1.革命(2)
「ソ連」の基になるロシア革命(十月革命)と、秘密警察の誕生。
レフ・トロツキーは雄弁の才を発揮し、敵対的とされるペトログラード要塞(ペトロパヴロフスク要塞、ペトロ・パヴロ要塞)の守備隊を説得したばかりか、軍事革命委員会に小銃およそ一〇万丁を回させ、さらにボリシェヴィキ側に引き入れることに成功した。
一〇月二四日早朝‥‥。ケレンスキーが動いた。ボリシェヴィキの機関紙「ラボーチイ・プーチ」紙の印刷所を、士官学校の学生部隊に襲わせたのだ。一報が入ったスモーリヌイ女学院内では、大声が飛び交った。
「労働者の新聞を防衛せよ!」
誰かが叫んだ。軍事革命委員会が、直ちに動いた。すぐに赤衛隊が派遣され、印刷所を奪還、昼前には新たな第一号を出すに至った。
「臨時政府打倒!」
ざらざらした粗い紙に、生々しく活字が躍っていた。
「全ての権力をソビエトへ!」――。
ボリシェヴィキは戦闘準備に入った。スモーリヌイ女学院内に、トロツキーが指揮する赤衛隊、そして防護巡洋艦「アヴローラ」のボリシェヴィキ派兵士が集結しつつあった。一方、ケレンスキーも、午前一一時、開催された共和国評議会(予備議会)の席上において、ボリシェヴィキの断固鎮圧を訴えた。戦端は、こうして開かれた。
臨時政府とボリシェヴィキ、双方とも、相手側を包囲しようと戦った。臨時政府側は、スモーリヌイの全電話回線の切断を部隊に命じ、夕方までにはペトログラードの全てのはね橋を上げさせた。これに対し、赤衛隊が進撃すると、臨時政府側の士官学校学生部隊は退却。流血の事態には至っていないが、両者の衝突が本格的になりつつあることは、首都の市民の目にも明らかであった。午後三時には、官庁や銀行が仕事を停止した。冬宮――冬宮殿前の広場に機関銃が据えられたが、警備部隊のなかには逃亡する者もあった。午後七時には、赤衛隊は、ニコライ橋以外の市内の全ての橋を占領してみせた。なお議会の政党で、臨時政府への無条件支持を約束したのはカデットのみであった。メンシェヴィキと、そしてケレンスキー自身が所属するエスエル右派は、臨時政府と距離を置いた。
「始まったようじゃの‥‥」
老婆が言った。フェアリーは、そわそわと落ち着かない。
「おまえも、見て来るといい‥‥」
「どうなるの? どうなるの?」
好奇心でいっぱいの無邪気な妖精に、老婆は言った。
「それを見て来るのじゃ。どうなるにせよ、このロシアの歴史に刻まれる日になるのじゃから‥‥」
――とはいえボリシェヴィキは、中央委員会でも、軍事革命委員会でも、蜂起の発動を正式に決めかねていた。翌日には第二回全ロシア・ソビエト大会が控えており、蜂起への慎重派と即時行動派の論戦が激しく続けられていた。このような論争こそがボリシェヴィキの華であり、ダイナミズムの源でもあったが、このようなときは一組織としての機能に支障が出る。千載一遇のチャンスと捉えていたレーニンが即時蜂起を強く唱え、午後八時頃、蜂起――臨時政府の廃絶、権力の奪取を目指す――が発令された。
翌日‥‥。早朝までにボリシェヴィキ派部隊は、発電所、停車場、国立銀行、印刷所、中央郵便局等の重要拠点を押さえ、午前六時には冬宮もほぼ包囲した。軍事革命委員会――というより、トロツキーの見事な手腕であった。敵の勢いを見て、臨時政府側の部隊は、ケレンスキーの再三の命令にも関わらず、出動をためらっていた。ケレンスキーは地方の部隊に援軍を求めたが、それらにも進撃の兆候は見られなかった。ボリシェヴィキ派部隊は電話線を切断、ケレンスキーの援軍要請を不可能にしようとし、さらに午前七時には中央電話局を占領。午前一〇時、ケレンスキーは地方の部隊に直接援軍を頼むべく、自動車でペトログラードを脱出した。これを見た軍事革命委員会は、「ロシア市民へ」との声明文を発表した。
「臨時政府は打倒された。国家権力は、ペトログラード・ソビエトの機関である軍事革命委員会に移った」
午後になった騒乱の首都の上空を、紫と黄に明滅する小さな光が飛んでいた。妖精の小さな目は、主にボリシェヴィキ派部隊の行方に注がれていたが、老婆の指示――レーニンの動き――も忘れてはいなかった。
午後一時、ボリシェヴィキ派部隊が共和国評議会を包囲して解散を要求、議会は僅差でこれを受け入れた。午後二時三五分、ペトログラード・ソビエトの特別会議が開催され、ウラジーミル・レーニンが姿を現した。七月以来、公の場に出るのはこれが最初である。夜半すぎにペトログラード・ソビエトの中央執行委員会が開かれ、メンシェヴィキがボリシェヴィキを批判し始めたが、多数派のボリシェヴィキに圧倒された。すっかりボリシェヴィキの中枢メンバーになりきっていたレフ・トロツキーは、「諸君らが動揺しなければ、内戦は起こり得ないのだよ‥‥!」と言い放った。
冬宮のそばを流れるネヴァ川には軍艦九隻が碇泊した。首都の各部隊に所属する将校たちの間にも動揺が拡がり――というより、彼らは、逃亡するか、兵士によって解任されるか、あるいは逮捕されていた。カデット、メンシェヴィキ、エスエル右派の、いくらか気骨のある党員たちが冬宮に入ろうとしたが、包囲軍によって追い払われた。冬宮防衛部隊は、心許ないものだった。主力は、さらに集まってきた士官学校の学生一八四六名である。当初の守備部隊からは自転車部隊が抜け、他はおよそ二百名のコサック部隊、婦人突撃大隊、義足の二等大尉に率いられた傷病兵たちなどで、あわせておよそ二千七百名。装備も指揮系統もバラバラで、食料も満足になかった。
事実上ボリシェヴィキが指揮する蜂起軍の作戦本部は、冬宮のネヴァ川を挟んだ向い側にあるペトログラード要塞に置かれた。前線本部は、第一陣がパヴロフスキー連隊、第二陣が第2バルト海艦隊水兵部隊、第三陣が巡洋艦「アヴローラ」にそれぞれ置かれた。
