3.再び、指導者の死(2)
決着。そして未来。
時はやや遡る。十数日前‥‥。
フェアリーは、またある人物の前に姿を現していた。そして、いままでの経緯を話したのだった‥‥。
「‥‥なるほどね。いや、信じるよ、精霊さん」
と、アナスタス・ミコヤンは言った。
「それで、私の運命は、どうなるんだい?」
やっぱりそれか、とフェアリーは思ったのだった。
「そりゃ、あんたがどうしたいかによるさ」
「どう、というと?」
「野心さ、あんたの」
フェアリーは答えた。
「野心か‥‥」
「あんたも、お仲間たちと同類なんだろ?」
妖精は、乗りかかった船だ、とでもいうように、珍しく小さな双眸を悪戯っぽく輝かせていた。しかし、アナスタス・ミコヤンは、そんなフェアリーの態度にも関わらず、フウと小さくため息をついた。その様は、市井の小市民そのものであった。
「野心、ね‥‥。私には、政治的野心――権力への野心は、ない。‥‥党と国家を支配したいなどとは思わんし、私にそんな能力があるとも思わん」
「へえ、こりゃまた意外だな」
ミコヤンの言葉が本心であることは、フェアリーの能力でわかった。
「でも、これでなんとなくわかったな。ゾー‥‥ぼくの遣わし手が、いまこのとき、あんたに会ってくるように言ったわけが」
ひとり納得しているフェアリーに、ミコヤンは続けた。
「ただ‥‥」
「ん?」
「――ただ、もう、スターリンの時代のようなことは‥‥」
アナスタス・ミコヤンは、自分が過去形で語っていることに途中で気がついたが、言い直しはしなかった。
「粛清は‥‥あんな粛清は、もう、ごめんだ。――第三次世界大戦もな。戦争は何も生まん。やっとヒトラーを倒したというのに‥‥」
粛清にはあんただって手を貸しただろ――フェアリーはしかし、その言葉をぐっと飲み込んだ。
「なるほどね‥‥」
「それぐらいだ。私の望みといえば」
「‥‥‥‥」
しばしの沈黙の後、ミコヤンは、すがるように問うた。
「‥‥なあ、私は、誰についてゆけばいい? 教えてくれ、精霊よ」
「素直だね、おじさん。他の人たちもそんなだったらよかったのにな。――教えてあげるよ。あんた、平和のうちに生きたいんだろ? 自分も、この国も。――まあ、世界も」
「ああ、そうだ」
「なら、答は自ずと明らかじゃないか?」
ミコヤンの表情は、曇ったままだった。
「わからないかい?」
フェアリーは、小さな肩をすくめた。
「ひとつ、いいことを教えてあげる。自分では気づいていないだろうけど、あんたには少しだけ、〈力〉があるんだ」
「力‥‥?」
「信じられないかもしれないけど、いま、世界の命運はあんたにかかっているといっても言いすぎじゃないんだ。――あんたが選ぶ人が、この国を、世界を、よりましな方向に導くんだよ」
「‥‥‥‥」
「しょうがないなあ、もうひとつ教えてあげるよ。いいニュースだよ。ベリヤさんは失脚するんだ。もうすぐ、ね」
アナスタス・ミコヤンの目に、初めて明るい光が宿った。
「そりゃ本当かい? たしかにそれはいいニュースだ。――やれやれ、ひと安心だな」
「とすると、残るのは――?」
この妖精の悪戯な問いなどなくても、ミコヤンの脳裏にはすでに、同僚たちの姿が次々と現われていた。彼は「古参」にしては格段に若いということもあって、彼の頭のなかには彼らと「若き親衛隊」という区別はあまりなかった。マレンコフ、ブルガーニン、ヴォロシーロフ、モロトフ、カガノーヴィチ、そして‥‥。黙考の後、ミコヤンは口を開いた。
「‥‥まず、カガノーヴィチはごめんだな。奴で党と国家がまとまるとも思えんし、それに奴は小スターリンだ。また、同じことをやりだすだろう」
「ふんふん」
「‥‥モロトフもダメだ。あいつは頭はいいし、残忍でもないが、とにかく信用できん。世界で最も信用の置けない男だ」
「うんうん」
――ヴォロシーロフは中身がない、ブルガーニンは、マレンコフは――‥‥。アナスタス・ミコヤンは、しばらく頭をめぐらせつづけた。
「なんか見えてきたじゃーないの」
フェアリーは、満足げに頷いた。
「じゃ、ぼくはそろそろ行くよ」
ミコヤンは慌てた。
「――ちょ、ちょっと待ってくれ。〈力〉とは何のことだ。私に何が有るっていうんだ‥‥」
「それは教えてあげられない」
フェアリーは即座に言い返した。予想された問いに対する、回答だった。呆然とたたずむミコヤンに、去り際のフェアリーは空中から告げた。
「ま、友情を大事にしろってことさ」
「ま、待て。――待ってくれ、ちょっと、おい‥‥!」
妖精の姿はすでに消えていた。アナスタス・ミコヤンの声は、虚空にむなしく響いた。
(――友情、ね‥‥‥‥)
ミコヤンは、半信半疑であった。呆けたように椅子に座り込み、小一時間ほど考え抜いたが、妖精の言葉が意味するところは、ひとつであった。アナスタス・ミコヤンは隣室に行き、そして、電話をかけたのだった――‥‥。
「どういうことだ?」
ベリヤの硬い声に、別の男――ニキータ・フルシチョフは、不敵な笑みを浮かべた。
「説明すれば、おまえは納得するのか?」
その表情と目の色に反逆を見てとったベリヤは、再び素早く行動する必要があると悟った。先手を打たねばならない、それも思い切った手を。少々乱暴でも構わない、それが世の中の仕組みなのだ。
「事態だ!」
ラヴレンチー・ベリヤは大声を張り上げた。たちまち十数人の将校が、靴音も高くドアから雪崩れ込んできた。つづいて、さらに二十名ほどの将校たち。彼らは大会議室の各所に陣取り、完全に室内を固めた。
「――こいつら全員を拘束しろ」
これで、勝負は一目瞭然だろう。少しの間をおいてラヴレンチー・ベリヤは、居並ぶ将校たちを振り返り、威厳を持たせた声を発した。
「全員だ。俺が許可する――いや命令だ、これは」
しかし、将校たちはなぜか、まるで彫像のように身じろぎひとつしなかった。
「おいおまえら! 何を黙って突っ立ってるんだ!」
ベリヤは怒鳴った。
「どういうことだ‥‥」
ラヴレンチー・ベリヤの顔は、みるみる蒼ざめていった。彼の、後退が進む広い額と、白く肉づきのよい手に、脂汗が出始めた。何か容易ならぬことが起こっている。想定外の、計算できない――。
「こういうことさ」
フルシチョフは朗らかに答え、不意に懐から出した拳銃をベリヤに突きつけた。そして安全装置を外した。
ラヴレンチー・ベリヤも、拳銃を自分の書類カバンに――常に――忍ばせてはいた。しかし、フルシチョフはそれを十分承知のようで、ちらちらとその彼の書類カバンに目をやりながら、決してベリヤの手をそこに近づけさせようとしなかった。
「ベリヤ‥‥――旧い世界は今日で終わるのだ。そして、新しい歴史が始まる‥‥」
フルシチョフは、ベリヤだけでなく、その場の全員に言い聞かせているようでもあった。
「この日をどれだけ待ち焦がれたことか‥‥。十年、いや、もっとだ‥‥」
「‥‥おまえに、俺を撃つ腕と度胸があるか、このクソ野郎‥‥!」
しかし、強がるラヴレンチー・ベリヤの声は、心なしか弱々しかった。フルシチョフは、あくまで銃身は動かさないまま、軽く小首をかしげ、耳をそばだてるジェスチャーをした――声が震えてるように聞こえるが、俺の空耳かな‥‥?
