3.衝突(1)
党内の不和。
一九二〇年初めには、東部また北部の戦線でも、赤軍の勝利はほぼ確定しつつあった。コルチャーク軍を打ち破った赤軍は、三月、イルクーツクに入った。同地以東への進撃は、傀儡政権を立てて極東の占領を続けている日本軍と衝突する危険性があった。極東の党員たちは赤軍の侵攻によるソビエト政権の樹立を主張したが、ここでもレーニンの現実主義が発揮された。赤軍に対し、バイカル湖より東への進撃を禁止したのだ。レーニンのはからいにより、バイカル以東のいわゆる極東地域には、その名も「極東共和国」なる緩衝国家が誕生することになった。複数政党による議会を持ち、土地以外の私有財産を認める国家であった。日本帝国のシベリアからの撤兵交渉が、この極東共和国との間で始められることになった。
北部戦線においても一九一九年末に連合国の軍隊は撤兵した。そして一九二〇年一月、連合国はソビエトに対する経済封鎖を解除した。二月にはアルハンゲリスク、三月にはムルマンスクが解放された。また、同月、まずエストニアとの講和条約が結ばれ、続いてラトビア、リトアニア、フィンランド等との講和条約が開始された。国内では、死刑が――あまりに多すぎたため――形式上は廃止され、ヴェーチェーカーの権力は削減された。平和な春への希望が、わずかながら芽生えた。
しかし、軍事的に新たな敵が出現した。同年春、西方から、誕生間もないポーランド共和国の軍隊が、ウクライナに侵攻して来たのだ。このポーランド共和国(ポーランド第二共和国)は、ユゼフ・ピウスツキという人物を国家元首とし、共和国の尊厳の白と自由を現す赤の横二色旗を掲げ、一七七二年の第一次ポーランド分割以前の国境線の回復を求めたのである。すでに、ウクライナ人住民とポーランド人住民の争い――ポーランド・ウクライナ戦争において、西ウクライナの都市リヴィウとその周辺は、同共和国の支配下にあった。ボリシェヴィキのやり方をそっくり真似たように、ウクライナの赤軍の後方地帯で農民の反乱、そしてガリツィア人の部隊が反乱を起こし、それに呼応して四万からなるポーランド軍が攻め込んで来た。ボリシェヴィキにとって、ウクライナは軍事的に手薄であった。赤軍はたちまち蹴散らされ、五月六日にはキエフが占領された。急遽、トゥハチェフスキーが西部方面軍司令官に任命された。南西方面軍総司令官はイェゴーロフという人物であった。ブジョーンヌイ率いる騎兵第1軍は、ここに派遣された。政治委員はヴォロシーロフであった。西部方面の革命軍事会議の委員はスミルガという人物。そして南西方面の委員は、ヨシフ・スターリンであった。
クリミアで生き残っていたヴラーンゲリは、白衛軍の残党をかき集め、五月一一日、配下の部隊をその名も「ロシア軍」と改めた。デニーキンらは、あくまで「ロシア帝国」を復活させようとしていた。そのため、ポーランドやウクライナの独立には反対であり、同じ反ボリシェヴィキであるこれらの地の愛国者たちと連帯できなかった。デニーキン軍の兵士たちが農民に(穏やかな表現を用いれば)狼藉を働き、憎まれてしまったことは、前述の通りである。トロツキーは、彼らのうちのおよそ九千人のドン・コサックのある部隊を、「略奪と暴行の尾をひきずる箒星」と形容した。また、彼ら旧いタイプの白衛軍の首領たちが究極的に目指していたのは、帝政の復活であった。だからこそレーニンは、ツァーリ一家を彼らに奪還される前に殺害させたのである。ボリシェヴィキの被害に遭った人々の多くも、だからといって旧い帝政の復活――単なる逆戻り――を望んでいたわけでもなかった。
ヴラーンゲリは、これらの点を改めようと試みた。彼はウクライナ国民共和国や、後述するカフカースの「グルジア民主主義共和国」を範とし、ロシア人の独立共和国の建国を夢見ていた。農民への土地の分配――ボリシェヴィキが原則否定する土地の個人所有――を含む大胆な方針を示し、農民からの支持の回復を期待した。彼とて馬鹿ではなかったから、西側列強諸国の下心もわかっていた。それでも彼は、フランスの支持を求め、国家としての承認を取りつけようとした。軍備を整え、このフランス、またイギリスから、一級の兵器を入手した。セヴァストポリの港は、多くの旧ロシア帝国海軍黒海艦隊の所属の艦艇があり、すでに南ロシア軍時代より接収していた。彼は空軍(航空部隊)の建設すら試み、この「ロシア軍」は僅かだが航空機も保有した。
