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フェアリー・テール  作者: 田中 鉄也
第一部 スターリン
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2.内戦 ~カオス~(1)

赤軍の誕生。

 激動の一九一七年が過ぎ、新たな年が始まった。難問が山積していることは、誰の目にも明らかだった。ボリシェヴィキの指導者、レーニンの目にも。そのことが、彼の脳裏から、老婆との邂逅を忘れさせていった(トロツキーはとっくに忘れていた)。トロツキーとコーバの、取るに足りない不仲ぶりも‥‥。

 一九一八年も、ロシアの政治的地鳴りが止むことはなかった。それどころか、ますます激しさを増し、すべてを崩壊させるようにも見えた。路上も、権力の中枢も、混沌としていた。年明け早々の一月五日、憲法制定議会が召集され、大都市ペトログラードとモスクワではこれを擁護するデモが行なわれたが、鎮圧を受け、多数の死傷者が出た。議員七一五名のうち、四一〇名が出席、ボリシェヴィキは「勤労被搾取人民の権利の宣言」を提案したが、一三六票対二三七票で否決、ボリシェヴィキとエスエル左派の議員一五五名は退場した。未明には衛兵も去り、仕方なく会議は、国名――「ロシア民主連邦共和国」――など、基本的な事柄を採択しただけで、解散してしまった。各派を支持する都市部の労働者の熱気は本物だったが、支持を受ける者たちは、迷い、惑い、疲れていた。

 ボリシェヴィキ――レーニンは、気を吐いていた。

「われわれは内戦を辞さず、如何ようなことがあろうともソビエト権力は渡さない」

 そう、演説した。ボリシェヴィキは赤衛隊を、そして産声をあげたばかりのヴェーチェーカーを有していた。八日、ヨーロッパ・ロシア南西部に位置するヴォルガ河畔の要衝地サマーラに、ボリシェヴィキの強硬姿勢に反対する憲法制定議会の議員たちが集結しつつある、との報が入った。ボリシェヴィキは一二日、先の「勤労被搾取人民の権利の宣言」を行ない、十月革命とソビエトの存在を強く宣言、ロシア及び世界各国での社会主義の勝利を任務とすると、国内、そして国外へ力強くアピールした。もう、引き返すことはできなかった。一五日、人民委員会議は、それまでにあった赤衛隊を基に、正式な軍隊としての「労働者・農民赤軍」(赤軍、赤衛軍)の創設を正式に布告した。最高司令官は、レフ・ダヴィードヴィチ・トロツキー。この新しい軍隊の制服や制帽のデザインは公募され、制帽には天辺が尖った特徴あるものが採用された。

 フィンランドにおいても、白衛軍と赤衛軍の戦争(フィンランド内戦)が始まっていた。両者は、それぞれドイツ帝国とボリシェヴィキに支援を仰いだ。二月に入り、こよみがユリウス暦からグレゴリオ暦に改められた。一日から一三日までがすっ飛ばされ、ためにこの年の二月は極端に短くなった。前年の二月革命は三月革命に、十月革命は十一月革命ということになったが、呼称は両者が併用された。

 西方のウクライナでは、別の事態が進行していた。前年の十月革命でボリシェヴィキと共闘して臨時政府派を追い出した中央ラーダ(ソビエト)政府が、「ウクライナ国民共和国」の成立、すなわち独立を宣言していた。同共和国はボリシェヴィキに叛旗を翻し、軍事面ではこの赤軍の侵攻、政治面においては外務人民委員トロツキーらの妨害工作にも関わらず、交戦していたドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー二重帝国、オスマン帝国、ブルガリア王国(まとめて中央同盟国と呼ぶ)と独自に講和を結んだ。それは、彼らがそのまま、ボリシェヴィキ――ロシアの敵となることを意味した。同共和国は「ウクライナ人民共和国」とも呼ばれるが、同国北東部の都市ハルキウ(ハリコフ)に、ボリシェヴィキは同名の親ボリシェヴィキ政府を組織していた――これは「ソビエト派ウクライナ人民共和国」とも呼ばれる――これとの区別のために、この呼称を用いる。中央同盟国とウクライナ国民共和国の合同軍は、ウクライナ、バルト海沿岸を占領、いまや名にしおうドイツ艦隊が、ペトログラードを目指そうとしていた。トロツキーは外務人民委員の職を辞し、以降は軍事人民委員、最高軍事会議議長として労働者・農民赤軍――赤軍の戦力整備を進めることになる。ドイツ、オーストリア=ハンガリーをはじめ、期待するヨーロッパの労働者らの蜂起は起こらず、ボリシェヴィキは外交面でも追い込まれていた。三月三日、ボリシェヴィキ内部の反対論も抑え、レーニンは決断した。国内の政治、経済の大混乱を抱えながらの対外戦争は、不可能だった。巻き返しを胸に‥‥。

 ボリシェヴィキ指揮下のロシア共和国政府とソビエト派ウクライナ人民共和国政府が、中央同盟国と講和を果たした。これによりロシアは、欧州大戦から離脱することができた。しかし、ヨーロッパ方面においてはフィンランド、エストニア、ラトビア、リトアニア、ポーランド、ウクライナを、トルコ方面ではアルダハン、カルス、バトゥミ‥‥と、広大な地を失うことになった。この年の二月と三月のこのふたつの講和は、どちらも「ブレスト・リトフスク条約」という名だったが、後の中央ラーダ政府の消滅、ソビエトの巻き返しによるウクライナ併呑等々、その後の世界の政治状況により、後者のほうがよく知られている。これは英断であったが、ボリシェヴィキ――レーニンは、あらゆる政治的立場、階級から、激しい批難にさらされた。ボリシェヴィキ組織も大きく動揺した。

(馬鹿どもめが‥‥!)

