4.対立と指導者の死(2)
外伝的エピソードです。この回は特にエンタテインメントになっていないかもしれません。
二月革命前、少なからぬボリシェヴィキ、また社会民主労働党系の有力者が海外へ亡命していたことは、既述の通りである。特に有名な人物をあげれば、スイスには、レーニン、ジノヴィエフ、ラデック、アメリカのニューヨークには、ブハーリン、トロツキー‥‥。他にも、スウェーデンのストックホルムには、暗殺されたモイセイ・ウリツキー、そして女性活動家であり、設置された保健人民委員に選出され、一九一九年には婦人政策担当部局である「女性部」を創設したアレクサンドラ・コロンタイ。イギリスのロンドンには、トロツキーの次の外務人民委員の座に就いたゲオルギー・チチェーリン、そのもとで(「大臣」に対する「次官」にあたる)外務人民委員代理を務めることになったマクシム・リトヴィノフ、フランスのパリには、一時「メジライオンツィ」に属した後トロツキーと共にボリシェヴィキに加わり、十月革命の際の冬宮攻撃で指揮を執ったウラジーミル・アントーノフ=オフセーエンコ‥‥。彼らはそれぞれの国で、ロシアの革命のための活動をしていたのだった。
さて、十月革命と内戦――干渉戦争によってボリシェヴィキが政権を握ると、その政策を嫌い、海外へ脱出する人々は後を立たなかった――そうできた人々である。彼らはおもにヨーロッパやアメリカに亡命し、そこで独自のコミュニティや文化を保った。また極東――中国、日本、またオーストラリア等への亡命者もいた。これら新天地で活躍する者も現れ始めた。帝政時代に巨人機イリヤー・ムーロミェツを開発したイーゴリ・シコールスキイは、アメリカに渡り、ニューヨークのロングアイランドにシコルスキー飛行機会社を設立した。旧白衛軍の有力者を始め、反ボリシェヴィキの政治的指向を明確にする者たちも無論いた。しかしそのなかで、また奇妙な政治的主張も現れた。立憲民主党の指導者のひとりで、コルチャーク軍に身を投じ、ハルビンに亡命していたニコライ・ウストリャーロフという知識人がいた。この人物は、ロシア革命と共産主義思想は否定した。しかし同時に、白衛軍が西欧列強と連合したことも批判したのである。
「ソビエト権力の利害は、宿命的にロシア国家の利害と一致している」
ウストリャーロフは唱える。
「革命権力だけが、偉大なロシア国家とロシアの国際的威信を回復することができるのだ」
一九二一年夏、ウストリャーロフはプラハで、彼を支持する反ボリシェヴィキの亡命ロシア人たちとともに、このようなことを主唱する「スメナ・ベーヒ」という論文集を発表していた。ウストリャーロフはネップを歓迎し、次のように述べる。
「“物理的に”強力な国家だけが、偉大な文化を保持することができる。“小国”の精神は優雅で、誇り高く、“英雄的”ですらある可能性を持ってはいる。しかし本質的に彼らは偉大であることはできないのだ‥‥ソビエト権力はロシア人の国家を建設している」
彼は「共産主義」と「ボリシェヴィズム」を峻別した。共産主義は国際主義――インターナショナリズムを唱えるのに対して、ボリシェヴィズムはロシアの再生を唱えるロシア・ナショナリズムのイデオロギーにもなり得る、としたのである。
「ナショナル・ボリシェヴィズム」――これは、亡命した人々たちの多くからも奇妙な唱道に思われたが、当のボリシェヴィキにとっても痛し痒しの説であった。レーニンは、複雑な感情を抱いていたという。なるほど自分たちを褒めてくれてはいる。しかし、ウストリャーロフの言うところは、結局、ソビエト権力も帝国主義諸国の権力と変わらない――そうなりつつあるのだ、ということなのだから。レーニンはこの面妖な評価に懸念を表明する一方、この奇妙な響きの説が、「新経済政策の参加者である数千、数万のあらゆるブルジョアやソビエト職員の気分を言い現わしている」ことに気がついていた。そのレーニンは亡くなった。ボリシェヴィキ政権内では、三人組とレフ・トロツキーの対立が深まっていった。新国家建設にあたる、特に行政部門の官僚たちの「気分」に、スターリンは細心の注意を払っていた‥‥。――ウストリャーロフと彼を支持するグループは「道標転換派」と呼ばれ、ボリシェヴィキからも注目されるようになっていった。
「道標転換派」は、言わばボリシェヴィキに憑依しようとしている大ロシア主義の亡霊であった。この亡霊と、真っ向から対立するであろう人物を、ひとりあげておく。ミール・サイッド・スルタン・ガリーウグル。一八八二年生まれと言われている。ウファ県ステルリタマク郡出身の、タタール人である。ムスリム・コミュニストと呼ばれる、イスラーム共同体出身の社会主義者の象徴的な人物である。ロシア風に呼称した名が知られている――ミールサイト・スルタンガリエフ。
「プロレタリア民族」――。一言に凝縮するならば、この人物の思想の独自性は、この概念の創出にある。抑圧された民族が全体としてそのままプロレタリアートである、という見解である。人が己を認識するとき、「階級」を発見する、すべきである、というのが、レーニンのみならずそれ以前のマルクス主義者たちの一般的見解である。これに対しスルタンガリエフは、自分自身の違和感をもとに、ある人間が「階級」と「民族」に同時に帰属するという前提を立てた。その上で、社会主義(共産主義)と「民族主義」は矛盾しないと考えた。
社会主義(共産主義)と「民族主義」が矛盾しない――このスルタンガリエフの「民族共産主義」は、字面だけでは、ウストリャーロフの「ナショナル・ボリシェヴィズム」とそう大差ないように見える。特に部外者にとっては(マルクス主義では「部外者」など存在しないのだが、そう仮想する者がいたとして、の話である)。しかし、両者はまったく異なる、対極にある思想である。なぜなら、スルタンガリエフの考えによるこの場合の「民族」とは、「抑圧された民族」なのである。資本主義を成熟させ、植民地市場等を得た「抑圧する民族」では決してない。社会分化や階級分解を経験していない、「抑圧された民族」である。これはムスリム、すなわちイスラーム教徒だけに限らない。ただ、スルタンガリエフの生育環境と人生、彼を支持した同志たちの基盤となったのは、イスラーム共同体である。彼の考えは、「抑圧された民族」すなわち「プロレタリア民族」は、「抑圧する民族」のいわゆるプロレタリアートと同じように、あるいはそれ以上の搾取と抑圧の対象とされている、というものだった。
