第105話「トウゲンとリーリン、帰郷の途につく」
──トウゲン視点──
灯春の町を出たトウゲンたちは、北に向かって馬を進めていた。
「いい旅でしたね。姉上」
「まったくです。旅をすると、新たな発見があるものですね」
「わかってもらえましたか。では、次の放浪は──」
「今回は特別です! 特別ですからね!?」
念を押してから、リーリンは穏やかな表情で、
「ですが、よい出会いがありました。藍河国にも信頼できる方がいるのですね」
「彼らと戦いたくはないですね」
トウゲンは馬上でため息をついた。
「残念です。壬境族と藍河国が交戦状態でなければ──」
「『黄天芳どのにお仕えしたのに』とか言わないでくださいよ。若さま」
リーリンは横目でトウゲンを睨んだ。
彼女の腰には、天芳からもらった帯留めがある。馬のかたちが彫られたものだ。派手さはないが、頑丈そうだ。
トウゲンに良い友ができたことをよろこびながら、リーリンは、
「若さまがあの方を気に入られたのはわかります。ですが、若さまにはシメイ氏族の長の役目があるのです。他国に行かれては困ります」
「わかってます。今の私は氏族の長です」
トウゲンはうなずいた。
「私が黄どのにお仕えするとしたら……責任を果たして、役目を引き継いだあとになるでしょう」
「ご自覚があるようでなによりです」
「それより姉上。さっきから帯留めに触れていますね」
「はい。飾り物は苦手ですが……これは、いいものです」
「帯留めとは、黄どのもよい趣味をしてらっしゃる」
「ですが……若さま」
「なんですか、姉上」
「黄どのはご存じなのでしょうか。壬境族の者に装飾品を贈るのには、意味があるということを」
「知らないと思いますよ」
トウゲンは腰の袋に触れた。
左の袋には筆と墨が、右の袋には紙と、トウゲンが市場で買った物が入っている。
それを大事そうになでながら、彼は、
「ですが、ちょうどいいですね。帯留めには『友であることを忘れぬよう』という意味がありますから」
「『帯を留めるように、友情をつなぎ止める』の意味ですね」
「黄どのがその意味をご存じなら、帯留めは私に贈ってくださったでしょう」
「……若さま」
「なんですか。姉上」
「もしかして、この帯留めが欲しいのですか?」
リーリンはいたずらっぽい表情で、トウゲンを見た。
「若さまは『自分こそが黄どのの友』と思ってらしたのでは? なのに帯留めをもらえなかったのが悔しいのではないですか?」
「私は……そんな顔をしていますか?」
「私は若さまの乳姉弟です。一番近い家族であると自負しております。若さまの表情くらい、簡単に読み取れるのです」
「ならば姉上は、まだまだですね」
「……なんですと?」
「私も黄どのにならって、姉上に贈り物をしようと考えているだけですよ」
トウゲンは右の袋から、円形のものを取り出した。
半透明の石と、革を組み合わせて作られたものだ。
それが陽の光に、淡く輝いている。
「これは灯春の市場で買った翡翠の腕輪です」
日の光に透かすように、トウゲンは腕輪を掲げる。
それから彼は、腕輪をリーリンに差し出した。
「姉上に差し上げます。壬境族の男性が女性に腕輪を贈る意味は、知ってますよね?」
「もちろんです。男性が女性に腕輪を贈るのは結婚を申し込むときで……え? 若さま……ほ、本気ですか!?」
リーリンは馬上で目を見開く。
「若さまが私に結婚の申し込みを? 今!? ここで!? どうしてですか!?」
「ほら、炭芝どのに、黄どのたちを送り届けた礼金をいただいたじゃないですか」
「い、いただきましたが?」
「なにに使おうか考えていたら、市場で姉上に似合いそうな腕輪を見つけたのです」
「み、見つけたのですね!?」
「せっかくなので、姉上に差し上げようかと」
「差し上げようかと、ではありませんよ!! 若さま!!」
リーリンは思わず胸を押さえる。
「突然すぎます! 私、心の準備がまったく……」
「突然ではありませんよ。だって、姉上はずっと言ってたじゃないですか。『シメイ氏族の長としての自覚を持ってください』と」
トウゲンは真面目な顔でうなずきながら、
「氏族の長になったからには、先のことも考えなければいけません。この機会に身を固めるのは、自然なことではないでしょうか」
「私でいいのですか……?」
「姉上がいいのです」
「…………うぅ」
「よくお考えください。乳姉弟である姉上のほかに、私の手綱を握れる者がいますか?」
「いません!」
「でしょう?」
「放っておけばふらふらと、どこかに行ってしまう若さまを止められるのは……わたしくらいでしょう。それは間違いないのですが……」
「意見が一致しました。気が合いますね。私たち」
「乳姉弟ですからね!? 長い付き合いですから!!」
「その付き合いを、これからも続けたいと言っているのですよ」
「お気持ちはわかります! だからって、だからってぇ……」
「姉上。腕輪、受け取ってもらえないのですか?」
「受け取りますけど!?」
リーリンはトウゲンに向かって手を伸ばす。
その手首に、トウゲンが翡翠の腕輪を通す。
それをじっと見つめながら、リーリンは震える声で、
「わ、私が若さまの妻に。でも……どうして今。このときに……」
「私が姉上と結婚したくなっただけですよ」
