春紫苑
一.
いつも、花の香りのする人であった。花の世話をする以外にすることがないのだと聞いた。
その日、正平は弱っていた。理由は単純だ。試験の点数が落ちていた。必死で勉強をしたのに、菜桜の半分程の点数しかとれていなかった。普段は優秀である正平の成績が落ちたことを、教師は詰るどころかいたく心配していたほどである。先生の口から親まで伝わることも近いであろう。そう考えると憂鬱で仕方なかった。
がっくりと肩を落としながらとぼとぼと帰路を歩く。帰りたくない気持ちがはたらいたのか、足は勝手に家までの道を遠回りするように動いていた。菜桜は優秀だ。それもわかっている。今回は自分の努力不足であるとしか考えられない。彼女は天才だが、自分は単なる秀才であることをはっきり理解していた正平は、今までがむしろ身の程知らずであったとすら感じていた。しかし、自分の親が……とくに父親が女子に負けたと知って黙っているだろうか。困った。
そんなことを考えていると、鼻孔をふわりと撫でる香りが吹き抜けた。艶やかで、しかし懐かしい香りだ。
風に目を細めながら、匂いの元を辿る。
目が合った。
民家の庭先にいたその人は、子供の人形を抱えていた。
精巧な日本人形を抱えた女がそこにいた。
日本人とは思えぬ大きな目をした女であった。吸い込まれそうな目は猫を思わせる。顔は小さいだけに、その黒真珠の目は印象的であった。今までこんな別嬪には出会ったことがなかった。目元は確かに強烈な印象を与えたが、歳は正平とは結構離れているように感じる。きっと女の方が七、八は上だ。もしかするともっとかもしれない。
竹垣に阻まれてはいるものの、阻まれているだけの距離で正平は名も知らない女と見つめ合っていた。何を思うわけでもないが、その空間を動かすことがどうしてもできなかったのである。時間もそれと共に機能を失ってしまったかのようで。静かだった。相手の表情も固まってしまったまま。
香りだけが二人の間を吹き抜けていた。
形の良い眉を右側だけひくりと上げ、女は時間を取り戻した。
正平にあった視線を、抱いていた人形に移すと、女は唇を薄く開く。
開かれた唇が紡いだのは、知らないうた。知らない。……否、わからないのだ。
女が唄ったそれは、異国のものに違いなかったからだ。
ゆらりゆらりと人形を揺らしながら、女は正平の知らない言語のうたを唄う。大きな目が細められ、視線は慈しむように人形に注がれていたのがやけに記憶に焼き付いている、その様子から見るに、もう正平と目を合わせたことなどなかったことになっているらしかった。
勿論、帰れば父親に叱責された。母親には詰られた。両親共に菜桜のことは幼い頃から知っている。あの子は確かに女児にしては昔からよくできる子であった、しかしそれでも結局のところ女。お前はもっとできる者と信じていた、などと根拠のなく、また本質を全くと言っていいほど捉えない言葉の数々に上から押し込まれた。それ自体は何ともなかった。どうせ彼らは勘違いをしている。
問題と言うと、正平自身に今一つ向上心がないことだった。両親は当然、そこまで見抜いてはいないらしい。いままでは子供であったから、心などなくとも「できる者」であれたが、これからはこうも行かぬだろうことは自身でよく自覚してあったことだ。今日のことが最初の躓きだっただけのこと。今日でこれなら、実際そうなったときこの両親はどれほど取り乱すだろうか。見てみたくも感じるし、一生知らずにいれる自分であったらどんなにか幸せだろうとも思う。
縛りつけられるように勉強し、不健康であるからと無理矢理に寝かしつけられたのはだいぶん夜も更けてからであった。このくらい、遠くない将来、自分の不出来で親にかける負担を考えればどうってことないと目を閉じる。せめて夢見は心地よくあって欲しい。
瞼の裏に蘇ったのは、昼間見た大きな目だった。よく知らない地のうたが正平を眠りに誘った。
二.
