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閑話 エリス嬢の温情


 私は、タイラ・フィズ・マクエス侯爵。

 フカラス帝国皇帝の座をめぐる、先の争いに敗れた男。

 現在は、次期皇帝位を目指す、カイラス殿下の後見をしている。

 十一番目の皇子であるとか、まだ三歳になったばかりであるとか、口にできない不利ばかりでなく、魔力なしの判定を受けたせいで、いま最も帝位から遠いと言われるカイラス殿下。

 彼が皇帝になれるよう立ち回り、また、皇帝にお成り遊ばした後、滞りなく帝国を治められるよう教育するのが私の役目であるが、自信などない。

 考えてもみてくれ。私は、帝位争いに敗れた男だぞ?

 カイラス殿下は素直な方だ。私に懐いてくださってもいる。

 はじめは嫌々引き受けた仕事だが、叔父・甥という関係を抜きにしても、可愛く思って当たり前だ。

 せめて、彼のこの性格が捻じ曲がることのないように、扶育したいと思うが、やはり、無理な願いなのか。

 皇帝に限らず、人が好いだけで務まる仕事など、どこにもありはしないのだ。

 私は皇帝にはなれなかったが、歴史ある侯爵家へ婿に入ることができた。運の良い方だ。

 いや、運ではないな。実力がまあまあ、上の方だったからだ。

 役に立たぬと判断された皇子の末路は、惨めなものだ。

 前線に送られて戦死。老婆と言ってもいい寡婦を娶らされた奴もいたな。

 カイラス殿下を、決してそんな目に合わせたくない。

 優れた献策をしたり、模擬戦闘で活躍する能力は、成長途中のカイラス殿下には、まだない。

 しかし、何がなんでも、目立った活躍をしなければならない。

 まだ、何が得意なのかもわからない御歳であったとしてもだ。

 戦で領土拡大を目指すのか、内政によって強い国を造るのか、慈悲を示して民衆の心を掴むのか。それとも、芸術を極めて、貴族社会を優雅に泳ぐのか。

 私は、迷いながらも一つの作戦を立てた。

 フカラス帝国は、海洋国家だ。

 海軍の強さは特に有名で、他大陸との交易も盛ん。海の幸も豊富で、景色も良いから観光に訪れる者も少なくない。

 だが、海が荒れれば、すべてがどうしようもなくなる。

 その上、気性が荒く、備えるとか蓄えるなどということをしない国民性。

 勢いはあるのに、じつは貧しい国なのだ。

 それを変えるには、農業を充実させることだ。それは長らく、学会の片隅で言われ続けてきたことであるが、どうやっても作物の実りが悪く、海の近くではそれが顕著だ。

 文字通り畑違いながら、私は多くの学者を訪ね、文献に当たった。

 しまいには、狂人と呼ばれた男の手記まで熟読する始末。

 そこにあった、たったの一文。「痩せた土地には石灰を撒くとよい」

 それに縋って、小さな畑を作り、あれこれ試すと、確かにわずかながら収穫率が上がった気がする。

 しかし、フカラス帝国では石灰岩は出ない。

 金持ちの屋敷を飾る建材として、わずかばかり輸入されているだけだ。当然、高い。馬鹿高い。

 産出国として有名なのは、隣国ディーバイ王国の、さらに向こうの王国。押しも押されぬ農業大国であり、ここに秘密があったかと、私は思わず膝を打った。

 まず、正しい加工・使用法を学び。そして、間違いなく効果ありと確信できたならば、定期的に大量に輸入できるようにしなければならない。

 私は、カイラス殿下にもお出ましいただき、彼の国を訪れた。

 往路、ディーバイ王国の王城に数日逗留した折には、第三王子殿下が晩餐に招いてくださった。

「両親、また、兄達もご一緒できないことを残念がっておりました」

 けして「多忙につき」などとは言わない、情のある方という印象だった。

 なんにしろ、帝国語が堪能なのがよい。しかも、私を人生の先輩として立ててくださり、私は大いに自尊心をくすぐられた。

 先にカイラス殿下の好物などを尋ねてくださり、懐くまでの交流はなかったものの、カイラス殿下も居心地が良さそうであった。

 しかし、これから本番と乗り込んだ王国では、すべてがうまくいかなかった。

 コネを使うということは、金を使うことと同義だ。

 決して少なくない金貨を、さらに数カ月という時間を費やし、残されたのは草臥れきった自制心と、やり場のない怒りだけだ。

 彼の国は、もともと土が肥えているので、肥料など一切使用していないと、誰も彼もが口裏を合わせた如く言う。

 また「石灰岩は、建材としてのみ輸出する」と法で定められており、では、採掘や加工の段階で必ずでる屑はどうするのかと問えば、そんなものは出ないと言うのだ。そんな馬鹿な話があるか!

