第108話「藍河国の軍勢、北の地で壬境族と戦う(3)」
「…………生きてる。生きているぞ。私は」
数十分後。
危険地帯から逃げ延びた薄完はつぶやいた。
彼は馬の背にしがみつき、ため息をついた。
薄完の後ろを進むのは、槍を手にした景古升だ。
彼は殿軍となって敵騎兵と戦いぬいた。甲は壊れ、手足も傷だらけだが、致命傷は受けていない。
敵に、ゼング=タイガはいなかった。
それが幸いした。だから、生き延びた。
犠牲は出たが、危険地帯から逃げることができたのだ。
「……異民族の分際で、我らを罠にはめるとは」
薄完は震える声でつぶやいた。
「必ずや報いを受けさせてやる。ゼング=タイガめ……」
「静かにしろ」
不意に、景古升が言った。
ここは丘陵地帯にある森だ。
道は険しいが、藍河国の国境への近道でもある。
ここを抜ければ、砦まで戻れるはずだ。
「安全地帯にたどりつく直前が、一番気が緩むものだ。注意して進め。上り坂を抜ければ見通しがよくなる。その後は一気に駆け抜けて──」
景古升がそう言ったとき、風切り音がした。
「────がっ!?」
側にいた兵士の肩に、黒い矢羽根が生えた。
どさり、と、兵士が落馬する。
地上で喉を押さえ、『ひぅー』『ひぅー』と、笛のような息を漏らしている。
「これは……毒矢か!?」
景古升は周囲を見回す。
ここは木々に囲まれた丘陵地帯だ。見通しは悪い。
どこから射られているのかわからない。
「部隊長! お逃げくださ……ががっ!?」
別の兵士に矢が突き刺さる。
薄闇の中、敵は確実にこちらを狙ってくる。そんな相手に狙われているという事実が、部隊の兵士を恐怖させる。
それだけではない。
黒い矢の他にも大量の矢が、木々の向こうから飛んでくる。
(ここにも伏兵か。だが……なぜ、毒矢なのだ?)
敵は鎧の隙間を射貫いている。
それほどの達人なら、首や顔──急所を狙うこともできたはず。
なのに──
(──いや、考えている場合ではない)
景古升は疑問を振り払う。
ここは死地だ。すべての部下を救うことはできない。
報いは受ける。薄完を止められなかった責任は取る。
一命をもって、救えなかった部下に報いる。
そんな覚悟を決めて、景古升は声をあげる。
「全速前進だ!! なんとしても陣地に戻るのだ!!」
「「「は、はい! 部隊長どの!!」」」
兆家の兵士たちが応じる。
彼らは殿軍になった景古升に救われた者たちだ。
すでに忠誠は景古升に向けられている。
彼らの最後尾について、景古升は馬を走らせる。
全力で槍を振り回すのは、可能な限り矢を払い落とすため。
それと、自分が目立つようにするためだ。
「部下たちは足を止めるな!! 情報を持ち帰るのだ!! 隠れている弓兵よ!! 狙うならば私を狙え!」
景古升も武人だ。死を恐れはしない。
だが、誰かが情報を持ち帰らなければならない。
壬境族が偽のゼング=タイガを使うことと、危険な弓兵がいること。それだけは黄海亮や太子狼炎に伝えなければ。
その一心で、景古升は馬を走らせる。
やがて、街道が見えてくる。
もうすぐたどりつく──安堵の息をついた景古升の視界に、街道を進む騎兵の影が映る。影絵のようになった小さな旗印。あのかたちは──東の陣地を預かる黄海亮のものだ
彼は事態に気づき、駆けつけてくれたのだろう。
「──来たナ。援軍ガ。あれは『飛熊将軍』の身内カ?」
不意に、かすかな声が、景古升の耳に届いた。
その瞬間、景古升は敵の目的に気づいた。
(我らは、餌か!? だから殺さなかったのか!?)
敵の狙いは黄海亮と黄英深だ。
そのために、偽のゼング=タイガを囮にしたのだ。
黄海亮と黄英深が出てくれば、取り囲んで討つ。
別の武将が出てきたなら、毒矢で動けなくして、ふたりを引きつける餌にする。
それが敵の目的だったのだ。
黄海亮も黄英深も部下思いの人物で、慈悲深い。
だから多くの兵に慕われている。
そんなふたりが、景古升たちを見殺しにするわけがない。
「誰か! 黄海亮どのに来るなと伝えよ!! この森は危険だ!!」
景古升が最後尾で声を上げる。
先頭を走っている部下は、まもなく森を抜ける。
そのまま走れば黄海亮の部隊と合流できるはずだ。その者に賭けるしかない。
そう考えて、景古升は殿軍となり、槍で矢を払いのける。
そして──
「こちらです!! 今すぐ救援を──」
先頭を走っていた薄完が、旗を振った。
彼は落馬した兵士から旗を奪い、馬上で振り回している。
街道を進む部隊に、助けを求めるために。
「なにをしている薄完! そのまま黄海亮どののところに──」
「味方と合流して敵兵を倒すのです!! このまま逃げるわけには……がっ!?」
薄完が落馬した。毒矢を受けたのだ。
あんな目立つ行動をすれば、的になるのは当然だ。
地上で痙攣して泡を噴いている薄完を、景古升はもう見ない。
森を出る直前で、景古升は馬から飛び降りる。
そのまま彼は、低い姿勢で木々の間を走り始める。
(なんとしても……黄海亮どのに状況を知らせなければ。彼を危険地帯に来させるわけにはいかないのだ!)