菜桜は優秀だし、かといって慢心に浸るような弱い部分はなく、悪い人間ではない。勇ましいわけではないが、他の女のように男に流されて生きているわけでもない。加えて気風はいいが、それでいて万人に好かれるような女ではなかった。
正平はその菜桜に、朝から嫌味を添えて挨拶された。
「お早う、正ちゃん。眠そうだね、理由をあててあげようか。あたしに負けて、それから勉強し直してたんだろう。ああ、それに加えて、夢見でも悪かったかな」
「うるさいな、ほっといてくれ」
「あら、図星かい。仕方ないよ、最近努力怠ってた正ちゃんがあたしに勝てるとは到底思えない。元々、あんた才能はないんだから」
きっぱり言う上に、正平と並んで事の当事者であるが故に親より的を射た言葉を平然と投げかけてくる。しかし、女子とは思えぬほど男子を立てず、逆に貶してくるもんだ。日本女子みな大和撫子たれという教訓は、菜桜の登場で潰えるのではないかとすら思う。
幼い頃はよかった。小柄な菜桜を引き連れて、町じゅうをどろんこになるまで遊びまわったものだ。華奢で愛らしい菜桜を連れ歩いているだけで鼻が高かったし、茶屋の一人娘として大層大事に育てられていた菜桜も親のために無茶はせず、正平を頼り切って遊んでいた。あの頃は楽しかった。菜桜は「大きくなったら正ちゃんがお嫁にもらっておくれ」なんて、可愛らしい笑顔をつけて言っていた。
変わったのは、学問を習い始めの頃からだ。いや、その少し前に菜桜に弟の信弥ができたことも大きかった。菜桜は跡取りをとるのに必要な娘ではなくなった。重圧がなくなった菜桜がのびのびし始めたことは喜ばしかったのだが、その緊張から解放されたことが今日のお転婆に繋がったのだからなんと言えばいいのやら。
それに、勉学に関して勤勉でしかも才に長けていた。親から無理に「学に強くあれ」と押さえつけられていた正平とは違い、自ら道を切り開ける力を天性のものとして持っていた。学問を始めてから、長くふたりで一、二を争ってきたから、そのことは正平が良く知っている。おそらく、菜桜本人よりもずっとだ。
「悪いが夢見は悪くなかった」
言ってしまってから、そこだけ否定をしたことで他の部分は菜桜の言った通りだと認めてしまったことに気が付いた。ただ、菜桜がそこには目を向けなかったので助かった。
「なによ、それえ。他にいいことでもあったと言うの」
「かもしれない」
「何、教えてよ」
そう言われてから改めて深く考え込む。言われてみると、あれはどういう体験に当たるのか。単純に、別嬪と目を合わせて、それも歳の離れた女と目を合わせて、盗み聞くような形で耳触りの良い異国の地のうたを知っただけ。そして昨夜はそれに誘われるように安眠に就いたというただそれだけのことだった。
この目の前の幼馴染にその感覚を共有してもらえるか考えたが、出た答えは否だった。
「教えない」
「なによ、それ。結局、あたしに見栄張りたくてついた嘘にしか思えないけど」
「……ああ、もうそれでいい」
菜桜は不満足そうな顔をしたが、それ以上のことは言ってこなかった。言われても正平の方に返すつもりがなかったのだが。
三.
ああ、あの日のことは述べておかねばなるまい。
正平が「あの家」に入り浸るようになる以前の話である。「あの家」とは竹垣に囲まれた美しい日本家屋のことで、わかりやすく表せば正平が女を見た家のことである。あの家のことが頭から離れず、あれから晴れの日はずっとあの道を帰路に選んでいた。そうでなくとも時々通っていた道であったが、自ら目的を持ってそこを歩くとなると少し心持ちが違ってくるから不思議なものである。
正平が視線を上げて家を見るとき、女は決まって同じ場所にいた。最初に目が合ったあの場所だ。日本人形を、赤子を扱うように大事そうに抱いて、あの優しい声で唄うのだ。知らない言葉。だけれど、あれが子守唄だということはしばらくして察した。優しい声色は、昼の木漏れ日をもとろりと微睡に誘う。
正平はあの人をじっと見つめるけれど、女の方は正平の方を見なかった。だから、あの日から一度も目を合わせてはいない。あの吸い込まれそうな目には、人形しか映っていなかった。それでも、向こうもきっと正平の存在は知っていた。物言わぬ、視線さえ交差しない二人だけの世界があった。
あの日――あの日は帰りに突然雨が降り出したのだ、と正平は回想する。あまりに突然だったので、傘も持ってはいなかった。そして、すでにあの家に向かいかけているところだったのである。あそこに行くときは、正平は誰かと帰ったりしない。したがって、家までの少し遠回りな道のりを一人、濡れ鼠になりながら駆けていたわけだ。
女が一人、道沿いに立っていた。見たことのある、女だ。
見たことしか、なかった。
足を止める。いつもと同じ沈黙が流れた。いつもと違うのは周りを雨の音が囲んでいること。女が竹垣の向こうを越えてこちら側にいること。そして、立ち止まった正平を、目の中に映し入れていることだった。傘を持って。傘越しに覗く大きな目には多分に水分が含まれているように見え、それが艶やかに思えて見返してどきりとした。
「あの」
何か言わなくちゃ仕様がないから、
「私を、待っていてくださったんですか」
ああ、今思い返すとなんと自意識過剰で、恥ずかしいことを聞いてしまったのか!顔を覆って、逃げ出したくなる。だが、このときは頭も雨でずいぶん冷やされており、それも混乱して口に出したことであったから、特になんの感慨も持たず女の言葉を待つばかりであった。