二〇世紀初頭、欧米の労働者の間には、移民労働者に対する人種的偏見が存在していた。ヨーロッパでは、一九〇〇年の中国の義和団の乱、一九〇四年の日清戦争を経て、イギリスのジャーナリズムにおいて「黄過論」なるものが頻繁に登場し始め、それが西欧社会に広く波及していっていた。アメリカ合衆国では、一九世紀なかば、カリフォルニアのいわゆるゴールドラッシュの時期に大陸横断鉄道の敷設が進められたが、その金鉱の鉱夫や鉄道工事の工夫として多くの中国人労働者が受け入れられていた。当時、清朝が衰退し、西欧諸国によって半植民地状態に置かれていた中国からは、海外に活路を求め船で海を渡る人々が増加していた。また少し後にハワイが米国に併合され、日本人がハワイに移住を始めていた。カリフォルニアの農場労働者としてアメリカ本土へ移住する日系移民も増加していた。彼らに対し、白人の側から排斥運動が起こってもいた。労働者たち――労働運動も、それに蚕食されていた。一九〇七年、第二インターナショナル・シュトゥットガルト大会では、社会主義政権下の植民地政策は文明開化の役割を果たすとして、あらゆる植民地政策を非難するものではない、との決議案さえ提出された。この大会においては、アメリカ社会党の唱える移民制限論――「遅れた人種の労働者」の移民は労働者組織を台無しにして社会主義の実現を遅らせる要素になる――に対し、一八五八年生まれの日本の社会運動家・加藤時次郎がこのように反論している。
「イタリア人、スロバキア人、ユダヤ人も同じく競争者なのに日本人だけが問題にされるのは、アメリカ人が黄禍論に動かされているからであり、資本家がアメリカ人労働者をおだてようとしているからだ」
ロシア帝国の場合は、少し事情が複雑であった。ルーシは、過去、実際にモンゴル帝国を始めとする東方系民族――黄色人種――による侵攻と支配に苦しめられてきた。西欧においても「タタールの軛」と恐れられた異教徒・異民族による支配を実際に受けたのはルーシである(=西欧ではない)。そして「ロシア」は、この「タタールの軛」を振りほどく過程で立ちのぼってきた国家であり、地域であり、概念である。いずれにせよ、二〇世紀初頭、ロシア帝国の社会民主労働党系の主流に、スルタンガリエフの言う「抑圧された民族」への理解はなかった。アメリカ社会党の某の「遅れた人種の労働者」と、同等の意識であったであろう。彼らのこの意識・認識に異を唱えたのが、このスルタンガリエフである。
スルタンガリエフにムスリムとしての精神的下地を作ったのは、故郷のイスラーム共同体である。特に父親の教育が、大きな影響を与えたようだ。これに対し、マルクス主義の思想に触れることになったのが、彼が一八九五年から学んだ、故郷を遠く離れたカザンのタタール師範学校である。同校は、当時タタール人に唯一開かれていた国立の中等教育施設であった。
ちょうどスルタンガリエフが入学した頃、改革を求める若いタタール人学生たちがタタール語雑誌「タラッキ」を出し始めた。この「タラッキ」を発刊していたサークルのメンバーたちは、後にロシア帝国の各政治運動に拡がってゆく。カデットに近い立場の自由主義者、農民に目を向けるエスエル、そして社会民主労働党――メンシェヴィキとボリシェヴィキ‥‥様々な人物がここから輩出された。スルタンガリエフも、この潮流のなかにいた。他の帝国諸地域もそうであるが、授業はすべてロシア語で行なわれていた。
彼は一九〇〇年に同校を卒業したようである。「タラッキ」発刊サークルは、翌一九〇一年、より本格的な政治結社「シャキルドリッキ」(学生)に衣替えを行ない、ムスリムの教育や宗教機構改革のための闘争を始め、やがて「イスラーフ(改革)」と呼ばれる社会運動の潮流の一端を担ってゆく。スルタンガリエフは、図書館の司書の仕事に就いていた。
一九〇五年の闘争は、カザンのタタール人たちにも影響を与えていた。この頃、スルタンガリエフはジャーナリストの道を志し、「ウフィームスキー・ヴェーストニク」や「トルムシュ」等に、ロシア語とタタール語の両方でよく記事を書いていた。ただしこの頃は、まだマルクス主義者というよりは、ムスリムの視点から教育の改革を訴える立場であったようだ。また、ムスリム労働者たちによる労働争議は頻発していたが、社会民主労働党カザン県委員会の努力にも関わらず、彼らの同党への関心は低かったと言われる。
タタール人の指導的人々は、ロシア帝国内の主要なムスリム文化地域に呼びかけ、一九〇五年八月に第一回全ロシア・ムスリム大会を開いた。これに参加したのは自由主義的な改革を求めるブルジョア層、地主貴族、ウラマーと呼ばれるイスラーム共同体における知識人(イスラーム法の法学者とも)たちであり、社会主義者は少数派であったようである――それでも当局から許可がおりず、秘密裡に開催せねばならなかった。第二回ムスリム大会は、翌一九〇六年一月に開かれ、正式に「ロシア・ムスリム連盟」を結成し、帝国の一六の地域にムスリム大会が選んだ評議会を設置することにした――が、実際にはカザン評議会だけの設置にとどまった。実質的にカザンのタタール人が取り仕切る大会に、他の地域のムスリム、特にアゼルバイジャンのムスリムたちからは不満の声もあがっていた。第三回ムスリム大会が同年八月に開催されたが、大会議長団一四名のうち一〇名まで、また、政治・教育・宗教に関する三分科委員会の各メンバーのおよそ八割がタタール人であった。この連盟は「政党」ではなかったが、この第三回大会において「政党」化が決議された。その綱領はムスリム自由主義者寄りであり、彼らと「ムスリム・コミュニスト」たちの間の溝もまた、露わになってしまった。
スルタンガリエフは、サンクトペテルブルクの汎トルコ主義紙「ムスリマーンスカヤ・ガゼータ」や東洋学雑誌「ミール・イスラーマ」、モスクワの「ルースキー・ウチーチェリ」誌に、一九一一年から一四年にかけて寄稿していた。欧州大戦が始まったが、スルタンガリエフは徴兵されずに済んだ。彼はアゼルバイジャンのバクーに赴き、同市のタタール人学校で教鞭をとった。そして、次第に急進的な社会主義者となっていった。
