第182話「天芳と星怜と凰花と冬里と千虹、最奥秘伝の導引に挑む」
──天芳視点──
「これより最奥秘伝の『天地一身導引』を始める」
秋先生の声が響いた。
広間の中央で俺は深呼吸。
それから、目を閉じる。
最奥秘伝が終わるまで開けることはない。
余計な言葉も、発しない。
部屋の四方から、布のこすれる音が聞こえてくる。
秘伝のときと同じだ。最奥秘伝の『天地一身導引』は、余計なものをすべて捨てた状態で行う。
だから俺も、服の帯をほどいていく。
前回と違うのは、俺がみんなの中心にいることだ。
今回は、俺が中央に、星怜が西に、小凰が南に、冬里が北に、千虹が東に位置した状態で行う。
余計なものを取り払った姿の俺が、ありのままの姿の4人に囲まれることになる。
まぁ、みんな目を閉じてるからいいんだけど。
それに……これは必要なことだから。
『岐涼の町』の調査をする前に、力を高めておかなきゃいけない。
あの地には『金翅幇』の連中がいるかもしれない。
奴らに対抗するために、最奥秘伝をしておきたいんだ。
「──準備はいいかな」
秋先生の声が響く。
俺たちは返事の代わりに手を叩く。
それが、最奥秘伝のはじまりの合図だった。
「では『樹木の型』の第一から……」
そうして俺たちは最奥秘伝の『天地一身導引』を開始したのだった。
数秒で気づいた。
これは、4人でやったときと全然違う。
身体が熱を帯びていた。
まるで、ほどよい温度の湯に浸かっているように。
前回は『気』で満たされたプールに入っているようだった。
今回はそれより濃密な──『気』のゼリーを泳いでいるようだ。
その中に糸が……ぴぃん、と張り巡らされて、俺と星怜たちを繋いでる。そんな気がする。
みんながどこにいるのか、わかる。
気配……だけじゃない。
はっきりと感じ取れる。いや……見える。
目を閉じているのに、視界に人のかたちが浮かんでいる。
白く塗りつぶした人物画のように。
見えるのは、俺より背が低い、人のかたち。
長い髪を揺らしながら、樹木になりきってる。
星怜だ。
白い影が振り返る。視線に気づいたように、首をかしげる。
俺は視線を逸らそうとするけれど、意味がない。
だって、俺は今、別の方向を向いているんだ。
星怜は西にいる。
俺は東を向いているから、星怜の姿は見えないはず。
なのに視界には星怜の姿が、白い影として映っている。
身体のかたちがはっきりとわかる。
意識を正面に向けると──今度は小さな影が見えてくる。
あれは千虹だ。
千虹は『樹木のかたち』の『泰然大樹』をしている。
でも、ちょっと腕の位置が違う。まだ慣れていないみたいだ。
無理もないよな。
千虹は『天地一身導引』の指導を受けたばかりなんだから。
最奥秘伝ができるように、秋先生が数日かけて指導してくれたらしい。
それでも、ここまでできるんだからたいしたものだ。
でも、腕はもう少し上げた方がいいな。
俺の手が届けば直してあげるんだけど……。
──ふわり。
そんなことを考えたとき、千虹の腕が上がった。
彼女の身体が、正しい『泰然大樹』のかたちになる。
(……あれ?)
不意に、頭の中で声が響いた。
(黄天芳さまが虹の腕に触れたような……? でも……そんなわけないですよね。虹が黄天芳さまのことを考えていたから、勘違いをしてしまったですか……?)
聞こえたのは千虹の声だ。
だけど、俺たちはまったく口を開いていない。
どうして声が聞こえるんだ?
最奥秘伝の『天地一身導引』にはお互いの声を伝える効果があるのか?
──虹さん?
呼びかけてみたけど、返事はない。
(次は『大樹若芽』なのです。ゆらゆらと……)
それでも千虹の声はこっちに伝わってくる。
もしかして……これは『四凶の技・渾沌』が影響しているのか?
