第51話「天下の大悪人、王宮の宴席に参加する(3) -待合室にて-」
──そのころ、待合室にいる星怜と白葉は──
(『天地一身導引』──『流風容柳 (風を受け流し、受け入れる柳)』)
星怜は言葉に出さずに、つぶやいた。
「──星怜さま!?」
白葉の目の前で、星怜の気配が薄れていく。
見ているものが信じられなくて、彼女は思わず目をこする。
白葉の側には星怜がいる。けれど、存在感が薄い。
まるで、壁際に置かれた樹木のように。
中庭の風景が見えるように、待合室には窓が大きく取られている。
そこから、中庭を飾る樹木が見える。
星怜はまるで、その樹木の一部となり、風景に溶け込んでいるようだった。
「これが、芳さまと星怜さまのお力なのですか……」
白葉も、天芳と星怜が導引法を学んでいることは知っている。
それで天芳は『気』──内力を身につけた。
海亮と協力して、異民族を撃退するほどの功績を立てた。
けれど星怜まで、これほどの力を身に着けていたとは、想像もしなかったのだ。
もちろん、星怜は完全に気配を消したわけではない。ただ、存在感が薄くなっただけだ。
だが、このような人の多い場所では、十分に意味がある。
弱い気配は、人の話し声や雑踏にまぎれてしまう。まわりの者は、彼女の存在に気づきにくくなる。
星怜は、静かに人々を観察することができるのだ。
(と、とにかく白葉は、お役目を果たさなければ)
待合室に入るまでの間に交わした会話を思い出す。
星怜は白葉に『黄家と関わりのある方が来たら、声をかけてください』と言っていた。
白葉は、彼女の指示に従わなければいけない。
それにしても、星怜の成長ぶりは目を疑うばかりだ。
星怜は壁際に、ただ、立っているだけ。
その姿勢は自然で、ある意味、優雅でさえある。
そうしてそのまま、星怜は風景に溶け込んでいる。
待合室の壁際に置かれた樹木のひとつのように。
なのに星怜の目は、周囲をしっかりと観察している。
──立ち話をしている貴族たちも。
──周囲を巡回している、文官や武官たちも。
──着飾った女性たちも。
星怜の目は待合室にいる人々と、起こっていることすべてを、静かに見ている。
待合室にいるのは、主に女性たちだ。
彼女たちは会合に出席する者たちの身内だろう。
ここが社交の場だと考えているのは、玉四だけではなかったようだ。
「星怜さま。王弟殿下のご息女がいらっしゃいます」
ふと、白葉は星怜に声をかけた。
部屋に新たな少女が入って来るのが見えたからだ。
まわりの者たちの話から、白葉は、それが燎原君の娘だと判断したのだった。
「……すぅ」
星怜は深呼吸をひとつ。
樹木のようだった身体をかがめて、一礼する。
その直後、星怜の存在に気づいた燎原君の娘が、足を止めた。
「まぁ、かわいい方」
燎原君の娘は、星怜に笑いかける。
「ごめんなさい。そこにいらっしゃるのに気づきませんでした。あなたは……」
「わたしは『飛熊将軍』黄英深の養い子で、柳星怜と申します」
「星怜さま! まぁ、あなたでしたか」
燎原君の娘と、その侍女たちが、星怜の方を向いた。
「わたくしは藍伯勝の末娘で、夕璃と言います。あなたと、あなたの兄君のお話は、父から聞いていますよ」
「丁寧なご挨拶をいただき、ありがとうございます」
星怜は深々と頭を下げた。
「夕璃さまに名をおぼえていただいていると聞けば、兄も喜ぶでしょう」
「星怜さま」
「はい。夕璃さま」
「あなたの事情も知っていると言ったら、怒りますか?」
夕璃は申し訳なさそうな顔で、目を伏せて、
「ごめんなさい。あなたと黄英深さまが父のところにいらしたとき、話を聞いてしまったの。それで、あなたのことがずっと気になっていたのです」
