第十八玩 終わりにして始まりの電話
ある時、雪女は涙を流しました。ですがなぜ涙を流したのか、理由も原因も全く分かりません。それが今の雪女の悩みです。
――あれ? 何で泣いて…
雪女の鎌倉に知らない人が来て、去って一週間が経ちました。なぜ彼が人を殴り、殴られた人が石となって崩れ落ちたのか。そもそも彼の正体は一体誰なのか。それは雪女にとって知ることもなく、全くどうでもいい事のように頭から通り過ぎて行ったのでした。
ですが一週間たった今も、心が晴れることはありません。何故だが一人でいるという日常に違和感を持ち始めたのです。
そして涙。大好きなゲームをしている最中、度々落ちる透明な液体が雪女の疑念を大きくしていきました。雪女はゲームを一旦止めると、キッチンに移動しました。そして洗い忘れていた食器を洗いながら、どうして涙が出てしまうのか、どうして最近憂鬱な日々が続いているのか考えてみることにしました。
まず涙です。涙なら――そう、目脂を体が押し出そうとする本能的な排菌方法だとしたら。ですが雪女はすぐに否定の色を見せました。ゲームは朝早く店でゲームを買い、家に帰ってからすぐにゲームをプレイするのが雪女の日常です。涙が出るのは、昼前。お昼ご飯を食べる前に起こるのです。ゲームの最中、突然一種の孤独感のような寂しさと悲しみの感情が頭から生まれた後、涙腺が刺激されて涙が落ちる。もうその時間帯で目脂は、完全に取り払っているはずです。
そしてもう一つ。それは憂鬱な日々を過ごしていること。それは雪女にとって一番分からないことの一つであり、自分の生活に多大なる影響を与え続けている一つでした。ゲームを遊ぶ意欲が薄れることが、どれほど雪女の楽しみを奪うことでしょう。ですが原因を見つけるために頭で考えようとすると、段々と頭や体中が激しい痛みを引き起こし、これ以上考えれば激痛で死んでしまいそうになったことも屡ありました。
それだけではありません。雪女は時折、誰かに見られているような視線を感じることがあるのです。咄嗟に外に出て確かめようとしましたが、決して姿を見せることなく、視線だけはずっとこちらに向いていました。ですがその視線にはどこか温かい時が合ったり、苦しい時が合ったりと、変化が止むことなく毎分毎秒と変わっていくのが、雪女にとって不思議でなりませんでした。
そして今も。その視線は雪女を向いて何をするでもなく、ただ見つめ続けています。雪女はその視線は自分に対する敵意ではなく、別の何かなのだろうと推測しました。そして暫く放っておくことに決めたのです。理由は一つ、すぐにでもゲームをしたい。ゲームに集中したい。ゲームを遊びたい気分が削がれ続けているここ最近、遊びたいはずのゲームが全く進んでいないことに憤りを感じていました。
そうだ。見たければ見ればいい。雪女はそう思うことにしたのです。
――そして少しでも好きなゲームを最後まで遊びつくして、私は生きていくんだ。
雪女はそう思うことで、これ以上考えることで起きる激痛に苦しむことのない日々を願うのでした。それが雪女にとっての現実逃避だとしても、それが、それだけが雪女にとっての幸せなのです。ゲームをする。ただそれだ……け?
「そう。それでいいんだよ。雪女」
雪女の鎌倉が見える、遠く遠くの人口丘に少女【朝倉柚子乃】は言いました。柚子乃は何十キロメートル先から薄っすら笑みを浮かべたまま、雪女を目視し続けています。この行為は柚子乃にとって呼吸と同じ、やって当然やらねば死も同然の摂理なのです。柚子乃はそのために多くのものを捨て、今では雪女を見るためだけに生きているといっていいほどになりました。それが柚子乃にとっての幸せであり、それが続くことが何よりも大切なのです。
ですがある時、あの男がやってきたのです。唯の仏像だと思っていたものが、あの人が言っていたこの世界を揺るがす者だと知ったのは、ごく最近のことでありました。
「私の世界は誰にも穢させない」
柚子乃はチラリと隣に目線をずらし、その後すぐに雪女に戻して言いました。
「あなたのような穢れその者を利用しても――」
「そう言うなって。『性』を穢れとほざく奴はお前ら人間くらいだろ? 人間が自ら性を穢れとして見始めた癖に…」
そう言ってへらへら笑って柚子乃の隣に寝そべる男は【名無しの性欲原子№0024】。この名前は柚子乃ではなく、柚子乃の上司的な人から付けられた名前でした。少し前に突如として柚子乃の前に現れた名無しは、自分の名前も記憶も何もかもを忘れていました。
それに加えて名無しの現れた時間帯が、雪女と一緒にある男が姿を見せた時間帯と重なっていたのです。しかも顔や体が全く同じ、違うのは性格だけ。柚子乃は邪魔な男を消すために、名無しを利用したのです。そして名無しもそれを分かった上で、敢えて柚子乃に協力することにしました。
名無しは柚子乃の目を最初に見た時から、思っていたことがありました。
――どうして悲観するような目をしている?
