自分にとって最も大事なことだと思っていた。遠く、空を眺める。縮れた雲の動きがわずかに早い。この無機質で巨大なコンクリートの塊の中、自分がしていることはいったい何の意味があるんだろうか。


「There are many tired people in……」

 しんと静まり返った教室。流暢な英語。塾の雰囲気は張り詰めたようでいて、そうでもなくて。窓の外は一面の黒で何も見えない。

「はい。それじゃ傍線Aの訳を……あー、そうだな。五木!」

 男みたいな口調。凛とした通る声。当てられた自分は知らず知らず、背筋を伸ばしてしまう。

「その後、彼らは週に二度、中央に集まって会議をする取り決めを行いました」

「だいたい正解。ご苦労」

 表情には出さず、ほっとした。石井先生は怖い人ではない。清々しいと表現すればいいのか。

「ところで五木。好きな食べ物はなんだ?」

 まだ終わってなかった。ええと。食べ物、食べ物……。

「焼肉です」

「そうか」

 唐突に始まった世間話。何も恥ずかしいことは話していない。

「週に何回ぐらい食べる?」

 三十人の静かな聴衆。見えない背後からの注目。

「三回、ぐらい……」

 見られている想像が広がる。頭がふわっとして真っ白だ。

「そんなに? ほんとか?」

 先生と視線が合う。目の奥を覗き込む瞳に、少しからかいの色が混じっているような気がした。ますます頭に熱をもち始める。漫画のように頬が上気しているかもしれない。

「じゃあ山下。今のを英作してみろ」

 ふいうちの、意図しない拷問から解放された。後は今の話を英語で復唱される。もう一度恥ずかしさに耐えるだけだ。それにしてもほんの二言のたわいもない会話で、教室の空気がほんのりほぐれたように思える。授業が始まる前に一言ネタを始める先生もいるけど、それとは違う。このクラスは有名進学塾の真ん中に当たる。とは言え、生徒の半数以上が県内でトップの高校に進む。勉強は嫌いだ。好きなやつなんていない。でも、このCクラスはどこか楽しいと感じることがあった。


 今日の授業が終わる。一斉に教室から生徒が吐き出されていく。自分は違う中学の知り合いと話をしてから少し時間をずらして帰る。内容はもっぱら今日の授業で気になったところ。話し終えるとスリッパを靴に履き替えて外に出る。辺りは濃藍。下駄箱の上にある電灯に虫が集まっていた。まばらな人の流れに混じる。塾構内の道に自転車が歯抜けたように並ぶ。

「おう。焼肉の五木」

 妙なあだ名が付いていた。門の外には石井先生が立っている。午後九時以降は、必ず講師が交代で生徒の帰りを見送っているらしい。

「あんま肉ばっか食うんじゃないぞー」

 こんな風に声をかけられるのは初めてだ。皆と同じ、「またなー」とか「寄り道すんなよー」とかだった。自分だけ少し親しくなったような気がした。

「ふふん。羨ましいんです?」

「ばーか。その気になりゃ毎日だって食えるわ」

 調子に乗った自分は「ほれ、とっとと帰れ」と追い払われる。「さいならー」と軽く頭を下げて塾を後にした。


「483円になります」

 コンビニでカップ麺とサラダを買う。レジには高校生ぐらいの男の店員。手馴れた様子で商品を袋に入れていく。

「ありがとーざいましたー」

 この人も、自分のことは見慣れているだろう。もう一年、週に数回このコンビニに立ち寄っていた。この文を英作すると……なんて今日の授業を思い出しながら外に出る。目の前の道。駅から続く道路は広い。稀に通る車が寂しそうに見える。午後十時前の住宅街は静寂に包まれていた。頬を掠めていく風が生暖かく感じる。静かな夜。遠くの空を何気なく見ていた。


 ドアの閉まる音が響く。玄関は暗い。電気はつけず、靴を脱いでリビングに向かう。他に物音は聞こえない。テレビをつけ、カップ麺にポットで湯を注ぐ。三分待っている間にサラダを取り出して皿に盛り、ドレッシングをかける。テーブルまで麦茶と皿を運び、録画していた番組を再生。コントが始まった。麺をすする。一人で見るには大きいテレビ。ときおり、画面に向かって小さく笑みを浮かべる。番組スタッフの大げさな笑い声が喧しく、けれども部屋に染み込んでいく。テレビの声だけが静かにリビングを賑わせていた。


 午後十二時、日付が変わる。朝の早い両親はもう寝息を立てていた。枕元をゆっくりと足を運んでいく。部屋がつながっているため、ここを通らなければならない。そして音をなるべく立てないよう、布団に潜り込む。目はまだ冴えている。低い天井を見上げ、もやもやと考え始める。一時間ほどなら構わない。明日の授業は特に何もなかったはずだ。あさっての塾の宿題を持っていこう。塾。今日の英語。好きな食べ物。自分には好き嫌いはない。嫌いなものはないけど、好きなものもなかった。好きになるような美味しい料理を食べたことがない。インスタントの食べ物が七割ぐらいか。でも、寂しいとは思わない。これが自分にとって普通だから。あの時、「好きな食べ物がない」とは言わなかった。面倒だと思った。何をどうしたところで、結局ごまかさなければならない。こうしてまたひとつ、つまらない嘘が積み重なっていく。思考を遮った。天井のすぐ近く、壁に掛かっている時計の秒針が、何か呟いているように時を刻んでいた。



 ――僕はくだらないとこで嘘を吐くやつでした。つじつまを合わすよう嘘を嘘で塗り固める。それはもう数え切れなくなっていました――

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