READY STEADY GO
欠けた視界で歩く町並みは孤独が風になって風を貫くようだ。
ハローワークで紹介された面接の帰り道、深夜霧は狭い視界で行き交う人々を見ていた。もっとも地方都市といった趣きの強いこの町ではすれ違う人もそれほど多くはない。
駅前に設置された灰皿の前で立ち止まり、タバコに火をつける。二回目の面接はおそらくダメだ。薬剤師の求人だったのだが、薬の宅配があるということで隻眼に難色を示された。片目を失明しただけでは視聴覚障害者に認定されないので普通の人間として仕事を見つけることになる。そこそこ学歴に自信はあったがやはり身体的ハンデというのは大きいようだ。これは少し腰を据えて職を探さなくてはならないかもしれない。
「……もうひと探ししてから帰るかな」
今まで貯金と失業手当で生活していたため、そろそろ本当に職を探さないといけない。隻眼というハンデがある以上どこでも気軽にアルバイトというわけにもいかず、そのあたりはたいそう不便だった。面接でも目のことは聞かれる。新聞沙汰にもなったので勘の良い人間は裏の事情にすぐ気づいてしまう。めんどくさいなぁ、と心の底から思いながら深夜は二本目の煙草に火をつけた。深夜が二本目の煙草を深く吸い込んだところで、横に派手な格好の女性が駆け寄ってくる。目当ては灰皿らしい。
「まってまって、煙草1本吸うから待って!」
11cmはあろうとピンヒールでカツカツと軽快に駆けよってきた女はバッグから煙草と100円ライターを取り出す。煙草の銘柄はラッキーストライクだ。香水でもつけているのか、横に立った瞬間煙草の匂いに混じって石鹸のような桃のような香りがふわりと漂ってくる。赤いセルフレームの眼鏡から覗く目は緑で肌は透き通るように白い。ウェーブの掛かった髪がターコイズブルーなのには心底驚いたが顔立ちの彫りも深いのでおそらく外人だろうと思った。そのわりに日本語は流暢だったが。
ラッキーストライクの煙を深く吸い込み美味しそうに吐き出した女の横に高身長の男が立つ。
「花子、できればすぐ帰りたいんだがね」
金色の髪にアクアブルーの瞳。赤っぽい肌と彫りの深い顔立ちですぐに外人だとわかる。それよりも真横にいる女の名前が『花子』といういかにも日本人的な名前であることに驚いた。
花子と呼ばれた女は煙草をくわえたまま眉をひそめて男を睨む。
「ケチケチすんなよいいじゃねぇか」
「煙草なら帰ってから思い切り吸えばいいじゃないか」
「何日吸ってねぇと思ってんだよ。一週間だぞ一週間! ニコチン不足で生理中並にイライラしたわ!」
「往来の真ん中でなにを言い出すんだい……!」
深夜は横の女があまりに下品なことをいうのであやうく大事な煙を吹き出しかけた。金髪の男も同様の感想を抱いたようで呆れ気味にため息をついている。デート中かなにかだろうか。そのわりには会話に甘いものが感じられない。
二本目の煙草を吸い終わるまでは様子を見ていたのだが、吸い終わったので深夜はひとりで歩き出した。とりあえずもう1度ハローワークに行ってから帰ろうと思う。
5、6歩歩いたところで肩がなにかにぶつかった。
「わっ」
本来なら避けられるだろうが今深夜の左側はまるまる死角になっている。この状態では左側に突然障害物が現れた場合避けられないのだ。思いのほか勢いよくぶつかって無様に尻餅をついた深夜は、自分の肩にぶつかったのが妙齢の女性であることに気づく。右目でみた女はくたびれた様子で口元を忙しなく動かしている。
「見つけた……見つけた……とうとう見つけた……」
うわごとのように繰り返すそれは女が正常でないことを告げていた。手には包丁を持っている。
――包丁!?
