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フェアリー・テール  作者: 田中 鉄也
第一部 スターリン
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2.内戦 ~カオス~(2)

この国の「内戦」の進展と、「大戦」の終結。

 この年の八月の終わりは、ボリシェヴィキにとって、悪夢のような二日間であった。三〇日、最高指導者レーニンが狙撃され、重傷を負った。その安否も定まらぬなか、ペトログラードでヴェーチェーカーのモイセイ・ウリツキーという議長が暗殺された。

 ボリシェヴィキ組織は、大きく揺れた。特に、レーニン狙撃に、である。衝撃、という一点に絞れば、十月革命のそれを上回ったかもしれない(なぜなら革命は、万全にではなかったが、準備はしていたのだから)。各都市では電話が止むことなく鳴り響き、交換手はへとへとになった。ある交換手が、疲れのためか間違った相手につないでしまい、会話している者同士も興奮のあまりそのことに気づかず、二十分以上たってようやく自分が話している相手が思い描いている人間ではないということに気づく、などという椿事も起こった。電報も、無論のこと、飛び交った。ショックだったのは、党の重要メンバーとて、同じだった。レーニンはそれほど大きな、特別な存在だった。このような事態になり、初めてそのことを痛感させられる者もいた。

(万が一、レーニンが死――)

 その中肉中背――やや小柄な男も、考えないわけにはいかなかった。ただでさえ、ロシアは混沌の只中にある。レーニン不在のボリシェヴィキを統率できる者がいるとすれば――。

(トロツキー、君にその座を渡したくない‥‥)

 接収した旧ツァーリのクレムリン宮殿内に仮設された自分の執務室で、ニコライ・ブハーリンは思った。

 ニコライ・イワノヴィチ・ブハーリン。彼を他の有力指導者から特徴づける点のひとつに、生粋のモスクワっ子――そしてロシア人――であるという点があげられるだろう。一八八八年九月(グレゴリオ暦では一〇月となる)生まれであるから、スターリンよりちょうど一回り下の世代となる。両親とも教員の知的な家庭環境のなかで、幼い頃から世界に旺盛な好奇心を示した――その頃の彼の興味は、鳥類や蝶類に向けられていた。中学生でマルクス主義研究サークルに参加するようになり、一九〇五年、社会民主労働党に入党、以後はボリシェヴィキに加わった。大学在学中の一九一一年に逮捕され、流刑となるも脱走し、ドイツへ亡命した。オーストリアへ移り、ウィーン大学で経済学や社会学を学びながら、(活動家というよりは)理論家としてボリシェヴィキ内で知られてゆくようになる。オーストリアで逮捕されスイスへ亡命し、北欧からニューヨークへ移り、そこで革命派の新聞の編集・発刊にあたり、前述の通りそこでトロツキーと出会っていた。

(いまはまだ、過渡期にある‥‥。われわれは‥‥またソビエト・ロシアは‥‥)

 ニコライ・ブハーリンは黙想した。若いが、すでに大きく後退した額。この国では、これは聡明の印である。ヨシフ・ジュガシヴィリが己の額の狭さにコンプレックスを抱いていたくらいである――深慮する者のエネルギーは、頭皮ではなくその内部に向かうのだ。ニコライ・ブハーリンはほころんだ笑顔をよく見せたが、彼のなかで、他人――たとえば労働者たち――と関わる作業と、党内での活動は、また別のものであった。

(――この状況下では、たしかに君は活躍できるだろう。ナポレオン‥‥赤いナポレオンなどと口さがないことを言う連中が党の外にも内にもいるが‥‥そんな連中には言わせておけばよい。トロツキーよ、本来の君の博学ぶり、書くことへの情熱は、友人である私が、一番よく知っているつもりだ‥‥)

 ブハーリンは、レーニンをはじめこの時期のボリシェヴィキの有力者は皆そうだが――複雑な男であった(例外といえば、純朴で献身的で、そして狂信的な、現在はヴェーチェーカーを率いるジェルジンスキーぐらいであろうか)。夢想家であり現実主義者、観念的であるとともに強固な唯物論者。論争を好み、同時に党の方針には従う。無限の優しさと、無慈悲、などという言葉では到底形容できない残酷さ(それは「敵」――そう見定められた者――が骨身に染みて味わわされる)。包容力、そして傍目にはサディスティックにすら見える、どこまでも対象を追求する尖った感性‥‥。トロツキーがそうであったのと同様、ブハーリンもまた、この有能な友を認め、尊敬し、愛し、そしていつかは対決せねばならぬ相手、完璧に論破せねばならぬ相手と見定めていた。それを好敵手などと表現できるのは、安全な場所にいる無責任な観客か、あるいはレーニンくらいであったろう。

(しかし、トロツキーよ‥‥)

