第203話「岐涼の町の武術大会、中止となる(1)」
──そのころ、大会の会場では──
「大会を中止する! すぐに皆を避難させるのだ!!」
孟篤は部下に指示を出す。
武術大会は、第3回戦がはじまる直前だった。
開始の宣言をしようとした審判が、なにかの気配を感じたように、屋敷の方を見た。
その直後、炎と煙が上がった。
火事が起きたのだ。
審判は孟篤の判断を問うように、彼に視線を向けた。
孟篤がすぐに指示を出すことができたのは、それに気づいたからだ。
「会場の警備にあたっていた兵士たちは、客の誘導を行うように。ここにいる者たちは屋敷に向かうのだ。取り残されている者がいないか調べよ。火を消し止めるのは──」
難しいだろうと、孟篤は思う。
屋敷のあちこちから炎ががっている。
これは意図的なものだ。何者かが、屋敷に火を放ったのだろう。
「太迷が姿を消したのは、このためか……」
魯太迷は誰よりも早く異常に気づき、確認に向かったのだろう。
彼は武術大会よりも、孟篤たちの安全を優先したのだ。
「……無事でいてくれ、太迷よ。貴公のことだ、生き残ることが『できぬ』とは言わぬだろう。私にはお前が必要だ。すべてが終わったら、ともに酒を酌み交わすと言ったではないか……」
孟篤は絞り出すように、つぶやいた。
すぐに孟篤は部下に指示を出す。
魯太迷を見つけた場合は、すぐに自分のところに連れてくるようにと。
彼が怪我をしていたならば手当をするように、と。
そうして、孟篤が指示を出し終えたとき──
「ご主君に申し上げたいことがございます」
高官の價干索が、すぐ側で声をあげた。
「價干索か。貴公も早く避難するがいい」
「わかっております。ですから、ご主君に申し上げたいことがあるのです」
「申すがいい」
「ありがとうございます」
價干索は孟篤に向かって、拱手した。
「丹さまを、安全なところに避難させて差し上げたいのです。許可をいただけますかな?」
「我が娘の丹を、貴公が?」
「恐れ多いことながら、自分は丹さまの血縁にあたります。ですから、丹さまは必ずお守りするとお約束いたします。また、丹さまが安全なところに避難されたなら、孟篤さまも安心して、事態に対応できるのではないでしょうか」
價干索は頭を下げたまま、真剣な口調で訴え続ける。
「無論、丹さまの避難が終わりましたら、私はすぐに戻ってまいります。その間、私の兵は孟篤さまの指示に従うように命じておきます。ご自由に使ってくださいませ」
「兵を出してもらえることには感謝する」
孟篤はそんな價干索に視線を向けながら、
「だが、價干索よ。私は貴公に聞きたいことがある」
「なんでしょうか」
「貴公が、屋敷を守る兵の一部を引き上げたのはなぜだ?」
「交替時間だったからでございます」
價干索は、よどみなく答えを返す。
まるで、その質問を予期していたかのように。
「大会を円滑に進めるため、私めは多くの者を雇用いたしました。兵士たちの数には余裕がございます。ですから、さきほどお屋敷を守る兵士たちを交替させたのです」
「私は聞いておらぬぞ」
「孟篤さまのお心をわずらわせるほどのことではございません」
「では、交替したという兵士はどこにいる? 話を聞きたい。その者たちは、屋敷に火が放たれるところを見ていたかもしれぬ」
「彼らは火元の調査と、残った者がいないかの確認を行っております」
それから價干索は顔を上げ、おどろいたように目を見開いた。
「まさか、孟篤さまは私めをお疑いですか? 兵たちを交替させたというだけで? 孟墨越さまにもお仕えした、この私めを?」
「貴公が、放火に関与しているとは思っておらぬ」
孟篤はため息をついた。
「屋敷には我が父の──先代孟侯の遺品がある。それを失うような真似を、貴公がするはずがない」
「そのお言葉だけで十分です」
「話はここまでだ。貴公は急ぎ、避難するがよい」
「わかりました。では、丹さまを……」
