第204話「岐涼の町の武術大会、中止となる(2)」
──そのころ、星怜と凰花は──
「薄さま。もう少し我慢していてください」
星怜は兵士の背中にいる少女に声をかけた。
少女──薄は無言でうなずく。
薄の年齢は12歳。星怜より少し下だ。
領主の娘だが、混乱した状況の中でも落ち着いている。
薄は大きな目を見開いて、じっとまわりを観察している。
まるで、すべてを見逃さないようにしているかのように。
「すみません范圭さま。安全な場所まで、薄さまを運んであげてください」
「構いません。太子殿下からは、夕璃さまのご命令に従うように言いつけられております」
薄を背負った兵士が答えた。
彼の名は范圭。太子狼炎の親衛隊『狼騎隊』のひとりだ。
范圭は護衛として、夕璃の一行に同行していた。
太子狼炎が夕璃を心配して、腹心を派遣してくれたらしい。
そんな彼に、夕璃は薄の保護を頼んだのだ。
今、星怜と凰花は、岐涼の町の裏通りを進んでいる。
同行しているのは范圭と、数名の兵士たちだけ。
少数なのは、会場から素早く逃げることを優先したからだ。
それについては夕璃から指示を受けている。
『危険を感じたら薄さまを連れて逃げてください。孟篤さまの許可は得ています』と。
丹は、多くの護衛とともに、夕璃が連れて逃げる。
薄は目立たないように、少数の護衛とともに逃げる。彼女が落ち着くように、星怜と凰花が側にいる。
そういう予定になっていたのだ。
その後、孟篤の屋敷から火が出た。
それを見た星怜と凰花は、すぐに行動を起こした。
騒ぎが広がる前に、会場を脱出することができたのだ。
「ずいぶん走ってきたけど、星怜くんは大丈夫なのかい?」
凰花は心配そうな口調で、星怜に話しかける。
「苦しくなったら言ってくれ。僕が君を背負うよ」
「わたしの心配はいらないです。化央さま」
岐涼の町で、凰花は『詩翠』と名乗っていた。
けれど、もう偽名を使う意味はない。
事態は動いた。町は混乱している。
凰花の呼び名を変えたところで、誰も気にしないだろう。
「わたしのことは気にせず、化央さまはお仕事をなさってください」
「わかった。でも、無理はしないようにね」
凰花は裏通りを軽やかに進んでいる。
路地の壁を蹴り、宙を跳ぶ。
素早く前に進み、安全確認してから戻って来る。
その動きは凰花が得意とする、歩法によるものだ。
彼女が先導してくれるおかげで、後ろの者たちは迷いなく走り続けることができる。
星怜にできるのは、遅れずについていくことだけだ。
「すごいね。星怜くんは。ずっと走り続けてるのに、息も切れてない」
不意に、凰花がつぶやいた。
「それに……肩に鴉を乗せてるけど、重くないの?」
「大丈夫です。この子はまだ、小さいですから」
星怜は肩に乗せた鴉に触れた。
岐涼の町で見つけた、子どもの鴉だ。
非常時の伝令用にと、星怜が連れてきたものだった。
「それに、この子とは相性がいいみたいで、あんまり重さを感じないんです」
『かぁかぁ』
同意するように、小さな鴉が鳴いた。
「さすがは天芳の妹くんだ」
凰花は感動したように、うなずいた。
「大人の兵士たちと同じ速度で、ここまで走れるんだからね。すごいよ」
「それは……化央さまも同じですよね?」
「ぼくは武術と歩法を学んでいるもの。でも、星怜くんはそうじゃないよね」
「……あ」
凰花の言う通りだった。
星怜は、范圭や、護衛の兵士たちと一緒に走っている。
范圭たちは身体が大きい。
一歩の距離も違うし、走る速度も違う。
なのに、星怜は普通について行ける。
息も切れていないし、疲れてもいない。
「これが兄さんのくれた『天元の気』の力なんでしょうか……?」
天芳と一緒に導引をしたことで、星怜の中にも『天元の気』が生まれている。
それは動物たちと話をする力を星怜に与えてくれた。
けれど、それだけではなかった。
『天元の気』は体力と持久力も与えてくれていたのだ。
「これが……兄さんがわたしに与えてくれた力なんですね」
「そうだね。今は、天芳のために力を合わせよう」
「はい。少しでも早く、薄さまを安全なところに……ですね」
──薄の避難が終われば、兄さん (天芳)のところに行ける。
そんな想いを胸に秘めて、星怜と凰花は視線を交わす。
天芳は魯太迷を探しに行ったまま、戻ってきていない。
きっと今は、事件の調査をしているのだろう。
もしかしたら、放火犯と戦っているのかもしれない。
今すぐ助けに行きたいけれど……今の星怜は夕璃の部下だ。彼女の指示に従う義務がある。
それに、孟篤の娘たちを放ってはおけない。
『赤き髪の娘は勇敢な鳥と結ばれ、竜を生む』
この噂が意図的に流されたものだとしたら、敵は混乱に乗じて丹と薄を狙うかもしれない。