一九一七年二月のペトログラードでの革命に際し、この「ロシア・ムスリム連盟」のアクションは鈍かった。彼らは合法的な戦術、すなわち帝国議会への進出を図っていたのだが、議会の反動化やムスリム議員たちの意識の低さ等により、この頃になるとその失敗ぶりが明らかになっていた。二月革命の報を聞いても、年寄りの議員や連盟の指導者たちは、煙草を燻らせ、カルタ遊びに興じていた。これに対し、若い連盟のメンバーたちからは突き上げが行なわれた。そのうちのひとりが、一八九〇年生まれのバシキール人で、トルコ学者でもあったゼキ・ヴェリディ・トガン(アフメト・ゼキ・ヴェリディ)である。この人物は社会主義寄りではなかったが、既得権益を守ることに汲々とする年寄りの「ムスリム自由主義者」たちにも批判的であった。
一九一七年五月、モスクワにおいて、革命のため新たに「第一回」とされた全ロシア・ムスリム大会が開催された。およそ三百名のウラマーを含む、各種グループの代表およそ九百名が参加した。そこには、カデットよりも右寄りの保守派から、ボリシェヴィキを除く漸進的または急進的な社会主義者たちなど、ムスリムのあらゆる政治的潮流が含まれていた。スルタンガリエフは、四月下旬にはバクーからモスクワへ赴き、この大会執行委員会の事務局に加わり活動していた。この大会で勝利したのは、エスエルやメンシェヴィキを支持するムスリムであった。また、カザンの女性代表が提出した男女の政治的権利の平等、女性の閑居慣習の禁止等を目指す案が、保守派の反対を押し切って採択された。
大会は、ムスリムの存在感を――ロシアだけではなく――世界にアピールすると同時に、内部対立もまたくっきりと浮かび上がらせた。大会後の組織としてタタール人は「チュルク=タタール民族評議会」という組織をカザンに置こうとしたが、他民族の代表の反対に遭い、結局これは「中央民族評議会(ロシア・ムスリム評議会)」という名でモスクワに置かれることになった。
一方でカザンでは、タタール人ブルジョアの利益を守る民族団体「ハルビ・シューロ(ムスリム軍事評議会)」が結成されており、その一方、ボリシェヴィキのカザン県委員会は一六名のメンバー全員がロシア人という状態であった。一九一七年二月に「労働者委員会」として発足したスルタンガリエフらタタール人社会主義者グループは、四月に「ムスリム社会主義者委員会」と改称し、多くの点でボリシェヴィキの綱領を支持したが、メーデーではまだ別個の隊伍で行進していた。
七月なかばから、第二回全ロシア・ムスリム大会がカザンにおいて開催された。この大会の開催にスルタンガリエフは尽力したが、先の中央民族評議会は全国的には機能せず、またトルキスタン、カザフスタン、アゼルバイジャンのムスリム代表が参加を拒否、タタールと北カフカースの代表二百名あまりの参加となった。
ペトログラードにおいては、エスエルやメンシェヴィキの分解に伴い社会主義者たちの「分解」が始まっていたが、カザンではそうなっていなかった。彼らは一体となって、臨時政府の民族政策を批判した。スルタンガリエフともう一名が、個人の資格ではあるがボリシェヴィキの会議や集会に招待されるようになった。先のハルビ・シューロも臨時政府とは対立しており、独自に軍事部隊を編成し、兵士数を増やしていった。第二回全ロシア・ムスリム大会と同じ日程で「全ロシア・ムスリム軍事大会」が開催されている。
――八月一四日、カザン火薬工場で火災が発生、爆発が起こった。
一〇月の革命におけるタタール人社会主義者グループの役割は、小さいものであった。一〇月二四日の朝から軍の臨時政府側と赤衛隊およびボリシェヴィキ支持派との戦闘が行なわれ、二九日までにカザンの実権は県労働者・兵士代表ソビエトの手に移った。しかし、この闘争の当事者は、双方ともロシア人たちであった。非社会主義のハルビ・シューロ指揮下の部隊は、中立を保った。しかし十月革命の進展は、カザンおよびムスリム社会にも次第に影響を及ぼしてゆく‥‥。
一一月三日に選出されたカザン軍事革命委員会の一四人のメンバーは、全員が「ヨーロッパ人」であった。非ボリシェヴィキのメンバーは存在したにも関わらず、カザンの地における革命から、タタール人は排除されていた。この一一月に、スルタンガリエフはボリシェヴィキに入党している。またこの一一月、先の第二回全ロシア・ムスリム大会、全ロシア・ムスリム軍事大会を受けて、ウファでムスリムらによる民族議会が成立したが、十月革命に対する態度は保留した。このミッレト・メジュリスは、宗教・文化問題に関する権限を持つが、ムスリムが多数を占める地域でもロシア人に対する管理権を持たない。初代議員のひとりとして、先のゼキ・ヴェリディ・トガンが選出されており、彼はバシキール人評議会の組織に着手していた。繰り返すが、トガンは社会主義者ではなく、また既述の憲法制定議会の代議員に選出されていた。
年が明け一九一八年になると、ウファやカザンの地においても、「革命」が現実感を持つようになった。ツァーリはもういない。旧体制は、文字通り過去のものとなった。変革を肌で感じ取ったムスリムらの未来への構想の具現化したもののひとつが、このミッレト・メジュリスによる「イデル=ウラル国(イデル=ウラル国家)」である。一九一八年初頭、この国家の準備会「イデル=ウラル国組織化のための参与会」はウファからカザンに移転し、国家成立を急いだ。この国家は、多数派のタタール人を中心としつつも、彼らが少数派である他のイスラーム文化地域では、タタール人以外の民族の立場にも配慮した自治論を持っていた。ムスリムらは、結束していた。しかし、一月六日の憲法制定議会の解散後から、ボリシェヴィキとこの「イデル=ウラル国」構想――ミッレト・メジュリスとの関係は悪化した。ミッレト・メジュリス側は、タタール人とバシキール人からなる部隊の集結を命じ、二月初旬には、ハルビ・シューロの指揮下にカザンのおよそ二万、オレンブルクのおよそ一万、その他アストラハン、サマラ、オムスク、イルクーツク、エカテリンブルクに合わせておよそ一万二千から一万五千の軍事部隊が編成された。
