第103話「黄天芳と奏凰花、『万影鏡』の実験をする」
「天芳が北に向かったと聞いたとき、びっくりして……心臓が止まるかと思った」
部屋でふたりきりになったとき、小凰が真っ先に言った言葉が、それだった。
ここは、宿の部屋のひとつ。
小凰は数日前から、この部屋に泊まっているそうだ。
というか、炭芝さんは宿をまるごと借り上げているらしい。
そうして本人と護衛の人たちや、小凰と星怜の部屋を確保しているのだとか。
「心配をかけてすみません。小凰」
「……うん」
「小凰はぼくのことを心配して、炭芝さんや護衛の人たちと一緒に、ここに来たんですね」
「そうだよ。ここに泊まって2日目になるかな。天芳が戻ってくるまで、ここで待つつもりだったんだ」
「それで炭芝さんがこの宿を手配してくれたんですね。灯春で一番の宿を借りきるなんて、さすが燎原君の側近の方です。やることが豪快ですよね」
俺は言った。
「そういえば小凰は、出発前に雷光師匠や秋先生とはどんな話を──」
「その話はあとで。僕は、天芳に言いたいことがあるんだ」
じーっと俺を見ながら、小凰は言った。
話を逸らす作戦は失敗だった。
「最初に言っておくけど、僕は怒ってるわけじゃないよ。僕も、天芳が壬境族の土地に行った理由は知ってるんだから」
長い三つ編みをいじりながら、小凰はすねたような顔で、
「だけど……本当に心配したんだ。それだけは、わかって欲しい」
「……小凰」
「だって、北の地には雷光師匠に傷を負わせるほどの使い手がいたんだよね? そんな土地に、天芳と冬里さんとレキさんだけで行くなんて……心配するのは当然だよ。雷光師匠から話を聞いたとき、僕は目の前がまっくらになったんだ。師匠と秋先生が止めなかったら、そのまま北に向かって走り出すところだったんだから……」
「ごめんなさい。小凰」
そこまで心配させちゃったのか。
今思えば、俺は雷光師匠に小凰宛ての手紙を預けるべきだったかもしれない。
いや……それは無理か。
雷光師匠と小凰が会うなんて、あのときは予想もしてなかったからな。
小凰は奏真国の使節への対応で忙しいと思ってた。
それで小凰には連絡しなかったんだけど……そのせいで、心配させちゃったのか。
「今度同じことがあったら、ちゃんと、小凰には手紙を書くことにします」
「それは僕が遠くにいるときだね? 近くにいるときは?」
「ちゃんと、相談します」
「違うよ。天芳」
「え?」
「そういうときに言う言葉は『小凰。一緒に来て』だよ?」
「わかりました。そういうときは、小凰に一緒に来てもらうことにします」
「約束だよ?」
「約束します」
「……うん。天芳を信じる」
小凰はやっと、笑ってくれた。
「話を戻しますけど、小凰は雷光師匠と秋先生に会ったんですよね。ふたりはなにか言ってましたか?」
俺が聞くと、小凰は記憶をたどるように、うなずいて、
「雷光師匠は『天芳は無茶しないから大丈夫だ』って。秋先生は『冬里を一緒に行かせたから問題ない』って言ってたよ」
「そっか。冬里は秋先生の弟子で、治療の技が使えますから」
「そうじゃなくて、天芳は秋先生の娘を守ることを第一に考えるはずだって」
「……え?」
「天芳になにかあったら、冬里さんはレキさんとふたりだけで、北の地に残ることになるよね? 冬里さんは藍河国の者としてたったひとり、壬境族の中で孤立することになる。天芳は絶対に、冬里さんをそんな目に遭わせたりしないよね?」
「……確かに、そうですけど」
「だから雷光師匠も秋先生も『天芳は無理せず、無事に帰って来るはずだ』って言ってたんだ」
「ふたりが、そんなことを……」
なるほど。
秋先生が冬里の同行を許したのは、俺が無茶しないように止めるためだったのか。
「はい。だから、無茶はしませんでした」
「……わかってる」