「丹はすでに信頼できる人物に預けている」
孟篤は價干索を見据えて、宣言した。
予想外の言葉だったのだろう。價干索は、ぽかん、と、口を開いた。
「我が娘……丹と薄は、信頼できる人物の手によって、安全な場所に避難している。價干索よ、貴公は部下とともに、すみやかに避難するがよい。落ち着いたらまた話をするとしよう」
「お待ちください!!」
價干索が声をあげる。
先ほどまでとは、様子が違った。
額に汗を浮かべ、強い視線で孟篤を見ている。さっきまでの余裕はどこにもない。
まるで、孟篤を責めているかのような表情だった。
(これが……價干索の本当の姿なのかもしれぬな)
孟篤は、父の腹心だった價干索に遠慮があった。
自分が父──孟墨越のような人物でないことに引け目があった。
だから、價干索が孟篤を、孟墨越と比べることを許した。
自分が父におよばないことは自覚していた。高官たちが自分を父と比べて、過去の栄光を懐かしむのは、仕方のないことだと思っていた。
だが──
(だとすれば父──孟墨越の栄光にとらわれていたのは、私の方だったのかもしれぬ。私こそが父の影と、價干索や高官たちの視線に怯えていたのだ)
それに気づかせてくれたのは、夕璃や黄天芳だ。
彼らは孟篤のために力を貸してくれた。
岐涼の外から来た夕璃たちは、孟篤に新たな視点を与えてくれた。
だから、今の孟篤には、價干索の姿がはっきりと見える。
思惑が外れて、必死に慌てふためく老人の姿が。
「理解できませぬ! ご息女である丹さまを、この價干索以外の者に預けたというのですか!?」
まるで、主君に対する礼儀を忘れたようだった。
價干索は孟篤を見据えながら、叫ぶ。
「今すぐに丹さまを呼び戻されよ! そして、私にお預けください!! 安全な場所にたどり着くまでは、私が保護いたします!!」
「丹は信頼できる人物とともに、すでに避難をはじめている。そう言ったはずだ」
「それはどなたですか!? 伯父である私よりも信頼できる人物など──」
「王弟殿下のご息女、夕璃さまだ」
「────!?」
その言葉を聞いた價干索が硬直する。
孟篤は続ける。
「夕璃さまはおっしゃった。『丹さまと薄さまを安全な場所に避難させてさしあげます』と」
「それは……いつのことですか?」
「煙が見えてすぐのことだ。さすがは燎原君のご息女だ。対応が早い」
嘘だった。
夕璃から提案があったのは、魯太迷が消えてすぐのことだ。
彼女の部下に、不穏な気配に気づいた者がいた。
その者たちは價干索が兵の配置を換えたことに気づいていた。
だからだろう。夕璃は『なにか起きたときは、丹さまと薄さまを保護したい』と提案してくれたのだ。
なにごともなければ、それでいい。
けれど、異常事態が起きたときは、ふたりを保護すると彼女は言った。
孟篤はそれを受け入れたのだ。
「夕璃さまは多くの護衛を連れていらっしゃる。その中には腕利きの武術家がいる。そんな夕璃さまが我が娘たちを保護してくださるのだ。断る理由はあるまい」
「…………う、うぅ」
「娘たちが避難すれば、私は火事への対応に集中できる。ありがたいことだ」
「で、ですが……丹さまは、私の部下のところにいたはずで……」
「すでに夕璃さまには、私の署名のついた書状をお渡しした。そこには『丹を夕璃さまに預けるように』と書いてある。貴公の部下は、領主である私の指示に従い、丹を引き渡したはずだ」
本当ならば、價干索を拘束し、問いただすべきだろう。
だが、今は現場が混乱している。
火事場で孟篤と價干索が対立してしまえば、皆の避難が遅れる。犠牲者が出ることも考えられる。それは避けたい。
だから孟篤は、最低限のことだけを、價干索に告げたのだった。
「貴公は早く避難するがいい。貴公がここにいては、遠慮して逃げられぬ者もおるだろう」
「……孟篤さま」
價干索は拱手し、深々と頭を下げた。