午後七時、冬宮守備軍のコサック部隊が持ち場を離れ、蜂起軍に投降。これに続くように、士官学校学生部隊のうちミハイロフスキー士官学校の学生が大砲四門とともに同じく投降。散発的な銃撃戦が起こった。蜂起軍の指揮官たちも優秀とは言い難かったが、敵失に助けられることになった。ペトログラード要塞の砲手たちは、砲が錆びついて危険であると砲撃命令を拒否していたが、結局、午後九時四〇分頃、ようやく要塞から総攻撃の合図の空砲が放たれた。つづいて「アヴローラ」が射撃を開始。婦人突撃大隊が冬宮から出撃するも、反撃の銃火を浴び多くが降伏。一〇時四〇分、予定通り第二回全ロシア・ソビエト大会の開会が宣言された。代議員六五〇人のうちおよそ半分はボリシェヴィキであった。比例に基づき、ボリシェヴィキを多数とする新しい幹部委員会が選出された。そのすぐ後の午後一一時、一旦停止していた冬宮への砲撃が再開され、議場も騒然となった。メンシェヴィキとエスエル右派は、「ボリシェヴィキによる権力奪取に抗議する」と退去していった。深夜の街角では、先の「ロシア市民へ」が、ビラとして配られていた。
「あれ‥‥」
ゾーヤの地下室に戻ろうとしたフェアリーは、その男の子に気がついた。地下室へ降りる階段は、ごみごみした目立たない場所にあるのだが、そのすぐ近くの路地を、よろよろとさ迷うように、ハンチングを被った幼い少年が歩いていたのだ。この路地は袋小路になっていて、ここから先は何処へも行けない。血痕が、路上につづいていた‥‥。フェアリーは、ゾーヤに呼びかけて、地下室の扉を開けさせた。
「勝手に人を連れてくるなと言っておろうに‥‥」
「でも、ケガしてるよ‥‥」
「軽いもんじゃ‥‥‥‥」
ゾーヤは、ぶつぶつ言いながらも、男の子のケガを完全に治してやった。
「ありがとう‥‥」
見る間に消えてゆく傷痕に、男の子は目を丸くして、宙に浮く妖精と黒いプラトークの老婆とを見くらべた。
「血の染みは取れんがな‥‥」
ゾーヤは、身なりのよいその男の子のズボンについた赤黒い跡を見つめながら言った。
「おばあさん、名前は何ていうの?」
「‥‥人に名前を訊くときは、まず自分から名乗るのが道理じゃろう‥‥」
ゾーヤは子ども相手にも厳しかったが、男の子は、素直にその理を飲み込んだ。
「ごめんなさい。――ぼく、ミハイルといいます」
「――ゾーヤ、じゃ‥‥。おぬし――」
ゾーヤの目が、油断なく光った。
「どうして上の路地へ来た? ここは行き止まりじゃと、近くの者ならば知っとるはずじゃが‥‥」
男の子の説明では、彼はこの辺の者ではなく、たまたま両親とペトログラードに来ていたのだが、革命騒ぎではぐれてしまい、歩き回っていたところを銃弾を受け、路地に迷い込んでしまった、ということであった。
「なるほど‥‥」
男の子は、フェアリーが羽ばたく様子にじっと視線を注いでいたが‥‥老婆がそんな彼にじっと視線を注いでいることに気がつくと、すぐに言った。
「このことは、誰にも言いません」
「――最近の大人どもと違って、飲み込みが早いの‥‥。よいことじゃ」
利発そうなその男の子は、訊かれてもいないのに、ソコライエフ、と自分の名字も名乗った。
「ミハイル・ソコライエフ、か。よい名じゃ‥‥」
ゾーヤはそう言う一方、なおもミハイル・ソコライエフ少年に尋ねた。
「ぬしを疑うわけではないがの‥‥見たところ、家なしというわけでもなさそうじゃ‥‥。ぬしは、自分の家の住所を言えるか‥‥?」
「すらすら言えるよ!」
と、ミハイル少年。
「教えてくれるかの‥‥」
「クロンシュタット――」
疑うわけではない、は嘘だった。考える素振りを一瞬でも見せないかどうか、ゾーヤは瞬きもせず、じっと少年に目を注いでいた‥‥。
メンシェヴィキ、エスエル右派の気骨のある党員たちが再び冬宮に入ろうとしたが、水兵たちに押し止められ、引き下がるしかなかった。冬宮に、威嚇として三〇発から三五発の砲弾が撃ち込まれた。つづいて歩兵が突撃。バリケードを乗り越え建物に取りつくまでは、機関銃弾の嵐であった。宮殿内では敵味方が入り乱れすぎて飛び道具が使えず、白兵戦――というよりつかみあいが行なわれた。臨時政府の閣僚一八名が逮捕された。彼らは言った。
「臨時政府閣僚は暴力に屈し、流血を避けるために降伏する」
激昂した蜂起軍の兵士たちにより、閣僚数人が殴りつけられた。
「プロレタリアの祭日を台無しにするな!」
赤衛隊の労働者たちが叫び、閣僚を保護し、ペトログラード要塞の独房へと連行した。士官学校学生部隊や婦人突撃大隊は武装解除され、冬宮は二六日午前二時一〇分に完全に制圧された。この攻撃における戦死者は、蜂起軍側の六名であった。略奪や暴行も行なわれたが、閣僚に対しての場合のように抑制されもした。
「同志諸君! 何にも手を触れるな! 何もとるな! 人民の財産だぞ!」
と叫び、秩序を回復しようとした者もいた。投降した士官学校の学生の多くも、ポケットは略奪品でふくらんでいた‥‥。
――ペトログラードの劇場では、プーシキン(一八世紀の詩人・作家)の戯曲をもとにしたモデスト・ムソルグスキーの歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」が上演され、冬宮のそばを平常通り市電が走っていた。この革命は、「十月革命」と呼ばれてゆく‥‥。
出来たばかりのボリシェヴィキの政治局は、その機能を停止した。首都地域は制圧したものの、まだ国家全体を手中に収めたわけではない。モスクワは首都ほどには簡単に落ちず、中心地区へ砲撃を加え、一週間ほど市街戦を行なわなければならなかった。いまは非常時――戦争状態なのだ。まず何よりも優先すべきなのは軍事である――トロツキー憎しのスターリンですら、それはわかった。