 レーニンは、怒りに眩暈を覚えながら、歯ぎしりした。

「いまはこれしかないのだ‥‥! これしか! 方法が!」

 声に出し、黒檀のデスクを拳で何度も叩いた。

「お気持ちはわかります、同志」

 まったく同じことを、ジェルジンスキーとコーバが言った。そしてふたりとも、より一層強い結束を、とレーニンの手を強く握った。

 また、ボリシェヴィキはこの月「ロシア共産党」と改名したが、メンシェヴィキ等の他党派が依然多数存在するなか、「ボリシェヴィキ」の呼称は使われつづけた。欧州方面からの軍事的脅威は、なお予想された。これに対応すべく、ペトログラードから内陸部のモスクワへと、首都機能の移転が始められた。そのモスクワの、城壁に囲まれた巨大なクレムリン宮殿に、政府機能の中枢が置かれることになる‥‥。

 四月、組織を拡充したヴェーチェーカーが、その本領を発揮し始めた。革命の敵となる存在は根絶やしにしなければならぬ。レーニンを後ろ盾とするジェルジンスキーに迷いはなくチェーカー員(チェキスト)たちは熱心に働いた。一一日から一二日にかけて、まずモスクワでアナキストたちが一斉に検挙され、およそ四十人が射殺、そしておよそ五百人が逮捕された。二三日には、ペトログラードで同じことが行なわれた。

 五月。――小ブルジョア的動揺に対する――「鉄の規律と徹底的なプロレタリアート独裁」‥‥。初旬、全ロシア中央執行委員会(全露中執委)は、各県、郡、号の代表ソビエトと、その全構成員へ、このように命令した。フィンランドでは、カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム率いる白衛軍が赤衛軍に勝利、真の独立を勝ち取っていた。下旬‥‥。ヨーロッパ・ロシア東部、ウラル東麓の都市チェリャビンスク(チェリャービンスク)でも、事件が起こった。チェコスロバキア軍団(チェコ軍団)が、反乱を起こしたのである。

 チェコスロバキア軍団とは、帝政ロシアのもと、元々ロシアに住んでいたチェコ人とスロバキア人、そして大戦で捕虜となったチェコスロバキア軍人たちで編成された、オーストリア=ハンガリー二重帝国――ハプスブルグ支配体制――からの独立を目的とする、およそ四万からなる軍事部隊であった。同軍団とボリシェヴィキとの間に大きな利害関係はなく、十月革命後、ソビエト政府と彼らとの間で、シベリア鉄道で東へ向かい、ウラジオストクを経由してこのロシアの地を去る、という手はずになっていた。そのためにシベリア鉄道の起点チェリャビンスクに集まっていたのだが、つまらぬいざこざから騒ぎが起こり、それが拡大してしまった。そして五月二五日、武装解除命令を拒否して、逆にこのチェリャビンスクを制圧してしまったのであった。これは大失策であった。軍団は鉄道を利用して移動、ヨーロッパ・ロシア東部を駆け巡り、五月のうちにペンザ、トムスクといった諸都市を武装占拠してしまったのである。そして六月八日には、サマーラ(サマラ)に入った。これに、すでに現地で活動していたエスエル、メンシェヴィキの憲法制定議会の議員たちが乗った。彼らは同軍団を支えに、サマーラに、

法制定議会議員委員会コムーチという名の事実上の独立政府を樹立するという挙に出たのである。この委員会は、ボリシェヴィキのソビエトを解散、サマーラ県、レーニン生地のシンビルスク県をはじめ、サラトフ、カザン、ウファ県の一部等、ヨーロッパ・ロシア東部の周辺地域を実効支配していった。

 ウラルのさらに東方、シベリアでも動きが起こっていた。シベリア西南部に位置する都市オムスクに、旧帝政支持勢力、シベリア自治を求める人々、憲法制定議会議員らが臨時シベリア政府なるものを立ち上げた。また、はるか東方・極東は沿海州のウラジオストクでも、先遣隊を上陸させていた日本とイギリスの陸戦隊、そしてこのチェコスロバキア軍団の軍事力を背景として、メンシェヴィキとエスエルが同市の議会の実権を掌握したのである。そしてこの「ロシア奥地に取り残された」同軍団の「救出」が、帝国列強による干渉――本格的なロシア侵攻――の格好の口実とされてしまったのである。

 ゾーヤの予言が現実のものとなっていた。ボリシェヴィキは戦いつづけた。本気であることを示さねばならない。今度は、ロシア帝政と(人々ともだが)結びついていた正教がターゲットとされた。一六日、ボーリスクで、エルモーゲン主教らを処刑した。方法は、溺死だった。ボリシェヴィキにより、各地で至聖三者のイコン(聖像)、十字架、八端十字架が破壊・焼却された。

 七月。モスクワのボリショイ劇場において、第五回ソビエト大会が開催された。憲法制定議会委員会を無視したボリシェヴィキの事実上の独裁、農業政策、ヴェーチェーカーの行動、対独講和(ブレスト・リトフスク条約)等について、エスエル左派を中心に厳しい批判が寄せられた。同派を率いるマリア・スピリドーノヴァは、レーニンを激しくなじる演説を行なった。まだ三十代なかばであったこの女性の、帝政時代の官憲との激しい直接的闘争は、なかば伝説的な逸話となっており、ボリシェヴィキ内でもよく知られていた。彼女の演説は、ボリショイ劇場に響きわたった。そしてまた、そこかしこに陣取ったエスエル構成員たちから、ありとあらゆる批判、非難、罵声が、レーニンと、そして隣に座るトロツキーに浴びせ掛けられた。

