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フェアリー・テール  作者: 田中 鉄也
第三部 イヴァン
24/29

3.再び、指導者の死(1)

ロシア史。

指導者の死。

 一九五三年‥‥。

 ローマ帝国の終焉は、皇帝テオドシウス一世が領土を東西に分割した西暦三九五年である――という史観は、西欧文明圏に由来するものである。西欧文明は後に世界を制覇し、この一面的な史観が流通することになってしまった。

 正教文明圏――ギリシア、キプロスの特に南部地域、マケドニア、セルビア、モンテネグロ、ブルガリア、ルーマニア、ガガウズ、モルドバ(ベッサラビア)、ポーランド東部の一部地域、ガリツィア(紅ルーシ)、グルジア、ウクライナ、ベラルーシ(白ルーシ)、そしてロシアなど――における「ローマ帝国」の終焉は、後に「ビザンティン(ビザンツ)帝国」または「東ローマ帝国」と他称された帝国が、首都コンスタンディヌポリス(コンスタンティノープル)陥落とともに(つい)えた、西暦一四五三年なのである。この帝国の人々は、自らの国家を「ローマ帝国」と呼んでいた。

 モスクワ大公国の大公イヴァン三世は、この国家の最後の皇帝コンスタンティノス一一世の姪、ソフィア・パレオローグと結婚した。イヴァン三世は同国家の紋章「双頭の鷲」を積極的に用い、モスクワはローマとコンスタンディヌポリスにつづく「第三のローマ」であり、自分はローマ皇帝の後継者であると宣言した(だから後代の「ツァーリ」は、「皇帝」なのである)。グレゴリオ暦への変更はあったが、今年はこの「ローマ帝国」の滅亡から、ちょうど五百年目にあたる年であった。


 ミハイル・N・ソコライエフ少佐は、大戦中のバルト海でのあのみじめな敗北を忘れていなかった。ドイツは強かった。しかし敗れた。北極海はわれわれの海だ。

(先人たちの血の(にじ)むような努力を、無駄にはしない――)

 今度の相手はイギリス、そしてアメリカだ。奴らも強いだろう。しかし、好きにはさせない――。

 彼は、いまの自分の任務とこの艦とを、同じくらい誇りに思っていた。大戦中のことは、特に黒海艦隊の同じ潜水艦乗りから、物笑いの種にされたものだ。バルト海と黒海では事情が違う――と抗弁しても、なお笑われるだけであった(彼の抗弁にきちんと反論するならば、黒海とてそう作戦行動が楽な海域だったわけではない)。だからこそ彼はいっそう、任務、海軍、国家、そして同志スターリンへの忠誠の思いを強くし、いまでは副長として潜水艦に乗り組むまでになっていた。613型潜水艦。続々と誕生しつつある、新鋭潜水艦のうちの一隻であった。サブタイプによって多少の違いはあるが、水上排水量一〇八〇トン、水中排水量一三五〇トン、全長は七六・六メートル、全幅六・五メートル、喫水四・九メートルという規格であった。そして水上で出力四〇〇〇馬力、速力一八・五ノット、水中でも二五〇〇馬力、一三ノット(シュノーケルという装置を用いた場合は七ノット)という、以前のこの国の潜水艦からは、考えられないような高性能を持っていた。西側では「ウィスキー級(W型)」というコードネームで呼ばれていた。

 本級以外にも、より大型の航洋型潜水艦である611型潜水艦の建造が始まっており、すでに竣工した艦もあった。また逆に、小型の沿岸警備型(哨戒型)潜水艦である615型潜水艦の建造も、日程にのぼっていた。西側ではそれぞれ、「ズールー級(Z型)」「ケベック級(Q型)」と呼ばれることになる。この615型潜水艦が大量に建造されれば、彼の613型潜水艦は、航洋型と沿岸警備型の中間型、ということになろう。これらの潜水艦の建造、そして続く新型艦の開発には、かなりの費用がかけられていた。同志スターリンは、われわれのことをよくわかってくれている――。ミハイル・ソコライエフは、あらためて思いを強くするのである。

 彼には、昇進と転任の話も来ていた。といっても、すぐにではないが、新型の潜水艦を建造中であり、彼にその艦長として乗り組んでもらいたいという。それは611型でしょうか、と彼は質問したが、そうだとも違うとも言われなかった。611型潜水艦は確かに最新鋭艦ではあるが、その性能等はともかく、存在自体は潜水艦勤務の将校の間では普通に知られている。だとしたら、そうだと言ってくれそうなものだが‥‥。噂で聞いたことはあった。従来の潜水艦と異なる驚くべき新型潜水艦を、海軍技術陣は開発中であるという。それは潜水艦の用兵思想を大きく変えるもので、大型の「ロケット」により長距離から敵の地上施設等を攻撃する戦略的な艦とも、まったく新しい動力を用い、乗員に必要な酸素は海水から電気分解で作り出し、排出される二酸化炭素は除去し、潜行は数ヶ月間も可能で、従来のディーゼルエンジン式潜水艦をいわば「可潜艦」に追いやってしまう、「潜水艦」という概念自体に革命をもたらすような艦であるとも言われていた。

(もしそうならば――)

 ソコライエフの血は沸きたった。自分は海軍の輝ける星として、同志スターリンと祖国に、さらなる貢献ができるであろう‥‥。

 それはそれとして――。

(あの女は何なのだ‥‥)

 上層部肝いりの任務だというが‥‥。彼の乗るこの艦に、コミッサールが女性を連れて乗船してきたのだ。潜水艦に「女」は不吉である――という根強い迷信が、潜水艦乗りの間にはあった。何故なら、潜水艦は女性であり、彼女が嫉妬するからだ――水上艦も多くは女性とされるが、嫉妬の際の怖さは、水上艦の比ではない。彼女を怒らせたら、すぐに海の底に引きずりこまれ、まず誰一人として助からないであろうからだ。しかし、上層部の指令とあれば、断ることはできない。

 その女は、一室に()もっていた。女の希望ということで、紅茶と焼蜜菓子(プリャーニキ)を出すようとの命令があったのだが――まったく、海軍の潜水艦を何だと思っているのか――それを運んだ水兵によれば、顔を覆い、なにやら妖しげにカードを手繰っていたという‥‥。上層部はいったい、われわれに何をさせたいのか。科学技術の粋を集めたこの新鋭艦で、まじないでもさせたいというのか‥‥。コミッサールは、「実験である」とだけ答え、副長の自分に対してさえ、それ以上の問いを受けつけようとしなかった。いまのところ航海は順調であったし、昇進の話を前にしてコミッサールや艦長に異議を申し立てるのは得策ではないと考えるぐらいには、彼は世知に疎くはなかった。しかし、その女と関係なく、彼の乗り組む613型潜水艦の艦内は、三月初旬のある日、緊張と困惑に包まれた。誰もが顔を見合わせた。前代未聞、空前絶後――まさしく類するものを聞いたことがない、驚くべき通信が入ってきたのだ。四日、朝のことであった。

 地上――モスクワ、そしてソビエト連邦全土においても、事情は同じであった。朝のラジオは深い沈黙に陥っていた。いつもの朝を迎えるはずだった大都市モスクワでは、人々はお互いに、いぶかしげな顔を見合わせた。沈黙は、人々の耳を引きつける。モスクワ住民の、軍人の、秘密警察員の、また外国の諜報機関関係者の耳も‥‥。

 しばらくの間の後、タレールキから、次のような声が重々しく流れてきた。

「――ソビエト連邦共産党中央委員会およびソビエト連邦閣僚会議は、われわれの党および国民を襲った、同志スターリン重篤という不幸を発表した」

 午前八時三〇分のことであった。


 ‥‥一二六三年、キエフ・ルーシの北東にあった、同じルーシ系のウラジーミル・スズダリ公国のもとに、モスクワ公国(モスクワ大公国、モスクワ・ルーシ)が成立した。モスクワは、キエフ・ルーシの時代には名もよく知られぬ小さな街であったが、ヴォルガ沿いにあった。この水運により経済を発展させ、「タタールの軛」下のルーシにおいて、台頭していった。その先鞭をつけたのは、イヴァン一世。あのアレクサンドル・ネフスキーの孫にあたる人物である。ルーシの諸公がハンに納める貢納のまとめ役であった彼は、この行為によって財布(カリター)なるあだ名を頂戴し、また金袋公と呼ばれた。一三二七年、このイヴァン一世が反タタール蜂起の鎮圧において活躍し、翌年ウラジーミル大公位を得た。ノヴゴロド共和国の支持はすでに得ていた。その後、この国家はこの一四世紀のうちにスズダリ・ニジニ=ノヴゴロド公国やトヴェリ公国と戦い、これらを足下に置いた。キエフに代わる、新たなルーシ国家の興隆である。折しも、「過ぎし年月の物語」による「海の向こうのヴァリャーグ」リューリクと、キエフでのオレグによる「ルーシ」建国から、五百年が過ぎるころであった‥‥。

 このイヴァン一世から数えて六代目の大公がイヴァン三世である。彼は、モスクワ大公国の支配圏を大きく広げた。一五世紀後半から次の世紀にかけての彼の治世下、モスクワ大公国は、ヤロスラヴリの諸侯国、ロストフの諸侯国、リャザン公国の半分、トヴェリ公国、ベロオーゼロ公国、そしてノヴゴロド共和国などを次々と飲み込んでいった。ルーシにおいては諸侯による分領が伝統であったが、彼は強力な中央集権体制を目指した。ローマ皇帝の後継者宣言も、そのための権威づけであった。妻ソフィヤは、地中海の洗練された文化の香りを、公国へ運んできた。ごつごつした城砦であったクレムリンはこの時期に、壮麗な宮殿へと変貌した。モスクワ大公国の膨張は、ルーシの統一化を伴った。この時代、ルーシは、西にリトアニアとポーランドの脅威を抱え、東と南ではもっと脅威であるタタール――長年ルーシの地を踏みしだいてきた――との軋轢(あつれき)を抱えていた。