驚いて、深夜は思わず目を瞬かせた。女の視線の先には煙草を吸っている女と金髪の男がいる。ただ事ではないと判断した深夜は気がつけば声を荒げていた。
「逃げろ!」
深夜の声を受けてではないだろうが女は突然走り出し、包丁を振りかざした。
煙草を吸っていた女は深夜の声で振り向き、自分に向かってくる凶器に目をとめる。
包丁が雄叫びを上げた。
「私の子を返してよぉおおぉぉおおおおっ!」
逃げきれる距離ではない。煙草の女は包丁を睨み付けたままその場を動かない。
足の代わりに口を動かした。
「アル」
飛び出したのは悲鳴ではなくしっかりと響く命令のような言葉。
「イエス、マム」
それは金髪男の名前だったらしく、彼は軍隊式の短い返事をすると包丁を持つ女の懐にもぐり込み腕を掴んで捻り上げた。足払いをかけて地面に組み伏せ背中に膝を押しつけて取り押さえるまで実に流れるような動作だ。包丁を叩き落とされた女はパタパタと暴れて声をあらげる。
「離せっ! 離しなさいよっ! 暴行罪で訴えるわよっ!」
金髪男は微動だにせず女を取り押さえたままクスリと笑った。
「正当防衛という言葉をしらないのかな、ミセス」
「うるさいっ! うちの子を返してよ! こんなの拉致じゃない! うちは虐待なんかしてないのよっ! あの子も帰りたがってるわよ! 返して!」
ふたりは児童相談所の職員かなにかなのだろうか。とりあえず目の前でスプラッタホラーが上映されるような危機だけは脱したらしい。深夜は地面に座り込んだまま茫然とことのなりゆきを見ていた。
煙草の女が取り押さえられた包丁を見やる。眼鏡越しの瞳があまりにも冷たい色をしていたので深夜は一瞬目を見開いた。横で会話を聞いていたぶんには、そんな目をするような女に見えなかったのだ。
「非常に残念ですが、ミセス」
声色も非常に冷たい。万引き現場を押さえられて開き直っている人間を見るような、往生際の悪い人間を心底嫌悪し見下すような目つきと声だ。
「私たちにあなたの子を返す権利はありません。私たちは児童虐待の防止等に関する法律第6条に則り虐待の可能性を児童相談所に通報しただけで、その後の判断は児童相談所に委ねられます。そして非常に言いにくいことなのですが、ミセス」
煙草女がラッキーストライクの煙を吐き出した。目が冷たい。声が冷たい。相手を完全に見下している。口元には笑みを浮かべていた。人を馬鹿にしたような嘲笑だ。
「私たちはこれより憲法33条・刑事訴訟法213条に則りあなたを現行犯逮捕いたします。刑法203条殺人未遂罪が妥当でしょうが、そちらは司法に任せましょう。なんにせよミセス。子供が一時保護されている最中にこんなことをしては我が子が帰ってくるはずがありませんよ。お解りいただけましたか?」
ラッキーストライクの吸い殻が灰皿に吸い込まれる。男が包丁女を立ち上がらせた。駅前には交番がある。騒ぎを駆けつけた警官がふたり小走りで駆け寄ってくるところだった。
「アレックスさん! またですか! 花子さんにケガはないんですか!?」
「あんたらいい加減にしろよ! 狙っただろ花ちゃん! 駅前のほうが交番近くて引き渡し楽だとか思っただろ!」
警官ふたりに怒鳴られた金髪男と煙草女が同時に肩を竦めて苦笑いを浮かべる。
「私がいてケガをさせるはずがないじゃないか」
「だってぇーゲンちゃん頼りになるからぁ」
警官ふたりは叫く女に手錠をかけ、交番に向かわせながら金髪と煙草に反論する。
「危ないことしないでくださいよ! こっちの心臓が持ちませんよ!」
「おだてようたって無駄だぞ花ちゃん! それで何回痛い目みたと思ってんだよ!」
とうとうふたりは肩を竦めて返事をするに止めたようだ。ここで煙草女と深夜の目があった。女は倒れている深夜に気づくと小走りで駆け寄ってくる。ターコイズブルーの髪がゆるやかに靡き、ハイヒールがカツカツと軽快な音をたてた。
