3.衝突(2)
「ソ連」の誕生。
また、作品タイトルにはこういう含意もあります。
トロイカ。この「椅子の脚」のことを、誰彼ともなくそう呼び始めた。単純には数字の「3」のことであったが、ロシアの三頭立て馬橇または馬車のことでもある。民謡にもうたわれ、前世紀活躍したこの国の高名な作曲家ピョートル・チャイコフスキーの曲にも冠された、ここロシアによく馴染んだ語であった。雪道をひた走る馬橇――この、政治同盟の名前としてはいささかロマンティックに過ぎる愛称を一番気に入ったのは、他ならぬヨシフ・スターリンであった。
「ヴォッチーチャ トロイカ パチタヴァアアーヤァ‥‥」
彼は上機嫌で、ゆったりとしたもの悲しい民謡を口ずさんだ。「椅子の脚」では何とも味気ない。政治を司る者には、センスも必要なのだ。
このときの政治局は、正局員がジノヴィエフ、カーメネフ、レーニン、スターリン、トロツキー。局員候補が、ブハーリン、カリーニン、ヴャチェスラフ・モロトフであった。――正局員五名のうち一名は病床にあり、残る四名のうち三名が、この同盟を結んだわけである。彼らは、レーニン不在の中央委員会内で、次第に存在感を増していった。スターリンは賢明にも、四本目の脚――もしくは四頭目の馬――ヴャチェスラフ・モロトフとの仲を他に悟られぬよう、この男との関係を極力薄く見せかけた。モロトフもスターリンの意向は飲み込めたから、そのように振る舞った。他、とは、他の局員や中央委員会のメンバーたちだけではない。同じ馬橇を引くジノヴィエフ、カーメネフに対しても、であった‥‥。カリーニンは、スターリンの思惑を知ってか知らずか、老獪にも、誰に対しても同じくらいの距離を保った。雪道の先に何が待ち受けているかは、誰にもわからない。しかしトロイカは、走っていった――‥‥。
「グルジア問題」を経て、レーニンは、スターリンについて強い疑惑を抱くようになっていた。ジノヴィエフとカーメネフは、トロツキーへの牽制のためスターリンを書記長にしようとしていた。レーニンは述べた。
「この料理人は胡椒を効かせた料理しか作らないだろう‥‥」
その胡椒は、あまりにも強く、長い間効くことになる‥‥。
――メフィストフェレスとは、ドイツの文豪ゲーテが戯曲「ファウスト」において巧みな筆致で描いた悪魔のことである。召喚した人間と契約を結び、その者の魂と引き換えに望みを叶えるとされる‥‥。ジノヴィエフもカーメネフもインテリゲンツィヤであり、「ファウスト」は若い時分に既読であった。ただ彼らがうかつだったのは、あれがドイツにおける話であるという点に充分留意していないところにあった。ロシアにおけるメフィストフェレスは、ひどく野暮ったいなりをしていたのである‥‥。
――一九二二年四月の中央委員会総会において、ジノヴィエフとカーメネフの助言をもとに、ウラジーミル・レーニンは、仕事の負荷を党組織、特に書記局に移すことにした。レーニンは、スターリンを同局のトップである書記長に任命した。同総会では、ジノヴィエフ、カーメネフ、レーニン、アレクセイ・ルイコフ、スターリン、ミハイル・トムスキー、トロツキーが政治局の正局員に選出。ブハーリン、カリーニン、モロトフが局員候補に選出された。ヨシフ・スターリンは組織局にも属していたから、彼の書記局は、人事権を事実上握ることになった。組織、特に官僚型の組織において、これは大きな権力を持つ。この時期のボリシェヴィキは、完全に官僚型の組織とはいえず、革命や内戦を経たつわものが幅をきかせていた。しかし、動乱の季節が過ぎつつあることを、自分の未来に思いを馳せる若い党員たちは、鋭敏に感じ取っていた。自分たちが「活躍」できるとしたら、それは党内における出世、ないしは主導権争いの勝ち馬に乗ることしかないのだ、と‥‥。ために、人事を司るスターリンの書記局は、彼らの強い支持を得ることに成功し、着実に権力を蓄えていった。また形式上は、党の決定、党令はすべて、この書記局の決裁を受けないと通らないようになった。その書記局のトップに、ヨシフ・スターリンが就いたのである‥‥。
