第33話「壬境族の王子、逃げ帰る」
──北の国境周辺で──
壬境族の本隊は、南に向かう準備をしていた。
目的は、藍河国北方の町を荒らすこと。可能なら、北方を守る砦を落とすこと。
そのために壬境族は、精鋭部隊と、最強の戦士ゼング=タイガを送り込んでいた。
協力者からの情報で、北の地に藍河国の太子が来ていることがわかったからだ。
ゼング=タイガと精鋭部隊なら、太子を捕らえることができるかもしれない。
もちろん、運良く太子に遭遇できるとは限らない。
そのときは、藍河国の民や兵士を襲うことになっている。
砦の周囲で挑発を繰り返せば、いずれは『飛熊将軍』の黄英深が出てくる。
奴を討ち果たせば、藍河国を揺さぶることができる。
それを防げなかった太子の無能ぶりも、藍河国を揺さぶるもののひとつだ。
「……我らの王に『藍河国は滅ぶ』と伝えたのは、金羽幇という組織の者だったな」
壬境族は情報を重視する。
彼らは移動を繰り返しながら羊を飼い、馬を育て、ときに藍河国の町や村を襲う。
天候の変化、風の流れ、草の生育具合。すべてが生死に直結する。
星の変化や、占いなども彼らにとっては、貴重な情報源だ。
そんな壬境族の王の元に、数ヶ月前、金羽幇という組織の者がやってきた。
彼らは言った。
『星の位置。亀卜。八卦。風のながれ。すべてが藍河国の滅亡を示している』と。
金羽幇は、中原の構成員を持つ組織らしい。
彼らは様々な仕事をしながら、情報を集めているそうだ。
燕鬼もその一人だ。
他にも、占い師をして情報を集めている者もいれば、王宮や後宮と関わりのある者もいる。
そんな者たちから、ひとつの情報がもたらされた。
『王宮で行われた占いで、王家の危機を現す結果が出た。王家はそれを隠している』
──と。
さらに、後宮の事情を知る者が言った。
『太子狼炎以外の男子は病弱。王には多くの寵姫がいるが、次の子が生まれない』
『これは王家の衰退を現しているのではないか』
──と。
まるで、あらかじめ決められているかのように、あらゆる兆候が、藍河国の衰退と滅亡を示していたのだ。
だから壬境族の王は、金羽幇と手を結ぶことを決めた。
近い将来、藍河国が滅ぶのであれば、壬境族がそれを加速させる。
痩せた草原を出て、藍河国が治める肥沃な土地を手に入れる。
そのために金羽幇と協力する。
それが、壬境族の王の決定だった。
「ゼング殿下ならば、藍河国の太子を捕らえられるだろう。護衛がいたとしても、皆殺しにできるはずだ」
赤毛の王子の姿を思い出し、指揮官の背中に寒気が走る。
ゼング王子は別格だ。
壬境族の神が、藍河国を滅ぼすために授けてくれたとしか思えない。
彼はわずか15歳にして、壬境族の将軍すべてを圧倒するほどの力を持っている。
まさに一騎当千。
あの人の歩みを止めることは誰にもできない。
ゼング王子の存在そのものが藍河国が滅亡することの証拠だと、壬境族の者たちは信じている。
そのための力として、天が王子を遣わしてくれたのだと。
だからこそ皆は、ゼング王子が国境を越えることに賛成した。
ゼング王子の目的は、『飛熊将軍』に見つからないように少数で藍河国に入り込み、太子を捕らえること。あるいは『飛熊将軍』を引きずり出すこと。
その後は国境で待機していた軍勢が、一気に藍河国へと攻め込む。
北の砦を落とし、周辺の町を支配する。
それが、今回の作戦だった。
「レン=パドゥどの! 王子が戻られましたぞ!!」
不意に、伝令兵の声が響いた。
名前を呼ばれた指揮官は振り返り、満面の笑みを浮かべて、
「おお、戻られたか! では王子は、藍河国の太子を捕らえたのだな!?」
「……それが」