「巻き込んでしまって申し訳ありません、お怪我はありませんか?」
奇抜な見かけに拘わらず常識的な対応をされ深夜は心底驚く。先ほど見せた人を嘲るような目線はなりを潜め、深夜を心配そうにのぞき込み手を出してきた。その手を掴んで起き上がりながら深夜はゆるゆると首を横に振る。
「あ、ああ……大丈夫です。転んだだけですから」
「ご不快な思いをされたでしょう。お時間もとらせてしまいましたね」
「いえ、大丈夫ですから……貴方こそ、お怪我は……」
「私はこの通りケガひとつありません。ご心配ありがとうございます。優しい方ですね」
髪がターコイズブルーでなければ完璧な淑女だ。彼女は深夜の服の汚れをハンカチで軽く落としたあと恐縮する深夜に向かって笑顔で尋ねた。
「この後、お時間はございますか?」
「え? まあ……暇なんで」
「もしご迷惑でなければ、お詫びの印にお食事をご馳走させてください」
◇
ないはずの左目が痛んだ気がして深夜は咄嗟に顔を押さえた。所用があって乗った満員電車は通勤通学ラッシュなこともあって花神楽高校の生徒もかなりの数が乗り込んでいる。その中に目立つほど姿を発見した。銀髪で青白い肌の男。全身黒い服を身につけ黒い中折れ帽をかぶっている。深夜よりも3cm背が高い彼は、テオ・マクニールという。花神楽高校に通う男子高校生だ。横には二年生の白井祐未もいる。本来彼らは電車通学ではないはずだが、一体どうしたというのだろう。
声をかけようとして、彼らが非常に張り詰めた雰囲気を出していることに気がついた。ケンカでもしたのだろうか。
そうこうしているうちに電車が駅へ到着する。大半の乗客が降りるのに従い、深夜も電車を降りた。花神楽に向かう生徒もここで降りるはずだ。当然テオと祐未も電車を降りたが、どうにも様子がおかしい。テオがサラリーマン風の男の肩を掴みなにごとか話しかけていた。手には携帯電話を持っている。祐未は他校の女子生徒に話しかけていた。
「ちょっと一緒に駅員さんのところにいきましょう。なんで言われてるのかはわかるでしょう? こちらにも証拠はありますから」
状況から見て痴漢を見つけたらしい。サラリーマン風の男は顔から血の気がひき、一瞬うろたえるように視線をさ迷わせるとテオの腕を振り払ってホームを走り出した。腕を振り払われ一瞬よろめいたテオが祐未を見る。
「祐未」
「イエス、サー」
それはどこかで見たことのある光景だった。
祐未が短く軍隊式の返事をしてホームを走る。陸上選手もかくやという動きであっという間に逃げる男へ追いつくと肩口から思い切り体当たりをかまし、転んだ男へ馬乗りになる形で取り押さえた。バタバタと往生際悪く暴れる男の腕を捻り上げて押さえつける。騒ぎを聞きつけた駅員がかけてくる傍ら、テオがゆっくりと男のほうへ近づいた。
目が冷たい。口元には笑みが浮かんでいる。人をバカにしたような嘲笑だ。
以前全く同じものを見た気がして深夜は思わず目を奪われた。
「逃げられると思ったなら見込みが甘かったですね、ミスター。こちらは貴方の顔も動画におさめてあるんですよ」
まあ、必要なくなりましたが。
そう吐き捨てる声は相手を完全に見下していた。
「先ほどの貴方の行為は刑法第176条、強制わいせつ罪に問われるべきものです。私たちはこれより憲法33条・刑事訴訟法213条に則りあなたを現行犯逮捕いたします。異論はありませんね?」
バタバタと慌ただしく駅員がかけてきて、祐未が男を引き渡した。テオはまだ怯えている様子の女子生徒に歩み寄り話しかける。