 イヴァン三世はタタールに挑み、一四八〇年、ウグラ川において、アフマド・ハンの軍勢の渡河を阻止することに成功した。イヴァンは、ハンからの独立を宣言した。ルーシを、ついに(くびき)から解放したのである。

 タタール方面を安定させたイヴァン三世は、次に西方のリトアニアに挑み、同大公国に支配されていた西ルーシの土地を得た。しかしまた、ノヴゴロド共和国等を併合したことにより、モスクワ大公国は、バルト海世界の覇権争いに巻き込まれてゆくのである‥‥。ヨーロッパ中央の強国ポーランドに加え、あのドイツ騎士団やスウェーデンといった強敵と対面せざるを得なくなったのだ。特にドイツ騎士団は、はっきりと東方の地への野心を見せていた。イヴァン三世はまた、正教会の守護者を自認し、ヨーロッパの人々に東方のルーシの国の存在感を見せつけた。

 このイヴァン三世の孫が、イヴァン四世である。一六世紀なかば、彼は「ツァーリ」の号を正式に用い、これによりこの国家は「モスクワ・ツァーリ国家(ロシア・ツァーリ国家)」となる。「ロシア」――ルーシの国、の意――という呼称の出現も、彼の治世期である。彼は己を「全ルーシのツァーリ」と称した。この一六世紀なかばにイヴァン四世は、カザン・ハン国、アストラハン・ハン国を滅ぼし、キプチャク・ハン国領の一部を併合するなど、あらためて東方から「タタール」の脅威を除いた。これによりモスクワ・ツァーリ国家は、はっきりと多民族国家になり、またはるかシベリア地方を臨むことになった。西方においては、ポーランドやスウェーデンと、実に二五年にもわたるリヴォニア戦争に突入してゆく‥‥。

 内政面においては、諸侯の土地と権限をツァーリの手に集め、さらなる中央集権化を行なった。このイヴァン四世は、その専制で有名である。彼はツァーリとしての戴冠式にあたり、キエフ公国中興の祖として評価が高かったウラジーミル二世モノマフの帽子を用いた。モノマフはビザンティン帝国皇帝家の血筋に属しており、そのことはよく知られていた。このイヴァンは、ローマ帝国との連続性を強調したのである。

 その政治色の強い戴冠式から半年もたたぬうち、彼が三歳のときから強力な摂政として政務を執り行なっていた母后の実家が、大火に伴う暴動により失脚した。イヴァン四世はまた、その俗称もよく知られている。「グローズヌイ」――。峻厳、畏怖、威厳、恐怖‥‥。

 スターリンの映画鑑賞の趣味は先の通りであるが、基本的にそれは、彼にとり娯楽の域を出なかったようだ。その彼が本格的にのめり込み、激賞したソビエト映画があった。ロシアにおいてよく知られていたこのイヴァン四世の生涯を映画化した「イワン雷帝」である。監督は、二十年代から「戦艦ポチョムキン」などですでに名を馳せていたセルゲイ・エイゼンシュテイン(エイゼンシュタイン)。全三部作であり、第一部は、ニコライ・チェルカーソフという俳優が演じるこの「グローズヌイ」が、外敵や彼の政策を妨害する大貴族との英雄的な闘争を経て(作中ではこの「大貴族の脅威」が殊更に強調される)強大な国家を建設してゆく前半生を描き、一九四四年に完成している。この人物に並々ならぬ関心を示し、おそらくは尊敬もしていたスターリンに高く評価され、第二部、第三部の製作が続けられた。スターリンは毒殺を恐れ、食事の毒見を入念にさせていたが、この第一部にも毒殺シーンが出てくる。

 その日、一九五三年三月四日は、水曜日であった。タレールキによるラジオ放送は、重々しくも、淡々と事実を――事実とされていることを――述べた。

「三月一日から二日にかけての夜、同志スターリンはモスクワの住居で脳出血に襲われ、脳中枢部を冒された。同志スターリンは意識不明となった」

 アナウンサーの声は、まるで機械のように、一切の感情を排していた。そして、よけいなことを述べることもまた一切なく、ただ伝えることだけを伝えようとしていた。

「右腕及び右足が麻痺した。言語機能が冒された。心臓及び呼吸器系統に重大な障害が生じた」

 ソビエト連邦全土に、激震が走った。天が崩れ落ち、それまで国家を守護していた巨大な堤防が崩れ落ちるような衝撃を、人々に与えた。彼らにとって、文字通り驚天動地の事態であった。衝撃が及んだのは、ソビエト連邦だけではない。各国の共産党、社会主義政党、労働者党、また政府、情報機関、軍‥‥世界中が固唾を呑んで、ヨシフ・スターリンに関する次報を待った。


 イヴァン四世の跡を継いだフョードル一世が子孫を残さずに死去したことで、「原初年代記」以来のリューリク朝は断絶した。宰相であったゴトゥノフ家のボリスが新ツァーリに選ばれる。ツァーリの国は、三年にも及ぶ大飢饉などで荒廃、弱体化していた。そこへ、イヴァン四世のかつて死んだはずの別の皇太子を騙る、前代未聞の偽者が出現した。この僭称者は、偽のドミトリー――皇太子の名――として後代に知られる。偽ドミトリーは、この皇太子の父親すなわちイヴァン四世が息子に似ていると述べた、という噂まで流布させ、また政治的意図を持つ有力貴族の支持を受け、支持者を増やし、軍備を整えた。反対派との戦争の後、この偽者はついに「ツァーリ」として戴冠し、ドミトリー二世を名乗った。一七世紀に入る頃である。ロシア大動乱期が始まる‥‥。

 イヴァン四世は専制で知られたが、ゼムスキー・ソボル――身分制議会――という遺産を残しもした。おもにツァーリによって(制度上は総主教や貴族議会(ボヤーレ・ドゥーマ)も可)召集される。この貴族議会(会議)、また高位聖職者による聖職者会議の他、第三身分として商人等の都市住民の代表(稀に農民代表も)入るものであった。彼の治世期には、この議会(ソボル)がしばしば開かれてもいた。ゴトゥノフ家のボリスを新ツァーリに選出したのも、このゼムスキー・ソボルである。

 偽ツァーリ・ドミトリー二世は、ポーランドの手先だった。その正体を見抜き始めた民衆は憤り、先の戴冠後まもなく、反対派の手によって暗殺された。死体は赤の広場で見せしめにされ、焼かれ、残った遺灰はひとまとめにされ、大砲に詰められ、ポーランドの方向に向けて発射された。この偽ツァーリの顛末を描いたプーシキンの戯曲と、それをもとにしたオペラがある。「ボリス・ゴドゥノフ」である。

 このロシア大動乱期、モスクワでは大貴族がクーデターを起こし、ポーランド軍には大敗してモスクワを奪われ(ロシア・ポーランド戦争)、スウェーデンのグスタフ・アドルフの介入でカレリア、イングリア等の領土を奪われた。「ロシア人」は奮起し、コサック、農民、士族‥‥等々によるおよそ一〇万からなる「国民軍」を結成、ポーランド軍を撃退しモスクワを解放した。大貴族ロマノフ家のミハイルをツァーリに推戴した。ここに、リューリク朝に代わる新王朝、ロマノフ朝の歴史が始まるのである。

 一六一七年にスウェーデンと、翌年にはポーランドと和睦し、大動乱は終結を見た。この一七世紀なかばに起こった北方戦争(後の「大北方戦争」とは別である)に、ロシア・ツァーリ国家も加わることになる。スウェーデン、ポーランド・リトアニア連合、ブランデンブルク=プロイセン、神聖ローマ帝国、デンマーク、そしてウクライナなどが参加した一連の争乱を、まとめた呼称である。これのウクライナ史の観点からのものは、既述の通りである。またこれは、ポーランド史においては「大洪水時代」と呼ばれる時期である。また、デンマーク史においては「カール・グスタヴ戦争」として知られる。この本格的な国際紛争には、イングランド、ネーデルラント(オランダ)も関わった。この北方戦争、そしてウクライナを併呑しポーランドに対峙したこの一七世紀を通じ、ロシアは確実に国力を増していった。そして、この世紀の後期、ある革新的なツァーリを推戴することになる。「大帝」ピョートル一世である。

 「大帝」の所以(ゆえん)は、二メートルを超していたといわれる上背と、同時代また後代から見ての存在感の大きさにある。一六八二年、ツァーリとなった彼は「海」と「船」に強い関心を抱いていた。ロシアにおいて海軍を創設したのは彼である。一六九六年にはその艦隊を用い、オスマン帝国(トルコ、オスマン国家)との戦争において勝利した。翌年から一年半近くをかけて、およそ二五〇名からなる使節団を西ヨーロッパに派遣した。なんと自らも偽名で紛れ込み、造船技術ほか科学技術、軍事技術また海軍、造園業から歯科医療に至るまでをつぶさに見てまわった。

 一六九九年に反スウェーデンの同盟をポーランドおよびデンマークと結び、翌年からスウェーデンと交戦状態に突入――‥‥「大北方戦争」の幕開けである。バルト海に近いスウェーデンのナルヴァ要塞を包囲するものの、弱冠一八歳のカール一二世率いるスウェーデン軍に大敗を喫する。このことはピョートルに、なお一層の海軍力増強の必要性を痛感させた。スウェーデンはポーランドも相手にせねばならず、結局、一七〇四年にナルヴァはロシアのものとなった。ピョートルは、前年に占領していたイングリア地方はネヴァ川の河口のデルタ地帯に、全く新しい都市の建設を開始させた。