 ニコライ・ブハーリンの思いは、さらに続く。

(この内乱‥‥いや、戦争が収まったときには、君の前には、白衛軍の部隊に代わり、私が立つことになるだろう。私は――)

 ブハーリンには、計画があった。

(誰よりもあのウラジーミル・レーニンという男の思想を理解している。そのことにかけては自信がある。レーニンが「党」というものに託した思いを‥‥。革命の職人集団――ツンフトであらねばならない‥‥そのことは、君も理解できていよう。しかしまた、グノーシス――そうなのだよ、トロツキー、われわれは常に勝利し、前進しつづけねばならない。しかし同時に、非の打ちどころのない完璧な共産主義社会が実現するまでは、永遠の異端者であらねばならぬのだ。君にはこのことが理解できていまい。労働者や兵士を煽り、指揮官として過酷な命令を出しながら、ときにセンチメンタルなお人好しになってしまう君にはな‥‥。偽善者、という表現は、私は真に褒め言葉だと考える、考えられる人間だ。‥‥私はいま、彼――レーニンの強硬路線を支持している。いまは、だ。いまこの泥濘を突破し、幼な子たる革命を守るためには、例外的な手段もやむなし、なのだ。このただ一度だけは。――それまでは、彼はジェルジンスキーを擁護しつづけるだろう‥‥。私はな、トロツキーよ、学校を作るつもりなのだ。この混沌が収束した後の、未来に備えるための、な‥‥。トロツキーよ、私には見えているのだ、未来が――‥‥)

 コンコン! 部屋のドアが鋭くノックされた。その音だけでも、緊急性が感じられるノックであった。

「入り給え」

 ブハーリンは、短く言った。レーニンの命に別状なし、との報告であった。それを聞くニコライ・ブハーリンの双眸には、奥深い、不思議な光が宿っていた‥‥。


 九月に入ってからのボリシェヴィキの報復は、凄まじいものであった。二日、全露中執委は、反革命の白色テロに対し「労働者と農民は」赤色テロを行なうと言明。ヴェーチェーカーが、さっそく実行した。レーニン暗殺未遂に関しては、犯人とされたファーニャ・カプランなる弱視の女性を、裁判抜きで銃殺。ウリツキー暗殺に対しては、容疑者を含む多くの人間を逮捕、まとめて殺害した。同日、全露中執委は戦時総動員を布告、トロツキーを議長とする共和国革命軍事会議を設置したのだった。

 レーニンは一命をとりとめた。が、彼が吠えずとも、部下たちの勢いは止まらなかった。五日、人民委員会議が「赤色テロ」を正式決定。エスエルの構成員他、「白衛派」とされた大勢の人々が、裁判もなしに各地で銃殺された。三〇日、革命軍事会議の議長トロツキーは、逃亡者と裏切者の家族をしかるべき機関と共同で逮捕せよ、との極秘命令を出した。

 ――ボリシェヴィキは、農民を三階層に分類することにした。貧農(ベドニャーク)中農(セレドニャーク)富農(クラーク)である。このうち「富農(クラーク)」は、ツァーリ体制への回帰を潜在的に望む階級敵であるとされた。

 ボリシェヴィキは、内戦のなかで、農民たちが必ずしもボリシェヴィキの味方であるとは限らないことを学ばざるを得なかった。しかし、農地解放を掲げる以上、すべての農民を敵と規定するわけにはいかない。そこで、このような規定が行なわれたのだ。

 各県では、その農民たちの反乱が、ますます拡大の様相を見せていた。クルスク(クールスク)、トゥーラ、タンボフ、リャザン(リャザーン)‥‥ヴォロネジ県では、この農民(先の規定の「富農」であるとボリシェヴィキは決めつけたが、実際は必ずしもそうではなかった)部隊と、精強で鳴るドン・コサック部隊が合流、一大勢力となっていた。

 ‥‥一〇月七日、ヴェーチェーカーは県毎の非常委員会に独自の銃殺権を与えた。また、一〇月一八日、「プラウダ」のスローガンがこう変わった。――「全ての権力を非常委員会(ヴェーチェーカー)へ」‥‥。


 東方においては、九月、シベリアで大きな動きがあった。チェコスロバキア軍団等の仲介により、旧軍人・帝政派・自由主義者等からなるオムスク政府とエスエル・メンシェヴィキが中心のサマーラ政府の統一が図られたのだ(それまでは互いに対立していた)。会議が開かれ、五人からなる執政府を中心とする政府がウファに置かれた。一一月三日には、ヴォロゴツキーという人物を首相、帝政時代の海軍提督アレクサンドル・コルチャークを陸海軍大臣とする内閣が選ばれた――しかし、同月一八日にはコルチャークのクーデターにより崩壊。コルチャークは「最高統治者」と自称し、沿海州で日本の支援を受けていたセミョーノフも指揮下に入れ、全シベリアの支配者としての地位を固めた。エスエルの憲法制定会議議員の一部は国外に亡命、また一部はボリシェヴィキと和解した。シベリアにおける反ボリシェヴィキ中間派は姿を消した。