 それらは建築はもちろん、農業にも使用されているに違いないのだが、見るからに貴族という身なりで(平民を装ったところで、やはりお忍びにしか見えない)あきらかに他国人の私が、その現場を押さえることはできなかった。

 部下たちにしても、それは同じこと。

 その上、事実を明らかにしたところで、王国法に加えてまで輸出を規制しているのだ。

 となれば、唯一ある、正規のルートで手に入れるしか方法はないわけだが、あの王城の謁見の間や、それに準ずる建造物を飾るべき大理石を砕いて、畑に撒く? 明らかに現実的ではない。

 カイラス殿下には、ただただ申し訳ない。

 同席いただいても侮られることが多く、幼いなりに屈辱に耐えて、静かにしておられる姿に、私は何度唇を噛んだことか。

 復路は、馬車を引く馬すらも蹌踉として見え、なけなしの金を叩いて高級宿に宿泊するも、全館を貸し切るなどということはできず、よけいに惨めさがつのる。

 途中、皇族という一事のみで慣例にしたがい、ディーバイ王国の避暑地における王の離宮に身を寄せたが、本当はそれすらも嫌であった。

 そう。子供のように、嫌だ嫌だと泣き喚きたかった。

 近隣諸国の慶事・弔事が重なり、王族という王族がすべて出払っていたことも、そんな重要な役目に掠りもしない、カイラス殿下と我が身を思って、惨めさが増すばかり。

 そこへ持ってきて、留守居の中では一番身分が高いとされる王太子殿下の婚約者とやらが、茶会を開いてカイラス殿下を招いたのであるが、なんともひどいものであった。

 いちばん広く手入れの行き届いた、夏の花が咲き誇る庭園で、爪の先まで完璧に手入れされた美しい令嬢が、これまた完璧な礼儀作法で、程よい笑みを浮かべて茶を勧める。

 カイラス殿下とは言葉は通じぬわけであるが、それでも、少しでも茶器を振れ合わせ音を立てれば、咎めるような視線を浴びせられるのだ。

 カイラス殿下は幼子だからと、相手の気持ちに気付かぬような方ではない。

 まだ、マナーが完璧でないことは認めよう。

 しかし、考えてもみてほしい。

 この暑い最中、長い道中を馬車に揺られ、疲れ切った子供に、言葉も習慣も違う異国で、堅苦しく大人のやり取りをする余裕があるだろうか? いくら高価な茶器を用い、高級な茶葉が使用されても、気候も相手の体調も慮らず、三口、四口目まで火傷しそうな茶を供され、茶菓子の屑を落とす度に睨まれては、愛想笑いすら出ようはずもない。

 このような令嬢は帝国にもいる。たいていは外国かぶれで、ギスギスしていて、すべてを完璧に整えた、美しい(と、本人は思っている。まったくもって嘆かわしい)自分のために、すべてが正しく運行されなければ気が済まないないのだ。たとえそれが太陽や月であっても。