一〇月二七日、第二回全ロシア・ソビエト大会において、十月革命と労働者人民の名のもとに国家を統治する人民委員会議という機関が設立され、事実上の「政府」となった。この大会で各委員が選出された。外務人民委員にレフ・トロツキー、民族人民委員にヨシフ・スターリン、陸軍人民委員、海軍人民委員、内務人民委員、農業人民委員、労働人民委員、商工(貿易産業)人民委員、教育人民委員、財務人民委員、司法人民委員、食糧人民委員、郵政人民委員‥‥これら各委員は「大臣」とほぼ同義である。そして、事実上首相と同じ役割を果たす人民委員会議議長の座には、ウラジーミル・レーニンが就いた。
おもにヨーロッパ・ロシアの各都市で闘争――ストライキと戦闘――が行なわれた。一二月に入り、ボリシェヴィキは、権力の混乱を防止するためとして、軍事革命委員会の解体を決めた。
中旬‥‥。夜、雪の舞い散るペトログラードの例の路地を、外套を羽織った二十名ほどの集団が歩いていた。先頭に立つ二名は――おそらくいまロシアで最も有名であろうふたり――ウラジーミル・レーニンとレフ・トロツキーであった。ふたりは、ヨシフ・スターリンから、非常に重要な情報が得られると、このごみごみした場所に来ていたのだ。ほかの者は、護衛であった。護衛の長は、もっと護衛の数を増やすべきと唱えた――増やしてほしいと頼んでいたのだが、あまり大人数ではかえって目立つということで、これくらいの規模になった。「ラトビア衛兵」と呼ばれる、ボリシェヴィキ支持の腕の立つラトビア人兵士との、臨時編成の合同チームであった。数分後、集団は地下室への階段の前に立ち、護衛を周辺に配置させた。
さらに数分後、ウラジーミル・レーニンとレフ・トロツキーは、異臭の地下室にいた。最初はふたりとも顔をしかめていたが、慣れてきたのか(慣れてくるらしいのだ)、やがて、スターリンに紹介された老婆との会談に及んでいた。妖精の姿はなかったから、ふたりの目には、異様な風体の老婆にしか見えなかったとしても無理はない。老婆も今夜は、大鍋のほうは火を弱め、掻きまわしながらではなくたまに加減を見るだけで、ふたりに未来の見通しを話したのだった。
「くだらんな。わしは占術なんぞに興味はない。まやかしだ、そんなものは」
ウラジーミル・レーニンは、老婆の語る未来の予想図に対し、そう言い切った。
「フォフォ、まやかしとな。言いなさるのう‥‥。しかし、その自信が、いつかぬしの命取りになるやもしれぬぞ‥‥まあよい、そちらの、ぬしはどう思う」
老婆はレフ・トロツキーに、尖った長い爪の指を向けた。
「まったく同感だ。あなたが何者かは知らないが、私も占術など信じない。くだらぬことで同志たちを惑わすのならば、いますぐ表のジェルジンスキーにあなたを逮捕させることも、われわれにはできるが?」
トロツキーは、護衛の長の名をあげた。
「残念じゃのう。いい男なのにのう。もう少し、見えておればの‥‥。――同じじゃ。その自信が、いつかぬしを滅ぼすぞえ‥‥。ぬしの仲間に気をつけることじゃ――む? おぬし、何をしておるか?」
まるで詩吟のような老婆のゆっくりとした話し方が、急に変調した。レーニンが、老婆とトロツキーのやりとりをよそに、手元の小卓にあった革表紙の大きな本――それほど旧いものではない――を開き、頁に目を走らせていたのだ。
「これ、人のものを勝手に見るでない」
しかしウラジーミル・レーニンは、おかまいなしだった。
「いやいや、おばあさん‥‥これは――。ほうほう! 興味深いな‥‥これは、この本は‥‥!」
老婆は呆れながらも、そんなレーニンをこそ、目を細くし、興味深げにじっと見つめた。
「ほう‥‥。おぬし、それが読めるのか‥‥」
「――ベルンの図書館で、似たものを目にした。これほどまとまってはいなかったが‥‥」
ウラジーミル・レーニンは初めて本から目を上げ、亡命先のスイスの街の名をあげた。トロツキーもレーニンの態度にただならぬものを感じ、本を覗きこんだ。
「これは妙な――叙事詩‥‥ですか、ね‥‥。英語で、別の言語の音を書き写したものです、な‥‥。影‥‥黒‥‥。元は‥‥バイエルン語?」
「古期高地ドイツ語だよ! 英語――のほうは、まあそうだが‥‥叙事詩ではない。詩に見せかけた考察‥‥研究だ。読ませにくくするための、子ども騙しのしかけだよ」
「‥‥‥‥」
「うーむ、これはいい。いや、内容が凄いんだトロツキーよ。初期キリスト教における、いわゆる異端派の分析から――ほうほう‥‥ほうほう!」
レーニンは目を輝かせ、ひとりで悦に入っていた。
「――『光の領土を過ぎると、やがて旅人は荒涼たる影の領土に足を踏み入れるだろう。彼または彼女がその捻れた土地を通り抜けることができたならば、彼または彼女は闇の領土に足を踏み入れることができるだろう。黒い森を主とするその土地は、限りなく暗く、また明るい。何故ならばその土地は、黒い光に満ち溢れる美しき国であるからだ』‥‥」
そこでレーニンは、頁を後ろへとめくった。細められていた老婆の目は、険しさを帯びていった。
「む? 訳を変えてきたか‥‥。これは――ロシア語を経由しとるな‥‥二段階、いや、三段階か‥‥。――先の伝承の部分を科学的に解析するならば‥‥。いや‥‥む? 莫大なエネルギー? 想像を絶するほどの‥‥。人類? 滅亡――平和‥‥?」
老婆の目が、ますます細く、険しく、鋭くなった。