ふたりのやりとりを、白葉はひざまづきながら聞いていた。
夕璃は、燎原君の娘のひとりだ。
年齢は、星怜と同じくらい。
末娘ということで、特にかわいがられていると聞いている。
その夕璃が星怜を気にかけたいたとは、意外だった。
夕璃は王弟の娘で、星怜は『飛熊将軍』の養女だ。身分が違う。
それでも夕璃が星怜に話しかけてきたのは──
(……芳さまが、おふたりを結びつけてくださったのでしょうか)
天芳は星怜がさらわれたとき、罪を受けるのを覚悟で燎原君の力を借りた。
その後、彼は燎原君の部下に弟子入りをした。
身に着けた武術で北の地を守り、奏真国から得がたい人材──玄秋翼を連れ帰ってきた。
そんな天芳のことは、燎原君の家でも話題になっているのだろう。
夕璃が星怜に興味を持ったのは、そのためだ。
「あなたに会えるように、父には何度もお願いをしていたのです。でも、時期を待ちなさいと言われていて……ここで会えて、本当にうれしいです」
「こ、光栄です。夕璃さま」
「いずれ、あなたと落ち着いて話ができればと思っています」
夕璃の言葉に、星怜が目を見開く。
「はい。ぜひ、機会があれば」
「ふふっ。では、失礼いたしますね」
そう言って、夕璃は星怜の元を離れた。
気づくと、人々の視線が星怜に集中していた。
当然だろう。
燎原君の娘である夕璃は、この場ではもっとも高位にいる。
その彼女がまっさきに星怜に声をかけるなど、普通はありえない。
皆が星怜に、一目おいたはずだ。
そんな人々に一礼してから、星怜は場所を移動する。
そして──
(……『流風容柳』)
──彼女はふたたび、存在感を薄れさせた。
人々は不思議そうな顔になり……すぐに興味を失ったように、星怜から視線を逸らす。
そうして彼女たちは、夕璃のまわりに集まりはじめる。
(星怜さま、すごいです。いえ、すごいのは芳さまでしょうか……)
星怜に気配を弱める方法を教えたのは、おそらくは天芳だ。
星怜は忠実に、それを実行している。
そうすることで、人々を観察して、話をするべき相手を見極めているのだ。
「──おや、美しい方々がそろっているようですね」
不意に、広間の入り口で声がした。
声の主は、年若い男性だった。
服装からすると貴族、それも高位の人間だろう。
男性は星怜に視線を向けることなく、彼女の前を通過する。
星怜は人々の話に耳を澄ませる。
男性についての情報を聞き取り、忘れないように、小声で復唱している。
「…………兆昌括さま。太子殿下の外戚でもある『奉騎将軍』兆石鳴さまのご子息……ですか」
「あの方と、無理にお話をする必要はないと思いますよ」
白葉は小声で答える。
「芳さまはおっしゃっていました。『ぼくが来るまで、そのきれいな姿をできるだけ見せないように』と。たぶん芳さまは星怜さまの美しさが、男性を惹きつけることを恐れていたのだと思います」
「……兄さんにきれいだって言われるのは、うれしいです」
星怜の呼吸が、少しだけ乱れる。
けれど、彼女はすぐに息を整えて、
「でも、兆昌括さまは、気をつけるべき人なんですか?」
「そうですね。見たところ……あちこちの女性たちに声をかけていらっしゃいますから」
白葉の言う通りだった。
兆昌括は待合室にいる女性たちに近づき、話しかけている。
しかも、距離が近い。
女性たちが拒まないのは、兆昌括の父が将軍で、太子の外戚だからだろう。
兆昌括が声をかけないのは、燎原君の娘である夕璃だけ。
彼は、まるで夕璃と二分するように、広間の人々を集めている。
星怜が相手をするのは、難しい人物のようだった。
「わたしはあの人には近づかない方が、いいんでしょうか」
星怜は、ぽつり、とつぶやいた。
「黄家のために、社交の練習をしたかったのですけど」