 多くの者にとってこの新都市は、白海に面するアルハンゲリスクに代わる新しいバルト海貿易の港湾都市に過ぎなかったが、ピョートルにとっては違っていた。湿地帯のため工事は難航したが、彼はあきらめなかった。万単位の労働力が投入された。一七〇八年、カール一二世率いるスウェーデン軍がウクライナのヘーチマンであるイヴァーン・マゼーパと連合して、ロシアに侵攻を開始した。ロシアは焦土作戦を展開し、また冬将軍にも助けられ、翌年のポルタヴァ包囲戦(ポルタヴァの戦い)で彼らに大勝した。ピョートルは親ロシア派のアウグスト二世をポーランド王位に戻し、東カレリアを取り返しまた西カレリアとリヴォニアとを手に入れた。オスマン帝国のイスタンブルに逃げていたカールはアフメト三世をたきつけ、オスマン帝国をロシアと再交戦させることに成功、ピョートル率いるロシア軍はプルト川河畔でオスマン軍に敗北を喫し、カール一二世は故国に帰還でき、オスマン帝国は先の戦でロシアに奪われた領土を取り戻した。

 翌一七一二年は、ピョートルの勝利の年であった。一万人ともいわれる犠牲者を出しながら、新都市の陣容が整い、彼はこの港湾都市に遷都を敢行したのである。この新首都は、オランダ語風に「サンクトピーテルブールフ」、後にはドイツ語風に「サンクトペテルブルク」と呼ばれた。同年のバルト海ハンゲ(ガングート)半島沖で行なわれた艦隊決戦、ハンゲの海戦(ガングート海戦)におけるスウェーデン海軍に対する勝利は、ピョートルとロシア海軍の存在感を、否応なくヨーロッパ――特に西欧――世界に見せつけた。これによってロシアはバルト海の覇権を獲得、反対に覇権を失ったスウェーデンは没落した。諸国の干渉によりポーランドからは軍の撤退を余儀なくされたが、最終的に一七二一年、イギリス(グレートブリテン王国、グレートブリテン連合王国)の調停により、大北方戦争はロシアの勝利で終わった。ピョートルのもと、ロシアはもうかつての東方辺境の国ではなく、ポーランドをも睨む欧州の強大国に変貌を遂げていた‥‥。バルト海のほか、オスマン帝国と争ったことで、黒海北部のさらなる内海アゾフ海にも進出を果たしている。

 なおピョートルは、イフム・ニコノフという発明家による(事実上の)新兵器にも着目していた。潜水艇である。船体はオーク材による葉巻型、推進力は人力、すなわちオールで漕ぐ方式だが、貫通部は油を浸した動物の皮で覆うなど、水密は工夫されていた。兵装は、銅管から発射する「ロケット」であった。もちろん、水中発射である。一七二〇年に作られた試作型はいちおうの成功を見ており、シリーズでの建造が始められた。シリーズの一番艇と二番艇はどちらも失敗しており、この計画は未完のままとなったが、この当時、潜水艇は、およそ百年前にオランダ人の発明家がイギリス海軍向けに製作しているが、頓挫したとはいえ量産化計画を推進させた国家指導者は、おそらくピョートルが初ではないだろうか。潜水艇が実戦に投入されるのは、ピョートルの時代からさらに五十年余を経た、アメリカ独立戦争においてである‥‥。ピョートルは、「ロシア海軍の父」と称されることになる。

 ピョートルはヨーロッパと争う一方、ヨーロッパの先進的な諸制度を貪欲に国内にとりいれてもいった。単に対外戦争に勝利したというだけでなく、このことが彼をロシア史における真に革新的なツァーリならしめている。一七〇五年には徴兵制も導入し、海軍のみならずこの陸軍の兵士にも西欧式の訓練が施された(後の戦争における勝利には、この要因もあげられる)。貴族や民衆にロシア風のひげを切らせ、臣下や役人に西欧式の正装を義務づけた。女性皇族の伝統的な行動制限も撤廃した。行政においては元老院を設置し、官庁制度の無駄な部分を切り捨てた。国土に「(グベールニヤ)」という行政単位を設置した。官営工場の設立も試みた。貴族階級に対しては、爵位制度の導入、長子以外の貴族子弟の軍または政府での勤務の事実上の強要があげられる。政府での勤務者の官等を明確にし、彼らを――武力でなく教育で――競わせた。教会――ロシア正教会に対しても、モスクワ総主教座は空位とし、後には廃止した。教会の既得権であった免税特権も奪い、諸教会を政府の宗務院の管轄下に置いた。近代的な中央集権国家――ピョートルは、先進ヨーロッパ諸国に祖国ロシアを並ばせるべく、奮闘したのである。

 設置した元老院から、大北方戦争の勝利を記念するとして、自らに「皇帝(インペラトール)」の称号を贈らせた。彼ひとりの名誉欲のためだけではなく、後代を考えてのことである。国体を「帝国(インペラートルの国)」、対外的な国号を「ロシア帝国(インペラートルの国)」と昇格させた。一三世紀中葉にモスクワ公国が興ってから、四五〇年あまりを経ての、大きな門出であった。


 ピョートルの没後、ロシアはまたもや貴族の勢力争いが盛んになり、停滞を余儀なくされる。一八世紀後半、女帝エカチェリーナ二世が西欧の啓蒙主義に基づいたさらなる近代化を図り、いわゆるポーランド分割によりポーランド東部を併呑し、露土戦争により黒海沿岸やクリミア半島といった南方の沿海地域に進出、サファヴィー朝に挑み、カフカース地方も併合した。シベリアを越えたはるか東方、アラスカ、千島にも進出し、日本の江戸幕府に交易を求めた。アメリカ独立戦争にも、これを好機と見て介入を試みている。

 一九世紀、アレクサンドル一世は、対仏大同盟に参加した。フランス革命の時代、「ラ・マルセイエーズ」の時代である。一八一二年には、ロシアをまたもや襲った苦難、ナポレオン一世の侵攻に遭うことになるが、これを撃退、彼の力を奪い没落へと追いやった。ウィーン会議後に神聖同盟を提唱、フランス革命の「自由主義」に羅患した者たちの運動を、各国と連携して封じ込めた。次のニコライ一世は、ギリシア独立戦争やエジプト・トルコ戦争に介入、「汎スラヴ」の大義を掲げて南下政策を推し進めた。しかし、その南方に位置していたオスマン帝国との間で起こしたクリミア戦争では、敗北を喫した。イギリスとフランスの介入――参戦のためである。この敗北は、ロシアに試練を与えた。まず、財政難である。

 ――ロシア帝国は、ベーリング海峡を越え、北アメリカ大陸のアラスカ地方にも植民を行なっていた。アザラシ等の海洋動物の毛皮を採集していたが、アラスカは、首都サンクトペテルブルク等のあるいわゆるヨーロッパ・ロシアから離れすぎており、運送費がかさみ、とても商売にならなかった。乱獲により、海洋動物そのものも激減していった。それらの要素に加え、この財政難である――帝国は、一八六七年、クリミア戦争に中立の立場を取っていたアメリカ合衆国に、七二〇万ドルでアラスカを売却した。

 政治的には、再び改革の季節を訪れさせることになった。その次のアレクサンドル二世は一八六一年、「農奴解放令」を出し、西欧的な尺度ではこれにより近代国家に近づいた。解放農奴たちは、農村で小作農の途を選ぶ者と、都市での生活を目指す者とに分かれた。後者が労働者となる。これにより産業革命も進んだ。極東地方においては相変わらず南下政策を推し進め、中国の清朝と勢力圏を定めあった。この二帝の時代に、「県」とは別の行政単位「(オーブラスチ)」が、多く設置されている(その後も設置は行なわれる)。彼の息子アレクサンドル三世、そしてその息子ニコライ二世の治世下では、ヨーロッパの外資導入による重工業化、極東地方へのシベリア鉄道の敷設が行なわれ、その極東では清朝領の東北部に勢力を伸ばし、遼東半島からさらに朝鮮半島、大韓帝国と名を改めていた朝鮮を狙った。同じく同国を狙う海を挟む列島の日本(大日本帝国)と軍事衝突し、事実上敗北した。露日戦争である。


 歴代ツァーリたちはしかし、国内においては反体制運動と対峙、これを弾圧した。エカチェリーナ二世は農奴やコサックの反乱「プガチョフの乱」に際して、指導者であったプガチョフという男の首をはね、遺体をモスクワ中で引き回して見せしめとし、さらにこれを裂いた。残党軍の掃討も、峻烈を極めた。ニコライ一世は、デカブリストの乱と呼ばれる貴族――将校――たちの反乱に遭った。国内矛盾からの不満をそらすため、彼は対外戦争に乗り出すことになった。アレクサンドル二世は、自身がテロにより爆殺されることになった。彼は確かに農奴解放を行なってはいたが、それは真の解放ではなかった。貧農たちは結局、農奴から富農や資産家の賃金奴隷に移行したに過ぎず、彼らを実質的に解放することが必要なのである――とする「ナロードニキ運動」が起こった。ただし、ナロードニキと呼ばれるこの運動の推進者たちは、近代化された都市部の中流以上の出身が多く、肝心の小作農たちから支持を得られなかった。小規模の反乱はオフラーナの激しい弾圧に遭い、やがてテロリズムを奉ずる過激な一派を誕生させ、アレクサンドルの殺害につながる。一八八一年のことである。

 この運動の過激グループ「人民の意志」派によるものであった。当然のことながら、彼らはこれによりさらに激しく弾圧された。この弾圧のなか、同派に属するアレクサンドルという青年が連座逮捕された。彼には弟がいた。この弟にとって、幼い頃から四歳年上のこの兄は、アイドルであった。彼の口癖は、「サーシャ(アレクサンドルの愛称)と同じに」であった。一家では、おかゆが食卓に運ばれてくると、誰かがこの少年に質問するのがならわしであった。

