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女子高生、坂東蛍子

坂東蛍子、夜を駆ける

作者: 神西亜樹

「西は・・・あっちだな」

 言い終わるや否や、松任谷理一(まつとうやりいち)は指を差した方向へとおもむろに走り始めた。坂東蛍子もおいていかれないようにそれに続く。時刻は午前五時半頃、日の出まで三十分を切った頃合いの出来事である。


 きっかけは蛍子の零した何気ない一言からだった。

「このまま夜が明けなければ良いのに」

 坂東蛍子は高校一年の終業式の前日、積もりに積もった想いをついに理一へと打ち明ける決意をし、放課後に彼を屋上へと呼び出して交際を申し込んだ。理一は一驚して少しの間固まったが、すぐに気を取り直して真剣な表情を作り、深々と頭を下げた。それは「ごめんなさい」の御辞儀であった。初恋の背が屋上のドアの向こうへと消えた後も、蛍子は暮れなずむ赤い空を暫くボウっと眺めていた。

 家に帰った蛍子はすぐさま部屋に飛び込むとドアが開かないように内側から塞いで籠城し、夕飯も食べずにお気に入りの兎のぬいぐるみを抱きながら静かに涙を流し続けた。不思議な事に涙は枯れる事が無く、脈々と絶えず大地を削る滝のように彼女の頬に通り道を作り、次第に蛍子には本当に涙が流れているのかどうかさえ分からなくなっていた。時折彼や、ぬいぐるみや、自分自身への愚痴を交えながら続いた静かな一人演説は夜通し行われ、蛍子がふと我に返って目覚まし時計を確認した時には既に短針が五を跨いでしまっていた。今日が終業式であることを思い出し、彼女は制服を着たままの姿で布団から這い出て自身の格好を鏡で見返した。鏡の向こうの世界は酷い有様だった。千年を生きて精神の秩序を失くした魔女がこちらを見返していたのだ。目と鼻を真っ赤にして、恨めしそうに現代を生きる華の女子高生を見返している。蛍子はボサボサの髪を手で撫でつけながら鏡の光景を眺め、学校行きたくないなぁ、と他人事のようにボンヤリと思った。

 一先ず彼女は気持ちを切り替える努力をしてみることにした。頑張ったらもしかしたら半日ぐらいはやり過ごせるぐらいの元気が湧いてくるかもしれない。何とか学校を乗り越えたら、家に飛んで帰ってまた泣けば良いのだ。そんな精一杯の前向きな未来を思い描いている最中にも、蛍子は内心で「難しそうだな」とシニカルに心を冷やしながら鼻をかんでいた。

 散々泣いて渇いた喉を潤すために、蛍子は気分転換も兼ねて家の近くの自動販売機に飲み物を買いに行くことにした。基本的にとても真面目な女子高生である坂東蛍子は児童用の学習教材に載っているような規則正しい生活を送っていたため、徹夜した挙句に夜明け前のこんな時間に外出するなどというイベントは日常ではまず経験し得なかったので、少しだけ胸を高揚させながら春物のコートを羽織り、両親を起こさないようにそっと玄関のドアを開け外へと足を踏み出した。まだ冬の名残を含んだ黎明前の空気は心の芯に届くほど冷たく、蛍子の体を震わせたが、混乱し火照った想いを抱えた蛍子にとってはその寒さがむしろ心地よいぐらいであった。

 白い息を零しながら自動販売機のすぐ脇に腰掛け、蛍子は両手で缶コーヒーの熱を奪いながら空を見上げた。夜空では幾つかの星が蛍子を見返していた。こんな日でも星は出るんだなぁ、と蛍子は笑った。私の一日がどんな良い日でも、どんな悪い日でも、貴方達は気にも留めないのね。