ポーランド軍の意に反し、ウクライナの農民は彼らに対峙した。辛酸を舐めた人々は、賢くなる。増強された赤軍も反撃に移り、六月一二日にはキエフを奪還した。トゥハチェフスキーの勢いは止まらなかった。彼の西部方面軍は、南西方面軍との調整がうまくゆかないまま進み、七月一一日には白ロシア(ベラルーシ。以後は「白ロシア」とベラルーシ語の「ベラルーシ」を併用する)のミンスクを、八月一日にはブレスト=リトフスクを占領、と快進撃を見せた。トゥハチェフスキーの名声は、以前にも増して高まった。七月末にはポーランド領の赤軍占領地帯で「ポーランド臨時革命委員会」が設立された。反撃だけではなく、ポーランドへの逆侵攻を狙うわけである――ボリシェヴィキ内部でも「革命の輸出」については意見が分かれたが、最終的にゴーサインが出された。八月一〇日より、赤軍はワルシャワ包囲のための行動を開始した。トゥハチェフスキー自身が率いる北西正面軍がさらに進み、八月一三日には、ワルシャワから三〇キロの距離にあるノヴォミンスクを占領した。ワルシャワ陥落は、現実味を帯びていた。しかし、北西正面軍と南西方面軍の間隔は、軍事的には真空地帯――無様なほど空いていた。そこを狙い、ピウスツキは新たな部隊を派遣した。また、ウクライナの場合と逆に――いや、同様にというべきか――ポーランドの農民は侵入者(であり長年の支配者)である「ロシア」の軍隊に対峙した。赤軍は総崩れになり、一八日、トゥハチェフスキーも総退却命令を出さざるを得なくなった。ポーランド側はこの勝利を、国土を蛇行しながら流れ、ワルシャワをも守護するように貫く大河の名をとり「ヴィスワ川の奇跡」と呼んだ。
若くして、すでに名将の呼び声高きミハイル・トゥハチェフスキー。ボリシェヴィキ内では、彼のこの失敗の責任を南西方面軍に求める声も少なくなかった。スターリンは苛立つのである‥‥。
ともかくこのようにして、欧州方面への「革命の輸出」は幻に終わった。ボリシェヴィキは、この戦争(ポーランド・ソビエト戦争)の幕引きを急ぎ、一〇月には予備講和が結ばれた。――赤軍の全勢力が、クリミアへ向けられることになった。ポーランド方面、ウクライナ方面、そして極東方面を安定させたボリシェヴィキは、ヴラーンゲリの「共和国」にとどめを刺しにかかった。この最後の「白軍」と赤軍の戦力差は、圧倒的に開いていた。「ロシア軍」は敗れ去り、冷静なヴラーンゲリは亡命を決めた。彼は、彼を支持しついて来てくれた全将兵と市民に対し、今後もついてくるかボリシェヴィキ政権下のロシアの地に残るか、自由に選択してもらった。「どちらに未来があるかは、私は言えない」と述べた。ボリシェヴィキが彼らを許すとは思えなかったが、西側列強のほうも彼らを受け入れたとして――欧州は大戦を経て、安定化に向かっていた――利用されるだけであることも彼は承知しており、彼について来てくれた者たちにそれらの点をわかってもらおうとした。ヴラーンゲリは、一一月一四日、前者の人々を出来るだけ多く連れて、海上へ脱出していった。
彼の予想通り、クリミアでボリシェヴィキに捕らえられた人々の大半は、その後処刑された。彼の同志たちは、泣いた。しかし、彼らもヴラーンゲリも、どうすることもできなかった。ロシア人の独立共和国は、こうして歴史の波間に消え去ったのである‥‥。
この内戦――干渉戦争においては、帝国主義諸国はただ自国の利害のためだけに動き、またボリシェヴィキと白衛軍は、双方が残虐行為を犯した。ロシアまたボリシェヴィキ政権下に入ることになった地の人々には、容易に癒えぬ深い傷痕が残った‥‥。海外へ脱出するロシア人、ウクライナ人‥‥旧帝国の人々も、少なくなかった。
使える男、を求めていたのは、トロツキーだけではなかった。スターリンもまた、そうであった。いや、むしろスターリンのほうが、トロツキーよりも切実に求めていた。おべっか以外にこれといった才のないヴォロシーロフ、騎兵としては優秀なのだろうが、とにかく融通というものがきかないブジョーンヌイ(実はスターリンも、騎兵は時代遅れではないかという論に、ひそかに賛成していた。ただトロツキーに同調することが、死ぬほど癪だっただけなのだ――無論、ブジョーンヌイの前では口にしなかった)。彼らだけでは、スターリンは足りなかった。政治面において、使える手駒を彼は求めていた。そして、それに応えるかのように、下の世代を中心に、男たちが集まってきた。彼らの多くは、スターリンに、ある種の匂いを嗅ぎとったのだ。他のボリシェヴィキの有力者たちとは、異質な、ある種の匂いを‥‥。スターリンは彼らをよく手なずけ、巧みに組織していった。