ウラジーミル・レーニンは、五月末に発作を起こした。右手足が麻痺し、言語障害を起こした。話すことも書くこともままならず、どちらも改めて学習し直さなければならなかった。一〇月初めには仕事へ復帰するが、完全に回復することはなかった。三期梅毒を心配し、自分と妻ナジェージダ・クルプスカヤの家族健康記録を精密に調べるよう命じた。
ナジェージダ・コンスタンチノヴナ・クルプスカヤは、生年は一八六九年とレーニンよりひとつ年上。自身も教師として教鞭を取る傍らマルクス主義研究サークルに参加、イリイチと出会い、炙り出しのラブレターなど彼の熱心な求愛を受け結婚、一九〇〇年にはこの夫と共にヨーロッパへの亡命を余儀なくされた。夫とともに、「イスクラ」の創刊にも携わった。このように彼女自身も活動家であり、二月革命後のロシアへの帰還と十月革命を経て、教育人民委員会の委員に任命されていた。熱心な教育家として活動、ピオネールと呼ばれる「少年団」――入団に性別の区分はない――を組織するなどした。夫が倒れた後は、介護をするかたわら、彼の望みで政治局との仲介役を果たした――果たさせたくないのが、ヨシフ・スターリンであった。
スターリンは、病床のレーニンに特別な新聞を送る真似さえした。都合のよい記事だけを集めた、一部だけ発行の「新聞」である。レーニンにはおとぎ話だけを知らせ、国内事情、とりわけカフカースと党内の諸問題の情報から遠ざけておこうという、彼の、いかにも彼らしい稚拙な――しかし手のこんだ――手段であった。クルプスカヤがどう思ったかはわからない。とにかく、スターリンはクルプスカヤとも衝突することになった。
健康面での問題から、指導者としてのウラジーミル・レーニンの時代が終わることは、一九二二年内には明らかになった。レーニンなくして、革命も、今日までのボリシェヴィキも有り得ない。それは、誰もが認めるところだった。そのレーニンが、権力の中枢から不在となる――そのような事態は、十月革命以後、組織にとって全く未知の事態であった。党内では、様々な――ありとあらゆる――思惑が渦巻いた。トロツキーが、ブハーリンが、カーメネフが、ジノヴィエフが――‥‥。党内のあちらこちらで、ひそひそと、不穏な空気を醸し出しながら行なわれる密談が、増えていった。
スターリンは強硬な中央集権主義路線をとり、弱小共和国に対するロシア共和国の優位を強調、また如何なる形でのウクライナ共和国の自治に反対すると表明した。レーニンは、大ロシア拝外主義の匂いのするスターリンの政策に反対した。スターリンはレーニンの反論をほとんど斟酌せず、レーニンを「自由主義」と非難、彼の様々な批判を言葉のあやだとして無視した。
多くの犠牲と混沌の上に、一九二二年、ロシア内戦は終結した。この内戦‐干渉戦争による死者は、少なく見積もっても二千万人といわれる‥‥。また数百万人の(そうできた)人間が、極東、日本を経由するなどして主に欧米に脱出していった。
一九二二年一二月、全連邦ソビエト大会が開催され、三〇日、「ソビエト(ソヴィエト)社会主義共和国連邦」の樹立が、正式に宣言された。サユース・サヴィェーツキフ・サツィアリスチーチェスキフ・リスプーブリク、略称は「СССР」であった。ロシアの「ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国」を始め、ウクライナ、白ロシアといった各共和国、そして「ザカフカース・ソビエト連邦社会主義共和国」で構成されていた。中央アジア各地域においても、ボリシェヴィキ主導のもと、「社会主義共和国」樹立への準備が進められていた(無論、それらを「ソビエト社会主義共和国連邦」へと併呑するためである)。全連邦中央執行委員会、その栄えある議長の座――形式上は国家元首にあたる――に就いたのは、ミハイル・カリーニンであった。