「社交とは、話をするだけではありません。出席者の人となりを観察するのも、大事なお仕事だと思いますよ」
「わかりました」
星怜は存在感を弱めたまま、広間の人々の観察を続ける。
そんな星怜の姿に、白葉は感動したような息を吐く。
(星怜さまは……強くなられましたね)
自分は、そんな星怜さまの盾になる──そう決意して、白葉は気を引き締めた。
以前、白葉は星怜を守れなかった。
武術使いが相手だったとはいえ、守るべき星怜を、彼女の叔父──柳阮に奪われてしまった。
そのことは、白葉の心に、深い傷を残している。
だから今回は、なにがあっても星怜を守るつもりだった。
どんな手を使ってでも。
そのためには自分が罰を受けて、自害しても構わない──それくらいの覚悟で。
けれど、そんな必要はなかった。
星怜は巧みに気配を出して、消してを繰り返している。
必要な人とは話をして、危険な人は受け流している。
そんな星怜の姿に、白葉が感動していると──
「……おっと」
人にぶつかった兆昌括が、よろけた。
そのまま、星怜の方にやってくる。
このままだと彼は星怜にぶつかってしまう。
白葉は思わず割って入る。
けれど、体格が違いすぎた。
このままだと兆昌括の肩が、星怜に触れる。そうなれば彼は星怜の存在に気づくだろう。
防ぐには、白葉が兆昌括を押しのけるしかない。
もちろん、従者である白葉が、兆昌括の身体に触れるのは失礼にあたる。
けれど、彼女の覚悟は決まっている。
処罰を覚悟で、白葉が兆昌括を押しのけようとしたとき──
(『天地一身導引』──『低木繁地 (身を低く、地に枝を伸ばす木)』)
──次の瞬間、星怜はさらに存在感を弱めて、ひざまづいた。
直後、広間に貴人が入って来る。
まだ誰も気づいていないその人の来訪に、星怜だけは気づいていた。
それほど注意深く、彼女は周囲を観察していたのだ。
白葉にぶつかった兆昌括は、床に膝をついた星怜に気づくことも、触れることもなかった。
ただ、白葉に対して「ああ」と言っただけ。
星怜に遅れること、十数秒。彼も、広間にやってきた貴人に気づいたのだ。
広間にいる人たちも、すべて。
彼女たちは一斉にひざまづく。
待合室の様子を見に来た貴人──王弟、燎原君に。
「すまない。楽しい会合の邪魔をしてしまったようだ」
燎原君は苦笑いして、頭を掻いた。
それから彼は、兆昌括の方を見て、
「しかし昌括どの、貴公は少しはめを外しすぎではないかな?」
「こ、これは……王弟殿下」
「手当たり次第、女性に声をかけていたように見えたが、違うかな?」
「……それは」
じろりと見られた兆昌括が、あわて始める。
「せっかくの機会ですので、多くの人との交流を広めようと考えておりました」
「それはわかる。だが、ここは社交を楽しむ場だ。皆をわずらわせるべきではない」
「いえ、私は父のために、皆さまに願い事をしていただけです」
兆昌活は一礼して、
「ぜひ、皆の協力を得て、北の地の防衛を我らに──」
「ここは軍事について提案するための場所ではないよ。昌括どの」
「……う」
「意見があるのなら、父君を通して奏上されるとよい。理に適ったものであれば、それが通るように私が力を貸そう。いかがかな?」
「……承知いたしました。では、失礼いたします!」
そう告げて、兆昌括は待合室を出て行く。
燎原君は皆を見回しながら、手を叩いて、
「騒がせてすまなかった。皆、話を続けてくれたまえ」
その言葉が合図にして、茶器を持った女性たちがやってくる。
「良いお茶が手に入ったのでね、皆にふるまうために来たのだ。話の邪魔をしてしまったかな?」
「ありがとうございました。お父さま」
夕璃が燎原君のところにやってくる。