「裏切者‥‥!」

「軍国主義者‥‥!」

「ナポレオン主義!」

「ケレンスキー!」

 ボリシェヴィキ構成員たちは、その迫力に押され、うまい具合に反撃できないでいた。ボリシェヴィキ内にもこれらに関しては意見が分かれており、なかなか統一が取れていなかったのだ。レーニンは、この弾劾を黙って聞いていた。彼女の批判は的を得ているようでもあり、砲火の矛先は主にレーニンに向けられていたが、トロツキーのほうが平静を保てなかった。常とする強気の雄弁家の表情(かお)を保てず、何度も眼鏡を直し、そわそわと体を動かし、隣の男の様子をちらちらと窺わざるを得なかった。

 しかしレーニンは、そんなトロツキーには一瞥もくれず、指を顎の下で組み合わせ、真っ直ぐにスピリドーノヴァを見つめていた。トロツキーは驚いた。ウラジーミル・レーニンは、動じるどころか、その口元に笑みさえ浮かべていたのだ‥‥。

 結局、大会は何の結論も出さぬまま散会した。

「同志レーニン!」

「レーニン‥‥!」

「‥‥私たちを導いてください――!」

 敗北感に打ちのめされたボリシェヴィキ構成員たちは口々に叫びつつ、レーニンにすがりつくようにして劇場を後にするほかなかった。――トロツキーさえも‥‥。

 ことはそれだけでは済まなかった。開催中に事件が発生していた。ふたりのエスエル構成員が、在露ドイツ大使を暗殺したのである。ドイツの挑発が狙いだった。同時に、エスエル左派は蜂起を呼びかけ、武装した同派の構成員がヴェーチェーカーの建物を襲撃、これを占拠、ジェルジンスキーらが捕らえられる、という事態が起こった。レーニンは冷静だった。ドイツ軍に動く気配があるかどうか、前線部隊に入念に確認・報告させ、どうやら報復攻撃がなさそうだと見て取ると、混乱していたヴェーチェーカーに直接下命、蜂起を鎮圧させた。ドイツに対しては自ら個人的な謝罪を行ない、また武装部隊を突入させジェルジンスキーらを解放、同時にエスエル左派の摘発を行なわせ、逆にスピリドーノヴァらを逮捕してみせた。

 頼みとする労働者、農民の間にも、叛旗を翻す者たちが現われていた。一四日、トゥーラ県において、農民の大規模反乱が起こった。これは「緑の反乱」と呼ばれた。レーニンは、正教とともにもうひとつの旧体制の象徴――というより旧体制そのものであったもの――の抹殺を決定した。旧皇帝(ツァーリ)とその家族である。一家は、十月革命後、ウラル地方はエカテリンブルク(エカチェリンブルク)へ移送され、監禁生活を送っていた。そのエカテリンブルクに、白軍が接近していた。白軍がツァーリの身柄を確保すれば、錦の御旗にする――あるいはツァーリ自らが白軍を指揮するか――いずれにせよ、十月革命の意義そのものが揺るがされかねない。ロシアの農民のなかには、ツァーリが復活したとなれば、それを支持するのが当然だ――との「信仰」が根強いことも、レーニンはよく承知していた。一七日、レーニンの命により、殺害命令を受けたヴェーチェーカー次席の指揮する特別部隊が同地へ派遣され、元ツァーリ一家らを銃殺した。

 トロツキーはこの決定に際し、旧ツァーリを裁判にかけて裁くべきであると主張していたが、レーニンはその必要はないと反論し、戻った処刑部隊に謁見し、自らその労をねぎらうことまでした。ボリシェヴィキ政権は、アレクサンドラ元皇后の出身国ドイツをはじめとする諸国の怒りを避けるため、ニコライ二世ただひとりの処刑であると発表した。

 二〇日から翌日にかけては、今度はペトログラード工場委員会の臨時会議が呼びかけた「全露労働者大会」というものが開かれた。内戦の中止、全人民の政治的権利等を求め、ボリシェヴィキの計画経済に反対の旨の声明が出された。ヴェーチェーカーは即座に対応、各地から集まった四十名の代議員を逮捕した(――労働組合の抗議もあり、後に釈放された。例外中の例外である)。

 二四日、先のサマーラ政府が、結社の自由、企業家の権利等をうたう宣言を出した。八月二日、三日には、日本帝国の「浦潮(うらじお)派遣軍」なる大部隊とアメリカ合衆国のやはり大部隊「AEF」が、共同で「シベリア出兵」を堂々と宣言した本国の指令のもと、ウラジオストクに上陸してきた。彼らは、さらに内陸部への侵攻を開始した。一方、ヨーロッパ・ロシア南方のカフカースから中央アジア一帯にかけては、イギリス連邦がこれも大部隊を展開してきていた。またヨーロッパ・ロシア北方の港湾都市ムルマンスクは、すでに西側連合国の占領下にあった。赤軍――ボリシェヴィキ――は、国内の反革命諸勢力に加えて、これら列国の強力な正規軍をも相手にせねばならなくなったのである。

 トロツキーが動いた。北西部・ヴォログダ県の軍事委員会へ指令。――反革命の弾圧、疑わしき者は集中収容所(六月四日、トロツキーが設置を命令していた)へ、略奪者は過去の業績と関わりなく銃殺せよ‥‥。

