50、マロウブルー
「失礼いたします」
汗を拭い、できる限り身なりを整えてから、メイドに扉を開けさせたのだけど、すぐにそれも無駄になる。
王の客間では金の刺繍が目立つ壁紙に、深紅のカーテンがなお暑苦しく、部屋の四隅に大きな氷を置いて、侍女が大判の団扇を動かし続けてはいるが、室温は高い。
「…いつまで待てばよい。我は、もう、帰りたい」
豪奢な服が濡れるのも構わず、氷に引っ付いている三歳児が、件の帝国の第十一皇子というわけだ。
側近が通訳する都合上、意志疎通に多少のタイムラグはあるが、皇子様は、それに慣れているご様子。
「お待たせいたしまして、大変申し訳ございません」
こんな暑苦しい部屋で、礼儀もへったくれもない。さくさく事を進めよう。
「もう少し、涼しいお部屋をご用意いたしました。どうぞ…」
あの長ーい廊下をてくてく歩かせるのもなぁと。
「こちらへ、カイラス殿下。氷もいっしょに運びましょう」
彼の側近の片眉がピクリと動いたが、小さな皇子は、突然現れた台車に興味津々だ。
ええ。木魔法で、いま作りました。ゴンドラ型の、大きな乳母車とでも思ってください。
「行こう!」
自ら乗り込み、ついで氷を運ばせて、ご機嫌の皇子様だ。
丸板の車輪は、ごろごろ音を立てて煩いけれど、子供にとっては、却ってそれが楽しいらしい。
レッドカーペットのおかげで、揺れもそこそこ吸収されてるようだし。
ずっと馬車で移動されてきたわけだけども、室内を乗り物にのって移動するというのが新鮮だったらしく、次々現れ、後方に流れていく調度品や、天井画、窓から見える景色に夢中だ。
私が一度、列から離れたことにも気付いていない。
何食わぬ顔をして戻ると、彼の側近と目が合ったので、目礼しておいた。
後からメイドに聞いた話では、私が台車なんぞを出し、また、皇子様が嬉々として乗り込んでしまったがために、逡巡しながら仕方なく案内した貨物用の人力エレベータが、何気にいちばん好評だったらしい。
「到着いたしました」
「うむ」
薄墨の間は、それこそわびさびな感じで、子供受けがいいとは思えないが、とにかく格段に涼しいので、カイラス皇子もお付きの人たちも、誰一人、不満を示そうとはしなかった。
「カイラス殿下。よろしければ、こちらにお着替えになりませんか?」
側近が疑うような目を向けてくる気持ちもわからないではないので、そちらへ手渡すようにメイドに目で合図する。
「皆様の分もございます。もちろん、お手持ちの物の方がよろしければ、そちらでも。一応、荷物も運ばせていただきました」
こっちが、ごろごろがらがら移動しているうちに、裏方ってすごいよね!
「着てみたい」
側近が検針でもするように広げた衣服を見て、興味を示す三歳児。
「では、私はお茶の用意を」
一旦失礼して、ふぅと一息。第一段階クリア!