だから、まずはふたりを安全なところに避難させる。
天芳のところに駆けつけるのは、それからだ。
星怜がそんなことを考えていると──
「皆さまに、お願いがあります」
──范圭の背中で、薄が声をあげた。
「落ち着いたら……皆さまのお名前を、聞かせてください」
「それは構いません。でも、どうしてですか?」
星怜がたずねると、薄は真剣な表情で、
「岐涼で起きた事件は、すべて書き残しておきたいのです」
──そんなことを言った。
「この町でなにがあったのか。どなたが、お父さまや薄を助けてくださったのか。事件を起こしたのは誰なのか……薄はすべてを記録しておきたいのです」
「そのために、わたしたちの名前を?」
「はい。岐涼の史書は薄が書いていいと、お父さまには言われています」
薄は領主の屋敷がある方に視線を向けながら、そう言った。
范圭の背中にしがみつく手が、震えているのが見えた。
それでも落ち着いた口調のまま、薄は続ける。
「お父さまは言いました。『私がおろかなことをしたら批難してほしい』『私が自分の失敗を忘れないように、「薄の史伝」に書き残してほしい』と。薄は、お父さまの言葉に従わなければいけません。だから……すべてを書き残したいのです」
「孟篤さまがそんなことを……」
薄の言葉を聞いた星怜と凰花は、ふたたび視線を交わす。
思うことは同じだ。
──夕璃さまが孟篤さまに味方したのは、正しかった。
孟篤は自分の失敗から視線を逸らさない。
自分がなにをしたのか、どんな間違いをしたのかを書き残すことを望んでいる。
それも、娘の薄の手によって。
そんな領主が、悪い人物のはずがない。
(わたしたちは……孟篤さま助けなきゃいけないです)
天芳は藍河国の平穏のために戦っている。
国が平穏であるためには、孟篤のような人物は必要だ。
彼に危害を加えるものを放っておくわけにはいかない。
「化央どの。前方の偵察をお願いいたします!」
范圭が指示を出す。
「この先は道が入り組んでおります。警戒が必要です!」
「承知しました!!」
凰花が地面を蹴る。彼女が歩法で、宙を跳ぶ。
夕璃たちとの合流地点まではあと少し。
向こうには多くの兵士たちと、玄秋翼がいる。合流すれば安全で──
『カァーッ!!』
「っ!? みんな伏せて!!」
鴉の声と、化央の警告が聞こえた。
反射的に星怜は『獣身導引』の『猫丸毬如 (猫はマリの類似品)』を発動。
小さな鴉を胸に抱き、身体を丸めて地面に転がる。
その直後──さっきまで星怜がいた場所を、黒い刃が通り過ぎた。
星怜の背後で悲鳴が上がる。
振り返ると、護衛の兵士たちが脚を押さえていた。
地面に黒い刃が落ちているのが見えた。
何者かが飛刀で兵士たちを攻撃したのだ。
「薄さまは!?」
「大丈夫……ご無事だ……」
范圭は地面に膝をついた。
彼もまた、傷を負っていた。
敵の飛刀は、薄を除いたすべての者を狙ったのだ。
星怜が避けられたのは、ただの幸運だ。
「……惨丁影の真似をしてみたが、うまくはいかぬものだな」
「……お前は……何者だ!?」
剣を撃ち合わせる音が、聞こえた。
それが徐々に近づいて来る。
星怜はなんとか起き上がり、薄を守る位置につく。
やがて、路地に凰花が着地する。
剣を手にした彼女は、目の前の敵をにらみ付けていた。。
敵は、大柄な男性だった。
身長は星怜の養父──黄英深にはおよばない。
だが、より筋肉質で、身体に厚みがあるように見える。
特長的なのは黄色がかった髪と髭だ。
色とかたちから、虎の体毛のようにも見える。
なにより目を引くのは、両手に持った刀だ。
男性は星怜たちを威嚇するように、巨大な刀を軽々と振り回す。
それだけの力があれば、飛刀をまとめて飛ばすことも簡単だろう。
帯には何本もの飛刀を挟んでいる。
范圭たちを攻撃したものだ。
彼らの足下を狙ったのは、薄を傷つけないようにするためだろう。
つまり、奴はそれが可能なほどの手練れなのだ。
「何者だ!! どうして范圭さんたちを……」
「薄どのをいただきに来た」
男性は言った。
「予言は実現されねばならぬ。『赤き髪の娘は勇敢な鳥と結ばれ、竜を生む』──予言に選ばれたのはあなただ。孟篤どのの娘、薄どのよ」
「……なんだと? じゃあ、あの噂を広めたのはお前たち……?」
「噂などではない。あれは確たる予言だ」
男性は高らかに声をあげる。
「予言に書かれた娘が誰なのか、我々にもわからなかった。だが、孟篤どののふたりの娘御の話を聞いて、やっと特定できた。次の国の王母になるのはあなたさまだ、薄どの」
「お前……なにを言って──」
「わからぬか? わからぬのなら黙って立ち去れ。あるいは、死ね」
男性が踏み込む。
即座に凰花は『五神歩法』で回避。朱雀の技で反撃する。
疾い。