 革命から一年が過ぎようとする頃、朗報が西方――国外からもたらされた。ドイツであった。一一月三日、キール軍港の水兵反乱を契機に兵士・労働者の蜂起が起こり、九日、かの地でも帝政が崩壊したのだ。ニコライ・ブハーリンも指導に関わっていたスパルタクス団等、社会主義者・共産主義者の主導するものではなかったが、革命は革命だ。ソビエト政府は早速、このドイツの労働者・兵士評議会(レーテ)へ呼びかけを行なった。一一日、ドイツは連合国側に降伏。長かった、そして世界を変えた欧州大戦はここに終わりを告げた。参加国十一ヶ国余、死者の総数はおよそ一九〇〇万人(内、戦闘員九〇〇万人、非戦闘員一〇〇〇万人)、負傷者の総数はおよそ二二〇〇万人といわれる、未曾有の戦乱であった‥‥。

 そして、ドイツの動きに連動するかのように、すでに独立を果たしたチェコスロバキアを始め、領域内の諸民族の独立運動の活発化により、ヨーロッパ中部におよそ六五〇年にわたって覇を唱えたオーストリア=ハンガリー二重帝国は崩壊した。こうなればもう、ブレスト・リトフスク条約に意味はない。翌一三日、全露中執委と人民委員会議は、同条約の破棄を決定した。

 国外での戦争はこうして終わりを告げたが、ロシアの大地の戦乱――内戦――は、収まる気配を見せなかった。経済の窮乏は著しく、二一日、人民委員会議は、すべての食料品、日用品、家庭用品の供給を国家が専有する旨の布告を出した。戦時共産主義――それはしかし、人民への恩恵とはならなかった。人々の生活は、困窮を極めた。レーニンを始めとするボリシェヴィキの、特に大都市の幹部たちは、旧貴族たちから奪った邸宅に住み、護衛や秘書を召使のように使い、運転手つきの車や特別な列車に乗っていた。新たな特権階級が生まれようとしていた。

 この月の下旬、来るべきものが来た。黒海沿岸はノヴォロシスク、セヴァストーポリ、オデーサに、ドイツを打ち破った英仏軍が上陸したのだ。ソビエト政府を叩き潰し、あわよくばロシアそのものを手に入れる――非ボリシェヴィキ陣営においても、これら外国勢力の意図は透けて見えた。一一月三〇日、メンシェヴィキはソビエト政権の条件つき支持を呼びかけ、これを受けてボリシェヴィキも、六月に出していたメンシェヴィキも敵とする決定を取り消した。

 ボリシェヴィキは、赤軍の統制に相変わらず苦心していた。一二月二一日、極秘の労農防衛会議が開かれ、ヴェーチェーカー構成員は党員に限定することに決まった。一八日、トロツキーは、革命軍事会議議長として、退却阻止のための特別部隊を赤軍の各部隊に設置することを命じた。


 一九一九年、また新たな年が明けた。一月、大戦においてオスマン帝国をサルカムシュの戦いで大きく破り、この大戦における帝政ロシア下でもっとも功績をあげた将軍のひとりであり、臨時政府下ではコルニーロフの蜂起を支持し、フィンランドへ逃れていたニコライ・ユデーニチが、イギリスの支援のもとエストニアで軍を起こした。エストニア国境からペトログラードまでは、そう離れていない。ボリシェヴィキは、モスクワへの首都機能移転を急いだ。南部においては、旧帝政軍中将であり、露日戦争の従軍経験もあるアントーン・デニーキンの軍が台頭していた。このデニーキンという人物は、欧州大戦当時、南部軍の師団を指揮しており、やはりコルニーロフの反乱にも参加していた。臨時政府ですら許せなかったこの人物にとって、ボリシェヴィキは不倶戴天の敵であった。ドン地方で反ボリシェヴィキ義勇軍を結成し、強力な戦陣を張った。このドン・コサックのドン軍と、そのデニーキンの軍とで、「南ロシア軍」なる合同軍(指揮系統は別である)が結成された。赤軍の制圧地域、すなわちボリシェヴィキ政権の支配地域は、広大な「ロシア」全体から見れば、未だヨーロッパ・ロシアの一部地域に限られていた。ボリシェヴィキは、その支配地域だけでも、なんとしても治安の回復を急ぎたかった。

 ――ドイツにおいては、革命組織スパルタクス団を母体としてドイツ共産党が創設され、一月蜂起と呼ばれる闘争が行なわれていたが、国防軍の残党や右翼勢力の襲撃に遭い、政府によって鎮圧された。このとき虐殺された同党の指導者のひとり、ローザ・ルクセンブルク女史は、かつてジェルジンスキーが所属していたポーランド・リトアニア社会民主党の執行部にいたことがあったが、前衛党論と呼ばれるレーニンの理論、またボリシェヴィキによる憲法制定議会の解散の行為等を批判、ボリシェヴィキが新たな独裁を生むだろうと警告を発してもいた――。