国家組織の整備も進んだ。ヴェーチェーカーは、国家政治局と改称した。頭文字をとり、GPUと略称された。いまや大きな秘密警察機構となっていた。組織名は変わっても、人民は変わらずこれを「チェーカー」と、その構成員を「チェキスト」と呼びつづけた。議長(長官)は、これも変わらずフェリックス・ジェルジンスキー。
国内の各産業の集団化――国有化――が進められた。工業分野では、比較的容易に進んだ。労働組合は、資本家を追い出した工場をわが物とすることができたのだから、ボリシェヴィキは基本的には労働者の味方のように見えた(無論、「資本家」と「労働組合」が入れ替わっただけ、という見方もできる)。
農業分野では、これとは事情が異なっていた。農業集団化という構想が出されていた。農地を国有地とし、農民は農機具や家畜等を共有、労働組合員としてそこで働く、というものである。国有の集団農場を建設することは、共産主義社会建設の重要なステップと考えられていたから、トロツキーも基本的にはこの構想を支持した。しかしレーニンは、農業の集団化に基本的には賛成しながらも、遂行には十年から二十年はかかると考えており、性急な集団化を求める党内の声を戒めた。資本主義の段階を飛ばして一気に社会主義化することは不可能なのである、それではエスエルと同じになってしまう、と。またソビエト連邦において、人口における農民の割合は、実におよそ八〇パーセントにものぼる‥‥。彼は、農民たちの土地への愛着は強く、またこれまでの経緯からして、抵抗はかなり大きいと見ていたのだ。
この慎重さを、特に都市部の若い世代の党員たちは理解できなかった。モヤモヤとした思いが溜まれば、そこに目をつけるのがスターリンである‥‥。彼は、党内の不満の声を巧みに吸い上げ、己が権力基盤の拡充に努めた。
内戦が終結を見ると、スターリンはあらためて愕然とせざるを得なかった。勝利が、現実のものとなった。一時期それは、はるかな雲の峰のように遠い、困難な目標に見えていた。その勝利に酔いしれる一般党員、ボリシェヴィキ支持の都市部労働者たちは、赤軍の総指揮官たるトロツキーを誉めそやしてやまなかったのである。いまだにレフ・トロツキーは、レーニンに次ぐ――いや、レーニンと肩を並べるほどの支持を得ていた。
「同志レーニンが革命理論の天才なら、同志トロツキーは革命戦争の天才ですよ!」
スターリンの前で、こう叫んだ若い赤軍兵士もいた。たまたまその場に居合わせたクリメント・ヴォロシーロフは黙って肩をすくめ、ヴャチェスラフ・モロトフはどうしたものかと主の顔色をうかがった。当のスターリンは――目の前の若僧を怒鳴りつけたい衝動を必死にこらえ、じっと歯噛みしていた。眼鏡をかけた、痩せた体躯のこの赤軍兵士の名は、イヴァン・コズロフ。名乗らなかったのが、幸いであった――‥‥。
この時期、ボリシェヴィキ内では、政治局、それを支える中央委員会、そしてそれを支える一般党員の順に、トロツキーへの支持は低かった。つまりトロツキーは、赤軍、そして一般党員の多くからは絶大な支持を得つつ――いや、それ故に――ボリシェヴィキの政治権力機構の上位、すなわち最上位の政治局のメンバーの何人か、そして次に位置する中央委員会のメンバーの何割かの警戒心を呼び起こしつつあった。レーニン‐ジェルジンスキー配下の秘密警察内でも、微妙なものであった。これにはスターリンの獅子奮迅の働きが、あった。
一昨日は五回、あいつの悪口を言った。昨日は十回、陰口を叩いた。今日は二十回、悪罵した。――批判されてしまったので明日は、独裁者になるかもしれぬと二十五回‥‥。明後日? 一日五十回は大変だが――。
(負けない。くじけはしない‥‥。頑張れ、俺。そうだ――‥‥。小さなことからコツコツと‥‥!)