それからまた、互いに何も口に出さない時間が過ぎる。正平はもう取り返しのつかないほどに濡れていたが、このまま女と別れて駆けていくという選択肢は頭にはなかった。女は右の眉をひくりと上げて、薄く唇を開く。
「こんにちは」
ずれた返答だと思った。それでも、正平はここで初めて歌声ではない、女の声を聞いたという事実に胸を高鳴らせた。菜桜の声は例えるなら華やかで、どこにいても目立つ黄色であるが、この女の声は淑やかで、じっと見つめていないと逃げてしまいそうな蒲公英の綿毛であった。真っ白い、大人の女の声であった。
「……ほんとうに来るとは、思っていませんでした」
「えっ?」
「けれど、今日来なかったことを考えると、じっとしてはいられなかった」
よくわからない女の言葉の数々が、先程の正平の言葉に対する答えであると知る。女は、本当に正平のことを待っていたのだ。雨だから来ない正平のことを。今日はにわか雨だったからいきなりのことでついこの道を選んでしまったけれど、もしかすると雨で正平が訪れなくなる日も女は毎回こうしてここで立っていたのかもしれない。
一人で。
そんな、勿体無いことが……。
抱いた日本人形の頭を撫でながら、女は右眉をひくりと震わせる。
「風邪を引きます。お入りなさい」
そんな、勿体無い。
勿体無い、と思いはしたものの、女は日中碌な用を持っていないようだった。基本的に何もしておらず、ここに幽閉されているようなものなのだと初めて家にあげられたときに聞いた。外出は禁じられているらしい。外に出ていたことを指摘すると、庭と軒先は許容範囲であるからと言った。家に入るとき、これもまた初めて見た表札で女の名前が園田であると知る。正平は、女を園田の奥さんと呼んだ。
「一体、外出禁止だなんてこと、誰がお決めになったのです」
「……私の、旦那様でございます」
「これは……驚いた。所帯持ちの奥さまであられたとは。一切お見かけしたことがないもので、旦那様がいらっしゃるとは思いもしませんでした」
「夫はここへは滅多に帰りません。いいえ、全く帰っては来ません。籍を入れたのも形だけのこと。私が独り身でいることは、あまりよろしいことではございませんから」
まずこの言葉が正平には理解できなかった。しかし、そんなことよりも園田の奥さんに旦那がいたということの方に大きな衝撃を受けていた。続けて尋ねる。
「あなたの旦那様は、なぜ外出を禁じたのです」
「私は、浮世から離れていた方がよろしい人間でございますから。本来ならば、誰とも関わってはいけない。貴男様とこうしてお話することも……本来ならば」
「貴男様だなんて、歳もずっと下の小坊主に、そのような言葉をお掛けなさるな。私の家は遠山。名を、正平と申します。お好きにお呼びください」
女は、正平のことを遠山の坊ちゃんと呼んだ。そして、正平の濡れた頭を布で拭ってくれながら、「後生だからもうここへは来るな」と言う。
園田の奥さんの声は震えていた。
「それは、奥さんの本心なのでしょうか。それならば、私はもう二度とここへは足を運びません。あなたの姿を一目見に通ったりもしません。お約束します」
「本心です。決まっていますとも」
あまりに素早い即答。正平は目を細めた。
「嘘ですね」
「何を根拠にそんな、そんな都合のいいことをおっしゃいます」
「奥さんが、あまりに」
正平の頭を拭いていた奥さんの手は止まっていた。正平はそこに、自分の手を触れ合せる。そのまま奥さんの方に顔を上げれば、困ったような惑っているような目と目が合った。その奥に拒絶の色はない。
「寂しそうな顔をなさるから」
少し距離を縮めただけで、ぶわりと花の香りがした。最初に奥さんを遠くから見たときと、同じ。
雨が降り続いていた。
四.
家で勉強をしていると、菜桜が庭先の方からひょっこりやってきた。弟の信弥も一緒だ。昔から、菜桜には家に来るときは玄関を使うよう言っているのに、一向に直そうとはしない。家の敷地の外から正平のいる部屋に出る抜け穴を見つけたと言ってからは、ずっとそうだ。女で、もう良い歳なのだからそろそろお転婆もどうかと思う。思うけれど、菜桜をこのような性格にしてしまった原因は少なからず自分にもあると知っているから言うに言えない。
「勉強熱心だね」
来て早々嫌味だった。何という女だ。
「信弥には久しぶりに会ったな」
「正平さん、御無沙汰をしております。姉のご無礼をお許しください」
大人になりきっていない高い声で信弥が頭を下げた。隣では菜桜が顔を歪めている。
「なぜお前が謝るのよ」
「姉さま、男の人にはそういうことを言っちゃあだめだよ。女は特にね、本来なら男を立てるものなんだって。姉さまが普通じゃないから、って。倫が」
「……倫はあたしが嫌いなのよ。すぐあんたを贔屓にする」
「しかし、倫の言うこと、違いないぞ」
正平が口を挟むと、すぐに菜桜がこちらを睨んできた。倫は、菜桜の家の使用人ではあるが、菜桜自身が言った通り菜桜との折り合いが良くない。仕事熱心である代わりに、倫は跡取り息子である信弥のことがお気に入りなのだ。
「今日はおれに何か用事があって来たのではないのか」
「そうだ。これから街に行くの。皆で」
「ああ、なるほど」
正平はそれで納得した。時々こういうことがある。