「――おばあさん、すまんがこれを、わしに売ってくれんか? いくらでも出すぞ。‥‥いや、トロツキーよ、そんな顔をするな。これをブハーリンに読ませてやろうと思ってな。あやつも興味を示すはず――」
ウラジーミル・レーニンはそう口走ったところで、トロツキーと老婆の双方から強く制されて、黙った。老婆は門外不出の書物だと言い、ブハーリンの名は、そうでなくても傷つけられていたトロツキーのプライドを、痛く刺激したのだ。ブハーリン――ニコライ・ブハーリンとは、党内でレーニンに次ぐ秀才との呼び声高い若い男で、トロツキーとはニューヨークで先の革命派の新聞を発行していた。二月革命の後、トロツキーとは別ルートでロシアに帰国していた。
「もう行きましょう、同志」
レフ・トロツキーはレーニンを促し、モヤモヤとした思いを老婆にぶつけるかのように、腰に手を当て、胸を張り、尊大な調子で言い渡した。
「おばあさん、逮捕はしませんよ。われわれの寛大さに感謝するんですな。それと、このご商売もすぐに畳むことだ。いつまでも遅れたツァーリの時代じゃない。この国は生まれ変わるのです。われわれボリシェヴィキの(このとき、レーニンはちらと横目で彼を見たが、何も言わなかった。そして老婆は、レーニンのそのわずかな挙動を見逃さなかった)手によって、ね」
老婆の眼がギラリと光ったが、すぐに皮肉な目つきになった。
「ほう。――死体の山を築き上げてか」
「なに‥‥!」
トロツキーも一瞬、怒気を見せたが、すぐに平静さを取り戻し、フンと鼻を鳴らした。
「少々の暴力の行使はやむを得ない。革命のためならば、な」
地下室は生温かかったが、冷ややかな空気がふたりの間を流れたようだった。
――その頃、われらがヨシフ・ジュガシヴィリはひとり気をもんでいた。また妖精が現れ、伝えたのだ。あのふたりを寄越してほしい、と。それが、次の彼への情報を与える交換条件だと。あの婆あが、彼らに何を話すつもりなのか、それが気がかりなのであった。
「会談」は、双方にとって有益なものではないようであり、レーニンとトロツキーは立ち去ることにした。しかし、
「おばあさん、ひとつ聞くが‥‥」
と、レーニンは、去り際になおも尋ねた。
「あなたは先ほどこの同志トロツキーに、仲間に気をつけろ、と言いましたな。その仲間とは、いったい誰のことですかな」
トロツキーは目を剥いて、振り返った。
「同志、そのようなことを、こんな怪しげな者から聞くのですか? 聞いて、同志の誰かを疑うのですか」
「聞くだけなら問題はなかろう。‥‥同志、私は君を、いつの日か後継者にと、ひそかに思っている。これは親心みたいなものだ。聞くだけ聞いておけ」
後継者と聞いて、レフ・トロツキーの功名心が刺激された。トロツキーは黙った。老婆は、そんなふたりをじっと見較べていたが、やがて低くつぶやいた。
「‥‥ぬしらを、ここへ呼んだ男じゃよ」
これを聞いて、トロツキーが吹き出した。
「ハッ、コーバか! バカバカしい!」
そして、腹の底から可笑しくてたまらないというように、老婆に言い返した。
「如何ような状況であれ、よりによってあんな凡庸な小者に追い落とされるほど、このレフ・ダヴィードヴィチは愚かではないさ」
レーニンは黙っていた。老婆は嘆息した。
「その自信が、いつまでも続くといいがのう‥‥」
その声に、皮肉な調子はなかった。トロツキーは、それには気づかず、勝手に述べたて始めた。
「私が今後、党内で闘わなくてはならないとすれば、そうだな、おそらくブハーリンあたりだ。彼はいい友人だが、理論面がどうもな。いずれ、論争でかたをつけるつもりだ」
そんなトロツキーを、レーニンは再びちらと横目で見やったが、やはり黙っていた。――トロツキーは昂揚した調子でつづけた。
「付け加えるなら、ジノヴィエフ、カーメネフあたりもだな。同志、今回の彼らの行動は、私は許せません。党としても、何らかの答を出すべきでは?」
トロツキーは、ふたりが、一〇月の蜂起に反対したことを言っていた。
「そうするつもりだ。私も彼らは許せんよ。ボリシェヴィキは鋼鉄の組織であらねばならない。裏切者はもちろん、卑怯者、軟弱者は、要らん」
レーニンは重々しく言い切った。その声と双眸には、トロツキーのそれよりはるかに暗い激情が潜んでいた。それに気圧され、また答に満足したトロツキーは、押し黙った。
「おばあさん、コーバは、私に忠実な党員だが?」
レーニンは、再び老婆に尋ねた。
「ぬしにはな‥‥」
トロツキーが彼の護衛とともに去った後、レーニンは黙り込んで歩いた。歩きながら、護衛の長ジェルジンスキーから紙巻の煙草を幾度も借り、立てつづけに吸った。流れ、踊り、消えゆく紫煙を目で追いながら(彼の癖であった。ちなみにスターリン――われらがヨシフ・ジュガシヴィリは、パイプ派であった)レーニンは、不安に駆られていた。不安の正体がわからないことがまた、彼に妙な感触を覚えさせた。
(こんな思いは、味わったことはない――)
記憶の限りでは、そうであった。二十代の若き活動家時代、逮捕され投獄の憂き目に遭ったときも、シベリアに流刑にされたときも――。また十数年前の、社会民主労働党を再建するときの困難――結局はボリシェヴィキとメンシェヴィキの分裂に終わった――。オフラーナ――ロシア帝国の政治秘密警察――につけ狙われる日々‥‥。ついには亡命を余儀なくされ、しかし何処へ行っても現地の官憲にマークされ‥‥ヨーロッパ各地を流転せざるを得なかった日々――。彼は、あらゆる困難に立ち向かい、冷静に分析し、同志を集め、勝利を手中にしてきた。その彼をして、初めての体験であった。
(――いや)
レーニンの脳裏に、閃くものがあった。とうに忘れたはるかな昔に、これと似たような想いを‥‥。
(おれは、たしかに味わったことがある‥‥!)