伝令兵が口ごもる。
指揮官レン=パドゥは陣地の先に視線を向けた。
ゼング王子と、彼の黒馬が見えた。
右腕を失い、今にも落馬しそうな王子と、血にまみれた黒馬が。
「お、王子!? ど、どうして!?」
慌てて駆け寄る指揮官レン=パドゥ。
その彼を見据えて、ゼング王子は、
「……今すぐ退却せよ。レン=パドゥ」
「殿下?」
「聞こえなかったのか!? 兵を退くのだ!! 王のもとに戻らねばならぬ!!」
「い、意味がわかりませぬ。なにがあったのですか!? 殿下!!」
「追っ手は撃退した。皆殺しにはできなかったが……身動きが取れぬようにたたき伏せた……」
ゼング王子は、血に染まった大槍を握りしめた。
「だが、奴が追ってきていたら終わりだ。藍河国には……このゼング=タイガが不覚を取るほどの敵がいるのだぞ!!」
腕を失った痛みなど、感じていないかのようだった。
いや、事実、感じていないのだろう。
ゼング=タイガは別格だ。彼は藍河国を滅ぼし、壬境族の国を打ち立てるために生まれてきた。
それ以外のことを彼は知らない。
友もいない。愛する者もいない。信ずるものは、ただ武力のみ。
それが壬境族の王子、ゼング=タイガだ。
「…………黄天芳。あのような者が、藍河国にいるとは」
ゼング=タイガは飢えた獣のような目で、つぶやいた。
「このゼング=タイガに傷を負わせた者よ。貴様を強敵と認めよう。貴様という障害がある限り、藍河国が滅ぼせぬのだな。ならば……必ず殺してやる! 隻腕だからどうしたという!? 左腕一本で、両腕分の武力を身につければよいだけだろうが!!」
「ゼ、ゼング王子!?」
「なにをぼやぼやしているのだ。レン=パドゥ!!」
ゼング=タイガは一喝した。
「今すぐ退却せよ!! 『飛熊将軍』の軍勢が来るぞ!!」
「ありえませぬ!」
「我が敵を甘く見るな! 愚か者が!!」
「し、しかし……」
レン=パドゥの頭に、疑問がよぎる。
──ありえないのは、ゼング=タイガが敗れたことか?
──それとも、『飛熊将軍』の軍勢が来ることか?
おそらくは両方だ。
隻腕となった姿を見ても、ゼング=タイガが敗れたことなど信じられない。
『飛熊将軍』の軍勢が来ることもそうだ。
北の砦に情報が行くまでは時間がかかる。すぐに奴らが現れるなどありえない。
「まずは天幕にお入りください。手当てを」
「くどい!!」
「王子!!」
「全軍に告げる!! いますぐ撤退するのだ。陣地はそのままでいい。遅れる者は置いて行け!! 壬境族王子、ゼング=タイガの名において命じる!!」
ゼング=タイガが必死の形相で叫んだとき──
「南方より敵! 『飛熊将軍』の軍勢です!!」
不意に、偵察兵の叫び声が響いた。
レン=パドゥが南に視線を向けると、そこには──『飛熊将軍』の旗印を掲げた者たちがいた。
「────全軍撤退だ! 撤退せよ──っ!!」
勝てない。
今回の作戦は、ゼング=タイガが国境地帯を荒らし回り、太子を捕らえることが前提だ。それは完全に失敗した。
その上、ゼング=タイガは右腕を失った。
兵士たちより、軍神として崇められる王子が。
その姿は兵たちを動揺させている。すでに、戦える状態ではなかった。
「…………黄天芳……『飛熊将軍』の子」
片手で黒馬の手綱を握りながら、ゼング=タイガは仇敵の名を口にした。
「我が仇敵、黄天芳!! 藍河国を滅ぼすのは、貴様を殺してからだ。草原を渡る風の神に誓う。貴様を殺すまで、我の心が安らぐことはない!! おぼえておくがいい。我が仇敵よ!!」
そうして壬境族の軍勢は、素早く陣を引き払い、立ち去ったのだった。
次回、第34話は、明日の夕方くらいに更新する予定です。