「坂東?」

 完全に気を緩めていた蛍子は、自分への呼びかけに飛び上がって、慌てて胸をおさえたり腫れた目をこすったりした後で、声のした方へと恐る恐る振り返った。声の主はよりにもよって今一番顔を見られたく無い相手だった。松任谷理一は振り返った蛍子に柔らかい笑みを浮かべた後、原動機付自転車から降りると、特に口もきかずに自動販売機で缶コーヒーを買い、蛍子の隣に腰を下ろし、先程蛍子がやっていたのと同じように星空を見上げて白い息を吐いた。蛍子はドキドキしながら理一に悟られないように彼のことを横目でチラチラと観察した。蛍子と同様、理一も制服だった。何だか取っ組み合いをした後のように派手な皺の出来た制服だ。彼が今まで何をしていたのか想像もつかなかったが、蛍子は彼の出で立ちが自分と御揃いのように感じ、同様に彼の心境も自分と似通っているように思えて、何となくそのことを嬉しく思った。理一はブラックの缶コーヒーを握っていた。大人だなぁ、と蛍子は少し目を輝かせ、すぐに寂しそうに細め、目蓋を閉じた。

 坂東蛍子は高校に入学してきてからずっと松任谷理一のことを目で追ってきたので、彼の性格を十全に把握していた。彼が前日自分がフった相手と会ったら近くに居座るような野暮なことをしない人間であることも、夜通し泣いて一人疲れ果て、寒い夜の只中で空を見上げながら心細くなっている女子を放っておけない人間であることも把握していた。今彼の心中はどんな風になってるんだろう、と蛍子は思った。気まずく思っているんだろうか。それとも前後を飛ばして私のことをただただ心配してくれているのかな。きっと後者だろうな、と蛍子は微笑んで空の星を見上げた。

「このまま夜が明けなければ良いのに」

 二人が並んでから二十分程経った頃、蛍子は空の色が少しずつ変化し段々と星が見え辛くなってきていることに気付き、思わず口の端からそう零してしまった。ハッとして口を塞ぎながら、蛍子は自分にとってこの二十分が如何に有意義なものであったかに気付いた。この夜明け前の僅かな時間に無言で並んで星を見上げ、時折「綺麗だね」だの「あの星の名前は・・・」だのと独り言のように呟き合うことが、蛍子はとても幸せだった。そもそも彼とこんなに長い時間一緒にいたことは無かったのだ。告白した後にこんな時間が来るなんて、本当に神様は意地が悪い。蛍子は動揺しながら心の中で愚痴をこぼした。

「じゃあ、逃げるか」

 理一はすっかり冷えたブラックコーヒーの残りをグイっと飲み干すと勢いよく立ちあがり、蛍子に手を差しのべながらニカっと笑って言った。蛍子が目を丸くしながら理一の手をとって立ち上がると(この時彼の手に触れて蛍子は内心でかなりドキドキしていた)、理一が自身の考案した作戦を説明した。

「太陽は東から来るんだ。だったら西に逃げ続ければ、いつまで経っても夜は続くだろ?」

 蛍子は少しの間彼の言葉に唖然とした後で、可笑しそうに笑って頷いた。いつまでも太陽に追いつかれずに逃げ続けるなんて無理だ、とか、今日の終業式はどうするの、とか、そういった言葉は全て最後のコーヒーと共に飲み込んで胸の奥に掻き消した。

「良い考えだと思う」

「よし、決まりだ」


 坂東蛍子は理一とつかず離れずの距離で、彼の背を追って街を駆け抜けていた。夜明け前であるため人も花も少しずつ目を覚まし、街にはチラホラと往来が出来始めていたが、理一は意識的に人のいない道を選んでいるようで、二人の行く先には殆ど誰もいなかった。

「坂東、大丈夫か!」

「うん!」

 二人のペースはジョギング程度のものだったが、それでも蛍子は200m23秒7の俊足を活かし、かなりの速度を出して走っていた。にも関わらず理一は蛍子の斜め前を走り続けている(ちなみに彼は21秒の非公式記録を持っている)。彼女が速度を上げればその分理一も足を動かし、彼女が緩めれば理一もペースを落とす、そんな具合で理一は蛍子との距離を一定に保ちながら走り続けていた。蛍子は彼が先導してくれているようにも、並んで走ることを拒否しているようにも感じた。少し目線を落とすと、彼の大きく振っている右手が視界に入った。二人とも手を振る速度は等間隔で、理一が右手を後ろへ下げる時、蛍子は左手を前に出していた。蛍子は限界まで目を凝らしたが、二人の小指には赤い糸は結ばれていなかった。