「おかゆに何を入れたいの? 牛乳、それともバター?」

 するとこの弟は、いつもこう答えた。

「サーシャと同じに」

 アレクサンドルが「人民の意志」派に参加していることは、家族の誰も知らなかった。彼の姉もたまたまアレクサンドルの下宿にいて、同時に逮捕されてしまった。ふたりの逮捕は、最初にこの弟に知らされ、彼が母に伝えた。母はふたりの子どもの救出のため、サンクトペテルブルクに赴いて必死に奔走したが、テロに連座したとされる息子の母に対する有力者たちの反応は、冷たかった。アレクサンドル青年は、法廷で自分の所信の正しさをきっぱりと主張し、他の同志たちの罪までも引き受け、死刑の判決を受けた。刑の執行は五月八日に行なわれ、姉は五年間の首都追放を申し渡された。

 すべての知人たちがこの一家から遠ざかっていった。それまでは毎晩チェスをさしに来ていた老先生までもが、ぱったりと姿をみせなくなった。この一連の出来事は、少年――弟にとって、強い印象を植えつけることになった。少年は、狩猟やスケートに心を紛らわすかたわら、猛烈な勢いで読書を始めた。彼は、非業の死を遂げた兄の愛読書でもあったニコライ・チェルヌイシェフスキーの小説を読み、深い感動を覚えた。小説のタイトルは、「何をなすべきか?」。

 少年の名は、ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ。後のウラジーミル・レーニンである。これらのなかで不安や憤りとともに覚えた感触――社会と世界に対する探究心が、十月革命後、彼がゾーヤと会った際に味わった思いの正体であった。

 長じた彼は、一九〇〇年、クルプスカヤまた同志たちとともに、機関紙を発刊し始めた。「イスクラ」――このタイトルは、シベリアへ流刑されたデカブリストを讃えたアレクサンドル・プーシキンの詩、「シベリアの鉱山の奥深く/誇り高き忍耐を持ちこたえよ君たちの悲しい事業/思考の気高い営みは滅びない‥‥」に応えてウラジーミル・オドエフスキーがうたった詩の一節、「火花(イスクラ)から(プラーミヤ)が燃えあがるだろう」からとられた。

 まもなくマクシム・ゴーリキーが、詩「海燕の歌」を発表した。

「――嵐だ! まもなく嵐がやってくる!」

 一九〇一年五月から、レーニンは新しい党の理論的基礎を解明する著作に取りかかった。一九〇二年三月、その著作「何をなすべきか? われわれの運動の焦眉の諸問題」が出版された。これは、ちりぢりになっていたロシアの社会民主主義的サークルを、強力なひとつの革命党へと結集させる力強い呼びかけとなった。

 そして一九〇二年一〇月のある朝早く、レーニンがクルプスカヤと住んでいた亡命先、ロンドンはキングス・クロス近くホルフォード・スクエアの台所つきの一室のドアを、ノックする者がいた。クルプスカヤは、同国人であることを予測しつつ、そのドアを開けた。果たして予測は当たった。夫のもとに、またひとり熱烈な同志が訪れたのである。戸口に立っていたのは、眼鏡をかけた、まだ若いハンサムな同志であった。キリッとしており、誠実で実直そうな雰囲気を漂わせていた。シベリアはヴェルホーレンスクから、脱走してきたという。レーニンの「何をなすべきか」を読み、居ても立ってもいられなくなった、と――。

 夫は、「イスクラ」を通して、まだ二十代前半のこの若者のことを知り、彼を招いていたのである。若者は、まだベッドに座り込んでいるレーニンと、さっそく議論を始め出した。レーニンは、招いたとはいえ、早朝の急な訪問に驚きを隠せないままであった。しかし、優しみのある表情で、このハンサムで快活な若者の言葉に熱心に耳を傾けていた。

 この早朝の訪問者こそ、若き日のレフ・ダヴィードヴィチ・ブロンシュテイン。後のレフ・トロツキーである。当時は、ペロー(ペン)(羽、文筆家)という簡単な筆名のほうが知られていた。彼がこの脱走行のさなか、イルクーツクでシベリア鉄道に乗る際、同志たちから受け取った偽造パスポートに急いで書き込んだ名が、かつてオデッサに収監されていたときの看守の名「トロツキー」であった。ユニークなこの命名(なぜなら別の「トロツキー」がいることを知っていて、自分につけたのだから)について、彼自身は、この名が自分の終生の名になろうとは想像だにしていなかったと述べるにとどまっている。

 ナロードニキはまた、初期の社会主義者たちでもあった。彼らは、ロシア農村部を、資本主義の段階を飛ばして一気に社会主義化できると信じていた一派でもあった。絶望的行き詰まりと弾圧により運動そのものは衰退していったが、彼らの思想を受け継ぐ者たちもいた。後の社会革命党すなわちエスエルである‥‥。

 二〇世紀初頭において、その直接行動主義、苛烈さにおいては社会民主労働党――ロシア社会民主労働党――のそれを上回っていた。後に同党左派グループの事実上の指導者となるマリア・スピリドーノヴァは、一九〇六年、農民反乱の鎮圧を行なっていた将軍の顔面にリボルバーを撃ち込んで暗殺し、逮捕されていた。このとき彼女は当局によって拷問され、強姦された。しかし彼女は屈せず、その後の裁判においても主張を曲げることはなく、また新聞にその公開状が掲載されたことで、国内外に大きな反響を巻き起こすなどしていた。

 エスエルのその後については、既述の通りである‥‥が、ほんの少しだけ補足する。彼女を含めたエスエル左派は、ボリシェヴィキによる支配――ソビエト連邦成立後も、活動を続けた。しかし三十年代に構成員の多くが逮捕され、組織としては壊滅した。マリア・スピリドーノヴァはウラル地方のウファに追放、懲役二五年の判決を受けた。その後、ドイツ軍が迫るさなかの一九四一年九月一一日、オリョール近郊のメドヴェージェフスキーの森にて、他のおよそ一六〇人の活動家たちと共に、彼女は銃殺された。トロツキーを始め、この時期は、反ボリシェヴィキ、反スターリン活動家――あるいはそう見なされた人々――殺害の、総仕上げの時期であった。ウラジーミル・アントーノフ=オフセーエンコはとっくに転向していたが、スペイン内戦から帰国後の一九三九年に処刑されている。スルタンガリエフ――ミール・サイッド・スルタン・ガリーウグルは、前述のように一九二八年一一月に再逮捕され、以降、直接的には政治的影響力を失うことになった。そして三十年代を経た一九四〇年一月、処刑された‥‥。これらの処刑は、スターリンの裁可のもと、ラヴレンチー・ベリヤの指示によって行なわれたものであろう。


 一九一七年、ウラジーミル一世によって開基されたボリシェヴィキ朝ロシアは、これまで見てきた通り、多大な犠牲を払いながらも、幾多の試練を乗り越えてきた。しかし、三六年めにあたるこの年、またしても大いなる試練に直面したのである。

 同じ三月四日にコミュニケは、同志スターリンには、「相当長期にわたり、暫定的に執務の停止」の必要があると報じた。ソビエト連邦に、深い沈黙が訪れた。誰もが――集合住宅(アパートメント)で、官庁で、兵営で、そして収容所で――固唾を呑んで、タレールキから流れてくるアナウンスに耳を傾けた。

「同志、実験は、まだ始めませんの‥‥?」

 613型潜水艦の一室で、その女はコミッサールに尋ねた。

「‥‥諸事情により、しばらく延期となった‥‥」

 コミッサールは、事実を答えるしかなかった。この女は、何者なのだ‥‥? 政府、党、軍、あるいは秘密警察の関係者であろう――と察しはついたから、へたな口はきけなかった。そもそも、得体の知れぬ任務であった。この女とともに潜水艦に乗り組み、潜水中の定められた日時に何やらカードをめくらせ、その模様を逐一観察、結果を含め細大もらさず報告せよ、という。一五秒以上の狂いがあってはならない、と厳命されていた‥‥。この実験は三回行なわれることになっており、うんざりするほどの報告書を書かなければならなかった。女の名前と、「高度に科学的な実験である」という以外、彼にもこれといった情報は与えられていなかった。そして、このヨシフ・スターリンの危機――すなわちこのソビエト連邦の危機である。司令部も、実験は延期、とりあえず延期だと切羽詰まった調子で伝えてきた。無理もない。スターリンにもしものことがあれば――国の行方すら、見通しが立たなくなるのだから‥‥。

「諸事情‥‥?」

 女は訊いてきた。コミッサールは、司令部から延期という知らせがあった旨だけを伝えた。女は、それで納得してくれたようだった。

「新たな通達があるまでお待ちいただけますかな、同志ゾーヤ殿‥‥」

 皮肉以外で「同志」という語を使うのは、久しぶりであった。女は、ゆっくりと頷いてくれた。それをいいことにこのコミッサールは、逃げるように引き戸を開け、その部屋を後にしようとしたが、

「もし――?」

と女に呼び止められ、立ち止まった。

「は、何でしょう‥‥?」

 コミッサールは、上官に対するような返事をしていた。

「ミハイル・ソコライエフという将校が、この艦にいます。副長のはずです」

「自分もこの艦に乗り組んだばかりで、詳しいことは‥‥」

 あのきびきびとした副長はそんな名前だったか‥‥とにかく、面倒は避けるに越したことはない。

「コミッサール殿、あなたに迷惑はかけません。ソコライエフ副長に、お言伝(ことづて)をお願いしたいのです」

「はあ‥‥」

 コミッサールは、引き戸を閉めた。乗組員から見れば、不自由な潜水艦の艦内において、コミッサールは恵まれた待遇だ。だが‥‥。

(せっかく、何ごともなく穏便に済まそうと‥‥)