本当は私も着替えたいところだけど、一応、もてなす側だし、女性がズボンを履くことに、まだまだ上流社会は否定的だからなぁ。
侍女にお茶の用意をさせて、再び伺うと、カイラス皇子とその側近が、揃いの甚平でくつろいでいた。足元は藁草履で、いかにも楽そう。
ええ。これも、さっき私が作りましたよ、木魔法で! 綿や麻、藁は木か?と疑問は残るけど、できたのだから結果オーライだ。
さすがに護衛と侍女は着替えていない。側近は殿下に付き合ったのだろう、きっと。
「よくお似合いです。さすが海の男は、凛々しくてあらせられますね」
「ふふっ。感謝する。おかげで、だいぶ涼しい」
得意そうに笑って、すぐ慌てたように表情を引き締め、でも、ちゃんとお礼を言う。なんて可愛らしい。
「お気遣い感謝する」
陶製の椅子からすっと立ち上がって貴族の礼をした側近は、よく見るとカイラス皇子と似ているのよ。
二人共、よく熟れた小麦のような髪に、空色の目。よく日に焼けていて、いかにも夏、いかにも海といった空気を漂わせている。
その上、引き締まった体にラフな格好が、お世辞ではなく良く似合っているのだけど、自ら望んだ皇子殿下はまだしも、高位貴族に付き合いで、こんな格好をさせてしまって申し訳なかったかしら。
いまさらながらに、冷や汗がたらり。
遅ればせながら深く礼をして顔を上げない私に、側近の方がすぐに意を汲んでくれる。
「こちらはカイラス・フィズ・フカラス皇子であらせられる。私はその扶育を仰せつかっている、タイラ・フィズ・マクエス侯爵である」
「お初にお目にかかります。エリス・ティナ・バーランドと申します」
「お気遣い痛み入る。どうぞ、顔をお上げください」
これだけはどうしても外せないので、型通りのあいさつをしたが、そのせいかカイラス王子の眉がハの字になってしまっている。
「無礼を承知で、ここからは少し気楽にいかせていただきますね。カイラス殿下、ディーバイ王国へようこそ! 私のことはどうぞ、エリスお呼びください」
「わかった! エリス」
にっこり笑いかけると、小さな皇子様も満面の笑みで応えてくれる。
よかった! 本当にこの体型は、不安になっている子供に受けがよいようだ。
「こちらで用意しておいてなんですが、椅子が硬くないですか?」
「うん。ちょっと硬いけど、冷たくて気持ちいいよ」
よかった。何も言わなくても気を利かせてくれたメイドたちに感謝だ。
「これからお茶を淹れますが、カイラス殿下は、ミントはお好きですか?」
「うん? あのスースーするやつか? …じつは、ちょっと苦手だ」
「では、ミントを入れるのはやめておきますね」
テーブルの上に並べられるものに特に関心を示さないのは、給仕されて当たり前の生活を送っているからだろう。
さて。でも、ここからはどうかな?
ハーブティーは王妃が好まれるので、耐熱性のガラスの茶器は王城にも揃っている。
マロウの花は、どちらかと言えば濃いピンク寄りの色をしているのだが、注いだお湯は、なんとも美しい青紫色になる。
「わぁっ」
テーブルに手を付いて身を乗り出す姿が微笑ましい。
「お気に召しましたか?」
「うん! 夜明けの海みたいだ」
じっくり濃く入れて、氷を入れたグラスに注ぐ。
「ほう…」
マクエス侯爵も、感心したように声を漏らす。
そう。なんとも涼し気で、こんな時期には眺めるだけで、ほっとするのよ。
「さぁ、カイラス殿下。お毒見をしていただく前に、これに殿下に魔法をかけていただきましょう」
「…我は、魔法は使えない」
キッと睨まれてしまった。
その者が魔力を有しているかはどうかは、見る者が見ればわかると、一般的には言われている。フカラス帝国の第十一王子に魔力がないのは、比較的有名な話だ。
さっきまで和やかだった空気が嘘のように、近習たちの表情も硬い。
私も内心ドキドキしているが、わざわざ危ない橋を渡るのだ。渡りきらねば意味がない。
「それは、どうでしょう? カイラス殿下。やってみれば、できるかもしれません。もちろん、できないかもしれませんが、やらなければ絶対にできません。騙されたと思って、そちらのレモンを一枚、グラスに入れてみてくださいな」
前世ではよく知られていることなのだけど、こちらでは誰もそんなことをしようとは思わなかったようだ。
「…やってみる」
今日はじめて会った私の言うことをよく聞いてくれた、また、よくそのまま通訳してくれたと、後になって感心するのだが、この時、幼い皇子は一歩を踏み出した。
よかった~。余計な口出しはしなくても、マクエス侯爵の目が怖いのだもの。
「うわぁ!」
「おおっ」
「まぁっ…」
王城の侍女まで、思わず声を上げている。
深い青紫から、薄っすら可愛いらしいピンク色に、冷茶は色を変えていた。