 貴族に礼儀は必要不可欠。

 確かに彼女の作法は完璧だった。私は大人であるから、それに合わせることが出来る。しかし、一片のやさしさも感じられない空間にいれば、息がつまった。

 いくら外身を取り繕っても、相手を端から見下し、寛がせようという気が微塵も感じられないのであれば、それは慇懃無礼というものだ。

 もっとも、厳密にいえば、彼女ばかりが悪いわけではない。この数か月間耐えに耐えてきた環境の集大成。彼女は、八つ当たりされただけとも言える。

 いま一度言おう。カイラス殿下は素直な方だ。私に懐いてくださってもいる。

 だから、私の思いを感じ取り、戸惑い、悲しみ、怒り、耐えきれなくなって行動してしまった。

 実にタイミング悪く、公爵令嬢が口にした。

「第十一皇子殿下」

 用いる言語は違うのに、なぜ数字の読みだけは一緒なのか。

 十一という音の響きに、幼いカイラス殿下は過剰に反応せざるを得ない。

 その小さな手がドンとテーブルを叩き、空を切った。

「無礼者! 去れ」

 小さくとも皇族なのだと、私は先程まであった苛立ちを一瞬忘れて、惚れ惚れと見入った。

 その仕草が、現皇帝である我が兄とそっくりだったからだ。皇帝陛下がすれば忌々しいだけだが、カイラス殿下の手にかかると、彼の前途を明るくする小さな小さな一事として、私の心を沸き立たせた。

 もしや、この方は、皇帝におなりになるのでは!?

 それはすぐ、心の底に沈んでしまうのだが。

 訳すまでもなく、声の調子と仕草で理解した様子の公爵令嬢は、すぐに席を立ち頭を下げたが、その礼は浅く、すぐに上げられた顔に薄っすら浮かぶ笑みは、勝ち誇っているように見えた。

 事実そうなのだろう。この令嬢は知らなかったのでも、間違えたのでもない。

 皇帝になどなりようもない末の皇子など取るに足らず、礼儀も習慣も、次期王妃たる自分に合わせるべきである。そういうことだろう。

 私は、この王国が攻め落とされる光景を夢想した。 

「失礼いたしますわ」

 悠然と去っていく後ろ姿は、断頭台に向かう王妃のそれだ。

 くすぶる怒りは腹の底でまとまり石のようになって沈む。

 私は静かにカイラス殿下を促した。

「帰りましょう。我らが帝国へ」

 涙を堪え頷かれる殿下を、いけないとわかっていながら抱え上げる。

 そうです。私のクラバットなど、皇子のハンカチとしてお役に立てるのであれば…。

「お待ちを」

 帰り支度を急がせていると、ディーバイ王国の宰相殿が姿を現した。

 こうやてみると、よく似た親子だ。

「失礼があったようで、お詫び申し上げます」

 頭は下げるが、形だけというふうに見える。

「…十分もてなしていただいた。我々は先を急ぐので、失礼する」

 話は終わったと思ったが、それはこちらだけで、何やかやと冷静に言い募られて、結局、宰相に先導され、その土地土地の貴族家に世話になりつつ、彼の国の王城へと案内されてしまった。

 何の意図があるのかまるで見当もつかないが、それほど(表面上とはいえ)気を遣うならば、自身の息女をしっかり育てろと言いたい。

 通された「王の客間」は、その名の通りいかにも格式が高かったが、お世辞にも居心地がよいとは言えない。

 一度切れた緊張は、そうそう元に戻らないようで、カイラス殿下が氷の塊に懐くのを止める気にもならない。

 むしろ、私もそうしたいくらいだ。

 ただ時だけが過ぎて、響いたノックの音に、私はうんざりと顔を上げた。

 この閑散とした王城で、次はどんな接待をされることやら。

 しかし、現れた令嬢は、必死に息を押さえ、落ち着いた態度を見せてはいたが、限りなく急いでやってきたことが見て取れた。

 数筋の髪が頬に張り付くのを、無意識に耳にかける仕草が、少女の健全な色気を感じさせて、ただ行儀が悪いと言い捨てられない雰囲気だ。

 ふっくらとした体で、笑顔も自然。額に噴き出す汗も、不快には感じない。

 むしろお互い大変だなと、労いたくなったのは、くるりと部屋を見渡した目がうんざりしたように見えたからだろうか。

「もう少し、涼しいお部屋をご用意いしたしました」

 待たせたことへの謝罪はあったものの、本来あるはずの挨拶をすっ飛ばして言われたことに、私は腹を立てるどころか、ほっとしていた。

 そうだ。少しでも涼しい思いができるならば、文句などあろうはずがない。

 第一、彼女とて、突然呼び出されたのだろうことは、簡単に想像がつく。

 にもかかわらず、次々と、私たちの心を惹きつけ、癒していった。

 カイラス殿下は、この旅ではじめてはしゃぎ、初対面の令嬢のやわらかな雰囲気に、すぐに気を許された。

 彼女は言葉は通じないながら、「カイラス殿下」とはじめから口にしたので、私は、おやっと思った。先の公爵令嬢より二、三年下と思えるのに、我々のタブーを理解し、尊重できるらしい。