「いいえ、若さまのことです。なにかたくらんでいるに違いありません!」
「そんなことはないですよー」
「あります! 若さまがなんの考えもなく、私を妻にするはずが……いえ、私も若さま以外の相手は考えられませんけど。うれしいですけど。でも、私がシメイ氏族の長の妻になるなんて……私が若さまの次に、氏族の長の継承権を持つ者になって……」
「…………あ」
トウゲンが「しまった」という顔になる。
乳姉弟のリーリンが、その変化を見逃すことはない。
彼の意図に気づいたリーリンは眉をつり上げ、トウゲンをにらみつける。
「若さま!」
「姉上……いえ、リーリン。愛しています」
「今それを言いますか!?」
「私が姉上に嘘をついたことがありますか?」
「ないですよ? 黙っていなくなったことはありますけどね!」
「それならいいじゃないですか?」
「は、はい。私も若さまを愛して……じゃなくて! 話を逸らさないでください!」
「逸らしてなんかいません。私は愛するリーリン姉上に……」
「若さま!」
「はい」
「私と結婚すれば、いざというとき、私に氏族の長を押しつけて逃亡できると思っていませんか? その後、藍河国に入って、黄天芳どのの部下になるつもりなのでは!?」
「そんなこと思っていませんよ?」
「こちらを見て言ってください」
「…………あんまり思っていません」
「少しは思っているのではないですか!」
「姉上、心から愛しています」
「そこで本音を混ぜるのはやめてください!」
リーリンは馬上で頭をかきむしる。
彼女はトウゲンの乳母の娘だ。同じシメイの氏族ではあるけれど、血縁関係はほとんどない。それでもリーリンは乳姉弟として、幼いころからトウゲンの側にいた。ずっと家族同然に育ってきた。
氏族の中で、もっともトウゲンに振り回されてきたのはリーリンだ。
だから、大抵のことではおどろかないつもりでいた。
けれど、これは予想外すぎる。
まさか自分がトウゲンと結婚することになるとは思っていなかった。
いや……トウゲンが他の誰かと結婚するところは想像できないのだけれど。他の者とトウゲンが結婚しても冷静でいられるのかと言われると困るのだけれど。そもそも自分がトウゲン以外の者に嫁ぐことなど想像もできないのだけど!!
「……うれしいのは間違いありません。それに……シメイ氏族にとっては、いい話でもあります」
シメイ氏族は、壬境族の穏健派に加わったばかりだ。
そこにトウゲンの婚礼話が飛び込んできたら……大騒ぎになるのは間違いない。
穏健派のハイロン=タイガは大喜びするだろう。
砦をあげての婚礼が行われるはず。もちろん、反対する者などいない。
リーリンはトウゲンと結婚して、一緒に暮らすことになる。そのうち子どもも生まれるだろう。みんな祝福してくれるはず。シメイ氏族や、穏健派の仲間たちに愛されながら、子どもはすくすくと育ち……やがてシメイ氏族の長になるだろう。
(いえ……もしかしたら、シメイ氏族の長になるだけではないかもしれません……)
ゼング=タイガが倒れれば、彼の勢力は弱体化する。
そうなれば、穏健派の発言力が強まることになる。
穏健派の長であるハイロン=タイガが、壬境族を治めることになるかもしれない。
戦いを好まないハイロンのもとで、壬境族が長い平和の時を過ごすとしたら──その穏健派に祝福されて育つ子どもは、壬境族の中で、高い地位を占めることになるのではないだろうか。
ハイロン=タイガには男子がいない。
その彼に祝福されて、愛される子どもならば……壬境族の高位についても不思議はないのだ。
トウゲンとリーリンが結ばれたのは、藍河国に来たことがきっかけだ。
それを知っている者たちは、藍河国にいい感情を持ってくれるはず。
そんな彼らに祝福されるリーリンの子どもは、隣国とよい縁を保ちながら、穏やかな時代を──
(……いえ、想像をふくらませすぎですね)
リーリンはあわてて頭を振る。
(と、とにかく、私と若さまの間に子どもが生まれたら、シメイ氏族の次の世代の長になるでしょう。そうすれば皆もよろこびます。若さまも後継ぎがいれば安心して……ん? む? むむむむむむむ……!?)
馬上で腕組みをしていたリーリンは、ふと、トウゲンに視線を向ける。
「…………若さま」
「はい。姉上」
「あの、もしかしてなのですが。いくら若さまでもそんなことはないだろうと思うのですが……確認します」
「前置きが長すぎませんか。姉上」
「あの……若さまは、生まれた子どもを氏族の後継ぎにして、ご自分は気ままに放浪するおつもりなのでは……?」
「姉上。いえ、リーリン」
「なんですか。若さま」
「愛しています。生まれたときからずっと側にいたあなたに、これからも隣にいて欲しいと私は──」
「私も愛しています! 若さま以外の人に嫁ぐことなど、人生で一度も想像したことがありませんでした!!」
リーリンは真っ赤な顔で、トウゲンをにらみ付ける。
「でも、帰ったら話があります!! 結婚の申し込み方が雑すぎます!! あと、変なことをたくらんでいそうな気がしてなりません!! お説教して、あらいざらい聞き出して差し上げます!!」
こうして、トウゲンとリーリンはシメイ氏族の元へと帰り──
その後、皆に祝福されながら、結婚式を執り行うことになるのだった。
次回、第106話は、次の週末の更新を予定しています。