『四凶の技・渾沌』には『万影鏡』という技がある。
これは対象の気配や動きを察知するものだ。
それが最奥秘伝の影響で、強化されているのかもしれない。
最奥秘伝の『天地一身導引』は隠された能力を引き出したり、能力を強化したりできる。
それで『渾沌』が強化されたと考えれば納得できる。
みんなの姿が白いかたちとして見えるのは、『万影鏡』の効果だろう。
声が聞こえるのは……その副産物かな。
今の俺たちは『気』で繋がってる。
そのせいで『万影鏡』が超強化されて、思考が読めたりするのかもしれない。
たぶん……最奥秘伝を終えたら、『渾沌』は強くなると思う。
『万影鏡』だけじゃなくて、他のふたつの技……『無形』と『中央の帝』も使えるようになるかもしれない。
……俺がそんなことを考えたのは……ほんの短い時間。
思考は、すぐに消えていく。
千虹の声も聞こえなくなる。
俺たちは無心になり、最奥秘伝を続ける。
樹木から、鳥へ。
俺たちは『幼鳥枝蹴 (雛鳥が枝を蹴り、はじめて空を飛ぶ)』のかたちになる。
空を目指す雛鳥になって、床を蹴り、跳び上がる。
……秋先生の次の指示が来ないな。
あ……そうか。
俺が空中にいるからだな。降りるまで、次のかたちには移れないのか。
爪先が、宙を掻いた。
俺は数十センチ浮いたところで止まってる。
意識を向けると……小凰と冬里も、まだ空中にいた。
俺もみんなも……なかなか地面に落ちないな。
『五神歩法』の跳躍技を使ったときとは違う。
ジャンプじゃなくて浮かんでいる感じだ。
でも、仕方ないよな。今の俺たちは鳥だ。
鳥が空を飛ぶのは当たり前なんだから。
「──『鳥のかたち』、『比翼帰天』」
俺たちが地上に降りたあとで、秋先生の声が響いた。
今度は、俺たちは翼を広げた鳥になる。
『比翼帰天』は鳥たちが翼をそろえて巣に戻る姿をかたどっている。
さびしんぼの鳥たちは仲間の翼に触れながら、空を舞う。
俺は仲間の翼を探すように、腕を伸ばす。
俺の手のひらに、誰かの手が重なる。
右手が熱くなる。これは──小凰の手だ。
近くに来ているのには気づいてた。
小凰の姿は、ずっと俺のまぶたの裏に映っていたから。
比翼の鳥になった俺と小凰は、手のひらを重ねながら、羽ばたく。
ふと、頭の中に映像が浮かんだ。
見えたのは──姫君の姿をした小凰だ。
彼女は奏真国の宮殿の廊下を歩いている。
隣には誰かがいて、小凰に笑いかけてる。
これは──小凰の思考かな。それとも夢かな。
夢の中の小凰は『五神歩法』のステップで逃げていく。
側にいる誰かも、同じステップで追いかけていく。追いついて、小凰の手を握る。
小凰は恥ずかしそうに、服の胸元を押さえてる。
はじめて俺が触れたときのことを語って──
……はじめて俺が触れた……って?
……あ。前に4人で『天地一身導引』をしたときか。
あのとき、脚を滑らせた誰かを、俺が抱きとめた。
…………あれは小凰だったんだ。
意識を向けると……白い影になった小凰が笑う。
熱い指が、ゆっくりとほどけていく。
今度は左手に別の手のひらが重なる。
小凰よりも少し冷たい手。これは……冬里だ。
不意に、かっこいい姿の冬里が見えた。
遍歴医になった冬里の姿だ。
悪者が襲ってくるのを、冬里は次々に点穴の技で倒していく。
誰かに背中を預けながら、無敵の遍歴医の冬里は、悪者をばったばったとなぎ倒す。
これが、冬里の夢みたいだ。
冬里の指先に『気』が満ちているのがわかる。
彼女は左手──俺と重なっていない方の指を振る。
離れたところにある窓が、かかかっ、と揺れた。
冬里の『気』が強化されてる。点穴の技も。
冬里は……きっとこのまま成長して、本当に正義の遍歴医になるんだろう。
……夢が叶うといいな。
やがて『比翼帰天』が終わる。
名残惜しそうに、小凰と冬里が離れていく。
秋先生の声が聞こえる。
『比翼帰天』──同じ型の名前が聞こえる。
東から千虹が、西から星怜が近づいてくる。
ふたりの手が、俺に重なる。
