第196話「岐涼の町の人々(後編)」
──孟篤の別宅で──
「薄よ。太迷が武術大会に出ることになったようだ」
ここは岐涼の町にある孟篤の別宅。
庶子の薄と侍女たちと、護衛たちが暮らす屋敷だ。
その一室で、孟篤は娘の薄と話をしていた。
「あやつは『孟篤さまの客人として、力を示したい』と言っていた。それがあやつの、心からの願いだそうだ。私には、あやつの意思を尊重することしかできぬ」
「……お父さま」
「武術家としては二流でも、勇気だけは一流であることを皆に見せたいと……彼はそんなことを言っていたよ。私は、そこまで望んではいないのだが……」
「魯の小父さまのことです。きっと深い考えがおありなのでしょう」
つぶやいたのは、小柄な少女だった。
くすんだ赤い髪と、短い手足。
手には筆を持っている。
卓に置かれた紙には、様々な文章が書かれている。
──岐涼の町で、妙な噂が流れていること。
──武術大会が行われること。
──その場に多くの武術家が参加すること。
そんなことをさらさらと記述しながら、少女──薄は父にたずねる。
「きっと『できぬ』の小父さまは、『できる』ことがあるとお考えになったから、武術大会に参加することを決められたのです」
それから薄は顔をあげて、
「もしかして……お父さまは、その理由をご存じなのではないですか?」
「薄よ。お前は父をかいかぶりすぎだ」
孟篤は苦々しい表情で、うなずいた。
娘の薄の言葉は正しかったからだ。
魯太迷が武術大会に参加するのは、敵を引きずりだすためだ。
孟篤はその策の内容を、魯太迷から聞かされている。
──武術大会で、魯太迷が若い武術家と戦い、敗北する。
──孟篤がそのことに怒り、魯太迷をののしり、追放する。
──追放された魯太迷は、岐涼の治安を乱す連中を誘い出すための、餌となる。
それが、策の具体的な内容だった。
それを聞いたとき、孟篤は魯太迷を止めた。
策が成功すれば、魯太迷は敵のまっただ中に入り込むことになる。
彼は、大きな危険を冒すことになる。
策に失敗すれば、孟篤はただ、部下を失うだけで終わってしまう。
心を許せる、腹心の部下を。
魯太迷は『一度は孟篤さまのもとを離れることになります。ですが、がんばって髪を生やし、別人として帰ってまいりますよ』と言っていた。
その言葉を疑いはしない。
だが、すぐに戻ってくるのは無理だろう。
姿を変えたところで、町の者に『魯太迷』だと気づかれたら、意味がない。
魯太迷のことは忘れ去られるまで……数年の時間を空ける必要がある。
その間、孟篤は魯太迷を失うことになる。
それは彼にとっては、痛手だった。
だから、止めた。
そんな孟篤に、魯太迷は叩頭してから、答えた。
『二流の拙者にもできることがあるのです。やらせてくだされ』
──と。
それだけで、決意は伝わってきた。
ひとりの武術家が、名声を捨てて、孟篤のために尽くそうとしているのだ。
止めることはできなかった。
孟篤はうなずき、魯太迷の策を受け入れた。
そのことを、誰にも語らないと決めたのだ。
「薄よ」
そんなことを思いながら、孟篤は娘に語りかける。
「父から、お前にひとつ頼みがある」
「頼みですか?」
「これから私がおろかなことをしたら、お前は『昏い父だ』と言って、私を批難してくれないだろうか」
「お母さまが、お父さまに石を投げつけたようにですか?」
「ああ」
「それはしません。代わりに薄は、史書を書くことにしましたから」
薄は筆を置き、父に向かって一礼した。
「お母さまはお父さまに石を投げつけることで、主君への怒りをあらわしました。でも、他にも主君を批難する方法はあります。薄は、そちらの道を選びます」
「……そうか。お前は史官になりたいのだったね」
「はい。お父さま」
「今、書いている文書は、その練習か」
孟篤は薄の手元をのぞき込む。
卓の上にあるのは、薄がこれまでのことを記した紙だ。
彼女はそれを『薄の史伝』と呼んでいる。
誰に見せることもない、私的な史書です、と。
「紙に書いた史書は、未来に残る可能性があります」
「ああ……そうだね」
「それを読めば、後の世の民は王侯貴族のあやまちを知り、後の世の教訓にすることができます。それは王侯貴族をののしり、石を投げつけるよりも強い力となります」
薄は顔を上げ、父に向かって宣言する。
「薄は、そんな史書を残せるような、史官になりたいのです」
「石は一度投げつければ終わり。けれど、史書は長い時間残り、主君のあやまちを人に知らせ続ける……か。なんとも、厳しいやり方を選ぶものだな」
「それがお父さまのお望みなのでしょう?」
