第162話「太子狼炎、兆家の罪を問う(3)」
──数時間後、兆家の屋敷にて──
兆石鳴は、ぼんやりと天井を見つめていた。
王宮を出たあと、どうやって屋敷に帰ってきたのかは覚えていない。
気がつくと彼は、自室の椅子に座っていた。
卓には、将軍の地位を取り戻すための計画書がある。
兆石鳴はそれをぐしゃりと握り潰して、投げ捨てる。
「わしが公職につくことは、もう、ない」
間もなく、王宮より使者がやってくるだろう。
太子狼炎より賜った、剣を手に。
兆昌括に自害を促すために。
息子が死を賜ることに対して、異議はない。
町を守る役目の者が、こともあろうに盗賊団に情報を流していたのだ。本来なら刑死はまぬがれない。
自害を許してくれたのは、太子狼炎の優しさなのだろう。
兆石鳴への罰も妥当だった。
公職と、北臨からの追放──文句のつけようもない。
太子狼炎が兆家のふたりに見事な裁きを下したのだ。
藍河国の誰もが、それと正しいこととして讃えるだろう。
「……なのに、わしはどうして震えているのだ?」
──なにかが、間違っている。
──このまま昌括を自害させてはならない。
その言葉が、兆石鳴の頭の中を渦巻いている。
振り払おうとしても、消えない。
どうしてそう思うのか、兆石鳴は考え続けて──
やがて、答えにたどりついた。
そして兆石鳴は自室を出て、息子の昌括のもとへと向かった。
「父上!!」
やってきた父親の姿に、兆昌括は目を輝かせた。
彼が身に着けているのは朝服だ。
王家からの使者を迎えるにあたり、準備を整えていたのだろう。
けれど、その顔は引きつっている。
無理もない。
兆家がこんなことになるなど、つい昨日まで、誰も思っていなかったのだから。
「父上に申し上げます!」
朝服のまま、昌括は床に平伏した。
「私に罪があることはわかっております。ですが……今一度、狼炎殿下にお目にかかる機会をいただけないでしょうか!?」
「……昌括」
「わかっているのです! 私の愚かな行いのせいで狼炎殿下がお怒りだということは! ですが……私が自害し、父上が追放されてしまったら……殿下のまわりから『不吉』を消す者がいなくなってしまいます!! どうか、罪を減じていただけるように……父上から……」
「落ち着くのだ。昌括よ」
兆石鳴は静かに、長男の背中を見下ろしていた。
「私も狼炎殿下のご判断は、間違っていると思う」
「父上も、ですか?」
「ああ。殿下は、お前に自害を命じるべきではなかった」
「ああ、父上!!」
「私は殿下のご命令に背こうと思う」
父の言葉に、兆昌括は顔を上げる。
彼は希望を見いだしたような表情で、父親を見た。
けれど──昌括の目に入ったのは、壁にかかっていた剣を手に取る、父親の姿だった。
「ち、父上……どうして、剣を?」
「お前は言ったな。狼炎殿下をすべての『不吉』からお守りすると」
「は、はい。申し上げました」
「ならば父も、それに殉じよう」
兆石鳴は長男の前で、長剣を抜いた。
「盗賊団と繋がり、それによって民を害した者。奴らに情報を流し……狼炎殿下が壬境族に襲われるきっかけを作った者……殿下のまわりにいるもっとも不吉な者を、この石鳴が排除する!」
炎のような視線が、兆昌括を射た。
父の視線を受けた兆昌括は、ひきつった声で、
「私を斬るとおっしゃるのですか!? 父上!!」
「言うまでもない。殿下のまわりにいる最も不吉な存在がお前だ! そして狼炎殿下のお側からすべての『不吉』を排除するのが兆家の役目なのだ!! 私は、それを果たす!!」
「父上がそのようなことをされてはいけません!!」
兆昌括は叫んだ。
「父上にそのようなことをさせるくらいならば自害します! 私は粛々と、使者から剣を賜ります。ですから……」
「太子殿下に、従兄弟を自害させるという『不吉』を与えるわけにはいかぬ」