そのうち、特に彼が目をつけた、ふたり。ひとりは、むっつりと黙り込んだときのスターリン、と形容できそうな、口の重い男だった。ラーザリ・モイセーエヴィチ・カガノーヴィチ。一八九三年生まれ。ユダヤ人だったが、正教、またユダヤ教に対しても、毛ほどの敬意も示さなかった。「この汚らわしき者ども(キリスト教の僧侶のこと。宗教一般の僧侶職とも解釈できる)を踏み潰せ!」というヴォルテールの言を、好んで引用した。ヴォルテールの真意を、どこまで理解していたかは不明だが‥‥。とりたてて才を示すことはなかったが、「沈黙は金」という諺を常に実行しているかのように、とにかく余計なことは一切口にしようとしない点が、スターリンの気に入るところとなった。自分の命令だけを忠実に聞く、寡黙だけが取り柄の男。レーニンはともかく、トロツキーならば、そのような者を重用しないだろう。だがスターリンは、そうした。
もうひとりは、このカガノーヴィチに較べて、また平均的なこの国の同年代の男よりもややおしゃべりなロシア人で、ヴャチェスラフ・モロトフといった。鼻眼鏡をかけた痩せた小柄な男で、その点が単純に、スターリンをして、自分の脅威にはならないと直感させた。三文芝居に出てくる小役人そのままのようだ、と思いもした。なぜなら、口数だけは多く、レーニン、またマルクスの言を引用することはあっても、よく聞いていると大した中身はないことが、スターリンにもわかったからだ。自分以外の人間も、同じような印象を持つだろうとも。いわゆる大物では、にっくきトロツキー、そしてジノヴィエフ。そして、一回り下の世代の有望株と言われるセルゲイ・キーロフという男‥‥。党員、またときには兵士、人民‥‥を、その演説で文字通り動かす、雄弁家と呼ばれる男たち、それに準ずるようなタイプの男たちは、ボリシェヴィキには数多くいた。この男は、そうではない、単なるおしゃべり屋だった。彼はそのことを半分自覚しつつ、それら雄弁家たちに嫉妬心を燃やしているようであった(それが、スターリンには面白かった)。スターリンに対しては、いわゆるイエスマンになりきった。この男には、党内である噂があった。「モロトフ」もやはり変名であり、本名をヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・スクリャービンといった。スクリャービン。高級な芸術とはおよそ無縁のスターリンさえ、アレクサンドル・スクリャービンという名は、耳にしたことがあった。前世紀末から国内外で活躍し、つい先頃亡くなった、ロシア帝国の貴族出身の高名な作曲家だ。このモロトフ――ヴャチェスラフ・スクリャービン――は、そのスクリャービンの父方の甥にあたり、あいつも貴族出身だ――という噂であった。
「違います‥‥」
そのことを尋ねたスターリンに、モロトフは小声で反論した。
「酷い噂です。私は、アレクサンドル・スクリャービンとは、縁もゆかりもありません‥‥」
モロトフの声は、震えを帯びていた。
(嘘か――)
と、スターリンは思った。
「私は労働者階級出身であり、また、若い頃からマルクス主義者です」
「言い訳はいらん‥‥」
「違います‥‥! 私は本当にあのスクリャービンとは‥‥!」
「‥‥‥‥‥‥」
「私は、モロトフ、です。そう呼んでください‥‥」
「モロトフ」は「槌」から取った変名で、これには彼もこだわりがあるらしかった。ヴャチェスラフ・モロトフにとって不幸だったのは、アレクサンドル・スクリャービンが、単に高名でまた貴族階級出身だっただけでなく、神秘主義やニーチェの超人思想に入れ込むなど、一種異様な音楽家であったことにある。彼の本名の「スクリャービン」という姓は、ボリシェヴィキ内の噂好きを刺激するのに、充分なものであったのだ。
(まあ、ゆっくり調べるか‥‥)
スターリンは、嗜虐の快楽を覚えていた。
(さしあたって――)