核心に迫った彼の思惟を、しかし、護衛の長がさえぎった。
「いかがされました?」
レーニンの沈黙は珍しいものではなかったが、今回はいつもと違うと、彼は敏感に察したのだ。レーニンに腹立ちはなかった。記憶の糸を細密に辿る作業は、後でも出来る。屋外で歩きながらしなくてもよい。そして、彼――レーニンはいまや、ボリシェヴィキと、誕生したばかりの労働者の祖国を率いる事実上の最高指導者であるのだ。課題は満載、敵は溢れている――行動は無論のこと、思索ですら、彼個人のものではないのだ。お邪魔でしたか、と顔に書いてある、この人の好い護衛の長の、長い口髭と顎鬚の顔を、レーニンはしげしげと眺めた。
(こいつは、たしかだ――)
レーニンは、自分の心に言い聞かせるように、ひとりごちた。
(だが、たしかではない要素がある。そういう者がいる――)
その夜、レーニンは、本人の努力にも関わらず、なかなか寝つけなかった。
翌朝、ヨシフ・スターリンが睡眠不足のレーニンのもとを訪ねた。呼んだ覚えはなかったが、どうせ聞いてくるだろうとも考えていたので、レーニンは応対した。
「昨晩は、いかがでしたか?」
無論、老婆の話であった。
「――何者だかは知らないが」
レーニンは、むっつりと答えた。
「わしは占術の類など、一切信じんよ。コーバ、私に無駄な時間を使わせるな。いまがどんなときかわかっているはず――」
「しかし――」
スターリンが、そのレーニンの言葉を遮った。レーニンは、怒りと同時に、意外な思いにとらわれた。コーバが、自分に対してこんな真似をするのは、少なくともレーニンの記憶では初めてだった。レーニンは激情家だったが、同時に冷静な分析家でもあった。目の前の、普段は忠実なグルジア人の表情は、読めなかった。出過ぎたことをしてしまった、という表情のようにも見えるが、何か大きな興奮を押し隠しているようでもある。
「しかし――‥‥何か、聞いたでしょう?」
そのグルジア人は、ゆっくりと、重々しく問うた。そうであることはお見通しだ、とでもいうように。
「――ああ、いろいろ聞いた。いろいろな」
「と、いうと?」
「‥‥幾つかの、重要なことを――」
気がつけば、レーニンは口を滑らせてしまっていた。しかし、レーニンはやはりレーニン。百戦錬磨の男であった。スターリンがこのように聞いてくることは、先刻承知。だから、あらかじめ用意しておいた回答を、自然につづけることができた。
「しかし‥‥な、コーバよ」
「なんでしょうか」
「何者かは知らないが、あの程度のことは、いまのこの時期、誰でも言えることだ」
「あの程度のこと、とは?」
スターリンは、おうむ返しに問うた。
「多くの敵がいると。近くにも、な――」
レーニンはゆっくりと、一語一語はっきり発音し、ヨシフ・スターリンを厳しく睨みつけた。これは、レーニンが思う以上に、スターリンには十分な威嚇となった。
「は、はあ‥‥そうでありますか‥‥」
スターリンは飲まれ、へどもどした。彼もまたレーニンの答を予想し、昨晩――レーニンが眠ろうと努力しているのと同時刻――自分なりの話の持っていき方を、紙に書いてまで呻吟し、準備してきたのだが、これでペースを崩された。しかし、せっかく描いた絵だ。言うべきことは言わねばと、この男には珍しく、焦りを見せた。
「それは、私も思うところであります」
ウラジーミル・レーニンの鋭い双眸が、本人は隠そうとしているスターリンの焦りと動揺とを、眺めていた。
「――われわれは、まだ安全ではありません。われわれ手足はともかく、同志の身に何かあったらと、ここのところ私は案じております」
「ほう、それは嬉しいなぁ、コーバよ」
レーニンがスターリンの言葉など信じていないことは、彼の変わらぬ厳しい目つきが物語っていた。
「それで‥‥?」
ウラジーミル・レーニンの声は重く、冷たかった。スターリンが、内心震える声。敵を粉砕し、無能者を罵倒する鉄の声――スターリンは、全身に冷たい汗を感じていた。しかし、萎縮しながらも、もごもごとつづけた。
「――実は、その、私に‥‥拙案がございまして‥‥考えたのですが――」
スターリンの額に汗が浮いているのは、レーニンにも見えた。レーニンはさらに、それで、とスターリンを促した。スターリンの口からは、意外な単語が洩れた。
「警察――が必要、なのでは、ないか、と‥‥。ご存知のように、旧勢力の官僚どものサボタージュは頻発、続いております、こと、ですし――」
「警察、だと?」
レーニンは問い返した。
「無論、必要だろう。だがいまは、いわば戦時中だ。警察組織よりも軍事組織の整備に、力を傾注すべきだろう。すでに、トロツキーからプランが提示されている」
レーニンは、噛んで含めるようにゆっくりと言った。ボリシェヴィキは先の通り、軍事委――軍事革命委員会の解体を決めていた。同委員会は、必ずしもボリシェヴィキがコントロールできるわけではないからである。
「赤衛隊は、いわば民兵組織にすぎない。これを改編、強化し、正規軍を作り出す必要がある。労働者と農民の、新たなる軍隊を‥‥と」
レーニンは目の前の男を忘れ、トロツキーをかその未来の軍事組織をか、遠くを見る目で思っているようだった。しかしそれが、肩で息をするほどエネルギーを使っていたスターリンに、切り返す――あらかじめ用意していた話で――チャンスを与えた。
「ただの警察組織ではありません。同志をお守りすると同時に、革命を潰さんとする輩を根こそぎ捕らえる、特別な警察です。大きな権限を持たせるのです。――革命を守るために!」
その必要もないのに、スターリンは全身を緊張させ、まるで電気に打たれたように直立不動に近い姿勢になっていた。冷や汗は止まらない。
「‥‥‥‥」
レーニンはしかし、そんな彼を見ようともせず、重く足音を響かせ、窓に向かうと、バン!と大きく開け放った。それは不審な態度のスターリンに仕掛けてみた行為だったが、そのときレーニンは、紫と黄に明滅する何かがさっと斜め上のほうに離れていくのを、目の端に捉えた。
(――なんだ?)
レーニンはいぶかった。だが、乗り出すように見まわしてみても、何も見えない。目の錯覚だろうか。そう、自分はいま、疲れている‥‥。レーニンの心は沈んだ。しかし午前中の冷気が、レーニンの頭を別の方向に冴えさせた。ひとつの曇りが、晴れたように感じられた。
「‥‥なるほど」
スターリンに背を向けたままのレーニンの口の端には、笑みが浮かんでいた。スターリンの腹が読めたのだ。
「コーバよ」
ウラジーミル・レーニンは、ゆっくりと振り向いた。
「おまえがそこまで考えてくれていたとは、わしも嬉しいよ。その話、前向きに考えてみようではないか」
「そ、そうですか――ありがとうございます‥‥」
窓を開け放ったまま、レーニンはゆっくりと歩いた――スターリンから目を離さずに。