そして、しばしの沈黙の後、ニキータ・フルシチョフは、
「わが国は、安定期に入る必要がある‥‥」
と、ゆっくり述べたてた。それは、どこか演説のようでもあった――あるいは彼は、草稿を用意していたのかもしれない。
「この拳銃は新式のものだ。ピストレット・マカローヴァ‥‥従来のトカレフと較べて、暴発の可能性が極めて低く作られているそうだ――いつまでもそんな時代ではない、ということだ‥‥」
「‥‥ここで俺を殺しても、すぐに俺の部隊が貴様らを皆殺しにするだろう。その後で、貴様らの家族全員に同じ運命が待っている‥‥」
ベリヤは、一呼吸置いて、できるだけ声に迫力を持たすよう努めた。
「いまなら許してやろう‥‥。このことは無かったことにしてやる。――跪け! 命乞いをしろ! 全員だ!」
しかし、フルシチョフは動じなかった。その彼の姿に力づけられるように、大会議室の誰もが‥‥。
「おまえの部隊は、おまえの直接の指示がなければ動けまい――われわれには、ジューコフとモスカレンコが協力してくれている。ぬかりは無い‥‥」
いつの間にか将校たちの手にも、フルシチョフのものと同型の拳銃――マカロフPMが握られていた。ミコヤンの手にも同型の拳銃が握られていたが――ベリヤは、彼のそんな姿を、三十年来のつきあいで初めて見た――彼は将校たちの後ろへ下がり、ドアの脇に立った。マレンコフ、ブルガーニンも同様に、将校たちの後ろへ下がっていたが――マレンコフは恐怖に蒼ざめ顔の肉をぷるぷると震わせながら、ブルガーニンはやや蒼ざめながらも唇を噛み締め――同じようにベリヤに拳銃を向けていた。
フルシチョフはといえば、これ以上の喜びはないというような笑みを禿げた満面に浮かべていた。たとえるなら、選挙に勝ったときのアメリカの政治家のような、とでも言おうか。そして――さらに政治家らしく――今度は勝者の苦渋の表情を浮かべた。
「こんなことは、これで終わりにせねばならん‥‥。わが国の未来のために――な‥‥」
そしてフルシチョフは、銃口で突き刺すように――自分の射撃の腕前を考慮してのことだろう――手にした拳銃ごと、半歩、また半歩と、ベリヤに近づいてきたのだった。
「悪く思うな、ベリヤ」
秘密警察権力を握るベリヤに対し、フルシチョフは軍部に近づいたようだ。モスクワ市内で、異常な軍隊の動きが認められた。モスクワに駐在するフランス大使ルイ・ジョクスは、ある夜、ボルシャヤ・ヤキマンカ地区の聖ヨアヒム大通りに面した公邸で寝ていたが、窓の下を通過する物々しい装甲部隊の音で目が覚めた。ふつう装甲部隊は、パレードや軍の式典があるとき以外は決して首都に入らない。
夜が明けた。仰天している民警の警官を尻目に、戦車部隊が長い縦列をつくって幹線道路に入ってきた。
「どうしたのです隊長――。迂回してください。アスファルトが痛んでしまいます‥‥!」
しかし巨大なT‐54のハッチから半身を乗り出した部隊の隊長は、無言のまま警官を睥睨するだけだった。
七月四日、モスクワに駐在するアメリカ、イギリス、フランス三大国の大使たちが、会合を持った。それぞれ持ち寄った情報は少しずつ食い違っていたが、ラヴレンチー・ベリヤに何かが起こったようだ、という点では一致した。ラヴレンチー・ベリヤがこれを聞けば、
(遅い‥‥)
と彼らの情報網の程度をあざ笑ったことであろう。
――しかし、そのラヴレンチー・ベリヤは、いま、何処にいるのだ――?