 二月、エスエル左派の党員二百余名が一斉検挙、逮捕された。そのなかには、あのマリア・スピリドーノヴァの姿もあった――彼女は脱走し、ボリシェヴィキ、特にヴェーチェーカーを強く非難しつづけていた。

 国内――前述のように限られた範囲――の引き締めを強める一方、対外的には「国際的な」政策もとった。三月、ボリシェヴィキ主導のもと、第二インターナショナルにつづく共産主義者の国際組織がモスクワで結成。これは「第三インターナショナル」、また「共産主義インターナショナル(コムニスチーチェスキイ・インテルナツィオナール)」の略称として「コミンテルン」と呼ばれた。


 ロシアの春の始まりは、泥濘の季節でもある。同じ三月、ボリシェヴィキ統制下の都市部でも、支持基盤、すなわち頼みの綱である労働者たちによるストライキが始まっていた。トゥーラ、ブリャンスク、そして旧首都ペトログラード‥‥。そのような厳しく、かつ矛盾に溢れた情勢のなか、下旬、第八回党大会が開かれた。その中央委員会総会において、十月革命以来その機能を停止していた政治局がついに再建されることになった。正局員の他、局員候補も選ばれることになった。前者には、レーニン、トロツキー、カーメネフ、スターリン、そしてニコライ・クレスチンスキーという人物が選ばれた。後者には、ジノヴィエフ、ブハーリン、そしてミハイル・カリーニンという人物が選ばれた。

 スターリンは、このカリーニンという人物に着目した。ミハイル・イワノヴィチ・カリーニン。スターリンより上、レーニンよりは下の、一八七五年生まれ。農民の子から工員となり、運動に参加、一八九八年に社会民主労働党に入党。一九〇三年のメンシェヴィキとの分裂ではボリシェヴィキに加わり、ここまで来ていた。人の意見によく耳を傾け、若い世代とレーニンとの橋渡し役といったところであった。レーニンも、彼の――彼を通して語られる党員の話には、よく耳を傾けた。人を遠ざけず、敵が少なかった(これは、特にボリシェヴィキ内において、大きな特質――美点といってもよかった)。スターリンは、積極的に彼にアプローチした。隠れ蓑にはうってつけの、無害な人物であったのだ。レーニンよりは若いが、激動の日々に疲れていたのか、ともするとレーニンより齢を食っているようにも見えた。

「同志レーニン、少し‥‥」

 同志スターリンに厳格すぎるのではないか――と、とりなしてくれることもあった。レーニンも、カリーニンに言われると、気が鎮まるようだった。無害な人物、というのは、己の才を信じてやまないトロツキー、ブハーリンのような人間には、どうでもいい存在であった。そのことに気づいたスターリンは、ひそかにこのカリーニンを推した。レーニン、カーメネフ、ジノヴィエフらにも異論はなかった。

「適役だと、私も思う」

 レーニンも述べた。ミハイル・カリーニンは、全露中執委の議長に選出された。

 そして四月。一〇日、ウクライナで、マフノ運動の第三回大会が開かれた。マフノ運動とは、対独パルチザン出身のネストル・マフノなるアナキストを中心とする運動で、反ボリシェヴィキ――特にヴェーチェーカーの行動と食料統制に対して――を掲げていたが、ツァーリの旧体制への反対も掲げ、他の白軍、ウクライナ民族主義勢力とも一線を画していた。その擁する軍事部隊は赤軍、白軍に対し、アナキストらしく「黒軍」と呼ばれ、異彩を放っていた。前年一二月には赤軍と共同戦線を張り、ウクライナの元中央ラーダ政府のメンバー、シモン・ペトリューラという民族主義者が率いる政権軍と闘い、この二月の赤軍によるウクライナ制圧を助けたばかりの、元友軍であった。このマフノ運動は、広くウクライナ農民の心を掴み、拡がる気配を見せていた。

 翌一一日、全露中執委は、各県への強制労働収容所の設置を決定した。ボリシェヴィキは、一歩たりとも退くわけにはいかないのだ。国内においてはもちろん、国外に対しても。前月発足させた国際組織コミンテルン――「第三インターナショナル」――であるが、この一三日、外国の社会主義・共産主義勢力(政党)、労働運動への資金援助が、外務人民委員部に代わりここに移管された。ドイツ、オーストリアでは革命が起きた。ロシアは混乱の極みにあるが、他国でも革命の可能性があるならば、それに賭けるべきなのだ。そのことを、誰よりも強く願っているのは、他ならぬウラジーミル・レーニンであった。