「助かりましたわ。昌括さまは、なかなか皆を解放してくれなくて。でも……わたくしが邪魔をしてもよいものかどうか……」
「兆家の方が相手では仕方がないね」
「それよりもお父さま、わたくし、お友だちになりたい方がいるんですの」
夕璃は楽しそうな口調で、
「前にお話をしてくださったでしょう? 黄家の……あら? 星怜さまは……?」
「黄天芳の妹君が来ているのかい」
「はい。でも、姿が見えなくて。帰ってしまわれたのでしょうか?」
「よくごらん。黄家の従者がそこにいるではないか」
ひざまづいた白葉は、思わず肩を震わせる。
まさか、燎原君が自分のことを知っているとは思いもよらなかったのだ。
「柳星怜はその隣にいるよ。気づかなかったのかい?」
「本当ですわ。よかったですわ。帰ってしまわれたのかと思いました……」
「失礼いたしました。王弟殿下。夕璃さま」
顔をふせたまま、星怜は答える。
彼女はすでに存在感をあらわにしている。
周囲に溶け込む技も、燎原君には通じなかった。
それはおそらく燎原君が、人に興味を持ち、人をよく見る人物だからだろう。
そんな燎原君に向けて、星怜は、
「高貴な方々の前で……気後れしてしまい。身を縮めていました」
「賢い対応だね」
「……昌括どののような者の前では、特に賢い判断だ」と、燎原君は小声で付け加える。
それから、燎原君はせきばらいして、
「もういいよ。顔を上げたまえ」
「は、はい」
「見事な対応だった。さすがは黄天芳の妹だ。このような場でのふるまいを、よく心得ているようだね」
「ありがとうございます」
「わたくしは、こんな堅苦しい席は嫌いですけどね」
夕璃が肩をすくめる。
燎原君は苦笑いして、
「このような席で礼儀を学ぶのも大切なことだよ。夕璃、お前は柳星怜を見習うといい」
「では、星怜さまをお屋敷にお招きしてもよろしいですか?」
夕璃はいたずらっ子のような表情で、
「たくさんお話をすれば、わたくしも星怜さまを見習えるでしょう? それにわたくし、星怜さまとお友だちになりたいの。ねぇ、お父さま」
「いいだろう。後ほど、私から招待状を出しておく」
「ありがとうございます。お父さま!」
そう言って夕璃は、星怜の手を取った。
「ぜひいらしてくださいね。わたくしには……信頼できる友だちが必要なんですの」
「は、はい。夕璃さま」
「お父さまほどではないけれど、わたくし、人を見る目はあると思っています」
夕璃は真面目な顔で、
「それに、黄家の方々の活躍を考えれば、わたくしがあなたとお友だちになるのは必要なことですわ。まずは、たくさんお話をしましょう。お屋敷で会えるのを楽しみにしていますわ。星怜さま」
「それでは柳星怜。また、あとで」
燎原君と夕璃は、人々との応接のために歩き始めた。
(……お見事です。星怜さま)
白葉は、感動に身を震わせていた。
天芳と玉四が星怜に提案したのは、人を観察すること。
必要な人と話をして、その上で、危険を避けることだ。
星怜はそれを完璧にこなしてしまった。
しかも、燎原君の末娘の知遇を得た。
夕璃はおおやけの場で、星怜と親しくなりたいと宣言した。
その光景を、広間にいるすべての者たちが見ていた。これは大きい。
燎原君と夕璃の影響力を考えると、まわりの者は星怜を粗略にあつかえなくなる。
仮にその者が、王族であっても。
夕璃が星怜の友人になること──それは彼女が、強力な後ろ盾を得ることを意味する。
さらに星怜は夕璃のもとで社交を学び、良い知人を増やすことができる。
星怜が十分以上に、社交の役目を果たすことになるのだ。
(英深さま、海亮さま。あなた方がご不在の間に……芳さまと星怜さまは、すばらしい働きをなさっているようです……)
星怜に付き従いながら、白葉はそんなことをつぶやくのだった。