彼らがどうやら確かなこととして確認できたことは、二点だけであったようだ。過ぐる六月二七日、この国の指導者たちが仲良く連れ立ってボリショイ劇場に向かい、各国外交団とともに「デカブリスト」の初演を鑑賞した、そのなかにはラヴレンチー・ベリヤの姿がなかった‥‥。モスクワに進入してきた戦車部隊はウラル地方の二個師団で、名目上は演習のため東ドイツに移動中ということにされている‥‥。これくらいであった。
七月一〇日‥‥。モスクワのラジオは、朝からまた異変を伝えていた。しかし、スターリン重篤のときのような沈黙はなかった。むしろそれは、普段より騒々しく、あることを伝えていた。
「ベリヤ‥‥人民の敵‥‥ソビエト連邦共産党中央委員会ほかの機関から除かれ‥‥内相を解任された‥‥」
この国の上層部に起きた異変を、繰り返し繰り返し――‥‥。
モスクワだけではない、広大なソビエト連邦の全土において、人々はタレールキを前に互いに顔を見合わせることになった。
「ベリヤ‥‥外国の手先‥‥ベリヤの犯罪的活動はソビエト連邦最高裁判所に告発され‥‥」
当のベリヤとその関係者以外、悪く思う者など皆無に近かった。少なくとも、このソビエト連邦には。ベリヤの正体を知れば、世界中隈なく捜してもいなかったろう。
これ以上の喜びはないというような笑みを浮かべたのは、フルシチョフだけではない。ソビエト連邦全土で、同じような笑顔の花が咲いた。家庭で、街頭で、工場で、駅舎で、コルホーズでも‥‥。
収容所においても、それは見られた。コルィマ地方はエルゲン収容所では、ひとりのひょろひょろした初老の男が、静かに涙を流していた。終わったのだ――‥‥。
彼の綿入れ作業衣は、袖が様々な作業のために変色し、ズボンには小包の上包み布を流用した継ぎ足しがあてられていた。靴はとっくに盗まれていた。素足に針金でタイヤの切れはしを縛りつけ、靴の代用品にしていた。ビタミンCの欠乏によって生じる壊血病や、ナイアシンの欠乏によるペラグラは、伝染するわけでもないのに、ここの流行病のようなものであった。壊血病を防ぐとして、彼も松葉や潅木種の柳の葉を漬けた水を飲まされたが、やはりこの病気にかかり、ごっそりと歯が抜け落ちていた。
一九三八年に一〇年の刑を言い渡された彼は、さらに五年の刑期を言い渡されていた。管理者は、このようにいとも簡単に、人々に刑期を加算する。彼らは労働力であり、娑婆の人間よりも容易に刑期を継ぎ足せるからだ。一日の作業ノルマは一日最低一二時間で、しばしば――これも容易に――一六時間に延長された。このノルマを達成した囚人には、八〇〇グラムのパンが配給されることになっていた――ならない場合もあった。達成できなかった者は、これが五〇〇グラムに減らされた。この三〇〇グラムの差は、即、飢餓を意味した。
彼らの主食は、パイカと呼ばれるこの僅かなパンと、バランダーと呼ばれる野菜汁である。黒いキャベツやビートの葉、烏野豌豆や糠‥‥等々を入れた「汁」である。塩抜きで配給されることも少なくなかった――もちろん、他に調味料が入っているわけではない。彼もここの囚人の例に洩れず、これらのほか潤滑剤のグリースや苔も食べた。動物の腐肉を口に入れることができるのは、幸運なことだった。腐肉はおろか糞、柳蘭やカモミールといった草花‥‥何でも食わねば、生きてゆけなかった。一日八時間の重労働に従う人間の最低摂取のカロリーは、少なくとも三一〇〇グラムであるとされる。そして、収容所はこの国の各地にある――冬季を中心に、厳寒となる地域にも。
ソビエト連邦の収容所は、労働者の飢餓を前提とした生産組織である‥‥懲罰としてこのもともと標準ラインをはるかに下回る食糧が、さらにカットされることもあった。レーニン、スターリン、トロツキーほかボリシェヴィキの少なからぬ者が体験したツァーリ体制下の流刑は、ここまで条件が酷くなかった。かじった後のパンに血の痕がつく‥‥壊血病が発見される。次には歯茎が腐り、歯がこぼれ落ちてくる‥‥。体組織が剥がれ落ち、体中から腐臭が漂い始め、足が利かなくなる‥‥ペラグラである。顔は日焼けしたように浅黒くなり、皮が剥け、激しい下痢に襲われる‥‥。
「‥‥‥‥それは――‥‥その、本当のことで? ――間違いない、と‥‥。‥‥われわれは一体どうすれば――‥‥はっ。‥‥すみません、いま聞きとりにくく――‥‥回線が――‥‥はっ。動揺を抑え――写真を‥‥なるほど。――はっ、はっ‥‥」
ラヴレンチー・ベリヤ失脚の報は、この収容所にも届いていた。すぐに逮捕の次報が入るであろうことは、容易に推測された。MVDの部屋の一番いい位置に掲げられていたベリヤの修正された写真は、大急ぎで取り外された。係官たちは、蒼い顔をして右往左往していた。
「あのー、本日の割り当てはどういたしましょうか‥‥」
「なんだっ!」
「割り当てです、本日の労働の‥‥。今月の進捗状況はかんばしくなく、このままではノルマの達成が困難――」
「あとだあとっ! ‥‥――中止だ! 本日の労働は、中止っ!」
――後に、別の収容所で囚人として同じような場面に遭遇したポーランド出身の老人は、
「いいかね、お若いの。人生における真の幸福というものは――‥‥」
と、西側のマスコミ関係者にしみじみ語り聞かせたという。
「ああいう日にめぐりあったことがないと、わからないものだ」
腕を組んで目を閉じ、首を左右に振りながら‥‥。
‥‥喜びを噛みしめている囚人たちのひとり、涙を流していた痩せこけた男――イヴァン・V・コズロフは、眼鏡を直した。彼は五八歳になるが、長い収容所での厳しい暮らしにより、その姿はすでに老人といって差し支えなかった。
一体、自分が何をしたというのだろう。どんな罪を犯したというのだろう。祖国に対して、この社会に対して‥‥。ナイーブと言われても、イヴァン・コズロフは、この自問自答をやめることはできなかった。娑婆にいる頃は、逮捕される人間のことなど、考えたことはなかった。彼も目にしてはいた。走り回る護送車や、夜半に線路の前で整列させられている囚人たちの姿を‥‥。彼らに家族があり、幸せがあり、生活があるという当たり前のことを、考えたことはなかった。自分がそうなり――つまり、護送車に乗せられ、夜、線路の前で整列させられ貨車に詰め込まれて――初めてそれが理解できた。人間の自由、自由な人生などというものは、幻想にすぎない。老党員グリゴリー・シュティッヒはそう言っていた。われわれは、それを知らしめるためにも、革命を起こしたのだと。なるほど、そのことは収容所によく現れている。
これはコルィマの収容所に限らないが、労働ノルマは途方もなくつりあげられ、働き手たちはそのために夜通し作業を行ない、疲労し、死んでいった。気温が零下五十度以下のときは、休日処分とされた。これは処分であった――つまり、この日は作業はなしと係官たちは書類に記入し、実際には労働させていた。この休日処分の日に凍死した者たちに関しては、衛生部は他の理由で死んだという証明書を発行していた。捻挫や他の理由で誰かが作業場からの帰り道で遅れると、護送兵たちは彼らを再度迎えに来るまでに逃げないようにとその者を射殺した――そんな状態で、しかも辺り一帯が奴らの管理下にあるコルィマで、誰が逃亡などするものか‥‥!