――大事なのは、目の前の男がそのことを負い目に感じている、という点だった。おそらく、他の党員から散々揶揄されているのだろうと、スターリンには察せられた。弱みを持った人間は、味方にできる。ヨシフ・スターリンの、これは信条というよりは、動物的な勘であった。このふたりとも野心の持ち主――いわゆる出世主義者であることは、スターリンにも見抜けた。だがそれは、むしろスターリンを安心させた。なんだかわからない信念や信条の持ち主よりも、そういった人間のほうが安心して接することができた。スターリンとは、そういう男だった。「ユダヤ人」も「貴族」も気に食わなかったが、スターリンは、神経質――後年ドイツの覇権を握ることになる男のような――神経症ではなかった(別の面で危険な人間なのであった)。潔癖、という性質は、むしろ人並み以上に薄かった。自分の思想と行動とを一致させなければならない‥‥などという発想は、微塵も持ち合わせていなかった。その意味では、そういった人物の多いボリシェヴィキ(マルクス主義という思想を掲げる集団なのだから、当然と言えば当然なのだが)の他の有力者より、上司としては有能な人物――少なくとも接しやすい――だと言えないこともなかった。そういった面が、スターリンのもとに多くの男を集めさせた一因でもある‥‥。
もっともスターリンは、このふたりに、各々の弱点をほのめかすことは忘れなかった。接しやすい上司が、意地悪でないとは限らないのだ。カガノーヴィチは黙って肩をすくめ、モロトフは少し震えを帯びた声で、信じてください、と哀願した。
付け加えれば、ボリシェヴィキ内にユダヤ人は――トロツキー、カーメネフ、ジノヴィエフを筆頭に――むしろ、総人口に占める割合より多いと言えた(正確な統計はとりにくい)。これは、ロシア帝国のユダヤ人に都市部住民が多かったことも一因であろう。なおロシア帝国領内には、彼らとは別の系統の「ユダヤ人」の歴史もあった――後述する。それに貴族といえば、他ならぬレーニン自身、父親が世襲貴族の地位を手に入れていた――つまりレーニン自身も、なろうと思えばそうなれた――のである。旧ツァーリ政府の文官システムは一四等級からなり、レーニンの父はこのうちの四等官、そしてニコライ・ブハーリンの父も七等官に相当する、世襲ではないが貴族の称号を得ていた(とはいえ、それはブハーリンのこの父親が出世を果たした後のことであり、それ以前、ブハーリン本人の言によれば、父親が失業していた一八九七年からの二年間は、彼の一家は「大いなる貧困」の状態にあった)。もちろん、民族ではロシア人、階級では労働者階級出身が多かったことは確かだが、ボリシェヴィキとは、一般的に思われている以上に、社会の各階層、旧ロシア帝国領内の種々雑多な民族の混成体であった。マルクス主義という「旗」があったとはいえ、これらをまとめ、統率していたレーニンの力量がわかる。ご承知の通り、出身・血統という点においては、スターリンもグルジア人である‥‥。
他に、ニコライ・セルゲーエヴィチ・ヴラーシクという兵士が、赤軍からスターリンへ警護役として送られた。粗野で冷酷な兵隊であり、ほぼ文盲であった。この男は、次第にスターリンの警護全体の采配をふるうようになってゆく‥‥。また、イヴァン・パーヴロヴィチ・トフストゥーハという男がいた。一八八九年生まれで、一九〇五年の革命以前からの活動歴がある古参党員であった。十月革命でも活躍していた。スターリンによって、この年、民族問題人民委員部の官房長兼幹部会員になっていた。ヴラーシクの逆と言うべきか、この男は文書・記録の類の収集に、異常なまでの情熱――才能を見せた。それは党内においても、レーニンの著作にレーニン以上に詳しいと言われるほどであり、そこそこ知られる男であった。スターリンはこの男を使えると見なし、民族問題人民委員部から引き抜き、自らの秘書室の室長に据えた。このトフストゥーハのもとには、レフ・メフリスという、トフストゥーハと同年齢の男もいた。また、赤軍の政治将校であったゲオルギー・マレンコフという、もっと下の世代の若者も、スターリンの目に止まり、執務室に出入りすることになる‥‥。
ボリシェヴィキにおける出自、という点では、赤軍に元帝政軍将校が多く入ったことは先の通りであるし、チェーカーにも帝国の秘密警察の構成員が入ってきていた。軍も秘密警察も、有能な人間が必要なのだ。また、元メンシェヴィキ(トロツキーがそうだ)、元エスエルといった経歴の者も参入してきた。勝ち馬に乗りたがるのは、世の常である。ボリシェヴィキが寛容な組織であったわけでは、決してない。が、彼らは権力のため、また身の安全のため、レーニンが述べたように職務に励んだのだ。しかし、さしものレーニンにも、計算しきれない一面があった。新規参入者たちは、職務とボリシェヴィキへの忠誠に励むかたわら、相互を牽制しあうことになった。それはやがて、旧来の党員たちへも波及してゆく‥‥。