それが、兆石鳴の答えだった。
兆石鳴は、太子狼炎に近づくすべての『不吉』を排除する。
不吉な存在である、兆昌括も。
狼炎が従兄弟を自害させるという、不吉な事実も。
「お前を討ったあとで、殿下の命令に背いた私……兆石鳴は自害する。これで殿下にとって不吉な者は消える」
「兆家はどうなるのです!?」
兆昌括は父の脚にしがみついた。
「私と父上が死んでしまったら……残るのは末っ子の巽丘だけです! 私たちが亡き後、あの子がどうなるか……」
「景古升が助けてくれるだろう」
兆巽丘は兆家の末っ子だ。
末子を表す言葉が『季』であることから、兆季とも呼ばれる。
彼は景古升の娘と結婚して、別の町で暮らしている。
兆巽丘が北臨を離れたのは、兆家の者たちが職を失った後のことだ。
彼は景古升に迷惑をかけないように、距離を取ることを決めた。
それからは遠い町で、晴耕雨読の生活を送っている。
「巽丘は今回のことに関わっていない。景古升ならば、あの子を生かしてくれるだろう」
「父上……本気なのですか!?」
「お前は本気ではなかったのか?」
不思議そうな口調で、兆石鳴はたずねた。
「謁見の間でお前は言ったはずだ。『殿下を「不吉」からお守りするには、手段を選んではいられなかった』と。ならば同じように、父が殿下をお守りするために手段を選ばなくとも文句はあるまい?」
「あ……あ、あ」
「さらばだ。不吉なる我が子、昌括よ」
──それが、親子の最後の会話となった。
やるべきことを済ませた兆石鳴は、太子狼炎への書状を書きはじめた。
記したのは、事実のみだった。
その後、景古升への短い手紙を書いてから、家人に書状を託した。
そうしてすべての役目を終えた後で、兆石鳴は剣を抱き、自室へと戻ったのだった。
数時間後。
兆家を訪れた使者は、剣を下賜すべき者と兆家の主人が、すでにこの世にいないことを知ることになる。
──夜。王宮の庭園にて──
太子狼炎は庭園を歩いていた。
庭園は王宮の最奥にある。
王家の者か、特別な許可を得た者しか、足を踏み入れることはできない。
狼炎が護衛なしで歩ける、貴重な場所だった。
「……兆叔父が……死んだのか」
使者は剣と書状を持ち帰ってきた。
書状には、兆石鳴が書いた文章があった。
──昌括が狼炎にとって不吉なものになってしまったこと。
──けれど、太子狼炎に従兄弟を自害に追い込んだという『不吉』を与えたくないこと。
──だから石鳴が自分の手で、昌括に罰を下したこと。
──しかし、それは兆石鳴が太子狼炎の命令に背いたことを意味する。
──兆石鳴はその罪を負い、自害する。
──身勝手をお許しください。
──兆季に罪はありません。兆家をどうか、残してくださるように。
書かれていたのは、そんな文章だった。
「……そこまで……この狼炎の異名にこだわることはなかったのだ。兆叔父よ」
狼炎はつぶやいた。
「この狼炎はもう、不吉な異名にはこだわっておらぬ。何度もそう言ったはずなのに……どうして、わかってくれなかった……どうして!? どうして兆叔父は……」
「…………殿下」
声がした。
庭園の中央にある、大きな樹の向こうからだ。
月下に、白い姿が見えた。
長い髪を結い上げた女性が、じっと、狼炎を見つめていた。
「夕璃どの……?」
「おどろかせて申し訳ありません。狼さま」
「構わぬ。それより、どうしてここに?」
「狼さまに会えると思ったからですわ」
夕璃はおだやかな表情で、そんなことを言った。
「だから、お父さまに無理を言って、連れてきていただいたのです」
「では、叔父上もここに?」
「お父さまは宰相府に行かれました。ついでに、残っていた仕事を片付けられるそうです。ここにいるのはわたくしだけですわ」
「夕璃どのにしては、珍しいことをする」
狼炎は不思議そうな顔で、
「最近のあなたはわがままを言わなくなったと、叔父上から聞いていたのだが」