ボリシェヴィキ側は、ドイツを始めとする西方からの脅威を払拭できておらず、これらの動きに対し懐柔策に出た。ここで民族人民委員ヨシフ・スターリンの出番がやってくる。ムスリム軍事評議会は一月八日から三月初めにかけて第二回全ロシア・ムスリム軍事大会を開催するが、他方でボリシェヴィキの後押しする「内地ロシアおよびシベリアのムスリム問題中央委員部」(中央ムスリム委員部)が一月一九日に設立された。
二月になると、両派は緊張状態に包まれた。ツァーリとその体制は倒した。しかし、彼らは味方なのか敵なのか。
中旬、第二回全ロシア・ムスリム軍事大会から、ボリシェヴィキに近いムスリムたちが去った。そのこともあり、「イデル=ウラル国」は、ブルジョア民族主義国家となる見通しが高まった。「カザン・ソビエト共和国」を名乗るボリシェヴィキ側のカザン・ソビエトやそれに附属するムスリム委員部に対抗し、軍事評議会は、大会会場をブラク川を越えたタタール人居住地域に移し、そこに「外ブラク共和国」の創立を宣言した。このカザン・ソビエト附属ムスリム委員部を指導したのが、スルタンガリエフである。軍事評議会の有力メンバーが逮捕され、緊張はさらに高まり、カザン市には戒厳令が敷かれた。
三月に入り、緊張はついに具体的な衝突となった。カザン・ソビエト側――ボリシェヴィキ側の部隊が「外ブラク共和国」地域の包囲を始めたのである。しかし、スルタンガリエフらボリシェヴィキ側についたムスリムにとって、これは苦い選択であった。そのためもあってか「戦闘」は極めて自制的に行なわれ、三月二九日に軍事評議会を降伏させたものの、双方にひとりの死者も出なかった。兎にも角にも、こうしてカザンの実権は社会主義者側が握ることとなった。これがカザン三月革命である。
民族議会やハルビ・シューロは解散させられ、ペトログラード等のタタール民族運動につながるムスリム各紙は、刊行停止処分を受けた。カザン・ソビエトの最大の脅威であったムスリム民族兵力は一掃され、ヴォルガ中流域とウラル地域全体にその動きは波及してゆく。しかし‥‥今度はスルタンガリエフらムスリム・コミュニストたちが、闘争の担い手となってゆくのである。
内戦は、ムスリム世界にも深刻な分裂、混乱、危機をもたらしていた。ゼキ・ヴェリディ・トガンらは、一九一八年にオレンブルクにおいて「バシコルトスタン」の独立を宣言した。トガンの率いるバシキール軍は反ボリシェヴィキ蜂起を起こし、オレンブルグからウファにかけての、ほぼバシキール人居住地域に重なる地帯で、多くのバシキール人蜂起がつづいた。トガンらは戦略のために、敵の敵、すなわち白衛軍に接近した。後にはコルチャークの傘下に入り、反ボリシェヴィキ闘争を行なった。この時期における帝国主義諸国の干渉は前述の通りであるが、トガンはそのうちのひとつ、日本帝国の軍部――日本陸軍参謀本部第二部と接触してもいる。一九一八年八月には、前述のチェコスロバキア軍団がカザンを占領、さらに翌九月には、トロツキーやトゥハチェフスキーらの指揮により、赤軍第1軍と第5軍がカザンを再占領した。スルタンガリエフたちの闘争を見てみよう。
「ムスリム諸国の人民は、プロレタリア民族の性格を持っている。経済事情から見ると、イギリスやフランスのプロレタリアートと、モロッコやアフガニスタンのプロレタリアートには大きな隔たりがある。ムスリム諸国の民族運動が社会主義革命の性格を帯びている点こそ強調されねばならない‥‥」
一九一八年三月、ボリシェヴィキ・カザン県委員会において、スルタンガリエフはこのような見解を示した。「プロレタリア民族」の発想は、とりあえずはボリシェヴィキ側に与した――ツァーリの支配はもうごめんだ――非ムスリムの非ロシア人たちにも広く共感された。そして当のムスリム地域においても、特にボリシェヴィキに未来を見出す者たちのなかに「スルタンガリエフ主義者」たちを増やしてゆくことになる‥‥。彼らは、ムスリム地域において社会主義が発展するためには、イスラームの文化と伝統に配慮した、柔軟な接近が必要だと考えた。これは、スルタンガリエフに近い立場の者の見解である。
「われわれの宗教イスラームは、階級的宗教ではない。それは超階級的な全体の宗教である」
イスラームが、社会主義が目指す無階級社会と必ずしも矛盾しないと唱えたのだ。
ただしスルタンガリエフ個人は、少なくとも公にはマルクス主義者として無神論の立場を表明していた。彼は、ムスリム固有の生活様式・文化を保持しつつ、社会主義を建設する道を準備しようと考えていたようだ。このような見解・主張が支持を得た背景も見てみよう。
ボリシェヴィキの反イスラーム活動の隊列には、かなりの数の旧正教宣教師が含まれていた。ムスリムたちは、革命の前も後も、「ヨーロッパ」的なものから圧力を受けつづけていたのである‥‥。旧ロシア帝国のイスラーム社会には、住民七百人から一千人ごとにひとつのモスクがあった。各モスクは選挙で選ばれるムッラ、ムッラの補助者、ムアッジン(礼拝呼びかけ人)等、最低三名の宗教指導者から構成されていた。彼らは、モスクに附属する各種(宗教)学校の教師、遺産配分や戸籍簿の管理、結婚や離婚また相続問題等の相談・裁定、割札その他医療を担当するなど、地域ムスリム住民との密着度が高く、このきめ細かさはキリスト教(ロシア正教)の聖職者には見られないものだった。
スルタンガリエフは、このうちタタール世界の覚醒と革新に貢献し、ソビエト権力を支持する「新しいウラマー」を「赤色ムッラ」と呼び、革命の担い手として高く評価したのである。しかし、翌一九一九年にかけての内戦‐干渉戦争において、ボリシェヴィキ中央はイスラームを敵視し、土地の強制収用、モスクの冒涜・破壊、ムッラたちの逮捕・射殺を行なってゆく。先のような旧正教宣教師が反イスラーム活動の隊列にいたのだから、これは実質上の民族・宗教戦争であった。
組織的には、十月革命直後から、「ムスコム」という組織が内地ロシアとシベリアのムスリム居住地域に置かれていた。各「ムスコム」は、地域のムスリム・コミュニスト――必ずしもボリシェヴィキ支持者というわけではなく、エスエル左派支持者もいた――の手で建設され、ミッレト・メジュリスに参加した民族ブルジョアジーが加わることさえあった。