 彼は内心ひとりごちていた。事なかれ主義と言うなかれ、彼にも昇進と転任の話があったのだ。この特別任務をやり遂げれば、という‥‥。

(やはり地上勤務、せめて水上艦勤務がいい――)

 いつもの思いだった。戦中には、上官から――戦車兵たちと戦車に同乗し最前線で勤務した、自らも拳銃を抜いて集束手榴弾を手にした敵歩兵相手に奮戦した――などという(苦労話を装った)自慢話を聞かされたりもしたが、現在ではそういう危険はないのだ。

(面倒なことになりそうだ‥‥)

「――面倒なことになりませんよ。潜水艦勤務、いいじゃないですか? 私は今回のことが終わったら降りますから――。そうすればここは、艦長や副長がいない時間帯は、事実上あなたの個室‥‥。北極海の水中でも‥‥。もう、ずっと乗っていらしたらどうです?」

「‥‥‥‥」

「あらあら、びっくりした顔なさらないで。顔に、書いてあったんですよ。あなたの心を読んだわけじゃありません。本当ですよ‥‥。――潜水艦勤務がどうしてもお嫌でしたら、そちらのほうはやめておきましょう‥‥。おことづてのほう、よろしくお願い致します‥‥」

「‥‥‥‥‥‥」

「おわかりいただけます‥‥わね‥‥?」

 コミッサールはふと、眩暈(めまい)を感じている自分を発見した。女の目が、妙な光を放っているような気がするが、これは――‥‥。

「コミッサール殿?」

 トーンが変わった女の声は、どこか遠く聞こえた。

「――大丈夫ですか? 船酔い‥‥? 潜水艦の揺れは、独特なんでしょうか――」

(‥‥きっとそうなんだろう‥‥とにかく今は‥‥指示を待ち‥‥よけいな詮索をしないほうが身のため‥‥だ――)

 しばらくして、コミッサールは伝言を引き受け、今度こそほうほうの体で部屋から脱出することに成功した。そのため彼は見落とすことになった。ゾーヤと呼ばれる女が、嫣然(えんぜん)とした笑みを浮かべていたのを‥‥。

 ――ESP(超能力)の軍事利用。その詳細については、性質柄、ほとんど不明である。米ソ両大国で行なわれていたと言われている‥‥。


 イヴァン三世は、後継者問題を抱えていた。一四九〇年、彼の後継者とされていた長男が没すると、その息子ドミトリーと、異母弟ヴァシーリーのいずれを世継ぎにするかの対立が起きた。これには、宮廷内の対立とロシア正教会の宗教問題がからんでいた。一四九七年、異母弟支持者による息子の暗殺計画が発覚し、支持者の多くが処罰され、この異母弟も軟禁状態におかれた。翌年には息子が共同統治者に指名されたが、巻き返しが図られ、一五〇〇年には異母弟が改めて共同統治者に指名され、二年後には息子が逮捕された。この異母弟の勝利により、正教会財産の世俗化が否定された。イヴァンは世俗化を目指す側に近く、この敗北は彼の権勢を弱めた――一五〇五年、イヴァン三世は没した。

 ミハイル・ソコライエフは、戸惑っていた。突然、艦長に呼び出され、行くと、コミッサールが立っていた。艦長は離れ、コミッサールも困ったような顔をしながら、彼の耳に囁いたのだった。「クロンシュタット‥‥」と。

 どういう意味ですかと問うても、コミッサールは、わからない、と繰り返すだけだった。私も困っているんだ、と肩をすくめた。ソコライエフは、持ち場に戻った。それは、自分が幼いころ住んでいた街、この国の人間、少なくとも海軍の人間なら知らぬ者のない、軍港都市だ。あの街が自分に「海」と「軍艦」への関心を持たせ、このように最新の潜水艦に乗り組むまでにさせたのだ。そういう自覚はある。しかし、それがどうしたというのか。自分は一一歳の頃、両親に連れられてあの街を離れ、モスクワへと移り住んだ。俺の生まれを、なぜあの女が知っているのだ。ソコライエフは、女の名前を訊いた。

 ゾーヤ。格別珍しい名前ではないが、どこか懐かしい気がした。

 ゾーヤ。クロンシュタット。ゾーヤ‥‥。

 何か思い出せたというほどではないが、闇のなかからうっすらと、光る糸が見えてきたような感覚に捉われた。ミハイル・ソコライエフは次々に乗員とすれ違いながら、細長い艦内をゾーヤという女が待つ一室へと向かった。

(クロンシュタット‥‥)

 あの水兵たち‥‥‥‥。


 セルゲイ・エイゼンシュテインの「イワン雷帝」第一部がスターリンに好評であったことは、前述の通りである。先の通り、イヴァンの英雄としての面が強調されていた。一九四六年に作られた第二部はしかし、様相を異にしていた。猜疑に駆られたイヴァンが、大貴族たちを粛清してゆくのである。

 ――一五七四年、イヴァン四世は何度目かの粛清を起こした後、年末にやはり初めてではない退位宣言をした。彼は、「一五七五年にロシア君主が死ぬ」と占星術師に告げられていた。一五七六年の年明けには、再びツァーリとして復位した。ポーランド、そしてスウェーデンとの戦は続き、リヴォニアに侵入してその大半を占領したが、彼らの逆襲に遭い、一五八一年にナルヴァを失った。この年、彼は、後継者である同名の次男イヴァンを誤って殺してしまった。戦の見通しは立たず、翌年にポーランドと、翌々年にはスウェーデンとの休戦を余儀なくされた。帝国の国境線はリヴォニア戦争開始時まで後退し、バルト海の交易ルートも失った。圧政と大量粛清は恐怖政治と化し、当時の人々にのしかかるようになっていた。この戦はロシアを大きく疲弊させ、重税や飢饉に苦しんだ農民は、大挙して遠方へ移住していった‥‥。

 繰り返しになるが、「イワン雷帝」では第一部の時点ですでに、「大貴族の脅威」が執拗なほど強調される――外敵との戦の前線においてですら、それは語られる。とにかくスターリンは第二部に激怒し、一部撮影が始まっていた第三部とともに、お蔵入りとなってしまっていた。その第三部の台本では、ラスト・シーンで、イヴァンは後悔し、懺悔する。いままで粛清してきた人々の名を読み上げながら。そのなかには、スターリンによって粛清されたエイゼンシュテインの友人たちの名が、ひそかに取り入れられていた。ちなみにエイゼンシュテイン自身は、一九四八年に亡くなっている。

 グローズヌイことイヴァン四世は、息子を殺した罪の意識に苛まれる晩年をおくったようだ。一五八四年、この専制のツァーリは重病に陥り、三月一八日に死んだ。占星術師に計算させていた死亡予定日であった。三男フョードルには知的障害があり、前々から後継者には不適格と考えられていた。イヴァンは摂政団による集団指導体制の確立を遺言し、彼らにロシアを託さざるを得なかった。


 どこからか、ブハーリンの声が聞こえてきた。

「コーバ、私の死が必要だったか――?」

 次には、ナジェージダの声が聞こえてきた。

「あなた、私の死が必要だったの――?」

 そして、キーロフとオルジョニキーゼの声が聞こえてきた。

「コーバ、俺たちの死が必要だったか――?」

 キーロフはロシア語、オルジョニキーゼはグルジア語だったが、それぞれの特徴(あじ)を損ねることなく、絶妙に融け合わさっていた。

 彼は、必死に反駁しようとした。

「違う、俺は――‥‥」

 だがそこへ、別の声が聞こえてきた。

「コーバよ、同志スターリンよ、われわれの死が、そんなに必要だったか――?」

 その声は、カーメネフのようでもあり、ジノヴィエフのようでもあり、トゥハチェフスキーのようでもあり、そのほかの人間のようでもあった。

「‥‥殺したのは、私だけではない――」

「‥‥‥‥」

「必要だったかどうかは、歴史が定めるであろう――。それも、十年や二十年単位ではない。百年、あるいは二百年といった時を経ての‥‥」

 ヨシフ・スターリンは、それだけ言うのがやっとだった。

「――なるほど‥‥」

 声の主はしかし、なるほど、で納得していないようだった。

「私は、多くの人間を殺した。そしてここにいる。おまえは、どうだ?」

 彼らの映画や放送で聞いた、アドルフ・ヒトラーの声が聞こえてきた。

「余は、多くの人間を殺した。そしてここにいる。おまえは、どうだ?」

 次には、「イワン雷帝」のイヴァン四世ニコライ・チェルカーソフの声が聞こえてきた。

「私も、多くの人間を殺した。そしてここにいる。同志は、どうだ?」

「私も、多くの人間を殺しました。そしてここにいます。同志は、どうでしょうか?」

 今度は、フェリックス・ジェルジンスキーとニコライ・エジョフの声が重なって聞こえた。そして、最後はやはり、あの男の声であった。

「私もだ、コーバ。多くの人間を殺した。そしてここにいる。おまえは、どうだ?」

 そのレーニンの声は、かつてスターリンが聞いたどれよりも厳しく、重く、抉るような鋭さを持っていた。

「死が必要なのは、誰だ‥‥?」

 声はやはり、次第に和音となり、誰でもありまた誰でもない声、世界に響きわたる音となり、彼に襲いかかった。

「スターリン‥‥なるべく早くここへ――」

「よりによってこの自分が――?」

「あるいは気づいたときには遅かった本当の――」

「‥‥心理には、同志も気づかない重大な欠陥が――」

「‥‥慎重に行使する能力の持ち主かどうか、疑問に思う――」

「――ここへ来て、また私たちを導いてください‥‥。私たちは指導者を必要としています。同志スターリン、あなたしか考えられません‥‥」

「‥‥必要なのは誰だ。いったい誰なんだ――?」

 そして‥‥。何者かが、銀色の闇でありまた黒い朝(もや)であるなかから、姿を現した。その姿は、レーニンのようであり、他の誰か――老若男女――のようであり、やはりレーニンのようでもあった。死神だろうか‥‥? しかし、それにしては、得物が多いように思えた。その人影は、どうやら大きな鎌らしきものを片手にさげていたが、もうひとつ何か長い物を、もう一方の手にさげていたのだ。ガチャンという鈍い音とともに、人影はそれらを体の前で交()させ、初めてヨシフ・スターリンにその正体をわからせた。