 レーニンを信用してはいたが、あの「後継者」というのは、単なる口約束にすぎない。ボリシェヴィキの求心力は(トロツキーにとっては屈辱のあの)第五回ソビエト大会以降、ますますレーニン一点に向けて集束している感があった。自分も目に見える成果をあげねばならない。そんな思いが、彼を突き動かしていた。命令を出すだけではなく、自らも文字通り動くことにした。「移動軍事人民委員部」なるものを編成したのである。十月革命後に鹵獲した帝政時代の装甲列車を、転用したものであった。

 広大な国土を有していたロシア帝国には、各地の治安維持のために装甲列車が運用され、実際に反乱の鎮圧に効果をあげていた。元は直接的な戦闘用のこれを、トロツキーは宣伝――プロパガンダに用いることを思いつき、早速、一編成を改造させたのだ。これには、書記局、印刷室、電信室、放送室、発電室が備えられていた。図書室や浴室もあり、車庫にはロールスロイスが鎮座していた。武器、弾薬、そして赤軍兵士も(一個小隊である)もちろん搭載する――しかし、主力兵器は彼、トロツキーの演説であった。

 ちなみにロシアの鉄道は、その大半が広軌を採用している。レール同士の間隔が一五二四ミリ(五フィート)ないし一五二〇ミリと、欧米で主に用いられている標準軌一四三五ミリ(四フィート八・五インチ)よりも広いのである。西部のペンザ県でも、農民反乱が起きていた。地方でのプロパガンダは、是が非でも必要なものであった。また彼は、二八日、労働者・農民赤軍――赤軍に対し、軍事人民委員命令一八号を出した。

 トロツキーがいくら檄を飛ばそうと、赤軍兵士たちの練度は低く、兵装も貧弱であった。しかし、各地の軍事的な情勢が厳しいものばかりのなか、いいニュースもモスクワに届いた。母なるヴォルガ流域まで侵攻してきたチェコスロバキア軍団を、とある若く有能な指揮官のもと、赤軍部隊が押し返し始めていた。ミハイル・トゥハチェフスキー中将。このとき、若干二十代なかば。帝政ロシアの陸軍大尉だったが、この年の四月から赤軍に加わり、たちまち才能を発揮、第1軍司令官となっていた。

 レーニンにより、スターリンは、さしあたり南西部――やはりヴォルガの流域、西河畔の街ツァリーツィン――へと派遣されていた。ナジェージダ・アリルーエワという、レーニンの元事務員であったまだ十代の女性が秘書についた。実はスターリンは、この女性、というより少女を、以前から知っていた。スターリンはかつて、ちんぴら活動家時代、やはり活動家であった彼女の父親に匿ってもらったことがあるのだ。それ以来、アリルーエフ家とは懇意にしていた。スターリンは人の名前と顔をなかなか忘れない男であったが、それでも、レーニンの執務室で彼の脇に立つ黒いひっつめ髪の若い女性が、あの女の子だとは、すぐには気づかなかった。

(ボリシェヴィキに入ったとは聞いていたが――)

 成長した彼女は、常に質素な身なりを好み、そこが第一にスターリンに敵愾心を起こさせなかった。自分のことをレーニンに逐一報告しているのではないかという疑念は、すぐに晴れた。そして第二に、政治について口うるさいことを言わなかった。(ボリシェヴィキ内に山ほどいる)インテリゲンツィヤ・タイプの女にうんざりしていたスターリンにとって、これも気に入るところとなった。第三に、これはスターリンは気がつかなかったが、彼女にはどこかグルジア的なところがあった。彼女の母親にはドイツ人とグルジア人の血が流れていたから、そのせいかもしれない‥‥。

 ナジェージダ・セルゲーヴナ・アリルーエワは、権威的な男に対して従順な女性では決してなく、むしろ激しい気性も持ち合わせている革命家の娘であったが、党とレーニンに対する絶対的な信頼が、このときの彼女に慎重で寡黙な外的人格(ペルソナ)を貼り付かせていた。彼女は、まだ若かったのだ。

 ――スターリンはツァリーツィンから、あれこれと電報をレーニンに送りまくっていた。レーニンはこの電報攻勢に音をあげ、電話でスターリンを呼び出していた。

「トゥハチェフスキー、という」

 電話口で、レーニンは声を弾ませた。といっても、モスクワやペトログラードならばともかく、ツァリーツィンのような都市では、そう簡単にはいかない。部下たちの不手際もあり、結局、繋がるのに二日かかった。

「電報のほうが速いわ」

 レーニンならずとも、愚痴りたくなるというものだ。赤軍もそうだが、ボリシェヴィキは、とにかくうまく機能しない。命令は、迅速に、正確に伝わらねばならない。しかしこの当たり前のことが、このときのボリシェヴィキ組織では、まったく成されていなかった。自然、上に立つ者、特に理想に燃え、自らの高い意識を組織の行動に反映させたいと強く願う者ほど、苛立たされ、その言動はファナティックになる。レーニンがそうだった。

(トロツキーも‥‥)

 そうなのであろう。口には出さないが、レーニンは最高指導者として、このような思いやりもできる男であった。しかし、この口に出さない点が、後に様々な問題の遠因となってゆく‥‥。

 このようなボリシェヴィキにあって、最もよく機能しているのは、ジェルジンスキー率いるヴェーチェーカーであった。無論、完璧というわけではなく、へまもしたが、ボリシェヴィキの他部門、そして赤軍と較べても、組織としてよく機能していた。少なくとも、組織の頂点に立つ彼の目には、そう映っていた。ヴェーチェーカーの仕事ぶりには、党内からも批判や苦情がないわけではなかった。やりすぎだ。人民の心が離反する、と。しかし――。

(そのように言う者は、大概は怠け者で、組織の非効率ぶりを知りながら自分では何もしない愚図どもばかりだ――)