これら各「ムスコム」は、ボリシェヴィキの実権掌握の進展とともに先の中央ムスリム委員部の支部という位置づけになってゆき、一九一八年六月二九日の人民委員会義布告により、民族問題人民委員部指導下の中央ムスリム委員部指導下の「県ムスリム委員部(グブムスコム)」、その指導下の「郡ムスリム委員部(ウエーズドムスコム)」へと再編された。また、このグブムスコムは県ソビエト執行委員会、ウエーズドムスコムは郡ソビエト執行委員会の指導下にもそれぞれ入る形となった。ボリシェヴィキ中央の警戒心がうかがえる。これらムスコムは、数の上では増えていった。しかしこれは、イスラーム地域におけるソビエト権力の強化・浸透とともに、ムスリム権力の強化・浸透――二重権力に発展しかねない――につながった。ために、ボリシェヴィキ中央のさらなる警戒心を呼び起こすことになり、一九一八年一一月頃から、グブムスコム、ウエーズドムスコムのように独自の委員部を持たない「民族問題部」管理下のセークツィヤ(部)に事実上格下げする措置がとられた。
この「民族問題部」は民族問題人民委員部指導下にあり、また地方ソビエト執行委員会指導下にある。例えば、タタール人(民族)セークツィヤは、民族問題部の管理下にあり、この民族問題部は民族問題人民委員部と県ソビエト執行委員会の指導下に置かれる――セークツィヤ単体も民族問題人民委員部の指導下に置かれる――ことになった。中央ムスリム委員部の権限が及ばないようにされたのである‥‥。
一九一七年一〇月の時点では、イスラーム地域においては、地元のムスリムのボリシェヴィキ党員は皆無といっていいほど少なかった。そこで、ボリシェヴィキは、別組織であるスルタンガリエフらタタール人のムスリム社会主義者委員会のような組織に依拠せざるを得なかったのである。中央ムスリム委員部が準備と運営を行ないはしたが、各県・市のムスリム社会主義者委員会の協力のもとに、一九一八年三月、モスクワで「第一回ロシア・ムスリム労働者協議会」が開催された。ここから、スルタンガリエフと同志たちによる、独自の党の建設が始まる。この協議会の席上において、「ムスリム社会主義共産党」の構想が彼らにより出され、綱領の詳しい検討が開始される。一九一八年六月には、ムスリム社会主義者委員会は、カザン、モスクワだけでなく、アストラハン、アルハンゲリスク、バクー(バキュ)、ニージニー=ノヴゴロド、ペトログラード、ペルミ、サマーラ、サラトフ、シムフェローポリ(シンフェロポリ)、シンビルスク(シムビルスク)、タシケント、トムスク、シュッメニなど各地の主要都市で発展を遂げていた。これら各地のムスリム社会主義者委員会は、中央ムスリム委員部や各地のムスコムに人員を供給する水源にもなり、その影響力は大きかった。
しかし、レーニン暗殺未遂事件等によるボリシェヴィキとエスエル左派との対立が、同委員会にも深刻な影響を及ぼした。事件に先立つ六月にすでに、カザンのムスリム社会主義者委員会は、ボリシェヴィキ支持派とエスエル左派支持派の二派に事実上分裂している。スルタンガリエフらは、この混乱を逆に利用して、六月一〇日にカザンで開催が予定されていた「ムスリム共産主義者大会」に向けて、党名を「ムスリム共産党」に改称して訴える案を練った。しかし、この大会は内戦‐干渉戦争の激化に伴い、わずか二五名が参加できただけだった。そこで「大会」は「協議会」と変更されて、開催日も七日間遅らせて開催された。
同協議会ではボリシェヴィキ――ロシア共産党の綱領を受け入れ、エスエル左派と正式に絶縁する一方、ロシア共産党と独立した「ムスリム共産党」の建設を決定した。スルタンガリエフはこの新党の中央委員会に選出された。ムスリム共産党は、各地のムスリム社会主義者委員会を母体として地方組織を設置し、カザンを本拠地にイスラーム社会主義の流れに連なる各組織の統合を試みたのである。これはある程度成功した。ボリシェヴィキ中央は、原則として党員の別組織への二重加入を許さず、また八月以降は、これも原則としてエスエル左派等の他の組織と敵対状態に入ってゆく。しかし、カザンにおいては、ボリシェヴィキ(ロシア共産党)のカザン県委員会とこのムスリム共産党との関係が絶たれることはなかった。ムスリム共産党員がボリシェヴィキの協議会や会議に参加し、カザン県委員会の側も同党を条件つきながら財政的に援助する姿勢を明らかにしていた。これは、ボリシェヴィキの基準ではかなり異例のことであり、ムスリム民衆のスルタンガリエフと同志たちへの支持の厚さと、ボリシェヴィキの――「ヨーロッパ人」の――自称「前衛」たちに対する不信がうかがえよう。この支持を背景に、ムスリム・コミュニストたちは、ボリシェヴィキ勝利後の新国家のイスラーム地域において、ムスリムによる何らかの自治国家が必要であるとの青写真を提示する。
なお、ここに集った「ムスリム・コミュニスト」たちも決して一枚岩ではなく、様々な見解を示す者がおり、様々な主張・立場があった(健全な組織の証である)。しかし、その対立軸とは別に、ボリシェヴィキ中央の「ヨーロッパ人」たちとの論争が始まるのである。
さらに、内戦‐干渉戦争の激化が、暗い影を落とす。スルタンガリエフの有力な同志であり、ムスリム共産党の中央委員会委員であった人物がいた。この人物はタタール人一個中隊を指揮して戦闘に加わっていたのだが、白衛軍側の捕虜となり、八月、処刑された。若きスルタンガリエフは、ムスリム人民、そして他の同志たちの衆望を担い、ボリシェヴィキ中央の「ヨーロッパ人」たちに立ち向かうことになるのである。「ムスコム」の事実上の格下げ等、ムスリム・コミュニストたちへの管理――締めつけの強化が図られ、また翌一九一九年にかけてモスクの冒涜、ムッラたちの射殺等、イスラーム社会に対する無理解ないし敵視による「政策」がボリシェヴィキ中央によって行なわれたことは、前述の通りである‥‥。
スルタンガリエフは、ヨシフ・スターリンに抜擢される形で、中央ムスリム人民委員部委員、ムスリム軍事参与会議長、民族問題人民委員部の機関紙「民族の生活」の編集長を務めることになった。ムスリム出身の党員としては、この時期のボリシェヴィキ内で若くして最も「出世」したことになる。ムスリムにとって、イスラーム教は反帝国主義闘争の拠り所に成り得る――。彼は、そう主張しつづけた。「スルタンガリエフ主義者」は、着実にその数を増やしていった‥‥。