 服を濡らされた殿下はともかく、私の分まで着替えを渡されて面食らったが、伺うように私を見るカイラス殿下の表情に、彼女の判断こそが正しいのだと理解した。

 藍色の初めて見る形状の衣服だったが、その着脱に複雑さはなく、見ればわかるというレベル。侍女の手を煩わすまでもない。

 私が着てみせると、殿下は安心したように(初めてのもので興味はあるが、不安だったのだろう)侍女に着せかけられ、紐は自分で結ぶと言い張ったが、やはりまだ無理なようで、膨れる様子がなんとも可愛らしかった。

 急に来訪したにもかかわらず、殿下にぴったり合うサイズの真新しい衣装を用意できたのが不思議に思えるが、本来、もてなしとはそういうものであったな。

 ごちゃごちゃと人の意思にもみくちゃにされてきた数カ月間。この部屋は、なんとも言えず落ち着く。

 いわば、大人向けの色彩、調度品ばかりだが、殿下も退屈される様子はなく、はじめてみる陶器の椅子に身を預け、ふぅと大人顔負けの溜息を吐かれた。

 ディーバイ王国のバーランド家といえば伯爵位を賜る法衣貴族であったはずだ。その令嬢や、彼女を婚約者とした第三王子殿下よりも、むしろ彼女の兄の方が魔法研究の第一人者として、我が帝国では知られている。

 控えめなのだな。なのに、存在感がある。

 エリス嬢は、なんとも涼し気な美しい色の茶を淹れ、氷に注いで勧めてくれる。

 その時、カイラス殿下に向けられた言葉にも、私はひやりとしたが、彼女の声の豊かさ故か、その含蓄ある言葉が心に響き、年甲斐もなく胸を熱くした。

 勘違いしないでほしいが、恋情などではないからな。私には妻も子供もいる。成人年齢に到底届かないご令嬢をどうこうする趣味はない。

 そう。彼女の言葉だ。

 魔力のない殿下に魔法を使えと無茶を言っているにもかかわらず、教え、諭し、宥めて、励ます力がある。

 通訳する声に、私の気持ちが乗れば、それが殿下に伝わり、殿下もやる気になってくださった。

 そうだ。今回の旅のように、敗れることもあるが、戦わねば、敗れることすらできなかったのだ。

 私は、はじめて、挑戦した自分を誇らしく思った。

 そして、歓喜する人がもう一人。いや、居合わせた皆の心が動いた。

 そう。まるで魔法のように。

「本当に美しいのですけれど、じつはあまりおいしくはないのですよね。もちろん、不味くもないですが」

 エリス嬢は少々きまりが悪そうに、透明なシロップの入った器を示して、殿下に勧める。

 カイラス殿下は毒見が済むのをいまかいまかと待ち構え、やっと口にできたと笑みを見せた。

「おいしいよ、エリス!」

「まあ! それならば、よろしゅうございました。汗をたくさん掻いたでしょうから、その分たくさん…ああ、でも、急に冷たいものを飲んだら、おなかが痛くなってしまうかしら? 殿下、少しずつ、少しずつお飲みくださいませ」