 この四月、スターリンはナジェージダ・アリルーエワと結婚した。彼にとって、二度目の結婚であった。披露宴はクレムリン宮殿で催され、スターリンはグルジア民謡のレコードをかけさせ、党の面々を前に、グルジアの仲間たちとダンスを踊ってみせた。グルジア・ダンスは、バレエ・ダンス等と異なり、男はかかとをかなり小刻みに動かす――靴底は鳴らさない。これはなかなか難しく、ヨシフ・スターリンは神妙な顔つきでやっていた。女性のほうも難しい――ナジェージダも、なかなかの足さばきを見せていた。

「おめでとう、コーバ」

 踊り終わった彼に、ニコライ・ブハーリンが握手を求めてきた。ブハーリンとは、あのフェアリーとの最初の邂逅――あれからすぐ脱走していた――の後、出会っていた。あのときも、このブハーリンは、自分にとって重要人物であると聞いていた。そして、この結婚を決めた直後にもあの妖精は久しぶりに彼の前に現れ、同じことを告げたのだった。レーニンとトロツキーをゾーヤに会わせたことの交換条件というのが、この情報だということであった。それはスターリンを拍子抜けさせ、また、フェアリーは彼らとゾーヤが何を話したのか、決して言おうとしなかったから、スターリンは怒り、フェアリーを乱暴に追い払った。そしてそのために、妖精が話す前からその小さな顔を当惑に歪めていたことに、気がつかなかった。いずれにせよ、もうあの婆あの御託宣など無くてもやってゆける、そんな自信が彼のうちに湧きあがってきていた。あの、レーニン狙撃事件以降――‥‥。

「いや、今日はヨシフ・ジュガヴィリ、かな」

 スターリンのそんな事情など知る由もないニコライ・ブハーリンは、あくまで気安げな調子であった。

「‥‥――スターリンと呼んでくれ」

 息を整えていたスターリンは、この若き理論家の誤りを訂正することなく、言った。

「公私ともに、だ」

 聡明なるニコライ・ブハーリンも、目の前の男の真意に気づけなかった。

「そのために改名したんだ。――われわれは皆、骨の髄までボリシェヴィキなのだから」

 ヨシフ・スターリンの語気がやや荒かったのは、踊り疲れたからだけではなかった。

「――俺のこの名はよく、同志レーニンを真似たと言われるが‥‥」

 これは本当のことであったが、スターリンは心にもないお世辞とともに、嘘をつくことにした。

「実は、君の真似なんだ。君を心から尊敬している――同志よ」

 強盗の経験もあるちんぴら活動家あがりのヨシフ・スターリンと、党の若き理論家ニコライ・ブハーリン。ふたりの男は、固く抱擁した。そのちぐはぐなやりとりを、新婦ナジェージダは怪訝な表情で見ていた‥‥。

 気を利かせた誰かがかけたらしい、新郎お気に入りのグルジア民謡「スリコ」のレコードの調べが、宴席に流れ出した。


 五月一日、メーデーにおけるモスクワ・赤の広場での演説で、ウラジーミル・イリイチ・レーニンは叫んだ。

「国際ソビエト共和国万歳――!」

 単数形の「国際ソビエト共和国」なるものが何を指すのかについては、党内のそこかしこで議論が行なわれたが、はっきりしているのは、彼、レーニンには進むべき途が見えているようだということだった。

 この赤の広場ではまた、赤軍のパレードも行なわれた。このパレードでは、一輌の戦車が多くの兵士・部隊に交じって登場し、衆目を引いた。これは、この年の初め、フランス共和国が白衛軍支援のために譲渡していたルノーFT戦車の一輌を赤軍が捕獲、モスクワのレーニンのもとに送ったものを塗りかえたものだった。「戦車(タンク)」は、欧州大戦において登場し、急速に発達した兵器のひとつであり、この鹵獲の一輌を目にしたレーニンは強い関心を示した。軍人や解析にあたろうとしていた技師たちが驚くほど細部まで入念に観察し、手で車体に触れ、ついには操縦席にまで乗り込み、出て来るや否や、その場でこの新兵器のコピー生産を命じていた。

 欧州大戦において、帝政ロシア軍も、その名も「戦車のツァーリ」という兵器の開発を試みてはいた。それは、直径実に九メートルという巨大な二輪を二五〇馬力のガソリン・エンジンによって駆動させるという、実質的にも見た目にも西側の「戦車(タンク)」とは異質の兵器であり、試験(テスト)も行なわれていたが、その結果は、「溝にはまって動けなくなった」というものであった。

 ちなみに帝政ロシア軍は、中世ロシアの伝説上の英雄の名を冠した「イリヤー・ムーロミェツ(ムーロムのイリヤー)」という四発(発動機を四機搭載)の爆撃機も開発している。全長は一八メートルを、全幅は三四メートルを超えるという、当時の基準では怪物のような巨人機であった。こちらはいちおうの成功を収め、約八〇機が製作され、この内戦中にボリシェヴィキを始め各派が運用している。