イヴァン・コズロフが五年の刑を追加されたのは、他の収容所で、トロツキー主義者――政治的な意味での真の――と接触したためであった。彼は何とかKRTDだけは免れ、またKRDの嫌疑も免れたが、PDの烙印を押されてしまったのだ。これは前述のように、収容所歴のある人間に対して当局が好きなようにつけられる札である。この人物との交流を通じて、自分は真の意味でのトロツキー主義者ではないともわかった。自分は、彼の政策に共感しついていったわけではなく、ただ、彼を尊敬していただけなのだ。そのことが、その人物との交流――議論やその人物の唱える論理――によって、よくわからされた。
イヴァンは、一五年間ずっとコルィマ地方にいたわけではない。この広大なソビエト連邦の、文字通り全土に設置された収容所を転々としてきた。ヴォロネジ、タンボフ、彼の故郷の近くの――どれだけ逃げ出したかったことか!――サラトフ。ウファ、チェリャビンスク、マグニトゴルスク、ヴェルフネー=ウラリスク、トボリスク‥‥。モイントゥイも行ったし、カラガンダにも行った。エラブガの収容所では、ドイツ兵たちと出会った。スターリングラード戦の生き残りもいたし、他の戦線での捕虜もいた。彼はそこで、片言ながらドイツ語も覚えた。イヴァンは彼らとも交流した。独ソ戦を体験していない彼には、ドイツへの憎しみはなかった。こちらに親しみを見せる者も、そうでない者もいた。ロシア人を憎み、馬鹿にする者もいたが、お互い不幸な時代に生まれたもんだな、戦争はもう嫌だと、イヴァンに嘆く者もいた。
出会った外国人は、むろんドイツ人だけではない――ポーランド人、フィンランド人、エストニア人、ラトビア人、リトアニア人‥‥チェチェン人とも会ったし、クルド人とも会った――そして、日本人‥‥みな、馬鹿げた政策の犠牲者、馬鹿げた戦争の捕虜だった。オトフリート・プロイスラーというドイツ軍の元少尉は、解放されたら子ども向けの本を書きたいと言っていた――幸運にも一九四九年に釈放され、ドイツへと戻っていった。
‥‥ベリヤは失脚した。そして、自分は今年、刑期が終わる。帰ることができるだろうか、妻子のもとに。いや‥‥。
暗闇のなかで男は、数年前の女との邂逅を思い出していた。
「前々から訊きたいと思っていたんだが‥‥おまえのような奴は、この国にしかいないのか?」
女は、そう来るだろうと思ってました、という表情を見せた。
「違いますよ。世界各国にいます」
「‥‥すると、例えば――」
男は頭をめぐらせた。
「アメリカやフランスにも、ひとりずついるわけか」
「いますわ。ひとりずつ、ではありませんが」
「ほう?」
「――この国だって、私ひとりじゃありませんよ。ウクライナにもいますし、グルジアにもいます。もしかしたら長官もお会いしているかもしれません‥‥(「――なに?」と男は思ったが、話を進めさせるために黙っていた)。――だから私たちは忙しいんですの。お互いに連絡を取り合う必要がありますから。実はさっきも、アルバニアの者と連絡を取ってきたところなんですよ‥‥」
「ほう――‥‥」
男はできるだけ多くを聞きだそうと頭を研ぎ澄ましながらも、素朴な風を装って尋ねた。
「――すると、たとえばドイツはどうだ? 昔はひとりで済んだわけだろう。いまはどうなってる?」
「さあ、そこが問題なんですよ‥‥。もっとも、ドイツもひとりじゃありませんでしたけど、まあ、長官の仰ることはわかります。確かにひとりいました。そして、いまはふたりに分かれました。朝鮮半島はどうなるのでしょうね‥‥」
「‥‥ひとつの『国』にひとり、というわけか」
「そうでもありますし、そうでなくもあります‥‥。あなたがたが言う『民族』にひとり、と考えてもらって結構です。そして、長官の仰る『国』のひとりもいて――重なる場合もあれば、そうでない場合もあります。言いましたでしょう、ウクライナやグルジアにもいると――そのグルジアにだって、ひとりじゃないんですよ。ミングレル人の姿をしている者もいます」
「なんだと――」
女は、いまごろ何言ってるんですか、というように男を見返した。
「お気の毒なプロメテウスさんの話をよくしてくれますよ」
「‥‥‥‥‥‥」
「まあでも、古風でいいですわよね、ハゲタカに肝臓を――。あれが現代、この国でしたら、どんな刑罰に決まるんでしょうね‥‥私たちにも決議機関があるんですの。あなたがたの中央委員会のような――少し違いますかしらね――それで‥‥。ドイツのあの男は、手足を全部折られて四五度傾かせた裏返しの鉤十字にかけられましたから、ここはやはり――」
「オイ! いい加減にしろ! そんなデタラメを――‥‥」
「で、た、ら、め? へえ‥‥(まるで珍しい生き物を見つけたとでもいうように、女の両眼が大きく見開かれた)。――ま、ですから、いっぱいいるんですよ‥‥。それで困るのは、あなたがたが切った貼ったをやるときなんですの。『民族』にひとりいる‥‥その者が『国』のひとりと重なりそうになったと思ったら、その『国』がなくなったりする‥‥。選出に時間と手間がかかりますから、『国』ができてすぐ、というわけにもいかないんですの。十月革命のあたりは、本当に大変だったんですのよ。あと、これは長官のせいじゃありませんが、クロアチア独立国はともかく、中部リトアニア共和国なんて、なんだったのでしょう。あの土地の私の――長官が仰る私のような者も、振り回されてうんざりしていましたわ」
「‥‥‥‥」
「私は、ロシア人の『私のような者』と、ロシア連邦共和国――ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国ですわね――の『私のような者』と、さらにこのソビエト連邦の『私のような者』を兼ねているわけです。‥‥陳情が山のように来るのは、ご理解いただけますでしょう? せめてバルトの国々は、独立を認めたらいかがでしょう? そのような陳情が私のところへたくさん来て、まいってるんですの。できればムスリムや、グルジアやウクライナも‥‥」
それはしかし、男にとって受け入れられる相談ではなかった。それから女は、男にとってはあまり意味がないように思える話に話題を変えてきたのであった。
「――ところで、ベリャーエフさんの新作の行方ですけど、長官はご存知ありません? 私もアイデアを提供したのですけれど」
「? ドミトリ・ベリャーエフのことか?」
男は、遺伝学の分野で成果をあげつつあり個人的に注目していた学者の名をあげたのだった。
「アレクサンドル・ベリャーエフですよ。戦争中、プーシキン市で亡くなった」
「‥‥‥‥」
「雑誌『レニングラード』をお送りいたしましたでしょう? 彼の『解剖された花婿』のところに赤線を引いておいたと思いますが‥‥」
男は、何処かで聞いた名だと思った。それも、重要な人物から‥‥。カール・ラデック、いや――‥‥。
「ナチの手には渡らなかったようだから、てっきりあなたがたが回収したのかと思いましてね。内容が内容ですから。――ヒトのクローン技術の進歩によって生み出された、通常の人間の三四三倍以上の損傷修復率の肉体を持つクローン兵士‥‥」