 まるで家族を心配するような忠告に、素直な殿下が従わないはずはない。

「うん…」

 少々、残念そうではあるがな。

 エリス嬢は若いが話題が豊富で、カイラス殿下から普段どんな遊びをしているのか聞き出し、また、殿下の御歳でも楽しめそうな遊具を幾つも紹介する。

 目の間で、あっという間に作ってしまうのだから、殿下の瞳は輝きっぱなしだ。暑さも忘れて、特に「輪投げ」というものに夢中になられた。

 うむ。これは頭と体の発育のためにもよさそうだな。

 殿下がこくりこくりと船を漕ぎ出すと、エリス嬢はとても申し訳なさそうな顔をして、私に頭を下げる。

 小声で言うのは、殿下を起こさないようにだろう。心配しなくても、こうなった殿下は、何があろうと一時間は起きない。

「申し訳ありませんでした。お疲れのところ」

「いや。久しぶりに、ほっとできた。バーランド嬢のお心遣いに、感謝申し上げる」

 嘘偽りのない言葉が口をついて出る。

 はにかんだような笑みを見せたエリス嬢が、次に気にしたのは晩餐のことだった。

「帝国の一般の家庭料理をご用意しようと思うのですが、失礼にはあたりませんでしょうか?」

「いや。大変うれしく思う。そのようにお願いする」

 エリス嬢は、こちらに都合の良い時間を確認すると、これ以上お邪魔するのも申し訳ないと言わんばかりに、そそくさと退出していった。

 それでも、その話し方と体型のせいか、おっとりと見えるのだな。

 暑さにやられて食欲もなかったはずだが、茹でただけのジャガイモ、茹ですぎ寸前の太いソーセージ、キンキンに冷やされたビール(殿下には果実をしぼったジュースが用意されていた)に、気付けば夢中になっていた。

 若い頃、城を抜け出して味わった心躍る罪の味だ。

 殿下も、普段よりずっと多く召し上がっていた。

 一言礼が言いたくなり、料理人を呼ぶと、いかにも帝国人といった特徴の太った男がおずおずと顔を出した。

「へぇ。わたくしのような者の料理を、皇子様や侯爵様に召し上がっていただけるとは、ありがたいこってす」

 身分は低いし、礼儀もなっていないが、思わぬところで同郷の人間に会えて、涙が出るほどうれしかった(実際には泣いていないぞ)

 聞けば、この城下で酒場を営んでいるらしい。

 なぜ、そんな男を伯爵家の令嬢が知っていたのだろう。人に聞いたと考えるのが妥当だが、彼女には、こんなことを当たり前に知っていてもおかしくないと思わせる、不思議な魅力がある。

 これだけでも、十分にもてなされたと、私たちは満足していたのだが。

 翌日、午前の涼しいうちに訪ねてきたエリス嬢によって、我々の、この失敗に塗れた旅は、最上のものへと変化した。

「カイラス殿下。今日は花の色を変えてみませんか?」

 茶の色を確かに変えた感動を、殿下も私もまだ覚えていて、彼女が無茶を言っているとはまるで感じなかった。

 案内された庭園はこぢんまりとしていて、いかにも時期外れ。

 そう、花など咲いていない。

「これは紫陽花(あじさい)か?」

「はい。今年の花はもう終わってしまいましたが。幸い、私は木魔法が使えますので」

 その一株に彼女が手をかざすと、みるみる葉は枯れ落ち、しかし、枯れ枝に見えたところから、あっという間に芽吹き、葉が色を濃くしていったかと思うと、花芽が現れ、青い花が咲いた。

「正確には、これは花びらではなく、額だそうですが。きれいですから、どちらでもよいですわよね」

 あっけらかんという彼女に、殿下が首を振って同意している。

「どうやって、色を変えるの?」

「じゃーん! これを使います」

 彼女が示したテーブルの上には、乳鉢が三組。傍らに白い欠片が小山になっている。

「これは何?」

 彼女に倣って、一生懸命欠片をすり潰すカイラス殿下。なぜか、私もやっている。

「これは動物の骨を焼いたものです」

 びくっと肩を揺らしたカイラス殿下だが、自分は男だといわんばかりにすぐに胸を張る。

「ふ、ふうん?」

「本当は、牡蛎や帆立などの貝殻を焼いたものがほしいのですけど、なかなか手に入らなくて」

「私の国には、たくさんあるよ!」

「あら、うらやましいですねぇ。あれ、おいしいですものねぇ」

 けして世辞ではない。うっとりとした表情で口元を押さえるのは、食べることを想像してだろう。

「うん! 今度はエリスが、うちに来るといいよ!」

 軽々しく招待していることに、通訳しながら内心焦る私だが、よくよく考えれば、身分的には別段、問題はない。伯爵令嬢とはいえ、未来の王子妃なのだから。

 ただ、ご令嬢ということでそうそう出歩けず、国境を越える旅などさらに難しいだろうとは思うが。

「ぜひ!」

 それでも、満面の笑みで躊躇いもなく答えるあたり、意外に考えなしなのか。いや、殿下の気持ちを汲んでくれたと考えようではないか。うむ。

「カイラス殿下のご先祖様も、ずっと昔から召し上がってきたのでしょうね?」

「うん! だから、えっとなんて言ったかな。そうだ、貝塚っていうのがたくさんあるんだ!」

 得意そうに、先日覚えたばかりの知識を披露する殿下に、エリス嬢が「すごいですね」と相槌を打つ。

 続く言葉に、私は雷に打たれたかのような衝撃を受けた。

「それは長らく雨風に晒されて、化石化しているでしょうから、いまから私たちがすることにとても向いているのですよ。石灰を使う方が、早く効果が出るのですけど、力が強すぎて、量を間違えると根を駄目にしてしまいますし。それに比べて、こうやって動物の骨を利用したり、貝殻を利用した方が、いくら使っても問題ありませんから安心です。少々、効果が出るのに時間が掛かりますけどね」

