閑話 僕のエリス⑦
予めわかっていたことではあるが、エリスと別のクラスになってしまったことを実感して、僕は密かに落ち込んでいた。
それでも、それ以外、特に問題なく、学園生活の初日が終わろうとしていた。そう、思っていた。
エリスのクラスでは、サンガは別として、エリスより身分の高い者はいない。そのこともあってか、皆、彼女に対して行儀がよく、外の活動で知り合った気の置けない仲間も数人いるとのことで(どこの令息・令嬢であるかは、すでに確認している)僕は安堵していた。
しかし、帰りの馬車の中で、エリスが今日見た、思いがけぬ出来事と、それに連なる思い出を話してくれたことで、僕は焦燥感に胸を焼かれた。
エリス! その無垢さが可愛いのだが、なぜ、そんなに無防備なんだ!
人のことであれば、ちょっとしたことから多くのことを読み取り、ほかの誰も思いも付かないアイデアを次々に提案する君が。
幼かった日のこととはいえ、目の前の大人が息子の花嫁候補として、自分を見定めに来ていたことに気付かなかったとは!
相手はさぞや、がっかりしたことだろう。察するに余りある。
ハザウェイ商会は、王家御用達にもなろうかという大商会だ。
その長だ。瞬時に奇貨を見抜く目、嗅ぎ分ける鼻を持っていないはずがない。
息子の話を聞いただけで、その娘の才覚が息子を、引いては己が商会を大いに飛躍させると予見しただろう。
一方で、只の平民ではないと予想はしても、男爵の令嬢くらいであれば、娶るつもりであったろうし、その力があった。
しかし、バーランド家の当主は代々伯爵位を世襲し、その令嬢は第三王子の婚約者である。
片田舎の行商人ならばまだしも、その名、その関係を知らぬはずがない。
彼はある老子爵の紹介を受けて、瞬時にそれを理解した。子爵が理解させるためにエリスの家名を口にしたと言った方が正しい。
二コルという少年よ。残念だったな。
いや、なに。僕に君を嘲笑うような余裕などない。むしろ身につまされる思いだ。
初恋は実らないという。僕の大嫌いな言葉だ。
しかし、そのジンクスを破るのは僕だけでよい。
じつは、二コル・ハザウェイの名は、エリスから聞くより先に知っていた。
学園で一年前から起きている、ある騒動の中心人物にかかわりがあるからだ。いや、彼もまた渦中にいると言ってよい。
いまは、その中心人物、とある令嬢に夢中なようだが。
エリスの話を聞いてから、報告書の内容を思い返すと、気付かないではいられない。
彼は、エリスの面影を追っているだけなのではないか?
僕に言わせれば、似ているところなど一つもない。報告者は、王子である僕を慮って「自由な気風の令嬢」と記しているが、あれは単に奔放なだけだ。
エリスは違う。幼い僕に、表裏一体という言葉を教えてくれた彼女だ。自由には責任が伴うことをよくよく承知している。
それでも彼女のまとう空気は、側にいる者の呼吸を楽にしてくれる。それはまるで、凍えた梢を目覚めさせる陽光。乾ききった大地をしっとりと潤わせる慈雨。
「エリス。僕と二人で、孤児院に慰問に行った時のことを覚えているか?」
「ええ。覚えております、殿下」
僕にとっては大切な思い出であるが、その中には、エリスが忘れているなら、忘れたままにさせておきたいこともある。
「アイリーンと呼ばれていた、特徴的な色の髪をした少女がいただろう?」
「はい、ピンク色の髪をした。ああ、まあ! 私、聞いておりましたのに、気付いておりませんでした」
エリスは「己が頭の悪さに嫌気が差します」などと嘆いているが、そんな必要はどこにもない。
いったいどこの誰が、あの不遇で不愉快で身勝手な孤児が、男爵家の令嬢として学園に通い、目の前で(シーツ越しとはいえ)恋の駆け引きに興じているなどと思うだろう。
できるなら、エリスには知らせることなくすませたかった。楽しみにしていた学園生活を謳歌してほしかった。
しかし、状況が変わった。少しでも関わる恐れがあるならば、用心してもらわなければならない。
僕はエリスに、これまでのあらまし、そして、これからの見通しを整理して伝える。
エリスも耳にした彼女の「姫になりたい」という発言の通り、最初に(大変、俗な表現で恐縮ではあるが)狙われたのは、王太子である大兄様だ。
しかし、大兄様はもとより王太子としての自覚が十二分にあり、物事の後先を考え、常に己を律することのできる方である。
