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29、出歯亀


 机に向かっていることが、どちらかといえば苦手な私が、そこそこの学力を保っていられるのは、サンガのおかげだ。

 話し言葉には問題のない彼女も、書き言葉(特に専門書)の普段使わないような漢字や言い回しには泣かされている。

 そう、そう。一生懸命、辞書を引いても、混乱させられるばかりなのよね。まったく王国語(日本語)というものは!

 まさか、サンガに嘘を教えるわけにもいかないし。個人的な学習では、集中力を途切らせがちな私も、大切な友人のためとなれば、別人のように頑張れる。

「ほら! こちらですわ」

 サンガお勧めの近道は(彼女も入口を見かけただけで、通るのは初めて)城や屋敷でいえば、使用人が主人たちを煩わさずに移動するための、隠し通路のようなものだと思う。

 事実、小さな坪庭のようなところに出たのだが、芝生が敷き詰められているだけで、木も花もない。

 何本が張られたロープに、白いシーツが掛けられて、風に揺れているだけだ。

「あら?」

 サンガは戸惑いの声を上げるが、こういう所は、たいてい行き止まりということはない。

「たぶん、向こうに抜けられるはずよ?」

 何となく声を潜めてしまうのは、やはり、心のどこかで、ここが自分たちの領域ではないと思うからだろうか。

 二人で手を取り合って、そっと壁沿いを歩く。二列目のシーツを横目に見たあたりで、私たち以外にも人がいることに気付いた。

 幸いと言っていいのかどうか、太陽の向きで、こちらからは向こうの影がシーツに映って見えるが、彼らは話に夢中で、私たちの存在には気付いていない様子。

 盗み聞きする気はなかったのだが、つい足が止まってしまう。ここで見付かるのは、お互いに気まずいだけだ。

「なぁ、いいだろう?」

 声変わりしたばかりなのか、少しかすれ気味の声ながら、すでに男を感じさせるしゃべり方をする少年。

「え~」

 鼻にかかった甘え声は、間違いなく少女のもの。

 なんとなく前屈みになっていた私たちは顔を見合わせる。

「あんな奴より、オレを選べよ!」

 ふんすふんすと鼻息を荒くしたサンガが、ばしばしと私の肩を叩く。

 しーっ、しーっ! そんなに音立てたら、見つかっちゃうから。

 こくこく頷きはするけれど、潜む気がまるでなさそうな、彼女の興奮もわからないではない。

 楽しみのためだけに読む小説は、私は歴史物や推理物が多いけど(楽しんで読むだけで、歴史的事柄も人名も地名も覚えないし、推理もしない)サンガは、ラブロマンスが好きだからなぁ。

 私だって、いかにも青春って出来事を間近に見て(聞いて?)ドキドキしてる。

 でも、あれ? 私たちがしているこの行為、なんていったかな。確か、出っ歯な亀さんが覗いていたから…。

 いけないと思うほどに目(と耳)が離せない。

「貴族なんかつまらねぇぞ? 人目ばっかり気にして、自分の金を好きに使うこともできやしない。オレだったら、そんなのとは比べものにならない贅沢をさせてやる」

「でもぉ~。アイリーンわぁ、お姫様になりたいのよぅ?」

 くねくねと身をよじる少女の影に、じれたように少年の影が迫る。

 サンガと私は、それぞれ自分の口を両手で押さえて、息を潜めるばかりだ。ど、ど、どどどうしよう?

「いやぁ~! そんなことするなら、アイリーンは二コルのことキライになっちゃう」

 どっから出してるの?って悲鳴なのに、切羽詰まったものがどこにもない。

 要するに彼女は、すでにこの年齢で、完全に男を手玉に取れる女なのだ。あな恐ろしや。

 惚れた弱みか、強引に迫りかけた手を下ろす影には、悔しさが滲んでいるように見える。まあ、こちらが勝手な感情移入をしているだけだけど。

「じゃぁね~。二コルのやさしいところ、アイリーンはスキだよ?」

 パタパタと軽い足音が去って行って(こちらに来なくてよかった)残された小さな獣の唸り声が聞こえる。

 その時、何の悪戯か、ひときわ強く風が吹き抜け、シーツが大きく捲れ上がる。

 一瞬だけ。その少年の姿が見えた。

 驚きに見開かれた彼の目と、私の目が合う。

 紫の髪。黄緑色をした左目と、水色の右目。

 あ。私、この子を知ってる。あの頃より、ずいぶん大きくなっているけど、間違いないはずだ。こんな色の髪は、本当に珍しいもの。まさか、オッドアイだとは思わなかったけれど。

 シーツが元に戻った時、その少年の影は消えていた。一瞬で遠ざかる足音。

 サンガは夢から覚めたように、目をぱちくりさせている。

「なんというか、すごかったですね」

「そうね。なんだか悪いことをしたわ」

 そうは言っても、いま私たちにできることはなく。

 どちらからともなく、いまのことは口外しないことを誓い合って、その場を後にした。



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