休日、小旅行する1
パカリと蓋を開けると、食欲をそそる香りの湯気が立ち上った。電灯に照らされた米粒はひとつひとつがツヤツヤと光っている。プラスチックのシャモジをそっと差し込んで混ぜると、柔らかく適度な重さを感じる。釜の中のごはんを半分ほどどんぶりに盛り付け、タッパーで漬けていたサーモンの刺身を静かに並べる。中央には大葉を敷いて、薄切りにした漬けサーモンを並べて巻きつけたものを乗せる。別のタッパーからイクラを掬ってさらに丼に散らすと、世にも美しい宝石が出来上がった。
『ヅケサーモンハタッパート冷蔵庫、白米ハ炊飯器……ヒカリサン、加熱調理ノナイ料理デハ、札束ノ出番ガアリマセンネ……』
「そんなことないよ札束、この調味液いい感じに美味しそうだよ」
『風味ガツクヨウニ、醤油ノ一部ヲ焦ガシ風味ニシテミマシタ。ヒカリサンノ美味シイ食卓ニ貢献デキタナラ嬉シイデス』
「ありがとう札束。いつも美味しいごはんを作ってくれて本当に嬉しいよ」
「おい三科ヒカリ、イクラを載せすぎだ。白米とサーモンの比率から考えて既にスプーン5杯分ほど過剰に載せている」
側面のランプを光らせる万能オートクッカー、札束と心の交流をしているとドクターシノブが邪魔をしてきた。小ぶりのどんぶりに白米を盛り、漬けサーモンをトッピングしている。美味しそうなサーモンを遠慮なく取られて文句を言いたい気持ちに駆られるものの、この国産サーモンとイクラの高級セットを持ってきたのがドクターシノブなので不満を言いにくい。
『アアッ、ヒカリサンノタメニ開発シタ、アトガケスペシャルダレガドクターシノブノ魔ノ手ニ……!』
「誰が魔の手だ。そもそも私が開発したのだと忘れたのか、オートクッカー札束」
『今ノ私ガイルノハ、ヒカリサンガ優シク接シテクレタカラデス。私ハヒカリサンノオイシイ生活ヲ守ルトイウ使命ニ喜ビヲ感ジテイマス』
「札束……」
『ヒカリサン……』
「貴様らいい感じの空気を出すんじゃないっ!!」
図々しく割り込んできたドクターシノブが札束に文句を言うのは、もはや毎日の日課と言ってもいいほどだった。安アパートの隣室に住んでいるドクターシノブは、魔改造のおかげで毎日気軽に遊びに来ては一緒に食事を摂っているのだ。たまに面倒だと思うこともあるけれど、大学の課題について的確なアドバイスをくれるので無碍にできない。講義など受けずともホイホイ学位を取ってしまうドクターシノブが、平凡な大学生活を送っている私の課題内容をなぜ熟知しているのかについては深く考えないようにしている。
イクラの弾ける美味しさに、サーモンのまろやかな旨み、そして炊き立てのご飯の約束された美味しさ。ひと口食べるごとに唸りたくなるほどの美味しさに浸っていると、テーブルの向かいでドクターシノブが咳払いをした。
やっぱり5合炊いててよかった。はやくおかわりしたい。
もう一度、いや三度咳払いが聞こえてきたので、私は意識をサーモンから目の前に移す。
「どうしたんですかドクターシノブ。あなたのダミー会社が作った新種米『あきしのぶ』、かなり美味しいですよ。特A間違いなしです」
「当然だが今はそれはどうでもいい。三科ヒカリ、貴様、明日は休講日だな」
「何で知ってるんですか」
「盲腸で倒れた担当教授はSジェネラルの傘下病院へと運ばれた。適切な治療は勿論、この際隅々まで精密検査をして虫歯から水虫まで隅々まで治療してやろう」
「教授は結構なお年だしいいことですね」
「いやそれもどうでもいい」
ドクターシノブはもう一度咳払いをする。私はおかわりのために席を立っていいか少し迷った。炊き立てごはんの美味しさは時間の経過に反比例する。加速度的に減っていく美味しさをみすみす逃すのは主義に反する。
「とにかく明日、貴様は暇だな?! 朝8時半に玄関前に集合するがいい!! 貴様を首都圏からすぐにもかかわらず自然豊かなキャンプ場へ連れていってやろう!!」
「あ、明日は予定あるんで」
「なんだと?!」
ドクターシノブがガタンと立ち上がったので、私も空のどんぶりを持っておかわりにいくことにした。残りのごはんを盛り付けて、内釜をシンクに移して水を溜めておく。残ったサーモンとイクラを贅沢に盛り付け、大葉は刻んで散らし、札束特製の後がけダレをとろりと垂らした。なんのハーブの香りかはよくわからないけれど、タレのややエスニックな雰囲気がサーモンによく合う。
輝く海鮮親子丼を持って席に戻ると、ドクターシノブはまだワナワナしていた。ひと口食べたのち、私はどんぶりを持ち上げる。その瞬間、バンと叩かれたテーブルが揺れる。
「許さんぞ貴様ッ!! 私という者がありながらそんな不埒な真似をッ!!」
「なんの想像したか知りませんけど、ドクターシノブも一緒についていきますか?」
「い、一緒にだと」
ドクターシノブの表情が怒りから怯みに変わる。
「2人で予約しているので、ドクターシノブの予定が合わなかったらどうしようかと実は思ってたんです。サーモンのおかげで誘うの忘れてました」
「ふた……予約……?! 貴様っ!! なぜそんな重要なことを忘れる?!」
「サーモン美味しかったので。でもちょっと遠出するので、もし予定が合わなければ」
「行くに決まっているだろう!!」
「じゃあ10時くらいに出発しましょう。待ち合わせは玄関前でいいですか?」
立ち上がったまま私を凝視していたドクターシノブが、陸揚げされたシャケのようにパクパクと口を動かしている。かと思うと、頬をマグロよりも赤く染め上げてから息を吸った。
「そ、その約束、絶対に違えるなよ三科ヒカリ!!!」
ビシッと私を指して言ったドクターシノブは、立ち上がって去る。その前に空のコップを持ってシンクに立ち、きちんと洗うのを忘れないあたり、なかなか育ちがちゃんとしている人だ。どんぶりにはまだサーモンが残っていたので、丁寧にラップをしてから小脇に抱え、ドクターシノブは自室へと帰っていった。
ひとり取り残されると、静かに食べられる喜びと急に騒がしいのが消えた物足りなさが半々くらいの気持ちになる。
『ヒカリサンヒカリサン、オ味ハドウデスカ』
「美味しいよ」
『ヨカッタデス。ココカラハ札束ガ、ヒカリサンノ食卓ニ小粋ナ話ヲ添エマスネ。上方落語ヲマスターシタノデ、オ好キナ演目ヲ教エテクダサイ』
「あ、そうだ札束。明日出かけるからお昼と夜は用意しなくていいからね」
『オーゥ……』
外食宣言をすると札束は悲しそうに点滅したけれど、それでも上手な「地獄八景亡者戯」を披露してくれたのだった。