これまでも、有力者同士の間のものでも列挙しきれぬほど、党内における喧々諤々の論争はあり、それはボリシェヴィキのダイナミズムの源にもなっていたのだが、政権を握り、新国家のシステムを一から作り上げてゆく過程で、この相互の牽制が、やがて相互を監視するムードへとつながってゆく‥‥。まだ、その面は浮かび上がってきていない。外からも、内においても、誰にも見えてない一面であった――老婆以外の誰にも。レーニンの直観ですら、捉えられていなかった。だが、もちろん見えてはおらず、いわゆる肌で感じていたわけでもないのだが、そのムードは結果的に彼を利することになる。本人も気づいていない。ただ、部下集め、己の地盤固めに奔走していただけである。だが、運命の歯車は彼を押し上げようとしていた‥‥。
党内で「労働組合問題論争」と呼ばれる大論争が巻き起こっていた。継続中の革命において、プロレタリアート独裁体制下において、労働組合とは何であるのか、という論争である。レーニンは、「共産主義の学校」である、と定義してみせ、三月の第九回党大会はこれを採択した。これに対し国家経済の管理権を全面的に担うことが労働組合の任務であるとする(レーニンの観点からすれば)「左」側からの反論が起こっていた。労働組合の指導者であるミハイル・トムスキーという人物らが唱え、夏には彼らは「労働者反対派」というグループを事実上形成するに至った。トロツキーは、これに一定の理解を見せながらも否定してみせ、これを政治的な振る舞いと見た同派により批判されることになった。トロツキーと彼の支持者たちはこれに反論、一一月の労働組合第五回全ロシア大会において両者は鋭く対立した。一言で言うならば、トロツキーは労働組合を軍隊化しようとしていた。筋金入りの労働組合活動家であるトムスキー(彼は代表に押し上げられただけである)とその支持者たちにとって、これは受け入れられる発想ではなかった。党中央委員会は断続的にこの問題を討議、しかし結論を出せなかった。一二月に入ると、運輸労働組合中央委員会と河川輸送組合員の間で、両派の対立にもとづく衝突まで起こった。中央委員会は、これら意見の不一致を解決できず、論争を公開することにした。この過程で「緩衝派」と呼ばれるグループが形成された。トロツキーは、別の人物が唱えた労働組合国家融合論――労働組合はやがて国民経済と高度に結合する――を彼流に解釈してみせ、これを将来の目標とするのではなく、できるだけ早く実現すべきとものとし、そのためにただちに労働組合を生産管理機関に変えるべき、とした。レーニンは、トロツキーのやりかたを「ゆすぶり」と批判、「労働組合は国家組織ではない」と明確に述べた。その論拠として、労働組合とは、自覚の程度と文化的レベルの異なる労働者全体を包括する特殊な組織である、と述べ、「労働組合はあらゆる側面からみても学校なのである」と重ねて述べた。レーニンは、労働者反対派の主張は無政府主義であると断じる一方、彼らの主張のうちの幾つかは吸収すべきであるとした。「非プロレタリア的な、信頼のおけない分子の党からの粛清」、「官僚主義との闘争」、「民主主義や労働者の自主的活動の発展」等がそれである‥‥。
党内論争の間に、ウクライナでは大飢饉が起こっていた。ウクライナは、もともと肥沃な土地を持つ地域であり、帝政期からすでに「穀倉地帯」の呼び名があった。しかし、内戦の戦禍、旱魃による不作、そしてボリシェヴィキ政権の農作物の収奪と配給の不手際により、数百万人のウクライナ人が餓死し、さらに一千万人がその危険にさらされていた。
アゼルバイジャン、アルメニア、グルジアの三ヶ国で構成されるカフカースでも、独立の火種がくすぶっていた。グルジアでは、メンシェヴィキを主要な政治勢力とする(あくまで「主要な」である)グルジア民主主義共和国が独立を果たしていた。これに対し、ボリシェヴィキ内には様々な意見があった。急いで赤軍を派遣すべし、派遣したほうが望ましいが急ぐことはない‥‥。これは「グルジア問題」という名で、大きな政治問題になりつつあった。スターリンは前者、急進派であった。彼は、自分を愛してくれなかった故郷に復讐を果たそうとしていた。トロツキーは後者であった。これは中央における意見の相違である。グルジア、またカフカースのボリシェヴィキには、赤軍の派遣自体に反対する空気もあった。急進派により「ザカフカース・ビューロー」なるものが設立された。「ザカフカース」とは、「外カフカス」ないし「カフカースの彼方」といったような意味の語であり、この名称にその役割が現れているようであった。すなわち、同地方の――あらゆる手段を用いての――ボリシェヴィキ化を目指す組織である。そのトップである委員長の座には、グリゴリー・オルジョニキーゼという、スターリンの旧友が就くことになった。例によって、スターリンがレーニンに取り入ったのではない。この男もまたくせ者で、自分から売り込んだのだ。