一九一八年一一月五日から、モスクワにおいて、第一回全ロシア・ムスリム共産主義者大会が開催された。スルタンガリエフと彼の同志たちも出席している。席上、ロシア共産党(ボリシェヴィキ)とムスリム共産党との関係が組織的に問われた。それからほぼ一年後、一九一九年一一月二二日から、やはりモスクワにおいて、この大会を引き受ける形で「第二回」全ロシア・東方諸民族共産主義者組織大会が開催された。このおよそ一年間に様々なことがあったことは、既述の通りである。ただの一年間ではなかった。すでにボリシェヴィキ陣営は、内戦‐干渉戦争における勝利の見通しを立てていた。
大会には八〇名のムスリム代表が出席したが、うち二五名はカザン県の代表だった。ボリシェヴィキもこの大会を重視しており、開会の前日にはウラジーミル・レーニンが代表たちと接見した。しかしこの大会では、スルタンガリエフらの見解はほとんど斟酌されず、彼らは、過去に存在したあるグループの再現であるとして、厳しい批判にさらされた。しかし、この大会以後も、スルタンガリエフと彼の同志たちの闘争は続けられた。当然、党中央は、これに警告を発する。軋轢は、深まっていった。そして、一九二〇年九月、アゼルバイジャンはバクーでの「東方諸民族大会」を迎える‥‥。
このバクー大会の少し前、七月から八月にかけて、モスクワにおいて、コミンテルン第二回大会が開催されていた。ヨーロッパ人のコミンテルン指導者たちは、このバクー大会を(彼らの唱える)「国際革命」を側面掩護する集会という程度にしか認識していなかった。グリゴリー・ジノヴィエフ、そして、カール・ラデック‥‥。
スルタンガリエフたちの認識は異なっていた。彼らにとり同大会は、「抑圧された民族」の解放闘争の場であった。スルタンガリエフ自身は同大会で演説することこそしなかったが、彼の同志や考えの近いムスリムたちが、盛んに発言した。西方と東方の労働者・農民は互いに「勤労の果実」を交換しあい、自然資源を力づくで奪った植民地主義者のような生活と行動様式は捨て去るべきだ――。これは「ロシア人労働者」によってそのようなことがすでに行なわれ始めていることを、暗に批判していた。しかし、すでに内戦‐干渉戦争において勝利を得つつあったことで自信をつけていたボリシェヴィキ中央、その意向を反映する「ヨーロッパ人」に率いられたコミンテルンは、イスラーム地域の革命における「赤色ムッラ」の役割を低く評価した。それはすなわち、彼ら「ヨーロッパ人」の、ムスリム社会への無理解を意味していた。
ゼキ・ヴェリディ・トガンは、内戦の戦況を睨み、ボリシェヴィキがバシキール人の自治を認めると、赤軍側に鞍替えし、バシキール革命委員会の議長としてボリシェヴィキと共闘していた。内戦のさなか一九一九年三月二三日には、バシキール人の自治共和国の建設について同意しあう協定をボリシェヴィキと結び、トガン自身はボリシェヴィキに入党もしている。トガンと彼の同志たちは、最初は白軍側についていたわけだが、コルチャーク軍の「大ロシア」主義――意識――を前に、「他にとるべき手段がなかった」と、よりましな鞍替えをしたのであった。しかし、トガンたちは夢想家ではなく、そして現実的にも、ボリシェヴィキのムスリム社会に対する意識もコルチャーク軍とさして変わりがなかった。スルタンガリエフと彼の同志たちが味わったものと同じ幻滅と不信を、より醒めた姿勢で、赤軍側に鞍替えした当初から持ち合わせていた。
トガンは党(ボリシェヴィキ)から除名され、地下に潜伏していたが、このバクー大会直後の九月一二日、ボリシェヴィキの指導者である四者――ウラジーミル・レーニン、ヨシフ・スターリン、レフ・トロツキー、そして内務人民委員、最高国民経済会議議長といった経歴を持ち、この四月の第九回党大会でも中央委員また組織局員に選出されていたアレクセイ・ルイコフ――に手紙を送った。
「――バクー大会は、中央アジアのムスリムに加えられている権利の侵害が地元のロシア人共産主義者がたまたま引き起こした事件などではなく、党中央委員会による政策の帰結であることを証明した。ジノヴィエフやラデックの大会での態度は、革命初期の農民大会で『無知な大衆』と蔑んだ委員たちの扱いと同じである。彼らはムスリムの代表たちが演説しようとすると、赤衛兵の力を借りてそれを阻止した。そして、あらかじめモスクワから用意してきた決議文を読んだにすぎない」
これはそのまま、「ヨーロッパ人」ボリシェヴィキとコミンテルンへの痛烈な批判となっていよう。ゼキ・ヴェリディ・トガンは先のように、バシキール人の自治共和国を構想していたわけだが、これはスルタンガリエフの自治共和国の構想「タタール=バシキール共和国」とぶつかる――バシキール人の独立・自治をめぐって――ものであった。ある観点に立てば、スルタンガリエフは、タタール人と彼らよりはるかに少数民族であるバシキール人のエスニックな差異を過小評価していたとも言える。
しかしトガンはまた、スルタンガリエフと独立共和国の「民族的イデオロギーと綱領」を共同で作成すること等もしている。トガンは、スルタンガリエフのイスラーム教に基づく方針には賛同していたようだ。もちろん、距離はあった。この第二回全ロシア・東方諸民族共産主義者組織大会では、「タタール=バシキール・ソビエト共和国」の実現を目指す決議を僅差で採択している――ボリシェヴィキ中央、そしてバシキール人参加者の反対を押し切る形で。「タタール・ヘゲモニー」――。バシキール人を始め、タタール人社会主義者の主張に違和を覚えるムスリムたちは、スルタンガリエフと彼の同志たちの活躍をこう呼んだ。
「タタール=バシキール・ソビエト共和国」構想のほうは、レーニン自らの司会による一九一九年一二月一三日の中央委員会の特別会合において勝手に反故にされていた。これを受ける形で、一九二〇年に入るとスルタンガリエフは、タタール人とバシキール人との統一を追及(して独立共和国を建設)する方針から、小バシキリアを除くヴォルガ川中流域のムスリム居住地域をまとめた「タタール共和国」を建設する方針へと転換した。三月二二日、スルタンガリエフは同志二名とともにレーニンとの直談判に及んでいる。レーニンは、タタール人とバシキール人の差異を指摘しながらも、少数民族に対する節度ある態度を示した。