「孟篤さまの深慮遠謀は……私のおよぶところではございません」
「私などたいしたことはない」
「いいえ。もっと早く、あなたのお力に気づくべきでした……そうすれば……私は」
價干索は小声でつぶやきながら、引き下がる。
やがて、孟篤の部下たちが集まり始める。
彼らの間を抜け、價干索はその場を離れ、自身の部下の元へ急ぐ。
「……價干索の後をつけよ」
その背中が見えなくなってから、孟篤は兵士たちに指示を出した。
「不審な行動を見た場合はすぐに報告せよ。だが、拘束するのは後回しだ。草を刈って根を残すようなことはしたくない」
岐涼の町には、どのような根が張られているのか、確かめる必要がある。
それが領主としての責任だ。
この町を……以前の領地のように、燎原にするわけにはいかないのだから。
自分に仕えてくれる者のために、力を貸してくれた夕璃たちのために。
なによりも、領民のために。
「情報は夕璃さまにもお伝えするように。審判に話せば、夕璃さまにも伝わるようになっている。以上だ」
指示は伝えた。
あとは領主として、事態の収拾に動くだけ。
覚悟を決めた孟篤は、部下と共に行動をはじめるのだった。
──夕璃視点──
「ここまで来れば大丈夫ですよ。丹さま」
ここは、岐涼の町の一角。
煙も炎も見えなくなった場所で、夕璃は孟篤の娘に声をかけた。
「まずは、落ち着ける場所にご案内いたします。その後で、お話をいたしましょう」
「……夕璃さま」
「どうしましたか? 丹さま」
「……丹は、これでよいのですか?」
玄秋翼の背中で、少女──丹は首をかしげていた。
自分がどうしてここにいるのか、わかっていないようだった。
「伯父さまは? 價の伯父さまは、どこにいらっしゃるのですか……?」
「價干索さまは岐涼の町の高官でいらっしゃいます。おそらくは孟篤さまと共に、事態の収拾にあたっているのでしょう」
夕璃は、玄秋翼の背中にいる丹に視線を合わせる。
「お屋敷が火事になったのです。あの場にいるのは危険でした。ですから、孟篤さまは丹さまを、私にお預けになったのです」
「で、でも……」
「どうしましたか?」
「夕璃さまは……王陛下の弟君の、娘さんで……」
「はい。そうですよ」
「お、おそれ多いです。や、やっぱり……丹は、歩きます……」
丹は慌てて玄秋翼の背中から降りようとする。
けれど、夕璃は手を振って、それを止めた。
夕璃たちは今、岐涼の町の裏通りを進んでいる。
屋敷からは離れたけれど、油断はできない。
安全なところに着くまでは、丹は、玄秋翼が運んだ方がいいだろう。
「今は非常時です。礼儀作法にこだわっている場合ではございませんよ」
「は、はい……」
丹は玄秋翼の背中に乗ったまま、何度も背後を振り向いている。
彼女が見ているのは、屋敷のある方角だ。
「お屋敷のことが気になるのですか?」
「は、はい……武術大会は、どうなったのですか?」
「中止になったようです」
夕璃は答えた。
観客たちは先を争うように避難をはじめていた。
夕璃たちがそれに巻き込まれずに済んだのは、星怜と千虹のおかげだ。
彼女たちが不穏な気配に気づいたから、夕璃はいち早く動くことができた。
孟篤と連携して、丹を確保することもできたのだ。
行動を起こす前に、夕璃は星怜や千虹と話し合いを行った。
その中で、千虹は言った。
『これからなにが起こるかは、わかりません』
『ですが「赤き髪の娘」である丹さまと薄さまは、誰かに狙われる可能性があります』
『もしも價干索さまが、事件が起こることを予期しているなら、丹さまを確保するはずなのです。だけど、丹さまを勝手に連れ出すことはできません。孟篤さまに許可を取りに行くと思います』
『それが──隙になります』
『價干索さまがお側を離れている間に、丹さまを保護するべきだと思います』
千虹はそんなことを進言したのだった。
夕璃は他の部下と話し合い、丹と薄を保護することを決めた。