その目は今も変わらず。特に雪女の笑った顔や楽しんでいる顔を見ていると、その目は更に沈んでいくのです。名無しはそれを少しでも和らげたいと思いました。だからこそ柚子乃に協力し、いつか柚子乃が笑える日を望み続けるのです。
「あなたには関係ないのです。私は雪女いれば――」
「ああ、そう。まあいいけどね。――本当懲りないねえ、それ」
「私の勝手。もう一度言うわ。あなたには関係ない」
「分かった。じゃあ黙ってみる」
彼は赤の他人に付けられた名前が好きではありませんでした。名無しの性欲原子№0024という、何の愛も感じられない名前を付けた者を、名無しは今も憎んでいます。出来れば柚子乃に付けてほしかった。でもそれも今は叶うことはないでしょう。今も柚子乃は雪女に囚われているのですから…
そして電話のベル鳴りました。柚子乃は後ろで鳴り続けている黒電話に、「雪女を見る邪魔をするな!」と言わんばかりの顔で、電話の方に向かいました。そして受話器を取るや否や、柚子乃はいきなり怒り出しました。
「邪魔しないでよ! 私は雪女を――」
「俺だ」
「えっ」
柚子乃は受話器から聴こえる野太い声に、ハッと怒りのボルテージが下がり、すぐに冷静さを取り戻しました。そして少しずつ柚子乃の顔が強張っていく中、名無しが心配して近づこうとするのを手で制止させたまま、受話器の向こう側に集中しました。受話器の向こう側から聴こえてくる声は野太く、とても冷たい感じがしました。その声を聞く度に柚子乃の戦慄きの見るのが、名無しにとって耐えられるものではありませんでした。
「すぐに四季会談を執り行う。集合だ。【冬のシーズナー】」
「…はい」
柚子乃は野太い声が完全に切れるまで、体を震わせながらじっと昔の頃を思い出していました。あの初めて会った野太い声の人物の顔を――。その人物はいつも怒っていました。普通に、当たり前に、そして運命に。だからこそ『貴神』として四つの世界を支配できることに、何よりの使命感を持っていました。ですが柚子乃は自分さえよければそれでいいと思っていたので、時折二人は衝突し、最後は柚子乃の完全敗北に終わっていたのです。負ける時は必ず柚子乃が泣きながら、傷ついた体を隠して言うのです。「お願いだからもうやめて? 言うこと聞くから」と。そして許されること、三回。もう柚子乃が逆らうことはありません。
柚子乃は無言で丘を降り始めました。名無しの声を無視して、命令通り目的地へ向かうのです。
柚子乃は感づいていました。あの電話越しの声は、とても怒っていた。柚子乃ではなく、もっと別の何かに……
また一組。一人は巫女服を着た黒髪女性と、もう一人は髪が刺々しく身長がそこまで高くない男性。彼らは雪女の鎌倉から数キロ離れた山中で、巫女服の女性が双眼鏡を鎌倉に向けて言いました。
「駄目みたいですね。男(?)はここ一週間発見できていません」
女性の名は【無意加舞】三十七才。そして舞の隣にいる男の名は【大原犬太】二十一才。犬太は舞から離れるように木の高い部分にある枝に乗って、遠くの鎌倉を見据えて言いました。
「何だよ全く…見守って損したじゃねえか。俺が早くあいつの正体を」
「それは駄目です。彼ら自身が己の正体に気付かなければいけません。そうしなければ――」
「…ったく、分かったよ。でもどうすんだ。このまま見守ったままじゃ」
苛立ちが増す犬太に対して、舞は少し俯いてから言いました。
「私に考えがあります」
その後、舞は早速雪女の鎌倉の方に向かって行きました。犬太は自分が動いたら多分見つかってしまうと思い、舞のやろうとすることを静かに見守ることにしました。
お久しぶりです。何か私の地区でも雪が積もってきたので、ぶぁっとこの話が思い浮かびました。いち早く書こうと思ったのですが、少しの間忘れていたので、遅れて大変申し訳ないです。
雪女の運命は、エロオタはどうなったのか。それは次回から紐解いてくことになるでしょう。
これはまだ序章なのですから……