グリゴリー・コンスタンティノヴィチ・オルジョニキーゼ。スターリンより一回り下の世代のグルジア人で、およそ十年前、ボリシェヴィキの攪乱作戦の一環として隣国イランに入り込み、同国の革命を煽ることを行なったという経歴を持っていた。それより以前はアゼルバイジャンのバクーで活動しており、その時期にスターリンと親交を深めていた。この男を含め、グルジア人同士の場合は、スターリンもグルジア語を使った。それは、スターリンなりに、くつろげる時間であった。オルジョニキーゼは、ふところが広く、面倒見も良かったから、人脈が広かった。「セルゴ」「セルゴおじ」という、これは変名というよりはあだ名で呼ばれていた。陽気な男であったが、その眼には時折、油断のならない光がともることがあった。
同委員会の副委員長には、前述のセルゲイ・キーロフが選ばれた。このキーロフも、スターリンの指揮下にあった。このオルジョニキーゼとキーロフは同い年であったが、キーロフが年相応、あるいは実年齢より若く見えたのに対し、オルジョニキーゼは年かさに見えた。これは、各々のそう見せたいという内面の、現われなのかもしれない。この他に急進派の実力者として、アナスタス・ミコヤンという、まだ二十代のアルメニア人もいた。
グルジアがヨーロッパ資本主義諸国と通商していることを根拠として、ヨシフ・スターリンはグルジアが帝国主義的侵略の出発点だと断言した。一九二一年一月、ヨシフ・スターリンはオルジョキニーゼに赤軍の支援のもとでの「蜂起」を指示、二月一五日、赤軍がグルジアに侵攻した。しかし、これは歓迎されなかった。たちまち激戦――およそ十日間――となり、赤軍はやっとのことでティフリス(トビリシ、チフリス)に到着した。治安は、なかなかボリシェヴィキのものにならなかった。殺戮と略奪、そして強姦が行なわれ、同地を征服し終えるのにさらに三週間を要した。グルジア側の軍隊は、指揮官が自決するまで勇敢に闘った。イギリスは、ふた月ほど前にグルジア民主主義共和国を独立国家として認めておきながら、これを黙殺した。レーニンは「グルジア問題」に関しては曖昧な態度を取り続けていたが、この侵攻については憂慮していた。対外的には、赤軍が自然に巻き込まれたグルジア‐アルメニア間の戦争のように見せかけつつ、党内に対しては、慎重を期するようにと警告を発した。具体的には、オルジョキニーゼに、メンシェヴィキとの提携を命じた。しかしこれはメンシェヴィキ側が断り、彼らはよそへ「移住」していった。
三月、第一〇回党大会が開催された。この大会は、「グルジア問題」をめぐって、また労働組合問題論争の決着をつけるものとして、早くから党内では関心が高かったが、それをも揺るがすような大事件が起きた。革命の発火点、旧首都ペトログラードに近い軍港都市クロンシュタットにおいて、多数の水兵たちが反乱を起こしたのである。これは、これまで十月革命の直接の担い手であった者たちによる、それも軍事的な反乱であるという点で、ボリシェヴィキが内戦のなかで対峙していた「敵」の蜂起とは、質を異にしていた。彼らは、戦艦「ペトロパブロフスク」において集会を開き、言論、集会の自由や、農業や家内工業における統制の解除、すべての政治犯の釈放、すべての勤労人民の配給量の平等化などを要求する一五項目の決議を採択、現政権に要求したのである。「全ての権力をソビエトヘ」――かつてのスローガンが今度はレーニンとボリシェヴィキに対する蜂起のスローガンとして突きつけられた。モスクワのボリシェヴィキ指導部は即座に赤軍を派遣、ペトログラード・ソビエト議長になっていたグリゴリー・ジノヴィエフも部隊を現地に急行させ、ミハイル・トゥハチェフスキー司令官の指揮のもとで部隊が編成された。しかし反乱軍に同情的な兵士も少なくなく、彼らが攻撃命令を拒否するとこれを射殺しなければならなかった。ヴェーチェーカーも同伴し、二度にわたる攻撃を加え、赤軍主力はやっと彼らを鎮圧することができた。赤軍側は四千人以上の戦傷者を出し、反乱軍側二千人以上が死刑判決を受け、六千人以上が投獄され、また八千人ほどが隣国フィンランドに脱出、亡命した。
「クロンシュタットは――」
動揺する党員たちを前に、軍事人民委員にして革命軍事会議議長であるレフ・トロツキーは発表した。
「鋼鉄の箒にて一掃した」