森を出て「来るな!」と声をあげれば、届くかもしれない。
その一心で、隠れながら進んでいく。
部下たちも彼を真似ている。地面に伏せた彼らの横を、敵兵の矢が通り過ぎる。
敵兵は隠れた自分たちを狙えない。これなら、なんとか森を抜けられる──
「──ご苦労だっタナ。餌はもういらヌ」
肉を突くような音がした。
矢が刺さる音──そう気づいた景古升が見たのは、自分の肩から生えた、黒い矢羽。
続いて感じたのは、血が沸騰するような感覚。
猛烈な吐き気と痛みに、景古升は胸をかきむしる。
(なんという凄腕だ……地上を這う者を狙えるのか……)
景古升は木々の隙間を這い進んでいた。
そのわずかな隙間を通り、敵の矢は彼を射貫いたのだ。
「……逃げよ。皆、逃げるのだ!!」
最後の力で、景古升は声をあげる。
だが、声は木々の間にこだまするだけ。
彼の部下は矢を受けて、次々に倒れていく。死んではいない。悲鳴をあげて、のたうちまわってる。森に響き渡るほどの声で。
(いかん。これは……)
自分たちは、黄海亮を引き寄せるための餌だった。
黄海亮は『飛熊将軍』の息子で、太子狼炎の親友だ。
彼を殺せば、ふたりは動揺する。
その結果、北の防衛戦は大きく揺らぐ。敵の目的はそれだろう。
(…………自害、を)
今すぐ自害するべき。
死んだ者を助けに来る必要はない。
黄海亮を逃がすことができる。けれど、しびれた腕は動かない。
部下の声が聞こえる。まだ、残っている者がいるのだ。
ひとりでいい。黄海亮のもとに走り、状況を伝えて欲しい。
そうすれば──彼を巻き込まずに済むのだ。
「頼む! 誰か、黄海亮に伝令を──」
「しぶとイ。貴様はもうイイ。誰か、あやつを黙らセヨ」
敵の声が、聞こえた。
直後、矢が飛来する音が、かすかに聞こえた。
景古升が覚悟を決めた、直後──
ざくっ。
彼の近くの地面に、矢が突き立った。
(──外した? なぜだ!?)
「救援に来ました。間に合ってよかったです」
声が聞こえた。
まだ若い、少年の声だ。
「情報は、仲間が兄上に伝えます。安心してください」
「──ぐがっ!?」
木々が揺れた。
草むらから弓兵が転がり出る。口から泡を吹き、そのまま悶絶する。
「こっちはただの弓兵か。どこにいるんだろうな。毒矢使いは」
「──何者ダ」
聞こえた声は、あくまでも冷静。
不意の敵の出現に、まったく動揺していない。
それだけ自信があるのだろう。この場にいる者すべてを射程に収め、その生殺与奪を握っているという自信が。
「──我が矢は天命により敵を射貫ク。我が矢の軌道を妨げるハ、天命に逆らうのに等シイ。楽には死なせぬゾ」
「ああ。それで師匠に『武術家殺し』を使ったのか」
「──な!?」
敵弓兵の声が、乱れた。
直後、手足を奇妙な方向に曲げた弓兵が、草むらから転がり出てくる。
それでわかった。
駆けつけてくれた者は敵の達人の意識を引きつけながら、他の弓兵を倒してくれているのだ。そんなことは一人ではできない。ならば、味方は複数いるのだろう。
そして、声の主は黄海亮を兄上と呼んだ。だとすると──
(まさか……黄天芳!? 彼が私を助けに来たのか!?)
やはり、兆家の者と黄家の者は、器が違う。
『黄家に負けるな』と命じた兆石鳴。
その命令に逆らえず──独断で動いた景古升と薄完を助けに来た黄海亮と、黄天芳。
どちらに人が付き従うか……考えるまでもない。
(薄完は、黄家の者は純粋すぎると言った。だが、人は純粋なものに憧れ、付き従うのだ。いい加減に理解するべきだな。薄完も……私も)
そんなことを思いながら、景古升は深呼吸。
声を振り絞って、叫ぶ。
「……私のことは……いい。敵を……貴公の兄を狙う敵を倒してくだされ!!」
「わかりました。でも、なるべく味方が死なないようにします」
自信のなさそうな声が返ってくる。
その声を聞きながら、景古升は自分のふがいなさに歯噛みする。
(兆家のつまらぬ意地のせいで、有意の人材を危機にさらしたか。なんと愚かな!)
よし。自害しよう。
戦いが終わり、黄天芳たちが死んでいたら、自害する。
景古升は決意を固めた。
そして、景古升からは見えないところで、黄天芳と毒矢使いの戦いが始まったのだった。
次回、第109話は、次の週末くらいの更新になります。