――彼の「内戦」は、まだ続いていたのであった。
「馬鹿な‥‥」
暗い部屋のなか、ウラジーミル・レーニンはつぶやき、目をしばたかせた。そして目を閉じ、しばらくして、また開けた。しかし、紫と黄が交叉する複雑な明滅を繰り返す妖精は、相変わらずそこにいた。
「有り得んことだ‥‥」
「安心していいよ。あんたの頭がおかしくなったわけじゃない」
妖精――そうとしか表現できないもの――が言った。その小さな唇の動き、背中の小さな羽のはばたきまでもが、ベッドのレーニンからはっきりと見えた。
「もちろん、夢でもない」
妖精は、付け加えた。その言葉が、レーニンがそう思うのと同時だったものだから、彼は難しい顔つきになった。
「‥‥私は、これまで夢のなかで『これは夢ではないか』と疑問を持ち、思索し、夢であるという確証を得たことはあるが――」
ウラジーミル・レーニンは、ゆっくりと嘆息した。まるで、その息づかいを、現実のものだと確かめるかのように。
「登場人物から、『夢ではない』と否定されたことは初めてだ。してみると、これは、夢ではないのだな」
「そうだよ。これは現実さ。――ウラジーミル・イリイチ・レーニンさん、あんたに会いに来た」
そこでフェアリーは、くるりと一回転した。
「ぼくは、ゾーヤの使いさ」
「ゾーヤ?」
レーニンは、すぐには思い出せなかった。フェアリーは言った。
「一九一七年の一二月さ。旧いほうの暦の‥‥」
――ユリウス暦の一九一七年一二月? 革命の真っ只中ではないか。己が人生のうちでも、最も濃密だった時期だ。忘れることなど、ないであろうが‥‥。
「あんたが――あんたとトロツキーさんが、スターリンさんに言われて会った――思い出したかい?」
レーニンの目の色を読み、フェアリーは途中で言葉を切った。レーニンの顔に、納得と驚愕とが交錯していた。
そうだ、占術使いを僭称するあの怪しげな老婆の名を、確かに奴はそう言っていた。「ゾーヤ」、と‥‥。あの夜の邂逅が、ありありと思い出された。老婆の低い声――あの大鍋の匂いまでもが。
あの夜の帰り道、トロツキーは、レーニンがうんざりするほど饒舌だった。護衛のジェルジンスキーが、たしなめたほどだった。レーニンは、そんなトロツキーを見やりながら、何かを思っていたのだ。そうだ、老婆の、あの忠告。あれは、警告だったのだ‥‥。
「コーバ、か――‥‥」
レーニンはうめいた。「鋼鉄の人」――レーニンからすると、センスに欠けた名だった――などと自称する、野卑で粗暴な男。
「奴は、危険だ‥‥」
そして、闘病生活で落ち窪んだ、ぞっとするような暗い目で、使者を名乗る小妖精を見上げた。
「このことだったのだな」
妖精は空中に浮遊しつつ、悲しい目で頷いた。
ソビエト連邦の国旗は、先の全連邦ソビエト大会で制定する方針が決められていた。党の象徴であった赤旗、赤軍のシンボルのひとつでもあった鎌と槌が、採用される見込みであった。鎌は農業労働者を、槌は産業労働者を、それぞれシンボル化したものである。
――フェアリーはレーニンに、近い未来のソビエト連邦を見せた。過酷な環境下、強制労働に従事させられる囚人たち。飢餓の拡がる農村、そのなかを飢えた獣のように動き回る穀物摘発隊――銃を手にしていた。都市部でも、大量の人民の逮捕‥‥その数は、加速度がつくように激増していった。それは、ウラジーミル・レーニンにとり、到底受け入れ難い光景であった。
「恐怖国家さ‥‥」
妖精は、力なく言った。
「何百万人と人が死ぬ。この世の地獄さ」
「馬鹿な‥‥」
ウラジーミル・レーニンは、同じ文句を繰り返した。
「この国は、世界最大の監獄になる――大袈裟じゃなくね」
「このような――‥‥これでは、われわれのやってきたことは、すべて水泡に‥‥」
「中世の愚かな王様だって、ここまではしなかったろ?」
「――権力を手にしたコーバが暴走したとして、これを‥‥? 信じられん‥‥」