「しかし、物事には手順が必要であろう。われわれには、党機構、ソビエト機構というものがある」
「はい、たしかに。つきましては、人民委員会議への提案の中身については私が――」
「――いや、その必要はない」
今度はレーニンが、スターリンの言葉を途中で、きっぱりと遮った。
「その提案は、わしがすることにしよう」
これに、スターリンは動揺を隠せなかった。
「――し、しかし同志は、いまご多忙の身――私が案をまとめるほうが‥‥」
「いや、わしがする。――コーバよ、これは言わば不名誉な仕事でもある。党内はともかく、外部からは何と言われるかわかったものではない。エスエルとて、な‥‥。そんなことを私は、おまえにさせるわけにはいかんよ」
スターリンの希望の灯は、消えつつあった。党内においても、官僚のストライキは問題視され、そこかしこで語られていた。だからチャンスだと考えたのだ。過去のオフラーナのような組織をつくり、自分のコントロール下におく――。スターリンの野望の裏には、いまや赤衛隊の指導者たるトロツキーへの嫉妬があった。彼自身、否定してしまいたくなるような、煮えたぎるような、身に鋭く絡みつくような、嫉妬と、羨望であった。レーニンは、追い討ちをかけるように、スターリンに言い渡した。
「わしの護衛もあるのだ。わしが手配しよう。――人選もな。いいな」
偉大なるウラジーミル・レーニンには逆らえなかった。この話は、これで終わりであった。スターリンはすっかりしょげ返っていた。内心では、妖精の言葉に従ったことへの後悔が、渦を巻いていた。レーニンはやがて、公務があると部屋を立ち去ったが、しっかり置き土産をしていった。スターリンに、こう告げたのだ。
「しかしな、コーバよ。トロツキーは、あの老婆の話に興味をひかれたようだったぞ」
レーニンが、いささか面白がってついたその嘘は、面白いようにコーバ――スターリンを動揺させた。スターリンは向き直り、レーニンを追いかけるようにして問うた。
「あ、あいつ――いや、同志トロツキーが? 同志――それで、彼はなんとっ‥‥?」
しかし、レーニンの態度も言葉も、冷ややかそのものだった。
「――さあな、忘れた。知りたければ、彼に直接尋ねればよかろう」
彼は、スターリンを手で制すると、言った。
「なあ、うすのろのコーバよ、われわれは忙しく、事態は緊張している。おまえも承知しているはずだ。おまえがおまえの時間に何をするかは自由だが、この件は、もう口にするな。わしにも、他の同志にも、だ。――わかったな」
偉大なる師レーニンは、ひたすら重く、冷たく、厳しかった。「鋼鉄の人」なる名は、彼にこそ相応しいのかもしれない‥‥。
悩みに悩んだ末、その数時間後、スターリンは素直にトロツキーに電話をかけた。まるで催眠術にかけられたようであった。ダイヤルを回し、交換手を呼び出しながら、俺は何故こんなことをしているんだ、と自問自答していた。電話には代理の者が出た。忙しいトロツキーは、なかなか出ようとしなかった。
(――コーバか。忌々しい。少し焦らしてやれ)
トロツキーはそう考え、かなりの時間スターリンを待たせ、やっと電話口に出た。スターリンは、堰を切ったようにトロツキーに問い始めた。老婆から何を聞いた、どこまで聞いた――‥‥。しかしスターリンの勢いはトロツキーには予想済みだったから、彼はひるむことなく、自分は興味がない旨だけを伝えた。
「嘘をつけっ。俺は朝、同志レーニンに――」
スターリンはまくしたてたが、トロツキーは逆に、レーニンがスターリンに語った老婆の感想――厳密には嘘――を聞き出し、それに合わせた。国内外に敵がいる、くらいのことしか聞いていない、と。そして付け加えた。
「何者かは知らないが、あの程度のことは、いまのこの時期、誰でも言えるよ。――私は本当に忙しいんだ。じゃ、失礼するよ、コーバ」
トロツキーは、気づく由もなかったが、レーニンと全く同じことを言い、けんもほろろに電話を切った。トロツキーのこの態度――赤衛隊すなわち未来のボリシェヴィキ軍事組織の指導者たる自分には、おまえなんぞにつきあっている暇はない――もさることながら、最後の言葉の皮肉な響きは、トロツキーが思う以上にスターリンを逆上させた。「コーバ」は、自ら名乗った変名だが、ボリシェヴィキ組織が拡充、革命が成功し、重要ポストである政治局員、そして民族人民委員となった現在では、「スターリン」で通すように彼は努力していた。いまだに彼を「コーバ」と呼んでいいのは、親しくしている者か、偉大なる指導者、ウラジーミル・レーニンだけなのだ‥‥!
しかし、トロツキーもまた、計算違いをしていた。ヨシフ・スターリンは、少々待たされたくらいで、焦らされたくらいで、己を見失うような男ではないのだ。
トロツキーはトロツキーのほうで、何も考えていないわけではなかった。スターリンは、最近、たしかに影響力を増してきている。発言も慎重になり、レーニンにひたすら媚びへつらいながら、そのレーニンの怒りに触れない程度に、十月革命に反対したジノヴィエフ、カーメネフともよく話している。品は悪いが、自分に忠実な配下を集め、よくコントロールしている。それは、スターリンの人心掌握の術であり、トロツキーより秀でた部分であったのだが、トロツキーはそれを認めたくはなかった。
「同志レーニンを頼む」
トロツキーは、ものの数分で考えをまとめ、レーニンに電話をかけた。とにかくいまは、レーニンにすべてを託しておくことだ。自分が後継者となるその日まで――。生憎、レーニンは不在だった。直接話すべきか、スターリンの素行、行動について、意見しておくべきか――。壁掛けの電話機に手を置きつつ、トロツキーは僅かな時間逡巡した。しかし、トロツキーが多忙なのは本当のことだった。代理の人間に、たったいまのスターリンとの会話の内容をレーニンに伝言するよう頼むに留め、電話を切った。
代理の者は、ただ仕事をこなすだけだった。その夜、その代理の者からのメモに目を通したレーニンが知ったのは、最低限の事柄だけであった。仲がよいとは思っていなかったが、トロツキーとスターリンの確執の深さに、レーニンはこの時期、気づいていなかった。あまりにことが予想通りに運んだように思え、逆にうんざりしながら、彼はフェリックス・ジェルジンスキーを呼び出した。
(やれやれ、哀れなコーバよ‥‥)
レーニンは深く腰を下ろし、瞑目した。彼には試練を与える必要があるだろう。
(おまえの脳味噌はそんなものか。その「鋼鉄の人」の名に負けぬよう、わしが少し鍛えてやるよ――)
レーニンの脳裏に、老婆の言葉がよみがえった。国外から敵が――。それは、レーニンの考えでも、間違いないように思われた。欧州各国は、このロシアに攻め入ってくるであろう。革命で起きている混乱に乗じ、また、自国の社会主義運動を抑えるため‥‥。
