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優美な貴族の邸宅と言うには厳めしく城塞と呼ぶにふさわしいその屋敷に今日も元気な少女の声が響く。
「意地悪オヤジーーーー!!! いつか絶対にギャフンと言わせてやるんだから!」
夕闇を溶かした闇色の髪を揺らしながら地団駄を踏む少女の姿を屋敷の者たち微苦笑を零しながら一瞥してそれぞれの仕事へと戻っていく。
モルゲンデンメルング――――通称、黎明の国―――――そう呼ばれるこの国で侯爵の地位を賜り、国の絶対的守護者と謳われ、夜の闇なる組織の頂点に立ち裏社会を牛耳る少々特殊なこの家でもう二年ほど続いている馴染みの光景だ。
二年前の夏、少女が十歳の誕生日を迎えたその日に彼女は、家族はもちろんこの家で働く者たちの前で高らかに宣言してみせた。
「本当に欲しいものを手に入れるためならなんだってするわ。
全部まとめて私が引き継いであげる。だからさっさとその椅子寄越しなさい!」
誰もが驚きに固まる中、少女の父親だけがニヤリと笑みを零した。
その日はじめて子どもたちの前で父親以外の――――夜闇の侯爵の顔を見せた父親に少女はもちろん、少女の双子の弟も幼馴染である二つ年下の少女も揃って気を失ったのだった。
しかし、少女はへこたれなかった。気丈にも次の日には父の執務室に突撃し、宣言通りその椅子を奪い取るために行動を始めた。そうして見事に彼女はこの少々特殊な侯爵家において雑用係の任を手に入れたのである。それから二年の月日が流れた今も少女は元気よく父親に噛みつきながら雑用をせっせとこなしている。
今日も今日とて積み上げられた書類をせっせと仕分けている少女の耳に軽やかなノックの音が聞こえた。返事をする前に開いた扉に抗議の声を上げようとした瞬間、どこか興奮したような喜びを隠しきれていない声が響く。
「姉さん、兄さん今日帰ってくるって」
顔を上げれば無気力無表情が標準装備の双子の弟が上機嫌で少女を見つめていた。
「うそ!聞いてない!!
どどど、どうしよう!!服!髪!!!」
ガバっと立ち上がった少女は勢いをそのままに執務室を飛び出し、自室である幼馴染と共有の子供部屋に駆け込んだ。
少年は慣れた様子で崩れそうな書類の山を整えて少女の後を追いかける。
「落ち着きなよ、セイラ」
クローゼットに駆け込み、あれでもない、これでもない、とポイポイと服を放り投げていた少女―――セイラは振り返ることなく言い放つ。
「落ち着けるわけないでしょ!兄様が帰ってくるのよ?
ただでさえあの意地悪オヤジに扱き使われてヨレヨレなのに……。
あああああ!もっとオシャレ研究しとくんだった!!!」
鬼気迫る様子で返ってきた答えに少年はため息を一つ吐いてクローゼットの一番目のつくところに宝物の如く飾られている一着の服に目をやる。
「それは?そのふんわりしたやつ」
「ダメ!絶っ対にダメ!!
これは兄様が買ってくれたワンピースだもん。汚せないの!永久保存なの!」
「はぁ……。兄さん喜ぶと思うけど?」
「……で、でも」
「姉さんが着てるとこを見たくて買ってくれたんだと思うけどな」
「うう」
「髪は俺がやってあげるから早く着替えてきなよ」
「……アルバ、生意気よ!」
呆れた様子の片割れ、アルバの視線にセイラはパチンとその頭を叩いてさっさと着替えに行く。
大きなため息とともに零された理不尽だという呟きは聞こえなかったことにした。
着替えを済ませてソワソワと落ち着かない様子で座っているセイラにアルバは微苦笑を浮かべながらその艶やかな黒髪に櫛を通す。
「ねぇ、アルバ。兄様はまだよね?お出迎えには間に合うわよね?」
「さっきジオが迎えに出たところだから間に合うと思うよ」
「はやく!はやく可愛くしてね!」
「はいはい」
すっかり乙女モードに入ったセイラを呆れ顔で宥めながらその手は作業を続ける。
鏡に映る期待と不安を綯交ぜにした顔には、下心丸出しで父の跡を継ぐと言い切った傲慢さや、あの父相手に喧嘩を売った凛々しさは欠片も見当たらない。
そこに居るのはただの恋する女の子だ。
今、セイラの心をいっぱいにしているのは間違いなく、物心がつく頃には寄宿舎のある学校に入って長期休暇にしか帰って来ない兄だろう。
七つ上の血の繋がらない兄は一緒にいられる時間が少なくてもアルバにとって誰よりも頼りになって、尊敬している兄さんだし、セイラにとってはその心の大半を占める存在だ。
アルバは恋だの愛だのということはまだイマイチ理解できないが、それでもセイラがこんな顔をして健気に待ち続けている相手は兄だけだから、片割れである自分くらいは協力してやってもいいかなと思ってはいる。
ただし、難攻不落の超鈍感な兄がセイラに完全攻略されるその時までは独り占めは認めないけれど。
「はい。できたよ」
「変じゃない?可愛い?」
「可愛い可愛い」
扱いが格段に面倒になった姉を適当にあしらいながらアルバはさっさと足を動かして玄関ホールへと向かう。
その後を普段からは考えられないくらいにソワソワしながら付いてくるセイラは確かにちょっと可愛いのかもしれない。
そんなことを思いながらアルバもまた大好きな兄に甘える為にネコを被り始めるのだった。