女は、その小説の世界を胸に描いているようであった。
「残念ながら、今度もまたこの国ではなく、外国を舞台にした作品なんですのよ。始まりはパリではなくNY‥‥。私も行ったことはございませんが、あの子の眼を通して何度か映像を観ました。――あれは、一九一七年一月でしたかしら? 『ノーヴィ・ミール』の編集室で同志トロツキーと同志ブハーリンが出会った――‥‥。あのときの握手の様子を、ここでお見せできないのが残念ですわ‥‥。――おふたりが、あなたがたに殺されたことも‥‥!」
男を透かしてどこか遠くを見ているようだった女の目に、怒りが走った。
――そうだ、ニコライ・ブハーリン。彼から、その作家の名を聞いたのだ。
一九一七年七月の秘密裏の第六回党大会において、「メジライオンツィ」のボリシェヴィキへの統合を歓迎する演説を行なったのは、彼、ブハーリンであった。
「まあ、限りなく不死身に近い、と言ってよいでしょうね、少なくとも文学的には‥‥。――肉体を機械によって強化されたクローン兵士たちによる、人類への宣戦布告とその後‥‥。彼らの反乱――独立戦争は、やがて人類の支配へと主眼が移り、そして――‥‥。ほんとうに面白いんですよ。全人類の半数近くがこの国にあるような収容所で働く破目になって‥‥」
女は、ある世界を胸に思い描いているようだった。まるで見えているかのように‥‥いや、女の目には、たしかにその光景が、その世界が、見えていたのだ。隅々まで。すべてが。
それは、あるひとつの未来そのものだった。悪夢物語だと否定する真面目な人々の現実認識をすべて根こそぎ破壊し、あるいは嘲笑する者どものにやけ顔をそのまま諦念の自嘲の表情へと変える、確固たる事実としての未来であった。
――あくまでも、未来はひとつではない、という前提のうえでの‥‥。
女は、くすくすと笑って、付け足した。
「彼らは、肉体の強化度によって階級づけられていましてね‥‥。彼らの最終目標は、全人類の抹殺、です。旧文明のね‥‥。ベリャーエフさんにこのアイデアを言ったら目を丸くしてましたけど、私のオリジナルでもありませんの。あなたの前の長官殿のご発言から着想させていただきました。収容所の機構は、長官、あなたから――。クローン兵士たちがあなたがた二代の長官の思想と思惟を受け継いだ、という設定は、ベリャーエフさんにきっぱり拒否されましたけど‥‥」
「‥‥‥‥」
「ベリャーエフさんが亡くなった後、私がその原稿を運び出したんですけれど、ナチに捕まる恐れがありましたし‥‥彼らも原稿を捜していたようでしたから。それで、ある戦車隊の戦車長さんに託そうとしたのですが、戦闘のために結局それができなくて‥‥。――戦車長さんには忘れてもらいました。本当に素晴らしい方でしたわ。あの後、ブリャンスクのほうへ向かっていきました‥‥。――後で、中隊長‥‥ですか? 出世なすって‥‥。あの大きな戦車に乗っていらした頃――三十年代に一度お助けして、それから戦争の初め頃にもう一度、少しだけ手助けしました――ひやっとしましたが‥‥。いろいろややこしいことが多くて、こちらは、あの人の記憶からではなく、記録のほうから消させていただきました。ま、あまりするものではありませんね‥‥。あの子にはいつも言い聞かせているのですが、あちこちに‥‥本当に思わぬところに、影響が出ます。その時代だけでなく、未来にも、ね‥‥。だって、未来とは、無限なのですから。あなたがたは大した考えもなく、今だけ――せいぜい数十年、よくて百年といった、目先のことばかり見て、何もかも壊していきますけど‥‥(女はそこで、もしかしたら少なくとも千年は生きている老婆が化けているのではないかと思えるような、どこか遠いところから空気を持ってきているというような、長い長い吐息をもらしたのだった)。――他はあの人、私の力添えを必要としないほど、十分に強かった‥‥。ちょっと剣呑なところがありましたけど、部下思いで、まるで古のルーシの勇者を思わせるような――。あたくしともあろう者が、惚れてしまいそうでしたわ――‥‥。でも、あなたがたは、あの方も逮捕しましたね‥‥!」
女の目は、そこで再び怒りに燃えたのだった。まるで、紅蓮の炎のように。
(そうだ、あれは確かに炎だった‥‥。本当に燃えていやがった――‥‥)
「――ドゥリャーギンの弟さん‥‥ご家庭には、本当に酷いご迷惑をおかけしましたわ。口を滑らせた私があまりに軽率にすぎました‥‥。彼らを助けるのは、本当に骨が折れましたよ。まったく、よけいな仕事を増やしてくれますわね、あなたがたは‥‥!」
どこまでが耳を傾ける価値のある話か‥‥。男は頃合いを見計らっていた。それにしても――くそっ、なんでコルト・ガバメントが無いんだ‥‥?
「――さっきの‥‥『クローン』の話、もう少し聞かせてくれるか‥‥」
「‥‥‥‥。――彼らが、情報を伝達する手段は、おもにふたつ‥‥。音声と、電波です。このうち音声のほうは、狩りの際などに獲物――旧人類です――への威嚇にも使え、初めは便利とされていましたが、ひとつ問題が‥‥。コミュニケーションがとれてしまうんですよ、彼ら旧人類と‥‥。それで意志疎通をはかった結果、彼らに毒されて有害な反応を見せるようになってしまった弱い個体が、残念ながらいくらか存在しましてね‥‥。もちろん、すぐに処分の対象となったわけですが‥‥」
「‥‥」
「それで、もう一方の電波のほうにシフトしたわけですが、こちらは生身の人間とはコミュニケーションはとれないものの、電波妨害という技術によって、特に大規模な狩り――すでに『戦争』という呼称を使っていましたわね‥‥の際、連絡に支障をきたすようになってしまって‥‥連絡だけでなく、お互いの、また中央からのコントロールにも電波を使っていましたから、それにも支障が‥‥ええ、正直に申し上げますわ。それによって大きな損害を蒙ったんですの――敗戦、ですわね‥‥」
「‥‥‥‥」
「もちろん、対策は立てました。ふたつ‥‥。ひとつは、コントロールに異常が生じた際にはすぐに回路を切り、独立行動を取れるようにしたこと――連携はしにくくなったわけですが、やむをえず‥‥そうそう、そういえば、中小規模の部隊では、有線コントロールなんていう原始的な方法も考案されて、実際に運用されましたわね。あれは極東戦線の‥‥なんていう部隊でしたかしら‥‥――こんなのは、ふたつめではありませんよ。誤解なさらないでください。――ふたつめは、ジャミングされない精神感応波サイコ・ウェーヴによる情報伝達。そして、コントロール」
「‥‥‥‥‥‥」
「テレパシー、と言ったほうが、いまの時代には通りがよいでしょうか‥‥。これは、生身の人間の脳にも直接働きかけられますから、電波よりも便利で、逆ジャミングとでも言うんでしょうか、そういうふうにも使える――まあ平たく言えば彼らに幻聴を聞かせることができるのですが(そこで女は、いろいろなことを思い出しているような遠い目で、笑みを浮かべたのだった)‥‥ただ、装置の大型化、開発の高コスト化が避けられず、実戦運用はなかなか――量産には向かないという声もあったのですが、とはいえ、格段に優れたものなわけですから技術陣は奮闘し‥‥どなたが仰ったんでしたかしら。科学技術は戦争、それも大戦争によって飛躍的に進歩・発展する、と‥‥」