菜桜の家は古くからの茶屋の名家で、菜桜は昔からそのせいか気前がよかった。子どもたちで街まで買い物へ向かい、その銭をほとんど全て出してやるくらいに。今日もそれへの誘いで正平のうちにやってきたのだ。
だが、正平はそういうことにあまり好んで加わらない。菜桜は気前がよく、気風もよく、面倒見までいいので、口や性格は抜きにして遊び友達には男女ともに好かれていた。勉学の道においては一、二を争っているというのに、正平の方は、こっちはからきしだめなのだ。家にいる方が楽だと感じる。よって、我利勉野郎だと皆に毛嫌いされていた。これではますます行く気は失せるばかり。
「おれは行かないよ」
「そう言わず。前もそうだったのに」
「もう諦めておくれよ」
「あたしが正平と行きたいのに」
菜桜が唇を噛んで俯く。しおらしい菜桜なんて珍しい。正平は面食らったし、信弥は姉の様子を見ながらおろおろしていた。
「なぜだ、皆いるだろうに。それに、おれとだって明日また会えるのに」
「正ちゃんって、本当にわかっていないんだね」
菜桜が息を吐いた。行き場のない落胆が、浮遊する。次に顔を上げたときには、いつもの菜桜の顔に戻っていた。
「もう、いいよ。また誘いに来る。今日のところはこれで」
「ああ、悪かった。……信弥も、わざわざ来てくれたのに申し訳なかったな」
いえ、と言う信弥の返事を遮るように、菜桜は再び口を開く。
「ねえ」
「まだ何か」
「最近、何かいいことでもあったの」
正平は曖昧に笑っておいた。不器用な笑いで、察しの良い菜桜にはお見通しであったろうが、皆が待っていることもあってか言及せずにその場を立ち去った。いいこと。菜桜の言葉には心当たりがあった。
正平の手元には、伊国の書物が広げられている。
園田の奥さんとは、以前と同じく晴れの日に会うようになった。雨の日は行っていない。あのときの奥さんの物悲しそうな表情を思い出し、触れてはいけない領域に踏み込んでしまいそうになる。
会うと言っても、家の中に招かれるときもあれば、前と同じようにただ見ているだけということもあった。見ているだけでも良かった。ずっと思っていたように、黙っているだけのふたりの間にも、目には見えない空間が広がっていた。言葉にできはしないその空間は、紛れもなくふたりだけのものであった。正平にはそれだけで満足だった。
日中、何をしているのですかと聞いたところ、大抵は花の世話をしていると答えられた。なるほど、庭に咲く花はどれも大輪を誇らしげに開いていて、香りを辺りに振り撒いていた。奥さんの日頃の世話のたまものであるのだ。きっと、あの人形を腕に抱きながら土をかけ、水をやっているのだろう。容易に想像がつく。
奥さんはいつもあの日本人形を抱いていた。これだけの立派な家屋を建てられる家だ、欲しければ上等な日本人形くらいいくらでも買うことが出来るだろう。いくら奥さんがこのうちに閉じ込められていると言ったって。そう思っていたのだが、奥さんが持っているのは本当にいつも同じ人形であるようだった。
なぜ一体しか持っていないのかと聞いてみたところ、目を伏せて奥さんは静かに答えてくれた。
「時期を見てお話いたします。あまり楽しいものではないでしょうが……あなたには世話になっているので」
世話になっているといってくれたが、正平は世話などしてはいない。勝手に訪れて、外出を禁じられた奥さんに外の世界をお話ししているだけである。一方的に。奥さんも、一度は納得して捨てた世界の話なんて、聞きたくはないかもしれないのに。否、聞きたいはずはないのに。苦しげに眉を寄せたお顔を、正平は何度となく見ていた。
それでも話の内容に外界のことを含めるのを止めないのは、他に正平には選択肢がないからだった。他に奥さんと繋がっていられるものはあるだろうか。正平を唯一と感じてもらえることなど存在するだろうか。他にあるなら正平も、喜んでそちらを喋り続けるに違いないのに。
奥さんは作り物の人形のつややかな髪を、その白く細い手で梳いていた。相変わらず優しい顔をしている。正平は、その優しい顔の中にも一種の哀しみが宿っていることがどうにも気にかかっていた。
「遠山の坊ちゃん」
「なんでございましょう」
「あなたは、本当によくお出でになりますね。……なぜこんな、何もない場所にお出でになるのでしょう」
「何もないわけがございません。奥さんがいらっしゃる」
「益々わからないじゃございませんか。私のような、とうに世を捨てた何もない女のいる家など……坊ちゃんのような若者の来る場所ではございません」
「そんなことはございません」
否定をしながら、正平は何故今日に限って奥さんはそんなことをお聞きになるのだろうと考えていた。
「ずっと、気にはかかっておりました。若者は、もっと広くて大きくて、新しいものがたくさん入ってくる場所に行くものだと、私は思っております。あなたのお話してくれる外でも、若者とは大概がそのようであられるじゃございませんか。それなのに、その話を私に聞かせてくれるあなたは、こんな寂れた狭い世界に日常のようにいらっしゃる」
「私は大概の若者とは違います。私の知り合いの大半は、私のことを根暗で、勉学にしか興味のない虫のように思っているに相違ありませんよ。実際、自分の周りのことに対しては興味なぞないのです」
「そんなことは。私の中のあなたは、決してそのようなことは。あなたは、目がうつくしく明るく輝いている、未来ある若者です。どこにでもいる、これから外に羽ばたいていく若者です」