「こうして無事に帰ってきました」
「それもわかってる」
「でも、心配かけてごめんなさい。小凰」
「うん。もういいよ。わかったから」
小凰は力が抜けたように、寝台に腰を下ろした。
「僕がすごく、すごーく心配してたって、天芳がわかってくれたなら、それでいいよ」
「これからはできるだけ、心配させないようにします」
「うん。これから僕は天芳の側で、部隊の副隊長を務めるんだもんね」
「それはうれしいですけど……よかったんですか? 小凰は奏真国の使節の応接を担当してたんですよね?」
それは小凰にとって重要な仕事だったはず。
しかも、使節の代表は小凰のお姉さんだ。
彼女を置いて灯春に来て……あとで問題になったりしないんだろうか。
「問題ないよ。僕の背中を押してくれたのは、紫水姉さんだったんだから」
小凰は言った。
「使節の人たちは、僕を送り出すことを渋ってた。でも、紫水姉さんは『姉の命令です。行きなさい』って言ってくれたんだよ」
「いいお姉さんなんですね」
「うん。まさか、あんなに簡単に許してくれるとは思わなかった」
寝台に腰掛けて、小凰は照れたように笑った。
「紫水姉さんとは、もっと仲良くなりたいな。故郷にいるときは……あんまり話をしたことはなかったんだけどね」
それはたぶん……小凰のお母さんのことがあるからだろう。
彼女は小凰が他の子どもと関わるのを嫌っていた。
それで、小凰はお姉さんと話す機会がなかったんだ。
「でも、姉さんは『これからは手紙のやりとりをすることにしましょう』と言ってくれたんだ。僕にいろいろと助言をしたいんだって」
「助言を?」
「う、うん。姉さんは美人で、色々な人から求婚されてるから……僕にも、そういうときの心構えを──」
小凰は真っ赤になった視線を逸らした。
それから、彼女は枕を抱きしめて、
「──僕の話はここまで! それより、天芳の話を聞かせて!」
「旅の報告は炭芝さんにしましたよ。小凰も聞いてましたよね?」
「炭芝さんたちには言えないこともあるよね?」
「となると……『渾沌の技』のことですね?」
「うん」
小凰はうなずいた。
「天芳は出発前に、雷光師匠と秋先生から『渾沌の技』の『万影鏡』の指導を受けたんだよね?」
「そうです。おかげで、暗殺者を捕らえることができました」
「すごいね……天芳は」
「教われば小凰も同じことができるようになりますよ」
「……うん。そうかもしれないね」
小凰は俺の方ににじり寄ってきて、
「それで『万影鏡』って、どんな技だったの?」
「自分を鏡にして、周囲の状況すべてを映し出す技でした」
俺は説明をはじめた。
──森の中で惨丁影に『万影鏡』を使ったこと。
──すると、奴の気配や動きが、はっきりとわかるようになったこと。
──その結果、惨丁影の技を打ち破って、倒すことができたことを。
「たぶん『万影鏡』は、他の『四凶の技』から、身を守るための技だと思います」
それが、俺の結論だった。
「『四凶の技・窮奇』はすごい威力でした。たぶん他の『四凶の技』も同じくらいの威力があるんだと思います。『万影鏡』は、そういう技を食らわないために編み出されたんじゃないでしょうか」
「うん……天芳の推測は、正しいと思う」
小凰は納得したように、うなずいた。
「わかった。北臨に帰ったら、僕も雷光師匠から教えてもらうことにするよ」
「そうですね。小凰が『万影鏡』を使えれば、ぼくと連携もできますから」
「他に『万影鏡』で気づいたことはあるかい?」
「ぼくが技を使ったあと、冬里は……ぼくが彼女に触れたように感じた……って言ってました」
あれが『万影鏡』の効果によるものなのかは、まだ、わからない。
もしかしたら俺と冬里が、『天地一身導引』の秘伝をしたことも、関係しているのかもしれないけど。
「冬里は、ぼくが冬里をなでていったように感じたそうです」