大人になった千虹が見えた。
『気』の問題が解決した千虹が、書庫で本を読みふけってる。
椅子の上に誰かがいて、千虹はその人の膝に座ってる。
千虹は大人になってもやっぱり小さい。
それでも高速で、ひたすら本を読み続けて……安心したように眠ってしまう。
それだけじゃない。
たくさんご飯を食べる夢。大きくなって走り回る夢。温泉でじゃぶじゃぶ泳ぐ夢。
ご両親のお墓の前で、好きな人を紹介する夢。
すごい軍師になって、人々の前で軍略を披露する夢。
──千虹はたくさんの夢を同時に思い浮かべてる。
すごいな。
千虹はいくつもの思考を並列で動かしてる。
最奥秘伝をすることで、千虹は並列思考能力を身につけたんだろうか……。
そんなよくばりな夢を抱えたまま、千虹の手が離れる。
(……兄さん)
指先に触れた瞬間、星怜の声と、イメージが流れ込んでくる。
星怜の夢はわかりやすい。
少し大人になった星怜が、赤ちゃんを抱いてる。
星怜はすごく優しい目で、黒髪の赤ちゃんをなでている。
銀色の髪じゃなくてよかった、と、つぶやくけど、側にいる人が、やさしく星怜の髪をなでてくれる。そんな星怜の髪を『雪縁花』の髪飾りが飾ってる。
新しい家族を得る──それが、星怜の夢みたいだ。
──叶うといいな。
──ぼくも、協力するから。
そんな言葉がふと、頭をよぎる。
星怜の指が、ぎゅ、と、俺の指に絡まる。
自分の考えた言葉の意味を──俺は、はっきりと理解する。
身体が熱くなる。
それが星怜に伝わったような気がして、俺は彼女に視線を向ける。
白い影のような星怜が、うなずく。
星怜の『気』が、俺の身体を通り過ぎる。
俺の『気』が、星怜の身体を通り過ぎるのがわかる。
汗ばんだ指が絡み合い、ゆっくりと離れていく。
鳥のかたちが終わる。
猿のかたちが始まる。
部屋の四隅にいたはずのみんなは、いつの間にか俺の近くに集まってる。
触れるか触れないかの距離で、猿になりきる。
部屋の外には秋先生がいる。
こちらに背中を向けたまま……おどろいたような顔をしてる。それがわかる。
さらに遠く……建物の外には、たくさんの鳥がいる。
猫もいる。犬もいる。
普段は仲の悪い生き物たちが、静かに、俺たちを見守ってる。
この子たちは、星怜に惹かれて来たのかな。
星怜は動物を呼び寄せたり、話をしたりする能力があるから。
それが強化されたから、こんな現象を呼び起こしたんだろうか。
(……兄さんに褒めて欲しいです)
そんな声が聞こえたから、俺は星怜に向かって手を伸ばす。
俺たちは『勇猿賞賛』 (勇敢な猿がおたがいをたたえ合う)のハイタッチ。
(僕も僕も)
呼ばれた俺は身体を反転させて、小凰ともハイタッチする。
汗と『気』をまとった指が、俺の指と絡み合う。
『天元の気』が、ふたりの身体に流れこんでいく。
ふたりがどんな表情をしているのか、なんとなくわかる。
こうしている時間が愛おしくてしょうがない──そんな表情の星怜。
こんな優しい時間が失われるのが怖い──そんな表情の小凰。
──大丈夫。
俺は声に出さずに応える。
たぶん、最奥秘伝のおかげで、俺の『渾沌』は強くなる。
この力はみんなのために使う。
みんなとの大事な時間が、ずっと続くように。
優しい時間が、壊されないように。
──夢が叶うようにするから。
俺の声が伝わったのかどうかは、わからない。
それでも、俺は願い続ける。
──星怜にたくさんの家族ができるように。
──小凰が幸せな王女でいられるように。
──冬里が健康なまま、正義の遍歴医でいられるように。
──千虹があまえんぼ軍師でも大丈夫なように。
──俺が『破滅エンド』を、やっつけられるように。
──破滅を回避するだけじゃなくて、その先の未来へ行けるように。
やがて、自然と俺たちは、最初の位置へ。
中央と東西南北で、猿のかたちを続ける。
そうしてまた、樹木のかたちに。
それから、最後の仕上げに『獣身導引』をして──
「ここまでにしよう。おつかれさまだったね」
