第183話「夕璃、旅に出る(1)」
──数日後──
夕璃が北臨を出発するまでには、しばらくの時間が必要だった。
彼女は、王弟である燎原君の末娘だ。
旅にはそれなりの準備と格式が必要になる。
護衛の手配。
王弟の娘にふさわしい馬車の準備。
岐涼の町まで、どの道を進むかの確認。
旅先で必要な衣服、食料、換えの馬の用意。
準備を数日で終えられたのは、燎原君の財力と能力のおかげだろう。
馬車も馬も、衣服も、立派なものが用意された。
それらすべては、この旅が『夕璃の物見遊山の旅』であることを、周囲に知らしめるためのものだった。
これから夕璃は、孟侯が治める岐涼の町に向かう。
目的は、孟侯と謎の組織『金翅幇』の繋がりを探ることにある。
だが、その意図を孟侯に悟られるわけにはいかない。
孟侯が夕璃と燎原君の意図を知ったら……おそらく彼は、すべての証拠を隠すだろう。
最悪の場合、彼が夕璃に危害を加えるかもしれない。
もちろん、その可能性は低い。
夕璃が殺されたら、燎原君は孟侯を決して許さない。
孟侯は正面きって燎原君と──ひいては藍河国と敵対することになる。
仮に孟侯が『金翅幇』と繋がっていたとしても、そこまで無謀なことはしないだろう。
だが、万が一ということもある。
調査という意図は、可能な限り隠したい。
豪華な旅にする必要があったのはそのためだ。
『王弟の娘がきまぐれで、ぜいたくな旅をする』
『わがまま娘が、まわりに自分の地位を見せつける』
『きれいな服を着て、自慢そうにふるまう』
そのように見せることで、まわりの者を油断させる。
それが燎原君の考えだった。
それでいて護衛には最高の人材が用意された。
護衛を統べるのは武術家の雷光だ。
彼女はまだ傷が癒えていないが、護衛を務めることはできる。
雷光の補助役としては、玄秋翼の娘の冬里が選ばれた。
彼女は遍歴医である玄秋翼の助手をずっと務めている。
最近は体調もよくなり、点穴の技も使えるようになった。
最高の助手としては、最適の人材だ。
他にも、燎原君が選んだ強力な兵士たちが、夕璃の護衛につくことになっている。
夕璃の世話をする侍女も厳選された。
なかには、武術の心得がある者も含まれている。
彼女たちは確実に夕璃を守ってくれるだろう。
そして、夕璃の側には、ふたりの少女が配置された。
ひとりは、夕璃の友人でもある柳星怜だ。
星怜は主に連絡役を担当する。
鳥をあやつることができる星怜は、素早く書状を届けることができるからだ。
ふたりめは、馮千虹。
彼女は夕璃の相談役だ。
夕璃が困ったときに助言を与えるのが彼女の役目になる。夕璃は千虹のことを『わたくしの軍師さま』と呼んでいる。千虹は、照れまくっていたけれど。
出発前、燎原君は馮千虹と対面している。
彼女にどれだけの知識と知恵があるか、試すためだった。
燎原君と側近の炭芝、燎原君の客人たちは、馮千虹にいくつかの質問をした。
書庫に収められている書物の内容についての質問だった。
彼らからの質問に、馮千虹はよどみなく答えた。
まるで、読んだ本の内容が、すべて頭に入っているかのように。
「……とある修行をしてから、今までよりも記憶力がよくなったのです」
そんなことを、馮千虹は言った。
燎原君はおどろき『その小さな頭に書千巻が入っているようだ』とつぶやいた。
千虹を相談役として、夕璃の側に置くことにしたのだった。
燎原君は星怜と千虹に、『親しい友人として夕璃に接するように』と命じた。
王家の娘が友人とともに物見遊山の旅に出るのは、珍しいことではない。
三人が親しく接するようにすれば、孟侯を油断させることもできる──それが、燎原君の考えだった。
燎原君は夕璃の身を守るために、すべての手を打った。
その上で、出発の前日に、夕璃と言葉を交わした。
「準備は整えた。これで、よいのだね」
と。
多くは語らなかった。
引き留めることも、しなかった。
夕璃の決意が固いことは、よくわかっていたからだ。
夕璃は答えた。
「わたくしのわがままを聞いてくださって、ありがとうございます」
と。
その後、ふたりはただ、礼を交わしただけだった。
もう、言葉は必要なかった。
多くの人材を見てきた燎原君。
父の隣で人を観察してきた夕璃。
そんなふたりには、おたがいの心が見えていたのだろう。
短い会話をかわしたあとで、夕璃は退出した。
娘の背中を見送った燎原君は、深いため息をついた。
「……雷光よ。頼む……夕璃を守ってくれ」
燎原君は両手で顔を覆って、つぶやいた。
それは王弟としてではなく、父親としての言葉だった。
「……玄秋翼。黄天芳。翠化央。君たちが陰から夕璃を助けてくれることを望む。どうか……私の娘を……頼む……」
燎原君は一人、そんな言葉をつぶやき続ける。
やがて、夜が明け、翌日になり──
夕璃の一行が出発する時刻がやってきたのだった。
次回、第184話は、この週末くらいに更新する予定です。