「…………」
「技を使っている間、ぼくも冬里の存在を感じていました。離れているのに、彼女の息づかいや、ささやき声まで感じ取れたんです。まるで、すぐ側に冬里がいるようでした」
「………………ふーん」
「これが『万影鏡』の効果なのか、『天地一身導引』が影響しているのかは、わかりません。どちらにしても、小凰にも同じことが起こるかもしれません。小凰が『万影鏡』を覚えたら、実験してみてください」
「……………………わかった。実験しよう!」
「え?」
「今、ここで、天芳が『万影鏡』を使うんだ。それで僕を感じ取ってみてくれ。冬里さんより、武術家の僕の方が、技への感覚は鋭いはずだからね。『万影鏡』と『天地一身導引』の関わりもわかるかもしれない」
小凰は胸を張った。
「そうすればぼくたちは、雷光師匠と秋先生に『万影鏡』の詳しい情報を伝えることができる。指導もやりやすくなるはずだ。そうだろう? 天芳」
「確かに……そうかもしれません」
さすが小凰だ。
師匠たちに技の情報を伝えるために『万影鏡』の実験をするなんて、考えもしなかった。
やっぱり小凰はすごいな。
俺より長く武術を学んでいた小凰は、目の付け所が違う。
……俺は、いつか小凰に追いつくことができるんだろうか。
「ところで天芳」
「は、はい。小凰」
「いつのまに『冬里』って、呼び捨てにするようになったんだい?」
「北に行っている間ですね。あのときは偽名を使って、夫婦者という設定にしてたんです。それで──」
「わかった。すぐに『万影鏡』の実験をはじめよう。今すぐ!」
小凰が俺の手をつかんだ。
「冬里さんと似た状態で実験するんだ。同じように『万影鏡』を使ってみて。いいよね? 問題ないよね? 天芳」
「も、問題ないです」
「よし。それじゃはじめよう」
小凰は満足そうにうなずいて、
「天芳が『万影鏡』を使ったとき、冬里さんは見えない位置にいたんだよね?」
「離れた場所で、木の陰に隠れてました」
「じゃあ、僕も、部屋のどこかに隠れることにするよ。天芳は耳を塞いでて」
「わかりました。窓際に立って、部屋に背中を向けてます。隠れたら合図してください。小凰の居場所がわからないように」
俺は窓の側に移動する。
しばらくして、俺の足に小さなものが当たった。
小凰が投げた硬貨だ。
それを合図に、俺は深呼吸。
『渾沌の技・万影鏡』を発動する。
──自分が透明になる。
──ふわり、と浮かび上がるような感覚。
──広がって行く感覚を、部屋の中にとどめる。
森で技を使ったときとは、少し違う。
あのときは惨丁影を見つけるために、感覚を『広く薄く』していた。
網を広げて、奴が引っかかるのを待つような感じだ。
今は、感覚を『狭く濃く』している。
たとえると……自分を液体にして、部屋いっぱいに満たすようなイメージだ。
効果範囲を狭く。代わりに感覚を鋭くする。
──見つけた。
小凰の居場所は、すぐにわかった。
彼女は寝台と壁の隙間に入り込んでる。
『獣身導引』の『狭地進蛇 (蛇は狭い場所が好き)』を使ったんだろう。
やっぱり『万影鏡』を使うと、仲間の位置を感じ取れるみたいだ。
いや……感じ取るのとは違うな。
当たり前のように、わかってしまうんだ。
ゼング=タイガと戦ったときに感じた、小凰との一体感。
それが強くなったような感覚がある。
まるで、小凰とひとつになったみたいだ。
「…………んぅ。……ん」
小凰の声も、息づかいもわかる。
冬里のときよりも、はっきりと。
これは小凰と『獣身導引』をした時間が長いからかな。
それとも『万影鏡』を部屋の中で使うか、外で使うかの違いだろうか。
……もっと感覚を狭めたら、どうなるんだろう。
『万影鏡』は『すべてを映し出す鏡』だけど、効果範囲を俺と小凰の間に限定したら?