星怜の目には、ふたりの剣撃をとらえることができない。
敵の男は左右の刀を交互に繰り出す。その攻撃は途切れない。
対する凰花は回転斬りで応戦する。
「我が刀術に抵抗するか。面白い!」
「星怜くん! 君は薄さまを守るために動け!!」
凰花が叫んだ。
「今動けるのは君だけだ! 行け!!」
「わかりました!!」
星怜は薄のもとに駆け寄る。
彼女を背負っている范圭に視線を向ける。范圭は、うなずく。
「お願いします。柳星怜どの」
「はい!」
星怜は薄の手を引いて走り出す。
「逃げることはないのだ、薄どの。あなたは史書を書きたいのであろう? ならば、書くがよい」
男性の声が、聞こえた。
「滅びた国の史書を書くのは、次の時代の国を作る者の役目だ。あなたは、滅びた藍河国について、存分に記すがいい。あなたはそういう天命のもとに生まれた人で──」
「『朱雀降下襲』!!」
「邪魔をするな!! 小娘!!」
凰花が空中で振った剣を、男性の双刀が受け止める。
男性はそのまま双刀を振る。
力まかせに凰花を跳ね飛ばす。逃げようとする星怜たちに、視線を向ける。
(あの敵は、勘違いをしています)
敵が、孟篤の娘を狙ってくることは予想していた。
だから、対策は立てていた。
こちらには天芳と千虹がいるのだ。
強敵と戦ってきた天芳は、敵の動きを予想してくれる。
あまたの書物を読んできた千虹は、知識をもとに対策を立ててくれる。
そんなふたりが額を付き合わせて話し合えば、作戦なんか、いくらでも出てくる。
孟篤の娘たちを守り、敵を捕らえるための作戦が。
星怜が薄を連れて逃げるのは下策だ。
星怜には戦闘能力がない。ふたりになったところを襲われたら、どうにもならない。
代わりに、星怜には仲間がいる。
彼女の言葉を聞いて、危機を周囲に伝えてくれる者たちが。
「お願いします! あの人を呼んでください!!」
だから星怜は、ずっと連れていた鴉を、空に向かって放った。
真昼の空に舞い上がる、漆黒の翼。
それは遠くからでもわかる目印になる。
そして、この町には、どこからでも素早く駆けつけてくれる、最強の遊軍が存在するのだ。
「子どもを襲う者には罰を──『青竜変転行』」
「────なっ!?」
凰花と対峙していた敵が、後ろに跳んだ。
とっさに引いた双刀に、空中から振り下ろされた剣が触れる。押し込む。
男性は即座に技を出す。
喉元まで迫った剣を、ぎりぎりで打ち払う。
「貴様は……まさか」
男性は荒い息をつきながら、双刀を構え直す。
「そちらの都合なんか知らないよ。こっちはずっと審判をやってたせいで、力が余ってるんだ」
答えたのは、髪の長い女性だった。
彼女は無造作に剣を構えながら、星怜に視線を向ける。
「わかりやすい合図をありがとう、星怜くん。おかげで、迷うことなくたどり着けたよ」
「……ありがとうございます。雷光さま」
「……お手数をかけて申し訳ありません。師匠」
「いやいや、君たちが救援を呼んだのは正しい」
雷光はにやりと笑う。
「私たちの目的は『藍河国は滅ぶ』なんて噂を流している連中の、首根っこをつかむことだからね。だから、これは予定通りの行動だ。屋敷が燃えたのは計算外だったが、仕方ないね」
「…………ありがとう、ございます。雷光さま」
星怜は肩に乗せた鴉をなでた。
彼女がずっと鴉を連れていたのは、雷光を呼ぶためだ。
雷光は最強の護衛だ。
だが敵は、丹と薄のどちらを襲うかわからない。
だから、雷光はどちらにも行けるように待機していた。
そうして星怜の鴉を見て、文字通りに『五神歩法』で飛んで来たのだった。
「やはり……貴様が雷光。燎原君の飼い犬か」
男性は雷光を見据えたまま、歯がみする。
「あわれだな。天命を知らぬ者が……無駄なあがきを……」
「黙りなよ。虎永尊」
「────!?」
「おや、顔色が変わったね」
雷光は男性──虎永尊の反応を探るように、目を細める。
「私が君の名前を知っているのが意外なのかい? でもね、私の弟子は壬境族の知り合いが多いんだ。君の情報くらいはとっくに手に入れているよ」
「だから、どうした」
「だから、私は君をあざけることができるのさ。卑怯者の虎永尊。君はゼング=タイガが死んだと聞いて、さっさと逃げ出したのだろう? で、今度は岐涼の町で少女誘拐をやらかすつもりなのかい? まったく、救いようがないね」
「貴様にはわかるまい。我らは予言のため──」
「知らないよそんなの。興味もない」
雷光は肩をすくめた。
「私にとって大切なのは主君と、弟子と、そのまわりにいる者たちだ。私は君をこれから捕虜にする。言いたいことは北臨の牢獄で語るがいい!」
「大口を叩くな! 燎原君の飼い犬!!」
「試してみればいいさ。卑怯者の虎!!」
そうしてふたりの武術家の戦いが始まった。