「奥さんにそう見えているということは、きっとそうなのです。けれど、それは私がただ奥さんに対して興味を持っているからにすぎません。今の私に奥さんしか見えていないから。もっとあなたのことを知って、あなたに、たくさんのことをお伝えしたいから。だからそのように見えるに違いないのです」
奥さんは、正平がそう言っても首を横に何度も振るばかりであった。
今の正平には、園田の奥さんしか見えていない。そう、その通りなのだ。余計に家を遠ざけ、学問から背を向け、周りの友人は勿論、菜桜ともあまり会話をしなくなった。この時間、この世界だけを頼りにまた園田の家に足を向ける。ここが正平の中心だった。こんな勝手なことを考えていると知れたら、園田の奥さんに幻滅されてしまうだろうか。ああ、他の誰かに幻滅されることなど慣れてしまっていたのに。奥さんに幻滅されるかもしれない、と考えるだけで胸がどうしようもなく痛む。
「あなたは、立派な若者です。優秀ですから、この国を背負って立つ、きっと、そんな人です。今までは、こんなことを言うとあなたがここには訪れなくなるだろう、などと考えて言い出せませんでした。ええ、私は狡く、自己のことしか考えられない愚かな女です。将来の国のことよりも、目先の自分をとってしまう、おこがましく醜い女です。それでも、自己のことを抜きに考えても、やはりあなたはここに来るべきではないと思うのです」
ああ、と正平は嘆いた。この方は、どこまでもご自分を卑下なさる。きっと過去にあったという何かが原因なのだろうが、自分が何かを欲するということにどうしても罪悪感を持たずにはいられないらしい。そのせいか、正平に対する評価まで天井知らずに伸びていく。
けれど、どこかには奥さんの言葉を喜んでいるような正平もいた。奥さんは、正平を迷惑がるどころか、訪れなくなる可能性まで危惧していたらしい。その程度まで、空っぽに近かった奥さんに入り込めていたことを嬉しいと感じないはずはない。
「私は、ここに来ることをやめませんよ。少なくとも、奥さんが嫌だと思われない限りは」
「拒絶をせねばならないと、わかってはいるのです。あなたがそうおっしゃることに対して、困っていないといけないことも、わかっています。けれど、なぜでしょう、なぜ、うまく嘘をつくことができないのでしょうか」
きっと、奥さんがそれだけ外界との関係を断たれていたのだ。正平が来ることに娯楽を感じ始めたときから、奥さんは正平を拒絶できなくなった。奥さんが気に病むことではない、正平が奥さんの心に付け込んだ結果なのだ。
「いずれ、お話しするとお約束いたしました。少しですが、昔話をしましょう」
一呼吸を開けて、奥さんが話を始めた。奥さんから話を聞くのはこれが初めてだった。当然だ、今の奥さんに入る新しい情報は正平の口から届くものしかないのだから。よって、奥さんがこれから話すことは、必然的に過去、奥さんが普通に外の世界で生きていた頃のものということになる。
「私の父は、外交官でありました。兄弟の中では一番末の娘であった私は、自分で言うのもおこがましいのですが――それなりに裕福な家で甘やかされ育ちました。その事実で父の地位などを推し量っていただけると幸いでございます。父も、兄たちも、皆一様に私に優しかった。私も、家柄などを気負うことなく育っていたと思います」
正平は奥さんの少女時代を思い浮かべた。この家のように立派な家で、大勢の大人に囲まれ可愛がられ、蝶よ花よと育てられた奥さんは、さぞ可憐で華やかなお嬢さんであっただろう。おそらくそのころから近所では評判の別嬪であっただろうことも想像した。その想像に、正平に着いて回っていた幼い日の菜桜の姿が重なり、なんとなしに気まずくなった。
「あの頃は、我が儘で、子供でございました。そうです。私は、体は大きくなろうと、あの家にいるうちは子供だったのです。何をしても多くは許され、また何をしても家に庇ってもらえる、そのような事実に慢心しておる時期でした。大変恥ずかしいことです」
「誰しも、そのような時期とはあるものですよ」
「それでも、多くは失敗をする前に自分は子供であるという甘えに気付くことでしょう。私は、失敗をするまでそのことに気付けなかったのでございます」
「さて、私があなたくらいの年齢の頃でしょうか。家に、一人の男性がやってきました。異国の方、おそらく西洋からのお客様です。そのこと自体は珍しいことではありませんでした。父の仕事柄、ときにはあることです。しかし、私はその方には心惹かれるものを感じずにはいられませんでした。それは、はじめて感じる気持ちでした。会話をしたい、願わくはずっと一緒にいたい。私は、初めて会った男性に図々しくもそのような感情を抱きました。それまで、自分に言い寄る男などを見て、男性とは汚く、卑しく、そのくせ馬鹿な生き物であると、傲慢にもそのように感じておりましたから、そのときの気持ちとはそれは新鮮なものでした。不慣れな英語で挨拶をすると、流暢な日本語で返答をしてくれた、それがより一層私の胸の内をきゅっと狭くしました」
奥さんは、ため込んでいたものを吐き出すように、一気に話した。正平は、自分の聞き役としてじっと話を聞く奥さんの姿しか知らなかったから少し圧倒さえされていた。しかし、と思い直す。これが本当の奥さんだったのではないか。元々奥さんは、喋ることの好きな少女だったのではないだろうかと。
