第181話「狼炎と夕璃、挨拶を交わす」
──翌日。王宮にて──
「そうか……海亮は『奉騎将軍』の候補者になってくれるのか……」
ここは太子狼炎の執務室。
狼炎は椅子に座り、黄天芳が届けた書状に目を通していた。
書状には黄海亮が『奉騎将軍』候補の任を受ける旨が書かれている。
『飛熊将軍』黄英深による礼状も添えられている。
近いうちに黄海亮は、北臨に帰って来るだろう。
「……我が友は、すべてを知った上で受け入れてくれた」
黄天芳とは昨日、面会した。
彼は「太子殿下のお言葉通り、兄にはすべてを伝えました」と言った。
黄天芳のことだ。兆家のことも、東郭での事件のことも、すべて海亮に伝えたのだろう。
黄天芳は、思っていることを素直に伝える人間だ。
はじめて出会ったときもそうだった。
内力比べをもちかけた狼炎に、彼は「内力比べなど、天下に比べれば小さなこと」などと言っていた。
物怖じせず、率直で、あつかいづらい。
なのに、不思議と信頼できる。
狼炎にとって黄天芳は、そういう人間だ。
できれば黄天芳には良い地位を与えたい。
だが、今は難しいだろう。
黄家に権力が集中しすぎれば、彼らをねたむ者も出てくる。
逆に黄家を利用しようと考える者も現れるだろう。
特に、今は兆家が失脚したばかりだ。高官たちは動揺している。
燎原君からも『兆家のあとがまを狙う者もいるかもしれません。ご注意を』と言われている。
人事には気を遣う必要があるのだった。
「……これからは海亮が助けてくれる。それで満足するべきなのだろうな」
そう言って、狼炎は書状を置いた。
茶を一口飲んでから、今日の予定を確認する。
数十分後に朝廟に出ることを思い出し、狼炎は顔をしかめる。
今後のことについて燎原君に相談したかったが、面会予定は数日後だ。
狼炎も燎原君も、忙しい。
それでも燎原君の屋敷を訪ねることができるのは助かる。狼炎がそう考えたとき──
「殿下。面会の方がいらしております」
執務室の外で、側付きの文官の声がした。
「──面会だと? 誰だ?」
「王弟殿下のご息女。夕璃さまでございます」
狼炎の問いに、文官が答えを返す。
狼炎は改めて予定を確認してから、
「いや、夕璃どのが来る予定はなかったはずだが……」
「王弟殿下より面会のご要望がありました。どういたしますか?」
「通すがいい」
狼炎は即座に答えた。
「それと、貴公はしばらく退出しているように」
「承知いたしました」
戸口に現れた文官が狼炎に向かって一礼する。
文官の足音が遠ざかり、入れ替わるように、夕璃が執務室にやってきた。
「お忙しいところ申し訳ございません。面会の許可をいただいたこと、感謝いたします」
夕璃は狼炎に向かって、拱手した。
狼炎はそれにうなずき返す。
他人行儀な態度だったが、これは仕方がない。
ここは王宮の執務室だ。
夕璃は正式な手続きを踏んで、太子狼炎に面会している。
それは、ここが公的な場だということを意味するのだった。
「構わぬよ。ちょうど休憩しようと思っていたところだ」
狼炎は呼吸を整えてから、答えた。
夕璃が身に着けているのは、王族としての正装だった。
髪は綺麗に結い上げ、貴石のついた髪飾りをつけている。
「本日は、ごあいさつに参りました」
夕璃は一礼してから、
「わたくしはしばらくの間、北臨を離れることになったのです」
「北臨を離れる? 夕璃どのが?」
「物見遊山の旅にまいります」
夕璃はいたずらっぽい表情で、笑った。
なのに……不思議だった。
狼炎には夕璃が、なにかの決意を秘めているように見えた。
「わたくしはずっと北臨におりました。ですが、この地のことしか知らないままでは、将来、大切な方のお役に立てないかもしれません。それで、見聞を広める旅に出ることにしたのです」
「見聞を広める旅……か」
「はい」
「必要があるとは思えぬがな。夕璃どのは叔父上の屋敷で、いつも多くの人と話をしているではないか」
「ひとから聞いた話だけでは、本当のことはわからないものですわ」
「そうかもしれぬが……夕璃どのがそこまですることは……」
言いかけて……狼炎は思わず口を押さえた。
(……私は、夕璃姉さんを引き留めようとしているのか? なぜだ?)
夕璃は物見遊山の旅に出ると言っただけだ。
引き留める理由はどこにもない。なのに──
(どうして……私が不安になっているのだ?)
ふと、そんな言葉が頭をよぎる。
(人を頼るとはこういうことか。誰かを信頼すれば、その人が不在となったときに不安に思ってしまう。だが……次の王となる者が、不安を表に出すわけにはいかぬ……)
王が不安を表情に出すことは臣下を……ひいては民を不安にさせることに繋がる。
それはできない。
しかも、ここは公的な場だ。狼炎は太子として夕璃に接する必要がある。
そう考えて、狼炎は表情を引き締める。
「承知した。出発前の挨拶に来てくれたことを、うれしく思う」
深呼吸をしてから、狼炎は答える。
「ちょうど気候も良くなっている。旅に出るのも良いだろう」
「ありがとうございます。狼炎殿下」
夕璃は表情を隠すかのように、目を伏せた。
「わたくしは殿下の目となり、耳となり、天下を見て参りましょう」
「大げさなことを言う」
「ふふっ。そうかもしれませんわね」
「夕璃どの」
「はい。狼炎殿下」
「……護衛はつけるのだろう?」
「お父さまの客人の中で、最も強い女性の武術家が同行してくださいます」
「そうか。ならば安心だ」
狼炎に言えるのは、そこまでだった。
(あの庭園でなら、家族として話すこともできるのだがな)
夕璃はただ、挨拶に来ただけ。
不安なことなど、なにもない。
そう自分を納得させて、狼炎は夕璃を見た。
「夕璃どのは心置きなく、旅を楽しんでくるといい」
「ありがとうございます」
「あとで土産話を聞かせて欲しい」
「はい。帰ったら旅先でのことを、すべてお話しすると約束いたしましょう」
「楽しみにしている」
「それでは失礼いたします。狼炎殿下」
夕璃はゆっくりとした動作で、一礼した。
まるで、この場を立ち去るのを惜しんでいるかのように、見えた。
「殿下がお心安らかに過ごされることを、わたくしは願っております」
そう言って、夕璃は退出していった。
やがて、側付きの文官が戻ってくる。
文官は次の予定を伝え、狼炎は朝廟に出るために立ち上がる。
「…………誰か、窓を開けたか?」
ふと、狼炎は胸を押さえた。
「冷えた風が入ってきたように感じたのだが……」
「太子殿下に申し上げます。この部屋の窓は閉じております」
「…………そうか」
狼炎はふと、首をかしげた。
まるで……胸の中にぽっかりと穴が空いたような……そんな感覚を覚えたからだ。
その正体に気づかないまま、狼炎は席を立ち、歩き出す。
彼は自分の役目を果たすため、政務の場へと向かったのだった。
次回、第182話は、次の週末の更新を予定しています。
書籍版2巻の作業も進んでおります。
今回も色々と書き下ろしを追加していますので、ご期待ください!