「そうですわね。わたくしがこんなことをしたのは……きっと、お友だちの影響だと思いますわ」
「友人?」
「はい。最近はお友だちと毎日お話しをしているのですけれど……彼女が言うのです。『大切な人のところに行きたい』『でも、わがままは言えない』『それでも、遠くにいるあの人のところに行きたくて仕方がない』と」
「困った友人がいるものだな」
「そんなことありませんわ。あの方はいつも、わたくしに新たな視点をくださるんですもの」
夕璃は、友人がいる方角を見つめながら、
「その子の話を聞いていたら、気づいたのです。その子の家族は今、遠くにいて会うことができない。でも、わたくしの大切な家族はすぐ近くにいる。なのに、どうして会うのをためらっているのでしょう、と」
「……夕璃どの」
「それが、わたくしがここに来た理由ですわ」
「わがままを通すのは子どものすることだよ。夕璃どの」
「たまには子どもに戻ってもよろしいではないですか。ほら、狼さま、覚えていらっしゃいますか?」
夕璃は、側にある大樹に触れた。
「子どものころ、よくこの樹の下でお話をしましたわね」
「ああ、覚えている」
「あのころのわたくしはいたずらっ子で、よくお父さまに怒られていました。泣きべそをかいたわたくしを、狼さまはなぐさめてくださいました」
「私は夕璃どのと自由さがうらやましかったのだがな」
「そうだったのですか?」
「思ったことを口にして、心のままにふるまう……この狼炎にはできないことだ」
「試してみませんこと?」
「試すとは?」
「思ったことを、口になさってみてください。狼さま」
大樹に寄りかかった夕璃は、狼炎を手招いた。
「人払いは済ませてあります。誰も、ここには来ません。今なら大丈夫です。狼さま。心のうちを、すべて話してくださいませ」
「なにを言っているのだ……夕璃どの」
「兆家のことを聞きました」
小さな声だった。
けれど、その言葉を聞いた狼炎の身体が、震えた。
それに気づかなかったように、夕璃は続ける。
「ですから、わたくしはここに来たのですわ。狼さまに近しい者のなかで、わたくしだけが……狼炎さまの兆家への思いを聞くことができるのですから」
「夕璃姉さん……」
「わたくしは兆昌括さまの従妹です。狼さまと対等の立場でお話を聞くことができます。わたくしは今回の事件に一切関わっておりません。誰の味方でも、敵でもありません。最後に……わたくしが聞いた言葉が、他に漏れる気づかいはございません。燎原君の娘に言うことを聞かせられる者など、国王陛下と狼さまと、お父さましかいないのですから」
夕璃は狼炎に向かって、手を伸ばした。
「そして、わたくしたちは家族なのですわ」
「……家族?」
「ええ、同姓の家族です。もっとも近くて……それでいて、適度な距離を持つふたりですわ。ですから、狼さまの抱えている痛みを、わたくしにも分けてくださいませ」
「痛みなど……」
「ないわけがございませんでしょう!?」
狼炎の退路を断つように、夕璃は、
「狼さまが家族や部下を大切にしていることを、わたくしはよく知っております。ですから……吐き出してくださいませ。狼さまが抱えている思いと、痛みを」
「…………できぬ」
「狼さま?」
「できぬのだ。わかってくれ、夕璃姉さん」
狼炎は痛みをこらえるように、額を押さえた。
「今回のことで私は……改めて……王家の者が発する言葉の重みを思い知った。昌括に自害を命じたのは、間違ってはいなかったと思う。だが、結果として兆叔父までも死んでしまった。兆叔父はこの狼炎にまとわりついた『不吉』という言葉に踊らされ、最後までそのままだった。あの人は、変わることはなかったのだ」
「……はい。狼さま」
「ふたりが死ぬ原因を作ったのは、この狼炎かもしれぬ」
「…………それは」