「私はその方に大変懐きました。その方は、自分は伊国から訪れたのだと言いました。父とは、随分親しそうに話をしておりました。彼は私の父と歳が近い男性でありました故、父は私が彼に懐いたことを喜ばしくさえ感じていたはずです。しかし、本質は少し違いました。私は、父の友や父の仕事相手として彼のことを見ていませんでしたから。一目見たときから惹かれていたことは、彼には出会って間もなくに打ち明けました。驚いたことに、彼も私と同じ気持であったと言うのです」
そう語る奥さんは、右眉をひくりと上げた。その男性とはやがて懇意になり、父親の知らないところでも会うようになった。そして遂には、彼の子供を身籠ることにまでなってしまったという。
「大変であったのはそれからです。私が身籠ったことを知った父は、それはもうお怒りになりました。あれほど激高した父は見たことがありません。これからも、見ることはないでしょう――いえ、このままでは父とはもう一生会えないのでしょうが。私が今まさにここにいるのは、元いたあの家と縁を切られたという事実の他に言い様がないのですから」
正平は言葉もなかった。奥さんは、正平の顔も何も見ずに、俯きがちに続ける。
「生まれた子の行方は、唯一私の味方をしてくれた乳母が教えてくれました。伊国に帰ることをこちらからの命として下された彼が押し付けられるように連れて帰ったそうです。……その乳母も、あの家での務めに戻ったのでもう会えません。私は、家の厄介者になってしまいました。あれほど良くしてくれた兄たち、それに雇われている使用人までが私を白い目で見るのです。父は、私の処遇を決めかねているようでした。そこに、家とは遠縁にあたる女性が現れて、彼女の息子との縁談を奨めてこられました。遊び人で、身を固めるつもりは一切ない道楽息子であるけれども、対面が悪いから籍くらいは入れておいてもらわないと困るのだと言うのです。よくある話ですが、自分の元にそのような話が届くとは思いませんでした。以前はただ馬鹿だと思い見下していた男の話が、です。異国の男の子を産んだ女と遊び人の道楽息子。父は、苦渋の決断で私の縁談を呑みました。そして、私は追い出されるように家を出たのです。二度と家の敷居を跨ぐことを許さない、というのが父の最後の言葉でした」
堪えるように、奥さんは睫毛を震わせる。
「縁談がすっかりまとまってしまってからようやくお会いした私の旦那様は、悪い人間ではございませんでした。私などに比べれば、ずっと身の程を弁えておられる、できた人間でした。旦那様は、つらかったろう、と言って私の頭を撫でてくださいました。そんなことは伊国に帰られたあの人にすらしてもらったことがなかった。私は、旦那様の言葉にうなずくこともできずに涙を流しました。きっと、そうした態度に、女性は惹かれずにいられないのだろうとも思いました」
「それから、どうして今のような生活になってしまったのです」
「旦那様は、名目上私と籍を入れたにすぎないからです。最初に言われました。自分は、家のためにお前を妻にしたけれども、ここでお前と暮らす義理はない。しかしお前は、もう外に出てはならぬ。自我がきかず、世の中のことをちっともわかっていないお前が失敗しない確実な方法はそれなのだと旦那様はおっしゃいました。私はその通りだと思いました。本当は、そんなことよりも、家の外の世界が怖くて仕方がなかったのでございます。誰かと関わるということが恐ろしかったのでございます。私はそのとき、出会えば別れることもあると、知ってしまった。だから、旦那様には日本人形だけを要求しました。それを自分の子供と思って、過去の、あの人との幸せだった思い出だけ抱えて生きていくからと」
そこまで言うと、奥さんは自嘲気味に嗤った。正平は言葉など失くしていた。どのような言葉も、気休めになりはしないだろう。まして、慰めなどどうしたらなりえるだろう。
「どうぞ、馬鹿な女だとお笑いになってください。そう、馬鹿な女でした。私などが、昔男性をそんな風に見ていただなんて申し訳なくて恥ずかしい。……おわかりになったでしょう。私は、そんな寂しくて愚かな女なのです。旦那様に命じられはしましたが、実際は自ら世を捨てた生きる屍なのです。とおり雨だとでもお思いになって、どうか早くお忘れになってください。お若いのですし、まだ間違いも起こされていない坊ちゃんなら、今から引き返しても遅くはないのですから」
正平は、悩んでいた。奥さんは、正平を最後まで拒絶しなかった。しかし、正平のためには奥さんのことを忘れ、あそこには行かなくなる方がよいのだと言う。正平には何もなく、だから外の話を奥さんにするしかないのだと思っていた。だから、今思う。
正平は、何も持っていないからいけないのではないか。今こそ、奥さんのために、奥さんにして差し上げられることを考えるべきではないか。
正平こそ、若いがどこか悟ったようなところがあり、自分の死体を見つめながら生きているようなところがあった。何もしないくせに、それを理由に未来から目をそむけているようなところがあった。空っぽな正平に対して身に余る評価を下し、正平の器を大きくしてくれたのは奥さんに他ならない。
恩返し、しなくてはならぬ。
そう思い、正平は伊国の書物を今日も開くのだ。
五.
