それからの2人3
「ドクターシノブ!!」
ゆっくりと長身が崩れ落ちる。膝を付き、胸を押さえるようにしてドクターシノブはうつ伏せた。
「裏切り者、ドクターシノブ!! 貴様の命、もらっ……」
茂みから躍り出てきた人間に力を当てて昏倒させる。動いた全ての人間に覆いをかけて、それから私たちだけも覆うように力を使った。温室全体を覆うためのものも使う。これで誰も攻撃できないし、攻撃されもしない。
「ドクターシノブ!」
「三科……ヒカリ」
胸を押さえ続けるドクターシノブを抱えて、仰向けにさせる。治療のために銃創を見たいのに、しっかりと覆った手は強張っていて中々外せない。
「傷を見せてください!」
「お願いだ……三科ヒカリ。死ぬ前に、結婚すると言ってくれ」
「何言ってるんですか! 治療が先です! どこを撃たれたんですか!」
痛みに顔を顰めているドクターシノブは、事態をわかっていないのだろうか。
背中に貫通していない以上、銃弾が体内に残っている。場所によってはとても危険だし、毒物を仕掛けられている可能性もある。
それなのにドクターシノブは私の手を逆に握りしめた。
「頼む……頷いてくれ。でなければこのまま、死なせてくれ」
「なんて馬鹿なことを」
「き……貴様と結婚できないくらいなら、死んだほうがマシだ」
「ドクターシノブ」
ぐっとドクターシノブが私の腕を引っ張った。そのまま私の上体が傾いて、ドクターシノブの上へと重なる。
顎の方へとズレて着地した唇を、そのまま修正するようにドクターシノブの腕が私の頭を抱えた。
しっかりと抱き寄せられる。私が目を瞑る寸前まで、ドクターシノブはじっとこちらを見つめているのがわかった。
あたたかい唇が口を塞ぐ。私は諦めて、ドクターシノブに手を回した。
「……ぶっ飛ばしますよ」
「貴様ならこの私を倒す権利をやってもいい。いたたたおい貴様怪我人だぞ!!」
グリグリとスーツに穴の空いている部分を押すと、ドクターシノブがパッと私から離れた。
そのスーツには血の一滴すら付いていない。
「防弾チョッキ着てるならそう言ってください。あんな大げさな芝居をしてまで気を引きたいなんて、男としてどうなんですか」
「今日は防弾チョッキは着てこなかった。途中まで自分でもこれは死んだと思っていたのは事実だ。だから芝居ではない」
すっと起き上がったドクターシノブは、既にいつもの表情へと戻っていた。やや上気した頬は張り倒したくなるほどである。
「恐らく、公共の交通機関を利用したことにより勝機を見たのだろう。あの腕章は悪の組織ブラックミールのものだな。私が政府側に寝返ったと見て恨みを持っていたようだ」
「冷静に分析しないでください。防弾チョッキなしなら、なんで生きてるんですか」
ドクターシノブがスーツの内ポケットに手を入れる。そして中から取り出したものを私に見せつけた。
小さな冊子を重ねたものである。
「……預金通帳?」
「ここに14冊ある。これは日本のものばかりだが、もちろん世界各国の銀行へも分散させている。前に貴様に見せたときよりも大幅に増えているぞ」
「なんでそんなものを」
「決まっているだろう。貴様に結婚を承諾させるためだ。未だに金の話となると平静を装っていても貪欲な目は健在だからな……」
穴の空いた通帳を開けてみると、ドクターシノブの言う通りかなりの金額が記載されていた。全て送金のみで、毎回高級車が買えるほどの金額が記帳されている。
個人的な資産のみだと強調するドクターシノブの話を聞きながら、ついつい通帳を全てめくってしまう。通帳の数字を数えることは私の趣味の一つなのだ。これだけ読み応えのある通帳を見せつけられると抗えない。
14冊目まで丁寧にめくって、それから私は気が付いた。
「あれ、これ貫通してますよ」
1番下に重ねられていた四藤銀行の通帳も、最後のページまで穴が空いている。通帳は中々良い紙を使っているため、これを全て貫通したとなるとかなり強力な銃だったのではないだろうか。ドクターシノブを見ると、彼はもう一度手をスーツの中にやった。
そうして取り出したのは、ややくすんだシャンパンゴールドの箱である。いや、既にひしゃげているので、箱だったものだ。
ドクターシノブはそれをこじ開けると、中から金属片を取り出した。私の手へとそれを載せる。
いびつになった指輪に、裂けかけた銃弾が張り付いている。ダイアモンドは外れたようで、大きな台座だけになっていた。
「私もプロポーズの定石くらいは心得ているのでな」
「……ここまで潰れると、流石に元には戻せそうにありませんね」
リングは、変に負荷が掛かったせいか8の形に歪んでいた。もはや一度溶かした方が形を整えやすいだろう。指の先でつついても全く入りそうもない。
「残念ですね」
「なんだと」
「こんな状況で指輪まで貰えたら、流石に頷いてしまっていたかもしれません」
ドクターシノブが目を見開いて私をまじまじと見た。
「この指輪さえ、壊れていなければ貴様は私と結婚したというのか」
「はい。残念です」
ドクターシノブが震える手で、私の持つ指輪だったものに触れた。
せっかくの贈り物だ。ドクターシノブのことだから、値段やデザインにまでこだわったのだろう。私の指輪のサイズはもちろん、ドクターシノブは些細な好みまで把握しているはずなので、ぴったりと美しく輝いたはずだ。
それだけ心を込めた贈り物をされれば、きっと誰だって頷いてしまっただろう。
ドクターシノブは、指輪の残骸を持つ私の手をぎゅっと握りしめた。その手の震えは腕を伝い、俯いたドクターシノブの肩まで到達している。
それからドクターシノブは、急に高笑いを始めた。この小さな温室に高らかな笑い声が響き渡っている。
「その言葉、確かに聞いたぞ!!!」
「は?」
ドクターシノブが勝ち誇った笑みで片手を突っ込んだのは、内ポケットではなく、スラックスの後ろだった。
そこからもうひとつ、箱が出てくる。
ひしゃげているものと全く同じものである。箱も、中に入っているものも。
「えっ?」
「どんな事態があるかわからんからな。こうして予備を用意しておいた。全く同じサイズとデザインのものだ」
ドクターシノブは箱を放り投げるようにして中の指輪を取り、掴んでいた私の手にすかさず嵌めた。抜け目なく、それは左手の薬指である。
「フハ、フハハハハハハ!!! とうとう手に入れたぞ、三科ヒカリ!!」
「うわ」
ドクターシノブが私の手をまじまじと見ながら会心の笑みを浮かべ、それから私を強く抱きしめた。両腕がしっかりと私の背中に回されていて、通帳が床へ落ちたというのに拾う隙もない。
「前言撤回などできないぞ!! さあ三科ヒカリ、今日から貴様は私の妻だ!!」
フハハハハと笑い続けるドクターシノブに抱き上げられ、ハーブの研究員や狙撃者がぽかーんと見上げる中で私たちはその場でくるくると回っていた。私が酔ってやめろと本気で怒るまでずっと。
恥ずかしながら、それが私たちのプロポーズだった。