 それがいまの、レーニンの率直な思いであった。各国で、官憲に狙われながら、必死に資金を掻き集め、未来の社会像を熱く議論してきたことは何だったのか。自分が同志とともに作りあげたボリシェヴィキという組織は、こんなものだったのか――。

 そんな思いが、レーニンをして、ヴェーチェーカーを熱烈に擁護させることになった。

「よきコミュニスト(共産主義者)はよきチェキスト(チェーカー勤務者)でもある」

 彼はこのような発言さえしたが、それはこのような背景から生まれた面もあった。各地から伝わってくる、赤軍の弱さ、脆さも、彼を失望させていた。トロツキーの力量には、信を置いていたが‥‥。そのような毎日の中での、トゥハチェフスキー軍のニュースは、彼をやや上機嫌にしていた。スターリンにそのことを伝える声も、弾んでいた。レーニンはまたスターリンを叱責する腹づもりであったから、結果としてスターリンは助かったわけだが、(スターリン)は面白くなかった。

「まぐれでしょう。まだ、完全に敵を追い出したわけでもありますまい」

 コーバ――スターリンは、できるだけ威厳を持たせようとでもいうように、重い口調で言ってよこした。

「ついこの間まで、ツァーリに忠誠を誓っていた将校です。油断なりません」

 レーニンは、顎鬚を撫でる手を止め、憮然とつぶやいていた。

「――ほーう‥‥」

 何を考えているのだこの男は。レーニンの目が、不信に光った。それが見えたわけでもないだろうが、電話口のスターリンは師の不穏な気配を感じ取ったようだった。

「――と、申す者も、同志のなかには居ります」

 彼は、取り繕うようにそう付け加えた。これは、まんざらスターリンのでまかせではなかった。革命軍は人民解放のためのパルチザンとして行動すべきであり、旧帝政軍の将校(「ブルジョア専門家」と呼ばれた)を大量に登用するのは、いかがなものか。彼らの改心は信じられるのか、よりよい条件を与えられれば、すぐにでもまた寝返るのではないか――。そんな声が党内のそこかしこから聞こえ、議論が行なわれているのも事実であった。

 事実ではあったが、レーニンには、先のヴェーチェーカーへの批判と同じように聞こえていた。理想を語るのはいい。また確かに、将来は寝返るかもしれない。しかし、ボリシェヴィキは、赤軍は、いま勝たねばならないのだ。各派各階層のあらゆる勢力が武装し、外国軍とともに、牙を剥いているのだ。だからレーニンはそういった意見に対して、そして愚痴たれのコーバに対して、「なおよいではないか。われわれとプロレタリアートに忠誠を示そうと、より軍務に励むであろう」と、けんもほろろに言った。

「それともコーバよ、おまえが赤軍部隊を率いて、彼以上の戦果をあげられるとでも?」

「‥‥‥‥」

 スターリンはスターリンで、そんなことを言うのは何処までも政治的なもので、トロツキーを叩きたいだけなのだった。そんな彼にとって、党内のこのような声は、利用すべきものであったのだ。それなりの自信があっての物言いだったのだが、しかし、彼は卑屈な調子で、ぼそぼそとつぶやいたのだった。

「同志の、(めい)とあらば‥‥」

 ヨシフ・スターリンは、自分が試されていると感じていたのだ。

「必ずや、素晴らしい戦果をあげて御覧にいれます」

 しかし、この忠実な部下そのものの矜持に対する師の返答には、冷たい皮肉の響きしかなかった。

「‥‥よく覚えておくよ、コーバ」

 ――党内的には、この「ブルジョア専門家」問題については、赤軍への党の指導力を強化する、というもっともらしい方法で決着が図られた。具体的には、政治委員(コミッサール)なるものを各部隊に配置し、部隊の思想と党への忠誠を監督し、コントロールする、というものである。


「ミハイル・トゥハチェフスキー‥‥か」

 移動軍事人民委員部――俗称はその名も「トロツキー列車」――の書記局のデスクで、レフ・トロツキーもまた、報告を受けていた。

「その調子なら、シンビルスク奪還は時間の問題だろう。われわれは、若い、よい将校を得た」

 ガタン、ガタタン。車輪が鉄路を踏みしめる単調な音と振動が、響きつづけていた。

「使えそうな男だな。会うのが楽しみだ」

 トロツキーは、眼鏡を直した。労働者・農民赤軍――赤軍は、全体としては奮わなかった。トロツキーにも、それはよくわかっていた。コミッサール(トロツキーは彼らを、「鋼鉄のコルセット」と呼んだ)も、一体、何をしているのか‥‥。締めつけが甘いのか。――無許可の退却が行なわれた場合、まず部隊のコミッサールを、次に部隊長を銃殺せよ‥‥。先に出された軍事人民委員命令一八号は、締めつけられる側の赤軍の将兵に配慮したものであると同時に、彼の苛立ちを反映していた。だが、カードも集まってきている‥‥。思わず知らず、笑みがこぼれた――報告をした部下には、その真意まではわからなかったが。

(私が後継者となる日のための、そしてその後の仕事のための、使えるカードがな‥‥)

 もちろんトロツキーは、その思いを口にすることはなかった。さあ、今夜はもう休まなければ、明日も朝から演説だ、と報告の者を部屋から追い出した。


 ‥‥軍事人民委員の火の出るような演説は、およそ三十分にわたり続いていた。

(きょうさんしゅぎ――‥‥)