「次の横道を左に曲がるぞ」

「うん」

 蛍子は先程から繰り返される理一の指示に遅れないように必死に対応していた。理一はこの街を知り尽くしているようで、どんな裏道でも何処に繋がっているのかちゃんと把握している。蛍子は街が生みだした極めて人為的で無関心な迷路に閉じ込められ、置き去りにされてしまわないように彼の背中にピッタリとくっつきながら、そういえば前にもこんなことがあったなぁ、と記憶を遡っていた。


 去年の暮、その年初めての粉雪が舞った十二月八日の夜のことである。その日珍しく夜中まで外出し、コンビニから間食を買って出てきた坂東蛍子は、背後から聞こえてくる喧騒に苛立って振り返った。その時喧騒の元を牽引していた松任谷理一は既に蛍子の10mほど手前まで来ていて、急に立ち止まることが出来る距離にはいなかったため、こちらの存在に気づいてしまった彼女の手をすれ違いざまに慌てて掴んだ。

「理一君!?え!?え!?」

「悪い!俺を信じてついてきてくれ!」

 好きな人に信じてと言われて信じないわけにはいかなかった坂東蛍子は、片手にビニール袋を掴みながら、もう片方の手を彼に引かれる形で夜の逃走劇に加わることとなった。背後からは黒服を着こんだ数人の男たちが恐ろしい形相で追いかけてきていたが、蛍子の心臓の鼓動が速くなっているのはそれが原因では無かった。手を繋いでる、と蛍子は沸騰しそうな頭で思った。私、今理一君と手を繋いでる。なんてことだ。

 路地を突っ切り、ゴミ箱を飛び越え、街灯を避けながら街路樹に紛れて、二人は夜の街を疾走していた。後方の追っ手達は徐々に距離を開けられ、いつしか闇に飲まれていたが、蛍子の頭の中は今自身が置かれている状況よりも、今自分が手汗をかいていないかという不安で埋め尽くされていた。

「・・・速いんだな」

「え!?」

 足、と理一は蛍子の方を振り返って笑った。追っ手を撒いたことを確信した理一は、少しペースを落として蛍子の顔が見える位置まで下がってきた。裏返ってしまった声に顔を真っ赤にしながら、蛍子はうん、と頷いた。

「昔から走るのは得意だったの」

「そっか。じゃあ俺と同じだ」

 理一はニっと歯を見せて笑った。蛍子は更に顔を赤くして、繋いでいる手に視線を落とした。


 あの日は蛍子にとって沢山の経験が詰まった記念日となった。理一と御揃いのものが出来た記念日と手を繋いだ記念日だ。蛍子は日の出が近づいてはっきり見えるようになってきた理一の手へと改めて視線を落とした。あの時繋がっていた手は、今は繋がっていなかった。そういえばあの夜も今と同じように「夜が明けないで欲しい」と思ったなぁ、と蛍子は微笑した。あの夜は始まりを予感しての願いだった。これからこの幸せが続いていって欲しいから永遠の夜を星に願った。でも今は終わりを引き延ばすための願いだ。この夜が明けたらきっとこんなことはもう起きないから、せめて最後の幸せな時間を少しでも長く味わわせて欲しい、そう私は願ってるんだ。

「坂東!」

「うん!大丈夫!」

 理一は逃避行の最中に何度も背後の蛍子に呼びかけ、ちゃんとついて来ているか確認した。変化球も駆け引きも無いとてもシンプルなキャッチボールだった。夜泣きする赤ん坊を寝かしつけるように、彼は定期的に彼女の傍へと言葉を送り、彼女を安心させようとした。

 蛍子は泣かなかった。泣く代わりに笑顔を作って、ペースを押し上げて理一の隣に並んだ。十分以上走り続け、流石の蛍子も息を上げていたが、心は走る前よりよっぽど晴れやかだった。

「大丈夫だよ!私走れてる!」

 一人でもちゃんと走れてるよ、と蛍子は隣で走る理一に向け見えないボールをそっと放った。


 もうすぐ夜が明ける。

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