「……やってみよう」
意識を集中させる。
感覚を研ぎ澄ます。
俺と小凰と、ふたりの間にあるものだけに意識を集中する。
世界に俺と小凰しかいなくて、小凰こそが、失われてはいけない宝玉であるかのように。
意識を、小凰だけに向けていく。
俺自身を引き延ばして、小凰に絡めて、一体化するかのように。
すると──
「──────っ!?」
──俺は小凰の姿を、はっきりと把握した。
隠れている彼女のかたちと、身体の動き。かすかな震えと、熱っぽい息。
鼓動さえもわかる。やわからな皮膚の感触と、その体温まで。
まるで俺と小凰が『気』で繋がったみたいだ。
すごいのは、俺と小凰の間にあるものを、完璧に捉えられること。
小凰と俺の間には──まず、彼女の服がある。
それから寝台が、そこに載った布団と毛布のかたちが読み取れる。
さらには椅子と机。その上には湯飲みがある。
寝台からどんなふうに毛布がはみ出しているのかさえもわかる。
「────ん。あの……天芳」
「わかってます。小凰がいるのは寝台と壁の隙間ですよね」
「そ、そっか。あのね」
「あ、寝台の外に足を踏み出しましたね。右手の人差し指と中指で、左のふとももをなでているのがわかります。俺の感覚は小凰をつかんでいます。ふとももの……このあたりですね」
「──ちょ!? 待って、あのあの!」
「大丈夫です。話をしながらでも『万影鏡』は維持できます」
「だよね!? 僕も天芳が触れてるのを感じ取ってる、から……」
「それだけじゃないです。ぼくは、自分と小凰の間にあるものがわかるみたいなんです。さっきは小凰の服の状態や、寝台の毛布のかたちまでわかりました」
「じゃ、じゃあ。やっぱり、さっき僕に触れたのは天芳の『気』で……」
「この技を使えば、もっとすごい連携技ができるかもしれません」
「……う、うん。そうだよね。わかるけど……」
「それじゃ、技を解除しますね」
俺は『万影鏡』を解除してから、目を開けた。
わかっていたけど、小凰は俺のすぐ後ろに立ってる。
顔が赤い。ちょっと熱っぽい。
技の影響なのか、近くにいると、彼女の体温が感じ取れるみたいだ。
「ぼくに小凰がわかるのは『獣身導引』を長くやっているからか、あるいは『天地一身導引』のせいかもしれません」
「……う、うん」
「ぼくと小凰の間には『気』の繋がりがあります。だから、小凰がどこに隠れていても、その存在がはっきりとわかるんです。小凰にも、ぼくがわかりましたか?」
「…………うん。わかった。すごくよくわかったけど……」
小凰は胸を押さえてる。
さっきまで鼓動が早くなってたけど、それがまだ続いてるみたいだ。
「あのね、天芳」
「はい。小凰」
「『万影鏡』の実験は、師匠と秋先生がいるときにした方がいいと思う」
「そうですか?」
「そうだよ。あとは、僕が『万影鏡』を使えるようになってからだね。そうじゃないと……ふ、不公平だから」
「不公平?」
「う、うん! 不公平だ! 天芳ばかりが僕をぜんぶ……いろいろ……把握していくのは、すごく不公平だと思うんだよ!」
「確かに……ぼくだけが『万影鏡』を使うのは不公平ですよね」
小凰は俺に技を使われるだけで、その技に対してなにもできない。
その状態は武術家として、不安なんだろう。
「わかりました。実験は北臨に戻ってからにしましょう」
「そ、そうだね。それがいいと思うよ」
小凰は真っ赤な顔で、うなずいた。
それから、なにかを思いついたような表情で、
「でも。緊急時は別だよ? 『万影鏡』を使わないと切り抜けられないようなときは、遠慮なく使ってくれていい」
「いいんですか?」
「ああ。それは構わない。ただ……」
「ただ?」
「天芳が『万影鏡』を使った回数分だけ、あとで僕が天芳に『万影鏡』を使うことにしよう。それでおあいこってことで」
「あの……小凰」
「うん。天芳」
「『万影鏡』を使うと、小凰に悪影響があったりしませんよね?」
「な、ないよ。ただ……なんというのかな」
小凰は視線を逸らして、いたずらっぽい表情で、
「天芳が僕に触れてるのに……僕から天芳に触れられないのはもどかしい……じゃなくて! と、とにかく、ふたりで『万影鏡』を使うべきだと思うんだ。それなら不満はないよ。僕たちは朋友だ。おたがい、隠し事はしない関係なんだからねっ!!」
「わ、わかりました。小凰」
「うん。わかればいいんだ」
「…………はい」
「…………うん」
なんだか、変な感じだった。
小凰はうつむいて、指で三つ編みをいじってる。
俺は……なんとなく言葉が出てこなくなってる。
それから、俺たちは向かい合った椅子に座り──
冷めてしまったお茶を、ふたりで飲み干して──
最後に、ちょっとだけ『獣身導引』をして──
「そ、それじゃ、おやすみ、天芳」
「おやすみなさい。小凰」
そうして、おやすみの挨拶をしてから、それぞれの部屋で休むことにしたのだった。
いつも「天下の大悪人」をお読みいただきまして、ありがとうございます!
次回、第104話は、次の週末に更新する予定です。