 二三歳のイヴァン・V・コズロフにとって、それは初めて耳にする言葉であった。彼は、初等教育だけしか受けていない――この村では、それが普通であった。「マルクス」というのが、人の名前であることはわかった。また、ツァーリが倒され、威張りくさっていた以前の政府の軍人や警官たちが逮捕されていることもわかった。その以前の軍人たちとは違う――しかし、やはりイヴァンが見たこともないような――制服の、この新たな軍隊の指揮官は、兵士を募集していると語った。経験は必要ない、ぷろれたりあーととしての熱情だけが入隊に必要な資格なのである、とも語った。イヴァン・コズロフは、眼鏡を直した。

「――立ち上がれ! われと思う者よ‥‥!」

 レフ・トロツキーは演説を終えた。よどんだ空の下、列車の前に集められた群衆は、まるで黒い丘のように動かなかった。トロツキーは、流れる汗を首筋に感じつつ、唇を噛みしめた。老若男女、驚くほど貧しい身なりの子ども‥‥無数の視線が彼に注がれていた。思わず知らず、ため息が洩れそうになった――必死でこらえたが。

(私は、人民のことを、どれだけ理解していたのだろうか‥‥)

 彼らしい、誠実な内省であった。しかし――彼の内省が伝わったわけではないが――やがて、群衆のなかから、ひとりの痩せた眼鏡の男がよろよろと立ち上がった‥‥。

 イヴァン・コズロフは次男であり、また父親を早くに亡くしていた。母親は彼の好きにさせてくれるようだった。しかし、彼がこの母親と兄弟姉妹に別れを告げていると、「おまえさん、本気かい!」と近所に住む年とった伯母が、叱るように言った。

「軍隊だぞ‥‥。死ぬかもしれないぞ」

 顔見知りの中年の男が、警告するように言った。

「構わないさ」

 イヴァン・コズロフは、それらの声と肉親、また周囲からの多くの視線に対して、そして自分自身に言い聞かせるように言った。

「このままでも、どうせ未来(さき)はないんだ」

 イヴァンは、彼の起立を歓迎し大きく手を広げていた軍事人民委員レフ・トロツキーのもとへ、(それに何より――)とひとりごちながら、ふらふらと歩いていった。

(メシが食えるんだ‥‥)

 彼につられるように、ひとり、またひとりと、群衆の中から男たちが立ち上がった‥‥。

「軟弱で臆病な烏合の衆が二、三週間のうちに、優秀な戦闘部隊に変わった。それには何が必要であったか。重大なことと些細なこと、ともに必要だった。よき司令官、経験に富んだ二、三十人の戦士、犠牲を厭わない十数人の共産党員」

 ――トロツキーの(げん)である。

「裸足の兵士に与える靴、浴室、精力的な宣伝活動、食糧、下着、タバコおよびマッチである。列車はこれらすべてを用意した」

 赤軍第1軍と第5軍は、カザンを目指して進撃した。

「スヴャシスクよりモスクワ、レーニン宛

 当地では激戦が進行中。現在、死者数十、負傷者数百。わが軍は大砲数で若干優位。敵は砲撃の組織性と的中率で優位。わが部隊が戦闘を欲していないというのは誤りである。優秀な、またはかなりの程度の指揮官と、優秀なコミッサールのいるところでは、兵士は戦っている。共産党員労働者の存在は非常に有益である。彼らのなかには多数の献身的で勇敢な人々がいる。指揮官があるポストに信頼できる人間をつけようとするとき、彼は共産主義者がよいと常に言明している。明日、勝利し得るとは言えない。しかし、勝利は疑いない。  一九一八年八月一三日 トロツキー」


 およそひと月の戦闘を経て、九月一〇日、第1軍と第5軍らはカザンを奪還した。本格的な内戦の開始以来、労働者・農民赤軍――赤軍にとり最初の軍事的勝利であった。

 翌、一一日。定員をはるかに超える人々でごった返すカザン劇場‥‥。時間きっかりに、勝利者レフ・ダヴィードヴィチ・トロツキーが軍装姿で颯爽と登壇した。さながらマントを翻す騎士のように。

「――カザン占領は、米仏日の株式取引所、ロシア・ブルジョアジーと数万、数十万の白系地下陰謀家が計画した、ソビエト・ロシアの破壊工作の破産を、また、わが国のあらゆる中継地点を英仏米日帝国主義の手に委ねようとする‥‥計画の破産を意味する‥‥。戦いは今後もあり、苛酷な戦闘が続くだろう。しかし、チェコスロバキアと英仏の結合は、もはや起こり得ないことは確実である。それに加えて、自然は敵の陰謀にあとひと月、あるいはひと月半以上を残していない。わが北海は結氷を始め、母なるヴォルガは氷結し、彼らは個々ばらばらな‥‥小塊と化すのだ‥‥!」

 割れんばかりの拍手――そして地鳴りのような歓声が、劇場を揺るがした。

 さらにその翌日、第1軍総司令官に任命されていたミハイル・トゥハチェフスキーがトロツキーに打電してきた。

 「命令を遂行。シンビルスクを奪還せり」――。

 カザン攻防戦の内戦における意味合いは大きい。勝利は、赤軍兵士に大きな自信を植えつけた。赤軍は確かに「軍隊」として強固になりつつあることが、そして現実に勝利し得ることが実感されたからである。この後、ヴォルガ川沿岸地帯は急速にボリシェヴィキ政権下に置かれていった。

 こうしたなかでも赤軍の建設は必死に進められた。六月に東部方面軍、九月には南部方面軍と北部方面軍が編成された。それは楽な作業ではなく、指揮系統も明確には統一されていなかった。九月二日には共和国革命軍事会議(共和国革命軍事評議会、共和国革命軍事協議会)が、トロツキーを議長として創設された。全軍の総司令官にはヴァツェーチスという人物が選出され、ここに赤軍の指揮系統はようやく統一を見た。この夏の時点で、赤軍にはおよそ五四万名の兵士、旧帝政軍出身のおよそ一万九千名の下士官・将校が部隊に組み入れられていた。