(コーバを戦地に赴かせよう。それも前線に。そうだな、さしあたり――)
レーニンが、スターリンの送り先を考えていたとき、ドアがノックされ、ジェルジンスキーが到着した。昨夜と同じだった。最近、レーニンが考えごとをしていると、まるで遮るかのように、この男が現われる。しかもそれが、短気なレーニンをして、まるで不快ではないのだ。挨拶の後、レーニンはジェルジンスキーに椅子をすすめた。が、ポーランド出身のこの献身的な革命戦士はそれを断り、突っ立ったまま、レーニンに用件を尋ねた。
(やれやれ、こいつはこいつで――)
レーニンは思った。心身の疲れが、彼の思考を少々乱暴にさせ、そして明晰な頭脳を曇らせていた。
(真っ直ぐすぎる‥‥)
しかしレーニンは、その思いを口にはしなかった。ジェルジンスキーが傷つくからではなく、単に億劫だからであったし、この直線的なポーランド人はそんな人情の機微の話など受けつけない男だと、レーニンは決めてかかっていたのだった。だからレーニンは、伝えるべきことだけを話した。官僚たちはなかなかわれわれに従おうとせず‥‥。
「――悪質なサボタージュが拡がりを見せている」
ジェルジンスキーは、レーニンをじっと見つめ、黙っていた。自然とレーニンも、演説の、断定の、口調になった。
「旧勢力の残党軍も多数残るなか、これは、かなり好ましくない状況である。いまは味方の労働者層にも、次第に動揺が拡がるであろう。そうなったらまずいことになる。労働者たちをたきつける輩が出てくることも、十分考えられる」
「仰る通りです、同志」
ジェルジンスキーは答えた。
「私も――いえ、他の同志たちも、それは感じております」
「ケレンスキーはともかく、旧帝政の各部隊、またドイツ――中央同盟国はもちろん、帝国主義の――イギリス、フランス、アメリカ、そして日本――これら諸外国‥‥また国内においても、依然として‥‥」
語りつづけるレーニンの脳裏には、大小の、そして様々な方向から俯瞰した構図が浮かんでいた。それがよくわかっていたから、ジェルジンスキーは、途中で口を挟むような真似はしなかった。
「‥‥要するに、われわれボリシェヴィキ以外の政治勢力は‥‥敵――潜在的脅威‥‥少なくとも、そうなる可能性があると――私は覚悟している。」
レーニンは、慎重に言葉を選びつつ、ジェルジンスキーの目を見た。忠実なるジェルジンスキーは、師の意を読み取り、打てば響くように連立政党の名をあげた。
「――エスエルも、ということですな、同志」
言いにくいことを説明しなければならない手間が省けたレーニンは、「うむ、うむ‥‥。そこで、だ――」と、つづけた。
「私は考えたのだが‥‥民主主義はもちろん守らねばならないが――例外的な手段もまた、必要なのではあるまいか‥‥」
「と、申しますと?」
「残党軍はトロツキーの作る軍隊に任せるとして、彼ら――革命を潰そうと画策する国内の勢力――に対抗し得る組織が別個に必要ではないだろうか。それも、早急に」
「なるほど‥‥。いや、同志、よくお考えです。それで‥‥?」
ジェルジンスキーは、レーニンにすべてを委ねていた。その献身はスターリンのそれとは違い、レーニンの偉大な頭脳と指導力に対する、心からの尊敬によるものだった。レーニンは立ち上がり、室内をゆっくりと歩いた。ジェルジンスキーは、師の姿を目で追い、追いきれなくなると体ごと回転させた。レーニンは、いまジェルジンスキーが入ってきたドアの側の部屋の隅を背にして、くるりと彼に向き直った。
「ジャコバンが必要なのだ、いま、われわれの手に。特別な権限を持った警察組織が」
自分へのジェルジンスキーの想いはわかっていたから、レーニンも、それに応えるべく、議論ではなしに結論を口にした。ジャコバン。時は遡り、一八世紀、フランスで起きた最初の市民革命。その意味するところは、ジェルジンスキーにもわかった。
「旧軍事委のメンバーには、わしから話す。おそらく異論はあるまい――。おまえがなってくれるか、ジャコバンに、フーキエに――」
フーキエ――アントワーヌ・フーキエ=タンヴィルとは、フランス革命期に「活躍」した革命裁判所の検事である。大きな裁量を与えられ、反対派と目された人々を片端から断頭台に送ったことで知られていた。ジェルジンスキーは、師の鋭い視線を、じっと受けとめた。その真摯な双眸に、レーニンも指導者としての仮面を捨て、付け加えざるを得なかった。己の依頼の、残酷な意味を。
「平和で安定した時代が訪れれば、そのような警察組織は必要なくなるだろう‥‥つまり、やがては解散する組織なのだ」
「――わかります。共産主義建設の安定した時代が訪れれば、特別な警察組織など、むしろ人民の党への信頼感を損ねるだけでしょう。恐怖で人民を抑えつづけられるはずがありません。歴史が証明するところです。解散は、私も妥当だと思いま――」
「――そのときに‥‥!」
ジェルジンスキーの言葉をレーニンが遮った。ジェルジンスキーは驚いた。師が遮ったからではない。その表情に、苦悩と幾許かの苛立ちが見てとれたからだ。
「‥‥しかし、ただ解散させただけで、人民は納得するだろうか? なあ、同志よ」
ジェルジンスキーはさらに驚いた。レーニンが彼を「同志」という言い方で呼ぶことも稀であったし、師の顔には、哀願‥‥許しを請うような表情が浮かんでいたからだ。
「――いかがされました。どうぞ、何なりとおっしゃってください。私は、共産主義社会の建設のために、如何ような研鑚をも惜しみません」
レーニンは、ふう、と息をもらすと、デスクへ向かい、卓上のグラスの水を一口含んだ。そのレーニンも、直立不動で師の言葉を待つジェルジンスキーも、気がつかなかった。デスクの背後の閉ざされた窓、その下の縁に、ぼうっとした何かが、紫と黄にゆっくりと明滅していることに‥‥。
レーニンはジェルジンスキーに向き直った。いつもの師ウラジーミル・レーニンの顔であることに、ジェルジンスキーは安心した。
「仮定の歴史を創ってみよう。ロマノフ王朝は倒されなかった。ボリシェヴィキどもを蹴散らし、ツァーリは専制をつづけた――」
「‥‥‥‥」
「エスエルとメンシェヴィキの跳ね返りどもも牢屋にぶちこみ、彼らの従順な者とカデットを味方につけ、政治をつづけた。しかし、彼――新しい、改革派のツァーリが即位したのだ――も考えていた。このまま人民の不満を抑えつづけることは不可能だ‥‥」
レーニンの話に、ジェルジンスキーも引き込まれていた。
「革命騒ぎによる混乱を収め、国の発展を軌道に乗せたところで、彼は改革を断行した。秘密警察を解散してみせたのだ。これで抑圧的な時代は終わったと、人民に宣言した」
「‥‥‥‥」