「チェーカーさ。あんたのつくった」
フェアリーは言った。
「あれが地獄の使者となり、人々を狩りたてる。チェーカー員はノルマを課され、ノルマのために人々を逮捕する。処刑か、奴隷にするために」
これが夢のなかであれば、どんなにか幸いか。ウラジーミル・ウリヤノフは、そう願った。しかし、夢ではないと、レーニンの認識がはっきりと告げていた。
「‥‥言いにくいけど、あんたは‥‥あんたの命は――‥‥」
優しい妖精は、結局その先を言えなかった。そのことが逆に――しばらく時間はかかったが――ウラジーミル・レーニンに、現実を受け入れる覚悟を取り戻させた。
「死ぬわけか」
レーニンがあまりにもあっさりとそう口にしたので、妖精は目を丸くした。
レーニンが死を受け入れてくれたお陰で、フェアリーは随分気が楽になり、多弁になった。
「あんたの亡骸は保存されるらしいよ。どうやってかは聞いてないけど、少なくとも来世紀まではもつって。えーと、中央委員会? それの決定、だったかな?」
レーニンは、自暴自棄気味ではあるが、いつもの調子を取り戻し、毒づき始めた。
「またつまらんことをするものだな。絶望的なセンスの無さだ。――おそらく冷凍か、薬剤だろう。わしはミイラにされるのか。やれやれ、まるでエジプトの古代のファラオ、だな‥‥」
「はるかな未来に、発掘でもされるかもね。それもいいんじゃ――」
フェアリーは冗談めかして言ったが、レーニンの顔が蒼ざめてゆくのに気がついて、押し黙った。古代エジプトの‥‥。フェアリーにはわからなかったが、レーニンは、己の発した言葉が痛烈な皮肉だと気づいたのだ。
ファラオ。ピラミッド。権力。権威。名声。心ひそかにだろうが、何よりもそれらを欲しがる愚か者が、自分のすぐそばにいたのだ。自分は長い間、そのことに気づかずにいた。しかも、その愚か者はいまや大きな力を得ようとしており、自分は病に冒され、明日をも知れぬ命。自分が心血を注いで作り上げた革命集団、ボリシェヴィキ。それが、ピラミッド型の官僚組織に変質させられる‥‥。頂点、すなわちファラオとなるのは、その愚か者。コーバ――スターリン。
「そうだ、ペトログラードの街が、あんたを称える名前に変えられるよ。以前ジノヴィエフさんが言ってた通りにさ」
フェアリーは言った。
「レニングラード、ってね」
「――そんなことか‥‥。そんなことはどうでもいい」
「あ‥‥そう。あ、そうだ、シンビルスク、覚えてるだろ。あんたの生まれたところ。あそこもあんたにちなんで名前を変えられるよ。‥‥えっとたしか、ウリヤノフスク、だったかな‥‥」
「――どうでもいいと言っておるっ!」
レーニンは癇癪を起こし、咳き込んだ。
「‥‥そう言わないでおくれよ。ぼくもさ、ゾーヤから託されたことをあんたに伝えなきゃならないんだ。使命、さ」
「ならば、もう少し整理して話すべきだ。要点をまとめ、順を追って、簡潔に報告しろ」
レーニンは、まるで部下に対するように妖精に説いた。フェアリーは、ふんふんと頷いた。しかしその後も彼の喋りは、レーニンからすると要領を得なかったが――その度に同じようなやりとりを繰り返し――ふたりのコミュニケートは次第に円滑になっていった。そして、トロツキーの話題になった。
「トロツキーさんは有能だけど、政治局に敵が多い。スターリンさんは、特にカーメネフさん、ジノヴィエフさんを巻き込んで、追い落としを狙っている‥‥とすると、どうなる? いや、どうする? あんたはまだ生きているんだ。指示を出せるはずだよ‥‥実はこれが、一番大事なメッセージさ」
そしてフェアリーは、そっと付け加えた。
「悪いけれど、あんたがもうすぐ死ぬことよりも」
しかしレーニンは怒りなど見せず、頭をめぐらせていた。
「トムスキーさんも、トロツキーさんとは仲が悪い。となると‥‥」