「どいつもこいつも」

 ヨシフ・スターリンは、忌々しげにつぶやいた。

「トゥチェキー、トゥチェキー、だ」

「そのようですな」

 がっしりとした体躯に四角い顔の軍人風の男が、受け応えた。もうひとりの、ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世とどちらが勝つかというピンと跳ね上がった赫々たる口髭の男は、黙したまま、ムツヴァディと呼ばれるグルジアの羊肉料理の串をつまんだ。

 電話でレーニンに突き放された夜、スターリンはこの親しいふたりを相手に、酒を飲んでいた。ウォッカ、ペルツォフカ(唐辛子ヴォトカ)、そしてグルジアワイン‥‥。

 四角い顔の男は、ヴォロシーロフといった。クリメント・エフレモヴィチ・ヴォロシーロフ。スターリンより少し年下の一八八一年生まれ。工場労働者として働き、ボリシェヴィキに入党。スターリンとは、一九〇六年四月のストックホルムでの社会民主労働党統一党大会以来の、旧知の仲である(ちなみに、スターリンがレーニンと出会ったのは、この少し前である)。十月革命後は、ジェルジンスキーの後を継いでペトログラードの委員となり、現在は第10軍所属の軍人として、ツァリーツィン防衛の任に就いていた。とにかく底が浅く如才ない男で、自分に近づいてくるのも、出世した現在の自分に対する下心あってのことなのは見え見えだった。しかし、スターリンが嫌うインテリゲンツィヤ臭を感じさせない男でもあり、酒の相手としては悪くない相手であった。

 もうひとり、赫々たる口髭の男は、ブジョーンヌイという、これまた赫々たる姓の持ち主であった。セミョーン・ミハイロヴィチ・ブジョーンヌイ。ヴォロシーロフよりまた少し年下の、一八八三年生まれ。ヴォロシーロフとは対照的に、農家――貧農――のせがれとして生まれ、長じてからは帝政軍に入隊した。兵科は騎兵であった。その後、露日戦争におけるドン・コサック連隊(つわもの揃いの職業軍人部隊である)としての参戦等を経て、欧州大戦を迎えた。騎兵として優れた技術の持ち主であった彼は、対ドイツとオーストリア戦、そしてカフカース方面で戦闘に参加、聖ゲオールギイ十字勲章も授与された武勲の男であった。これらのことを、彼がどのように思っていたのかはわからない。鼻持ちならない貴族たちに、怒りを抱いていたのかもしれない。二月革命において、彼は帝政を倒す側にまわったのであった。志を同じくする――ソビエト支持派――兵士たちをまとめ、連隊委員会代表、師団委員会代表代理となった。十月革命後はサーリスキイ管区ソビエト執行委員会に所属していたが、その腕を買われ、革命騎兵隊を組織することになった。この時期では、赤軍における貴重な騎兵部隊である。そして、かつての自分が所属していた側、すなわち白衛軍との戦いの先頭に立ち、このツァリーツィンに来ていた。

 戦う立場が一八〇度変わったとはいえ、その見事な髭とともに、軍人としてのこの男の中身――骨の髄からの騎兵――は、いささかも変わっていなかった。しかし、トロツキーをはじめ、軍事理論家の間では、騎兵はすでに時代遅れであるとする声も大きかった。実直な男であったが、どうもそんなトロツキーをよく思っていないようで、そこがスターリンは気に入っていた。酒席で、この男が髭を上下させながら騎兵の重要性を説き、軍事面でのトロツキーの思想や方法論を批判する様を、スターリンはニコニコと――ニヤニヤと――笑いながら聞いていた。この時期、レーニンに次ぐ革命の立役者であるトロツキーを批判すれば、それがたとえ酒席であったとて、ボリシェヴィキのなかでは浮いてしまう。ときには、激しく論難されることもある。ブジョーンヌイは、そんな目に何度か遭っており、そこでトロツキー批判を受けいれるスターリンは、彼にとっても接しやすい存在なのであった。

 この夜の席も、トゥハチェフスキーの話題から、次第にトロツキー批判へと移っていった。このふたりなら大丈夫だ。身の安全を確かめたスターリンは、したたかに酔い、口を軽くしていた。スターリンには妄想癖があった。それも、危険な類の。

「『トロツキー列車』だと‥‥。奴はユダヤだ。列車の通信室で、外国のユダヤ資本家と連絡を取り合ってるに違いない。同志レーニンの後釜を狙ってやがるんだ‥‥」

 レーニンの後釜のほうはそれほど見当外れでもなかったが、ジノヴィエフ、カーメネフ両名がいたら、彼を諭したことだろう。

「ポグロムが必要なのだ、この内乱が終わったらな‥‥。俺はそうするつもりだ。なあ、そう思わんか?」

 ポグロム、とは、略奪やときに殺戮をともなうユダヤ人への迫害のことだ。カーメネフは穏健な人間であったが、これを聞いたら席を立ったことだろう。ジノヴィエフは、スターリンを論難したに違いない。前世紀、ウクライナやベラルーシ(白ロシア)といった地域の農民がしばしば起こし、ロシアでも行なわれていた。ツァーリ政府は、農奴の不満をそらすため見て見ぬふりをし、無辜(むこ)のユダヤ人が数多く犠牲になっていた。ロシアで生活しているものなら、それがどんな意味を持つかは、誰でもわかる。

