第113話「太子狼炎、牢を訪れる」
北の砦には2種類の牢獄がある。
ひとつは、敵の捕虜を収容するためのもの。
ひとつは、罪を犯した味方の将兵を収容するためのものだった。
今、将兵用の牢獄には2人の人間がいる。
西の陣地を任されていた景古升と、参謀の薄完だ。
彼らの罪は命令を無視して兵士を動かしたこと。その結果、兵士に犠牲者を出したことだ。
さらに、景古升たちが出陣した直後、西の陣地は壬境族の攻撃を受けている。
それを防げたのは、太子狼炎の部隊が間に合ったからだ。そうでなければ、陣地は破壊され、壬境族は藍河国に侵入していた可能性もある。
ふたりの罪は、軽くはないのだった。
「……違う。こんなはずではなかったのだ。私は……」
牢からは、薄完の声が聞こえていた。
「私は、殿下の仇敵を討つために……なのに……どうしてこんなことに」
薄完の問いに答える者はいない。
隣の牢にいる景古升は、目を閉じ、静かに座っている。
隣で『申し開きの機会を!』と叫ぶ薄完の声にも、まったく反応しない。
すでに景古升は、覚悟を決めているのだろう。
「…………む」
しばらくして、景古升が目を開く。
牢に通じる廊下に、足音が響いたからだ。
立ち上がった景古升の視界に、灯りが映る。
灯火を手に、誰かが牢に近づいてくる。
「西の陣地の部隊長であった景古升、および参謀であった薄完に伝える」
聞こえたのは、『飛熊将軍』黄英深の子、海亮の声だった。
「ふたりと、話をしたいというお方がいる。『飛熊将軍』の許可のもと、ここにお連れした。心して、話をするように」
反射的に一礼した景古升が──すぐに床に膝をつく。
海亮の後ろにいる人物の姿が見えたからだ。
「…………狼炎殿下。どうして、このような場所に」
「狼炎殿下!?」
景古升は床に額をつける。
その隣の牢で薄完は、牢と廊下をさえぎる格子に駆け寄る。
「藍河国の太子、藍狼炎である」
やがて、海亮の後ろから、太子狼炎が進み出る。
「貴公らは罪を犯した。その罪状を決めるのは『飛熊将軍』だ。だが、その前に、貴公らの話を聞きたい。この狼炎のわがままに、付き合ってもらえるだろうか」
太子狼炎はおごそかな口調で、そんなことを言ったのだった。
「ああ! 狼炎殿下!!」
薄完は目を輝かせた。
彼はすぐさま床に額をこすりつける。
「殿下がこのような場所にいらっしゃるとは……私たちの話を聞いてくださるとは……この薄完、感激でございます!!」
「薄完。貴公は兆叔父の……いや、兆石鳴の部下だったか」
「さようでございます」
頭を下げたまま、薄完は答える。
「このような姿で殿下の前に出る自分を……恥じるばかりでございます」
「顔を上げよ。薄完。景古升もだ」
「はい。殿下」「承知いたしました。殿下」
隣り合った牢の中で、薄完と景古升が顔を上げる。
景古升は目を伏せたまま、無言だった。
薄完は目を輝かせて、救われたような表情だ。
「まずは、薄完に聞きたいことがある」
そんな薄完に視線を向けて、狼炎は、
「貴公は兵士たちを扇動し、部隊長であった景古升の兵権を侵した。その上で、『飛熊将軍』の許可なく部隊を動かした。その結果、部隊は敵兵の待ち伏せにあった」
狼炎は落ち着いた口調で、話し始めた。
「その結果、貴公は部隊の兵士を死なせた上に、みずからが守るべき西の陣地を窮地に陥れた。この内容に、間違いはないか」
「ございません。ですが……」
薄完は声をあげる。
「自分は、狼炎殿下の仇敵を討つために兵を動かしたのです! 敵将ゼング=タイガは狼炎殿下を襲った邪悪な敵であります! あの者を討つ機会を逃すわけにはいかなかったのです!!」