しかし、党全体がレーニンのようだったわけではまったくない。同じ三月、第九回ロシア共産党党大会において、カザン・ソビエトのロシア人メンバーはレーニンに対し、「タタール共和国」構想に懸念を表明している。
一九二〇年五月二七日、全露中執委と人民委員会議は「タタール自治ソビエト社会主義共和国」の形成を布告した。それは、スルタンガリエフと彼の同志たちにとっては、勝利であると同時に敗北でもあった。小バシキリアばかりか、多数のタタール人がサマーラ、シンビルスク、オレンブルク、チェリャビンスクに居住していたにも関わらず、彼らはこの新共和国の領域外に置かれたのである。その人口数は、五百万人から六百万人にもなるという数字もある。一九世紀以来、タタール人のムスリム独立主義者たちが思い描いてきたのは、超領土的な文化的自治であった。その夢は、文化――ここではムスリム文化――というものを、国境線という捏造物で区切る「ヨーロッパ人」の発想の前に、矮小化されてしまったのである‥‥。
同「自治共和国」では、タタール人の人口がかろうじて住民人口のおよそ五一パーセントに達していたが、ロシア人の人口もまた、およそ四〇パーセントを占めていた。「独立」とは何か、「自治」とは何か、そして「民族」とは何か‥‥。この「タタール自治ソビエト社会主義共和国」建設をめぐる問いは、今日においても有効なものであろう‥‥。
一九二〇年九月のバクー東方諸民族大会以後も、スルタンガリエフと彼の同志たちは活動をつづけた。イスラーム地域における「スルタンガリエフ主義者」たちは、着実にその影響力を地域に浸透させていった。しかし、既述の通り、その時期は、ボリシェヴィキ内の様々な党内対立の時期と、不幸にも重なることになる。ヨシフ・スターリンは、己が権力への道を踏み固めつつ、ムスリム諸民族およびムスリム・コミュニスト活動家らに対し、複雑な対応をした。
一九二〇年六月から翌一九二一年七月にかけ「タタール自治ソビエト社会主義共和国」の政治指導権を握ったのは、県委員会のロシア人たちに忠実そのものの勢力であった。スルタンガリエフ主義者は、彼らを批判した。しかし、一九二一年九月には、スルタンガリエフ自身の推挙によって、彼の同志のひとりが自治共和国駐在民族問題人民委員部の代表となった。これは、象徴的な出来事である。何故ならこの人物は、内戦の時期にボリシェヴィキに反対した部隊や「外ブラク共和国」の指導にあたった経歴があり、そのことは周知の――ボリシェヴィキの県委員会も中央も既知の――事実だったからである。それにも関わらず、このような人選が通った点に、スルタンガリエフ主義者たちへのムスリム人民の支持の厚さが見てとれよう。これには、社会の深刻な事態――飢餓――も背景にあった。スルタンガリエフ主義者は、高等教育や出版文化の普及に取り組み、そしてまた飢餓にも立ち向かった。彼らは夢想家ではなく、あるいはそうであると同時に、地域に根ざした行政的な手腕の高い人々であった。大衆人気は、このことを反映してのことである。しかしこれは、県委員会を始めとする「ロシア人」側の反感を買うことになっていった‥‥。
イスラーム地域、特に中央アジアにおいては、ボリシェヴィキの支配そのものに対する反抗の煙がくすぶりつづけていた。すでに旧帝政期の一九一六年から、当時は徴兵に反対するムスリムの反乱が起こっていた。「バスマチ運動(バスマチ蜂起)」と呼ばれるこれは、革命と内戦の時期に複雑に「発展」し、ボリシェヴィキ支配体制が固められていったこの時期においても、おもにフェルガナ盆地、ブハラ、東ブハラ、ホラズムの四地域でなお展開されていた。基本的には地元の有力者を中心に、広範な層のムスリム住民が参加する形の運動――反乱であった。ボリシェヴィキは、赤軍を用いて鎮圧にあたった。「バスマチ」という用語自体、ロシア帝国の行政官の間で用いられたもので、この用語がボリシェヴィキでも用いられた――引き継がれたこと自体、ボリシェヴィキ中央のイスラーム地域への無理解を示している。ボリシェヴィキ‐ソビエト政権は、この反乱に対して、軍事的制圧と懐柔策の両方を使った。この反ボリシェヴィキ闘争自体は、ここでは詳述しない。なおゼキ・ヴェリディ・トガンも、ボリシェヴィキとの訣別後、この闘争に参加している。
スルタンガリエフとトガン――乱暴を承知で表現するならば、ムスリム社会のリアリティに基づき、未来を模索しつづけたふたり。あるときは手をたずさえ、またあるときは敵対する陣営に身を置いたこの両名にとって、一九二三年頃が政治的には敗北した時期であった。この年、スルタンガリエフは逮捕され、党から除名された。中央アジアで活躍し、「トルキスタン民族同盟」の議長を務めていたトガンは、激しさを増すボリシェヴィキの弾圧の前にイランへの亡命を余儀なくされ、以後は再び学者として活動することになった。イランのマシュハドで、イブン・ファドラーンの手稿を発見するなどしている。
彼のみならず、ボリシェヴィキによる過酷な弾圧は、ムスリムに多くの犠牲者と亡命者を出すことになった。党内に残ったスルタンガリエフ主義者たちには、党中央により異端の烙印が押された。
ムスリム・コミュニストたちと直接のつながりはないが、西方でよく似た夢を追った別のグループにも、ごくごく簡単に触れておく。リトアニア・ポーランド・ロシア・ユダヤ人労働者総同盟。通称、「ユダヤ人ブント」。
帝政時代の一八九七年、リトアニアのヴィルナ(ヴィリニュス)で結成された、ロシア帝国下のユダヤ人による社会民主主義を目指す組織である。社会民主労働党に属し、その組織の一部となった。特徴として、ユダヤ教的あるいは民族的ないわゆるシオニズムを否定する一方、ユダヤ人独自の社会主義・社会民主主義の有り様を模索、その確立を強く唱えた。前述のポグロムに象徴される、ロシア帝国下の反ユダヤ主義・暴力を意識していたことは言うまでもない(彼らの場合、抑圧者はロシア人だけではなかった)。ボリシェヴィキからは後に批判の対象となり、ソビエト連邦領となった地域では、ボリシェヴィキとの合流および弾圧によって、一九二一年にはボリシェヴィキ内の「エヴセクツィア」(ユダヤ人セクション)として組織されるに至った。エヴセクツィアはシオニズムを強く批判、またイディッシュ語(ユダヤドイツ語)を支持し、ヘブライ語をブルジョアジー的であるとして、これを禁止するようボリシェヴィキ‐共産党を説得した。