 それは、大きなハンマーだった。


 三月六日午前六時、モスクワ‥‥。この日の放送は、重々しく悲壮なドラムの響きとそれにつづく国歌の吹奏で始まった。

「すべての党員諸君、ソビエト連邦のすべての労働者諸君‥‥」

 アナウンサーの声は、ひたすら重々しかった。

「レーニンの戦友、その事業の天才的な継承者、ソビエト連邦共産党と人民の賢明な指導者、教師であるヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリンは心臓の鼓動を止めた」

 二五分間、朗読が続いた。中央委員会、また政府と最高会議幹部会のコミュニケが、人民に対し、鉄の統一と一枚岩の団結を求めた。そして、医者たちの発表――前夜九時五〇分の同志スターリンの最期の模様が述べられた。

 街角には臨時のスピーカーが増設され、ラジオは一日中追悼の音楽を流した。ショパンとベートーヴェンの葬送行進曲、チャイコフスキーの悲愴交響曲の最終楽章、ベルリオーズの「死者のための大ミサ曲」、そしてまた国歌「祖国はわれらのために」。無粋にもこれらの音楽はときどき中断され、コミュニケが読み上げられた。大きな損失と悲しみを語るとともに、団結と警戒心の重要性を繰り返し繰り返し人民に説いた。これまでタレールキからはあまり聞こえてこなかった「パニック」や「混乱」という言葉も飛び出し、「これを回避する」よう訴えた。

 ニキータ・フルシチョフを長とする委員会が設置され、葬儀を執り行なうことになった。三月六日の午後三時、スターリンの遺体は労働組合会館に運ばれ、そこに安置された。午後四時から一般に開放されたのだが、たちまち押し合いへし合いになり、危険な状況になった。この群衆にはソビエト連邦全土から組織的に集められた者たちもいたが、自発的に集まった者たちもいた。警備側も危険を覚えるほどの事態になったことからも、それはわかる。まだ粉雪の舞うなか、モスクワ中から、この会館めがけて何キロメートルもの帯が幾本もできた。交通信号は無効化され、政府や警察(民警)の車さえなかなか通れない状況になった。何とかこれを突破した車から、ヴャチェスラフ・モロトフが降り立ち、

「押さないでください、急がないで!みなさん、わが敬愛するヨシフ・ヴィッサリオノヴィチに、みんなが挨拶できますよ‥‥!」

と叫んだが、人民の波に飲まれ、何の役にも立たなかった。負傷者、そして死者が出る事態となった。これが三日三晩つづいた。夜には、政府は投光器をかき集めてこなければならなかった。そうでなければ、さらに収拾のつかない状態になると思われた。このとき集まった人々の数は、およそ五百万人にのぼるという。繰り返すが、まだ粉雪の舞う季節である。

 最後には、やはりラヴレンチー・ベリヤの出番であった。彼がレニングラードから増援として呼び寄せた民警の騎馬警官隊が群集のなかへ分け入り、いななきとともに馬を後ろ足で立たせ、彼らを制した。

 ‥‥この喧騒の間ずっと、山と詰まれた花と葉に彩られた棺のなかに、われらがヨシフ・ジュガシヴィリは横たわっていた。軍礼装姿で、綺麗な死化粧による厚い茶色の皮膚をして、鷲鼻を天に向けて。引き結ばれた口元に、堂々たる威厳を見る者も、一抹の皮肉を見る者もいた。その手は指を伸ばしていた。人民の悲嘆をなだめようとするかのように、または、何者かに摑みかからんと――あるいは逃げようとするかのように‥‥。


 労働組合会館でまだ混乱がつづき、タレールキやスピーカーからは悲愴な音楽が流れつづけていた翌三月七日、政府と医学的立場からの公式見解の発表が行なわれた。

「中央委員会、閣僚会議、最高会議幹部会は、わが党と国家のこの難局に際し、中断なき正しい指導を確保することが党と政府の最重要課題と考えている‥‥そのためには‥‥いかなる混乱やパニックも許さないことが‥‥必要である。それによって、わが党と政府が作成した政策をわが国の内政と外交と両面にわたって首尾よく実施に移していくことが無条件に可能となるからである」

 これがまず政府のほう、同日付の「ソビエト共産党中央委員会総会・ソビエト連邦閣僚会議・最高会議幹部会合同会議布告」の抜粋である。「混乱やパニック」――それによる体制の動揺をいかに恐れているか、まるで彼らのうめき声が聞こえるような文面である。

 そして、ヨシフ・スターリンの死去にあたり、七名の権威あるアカデミー会員や教授たちで構成された委員会が設けられており、同日付の「イズベスチヤ」がその結論を載せた。

「病理解剖による検討の結果、И(イー)В(ベー)・スターリンの治療にあたった医学教授たちの診断は完全な裏づけを得た。病理解剖学的検討から得られたデータは、И・В・スターリンの病気が、脳出血の発生した瞬間から不可逆的であったことを証明している。したがって、治療のために施された精力的措置が好転をもたらして死の転帰を阻止することは不可能であった」

 これが医学的立場(とされるほう)からのものである。スターリンが数日間患ったとはいえ、早すぎるこの断定には、事実はともかく、政治的な観点からの疑いを持たれても致し方ないであろう。政治犯罪的な観点(?)からは、これはアリバイ作りの見本のようなものであろう。アリバイ? 誰が、何のために――?

 後者の問いには、すぐに答が出る。殺人の――それも最高指導者ヨシフ・スターリン殺害の――嫌疑をかわすためである。では、誰が、のほうは‥‥? 「精力的措置」を施した「医者」たちだろうか?

 ここで、いくつかの連なった問題が浮上してくる。スヴェトラーナは、父親の治療にあたった「医者」たちについて、「見たこともない(医者たち)」と述べている。少なくとも、それまでスターリンの健康を診ていた医者たちではないのである(ただ、ひとりの「女医」については、どこかで見た覚えがあるが、どこでだかは思い出せないのだという)。彼らは、フルシチョフが手配した者たちであったと言われている。スヴェトラーナによれば、「若い医者たちは、馬鹿みたいに辺りをキョトキョト見まわして」いたそうである。‥‥そもそも、本当に医者であったかどうかすら、疑わしいのである。

 さらに、スターリンが――突然の――発作に襲われた時期の問題がある。公式発表では、三月一日から二日にかけての夜である。問題は、それを誰が証明するか、である。スヴェトラーナは実は、その三月一日に、父親を訪問しようと電話をかけたのだという。しかし彼女は、この日父親と話すことはできなかった。そして翌三月二日になってから父親の「発作」を知らされ、クンツェヴォのダーチャに来るよう連絡があったのだという。すでにヨシフ・スターリンは完全に意識を失った状態であり、そこには先の「医者」やクンツェヴォの人間たちと共に、党と政府の要職に就く四人の男がいた。「若き親衛隊」の面々――すなわち、ゲオルギー・マレンコフ、ニコライ・ブルガーニン、ニキータ・フルシチョフ、そしてラヴレンチー・ベリヤである。

 逆に言えば、党と政府の有力な関係者は、彼らしかいなかったのである。ソビエト連邦は、巨大で複雑な機構を持った国家である。そしてヨシフ・スターリンは、神にも等しい存在であった。その彼の異変に際し、都合よくこの四人が――四人だけが――素早くその枕元に集まったというのは、勘ぐるなというほうがおかしい、不可解な「偶然」である。公式発表による時期を証明できるのは、この四人の意志と政治的影響力を除外すれば、実はほとんどないのである。後にこの国の実権を握ることになる人物――このなかから出る――によって、この四人からブルガーニンを引き、モロトフを加えた「四人」説が流されることになるが、これは疑わしい。「若き親衛隊」だけでは不自然だと思われる――という計算が、透けて見えるような‥‥。西側で知名度抜群であったモロトフを入れた辺りから、その計算が逆算される可能性をこの説を流した当人が考えていたかどうかは、不明である。

 一説には(あくまで一説である)二月二八日にすでにスターリンは倒れており、犯人たちは作戦の成功――ヨシフ・スターリンが危篤状態にあり「復活」はないこと――を見とどけてから、彼の身内に知らせたのだ、ともいう。挙動不審な「医者の扮装をした人々」が、三月二日以前のどの段階で現場に来たのかも、判然としていない。三月一日の時点で、すでにクンツェヴォの電話線は切断されていた、という説もある(仮にそれがなされていたならば、それは、長年秘密警察に勤めてその知識があり、また一刑事として行動力に富んでいた、われわれが注目する人物の仕事であったろう)。

 さて、クンツェヴォのダーチャには、彼女の兄ワシーリーもこの二日になって呼び出しを受けて来ていた。ワシーリーのアルコール依存は、前述の通りである。それは、事実である。同時に、彼が妹の前でこう叫んでいたのも、事実である。