「この狼炎が太子ではなく、兆叔父たちがただの身内だったなら! 仮にそうだったのなら……彼らが権力を持つことはなかった。昌括が失敗したとしても……それは小さなもので終わったはずだ。家族同士の笑い話で済んだかもしれぬ。この狼炎が太子で……彼らがその外戚だったからこそ……兆叔父と昌括は死ぬことになった……」
絞り出すような声で、狼炎はつぶやく。
夕璃は、無言のままだった。
ただ狼炎の手を引いて、大樹の下へといざなう。
子どものころそうしたように、大樹の幹に、背を預ける。
「私は兆叔父が嫌いではなかった。だが、こうなってしまった。この狼炎が太子だからか? ならば……」
「わたくしと一緒に世を捨てますか? 狼さま」
気づくと、夕璃がすぐ近くで、狼炎を見つめていた。
息を詰めて。真剣な表情で。
「ふたりでどこか、誰も知らないところへ行きますか? 地位も身分も、すべて捨てて」
繋いだままの手から、どくん、どくんという鼓動が伝わってくる。
徐々に早くなるそれと、夕璃の体温を感じながら──狼炎は、
「夢だな。それは」
苦い笑みを浮かべて、答えた。
「ああ。夢だ。それは夢物語だよ。夕璃姉さん」
「ええ、夢ですわね。狼さま」
ふたりは顔を見合わせたまま、笑った。
それから狼炎は、繋いだままの手を挙げて、
「そろそろ放してもらえないか。夕璃姉さん」
「だめですわ」
「どうしてだ?」
「まだ狼さまの弱音を、最後まで聞いておりませんもの」
「弱音と言うか。やはり手厳しいな。あなたは」
「ええ、だから許して差し上げません」
夕璃は狼炎の手に、もう片方の手を重ねる。
「この夕璃は、狼さまの弱音をすべて受け入れる者となりましょう。それがどんなものであれ、裁いたり、評価したりはいたしません。だって、わたくしたちは家族なのですわ。今だけは市井の家族のように、お話をいたしましょう」
「わかった。だが、長くなるかもしれぬぞ」
「構いませんわ」
「夜遅くまでかかるかもしれぬ」
「そうなったら眠ってしまいます。そうすれば、すべては夢になりましょう」
「夢……か」
「ええ。夢ですわ」
気づくと、狼炎と夕梨は、樹の根元に腰を下ろしていた。
草にまとわりついた夜露が、ふたりの服の裾を濡らす。
従者がいたら驚いただろう。太子と、王弟の娘がすることではない、と。
けれど、ここに誰かが来ることはない。
人払いは済ませてある。
夕璃の願いを受け入れた、燎原君の手配によって。
だから、誰かがふたりの話をさえぎることはない。
狼炎と夕璃は、子どもの頃のように話を続ける。
そうして夜が更けるころ、狼炎は立ち上がる。
眠そうな顔の夕璃に手を差し出して、立ち上がらせる。
「もう……いいんですの?」
「まだ弱音は残っているが……次の機会に取っておくことにする」
「約束ですわよ?」
「ああ」
庭園を出た狼炎は、侍従を呼び、燎原君の屋敷へと使いを出した。
やがて、燎原君の屋敷から、馬車がやってくる。
夕璃はなにごともなかったかのように馬車に乗り込む。
狼炎もまた、去って行く馬車を、無言で見送った。
そうして、馬車が見えなくなったあとで──
「とても楽しそうだが……夢物語だな、それは」
「なにかおっしゃいましたか? 狼炎殿下」
「いや、なんでもない。遅くまでご苦労だったな」
そう言って、狼炎は自室へと向かう。
兆家のふたりを死なせた事実は、消えない。
これも狼炎が『不吉の太子』である証拠として、噂になるかもしれない。
それでも──
「この狼炎と共にいて……叶わぬ夢を見てくれる人がいる。今は……それでいい」
太子狼炎は優しい笑みを浮かべて、つぶやく。
そうして彼は、おだやかな眠りについたのだった。
次回、第163話は、次の週末の更新を予定しています。
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