監視員、配置される3
世界が歪んで姿勢を起こせない。
視界が白く煙っている。チカチカと点滅するのは何かのフラッシュか、視神経の誤作動か。人の声が周囲を回転しているように聞こえ、誰かが私の腕を掴む。力を使って払いのけようとすると、強い吐き気が襲った。
首筋に強い痛みが刺さる。
後頭部を持ち上げられて、口元に何かをあてられる。鼻筋や頬に当たるこの感じはマスクだ。何かを吸引させられてる。
落ちた手が地面に当たった瞬間に力を込めてマスクを弾き、それを持っていた人間の腕を捻り上げた。吐き気をこらえながら力を込める。
「やめろ落ち着け私だ!!」
「誰だお前は」
「ドクターシノブだ! 三科ヒカリ、動くと薬が回るぞ! あと痛いから手を離せ手を!」
膝で地面に押さえつけていた背中は黒いスーツだ。髪を乱して眼鏡が外れかかっているのは、自己紹介の通りドクターシノブに見える。手に力を込めると痛そうに顔が歪んだ。
「幻覚剤……」
「ではない! 本物だ! 見ればわかるだろう!」
「わかんない」
「さっさと酸素マスクを付けろ! その分だと担架はいらないようだな!!」
声がうるさい。痛む頭と吐き気を堪えて立ち上がると、ドクターシノブも起き上がった。手には先程のマスクを持っている。
「早く付けろ。神経ガスの一種だろう。症状を緩める薬剤が入っている」
「いらない」
「我が儘を言うんじゃない」
「触らないで」
見回すと、黒ずくめの部下が6人ほどこちらを囲むように立っていた。立ち上がって歩きその輪から抜け出す。場所は山の中腹に作られた簡素な休憩所のようで、砂利が敷き詰められた場所に車が3台停まっている。車道が伸びているほかは針葉樹の生えた急な斜面があるだけだった。
「おい、あまり動くなと言っているだろう。転げ落ちたいのか」
ドクターシノブが伸ばす手から逃げるように後退る。強い森の匂いに、冷えてきた気温。どうやって逃げるのが一番いいのか迷うところだった。
「何とか言え! いや、言わなくていいから早くマスクを付けろ!」
「いらない。どっか行って」
首を振ると、項が鋭く痛んだ。右手で痛んだ場所を触った瞬間、内臓を全部裏返しにされたような気持ち悪さで思わず呻く。背を丸めると、力が抜けた手が前に見える。持ち上げると震えている指先に血がついていた。
座り込むとドクターシノブが駆け寄ってくる。
「無理に動くな死んだらどうする! 早くマスクを付けろ。車に乗せて系列の病院に」
「いらない!」
背中に手を回されて、ドクターシノブが顔を覗き込んでくる。振り払った瞬間に眼鏡が手に当たり飛んでしまった。顔を顰めたドクターシノブが、くわっと怒りの表情に変わった。真っ黒な目が燃えている。
「信用できないならそれでも構わん! さっさと治って能力で締め上げるなりなんなりしてみろ!!」
「う……うるさ……」
「誰が怒鳴らせてると思ってるんだ!」
添える程度の力だった腕がしっかりと私を捕まえ、無理矢理にマスクを押し当ててきた。首を振っているつもりなのに、気持ち悪さで力が入らない。頭の後ろの二箇所でマスクを固定すると、ドクターシノブは私の右腕を持ち上げて自らの肩に回させ、背中と膝の裏に腕を回してそのままぐっと抱き上げた。
「おい、いいからドアを開けろ! 急いで向かえ!!」
部下のうちのひとりがバンのスライドドアを開け、私を抱えたままのドクターシノブがその中に乗り込む。ドアを開け閉めする振動がいくつか聞こえた後で車が静かに走り出した。ドクターシノブは私を自分の膝の上に乗せたまま、何かを取り出してお腹の上に乗せていた私の左手首に装着した。
「おい、聞こえているか三科ヒカリ。これは貴様の心拍・血圧・体温を計測するためのものだ。貴様が妄想しているような危険な機能はついてないから安心しておけ」
別に妄想とかしていない。返事をしたかったけれど、マスクをしているし気持ち悪いので黙っておいた。
「ほら、ここが私の首だ。しっかり狙っておけ。何か不審なことがあれば縊り殺してみればいい」
肩に乗せさせていた私の右腕をドクターシノブがゆっくり取り、温かい手が掴んで首元へと当てさせる。ドクターシノブの体温がやけに高いと思ったら、私の指先が冷えているようだ。頸動脈の脈打つ感覚がわかるほど押し当てられて、温かさがほんの少し移る。
「おい、毛布をもう一枚出せ。あと何か温めるものはあるか」
「カイロがあります、ドクターシノブ。使い捨てのものと、充電で時間がかかりますが電子カイロが」
「ああ……いや、電子カイロは止めておく。使い捨てのものを」
マスクの中の空気は、どこかで嗅いだような匂いがする。何の匂いだったか考えていると、段々頭がぼうっとしてきた。吐き気よりは眠気のほうがまだマシな気がする。うとうとと目を開け閉めしていると、ドクターシノブがほほや額に触れていた。
そういえば、なんでこの人がいるんだろう。
「しっかりしろ。寒いか? 今温めてやるぞ。あと30分ほどで病院にも着く。聞こえるか? おい、三科ヒカリ!」
「ドクターシノブ、こちらを追跡する車両があります」
「適当に撒いておけ! おい三科ヒカリ、起きろ! 死ぬな!」
ペチペチと頬が叩かれて視界が揺れた。頭を動かすと気持ち悪くなりそうなのでやめて欲しい。やめろと口に出したのに、ドクターシノブは聞いていない。
伝えるために一生懸命口を動かしていたら、そのうち眠気が強くなって抗えず寝てしまった。
うなじが痛い。