「‥‥‥‥‥‥‥‥」
「ただ、ここでまた新たな問題が‥‥。そのようにして開発された一部の個体が、自分たちはその他大勢の者よりも優れているエリートなのだから、自分たちこそが社会を管理・運営するほうが――いえ、すべきだと主張しはじめて‥‥一部、ですよ。ほんの、ごく一部‥‥。――劣った旧人類を支配するためのクローンたちの聖戦の最中に、さらにそのクローンたちよりも優れているとする『ノーヴィ・クローン』――彼らの造語ですよ、公式に認められていません。彼らが着実に勢力を増やしていって――‥‥‥‥いえ、この話は込み入りすぎてますから、いまはやめておきましょう。ちゃんとお話しするには、彼らのことだけで一晩はかかります――。いずれ、また‥‥。とにかく、難しいことですわ、本当に‥‥」
「‥‥‥‥‥‥」
「――申し添えておきますが、組織に動揺があったのは、クローン側だけではありませんのよ。むしろ、人間側のほうが、その四分五裂ぶりは、哀れや醜さを通り越して、笑ってしまうほどでしたわ。単に内部対立なんてものじゃなく――まあ、その主導権争いでも大勢死ぬんですが‥‥。滑稽でしたわ、本当に‥‥。それにね、クローン側の技術陣には、クローンに飼われている人間の科学者、技術者も大勢いるんですのよ。ク、クク、ク‥‥(女は、何ともいえない表情で含み笑いをもらした)。――鞭打たれて、奴隷のように働かされている? ――‥‥いえいえ、一部を除いて、皆さん嬉々として研究・開発に勤しんでいますわよ。本当に面白い生き物ですわね、あなたがた人間って‥‥」
「‥‥‥‥」
「――クローン体制内で飼われている人間たちの職業のうち、希望者が殺到しているのが、収容所の管理業務です。行政ですからちゃんとしなくてはなりませんが、その点、よくできたマニュアルがありましてね。通称、『Bシステム』。‥‥ええ、ええ、お察しの通り、彼らも――男も女も――それはもう競い合うようにして、よく働いてくれていますわ。『サルにも劣る旧人類が!』なんて調子で、収容者にあたっています。自分たちのお仲間相手だというのに、もう、もう、本当におかしいったら――‥‥」
女は口に手の甲をあてて、アハ、ハ、ハ‥‥と白いノドを見せ頭をのけぞらせて笑い始めた。
「――――‥‥」
男は呆気に取られ、その場に立ちつくしていた。女はやがて、笑いを止めて話題をうつした。
「――『アンドレウサルクス』――‥‥四脚歩行型多砲塔超重戦車T‐216――‥‥。従来の通常型に加え、新兵器搭載のための評価試験機としての試作型があり、これには超小型の核融合炉を搭載していましてね‥‥。新兵器とは、その動力炉を利用した荷電粒子ビーム砲‥‥冷却の問題があり実戦に耐えうるものの開発は難航しましたが‥‥――時間がかかった分、さらにその改良強化型の開発への途が開けましたのよ。従来型の弱点とされていた下面および空中の敵に対する素早い攻撃を容易にする、精神感応波誘導システム搭載の超小型追尾モジュールを搭載‥‥。――敵対分子はもちろん、友軍や民間人でさえ、識別信号を確認できなければ即、攻撃対象に分類する素敵な兵器‥‥。栄えあるその第1号車についた愛称は、『N・Y』。この子が暴走して――‥‥」
男にはわからない話が続きそうだったので、男は女の話をやめさせたのだった。
ブハーリンがトロツキーと出会った時期の「ノーヴィ・ミール」の編集には、「女性部」のアレクサンドラ・コロンタイも関わっている。アレクサンドラ・ミハイロヴナ・コロンタイは、二十年代から世界初の女性大使としてのノルウェー大使を始め、メキシコやスウェーデンの大使、また国際連盟の代表部部員を歴任した。しかしこれは、フェミニストであった彼女の、国内における特に女性政策に対する彼女の発言権を封じる、実質的な「追放」でもあった。彼女は、社会民主労働党時代からの筋金入りのいわゆる「古参党員」――それも有名であり、カリーニンなどと違いスターリンとその路線に好意的だったとは言い難い――にも関わらず、大粛清期を生き抜くことができ、前年三月に亡くなっていた。ボリシェヴィキの結婚観――離婚に際しても財産分配の問題はめったに起こらなかったこと等々――を前述したが、これには彼女を初めとするフェミニストたちの影響があったのではないだろうか。
まる一週間、ソビエト連邦全土で、ラヴレンチー・ベリヤとその一味を糾弾するための集会が、数え切れぬほど開かれた。それはまるで、いまでは中年以上の世代しか直接見たことがない(そして彼らが、いやというくらい下の世代に自慢げに語っていた)十月革命を彷彿とさせるような光景であった。演壇から、党や政府の中堅幹部また一般党員、作家、学者、工場長らが、何時間にもわたって、ラヴレンチー・ベリヤを非難し、その逮捕を支持した。今回は、この国お得意の動員をかける必要も、聴衆のなかにさくらを紛れ込ませる必要もなかった。人民は自発的に集会に参加し、演者がラヴレンチー・ベリヤを批判するたび、割れんばかりの、嵐のような熱狂的な拍手でこれに応えた。長いスターリン時代で拍手慣れしたというのもあるかもしれないが、最初からこの光景が見られたのならどんなに良かったことかというような、党と人民の意志と希望が一致した見事な集会が、各地で、本当に数え切れないほど開かれたのだった。子どもたちも目を輝かせて手を打ち合わせ、街路で踊った。アコーディオン、バラライカ、パンドゥリ‥‥様々な楽器が奏でる陽気なメロディーが街路をいろどり、やがて大人たちも踊りの輪に加わっていった。
北カフカース地方のある小さな街では、およそ一二時間半、暑さのためもあり途中四度休憩入りの、ラヴレンチー・ベリヤを糾弾する演説が、チコヴァーニという若い党員ひとりによって行なわれた。途中で帰る者は、ほとんどいなかったという。党の勝利がすなわち、人民の勝利であった。
ベリヤの死刑執行人を自ら希望する者も現われた。かつて彼によって誘拐され、暴行された少女の父親である。嘆願は、聞き届けられなかった。ソビエト連邦はなお、対面を保たねばならないのだ。私刑ではなく、ラヴレンチー・ベリヤは党と国家によって殺されねばならないのだ。しかし、この話は人口に膾炙することになり、多くの人々を頷かせた。それだけ彼は憎まれていたのだ。この父親はいわゆる氷山の一角で、おそらくベリヤの頭に手ずから鉛玉を撃ちこみたいと願う者は、人民、党員、軍人を問わず、少なからずいたことであろう。千単位、万単位、あるいはそれ以上‥‥集まれば、赤の広場を埋め尽くすことは間違いない。ベリヤの逮捕――政治的な無力化は、ソビエト連邦において、人民と支配層の希望、願望、意向が一致した、極めて稀な――あるいは唯一の事例であると、口さがない者は言う‥‥。
ジャキーン‥‥!