「親父は殺されたんだ!」

「いま殺されようとしているんだ‥‥!」

 ――ダーチャで働いていた全員が集められ、ラヴレンチー・ベリヤにより、邸を離れるよう申し渡された。彼らは泣きながら、身の回りの品や本、食器、家具等をトラックに積み込んだ。この職員(いわゆる使用人や護衛隊も、全員が公務員である)たちはばらばらにされ、その後誰がどこへ行ったのか互いにわからないようにされた。これは、この三月七日、つまりヨシフ・スターリンが死んだ二日後のことである。ある観点に立てば、この七日をもってひとつの決着がつけられた、とも言えよう。セルゲイ・キーロフが殺された際、またモスクワ裁判の被告たちに(銃殺)刑が処された際と同様、ソビエト連邦においては、ときに驚くほどのスピードでことが成されるのである。それを必要とする者がいるのなら‥‥。

 この日、マレンコフが閣僚会議議長(首相)と党の第一書記を兼務することになった。形式上は、最高指導者である。しかし、ラヴレンチー・ベリヤがいた。ベリヤは、表面上はひとつ格下の閣僚会議副議長。しかし彼は強大な権力を手中に収めた――MVD長官に再任されたのである。


 民主主義は前進と後退とを繰り返す。すでにわれわれは、「民会」を持つキエフ・ルーシから、モスクワ大公国を経た専制のモスクワ・ツァーリ国家の誕生を見てきた(――この観点からも、「タタールの軛」は、大きなエポックであろう)。フランス革命と、その後の革命政権の暴走も見てきた――テルミドールのクーデターからしばらくの後、フランスは「皇帝」ナポレオン・ボナパルトことナポレオン一世を推戴するに至った。ドイツでは、いわゆるヴァイマル共和政時代の直後に、アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党が国家の実権を掌握した。ツァーリ専制体制と共産党一党独裁体制の比較は、ここではしない。ただ、ひとつの時代が、確実に終幕を迎えようとしていた。

 党機構の「改革」が行なわれた。幹部会と書記局の定員が減らされたのである。これにより、半年前スターリンが入れた新人たちは、そこから追い出されてしまった。「若き親衛隊」たちは、ヨシフ・スターリンの手法をよく学んでいたのである‥‥。また、スターリンの死の発表からわずか十日ほどで、何度目かの軍機構の再編が行なわれた。陸軍省と海軍省は統合され、今度こそ軍隊統御は国防省としてひとつの官庁にまとめられた。初代国防大臣はニコライ・ブルガーニンが務め、次官には、返り咲いたゲオルギー・ジューコフ。(ジューコフ)の国防大臣への昇進は、時間の問題と言われていた。また、書記局からは追い出されたが、この軍機構再編に伴い軍政治総局長第一代理という地位に就いた、レオニード・ブレジネフという男がいた。

 新聞紙上では‥‥。ユダヤ人排撃の記事が、急激に減ってゆき、そしてなくなった。三月二〇日付のある新聞に最後の激しいユダヤ人攻撃の記事が載ったが、これを書いた記者は、一部の同僚から白眼視され、自分が背を向けられてしまったという。

 また、驚くべき現象も、目に見えて起こりつつあった。ヨシフ・スターリンに関する記述が、これも急激に減っていったのである。まるで呪縛から解かれたかのように――。「プラウダ」は、三月一〇日の追悼号では全紙面を葬儀の報道で埋め尽くし、三月二二日付までは「同志スターリン」に関する記事、論文、詩で溢れていた。しかし四月に入った頃から、彼の名は一日の紙面に二、三回しか出なくなり、日によってはひとつも見当たらないこともあった。神にも等しかった存在の記述が‥‥。唯一絶対の神は死んだ。いなくなった。そしてもう、必要ない。

「集団指導体制への移行のときだ‥‥」

 部下また同僚たちを前に、ラヴレンチー・ベリヤは述べるのである。「古参の親衛隊」の面々は、スターリンによる粛清の危機からは逃れることができたが、政治の主導権を「若き親衛隊」たちに握られることになった。そしてこの国の憲法は、「スターリン憲法」ではなく、やっと「ソビエト憲法」と呼ばれることになった。

 四月一日、ゲオルギー・マレンコフは、物価の大幅な引き下げを命じた。政府は消費財の輸入に力を入れた。それらのなかには、米英仏以外の西側の国から買いつけた三万トンのバター等もあったが、大部分が超特恵関税で「輸入」できる東欧諸国からのものであった。そのため、ソビエト連邦の都市部住民をいささか潤したこの措置は、東欧諸国の労働者に過重なノルマを押しつける結果となった。彼らはソビエト連邦のために強いられるこの犠牲に我慢できず、怒りが蓄積されていった。

 「医師団陰謀事件」だが、スターリンは、ジダーノフ死亡におけるMGBやMVDの手抜かり――といったラインから、ベリヤの責任追及を始めるつもりだったのかもしれない。すでに「プラウダ」紙上では、言外にベリヤの責任がほのめかされていた。あるいはそこでベリヤの母親の話を持ち出す‥‥といったシナリオを描いていたのかもしれない。また、「医師団」に狙われたとされる軍関係者のなかにジューコフの名がなかったのだが、これは彼もベリヤ同様狙われていたからだ、とする向きもある。「事件」を捏造し、裁判によって自らの犯罪的目的を成就する――俯瞰してみればそれこそが「事件」なのであるが、その社会の内部で暮らす人々はそのからくりになかなか気がつかない――それこそがヨシフ・スターリンが三十年代から行なってきた手法であった。しかしいずれにせよ、スターリンの死によりそれはなくなった。

 「医師団陰謀事件」の逮捕者は、二月末までに一五名に及んでいた。そして、うちふたりは、すでに取り返しがつかないことになって――殺害されて――いた。ユダヤ人への公的な差別政策は、取り止めになった。四月四日、「プラウダ」に内務省コミュニケが掲載され、同「事件」が全く事実無根のものであったこと、生き残った医師たちが釈放され、それぞれ名誉を回復されことを発表した。

「被告らが自らに向けられた非難を自ら認めた供述なるものは、前国家保安省の調査当局者らにより、ソビエトの法律において厳に禁止されている許すべからざる予審手続きによって得られたことが明らかになった」

 この報道は実は、秘密警察が「自白」を得るために拷問――予審手続き――を行なっていたことを、この国の当局が公式に認めた初のものだった。いまさら――‥‥しかし、ともかくも国は認めたのだ。街々では、掲示板に貼られたこの「プラウダ」を読むための黒山の人だかりができていた。

 今度こそ、ようやく、春が訪れたのだろうか‥‥?

 朝鮮戦争は、このヨシフ・スターリンの死、そして一月のアメリカのドワイト・アイゼンハワーの大統領就任により、停戦へ向けた動きが進んだ。なお付言すれば、先のF‐86対MiG(ミーグ)‐15の撃墜比率は、七対一とセイバーの圧勝であった(ただし、当初は米空軍側は一四対一としていた)。


 イギリスの科学雑誌「ネイチャー」の四月二五日号に、DNAが二重螺旋構造をしていることを示した論文が掲載された。これはたった二頁の論文であったが、遺伝子の物理的実体がDNAであることを決定づけるものであり、遺伝という現象がDNAの複製によって起こること、塩基配列が遺伝情報であることが説明できるようになった。この分野の学問に大きな影響を与えるパラダイムシフトであった。


 ヨシフ・スターリンが死亡したのは、三月五日のことであった。前述の通り、「若き親衛隊」の四人は、スターリンが完全に意識を失った三月二日になって彼のふたりの子どもを呼び寄せた。このふたりは、この場合あくまでも私人である。これがアリバイ作りだとするならば、彼らが公人も呼び寄せねばならないと考えたと考えるのは、妥当であろう。公人が呼び寄せられた。「古参の親衛隊」から、クリメント・ヴォロシーロフ、そしてラーザリ・カガノーヴィチ。もはや意識を失った(あるじ)のもとに。旧友中の旧友と、忠実さだけが取り柄の男。アリバイ作りには、格好の取り合わせだ。

 ――アントニオ・サリエリによるヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト毒殺説自体は、一八二〇年代のウィーンにすでに存在したが、それが本格的に広まったのはプーシキンによる劇詩「モーツァルトとサリエリ」によってである。この音楽家同士の交流または確執は、後に、さらにそれ自体ロシアにおいてニコライ・リムスキー=コルサコフによってオペラ化され上演されて、この怪しげな説を広めた。ロシア――ソビエト連邦においても、このモーツァルトとサリエリの逸話――とされるもの――は、とても有名であった。

(政治を司る者には、センスも必要なのだ‥‥)

 ラヴレンチー・ベリヤは、得意げにひとりごちるのである。

「新しい時代が始まるのだ‥‥」

 (くだん)の「モーツァルト」が、彼によるネーミングかどうかは、明らかではない‥‥。


 セルゲイ・コロリョフは収容所から出され、終戦直後、ドイツへ飛び、ペーネミュンデ研究所のV2ロケットの情報を集めていた。政府は、翌年にはおよそ五千人のドイツ人技術者をこの国へ移送させた。彼らの手によるV2の改良型(エル)‐1多弾頭型ロケットは、なかなかよい成績を示した。しかし、同年にコロリョフが設計した(エル)‐2は、V2の倍の飛行距離を記録した。

(ロケット技術の発展は目覚しい‥‥。強力なロケットならば大陸間を飛行し核爆弾を敵の国土に撃ち込むことができる‥‥精度の高いコントロール装置の開発ができれば、敵の軍事拠点また都市部に撃ち込むことも‥‥)

 ラヴレンチー・ベリヤは、ブハーリンとの邂逅を思い出し、反省していた。

(人間を宇宙に送ることも可能になるはずだ。そう遠くないうちに‥‥)