秋先生の声と共に、最奥秘伝の『天地一身導引』は終了したのだった。
導引を終えて、それぞれに身支度を整えたあと──
「お……お先に失礼します。兄さん!」
「それじゃね。また明日ね! 明日会おうね! 天芳!!」
星怜は動物たちに見送られながら、小凰は『五神歩法』で飛ぶように帰って行った。
冬里は──
「……すごく元気になりました」
点穴の形にした指を、壁に向かって突き出した。
離れたところにある窓が、かすかに揺れる。
「びっくりです。すごい力が身についてしまったみたいで……」
「今の冬里なら、甲を着ている敵にも点穴を施すことができるだろう」
秋先生は言った。
「点穴の奥義『浸透指』だ。甲越しに『気』を撃ち込み、相手の身体に影響を与えることができる。だが、使うのは私がいるときにしなさい。私が側にいないときに使っていいのは緊急の時だけだ。いいね」
「はい。お母さま」
「天芳くんはどうかな?」
それから秋先生は、俺の方を見た。
「なにか変わったことはあるかな? 気づいたことがあれば言ってみなさい」
「……よくわかりません」
「『鳥のかたち』のときは宙に浮いていたようだけどね」
「それは覚えています。あのときは自然にできたんですけど……これから同じことができるかどうかは、わかりません」
「まずは自分の中にある力と、じっくり向き合いなさい」
秋先生は俺の肩に手を乗せた。
「最奥秘伝をしたことで『天元の気』の操作もしやすくなったはずだ。これからは必要なときに、自然と力を発揮できるだろう」
「はい。秋先生」
「千虹くんは……」
「温かな『気』が身体をぐるぐる回っていたです。みなさんの存在を近くに感じたです。これは体内にあるはずの経絡が、皆さんと繋がっていたと感じ取れるです。でも、黄天芳さまに腕の位置を直していただいた感覚もあったです。とても心地よくて……ぞくぞくしたのですが……あれは例外的なものですか? それとも……ああ、そういえば虹が以前に学んだ導引法では……」
「思考が暴走しているよ。『気』を鎮めなさい。千虹くん」
秋先生は千虹の背中を突っついた。
千虹が「はっ」と、夢から覚めたような顔になる。
「君はこの場に残りなさい。経絡と『気』の状態を診てあげよう」
「は、はい。お願いするのです」
「冬里も同席するように。これからお前に、私の医術と点穴の技のすべてを伝授する。これから仕事をするときは、私は冬里を弟子としてあつかおう。いいかな?」
「はい。望むところです!」
「いい返事だ。では、天芳くん」
秋先生は俺の方を見た。
「君は家に戻って休むといい。これは、医師としての忠告だよ」
「はい。秋先生」
「今は、『岐涼の町』のことも考えなくていい。調査には私も姉弟子も同行するのだからね。心配することはないよ」
「はい! 虹もお手伝いしたいのです!!」
「王弟殿下に相談しておこう」
「お願いするです!」
「それじゃ、天芳くんは気をつけて帰りなさい。千虹くんは……服を脱ぐのが早すぎだ。まだ天芳くんがいるだろう? え? さっきまでひとつになっていたから気にならない……うん。君は身体の感覚に思考が引っ張られているようだね。君の心が幼いのはそのためだ。まずは問診からはじめよう……」
秋先生が千虹を診察する声を聞きながら、俺は自宅へと戻った。
最奥秘伝の『天地一身導引』は終わった。
たぶん……俺の力も強くなったと思う。
今日は休んで、明日になったら雷光師匠に『渾沌』のことを相談しよう。
俺にあの技が使いこなせるように。
『岐涼の町』での調査のとき、活用できるように。
そんなことを考えながら、俺は自宅に帰り──
『気』を休めるため、ゆっくりと眠ることにしたのだった。
いつも『天下の大悪人』をお読みいただきまして、ありがとうございます!
都合により、来週は更新をお休みする予定です。
(……ちょっと作業がたてこんでいるのです)
なので、次回、第183話は、再来週の週末の更新を予定しています。