 「南ロシア軍」は、ボリシェヴィキに南方から軍事的脅威を与えつづけていた。彼らは西側諸国の「支援」も取りつけることに成功し、モスクワへ進撃する構えすら見せた。そして五月、今度は北西方面からユデーニチ軍がペトログラードめざして進撃してきた。五月なかばからグドフ(グドーフ)、ヤーンブルク、プスコフと占領し、さらにルーガ(ルガ)、ロープシャ、ガッチナに迫った。この軍事的成功によって、ユデーニチは二四日、ヘルシンキにおいて「北西ロシア政府」の成立を宣言した。これはユデーニチの独裁政府である。六月に入り、コルチャークは正式に彼をこの地域の軍総司令官に任命し、ユデーニチ軍はこの地域の「北西軍」へ統合された。しかし、赤軍の反攻が開始され、彼の軍は敗北を喫した。ユデーニチはマンネルヘイムとの協同作戦を望んだが、フィンランド独立をコルチャークとデニーキンが拒んだために、幻となった。これは単に彼の軍事的敗北にとどまらず、反ボリシェヴィキの点では一致する「白軍」の見解――構想――の大きな不一致をさらけ出すことになった。ユデーニチを「支持」してきたイギリスは巧みに方針転換し、この北西ロシア政府に代わり「政治会議」なるものを主導した。この会議はエストニアの主権を確認した上で、カデット、エスエル、メンシェヴィキらが参加した。ニコライ・ユデーニチは軍大臣として、軍事面に限定した役割を負うようになった。

 訣別の夏が訪れた。七月九日、ボリシェヴィキ中央委員会は党員に向け、カデット、エスエル、そしてメンシェヴィキの摘発を呼びかけた――後にはもちろんヴェーチェーカーによる逮捕が続く。英軍の支援を受けペトログラードに脅威を与える「政治会議」への参加は、もはや看過できるものではなかった。反ツァーリ専制、反資本主義、あるいはマルクス主義の路線は共有していた彼らであるが、もはや共闘は不可能と、中央委員会とレーニン以下指導層は判断したのだ。

 各地、特にウクライナではマフノ運動の影響もあり、農民の反乱が相次いでいた。八月に入り、一日、帝国の消滅によって成立していたハンガリー・ソビエト共和国が国内の反対勢力の蜂起、ルーマニア軍の介入により崩壊、ボリシェヴィキは国外の基盤のひとつを失った。一方、一五日、はるか東方モンゴルに、白軍や中華民国の隙に乗じて、赤軍が侵攻した。

 八月二六日、レーニンは「プラウダ」紙上において、エスエルとメンシェヴィキを「白軍、地主、資本家の共犯、従僕」であると、あらためて強く批判した。それは、彼らに対してというよりは、党員、特にヴェーチェーカー構成員に対する強いメッセージとして機能した。


 この年の九月は、ボリシェヴィキにとり危機が再び高まった月であった。西方のユデーニチが、再度挑戦してきたのだ。彼は、前回の敗退――と彼にとってはその後の没落――を巻き返すべく、イギリス製戦車数台を伴うおよそ一八五〇〇名の部隊を率い、エストニアのナルヴァから発進し、再びヤーンブルク、そしてガッチナと東進してきた。赤軍部隊をペトログラード近郊まで押し込んだ。同じエストニアから南東にも軍を進め、やはり再びグドフを落とし、ルーガも占領した。イギリスとフランスの海軍が、彼の部隊をフィンランド湾から支援した。その先鋒隊は、フィンランド湾の奥深く、やはりペトログラードのすぐ間近、クロンシュタットとセストレツクの間のあたりにまで迫っていた。ペトログラード陥落は、現実味を帯びていた。しかし、ユデーニチ軍は鉄道――ペトログラード、トスノ、そしてモスクワを結ぶ――を、ぎりぎりのところまで迫りながら切断することができなかった。そのため赤軍の側は、軍事人民委員レフ・トロツキーの列車を、ペトログラードの「モスクワ」駅に滑り込ませることができた。

 トロツキーはプラットホームに降り立った瞬間から、出迎えた赤軍指揮官たちに明解な指示を出し始めた。指揮官たちの顔つきが変わった。指示、報告、また指示‥‥ペトログラードは、モスクワ駅を起点として熱狂に包まれていった。それは、この都市における二年半前(遠い昔のようであった)の出来事――レーニンのフィンランド駅到着を思わせた。トロツキーによって再編成されたペトログラード防衛軍は、反抗作戦に転じた。

 ウクライナの首都キエフは、デニーキン軍に占領されていた。これは、ボリシェヴィキのみならず、ウクライナの愛国者たちにとっても「占領」であった。デニーキンは大ロシア主義者であり、ウクライナやポーランドの独立を認めていなかったのである‥‥。ウクライナの愛国者たちは、彼の軍と共闘することはできなかった。