その上、はっきり言ってしまえば、アイリーン・シェリー・オースタン男爵令嬢は、大兄様の好みではなかった。
「あのような女人に惹かれる者もいるのか?」
真顔で近習に尋ねられたそうである。
アイリーンは、大兄様にアプローチ(報告によれば、じつに下品なもの)を続けつつ、その側近候補である近衛騎士団長の令息と、法務大臣を務める侯爵の令息を、次々に篭絡。
いまは最終学年に在籍するこの二人の他に、自分より一学年上の二コル・ハザウェイを虜にした。
大兄様にかんしては、その婚約者のガード(猛攻としか言いようのない遣り取りが今現在も進行中)により、距離を取るようになり、その年のうちに興味の対象を、第二王子である小兄様に移したようである。
小兄様の婚約者は、大兄様の婚約者の派閥に属し、同じように牽制はしているものの、小兄様自身がのらりくらりと少しは脈のあるような素振りを見せるので、目下、アイリーンの本命は小兄様であるという状況になっている。
「もしや。第二王子殿下は王家を代表して、そのように動かれているのですか?」
ほら!と誰にともなく自慢したくなる。やっぱり、エリスは賢い。
「うん。その理由は、アイリーンの行使する魔法にある」
古来より、聖魔法を扱える者はごくわずか。アイリーンのように、ほんの数分、狭い範囲にしか影響を及ぼすことができなくても、このような対処をしなければならないほど、影響力がある。
「純白浄化ですね」
じつのところ、その魔法に、いかほどの効果があるのかわかっていない。聖魔法を究極まで修めた者が、これまでに一人もいなかったからだ。
ただ、人の心というのは不思議なもので、聖魔法の使い手がいるというだけで(それがどんなに未熟であっても)庶民ですら邪悪を退け、狂信者は正気に返り、聖者もまた奮い立つことができる。できてしまう。
故に、初級の浄化しか使えない男爵家の令嬢であっても、第二王子自ら機嫌を取る羽目になる。
小兄様には感謝しても、したりない。
「ハイマンには無理だろう」
合理主義で、自分の婚約者にさえ、じつは露ほども興味を持っていない兄が、「軽蔑しか感じない低能な女」(第二王子の言による)に付き合っているのである。
小兄様曰く「たいていの女は男の足を引っ張るもので、男を高めてくれる女性は稀」とのこと。
アイリーンとの遣り取りで、よほど精神力を削られているのか、珍しくぐちぐちとこぼしていた。
「バーランド嬢は、その稀だ。お前が羨ましいよ」
常に自信に満ちあふれ、妬みとは無縁(常に妬まれる側)の小兄様から言われるとは。
「いや。幼いお前が、自分の力で勝ち取ったものだ。誇っていい」
その彼女は、いま目の前で、深い緑の宝石のような目に、なお深い理解の色を湛えている。
「側室として娶ることをお考えなのでしょうか」
「そうなるだろう」
エリスは、何かを思案するように頷いた。
「すると、二コルは、いえ、二コル・ハザウェイは袖にされてしまうのですね」
「そういうことになるか」
はっきりと言い切れないのは、アイリーンが多くの男たちとの関係を並行して保ち、それが成立してしまっているせいだ。
「気になるか?」
「そうですねぇ。昔の誼みで、何かよいアドバイスでもできればいいのでしょうが。私はサンガ曰く『鈍い』らしいですし、気持ちが集中している時は、外野の声など煩いだけでしょう。もし、彼が助けを求めてきたなら、話を聞くくらいはしようと思いますが。あれ以来、一度も会っておりませんし…ええ。なぜか、彼は件の集まりに来なくなったのです。彼の性格ならば…そうですね。人の性格など、早々変わらないでしょうから。私に弱みなど見せないと思いますよ」
狩った獲物を捌くが如く、すっぱりと分析して見せた後で、珍しくもじもじと、上目遣いに僕を見る。
な、なんだ? 僕は何をした? 大いに焦る一方で、そんな彼女が可愛いくてしかたない。
「殿下こそ、お気を付けくださいましね。様々なご令嬢が、その」
「僕の婚約者はエリスだ。僕には、君だけだ」
「…はい」
恥ずかしそうに、でも、うれしそうに頬を染めて俯くエリス。思わず席を移って抱きしめようとしたところで、無情にも護衛騎士の声が響く。
「バーランド伯爵邸に、到着いたしました」
どこか申し訳なさそうに聞こえたのは、僕の情けないような心持ちのせいだろうか。