伊国へ渡ると言ったとき、正直なところ、正平はもっと反対されると思っていた。特に、父親が思っていたよりもずっと早くに折れたのは意外だった。もっと長く、引き止められると思っていた。別段、説き伏せられたわけでもない父親は、仏頂面のままでこう言った。
「無気力で、生きる力も持っていないお前は、こちらが押さえつけないと必要な学習さえしなかっただろう。そのお前が、自ら学を習得し始めたことは少し前から気が付いていた。お前がはじめて自分で決断し、意志を持って修める道ならば、親はもう何も言わない」
ただ、途中で帰ってくることだけは許さない。父はそう、いつもと変わらぬ厳しい口調で言った。けれど、正平はその言葉を正面から厳しいと受け止めるわけにはいかなかった。自分は、なんと子供だったのだろう。ひとり、勝手にわかった気になっていた。彼らの思惑なぞひとつもわからぬまま、親は正平の能力の限界に気付いてないに違いない、などと生意気なことを思っていた。
本当は、父親を含め、正平の周りの大人たちは皆、正平自身の気が付くのを待っていたのではないだろうか。背伸びだけして、大人になったつもりでいた、無知な子供が大人になるのを待っていたのではないだろうか。
密かに胸の内で感謝を述べつつ、正平は道を歩き出す決意を新たにする。
菜桜はやはり、庭の方からひょっこりと顔を出した。秘密の抜け穴ももう小さく、そろそろ菜桜も通り抜けが出来なくなってしまうのだろう。正平も菜桜も、もう子供ではない。
「正ちゃん、何をしているの」
「伊の言葉を」
「正ちゃん、近頃はそればっかりね」
菜桜は、薄桃の唇を尖らせた。手足も伸び、顔立ちも大人びて、ああ、やはり菜桜も幼き日に正平の妹分だった菜桜とは変わってきているのだ。いつまでも正平が振り回していい子供ではなくなっている。もう、立派なお嬢さんだ。
菜桜は、縁側に寄ってきてそこに腰を掛けた。
「正ちゃんからあたしを誘うって、久しぶりだね」
「そうかな」
「うん、いつもあたしがここまで迎えに来てばかり。だからちょっと嬉しかった」
嬉しかったと言うわりに、菜桜は先程から正平の顔をちっとも見ていない。正平から見えるのは、菜桜の頭だけだった。
「正ちゃんがあたしに着いて一緒に街まで出てくれたのっていつまでだったっけ。そういえば近頃、あたしが誘っても誰もついてきてはくれなくなった。学業だとか、家業だとか、皆忙しいんだと口をそろえて言う。もう子供の遊びに付き合ってはいられないんだと、言外にあたしにそう告げる」
「菜桜、今日は話したいことがあるんだ」
「いや。いやよ、聞きたくない」
「菜桜」
「それは、あたしにとって不幸なことに違いないんだ」
菜桜は低い声でそう言う。相変わらず、顔は庭の方に向けたままであった。そして、正平よりも先に口火を切る。
「あたし、お見合いをするんだって」
大きなお茶屋の家のお嬢さんとして伸び伸びと育てられた菜桜。跡継ぎを婿にとる必要はなくなったが、いつかこうなることは必然であったと正平は冷静な頭でそう思った。
「あの倫だけが、あたしが不本意だと知っているそのお見合いに反対したけれど、きっと避けられはしないと思う。お見合いの段取りが決まれば、そのときに縁談はすっかりまとまってしまうのだと思う」
「仕方ない。そういうものだ」
「仕方ないって何よ」
菜桜は立ち上がって、そしてようやくこちらに顔を向けた。強く睨みつけてくる目は、その縁に光るものを持っていた。菜桜が、あの気の強い女が、涙を浮かべて正平を見ている。
「ねえ正平。あたしと一緒に来て」
「一緒に、ってどこに」
「どこでもいい。正ちゃんの好きなところでいいから、あたしを連れて逃げてよ。昔みたいに、あたしの手を引いてここから連れ出してよ」
「菜桜」
「ねえ、早く」
「菜桜、おれは伊国に行く」
次の瞬間、菜桜の目が信じられないほどに大きく見開かれた。口が震えている。その唇が、「うそ」と何度も動いた。
「嘘ではない」
「じゃあ、昔、菜桜のことをお嫁さんにもらってくれるって言ってくれた、あれはなんだったの。嘘つき。正ちゃんの嘘つき」
「違う、そうじゃない。おれは菜桜を置いていってしまうけれど、そうでなくとも菜桜と一緒には逃げられない」
「なぜよ」
「菜桜は、信弥を好きだからだ。お父さんが、お母さんが好きだからだ。菜桜は、家のことを愛していて、家に迷惑がかかることはできないのだと知っているからだ」
目から涙を幾重もこぼす菜桜は、正平の言葉に嗚咽を漏らした。嗚咽と共に、「正ちゃんは狡い」と言う。ああ、知っていた。それでも、正平は菜桜と行くわけにいかなかった。
「ねえ、正ちゃん。正ちゃんは、変わったよね。最初に伊国の言葉なんて学び始めたときからわかっていたの。いきなりだったけれど、きっとそれには意味がある。正ちゃんが、はじめて家に言われないままはじめたことだから。そうでしょう」
「ある人の、ためだ」
「……あたし、その人が羨ましくてたまらない。無気力だった正ちゃんに力をくれたのは、あたしじゃなくてその人だった。あたしでありたかったのに」
そう言って、菜桜はまた泣いた。菜桜が泣くことには慣れていなくて正平はおろおろし通しだった。菜桜はお嬢さんになっても、涙を流す姿よりも快活に笑っている顔の方がいい。