 ――九月二五日、モスクワにおいて党委員会の建物が爆破され、第一書記を始め一二名が犠牲となった。これを白軍側諸勢力のいずれかによる仕業と考えたジェルジンスキーは、直ちに投獄中の貴族やカデット党員らを銃殺したが、捜査が進むにつれ、彼らとは関係のないアナキストの手によるものと判明した。しかしこのことは、指揮官としてのジェルジンスキー、捜査に対するヴェーチェーカーの能力への疑問符よりも、尚一層の追い風を呼び寄せた。結局、この組織に拠ってしか時局は開けないことは、党員たちも認めていたのだ。翌二六日、党中央委員会総会席上において、ジェルジンスキーは、「大量の赤色テロを行なう」という旨の宣言をするという提案を行なった。同提案は否決されたが、ヴェーチェーカーがそれを行なうことは暗黙裡に認めた。

 赤軍は南部方面軍の大増強を行ない、一〇月二〇日にはオリョールを奪還した。これらの戦闘で、ブジョーンヌイの騎兵隊の優秀さが証明された。二四日にはヴォロネジ、一一月一七日にはクルスクを奪還した。ペトログラードから反抗作戦を開始した赤軍部隊も、ユデーニチ軍を駆逐し進撃、彼らを逆にエストニアへと押し戻した。トロツキーの功績は大であった。

 一一月三〇日、労農国防会議という機関が設置された。国内経済のすべての部門を軍事――すなわちトロツキーの赤軍――に振り向けることを目的としており、初代議長にはレーニン自らが就任した。これは(警察部門におけるレーニン‐ジェルジンスキーのラインの確かさとともに)軍事面でのレーニン‐トロツキーのラインの強化を党内に印象づけた。スターリンが、面白いはずもなかった。しかし、彼は発見した。中央委員会はともかく、その上に立つ(そして自分も所属する)政治局内に、うっすらと同様の感が漂うことに。つまり、同志の萌芽を。カーメネフ、ジノヴィエフ――そしてカリーニン‥‥。この芽を育てるには繊細さが大事だということは、大小様々の政治以外の面ではおよそ繊細さなどとは無縁の彼にも痛感できた。いろいろなことを、学ぶ必要があると‥‥。「幼な子たる革命をなんとしても守り抜く――」というレーニンの言が、理解できたように思った。自分は政治局、すなわちボリシェヴィキのトップの座に、それも正局員として加わっているのだ。軽率な行動は慎まねば危険だ。そんな思いもあった。

 そして、これはスターリン自身意外なことに、学ぶ作業は楽しくもあった。カーメネフ、ジノヴィエフとはあらためて、そしてカリーニンとは徐々に、親交を深めていった。目を凝らせば、この三人に加え、ニコライ・ブハーリンもトロツキーをライバル視しているようだった。味方とはいえないが、敵ではない。自分とはまた違う意味で人当たりのよい、このインテリゲンツィヤの若僧(としか彼の目には映っていなかった)も、スターリンはいまひとつ好きにはなれなかった――局員候補として政治局に加わり、政治的野心を露わにし始めた最近は特に(もっとも、ブハーリンの野心の中身はスターリンの想像とはかけ離れていたが)。とはいえ、あのフェアリーの――ゾーヤのメッセージも、彼の心のどこかにあったから、彼とは仲良くしようと思い、親交を深めることにした――好きになる努力をした。――とにかく、トロツキーよりはましであった。そして、自分の息のかかった者たち、有能な軍人として赤軍内に確たる地位を築きつつあるブジョーンヌイは別として、明らかに自分からおこぼれ――政治的地位――を得ようと追従してくる、ヴォロシーロフをはじめとする、息が合う男たち‥‥。彼らをこの栄えある政治局に引っぱり上げ、そのことによって自らもまた政治的基盤を固めようと、ひそかに野心を燃やしていた。そのためには、いまは待たねばならない。革命の英雄・トロツキーの人気は政治局以外では依然として高かったし、レーニン‐トロツキーのラインは極めて強力であった。そして、政治的野心こそ見せてはいないが、ヴェーチェーカーを率い、レーニンに無限の忠誠を誓うジェルジンスキーの存在もある。いまは味方をひとりでも多くつくることが肝要であり、反トロツキーの狼煙を上げることは危険だと、スターリンのアンテナは鋭敏に捉えていた。

 ――一二月五日、第七回全ロシア・ソビエト大会が開催された。


 トロツキーが各地を駆け巡っている間にも、赤軍は徴兵によって大きくなり、徐々にだが力をつけていった。装甲列車の有用性は、レーニン以下ボリシェヴィキ首脳も理解するところとなり、これまでの帝政軍の鹵獲車両の他に、新たな生産も開始されていた。装甲列車第6号、その名も「レーニン」が、この年、ペトログラード・プチロフ工場で生産された。七八・二ミリの野砲を前後に構える砲車を先頭とした、全車が装甲版に覆われたその威容には、赤軍将兵のみならず、党幹部、ペトログラード市民も目を見張った。

