22、お妃教育
お妃教育は順調だ。
午前中、たったの一時間。科目は、マナーの一科目だけ。
私はすでに、お父様が雇ってくださった家庭教師に一通りのことは習っているし、及第点はもらっている。
これはきっと、サンガと語学の勉強をするための隠れ蓑を、王妃様が用意してくださったのねと思っていたら、甘かった。
私がこれまで習ってきたのは、いわば目下の者のマナー。王城で習うのは、目上の者のマナー。
お辞儀一つとっても角度が違う、タイミングが違う。招かれる側から、招く側へ。立場が変われば、見るべきものが変わり、手配しなければならない項目も増える。
伯爵令嬢ならば、苦笑や嘲りをもって許された些細なミスやお茶目も、王子妃ともなれば、相手を侮辱したことになり、国際問題にまで発展し得る。
教えてくださったのは、王城の典礼を司る侯爵の奥様。
教師役として想像していたより、ずっとお若くて、まだ三十代前半かと思うのだけど、一筋の乱れもなく髪を結い上げ、どんな時も背筋をのばして、にこりともなさらない。当然、マナーは完璧。
それでいて、杓子定規な肩肘張った雰囲気は微塵もなくて、美しい景色の映り込んだ湖面を連想させる方である。
生徒は、私一人ではない。
第二王子の婚約者、さる侯爵家のご令嬢が一緒。前もって聞いた話では、私より二つ年上だということで、嫌な予感がしていたのだが、果たして金髪鬼ロールの取り巻きの一人だった。言われてみれば、先日のお茶会にもいましたね。
早速、私の礼儀がいかになっていないか論い始めたのだけど、「私語は厳禁です」先生にぴしゃりとやられていた。ざまあない。私も即、立ち方から直されたけど。
先生は、基本的に穏やかな方だ。感情の起伏を感じさせず、当然、声を荒げることもない。ただ、違っている点をたんたんと指摘する。
こちらが何度間違えても、きのう教えたことを忘れてしまっても、先生のなさることには一ミリのずれもない。
そして、初日に行わせたことを、次の日も、また次の日も、くり返し行わせるのだ。
物覚えがよいと自負しているらしい、私のたった一人の同級生は、早々に音を上げた。
「先生。立ち方や歩き方、ごあいさつの仕方は、私はもう覚えました。早く次に進みたいのですが?」
先生は初めて厳しい顔をなさって、「百年早いですね」とおっしゃった。
その場では唇を噛んで、涙をこらえていたご令嬢だったが、翌日から遅刻するようになり、それを注意されると、開始時間ぎりぎりに来るようにはなった。が、いつも途中で泣き出し、早退するようになって、ある日から来なくなった。病欠というやつだ。
私は、ほっとした。彼女がいると、空気が乱れる。それをもっとひどくしていくと、あの縦ロール主催のお茶会の雰囲気になるはずだ。
前世の記憶を持たない、ただの子供だったなら、私もまた、耐えられなかったかもしれない。
この静謐な空気。澱みのない時間。
登城した時の、閑散としている城内の様子も好きだ。
大抵の貴族は午後から活動をはじめる。もちろん、それ以外の中堅以下の役人や使用人たちは、すでに動き出している。そんな彼らを横目に、廊下をそっと歩いて行く時の、緊張感とわくわくする感じは、けして薄れることがない。
「授業をはじめます」
「よろしくお願い致します」
私も、はじめは緊張し、体のあちこちに力が入っていたけど。ある時、先生は、どんなに生徒ができなくても、焦りもしなければ面倒にも思っていないと気付いた。
きっと、彼女のように自然体でいいのだ。それが当たり前になることを目指しているのだ。
かつて、おばあちゃんが家事を、おじいちゃんが畑仕事を、毎日毎日、何十年もするうちに、最適化され、ある種の美しさを持った動作のように。
考えて動くのではなく、考えるということさえ忘れ、それでも動けるようになるまで、何度でも、私は彼女に迷惑をかけてよい。彼女はそれを迷惑だとはけして思わない。
なぜなら、彼女は先生で、私は生徒だから。甘えでも傲慢さでもなく、ただの事実がそこにある。
思えば、先生とマンツーマンには慣れているのよね。性別も年齢も違う校長先生を偲べば、そこからスライドするように、先生のことを慕わしく思うようになった。
先生は、一つ一つ教える。何度でも直してくださる。
経験はないけれど、禅や茶道もこんな感じかと思う。
二週間ほどたって、授業の終わり際に、先生が私に尋ねられた。
「つらくはないですか?」
するりと言葉が口をついて出た。
「私、何も考えておりませんので」
先生は、はじめて小さくお笑いになった。