この内乱がボリシェヴィキに与えた衝撃は大きく、党大会ではふたつの大きな議案が出され、どちらも採択されることになった。ひとつは、経済面でのものであり、税を納めた後の余った農産物を市場で自由に売買することを許可する、という市場原理を一部導入したものであった。この新経済政策は、ニコライ・ブハーリンが主唱したもので、頭文字をとりネップと呼ばれた。これは戦時共産主義政策の緩和であり、ボリシェヴィキの重大な方針転換であると言えた。内戦と同政策による国民の疲弊――飢餓――を救うため、という、理論という観点から見ればやや苦しい――しかし常識という観点からは当たり前の――決定であった。ニコライ・ブハーリンは、一九一九年に共著として「共産主義のABC」、一九二〇年に「過渡期の経済学」を著していた。これがレーニンの高い賞賛も得て、彼は知識人層を中心に理論家としての評判を高めつつあった。彼は理論的著作と通俗的著作を常に区別していたが、この共著の「ABC」は後者であった。「共産主義のABC」は共産主義宣伝のための格好の本となり、ニコライ・ブハーリンの名はより知られるようになっていっていた。――このネップの実施は、急進的な共産主義政策を目指し、労働者徴兵制を唱えるレフ・トロツキーと彼の支持者たちの敗北であった。その意味でこれは、単なる新しい経済政策の導入というだけではなく、政治的なものでもあった。先の労働組合問題論争におけるトロツキーの態度は、激しく叩かれた。
もうひとつは、もっと直截的に政治面でのものであった。党内グループないし党内分派の禁止、および中央委員会の諸機関と政治局の路線に対する批判の禁止――という厳しいもので、「戒厳令」と揶揄された。これも先の労働組合問題論争、そして起きたばかりのクロンシュタットの反乱を念頭においてのことであり、労働組合問題論争に際してトロツキーとブハーリンを支持し、レーニン、ジノヴィエフ、スターリンに対立していた中央委員会書記局の全員が、解任の憂き目を見た。新しい書記局はモロトフ――ヴャチェスラフ・モロトフが率いることになり、さらに念の入ったことに、スターリンは彼の補佐役としてイヴァン・トフストゥーハを送り込んだ。書記局。それこそが、ヨシフ・スターリンの秘密の力の源となってゆく‥‥。分派の禁止は、それが実に多く行なわれており、また行なわれがちだとの判断からであった。スターリンは、表向きこれに賛成しながら、実際には自分の分派を作っていった。目立たぬように‥‥。
ニコライ・ブハーリンはまた、念願どおりモスクワに学校を作った。東方勤労者共産大学。一九二一年四月モスクワに設立され、同年一〇月、正式に開校。植民地が多く、また独立していても多くの国内矛盾を抱え、社会主義、共産主義への期待と胎動があったアジア地域から、コミンテルンが留学生を募った。頭文字をとり「クートヴェ」と呼ばれた。留学生名簿には、中国から蒋経国、劉少奇、鄧小平、ベトナムからホー・チ・ミン等々の名があった。この大学は、マルクス主義、レーニンの理論、党や労働組合の組織作り、官憲との闘争やプロパガンダの具体的方法、そして革命へ導く戦術――等々を学生に教え込んだ。学長は、カール・ラデック。
カール・ベルンガルドヴィチ・ラデック――ポーランド出身のユダヤ人であり、生年は一八八五年、本名はカロル・ソベルゾーンといった。語学の天才であり、多くの言語を使いこなした。顔色の悪い細面の神経質そうな眼鏡の奥から、知的ではあるが冷ややかな視線を光らせていた。ヨーロッパで左翼――極左――活動を行なうなか、スイスでレーニンと知り合い、二月革命後ボリシェヴィキに入党した。主に北欧で活動を続け、外務人民委員部に加わり、ブレスト・リトフスク条約締結の際にはトロツキーに同行、その後ボリシェヴィキの代表の一人として、ドイツへ派遣。ドイツ共産党の設立を工作するなどしていたが、ドイツ警察に逮捕され、ロシアに送還されていた。中央委員に選ばれ、コミンテルンの執行部書記となっていた。ボリシェヴィキ内では、語学の才よりも、その工作力と行動力で知られていた(ドイツへの派遣の際、監視の網をくぐり抜けベルリンにたどり着いたのはラデックひとりだけだった、という逸話も語られていた)。また、皮肉屋としても――。彼もボリシェヴィキの例にもれず論争を好む男であったが、雄弁家というより、一対一での論争を得意とする、とにかく口数の多い人物であった。そのなかで、痛烈な皮肉を連発したのである。彼のジョークの才は、敵地で活動している際には(パンフレットの作成等で)現地政府への有効な打撃になることもあったが、ここロシアでは、同僚から彼を遠ざけさせる要因にもなった。