レーニンが黙り込んだので、フェアリーは話を続けた。政治局と中央委員会の人間模様を。しかし、それについてフェアリーが話すようなことは、レーニンはすでに承知していたし、病床にありながら、ウラジーミル・イリイチ・レーニンの頭脳は、フェアリーが思うよりもはるかに速く回転していた。さほどの時間はかけず、レーニンは答を出した。そして、暗く、確信の目つきで、フェアリーを見上げた。
「――‥‥だな‥‥」
レーニンは、彼自らが党の寵児と呼んだ、比較的若い男の名をあげた。ぼくがゾーヤに言われたことがどうしてわかるの、とでも言いたげに、妖精は小さな目を丸くした。
ウラジーミル・レーニンは瞑目し、黙り込んでいた。その中身は想像がつかなかったが、長考に入っていることはフェアリーも理解できたから、なかなか話しかけようとはしなかった。群衆を前にしては、時にたどたどしく話しかけることもあるレーニン――その姿はフェアリーも見ていた――とは別人のような威厳の沈黙‥‥フェアリーにも、ボリシェヴィキにおけるレーニンの威光が理解できたように思えた。しかし、いい加減、しびれをきらした。フェアリーにはまだ‥‥、
「レーニン‥‥さん?」
伝えねばならぬことがあったのだ。
「なんだ?」
フェアリーの予想と反し、ウラジーミル・レーニンは、静かな声で素直に応答した――その眼光は鋭かったが‥‥。
「実はもうひとつ、あんたに言わなきゃならないことがあるんだ‥‥」
「ほう‥‥?」
「その、実は‥‥」
フェアリーは言いよどみ、小さな唇を舐めた。
「言ってくれ」
只事ではない――少なくともいい話ではない――ことを悟りながらも、レーニンは妖精を促した。
「遠慮はいらない。なんだ? わしの死の有様か? もがき苦しんで死ぬのか、わしは?」
「いや‥‥」
フェアリーは、それは聞かされていなかった。だが、伝えねばならない最後のメッセージは、ともすればこの人物にとっては、もがき苦しんで死ぬよりも過酷な運命かもしれないと思えたのだ。
「言ってくれ。わしは、この――肉体の、生命を失うことは、さほど恐れていない。俗っぽく言うならば、覚悟はできている――。失うことを恐れるものは、党、そしてこの労働者の祖国と世界の共産主義運動だけだ」
今度はフェアリーが瞑目する番だった。この声が‥‥。しかしフェアリーは、いくらもせずに目を開け、ウラジーミル・レーニンに運命を教えた――宣告した。
「――あんたはもうすぐ、その声を失うんだ‥‥」
「‥‥‥‥」
紫灰色の毛なみの猫が、それまで聞いたことのない、奇妙な声で鳴いた。
「どうした」
主人は、飼い猫の異変を聞き逃さず、ベッドから手を伸ばしてその背を撫でようとした。
「‥‥‥!」
猫は再び、今度は不機嫌とわかる声で鳴くと、ひらりと小卓から飛び降り、部屋を出て行った。ほどなくして、クルプスカヤが、猫の去った戸口に立った。
「彼が来たわ」
長年レーニンに連れ添った妻は、一縷の望みを託すように動けぬ夫を見た。レーニンもまた、彼女の思いが痛いほどにわかった。
‥‥レーニンは憤怒の表情をありありと浮かべたが、それはすぐに渋面と、彼を見つめるニコライ・ブハーリンの悲しげな表情とに、取って代わられた。
「おまえもわしを信じんのか。わしは嘘など言っとらん。妄想の類でもない」
「申し訳ありませんが、これで失礼いたします。適切な医療が行なわれているか、帰りに医師に確認しておきますよ。とりあえず、現在は痛みはないわけですね――」
「痛み? わしは自分の苦痛の名前なら知っている。その名はコーバ――いや、スターリンだ‥‥!」
ブハーリンは立ちあがり、コートを羽織った。
「同志イリイチ(彼は、たまにこういう呼び方をした)、まだまだ元気でいてもらわねば、われわれが――全ソビエト人民が困ります。どうぞご自愛ください。政治のことは、当面われわれにお任せください。うまくやりますよ」