「ジェルジンスキー、おまえがこの架空のロシア帝国の人民なら、このツァーリの宣言を素直に受け入れることができるか?」
「できません」
「であろう。人民の味方だとのたまうこのツァーリ――政府に、何を要求する?」
まさに教師が学生にそうするかの如く、レーニンはジェルジンスキーに問うた。
「過去の圧制に対する、謝罪と反省を求めます」
「それだけか?」
「――圧制からの脱皮の証として、責任者の処罰を‥‥」
言いかけてジェルジンスキーは、レーニンの真意に気がついた。
「‥‥それも厳罰を求めます。少なくとも、警察部長ひとりは死刑に、と」
「この改革派の新ツァーリが古典的な手法の有効性をよく理解した政治家であれば、その要求を受け入れ、さらにこう演出するだろう。怒りに燃える人民たちへの示しとして、広場に彼らを集めその眼前で‥‥秘密警察の最高責任者を吊るしてみせる‥‥」
「‥‥‥‥構いません」
ジェルジンスキーの沈黙はさほど長くはなく、彼は、決意の目で師を見たのだった。
「それが革命の勝利の暁であれば、私はその人民の拍手喝采を、むしろ心地よい調べとして、ソナタとして聴きながら、眼を閉じることでしょう‥‥」
レーニンは、ジェルジンスキーの真摯さに耐えきれず、顔を背けた。そして、ぼそぼそと付け加えた。
「‥‥あくまでも仮定の話だよ、これは‥‥」
「わかっております」
ジェルジンスキーに異論はなかった。むしろ使命感が、ふつふつと胸のうちから湧いてきていた。
「つまり、それだけの覚悟をもって臨めということでございますね?」
レーニンは横を向いたまま、小さく頷いた。ジェルジンスキーがその顔を覗き込めば、先刻以上に驚いたことだろう。その目には、涙が光っていたのだ。
屋外のどこか遠くから「インターナショナル」の歌声が響いてきていた。
窓の下の縁につかまってふたりの会話を聞いていたフェアリーは、帰ってくるなり、黄色に光りながら声を弾ませ、ゾーヤに報告した。
「さすがレーニンさんはけんめいだね。スターリンさんの意図を外してみせたよ。これで良くなるね。ああでも、ジェルジンスキーさんが助かりますように‥‥!」
フェアリーは、黄色に光る小さな指を絡ませ、真剣に祈った。
「‥‥‥‥」
老婆は、黙って大鍋を掻きまわしていた。その沈黙に、フェアリーの黄色の輝きはゆっくりとした明滅を繰り返しながら、紫色になっていった‥‥。こんなときは決まっている。自分は間違っているのだ。フェアリーの羽は力なくたたまれ、彼は床に降り立った。しょげた顔の彼が見上げる老婆の姿は、空中から見るよりも、より暗い影を帯びていた。
「悪くなるのさ‥‥」
やがて老婆は、ぽつりと言った。
反ゼネストのための特別委員会が、ジェルジンスキーにより設立された。レーニンは彼に「例外的な手段」を取るようにとのメモを送ってみせ、党内に自分の意図を伝わらせた。一二月二〇日、特別委員会設立の草案がジェルジンスキーの手で人民委員会議に提出され、承認を受けた。
反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会。
こうして、新しい労働者の祖国に、新しい国家保安機関、新しい秘密警察が誕生した。反革命運動とサボタージュの監視、そして撲滅――。反革命ないしサボタージュ分子を革命裁判にかけることが、その主要な任務であった。同委員会は、犯罪阻止に必要な予備審理を行なう権利を持ち、情報部、組織部と支局部、そして取締部を備えた。さしあたって、エスエル右派、サボタージュ参加者、ストライキ参加者等がそのターゲットとされ、印刷物等の押収や強制立ち退き、食糧配給券の支給停止等の権限を持たされた。初代議長は、フェリックス・ジェルジンスキー。
フェリックス・エドムントヴィチ・ジェルジンスキー。スターリンとはほぼ同世代にあたり、一八七七年九月、ロシア帝国支配下のポーランドで生まれた。十代のうちに政治活動に参加、マルクス主義を学び、自発的に活動家となった。数度逮捕された後、リトアニア社会民主党を経て、ポーランド・リトアニア社会民主党に所属、主にワルシャワで活動しながら、次第にボリシェヴィキに近づいた。一九一七年、先の第六回党大会において、中央委員に選ばれていた。その後はレーニンに付き従い、そのままボリシェヴィキに参加、十月革命直後からレーニンの護衛役となっていた。――ヨシフ・スターリンは、その後、レーニンとトロツキーに何を話したのかゾーヤに問い質すべく、ペトログラードの地下室に足を運んだが、不在なのか居留守を使っているのか、重い扉の向こうからは何の反応も無かった。赤衛隊に通報してこじ開けさせることも考えたが、それはトロツキーを利するだけのように思われ、結局そうしなかった。
反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会は、その長すぎる名称から、頭文字をとり「ヴェーチェーカー」と略され、やがて「チェーカー」と俗称されるようになる。当初は百人足らずの組織であったが、瞬く間に勢力を増した。かつては敵であったオフラーナの構成員たちも、次々と加わった。新しい組織と指導者に忠誠を誓ったその道のプロたちは、その敏腕を如何なく発揮してゆく。「チェーカー」の響きは、広く、長く、人々の口の端にのぼることになる。ときに尊崇、ときには侮蔑、またときには恐怖を伴って。
フィンランドは独立を果たしていた。ゲリシンクフォルスは、フィンランド語の「ヘルシンキ」として、フィンランドの首都となった。
この年、ボリシェヴィキが掌握できたのは、それまでの帝政ロシア領西方――いわゆるヨーロッパ・ロシアの都市部とその周辺に限られていた。首都ペトログラード、ペイプス湖に面するプスコフ(プスコーフ)、バルト海に面するエストニアのレーヴェリ(レヴァル)、白海に面するアルハンゲリスク、オネガ湖に面するペトロザヴォーツク。内陸に入りモスクワ、トヴェリ(トヴェーリ)、スモレンスク、モギリョフ、ゴーメリ、ミーンスク(ミンスク)、ヴィーツェプスク(ヴィテプスク)、ヴォログダ、ヴィアトカ、カザン(カザニ、カザーニ)、ニジニ=ノヴゴロド、ペンザ(ペーンザ)、タンボフ(タンボーフ)、トゥーラ、カルーガ、サラトフ(サラートフ)、ヴォロネジ(ヴォロネシ、ヴォローネシ)、ツァリーツィン。カスピ海に面するアストラハン(アストラハニ)、アゾフ海に面するロストフ・ナ・ドヌ、黒海に面するノヴォロシスク、シンフェロポリ(スィムフェローポリ、シンフェローポリ)、セヴァストーポリ(セヴァストポリ)、ヘルソン、オデーサ(オデッサ)、ハルキウ(ハリコフ)、オーストリア=ハンガリー二重帝国方面に僅かに入ったキシナウ(キシニョーフ)。以上である‥‥。
2013年8月7日、段落の不備を一箇所修正しました。