第106話「藍河国の軍勢、北の地で壬境族と戦う(1)」
──数日後、北の砦近辺では──
北の砦の周囲には、2つの陣地が設置された。
壬境族の侵入を防ぎ、北方の村を守るためだ。
以前、太子狼炎の部隊が、盗賊に化けた壬境族に襲われたことがある。
彼らは少数で警戒網をくぐり抜け、藍河国の領土に入ってきた。
騎馬民族である壬境族は、乗馬の術に長けている。
強い者は切り立った岩場や、山地をたやすく越えてくる。
さらに、それが少数ならば、人目につきにくい。
結果として、太子狼炎がゼング=タイガと戦うことになり、『狼騎隊』の者たちが命を落としたのだ。
同じような事態を防ぐために、『飛熊将軍』黄英深は、砦の近くに陣地を作った。
東にひとつ、西にひとつ。
周囲を柵で囲み、見張り台を設置した、強固な拠点だ。
東の陣地を守るのは、黄海亮。
補佐役として、ガク=キリュウ。
西の砦を守るのは、北臨からやってきた部隊長と参謀だった。
部隊長の名は景古升。
参謀の名は薄完。
景古升は長年、北臨の警備を担当していた者。
そして薄完は『奉騎将軍』だった兆石鳴の部下だった。
──西の陣地 (景古升の指揮下)にて──
「景部隊長に申し上げる」
東の陣地からやってきた使者は、陣地の指揮官である景古升に告げた。
「黄海亮さまより問い合わせです。各陣地は日に3度、伝令を砦とそれぞれの陣地に送ることになっております。なのに、東の陣地への伝令が来ないのはどうしてですか?」
「……そのことか」
景古升は苦々しい口調で、使者から視線を逸らした。
陣地は連絡を密にするように『飛熊将軍』に命じられている。
午前と昼、夕方に伝令を送るようになっているのは、そのためだ。
なのに、西の陣地が送り出す伝令は、日に1度。
求められている回数の3分の1だ。
それは景古升の本意ではないのだが──
「申し訳ない。我々はこの土地に来たばかりで、警戒態勢を整えるので精一杯なのだ」
──本心を隠したまま、景古升は答えた。
「まずは防衛のために、陣地を完全にすることが優先だと考えている。少し時間をもらえないだろうか」
「ですが!」
「すぐに準備はできる。もう少しだけ──」
「報告すべきことがないから、使者を送っていないのですよ」
景古升の背後から、甲高い声がした。
振り返ると、細面の男性が立っていた。
兆家から派遣されてきた参謀、薄完だ。
「西の陣地は落ち着いております。ゆえに、伝令を送る必要はないと判断しました」
「話しているのは私だぞ! 薄完!!」
景古升は思わず叫んだ。
その言葉に薄完が目を見開く。まるで手ひどい裏切りにあったような──景古升が自分の味方をしないことが信じられないような、そんな顔だった。
(……自分は貴公と違うのだ。薄完どの)
景古升はもともと、百人の部下を率いる百人隊長だった。
陣地のひとつを任されるような地位ではなかった。
彼が抜擢されたのは、元『奉騎将軍』兆石鳴の力によるものだ。
兆石鳴は太子狼炎の不興を買い、失脚した。
功績により罪を償うことを望んではいたが──その機会が得られなかった。
北の砦に行くことも、太子狼炎により却下された。
だから兆家は、腹心の部下である薄完を北の砦に派遣することにしたのだ。
その部隊長に景古升が抜擢された理由は──
(妹が、兆家の末子……兆季どのの妻だからだろうな)
兆季は10代後半。景古升の妹とは結婚したばかりだ。
貴族の家に行儀見習いに行っていた妹と、兆季が見初めたらしい。
父の兆石鳴、兄の兆昌括と違い、おだやかで真面目な人物だ。夫婦仲もいい。
だが、兆家が没落してしまっては、妹も無関係ではいられない。
景古升も、妹には幸福でいて欲しいと思う。
(それに……兆季はいい若者だからな)
それで景古升は兆家の依頼を受けて、北の地の守りにやってきたのだった。
部下は腹心の兵士100人と、兆家の兵士900人。
百人隊長だった彼にとって異例の出世だけれど、うれしいとは思わない。
武力しか取り柄のない彼の身体は傷だらけだ。
そのほとんどが、部下をかばって受けた傷だった。
部下が100人でもこの有様だ。部下が1000人になったら身が持たない。
(本当は、私には百人隊長が限界なのだがな……妹のためだ。やるだけやってみよう)
景古升は、北臨で兆石鳴が言った言葉を覚えている。
『黄家に負けるな』だ。
その言葉を聞いた景古升は、兆家と黄家が権力争いをしているのだと思っていた。
北の砦に来て、それが勘違いだと気づいた。
黄英深も黄海亮も、権力に興味をもっていない。
兆家が一方的に、黄家を目の敵にしているだけだったのだ。
その兆家の意を受けた薄完は、伝令さえもまともに出そうとはしない。
景古升が直接部下に命じても止めてしまう。
それで黄海亮から、問い合わせの使者が来ることになったのだった。
「黄海亮どのから、もうひとつ伝令がございます」
そんな景古升に向かって、使者は告げる。