「申し訳ありません、ミス。電車ではさぞ不快な思いをされたことでしょう。すぐ助けて差し上げられず面目ない。こちらの携帯電話の動画も不快だと思われますが、証拠品として警察に提示した後は警察にしかるべき対処をしていただきますので、もし貴方がよろしければこれから一緒に警察署へ行っていただけませんか? データを提示した後貴方の目の前でこの動画をきちんと消去致します」
いつものふざけた態度からは想像もつかない紳士的な態度だ。女子生徒は少し戸惑いながらも、頷いたり首を横に振ったり、一生懸命テオの言葉に対応している。心なしか頬が赤いのは、まあ仕方ないだろう。
もやしだのヒョロいだとの言われているが、一応顔面偏差値は高いと言われているテオが(肉体労働は祐未に任せっきりだとしても)颯爽と痴漢から助けてくれたら、まあ大半の女子は惚れなくてもときめきはするに違いない。
テオが無言で祐未のほうに手を伸ばした。祐未は勝手知ったるといった風に鞄からメモ帳とペンを取り出しテオに渡す。ここで女子生徒が少し残念そうに眉をひそめた。祐未とテオのあうんの呼吸を見れば、まあ気持ちはわからなくもない。
「ミス、貴方はもう2度とあの男の顔もみたくないと思っているかもしれません。それは責められるべきことではないし、私はそれを当然だと思います。もし警察に証言を求められたり、法廷であの男と争えと言われて誰かに相談したいと思った時はこの電話番号にかけていただけますか? もちろん他に相談できる方がいるならその方に。誰にも言えないけれど話したいというならいつでもどうぞ」
優雅な手つきで(おそらく)自分の携帯番号を書き付け女子生徒に手渡す。ここだけ見たら手慣れたナンパのようだ。自分より少し背の低い女子生徒を覗き込むようにしてテオが笑った。
それはあの日深夜を助け起こしてくれた花子のように優しく、先ほどの他人を見下した嘲笑からは想像も出来ない代物だ。彼は女子生徒を勇気づけるように肩に手を置き軽く叩く。その動作はテオと共に暮らす体育教師のアレックスを思い出させた。
「ただ、ミス。覚えておいて欲しい。ああいうのは病気だ――一生治らない」
吐き出された言葉は真剣で重い。女子生徒がゆっくりと頷いた。テオは女子生徒の反応を見てニコリと笑う。
優しい声で
「では行きましょう」
と女子生徒を促していた。
祐未とテオが駅員の後をついていく。深夜はその時、女子生徒が酷い衝撃を受けたのを見逃さなかった。
あまりにも自然に、テオと祐未が手を繋いで歩いているのだ。テオの対応に顔を赤くしていた女子生徒にとっては、まあショックなのだろうなと深夜は思う。
後日、あの時テオと祐未が電車通学をしていた理由を聞いた。祐未が普通二輪車免許を取った記念にふたりで朝早くから出かけていたらしい。バイク通学申請をまだ出していなかったから最寄りの二輪車用パーキングを利用し、そこから学校まで直接行ったのだという。
話を聞いた深夜は思わず頭を抱えた。
それと同時に、花子がなぜ経歴の一切を隠し、他人のSOSを敏感に感じ取れるのか、テオの事情を細かく知っていたのかがわかった気がしたが――黙っていることにした。
◇
「花ちゃんね、花神楽高校の校長先生なんだけど、今保健室の先生が辞めちゃって困ってるんですって」
花子のツテで紹介してもらったのは薬剤師の仕事で、本来の薬剤師が産休に入ったためのピンチヒッターだったが、働き如何ではそのまま雇ってくれるとのことだった。
「あの人、学校の先生なんですか」
「そうよ。大概初めてあった人は驚くけど、天職だと思うわ」
「そうかもしれませんね」
仕事をしながら深夜は考える。上司は彼の考えなどお見通しというように、ニコリと笑った。
「養護教諭の資格とるつもりなら応援するわよ」
あの時思わず頷いた選択肢が間違っていたとは思わない。
ただもう少し早く出会っていたら――自分も祐未のように、手を繋いで歩く未来があったのではないかと、思うのだ。