伊国に旅立つ、と言ったとき、園田の奥さんは瞬きを数回した。癖であるらしい右眉の動きも見られない。そんなに衝撃を受けたのだろうか。
「奥さん」
「……ああ」
奥さんの反応はいつもよりもずっと鈍かったが、それでもちゃんと微笑みが返ってきた。人形の頭を撫でながら、奥さんは言った。
「そうですね、いいではありませんか。あなたもご自分の道を見つけられたのですね。そして、ここのことを」
しかし、微笑みはどうにも弱弱しいものであった。
「ここであったことを、忘れていくのです」
「忘れません」
「忘れます。あなたはこれから広い世界をずっと見に行くのです。狭い世界の、たったこれだけの期間を、みずぼらしい女と過ごした期間を、忘れないわけがないのです」
「忘れません」
「なぜですか。なぜ、そんなに迷いなく言い切れるのですか。……私には、無理です」
気が付けば、奥さんは唇の端を少し噛んでいた。自制をしているようにも見えた。それは、さすがに正平の願望にすぎないだろうか。少しでも引き止めて欲しいというのは。
「なぜ、こんなにもずっとこの場所に訪れ続けたのですか。なぜ、あの日、初めて会ったとき、あれきりで放っておいてはくれなかったのですか。別れは怖いと思っていました。こんなふうに、あなたがここからいなくなってしまうことも、何度も想像いたしました。なのに、いざそう伝えられたとき、なぜこんなにも心に靄がかかるのでしょう。ああ、また私は嫌な女になっています」
「嫌などではありません、奥さん、私は」
「私はいやです。ああ、私は大人として、ここから出て行く若者を歓迎すべきなのです。だというのに、考えずにはいられません。私が少女のままであれば、泣いてあなたを引きとめることもできたのに、と」
奥さんはそう言って、またつらそうな顔をした。我慢をしているのだ。この人は、この子供のような人は、菜桜のようなお嬢さんよりも大人だから。涙を見せまいと、必死なのだ。
「奥さん、私は、奥さんがそうして引き止めてくださっていると、感じることが出来ただけでとても幸せな気分なのです。奥さんが思っていた通り、男とはそのような単純なもので、私もそのような男にすぎないわけです」
「あなたは、決してそのようなことは」
「いいえ」
正平は軽く首を横に振って否定した。
「私は、何もできない人間でした。自らの道を見つけられなかったがために、学業の道は親に押さえつけられて修得いたしました。外に出る気概もありませんでしたが、きっとこのままなるように何かには成るのだろうと甘い考えで生きていました。そんな中、あなたと出会い、私はこうして道を見つけることができたのです」
「みんなあなたのお力です」
「違うのです。聞いてください。奥さんに出会い、あなたに多くの話をしているうちに、内に籠ることの多い私の、世界の狭さに愕然といたしました。私は、見てきた全てを奥さんにお届けしましたが、このままでは私も奥さんも、生きる世界が狭いままになってしまいます。私は、決めたのです。広いところを見に行くと。それをあなたにお話しすると。私があなたの目になるのだと」
正平は奥さんを優しい目で見つめる。それは、若かった子供のままのものとは違う、力強いものも含んだ視線だった。
ずっと、竹垣の外から送っていた視線からも全く変わった。
「必ず戻ってまいります、奥さん。それまで、どうか私のことを……待っていてくださいますか」
奥さんはついに、猫のような大きな目からぼろりと涙を零した。それは大きな粒で、流れる度に奥さんの目が溶けそうだと思った。
「私の、正直な気持ちを言います。私は、実のところ、これだけおっしゃってくださるあなたのことをまだ信用できてはいないのでございます。何度も言います。あなたは若い。そして、私はそうではない上に、既に夫のいる身なのです。私は、そんな身でありながら、あなたの帰りをただ待っているのは不安だと思っているのです」
正平は、奥さんのことを愛おしいと、本当に愛おしいと感じた。これが愛おしいという感情なのか。そう、今、目の前の女性に感じているのが愛情なのだ。
正平は衝動のままに奥さんの顔に自分の顔を近づけた。寄り添うような優しい花の香りがする。そして、小さな唇に自分の唇を寄せ。
唇を離すと、囁くように正平は言った。
「……奥さん、お名前をお聞きしてもいいですか」
「名前ですか」
目尻を朱に染めながら、奥さんは正平の問いに答えた。
「紫苑といいます」
「紫苑さん」
園田の奥さん――否、紫苑さんは、小さな声ではい、と返事をしてくれた。
「私は、絶対に、あなたのところへ帰ってきます。話をたくさん持って。できることならば、外へ出られないあなたの代わりに伊国であなたの子供と会って、あなたがどれだけ子供を想っているか、きっと伝えてきますから」
そう言って、紫苑さんを腕に抱くと、彼女もおそるおそる正平の背中に腕を回してくれた。気持ちが満たされていく。
「正平さん」
紫苑さんが、正平のことをはじめて名前で呼んだ。
「どうか無事で」
はい、と言った最後の声は掠れてしまったけれど、彼女には届いたはずだ。大きく息を吸い込むと、鼻孔へするりと花の香りが滑り込む。きっと正平は、この花の香りを嗅ぐたびに彼女のことを思い出すのだろう。