一方、ユダヤ人ブントの流れを汲むリトアニア・ユダヤ人労働者総同盟は、ヴィリニュスにおいてはそれなりの支持を得ていた。しかし、一九二〇年に共和国宣言を行なったリトアニア(第一次リトアニア共和国)は、ヴィリニュスをポーランドの侵攻によって占領されてしまっていた。ヴィリニュスとその周辺は、「中部リトアニア共和国」なる傀儡国家を経て、一九二二年にはポーランドに併合される憂き目を見ていたのだ。よって、「リトアニア」の名を持つものの、このグループはリトアニア共和国内では、事実上支持を得ていなかった。ポーランドの組織も、同国の反ソビエトおよび反ロシア感情、同じユダヤ人のシオニズムとの相克に悩まされつづけることになった。
また、これとは別個に、独立達成後のポーランドにも共産党(ポーランド共産党、ポーランドの共産党)が存在し、こちらはこの時期、コミンテルンの指導下にあった。彼らも恐らく、前者に悩まされたことであろう。
なお念のために付言すれば、ボリシェヴィキ、社会民主労働党系の多くのユダヤ人党員たちが、このユダヤ人ブントに親和的であったわけではまったくない。一例として、トロツキーの立場を記す。一九〇三年の第二回社会民主労働党大会は、このユダヤ人ブントと「イスクラ」のウラジーミル・レーニンの衝突の場でもあったが、レフ・トロツキーもこのとき、党内での自決権を求めるユダヤ人ブントの要求を凄まじい勢いで批判、彼らの要求を厳しく拒否する側の先頭に立った。この大会後、ユダヤ人ブントのメンバーは、一旦党から脱退した。一九一九年の第二回全ロシア・東方諸民族共産主義者組織大会で引き合いに出されたあるグループとは、この組織のことである。また、ユダヤ人党員――コミンテルン指導者――であるジノヴィエフやラデックが、悪い意味での「ヨーロッパ人」としての意識を持ち、ムスリム社会また人民に対していかに無理解であったかは、先のトガンの手紙がよく現していよう。
宗教は阿片である、とはカール・マルクスの言だが、ウラジーミル・レーニンは生前、「宗教は一種の精神的下等なウォッカであって、資本の奴隷は自分の人間としての姿をまた幾らかでも人間らしい生活に対する自分たちの要求を、この酒に紛らわす」とまで言い切っていた。
ボリシェヴィキは、その彼の遺体の半永久的な保存を図った。この、遺体の物理的な保存とは別に――あるいは、深いところで繋がっているのかもしれないが――「レーニン復活」の噂は、その後もソビエト連邦、特にロシア地域において人々の口の端にのぼりつづけた。亡くなった翌年の一九二五年には、早くも「賢者レーニン」物語がロシア地域の農村地帯で流布されている。
――ウラジーミル・レーニンは、ある名医に相談して、自分が死んだように見せかけた。自分がいなくても、ボリシェヴィキがやってゆけるか考えあぐねてのことである。多くの同志たちにはこれは秘密にされた。さて、葬儀のおよそひと月後のある晩、ウラジーミル・レーニンはガラスの棺から出て、クレムリン宮殿に出かけた。党の指導者たちは、変わらず会議を開き、熱心に議論していた。安心したレーニンは、棺に戻っていった。次の晩、レーニンは再びガラスの棺から出て、今度は工場へ出かけた。そこで労働者たちと対話を行なった。ボリシェヴィキに入党したか否かを尋ねるレーニンに対し、労働者たちはこう答えた。
「同志レーニン亡き今では、われわれも党員です」
ここでも安心したレーニンは、また棺に戻っていった‥‥。
‥‥モスクワ東方のヴィヤトカ川流域の農村で流布されている。神話的であると同時に「民話」的でもある。
さて、さらにまた次の晩、レーニンは三たび棺から出て、今度は農村へと赴いた。ある農家を訪れると、そこには聖像画は一枚もなく、彼、すなわちレーニンの写真が飾られていた。
「おまえさんたちはキリスト教徒ではないのかね?」
「いいえ、われわれはソビエト市民です」
これを聞いたレーニンは大いに満足し、その農村を後にした。そしてガラスの棺に入ると、長い長い眠りについた――。
しかし、レーニンはまたいつの日か目覚めて、われわれのところへ戻ってくるであろう‥‥‥‥。
ブハーリンが看破したように、レーニンは、ボリシェヴィキ――「党」にグノーシスとしての性格を与えようとしていたのではないだろうか。民主主義革命を実現するにとどまるだけでなく、その民主主義革命をも乗り越えて、資本主義社会を根底的に作り変えるための共産主義革命を目指していた。根底的に作り変える――それはしかし、たやすいことではない。常に自分たちを取り囲むこの世界そのものを、作り変えようというのだから。民主主義革命、それによってもたらされるであろう革新的だが資本主義的な社会を、さらに内側から食い破ることを目指していた、とも言えるだろう。レーニンは、ボリシェヴィキにその性格を、社会民主労働党から脱皮させた時期から与えようとしていたのではないか。そのたやすくない仕事を行なうために、活動家は職人性を持つことが必要だと考えた。彼のイメージする「党」とはすなわち、革命のための「職人集団」‥‥。一九〇四年に彼が書いた著名な政治パンフレット「何をなすべきか」には、この集団――組織の特徴が五点あげられている。そのうちの二点に、次のようにある。
「政治警察との闘争が激しいところでは、この組織は熟練した革命家だけに、範囲を狭めておいたほうがいい」
「問題は、職人技への熟練度であって、出身ではない」
この「熟練した革命家」「職人技への熟練度(を持った「職人」)」が、彼が求めて止まなかった「職業革命家」ではないだろうか。そして「党」とは、そのような人々による、革命のための極めて高度な職人集団‥‥。それは――少なくとも資本主義社会においては――「普通の人たち」ではないだろう。現代の異端者――‥‥。