「ああ、そうだ。私が望んだのだ。私が間違えたときは指摘してくれ、と」
そう言って孟篤は、笑った。
「お前の母は、いつも私を側で見ていてくれた。彼女がいたから私はみずからを律し、彼女に恥じることのない主君でいようと思った。そして……彼女は亡くなるときに、その役目をお前に託したのだったな」
「はい。薄は、お母さまの遺志を受け継ぎました」
薄は、子どもっぽい笑顔を見せた。
「だって薄はお父さまのことも、お母さまのことも、大好きですから」
「ありがとう。お前がいてくれるから、私は驕らずにいられるのだ」
「そのためにも、お父さまにお願いがあります」
薄はまた、父親に一礼して、
「どうか、薄が武術大会を観覧することをお許しください」
「それは可能だろう。だが……」
「價干索さまがよく思わないことはわかります。ですから、人目につかない席で、こっそりと観覧したいのです」
「岐涼の町の記録を残すためにか?」
「それだけではありません。薄は、様々な記録を残したいのです」
薄は指折り数えはじめる。
「岐涼の町の歴史。武術家たちの記録……列伝も書きたいです。そこには『できぬ』の魯小父さまの列伝もあるでしょう。平和な世の中であれば、その歴史を記した史書も。乱れた世の中であれば、その大乱を記した史伝も」
「それがお前の夢か。薄よ」
「はい。お父さま」
「なんとも……大変な夢を持ってしまったものだな。いや、お前にその夢を抱かせてしまったのも、私の責任か」
薄の母は動乱によって滅んだ町の出身だ。
そこでは多くの者が命を落とし、行方不明となった。
家は焼かれ、遺体は埋められ、戸籍や文書も消失した。
彼らが生きた記録は、もう、残っていない。
彼らの存在が残るのは、生き延びた人々の記憶の中だけだ。
孟篤と薄の母は、それらを抱えて生きることを選んだ。
それは悲しみと後悔と──憎しみさえも宿した記憶だったけれど、ふたりがそれを捨てることはなかった。
孟篤と薄の母は、滅びた町の記憶を抱え、共有し、語り合いながら生きてきた。
薄の母が亡くなったあとも、ずっと。
薄が物心ついてからは、孟篤はせがまれるままに、母親のことを語って聞かせた。
なにひとつ、隠すことはなかった。
ふたりの間にあった痛みも、悲しみも、やがて愛情へと変化した憎しみも。
父の話を聞いた薄もまた、それらを抱えて生きることを望んだ。
彼女が歴史書を好み、史官になることを望むようになったのは、それからだ。
「薄は、この世で起きたすべてのことを、史伝として書き残したいのです」
薄は、きっぱりと宣言した。
「良いことも、悪いことも、目を逸らさずに書き残す人になりたいんです。うれしい話も、哀しい歌も、すべてを後世に伝える人に」
「うれしい話も、民が語る哀しい歌……哀歌も、か」
「はい。お父さま」
薄は決意を込めた表情で、父を見た。
彼女は頬を赤くして、目を輝かせている。
まるで、父の言葉を待ちかねているようだった。
「わかった。薄よ」
やがて孟篤は、娘に向かって、うなずいた。
「武術大会の観覧を許す。お前の史書に、武術大会の章を書き記すがいい」
「ありがとうございます。お父さま」
「お前の史書に『昏い主君』と記載されぬよう、私はより一層、身を慎むことにしよう」
「はい。ところで、お父さま」
「なにかな?」
「薄は、王弟殿下のご息女のことも書き残したいです。名もなき史官として、お目にかかることはできないでしょうか?」
「それは甘えすぎだ」
「……そうですか」
「努力して、夕璃さまの目にとまる者になりなさい」
「薄は……名もなき者でよいのです」
薄は、かすかな声でつぶやいた。
「史官は、歴史の表舞台に立つべきではありません。薄は名もなき者でいいのです。薄は、人と人がわかりあうための記録を残すことができれば……幸せなのです」
「お前は控えめなのか、気宇壮大なのかわからぬな」
「薄は、名前の通りの者です」
そう言って、また、薄は筆を手に取った。
「歴史に名を残さないほど、印象の薄いもの。歴史の動乱に巻き込まれることもなく、あわい人生をまっとうする者。そう願って……お母さまは『薄』という名をくださったのでしょう」
「ああ、そうだったね」
「はい。お父さま」
「お前はそれでいい。私は、お前が自分の生き方をまっとうできるように、力を尽くそう」
娘の頭をなでてから、孟篤は席を立った。
そうして彼は町を守る計画を進めるため、執務に戻ったのだった。
次回、第197話は、次の週末の更新を予定しています。
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