「貴公らが見つけたゼング=タイガは偽物だったと聞いているが」
「偽物でも討たなければなりません! さもなくば、我らは殿下の敵を見逃した臆病者とそしられることになります!!」
額を床にたたきつけながら、薄完は続ける。
「殿下を傷つけようとした者を、藍河国の者は決して許してはなりません。我々は、それをあらゆる者たちに知らしめる必要があります! それこそが殿下の叔父上……兆石鳴どのの意思でもあります。兵を失ったのは私の罪です。ですが、これも殿下の仇敵を倒すためで──」
「私の仇敵を討ち、私を傷つけることは許さないということを知らしめる、か」
「さようでございます!」
「だが、それは貴公の役目ではあるまい。薄完よ」
淡々とした声に、薄完が目を見開く。
黄海亮が持つ灯火に照らされながら、狼炎はただ静かに、薄完を見ていた。
激することも、声を荒げることもない。
「貴公の役目は、西の陣地を守ることだ。そのために貴公は北の砦に派遣され、『飛熊将軍』からも、そのように命じられていたはず。違うか?」
「そ、それは……」
「兆石鳴や貴公がゼング=タイガを討とうと考えたのは、私事であろう。だが、貴公はそのために兵を預けられたわけではあるまい。貴公が兵を率いていたのは、陣地を守るという公務のためだったはず」
「…………殿下」
薄完の身体が、震え出す。
狼炎はただ、静かに薄完を見据えている。
目を怒らせることもなく、ただ、痛々しいものを見るような表情だった。
薄完は兆石鳴の腹心だ。狼炎を見たことは、何度もある。
だが、今の狼炎と、兆石鳴の側にいたころの狼炎は違う。
かつての狼炎はすぐに声を荒げていた。怒りに大声をあげることもあった。それに比べて、今の狼炎は静かすぎる。
なのに、凄まじいまでの威厳を感じるのだ。
「……で、殿下のお怒りは、ごもっともです」
「怒ってなどいない」
狼炎は頭を振った。
「ただ、残念には思っている」
「残念……とは」
「優秀な人材を失うかもしれぬのだ。残念に思って当然であろう」
おだやかな口調で、狼炎は続ける。
「貴公は北臨の近くの町を、よく治めていたと聞いている。知識もあり、内政に向いた人物ではあるのだろう。そのような人材を失うのは国にとっての損失だ。私はそれを、残念に思う」
「で、殿下! 私は……」
「言いたいことがあるなら、聞こう」
狼炎は手を振り、薄完に立ち上がるように促す。
「貴公がなにを考えていたのか。兵を失ったことについて、どう思っているのか。この狼炎に話すがいい。それがどのような言葉であっても、構わぬ」
「殿下……私は……」
「ただし、それよって貴公への刑罰が変わることはない。貴公への罰を決めるのは『飛熊将軍』だ。この狼炎が彼の兵権を侵すことはない。ただ、貴公の行いの原因が、この狼炎にあるのであれば……」
狼炎は目を閉じ、拳を握りしめる。
それから──意を決したように、
「貴公は……私を恨んでもよい」
「殿下!?」
「仮に貴公が兆叔父より、ゼング=タイガを討つようにと命じられており……それに従って兵を動かしたとしたら……その原因は、この狼炎もあるのだろう。私が兆叔父を遠ざけたことが、彼を焦らせ、このような行動に駆り立てたのかもしれぬ」
「で、殿下!? そのようなことは……」
「ならばなぜ、貴公はゼング=タイガを討つことにこだわったのだ? 我を忘れ、目の前の餌に飛びついたのは、兆家の命令があったからであろう?」
「お、おっしゃる通りです。ですが……命令をされたのは、兆石鳴どので……殿下では……」
「この狼炎は王太子だ。そして、兆石名は私の叔父で、兆家は私の外戚なのだ。私は……無関係ではない」
狼炎はまっすぐに薄完を見据えながら、