ウラジーミル・レーニンは、湧き上がる激情を抑えようと努力しながら、自分より一八歳年下の、政治のことなど何ひとつわかっていない男に、諭すように言った。
「聞け、ブハーリン。奴には‥‥コーバには気をつけろ。奴は、あの見かけ通りの、ただの凡庸な男ではないぞ。いや、ああいう見かけを作っているのだ‥‥われわれの前では、意図的にロバのふりをしている‥‥。それは、何のためだ‥‥?」
「心しておきますよ――では、同志‥‥」
軽く言い、ブハーリンは退室した。
「コーバに‥‥いや、トロツキーに聞け‥‥! 一九一七年‥‥老婆にはあいつも会ったのだ‥‥!」
レーニンの悲痛な叫びを背に、ニコライ・ブハーリンは足早に立ち去った。彼は、スターリンに関しては、楽観的に捉えていた。たしかにここのところ党内でめきめきと勢力を拡大しているが、自分を脅かすほどの存在とは思えなかった。謎の老婆や妖精の話など到底信ずる気になれなかったし、それをトロツキーに尋ねるというのは論外だった。むしろ、いま、自分を脅かす存在といえば、スターリンよりもトロツキーなのだった。自分よりも政治の算術に長け、自分よりも雄弁で、自分よりも権力志向の、野心溢れるレオン‥‥。おまけに、赤軍には党以上に彼の信望者が少なくない。自分は、その誕生のときからボリシェヴィキとともに在る。だが、メンシェヴィキとして活動し、自分の組織を経たトロツキーが、革命と内戦の混乱に乗じ、レーニンに次ぐ存在になった――。ニューヨーク時代の彼との交友は、楽しい思い出であったが‥‥。
しかし現状は、厳しい。革命はなんとか成功裡に終わり、内戦と干渉も乗りきった。だが、帝国主義列強と競ってゆかねばならないのだ。誕生間もないソビエト連邦の、自分は政治的指導者なのだ。個人的感情で動くわけにはいかない。戦争好き(とブハーリンには思えた)のトロツキーの唱えることは、無謀なだけに思えた。ネップはそこそこうまくいっているし、またしばらくは、最近コーバが言い出した通り、ソビエト一国のみで社会主義を建設してゆくのも、仕方がないのではないだろうか‥‥。
このときのニコライ・ブハーリンの頭は、何故か、うまく回らなかった。
(カーメネフとジノヴィエフ、ルイコフにトムスキー‥‥)
ブハーリンは、政治局の正局員を思い浮かべた。彼らに加え、自分と同じ局員候補のカリーニンと、あのモロコフとかいう新人も、どうやら同意見のようだ‥‥。
(マルクス主義を捻じ曲げるのは、心苦しいが‥‥)
ニコライ・ブハーリンは、悩んだ。
(モロコフのような教養に欠ける人間が政治局にいるのは、悲劇を通り越して喜劇的ではある‥‥。が、しかし、ラデックが入るよりはましだと、私も思わざるを得ない‥‥。政治とは、かくもせつない世界なのか‥‥)
――レーニンは、長くはないだろう。党機構はコーバに任せればよい。自分は――自分こそが、理論的指導者として、レーニン亡き後のボリシェヴィキを率いるのだ。強く、豊かなソビエト連邦を作り上げ、帝国列強とも互角にわたりあうのだ。その上で、全世界の労働者の決起を待とう。そこで初めて、必要ならトロツキーの力を借りればよい。世界各地で次々と社会主義革命が成功すれば、先鞭をつけたソビエト連邦、その指導者ウラジーミル・イリイチ・レーニン、そしてその後継者ニコライ・イワノヴィチ・ブハーリンの名は、人類史に永遠に刻まれるであろう‥‥。
未来への確かな道程を歩んでいるように、このときブハーリンには思えていた。
――一九二三年三月一〇日、ウラジーミル・レーニンは何度目かの発作を起こし、その声を失った。
2013年7月21日、本文中の不要な空白箇所1マスを埋める修正をしました。
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今回の作中で引用している歌詞には、著作権は発生していないと私は認識しています。