とある小話
窓からは、建物を踏み台にして、ひとつの山が威厳と冷気を放っている。山は雪化粧を濃く広くしているため、素肌をあまり伺うことができない。そこに快晴でもあれば、尚のこと印象的に違いないが、今は空を白みのある雲で満たされているため、山は地味である。
男は特別することもなかったので、その地味な山を見てはため息をついていた。時計の秒針の単調な響きが空間を支配している。部屋を見渡せば、床の大半を雑誌かプリントが乱雑に陣を張っている。男にはこれを直そうとついさっき思いたったのだが、すぐに億劫になりやめてしまった。
突如としてインターフォンが鳴った。男は気だるそうにしながら画面に向かい、配達員らしきの姿を確認して通話を開始した。
「お届けものです」
男ははて、何か注文したか心当たりが思い浮かばなかったが、よく忘れる自分のことだからと、あまり違和感を持たなかった。おぼつかない足取りで印鑑を拾い、玄関に向かう。
「こちらにお願いします」と指示された紙に印鑑を押す。力加減がいい加減だったのか、あとに残った赤文字は読めるには読めるが、かなり滲んでしまっていた。配達員はそれに気を止めることなく、微笑を浮かべ、「ありがとうございます」と言って紙を一枚めくった。すると、
『この部屋の利用を快諾する』
という主旨が記述された紙面に、今の印が押されたことになっているではないか!男は、何か言わねばならぬと、半ば錯乱しながら言葉を選ぼうとするが、それよりも早く、配達員は体を玄関に捻じ込んできた。男は混乱しながらも、配達員を中に入れまいと彼の肩を押し始めたが、履いているのがよりによって力の入らないサンダルである。とうに摩擦力は失われていた。重心を限界まで低くなるよう、姿勢を屈める工夫も空しく男は押され、家の中へ入れられていく。
いくら押そうとしても配達員はびくともしない。やがて余裕がなくなり、男は顔が真っ赤になった。どうやら、配達員の方が力があるようだと男は悟った。そこで男は咄嗟に力を抜き、逆に配達員を引くようにした。配達員は対応できず、掃除機に吸われるゴミのような勢いで屋内に侵入した。
男は配達員を力勝負で出し抜くところまでしか考えていなかったため、勢いよく迫る配達員の全体重を一手に引き受けてしまう。振り払うこともできず、両者は一体となり、男が下敷きになる形で倒れた。
男に容赦のない圧迫が襲う。胸腔が狭められたまま固定され、引きずり出されるようにして嗚咽が漏れた。男の顔の近くに配達員の顔があったため、嗚咽は配達員を直撃した。
配達員は顔を撫でるようにして広がる、生暖かい空気への生理的嫌悪から素早く飛び上がった。同時に、男は圧迫から解放され、喉を鳴らして飲むように呼吸を始めた。
男が息を整え出す頃には、配達員の姿は消えていた。
男はまず落ち着こうとした。倒されてからは、視覚が曖昧だったため、確信に欠けるが、玄関のドアは開閉していなかったはずだ。そうなるとこの廊下にいないのだから、部屋に移ったに違いない。ではなぜ部屋に逃げたのか。あの誓約書モドキをわざわざ作るくらいだから、配達員が盗みを働こうとしているのではないかと疑う。男は金目のものだろうがなんだろうが、床に散らかしてしまっているものだから、手当たり次第拾われてしまうだけで配達員は儲かるだろう。ただしその散らかりゆえに、全てを奪いとるのは時間がかかりすぎて現実的ではあるまい。
そこまで考えると男は少し余裕を取り戻していた。部屋をこれから探すつもりだが、力比べに持ち込まれてもいい結果は期待できないだろうし、刃物でも出されたら尚更である。ここはひとつ、少しくらいはくれてやることにした。調子に乗って根こそぎとろうとされては困るので、脅かしておこうと側のドアの開きっぱなしのトイレに入った。
この家のトイレに特別な仕掛けがあるわけではないが、水を流す時の音が非常に大きい。どの部屋からでも聞こえる凄まじさがあり、近隣からは大便を催し、葬る度に苦情がくるのだから、破壊力に関してははお墨付きだ。いたずらをする子供に戻った気分でレバーを引き、轟音が響かせた。配達員が部屋を脱走した音も判別できなくなるという意味では、これは失敗だった。
何か重要なことを忘れているなと感じ、警察への通報はまだだったことを思い出した。すぐさま電話をかけたいところだが、山の見える窓のある部屋に置いたままだ。このまま行く勇気はない。そこで、ひっそりと部屋のドアまで忍び寄り、頬を擦り潰すようにして、ドア下の空洞に右目を滑り込ませ、中を除き込む。
逃げた可能性を考えて、まず窓を確認するも、丁寧に男が鍵を掛けたときのままである。散乱した物たちを、いつも確認しているわけではないから断言はできないが、自分が撒き散らしたときのままに見える。しばらくしてその中から男の携帯の姿を確認した。まだトイレからの轟音が聞こえている。配達員が別の部屋にいる前提だが、今のうちなら、バレずに携帯をとって連絡ができる。そう判断して、思い切って部屋に入った。
前提の通り、この部屋には配達員はいない。それを確認するや否や携帯を手にし、通報した。通話の途中でトイレの音は消えてしまい、余計な音を立てたが反応はなかった。部屋から出れそうもないから、そのまま入ってきてくれるように頼むことも忘れずに告げた。ここまでは順調だ。
あとは警察が来るまで持ち堪えるだけだと男は少し安堵した。ふと油断した時に、背後から襲ってくるのではないかという新たな考えが脳裏をよぎりつつも、男は床に座り込んだ。緊張感を維持したまま捜索を続けていたから、かなり疲弊していた。男はそのまましばらく何も考えずにいた。
警察が到着し、男は晴れて保護され、要求して交番に避難させてもらった。配達員が捕まるまでは帰りたくないと言った。今後は騙されないようにと、警察に注意された。男はすぐに配達員が捕まるというのに大袈裟なことをしたと少し後悔していた。
この後悔は時間と共に消滅した。それは記憶が薄れためではなく、正しい判断だとのちに感じたためである。
男はその後、しばらくを交番で過ごした。その間、男は温かく迎えられていたが次第に嘘をついていると疑われ出したた。理由は盗んだ形跡も逃げた後も、そして男以外のDNA等が得られなかっためだ。男は信じられない事実に愕然とするしかなかった。
状況として不利になりつつあるも、なんとか言いくるめて男は交番内で寝かせてもらった。
目を覚ますとそこは自分の家だった。なぜか戻ってきている。いや、あれは夢だったのかもしれないと都合よく思おうとする。
家の中に配達員がおり、その姿を見つけられないという不安がそれを許さない。配達員とのやりとりには痛みが生じた。特にやられた胸は今でも押せばやはり痛むのだ。かつてゴキブリが住み着いていて途方に暮れたこともあったが(偉大なるアシダカグモのおかげで、一件落着したのはまた別のお話)、今度はそれよりもずっと大きい、いつ崩れ落ちるかも分からない平穏。男の恐怖が、噴火活動を今にも起こしそうになっていた。
窓のある部屋の机には覚えのない紙が置いてあり、そこには『これからもよろしくね』と拙い字で書かれていた……