「本来、この陣地には景部隊長の補佐として、客将のガク=キリュウどのが就任することになっておりました。なぜ、拒まれたのですか?」
「それは──」
「我が兵が、戊紅族を信頼していないからですよ」
答えたのは、薄完だった。
「景どのが率いる兵たちは、亡き皇后陛下の身辺を警護してきた者たちです。その者たちが異民族の指示で動くなどありえませぬ」
「ガクどのは壬境族の武将を倒しています。また、彼を採用したのは王弟殿下で──」
「黄海亮どのがガク=キリュウを推薦するのは、彼を王都に連れ帰ったのが弟君だからでは?」
薄完の言葉に、使者の表情が凍り付いた。
「黄家の方は、我が陣地にも影響力をおよぼしたい。ゆえに、ガク=キリュウを配置せよとおっしゃっているのですか?」
「言葉がすぎるぞ! 薄完!!」
思わず景古升は叫んでいた。
「使者は私と話をしているのだ! これ以上、口を挟むな!!」
「……失礼いたしました」
薄完は一礼する。
表情は穏やかで、笑みを絶やしていない。
なのに眼光だけが鋭く、景古升を見据えている。
「部下の無礼をお詫びする」
景古升はうやうやしい口調で、拱手した。
「今後は日に3度、伝令を送ることをお約束する。黄海亮どのにもそのようにお伝えいただきたい」
「承知しました。それでは」
一礼して、使者は自陣へと戻っていった。
それを、景古升は、
「黄家の方々は純粋に国のことを考えていらっしゃるのだ。変な勘ぐりをするな。薄完」
「存じ上げております。黄家の方々は、友人にするにはいい方々です」
薄完は皮肉っぽい笑みを浮かべていた。
その表情を不審に思った景古升は、
「……なにが言いたい?」
「黄家の方々は純粋すぎます。世渡りは難しいでしょう。平時ならともかく、世が乱れたらつまづくことでしょうね」
「不吉なことを申すな!」
「これは失礼。ですが、景どのは私に協力してくださるのでしょう?」
薄完は笑みを浮かべた。
「兆家が力を取り戻せば、兆季どのには栄達の道が開けます。景どのの妹君も、他者に仰ぎ見られる立場になるのです。そのためにも……」
「妹は、自分が人の上に立つことなど望んでいない」
景古升と妹はよく似ている。出世を望まないところがそっくりだ。
兆家が没落したとしても、変わらずに夫の兆季を支え続けるだろう。
「私がここに来たのは、妹に良い生活をさせたいだけだ。すべては私のわがままなのだ……」
「ならばなにも変わりません。私たちの目的は一致しています」
薄完は胸を張った。
「狙うはゼング=タイガの首ひとつ。そうでしょう?」
「奴を放置するのが危険だということはわかる。国を守るのが私の役目だからな」
そんなことを語りながら、景古升は兵士たちの前に立つ。
前方にいるのは腹心の部下たち、100名。
背後にいる900名は、兆家が用意してくれた兵士たちだ。
彼らは景古升と薄完の姿に歓声を上げる。
士気は高い。
景古升の部下は、信頼できる隊長とともにいることを喜び、兆家の兵士はゼング=タイガを討つ気迫に満ちている。
「狙うのは、ゼング=タイガの首ひとつです!」
薄完は景古升に告げたのと同じ言葉を、兵士たちに叩きつけた。
「狼炎殿下を襲った壬境族の王子をほふり、我らの力を示しましょう!!」
「「「おおおおおっ!!」」」
部下たちが声をあげる。
『壬境族の王子、ゼング=タイガの首』
それは、出世を願う者にとって、最大の手柄首だ。
強敵と聞いているが、すでに奴は右腕を失っている。討つのは難しくない。
兆家は勢力を取り戻すために、ゼング=タイガを討つことを望んでいるのだ。
「では、景どの。お言葉を」
「……あぁ。そうだな」
少し考えてから、景古升は、
「偵察兵はすでに出している。ゼング=タイガの居場所はすぐにわかるだろう。奴には特徴がある。『黒髪』『隻腕』『武器は大槍』『乗騎は黒馬』だ。奴の居場所を特定し、戦端を開くと同時に、奴を討つ。これが我らの目的だ」
兆家からは、偵察専門の兵士を派遣されている。
彼らなら、無事に情報を持ち帰ってくれるだろう。
「すでに狼炎殿下は北の砦に入られている。あの方に、ゼング=タイガを討ち取ったことを報告するのだ。ただし、事は慎重に進めよう。できれば東の陣地に──」
「東の陣地に対しては内密に動きます」
睨まれた。
薄完だけれはなく、兆家の兵士たちからも。
彼らは本気で、功績を独占するつもりなのだ。
「合戦になったら黄家と協力します。ですが、我々がその前にゼング=タイガを発見した場合は──」
自分たちの手で、討ち果たす。
そんな言葉を、薄完は兵士たちに告げた。
兵士たちから歓声が上がる。
そうして、彼らは出陣の準備に入り──
──数時間後、『国境付近で、盗賊に化けたゼング=タイガを発見した』という報告を聞くことになるのだった。
次回、第107話は、明日か明後日くらいに更新する予定です。
(今週末は3話、更新する予定です。たぶん、できると思います……)