 一方、ウクライナにおける土地政策とドン・コサックに対するボリシェヴィキ政権の方針は、少し転換した。ソビエト政権はマフノ軍に象徴されるウクライナ農民パルチザンの力の大きさを、認めざるを得なかった。マフノ軍はデニーキン軍と闘い、デニーキンの本営近くにまで迫っていたのである。赤軍の進撃は続き、「南ロシア軍」は一〇月末にはバラバラになった。一一月には、彼らの戦線自体が崩壊した。赤軍所属の「ブルジョア専門家」、すなわち旧帝政軍の将校たちは、戦争のプロとして、この赤軍の進撃を大いに助けた。彼らの人数は、いまや五万人に達しようとしていた。戦争のプロである彼らは、勝敗をよく見ていた――混沌だけが支配するような世の中では、誰しも勝ち馬に乗りたがるものだ。

 一九一八年と一九一九年だけで、ボリシェヴィキにより「反革命罪」に問われた人々は一二万人以上に及び、うち少なくとも九千六百余名が処刑され、三万六千人以上が収容所等に拘禁されたという‥‥。イギリスの軍需相であるウィンストン・チャーチルという人物は、「虎とライオンをすべて打ち負かした後で」と、中央同盟国に対する勝利の後も、ロシアへの干渉戦争を継続したい心情を述べている。

「ヒヒに負けるのは嫌だ」

 しかし、「ロシア」――旧帝政ロシア地域――の混沌は、そんな片意地をすっかり飲み込んでしまっていた。あるイギリス軍将校は、「軍服はそれを着た白軍兵士ともども、一度に数千も赤軍の手に渡った」と嘆いた。キエフは、十数回占領者が変わった――これは極端な例であるが、各地で似たようなことが起きた。赤軍が来て教会を穀物倉庫として接収し、白軍が来てそこで賛美歌の式典を開き、また赤軍が来て今度は教会を破壊した。異なる通貨が幾つも発行された。旧帝政軍の、また西側列強各国の兵器が、入り乱れた。両陣営が同じ小銃で撃ちあう光景は頻繁に見られ、同じ部隊で異なる規格の武器が用いられることも珍しくなかった。直接の戦禍、両陣営からの脱走兵たちの強盗、そして食物不足‥‥各地の人々、特に農民たちは苦しめられた。ヴォルガ地方の農民のなかには、すっかり混乱し、「ボリシェヴィキ万歳、共産主義者打倒」の旗を掲げて立ち上がる者たちもいた。またカール・マルクスをしばしば「マルス」と呼び、「レーニンと同一人」と捉えていた農民も少なくなかった。

 一九一九年の末までに、東方のオムスク政権も、事実上崩壊していた。アレクサンドル・コルチャークはシベリア方面へ逃亡を図るが、シベリアではボリシェヴィキ側の労働者とパルチザンによる蜂起が起こっていた。彼はチェコスロバキア軍団の裏切りに遭い、捕縛され、赤軍へ引き渡されてしまった。そして、一九二〇年二月、イルクーツクのボリシェヴィキ軍事革命委員会により、アンガラ川のほとりで銃殺刑に処された。南部でも、この年二月から三月にかけてデニーキン軍の主力が赤軍により粉砕された。アントーン・デニーキンは南へ向かい、仲が悪かったピョートル・ヴラーンゲリ将軍に全権を委譲した後、同じ年の春、イギリス海軍の戦艦でロシアを逃れた。デニーキン軍は兵士に食糧の持参を要求しており、兵士たちは当然のように農民から略奪を繰り返していた。彼らが通過した地域の住民が彼らを憎むようになったことは、ヴラーンゲリ将軍も率直に認めている。

 黒海のオデッサ港では、イギリス軍の兵士も大勢取り残されて死んだ。婦女子優先の原則を、彼らの海軍将校が強制したためであるが‥‥。ドン・コサック軍は、陸路でトルコ方面へと脱出していった。このドン軍の母体となったドン・コサックであるが、ボリシェヴィキはこの「少数民族」自体も許さなかった。母なる大地に残った彼らは、迫害されてゆくことになる――。

 この時期、多くの人々の命を奪ったのは、内戦やヴェーチェーカーだけではない。大戦末期から、米国発の「スペイン風邪」というインフルエンザが、船舶を伝い世界的に流行していた。この死神は「ロシア」の大地でも猛威を奮い、内戦と食料統制に苦しめられていた人々に追い討ちをかけるように徘徊し、多くの死者を出した。世界中では、これも大戦による死者と合わせ、四千万人から五千万人が命を奪われた。

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