「私は、兆叔父と話をつけるべきだった。もはや私が『不吉の太子』の異名にこだわっておらぬことを伝えて、叔父を説き伏せるべきであった。それを避けたため、このような不吉な結果が生み出されたのだろう」
「……殿下……狼炎殿下!!」
「無論、貴公が功を焦って暴走したことにかわりはない。ゆえに、貴公は処罰されねばならぬ。ただ、貴公にはこの狼炎を恨むことを許す」
「………………殿下」
「この狼炎は『不吉の太子』である。貴公の恨みや不吉が増えたところで、どうということはない。だが、他の者は恨むな。『飛熊将軍』や海亮、景古升や兵士たちを恨むことは、この狼炎が許さぬ。ゆえに──」
「申し訳……ございませぬ! 殿下!!」
がんっ。
薄完は、地面に額を叩きつけた。
「私が……間違っておりました。ですが! 兆家の方々は、殿下のおんために……」
震える声で、薄完は話し始めた。
──狼炎の信頼を失った兆石鳴が、功績を立てる機会を狙っていたこと。
──兆石鳴より兵士たちに『ゼング=タイガを見つけしだい討つように』という命令が下っていたこと。
──その命令の通りに、薄完が兵を動かしたこと。
そして──
「兆家は、殿下の異名を消し去るために、必死なのです」
──薄完は、そんなことを言った。
「ですから殿下。ご自身であの異名を口にするのはおやめください。兆家は殿下に、そのような思いをさせたくないと──」
「私は『不吉の太子』の異名を消したいとは思っておらぬ。むしろ、異名に捕らわれているは貴公や、兆家だ」
狼炎は静かな口調で、告げた。
「貴公と兆叔父の『不吉の太子』へのこだわりが、結果として、不吉な結果をもたらした。異名などは、ただの言葉だ。あの異名に捕らわれることこそが不吉なのだ」
「…………殿下」
「他に申し述べることはあるか? 薄完」
狼炎はたずねた。
返事は、なかった。
薄完はただ、床に額をこすりつけ、謝罪するだけだった。
「景古升に告げる」
狼炎は隣の牢の前へと移動する。
「貴公の処罰についても、この狼炎は口を出せぬ」
「承知しております」
「それでも、言いたいことがあれば聞くが」
「ございませぬ」
景古升は頭を下げた。
「自分が身勝手にも兵を動かしたことは事実です。責任は、私にあります」
「だが、兆家の兵たちは証言していた。自分たちが勝手に動いたのであり、景部隊長を罰しないで欲しいと。それは私も『飛熊将軍』も聞いている。そのことは伝えておく」
「……はい。殿下」
「……ここからは、この狼炎のひとりごとだ」
狼炎は、景古升の牢に近づき、声をひそめて、
「……貴公は窮地にあっても兵を見捨てず、みずからも生き残った。仮に……『不吉な人間』がいたとしたら、貴公のような者を、側に置きたがるだろう」
その言葉に、景古升が思わず顔を上げる。
彼は目を見開いて、狼炎を見た。
狼炎が真剣な表情なのを見て、また、頭を下げる。
「不吉な人間のそばで民を守るのは危険が伴う。危機からも、不吉からも逃げることは許されぬのだからな。だが、貴公のような者であれば、ともに不吉に立ち向かえるかもしれぬ」
「……で、殿下」
「ひとりごとだ。答えはいらぬ。ただ、覚えておいてくれればよい」
狼炎は景古升に背中を向けた。
「話は終わりだ。景古升および薄完よ。『飛熊将軍』の裁きを待て」
そう言って狼炎は、牢から立ち去った。
景古升は呆然と、その背中を見送っていた。
薄完は座り込んだまま、ただ、涙を流すだけだった。
そうして狼炎とふたりの面会は、終わりとなったのだった、
「ご立派でした。殿下」
「……立派なものか」
海亮の言葉に、狼炎は思わずつぶやいた。