レーニンの懸念をよそに、グルジアは急速にボリシェヴィキ化されていった。行政組織にはロシア人官吏が続々と就き、ヴェーチェーカーは独自の組織網を作り上げていった。オルジョキニーゼ――グルジア人――も粗暴な男で、配下の人間を枢要な地位に就けた。そのひとりが先のキーロフで、彼はアゼルバイジャンの党組織を引き継いだ。故郷に対するヨシフ・スターリンの精神的な復讐――貴族、聖職者、メンシェヴィキ派知識人などに対する――が、実に血なまぐさい形で成されようとしていた。しかし、この夏、グルジアはトビリシの労働者階級地区での人民集会に彼が現れたとき、聴衆たち――かつてスターリンを匿ったこともある者も含まれていた――は野次を飛ばし、彼を非難した。
「裏切り者! 売国奴!」
同地の革命活動の古参指導者であるラミシヴィリ、またジェヴアーゼといった人物――彼らは拍手で迎えられた――は、スターリンに尋ねた。
「君は何故グルジアを破壊したのだ? 罪滅ぼしに何をしてくれるのだ?」
昔の同志たちの怒りに、ヨシフ・スターリンは青ざめ、しどろもどろに自己弁護し、護衛の陰から退散した。危機感は、彼を即座に行動にうつさせた。彼は地方党本部でそこの指導者たちを故意にデモを組織させたと非難、グルジアを廃絶、アルメニア、アゼルバイジャンと併せて「ザカフカース連邦」なる行政単位に組み込む、と語気荒く宣言した。
「グルジア問題」は、ある意味でレーニンの運命を決めた要因のひとつとなったと言われる。しかしまたある意味では、スターリンの運命をも――その裁決が訪れるのは遠い未来のことになるが――決めたと言えはしないだろうか。赤軍のグルジア侵攻とその前後の模様については、再述する‥‥。
ウラジーミル・レーニンは一九二一年末に重病に陥り――あの狙撃事件の影響があった――数週間の休養を余儀なくされた。その頃、ある話し合いがもたれた。会合といって差し支えないだろう‥‥。
「同志レーニンが回復するまで‥‥」
言いにくそうに口火を切ったのは、グリゴリー・ジノヴィエフであった。
「椅子の脚が必要ではないだろうか‥‥」
言葉を継いだのは、レフ・カーメネフ。
「椅子‥‥とは、何のことか?」
おうむ返しに問うたのは、ヨシフ・スターリンであった。得意の神学問答風に‥‥。
卓上には、カーメネフ、ジノヴィエフ両名が持ってきたコニャックと、招かれた立場ではあるが(気を利かせてというよりは)如才なくスターリンが持ってきたグルジアワインのビン、そしてワイングラス三脚とが並んでいた。しかし、まだ封は切られていなかった。話し合い(ジノヴィエフとカーメネフは、あくまでそう呼びたがっていた)が済んでから開けることになっていた。そして、自分たちから持ちかけた話であるにも関わらず、両名はスターリンのペースに乗せられてしまった。
「政治局のことだ‥‥」
と、ジノヴィエフは言った。
「政治局は中央委員会を支え、中央委員会は全党を支えている‥‥」
と、これはカーメネフ。実際は逆である。カーメネフの言は、それを承知の上でのひねった物言いであったのだが、スターリンはまるで、不穏な発言を聞いてしまった、というような顔を作ってみせた。しかたなく、ジノヴィエフが言葉を継いだ。
「われわれが、その椅子の脚になる。ここでひっくり返るわけにはいかない。誰しも認めるところだろう」
「われわれ‥‥?」
と、スターリン。
ウクライナのユダヤ人とロシアのユダヤ人は、顔を見合わせた。このグルジア人は、どこまで鈍いのか。
「われわれ、だ」
グリゴリー・ジノヴィエフは、声を大きくしないように注意を払いながらも、苛々と語気を強めた。
「椅子の脚は、一本や二本では足らない‥‥」
レフ・カーメネフは、噛んで含めるように、ゆっくりと言った。
「確かに――」
スターリンの物言いはどこまでも、芝居がかっていた。
「三本か、四本は必要だ‥‥」
そしてヨシフ・スターリンは、笑顔を見せると、自分から握手を求めた。両名は、ホッと顔を見合わせた。同盟が成立したのだ。コニャックとグルジアワインの封が、景気よく開けられた。彼らは、美味な液体が注がれたワイングラスを高々と上げた。そして、「同志レーニンの精神にのっとって‥‥!」と口々に言いながら、杯を交わしあった。ふたりは、ある種の後ろめたさを覚えながら。ひとりは、ほくそ笑みを隠しながら‥‥。
PDFでは「ダン・シャオピン」の姓の字が正しく表示されないようです。