重々しい金属的な音とともに、切れ味鋭い大鎌と、強大な打撃力を持つ大きな槌とが、再び交叉された。彼の首を狩り取り、同時に原形を留めぬほどその頭蓋を叩き潰すために‥‥。
スターリンと同じく、男もまた、銀色の闇でありまた黒い朝靄のなかから現れたそれらを、見ることになった。ただスターリンと違い、それらを手にしていた死神は、エジョフでもスターリンでもなく、人間の形すらとっていなかった。その姿は、およそ世界中に溢れる――個別の特徴をすべて残しながらなおかつ完璧に融合された――近代的なビルディングであった。小さな窓のひとつひとつが、そのなかのオフィスでデスクワークに勤しむ人間たちの姿が、その忙しげな表情のひとつひとつまでが、すべてはっきりと見えた。ビルディングサイズの巨大な鎌と槌も、極めて機械的な意匠をしていた。その刃や叩く部分の太い鉄の円柱の表面は、気泡が浮く雑な作りの赤錆だらけの鉄塊でありながら、同時に鏡のように磨き抜かれてピカピカとした光を放っていた。そして、すべての窓のなかがはっきりと見えていながら、同時に彼の目は、彼の意志とは関係なく、ひとつの窓のなかの従業員らしきスーツの女に吸い寄せられていった。その女が振り向く流れ、髪の毛一本一本の動きまでもが、はっきりと見えた。あの女であった。
女は、ひとつの窓のなかにいると同時にすべての窓のなかにおり、ニヤリと彼に笑いかけた。悪意に満ちたその顔の造作、表情が彼に鮮明に見えたことは、言うまでもない。唇は、鮮やかな薄紅色であると同時に、何処かどす黒い血の色を思わせた。それらの無数の唇、鼻、目はさらに物凄い速さで増殖してゆき、その増殖は加速度をつけながら同時にそれらを増殖加速度の二乗以上の猛烈な速さで絶対なる一へと向かわせ、そして零になった。
それでいて、それらは何ひとつ変化せず、ただそこにそのまま在った。男は、長い長い悲鳴をあげた。
七月某日、深夜‥‥。モスクワ軍管区司令部の中庭を、ずんぐりとした体形の男が両脇を軍人に挟まれ、両手は後ろに縛られ、トボトボと歩いていた。男はやがて、倉庫に連れ込まれた。ほどなくして、倉庫から、くぐもった一発の銃声が響いてきた‥‥。上空の大きな月に、羽を生やした小さな人影のようなものが舞っていたが、誰もそれには気がつかなかった。
政治的なそれではなく、ラヴレンチー・ベリヤの肉体的な生命の最期、その時期等については諸説がある。逮捕の模様もまた、様々な描写がある。まるで、自分の経歴をフィクションで覆い隠そうとした彼の生き様を反映するが如く、それらは多岐にわたる。
「女だ! 女を呼べ!」
彼は拘留中ずっと、このように喚いていたという説もある。――あの女を呼べ、と言っていた、のかもしれない。
ラヴレンチー・ベリヤは、こうして政治の表舞台から消えた――いや、消された。このことについて、倫理的な咎を彼の同僚らに負わせるのは酷であろう。毒蛇が創造した、犯罪と政治を結合させた、芸術的とすら言える人間抑圧機構。子蛇はそのからくりを誰よりも深く理解し、実践したのである。親蛇は自らの毒にあたったと言えるかもしれないが、子蛇もまた、同じ毒にあたったのだ。そのこと自体、親蛇のかけた呪いとも言えるかもしれない。ベリヤの写真、肖像画の類は、先を競うように引きずりおろされた。故郷グルジアを始め、各地のベリヤ像は、次々と川などに投棄され、あっという間に地上から消えた。
収容所の囚人たちは、刑期を終えても、多くは故郷に帰れなかった。逮捕や、その後の一〇年、一五年、二五年といった歳月は、彼らから帰る場所をも奪っていたのだ。先に、ダルストロイのところで、住人のほとんどは囚人か元囚人か管理者であると記述した。囚人たちの大半は、帰るべきところも失い、結局はその地域に住みつづける途を選ばざるを得なかった。一般社会から「消えた」――消された――存在として。これがソビエト連邦である。
死者の数については諸説あるが、後にこの国の政府は、七八万六〇九八人もの人々が、三十年代からこの一九五三年までに反革命にあたる咎で処刑されたことを、公式に認めるに至った。また、一九三七年と一九三八年、いわゆる大粛清の時期に、NKVDにより一五七万五二五九人もの人々が逮捕されており、うち八五パーセントが有罪とされ、このうちのさらに半数強が死刑の判決を受けたともいわれる。そして重要なのは、このように「記録に残された」殺人だけにとどまらず、いわゆる収容所等の、生存には過酷な――劣悪な環境のなかで、さらに多くの人々が死んでいった。予審手続き――拷問――や、農業集団化に伴う「富農」追放政策、また、あるときは失政により起きた、あるときはなかば意図的に起こされた飢饉等による犠牲者を合わせれば、およそ七〇〇万人もの人々が死んでいったとする説もある。これが、ソビエト連邦である。
七月二七日、朝鮮戦争は、朝鮮人民軍・中国人民志願軍と国連軍との間に停戦協定が結ばれたことをもって、一時の終結を見た。だが、平和が訪れたわけではない‥‥。わずか二日後の七月二九日、日本の東京・横田基地(横田飛行場)から離陸しウラジオストク等の電子偵察を行なおうとした米空軍のB‐29の改良型B‐50の偵察機型RB‐50Gが、ソビエト空軍の迎撃により撃墜された。自ら戦争を開始したドイツと異なり、日本(大日本帝国)の植民地であった状態からの独立を果たした朝鮮半島は、しかし、南北に分断されることを余儀なくされた。スイス、スウェーデン、チェコスロバキア、ポーランドの四ヶ国による中立国停戦監視委員会が設置、軍事境界線として非武装区域DMZが引かれ、(国連軍と北朝鮮軍の)共同警備区域JSAが置かれた。
ツポレフ設計局は、全長三五メートル近い大型ジェット爆撃機Tu‐16を開発していた。これはかなりの航続性能を持った。また、さらに全長五〇メートル近い超大型と言える爆撃機Tu‐95を開発した。こちらはターボプロップ・エンジンであったが、鋭い後退翼と巨大な四基の二重反転プロペラを備え、プロペラ機としては世界最速を出し、さらに長大な航続性能を有していた。両機種とも、広大な海洋への軍事力の進出を容易にするとされ、未来のこの国の戦略を担うとされた。