「この狼炎はまったく成長していない。私は……薄完を斬り捨てたいと思ってしまった。あの場に私ひとりだったら、剣であの者の心臓を突き刺していたかもしれぬ」
「……殿下」
「『不吉の太子』の異名に踊らされた者を見るのは……つらいものだ。この狼炎が『不吉の太子』として誹られるのは構わぬ。だが……あの異名が人を動かして、不吉な結果をもたらすのは嫌なのだ。どうしようもないことだと、わかってはいるのだが……」
薄完は『不吉の太子』の異名の影響で暴走したようなものだ。
彼を殺しても、その事実は消えない。
むしろ逆だ。薄完を殺せば『不吉の太子』の異名は、ますます広まることになるだろう。拭っても落ちない、ねばついた泥のように。
「事態が落ち着いたら、私は北臨に帰る」
深呼吸してから、狼炎は言った。
「そこで兆家と話をつけることにしよう。本当ならば、海亮にも同行して欲しいのだが……」
「申し訳ありません」
「わかっている。無理は言わぬ」
海亮とガク=キリュウは優秀な指揮官だ。
景古升と薄完が牢に入っている今、海亮たちを動かすことはできないのだ。
「謝る必要はない。この地を守るには、海亮の力が必要だからな」
「はい。ですが……」
「どうした?」
「私の代わりに、弟がお役に立てるかもしれません」
海亮は拱手して、告げた。
「私は次の春まで北臨に戻れませんが、天芳は違います。弟は、国境地帯の小競り合いが終わったら、北臨に戻ることになるでしょう」
「海亮の弟を側に置け、と?」
「天芳が同意してくれればですが」
「弟であろう? 兄が命令すればいいのではないか?」
「天芳に命令するのは気が進みません。というよりも、命令では天芳の能力は引き出せないと思います」
海亮は苦笑いして、
「弟は規格外の人間です。また、彼のまわりには優秀な人材が揃っています」
「そうだな。海亮の弟は、かつてこの狼炎を助け、今回は景古升を救っている。そんなことは、他の誰にもできなかっただろう」
「仮に命令したなら、天芳は言葉通りに殿下をお守りするでしょう」
「……う、うむ」
「ですが、私が殿下を守って欲しいとお願いすれば、天芳と、そのまわりにいる者すべてが、殿下のお力になるかもしれません」
「そういう者なのか? 海亮の弟は」
狼炎は顎に手を当てて、考え込むようなしぐさをした。
「海亮は言っていたな。『天芳は私の想像を超えて成長している。最近は、私が弟に学んでいるような気がする』と。つまり……この狼炎にも、自分の弟から学べ、と?」
「いえ、殿下。そこまで申しては……」
「わかっている。戯れ言だ」
狼炎はにやりと笑って、うなずいた。
「承知した。兆家と話を付けるときには、黄天芳を側に置くことにしよう」
「私からも、天芳に申しつけておきましょう」
「そうだな。だが、お前の力も必要なのだぞ。我が友」
「その言葉に恥じぬよう、お仕えいたしますよ」
「……この狼炎は、幸運には恵まれなかったが、友人と部下には恵まれているな」
狼炎は天を仰いで、そんなことを言った。
「天は、不吉を背負って生まれてきたこの狼炎に、不吉を乗り越えるための部下と友と……姉と呼べる人をくれたのだろう。あとは自力で乗り越えろ、とな。ならば、やれるだけはやってみる。どうせこの狼炎のことだ。不平や泣き言も口にするだろうが……それは海亮か夕璃どのに聞いてもらうとしよう」
「承知いたしました。殿下」
「ではさっそく、酒に付き合ってもらおうか。愚痴ならば山ほどあるのだからな」
そう言って、狼炎はまた、海亮の肩を叩いた。
そうして狼炎は海亮とともに、黄英深の元へと戻っていったのだった。
今週は1話だけの更新になります。
次回、第114話は、次の週末の更新を予定しています。