「同志の、党への忠誠と熱心な働きは、同志レーニンもよくわかっておられるはずです」

 電話の詳しい内容を知らないヴォロシーロフは口からのでまかせ――スターリンもそれはわかっていたが、なにしろいまは深く酔っていた――を言い、傍らのブジョーンヌイに目くばせした。ブジョーンヌイはそれに気がついたのかどうか、深く目を閉じ、「政治のことは、自分にはわかりません」と素っ気なく答えた。

 ヴォロシーロフはため息をついて、席を立った。そのとき、ヴォロシーロフは気づくべきだったのだ。開け放たれた窓の下縁で、何かがぼうっと、紫と黄のゆっくりとした明滅を繰り返していることに‥‥。

 瞑目したままの気の利かぬブジョーンヌイの武人顔にも、調子を合わせるだけのヴォロシーロフにも、スターリンはうんざりした。が、このふたりを怒鳴ったところで何の益もないことは、いくら泥酔していても、ヨシフ・スターリンはわかる男であった。だからだろうか、ヴォロシーロフが戻ってくると、スターリンは、別の男を罵った‥‥。

「レーニン――!」

 スターリンの濁った瞳には、怒りがあった。

「レーニン‥‥あの忌々しいレーニンはなんだ! いつも人を見下し、自分は偉そうに命令するだけだ‥‥! どいつもこいつも、奴の顔色をうかがってばかりいる‥‥」

 一番レーニンの威厳を恐れ、顔色をうかがっているのは当のスターリンなのだが、スターリンの目にはそのように映っていたのだ。トロツキーが、または皮肉屋で鳴らすカール・ラデック――という男がいたのだが――が、この場に居合わせたら、迷わずにそれを指摘し、スターリンを嘲り笑ったことだろう。しかし、目の前のふたりの者は、黙って顔を見合わせるだけ。スターリンの発言はついに、禁断の領域へと入った。

「くたばってしまえ! ――レーニンに死を‥‥!」

 ヨシフ・スターリンの怒声は、大きく大きく響き渡った。窓の外、紫と黄に明滅する光が、ふわりと離れていった。スターリンが自分の発言を撤回――しはしなかったが、注釈をつけ加えたのは、その光がもう夜空の遠くへ消えてからのことだった。

「冗談だよ。もちろん、冗談だ。俺は、党と同志レーニンにこの一身を捧げている――忠誠とともにな」

 スターリンはニヤリと笑った。その場は、それでお開きになった。

 三人が気がつかなかった紫と黄の光に、気がついた者がいた。二名の護衛と買い出しに出かけていた、ナジェージダ・アリルーエワである。彼女は不思議そうに、上空を動いてゆく光を見上げていた。

 ――コサック(カザーク)とは、帝国領南東部の国境付近を中心に広がる、このロシア独特の、小共同体(コミュニティー)を形成する士族集団である。彼らの共同体は民主的であり、アタマンと呼ばれる二名の首領のもとで、武を尊んだ。また彼らは領主のもとから逃れてきた農奴も広く受け入れ、農奴とともに反乱を起こすこともあった。一七世紀後半の、有名なステンカ(スチェパン)・ラージンの大規模反乱は、結果としては敗北に終わったものの、民謡として歌い継がれるなどロシア帝国地域の農民に記憶されつづけた。この反乱には、遠くイギリスの、かのカール・マルクスも強い関心を寄せていた。封建体制からは逸脱している彼らだったが、歴代ツァーリたちも次第に彼らを認めざるを得なくなり、忠誠を誓わせる見返りとして自治を認め、国境付近においてこのロシアの地にトラウマのように絡みつく「タタール」からの防衛の任に就かせていた。また東方へ向かわせ、はるか辺境の極東地方に帝国の橋頭堡を築かせるなどしていた。ドン・コサック他、クバン・コサック、テレク・コサック、アストラハン・コサック、オレンブルク・コサック等のヨーロッパ・ロシア各地のコサック社会の他、帝政末期にはシベリア各地にも幾つものコサック社会があり、総人口は一二〇〇万を超えるまでになっていた。


 ナジェージダ・アリルーエワは、レーニンがスターリンを軽んじていることを薄々知っていたが、その理由がよくわからなかった。

(それは、同志トロツキーのように、華々しくはないわ。でも‥‥)

 ナジェージダは思うのだ。最近、彼女の心には、小さな(あかり)がともっていた。

(勇敢であることは確かよ。こうして前線で指揮をとっている‥‥。自称雄弁家や自称理論家よりずっと、職業革命家として社会主義建設に力を尽くしてるわ。革命の敵は粉砕しなくてはならない‥‥同志トロツキーもそう言っている。スターリン(あの人)は、それをこのツァリーツィンで実践しているのよ。同志レーニンだって、何だかんだ言いながらあの人を使いつづけているのは、それを認めているからだわ‥‥)

 そして、彼女はきらきらした瞳で中空をきっと睨み、(そうよ、私だって、あの人のように‥‥!)と、ひそかに自分の目標としていたマリア・スピリドーノヴァを思い浮かべた。

 彼女はまだ若かった――若すぎたのだ。


 トロツキーの働き、また赤軍が勝利をものにしてゆくなかで、彼の存在感は――赤軍内では無論のこと、党の内外で――増していった。いくらスターリンが切歯扼腕しても、如何ともし難かった。白軍側はトロツキーを、笑いを誘うほど仰々しく醜く、ポスターに描いた。「ユダヤの悪魔」と、そこには書かれてあった。スターリンはひそかにこれを入手し、眺めては楽しんでいたが、さすがに危険な行為と思い焼却した。どこから他人に――そしてレーニンに洩れるか、わかったものではないのだ。


一部に改行がおかしな箇所がありますが、ルビの表示を考え、このようにしています。ご理解をお願いいたします。

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