同設計局はまた、Tu‐16をベースにジェット旅客機の開発にも取り組んでいた。ソビエト連邦は、何事においても、西側諸国にひけをとるわけにはいかないのである‥‥。
――セルゲイ・コロリョフが率いるチームは、新型ロケットR‐7の開発に取りかかっていた。政府からは、五千五百キログラムの弾頭を、八千キロメートル先まで運ぶ能力を要求されていた。
見てきた通り、「スターリン」は変名であったが、「ラヴレンチー・ベリヤ(Lavrentij Berija)」は彼の本名である。彼の両親また兄弟姉妹‥‥「ベリヤ」姓は、当時のミヘウリにあった姓のひとつであり、彼の肉親以外にもいたであろう(なお、彼の異父兄が「ベリヤ」姓を名乗ったかは不明である――弟の権勢を考えれば、名乗っていたと考えられるが)。‥‥彼の家族構成に関しては、異説もある。
「Berija」は音のラテン文字化の一例であり、「Beria」とも表記できる。この点と、先の母テクル・ベリヤが一時期過ごしたらしい場所の件を結びつけ、旧約聖書歴代志略上巻に登場する、アブラハム直系子孫のエフライムの息子のひとり「ベリア」の名を思い出した人間が、この時代にもいた。
「かくて後エフライムその妻のところに入りけるに胎みて男子を産みたればその名をベリアと名づけたり。その家に災厄あればなり」(歴代志略上・第七章第二三節)
「ベリア」は、ヘブライ語で「災厄」また「不幸のなかに」という意味を持つという。こうして彼のこの姓は、反ユダヤ主義の悪意に晒されることになってしまった。――彼が権力の座にあったとき、それを口にできた者がどれだけいただろうか? 時代と場所を変えても同じである。自分が安全圏にいない状況下で、彼のような人間にそれを言える者がどれだけいるだろうか? グルジアの「ベリヤ」姓と旧約聖書の登場人物の名前の間に、関連性はない。
それよりも――神秘主義的な面はまったくないが――彼の未来について述べたひとりの人物の発言のほうが興味深い。時代が違えば、この人物は、予言者ないし預言者として扱われていたであろうから‥‥。
「ラヴレンチー‥‥!」
スフミ時代、その学校の歴史の教師は、ある機会に少年の彼に対しこう告げたそうである。
「おまえはゼリフマンはだしの山賊として名をあげるか、それに劣らず有名なフーシェのような警察長官になるかの、どちらかだ‥‥」
ゼリフマンとは、カフカース地方の植民地化を推進する帝政ロシア軍に果敢に抵抗した、名高いチェチェン人の「山賊」である。フーシェ――オトラント公ジョゼフ・フーシェ――とは、カトリック神父からフランス革命に身を投じ、各派を遍歴した後革命政府の打倒に暗躍し、後の総裁政府の警視総監、その後の統領政府で引きつづき警視総監を務め、そしてナポレオンの帝政においても警察大臣となり、さらにそのナポレオン一世を幾度か裏切りながらも生きのびた人物である。綱渡りの名人とされ、また秘密警察の父ともいわれる人物である。その後の彼はどちらにもなったと言えるし、また特にフーシェを凌駕したといえる。
三十年代からのスターリン様式の建築物だが、誇大妄想的に過ぎた「ソビエト宮殿」はさっぱり完成のめどが立たず中止の公算が強くなってきていたが、モスクワ市内に「セブン・シスターズ」と呼ばれる七棟の重厚な高層建築のうち六棟が竣工、残る一棟が建築中であった。モスクワのスモレンスカヤ広場に面して立つ外務省ビルは、完成したもののひとつである。二七階建ての摩天楼で、高さはおよそ一七〇メートルに達する。その頂には、ヨシフ・スターリンのアイデアによる尖塔が建てられていた。
ヨシフ・スターリンとラヴレンチー・ベリヤ。これまで見てきた両名の祖国の名「グルジア」は、同国の守護聖人、聖ゲオルギウスの名に由来するのではないかと言われている。英語での表記ならびに発音は「Georgia(ジョージア)」となる。
この年の暮れ、一二月一八日に、ラヴレンチー・パーヴロヴィチ・ベリヤは、彼の手下六名とともに裁判にかけられた。しかし――他の六名はともかく――このとき被告席に座っていたのが本当に「彼」だったのかについては、異論が多い。スヴェトラーナは、彼は六月に逮捕されてすぐに射殺されたと述べている。ポーランド大世界百科事典には、この年の七月に彼は銃殺されたと長い間書かれていた。また、この裁判自体、もう少し早い時期に行なわれていたという証言もある。
「プラウダ」はまだ裁判が進行中であるはずの二〇日に、一面で、「民のくだした罰」という見出しのもと、ラヴレンチー・ベリヤを有罪と断じている。繰り返すが、同紙は党の機関紙である。真相は不明である。ともかくもラヴレンチー・ベリヤとされる人物とこの六名は、検察側が提示した罪状をすべて認めた。これに対し政府公式紙「イズベスチヤ」のほうはもう少し慎重で、二三日付で、「ソビエト人民の激怒の声」と題した社説において、序文と解説ほか、人民数人の声を紹介した。同日付の「プラウダ」も、「ソビエト連邦のすべての国民は‥‥ベリヤとその一味に厳罰をくだすよう一致して要求する」との長い見出しとともに、国内各地の支局から送られてきた人民の声を載せた。
彼ら七名の被告は、二三日、銃殺刑に処された。翌日付の「プラウダ」は、ラヴレンチー・ベリヤとその共犯者たちに関する起訴、判決、執行について発表した。その埋葬場所は明かされないままだったが、兎にも角にもこの国は、彼を公式に葬ったのである。さらに翌日、すなわち一二月二五日付の「プラウダ」は、一面において、「裁判の判決は国民の裁決である」と題した社説を掲載した。
ソビエト連邦大百科事典には、この人物のことは、これ以降一行も載らなくなった。忘却こそ最高の復讐であるとばかりに。
――ひとつの年が終わり、また新しい年が始まろうとしていた‥‥。
「それが革命の勝利の暁であれば、私はその人民の拍手喝采を、むしろ心地よい調べとして‥‥」