 こ、これは…殿下に聞かせるようにして、私に教えてくれているのか!?

 なぜ? どうして? 私たちが置かれている状況や、先日まで執心していた事柄、その意図まで知っているかのような話しぶりを訝しみ、しかし、それを脇に押しやる勢いで、私はこの幸運、いや、紛れもない彼女の気遣いに感謝した。

 感謝せずにはいられないだろう!

 彼女にどんな思惑があるにせよ、これは我々にとって救い以外の何ものでもない。

 後で、妻に「そんなこともわからないのですか?」と呆れられるのだが、それこそいまはどうでもよいことだ。

 この少女は、天使か何かなのでは?と、そんな埒もない考えが頭を過ぎる。

「時間がかかるの?」

「そうですねぇ。本来は一年くらい」

「じゃあ、花の色が変わったってわかるのは、来年だね」

 がっくり肩を落として、しかし、一生懸命、それを見せないようにと我慢する殿下に、エリス嬢が悪戯っぽい笑みを見せる。

「そうなのですけど。今回はちょっと、ズルをしてしまいましょう」

「ずる?」

「内緒ですよ?」

「うん!」

 二人に交じって、紫陽花の根元に骨粉を撒きつつ、話し続けるエリス嬢の声に耳を傾ける。

「そういえばカイラス殿下。昨日の魔法は、誰かにご披露しないのですか?」

 思いを言い当てられた格好の殿下は、きまり悪そうに顔を赤くする。

「兄様たちに自慢しようと思ってた」

「よろしいではないですか? きっと驚かれると思いますよ」

 同意をしておいて、ふと思いついたように声を潜めるエリス嬢。

「でも、その前に、お婆様を驚かせてさし上げては?」

「…お婆様?」

 いまは一線から退いて、大人しくされているが、あの母の前に立つと思うと、私でも身が竦む思いだ。なんて、酷なことをいうのだ、エリス嬢!

「ふふっ。カイラス殿下、良いことを教えて差し上げましょう! 生い先短いご老人には、お土産が必要なのですよ」

 得意そうに胸を張るエリス嬢に、殿下が見事に釣られる。

「お土産?」

「そうです。古いお友達と会った時、自慢できることがないと寂しいでしょう?」

 それは、あれか! 死国で出会うことを言っているのか? なんと大胆な…いや、待てよ。と私は真顔になる。

 我ながら、通訳を続けながら、よく考えられたと後になって思うのだが。

 ああ! なぜ、いままで考えもしなかったのか! カイラス殿下を帝位に就けるのに、これほど力強い味方は他にいない!

 ただし、味方になってくれればの話であるが。

 いや! なってくれれば、ではない。なんとしてでも、味方につけるのだ。

 隠居と洒落込むあの一筋縄ではいかない女人をどうやって引っ張り出すか?

 エリス嬢が昨日に引き続き、与えてくれている知識。そして、いまの言葉をカイラス殿下が口にするだけで、あの母は大いに興味を引かれるだろう。

 生い先短い人生を、あなたは、土産話になるような出来事が一切ない、平坦な日々を送って、それで満足して死ねますか、と。言われて「はい」と引き下がるような女ではない。我が母ながら、血の気が多いからな。

 メイドが用意していた如雨露で、殿下が一生懸命水を撒くのを手伝いながら、思いを巡らす。

「では、早送り~!」

 嬉々としたエリス嬢の態度が、カイラス殿下の、そして、私の気持ちを盛り上げる。

 魔法の白い粉を撒かれ、水を与えられ、それを吸い上げながら、一度、枯れ落ちた紫陽花は、再び芽吹き、その時には、青紫から濃いピンクへと、見事に花の色を変えていた。



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