そうして今、玄秋翼と兵士たちの力を借りて、丹を安全な場所へ運んでいるのだった。
(馮千虹さまは……末恐ろしいほどの才能をお持ちです)
ここにはいない少女の顔を思い浮かべながら、夕璃は足を進める。
(さすがはお父さまが認めたお方です。いえ、千虹さまの才能を見いだしたのは、星怜さまの兄君でしたね……)
黄天芳の側には、数多くの人材がそろっている。
彼が味方であることを心強く思う。
このまま黄天芳が藍河国の味方として──狼炎の味方であり続けることを願うばかりだ。
「……武術大会は、中止になってしまったのですね」
丹が、ぼんやりとつぶやくのが聞こえた。
「……残念、です。誰が優勝するのか、楽しみにしていたのですが」
「仕方ありません。それより、どうしてこんなことになったのか……それこそが重要なことでしょう」
屋敷から火の手が上がった後、武術大会は中止になった。
武術家たちは様々な行動を取っている。
仕官を求めていた者は、消火活動や避難誘導の手伝いをしている。
賞金が目当てだったものは、さっさとその場を離れた。
いずれにしても、岐涼の武術大会は終わった。
孟篤も夕璃も、予想していなかったかたちで。
(屋敷に火を放ったのが……わたくしたちが探している『敵』の仕業なら……)
おそらく、彼らは焦ったのだろう。
もともと岐涼の町の武術大会は、奇妙な噂を打ち消すために開かれたものだ。
『赤き髪の娘は勇敢な鳥と結ばれ、竜を生む』
──夕璃たちは、この噂が意図的に流されたものだと思っている。
だから孟篤と協力して、噂の元凶を突き止めるために、武術大会を開いたのだ。
噂を流した者は、自分こそが『勇敢な鳥』だと主張したいのかもしれない。
ならば、武術大会に出なければいけない。
しかし、武術大会に出てしまえば、その姿を人目にさらすことになる。
大会で敗北すれば、自分が『勇敢な鳥』だと主張できなくなる。
勝ってしまえば、孟篤や、その他の多くの者から注目されることになる。
おそらくは、孟篤は優勝者に監視をつけただろう。
背後関係や、その目的、その後の行動すべてがあらわにするために。
何事もなく武術大会が終わってしまえば、噂は消える。
優勝者は賞金を受け取り、それで終わりとなる。
あの噂にはなんの意味もなかったのだと、皆は納得するだろう。
だが、武術大会は火災によって強制的に終了となった。
あれが意図的なものか、それとも事故か、夕璃にはわからない。
もしも、あの火災が意図的なものだとしたら──
(敵は、尻尾を出したのかもしれません。あとは、孟篤さまが犯人を特定してくださるでしょう)
夕璃たちは足早に裏通りを進んでいく。
彼女のまわりには護衛の兵士たちがいる。武術家の玄秋翼もいる。
無事に安全な場所へとたどりつけるだろう。
「……夕璃、さま」
そんなことを考えていると、ふと、丹がつぶやいた。
「薄さまは……どこにいらっしゃいますか?」
「わたくしの部下が、安全な場所にお連れしております」
「……そうですか」
「薄さまのことが気になるのですか?」
「はい」
丹は、ぼんやりとした目で、夕璃を見た。
「伯父さまがおっしゃっていました。丹か、薄さま……選ばれた者の方に、天命がおとずれる……と。丹は、それをずっと待つように言われていたのです。丹は……そのための器だと……」
「その話は、後ほど詳しく聞かせてくださいませ」
夕璃は玄秋翼と視線を交わし、うなずき合う。
やはり、價干索は今回の事件について、重要な情報をつかんでいる。 それについては、丹から聞き出せるはずだ。
そして──
(薄さまををお願いします。星怜さま、化央さま)
ここにいない友人のことを思いながら、夕璃は先を急ぐのだった。
次回、第204話は、次の週末くらいの更新を予定しています。
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