 それは、できれば自分の管轄――すなわちMVDにおいて成したかったが、それはさすがに軍部が黙っていないだろうと思った。いずれにせよ、ソビエト連邦が新たな場所に到達するからには、統制と警備が必要となる‥‥。

(宇宙軍、の創設が必要となるだろう‥‥)

 それは未来の話であったが、いずれ現実のものとなることが予想できた。この国の軍部は、陸軍、海軍、空軍、防空軍にあわせ、五番目の軍隊を持つことになるわけであるが、ベリヤは、その軍隊をできるだけ自分に近づけておこうと考えた。ラヴレンチー・ベリヤは、「宇宙軍」構想を具現化すべく、凄まじい速さで書き物を始めた。その規模、構成、空軍や防空軍との連携、兵器‥‥。兵器は彼の専門外であったが、概要だけでもプランを提示すべく、図面を引ける彼の腕前で、幾つかを描いた。宇宙戦闘機、宇宙戦艦、宇宙要塞‥‥。

 また、すでに前世紀末に、ツィオルコフスキーは軌道エレベータなるものについて言及していた。地表から静止軌道以上まで延びたケーブルやレールなどで、地球の自転の遠心力を利用して、宇宙空間への物資の輸送を容易にする、というものである。彼はとうに故人となっていたが、その論文のいくつかをベリヤは手に入れ、興味深く読んでいた。ツィオルコフスキーは赤道上から天に向って塔を建てていくとしていたが、ラヴレンチー・ベリヤは、静止軌道上から上下にケーブルを伸ばし、地表までケーブルを降ろしてくる方式のほうが実現しやすい、と考えた(上にも伸ばすのは、より強い遠心力を得るためである)。久しぶりに、彼のなかに建築家としての血が湧きたっていた。

(これを作りたいものだ‥‥)

 さすがにこれは、耐えうる強度を持つ素材がなく遠い将来の話であったが、ベリヤはこれを自分が生きているうちに設計、着工にうつしたいと考えた。この軌道エレベータが開発されれば、先のような宇宙兵器群、また他惑星への人類の進出も、夢物語ではなくなる。

 彼は、アメリカのSF雑誌から「テラフォーミング」という用語を仕入れていた。惑星の環境を変化させ、人間が住めるように改造することである――ベリヤは、まず火星が妥当だろうと考えた。この地球は、やがて人類で溢れ、資源は枯渇するであろう‥‥。ラヴレンチー・ベリヤは、艦隊の中核となるベリヤ級宇宙戦艦――一番艦「ベリヤ」、二番艦「アンドレウサルクス」――につづいて、移民用の宇宙船も描き始めた。

(俺の手のなかには、未来がある‥‥)

 そう思えた。

 計画は、数十年単位で、かつ綿密に立てる必要があるだろう‥‥。軌道エレベータを建設可能な強度を持つ素材の開発には、全力を注いでも、早くて三十年‥‥。数年の余裕を持たせて――。

(着工は、一九八九年としよう‥‥。俺の生誕九十周年を記念して、となる。その大祝賀会を、この目で見たいものだが‥‥)

 ベリヤは、スターリンの生誕五十周年の大祝賀会を思い出した。

(いまの国歌は、あの野郎(スターリン)を讃えすぎだ。西側の目もあるからな‥‥。リベラルに、だ‥‥! とはいえあれは、人気もある‥‥。歌詞だけを変えさせるか‥‥)

(いまいましいが、評判は大事だ‥‥。情報が大量に行き交う時代が来る‥‥)

 新しい物好きのベリヤは、去年アメリカで売りに出されたIBM701という商用コンピュータのことや、イギリスの科学者がアイデアを発表した集積回路と呼ばれる装置のこともチェックしていた。これらとテレビジョンの技術を組み合わせれば、各家庭に一台、小型のコンピュータを置く日も来ることだろう。

 そしてまた、三十年代のブハーリンとの邂逅を――何度めか会った際に彼から聞いた未来論を思い起こしていた。

(世界は回線によって繋がり、情報が瞬時に、国境を飛び越え大量に行き交う時代が来るのだ‥‥。紙という媒体ではない、新しい記述の時代、か‥‥)

(――可能な限りの労働力を駆使しても、軌道エレベータの実用化には二十年はかかるだろう‥‥。二〇〇九年――‥‥五年の余裕をもたせて‥‥別に稼動テストに五年‥‥。二〇一四年から、遅くとも、俺の生誕百二十周年となる二〇一九年には運用を開始する――宇宙移民の始まりだ‥‥)

 ――その時代、人々は、感謝と尊敬の念をもって俺の名を呼ぶことだろう。宇宙空間への本格的な進出にともない、西暦という年号も変えられているかもしれない。ラヴレンチー・パーヴロヴィチ・ベリヤの名は、単にソビエト連邦の指導者というだけでなく、人類に新たな世界を与えた天才として、人類史に永遠に刻まれる‥‥。

 男は、自分に文学の才能があるとは思ったことはなかったが、またふと、こんなSF小説のプロットが浮かんだ。――何らかの理由で、そうならなかった世界。

 ‥‥その世界の西暦二〇〇九年から二〇一九年はひどく混沌としており、家庭用の小型コンピュータが実現・普及し、世界は回線で繋がっている――あるいはそのようになっていると喧伝されているが、人々はかりそめの安寧と日々の享楽だけを与えられ、唯々諾々と暮らすことを余儀なくされている。軌道エレベータや宇宙移民など遠い未来の夢物語で、宇宙開発は見栄っぱりなアメリカ人が主導しているが、その計画性の無さゆえに先行きは暗いものとなっている。人類の先行きも‥‥。

 人々はやがて、疑念を持ち始める。――こんな世界は、間違っているんじゃないか。どこかで、本当の歴史が盗まれたんじゃないだろうか‥‥。そして、回線によって繋がった人々は、気がつくのだ。その世界の歴史のなかで、嫉妬ゆえに消された偉大な天才の足跡と頭脳とに。――ラヴレンチー・ベリヤの復権を旗印に、人々は立ち上がる‥‥人類の新たな栄光の時代へと――‥‥。

 男は、子どものような目をして、その創作(フィクション)を胸に思い描いた。すでに、ソビエト連邦大百科事典の第三巻では、彼について、その大きな判型の実に一頁半を要して解説するようになっていた‥‥。


 スターリンは、内戦‐干渉戦争以来、三十年以上にもわたってまともに血を見たことがあるかどうか疑わしいと前述した。その点、ラヴレンチー・ベリヤはその時代からずっと血を見つづけてきたとも言える。拳で、革靴で、そして拳銃で――彼は、多量の血を直接被害者に流させつづけてきた。トビリシからモスクワに移ってからも、彼には血の臭いの噂が絶えなかった。どこまでが事実でどこからが虚構(フィクション)かはわからないが、彼は、他者を肉体的に傷つけることに無感覚に――あるいはそれで興奮を覚えるようになっていたのであろう。


 先の偽ドミトリーの直後、さらなる偽者が出現していた。この者はやはりポーランドの支持を得て軍備を整え、モスクワ近郊に迫った。この第二の僭称者は、偽ドミトリー二世と呼称される。この「二世」は、二重の意味である。先の偽者「ドミトリー二世」の僭称であり、また偽者としての「二世」でもある。この「二世」は裏切りに遭い、すぐに殺された。


 臨終の病人の枕元で、ラヴレンチー・ベリヤは、興奮を隠し切れないでいたようだ。フルシチョフとスヴェトラーナにそれを見られている。ベリヤはベッドに近づいては、じっと病人の顔を食い入るように覗き込んでいたという。――ヨシフ・スターリンは三月五日、臨終の間際に、しばらく意識を取り戻していた。その男は、黄色く濁った目を少し見開き、彼らを眺め渡した。そして、一同をぐるりと眺め渡すと、動く左手を持ち上げ、上のほうを指さすような、その場の全員を脅すような、何とも言えない仕草をした。そして、死んだ。病人の死を確認すると、ラヴレンチー・ベリヤは、真っ先に廊下に飛び出していった。さすがに死の床を囲む者たちは――他の三人も――立ち尽くして押し黙っていたが、その静寂をついて、部下に車を手配させるベリヤの勝ち誇ったような雄叫びが、彼らのたたずむ広間にまで響いてきたという。

 記憶は改編され、歴史の真実はしばしば何処かへ走り去る。だが、そのことだけをもって運命を嘆くのは悲観的であろう。

 なぜなら、いわゆる歴史の歯車は、いま、この瞬間も動き続けているのだから。見上げるような大きな歯車もあれば、目を凝らさねば気づかぬような微小な歯車もある。耳をすませば、聞こえてはこないだろうか? 無数の――本当に無数の――歯車が、噛みあう音が‥‥。


 彼が彼女のことを思い出したのは、ある晩のことだった。

 昼間の仕事は、順調だった。実は、多少の波風が起こりそうな気配はあったのだが、彼はさっそく手配を始めていた――乗り切る自信はあった。この夜は、自分だけの仕事に取り組んでいた。未来のための仕事に‥‥。――すでに、宇宙戦艦二隻に加え、宇宙要塞ベリヤグラードの基本設計を終えていた。膨大な量の白上質紙が消費されていた。

 建築が専門のため、宇宙戦闘機の設計は彼には意外と難しかったが、これももう少しであった。愛称をつけたほうがいいと思い、候補はいくつも用意したのだが、これだ、というものがなかった。センスが問われるのだ。

 ――翼竜。体毛をそなえた‥‥恒温性の――。

 その昔、誰かから聞いた話が、ふと思い出された。翼竜‥‥太古の空を舞った竜。発見と研究が進めば、この翼竜や恐竜の謎が解明される日も来るだろう。その発見によって恒温性を決定づけるような、これといった翼竜の名前を借りることにしよう。そう考え、未来の発見を待つことにした。

 宇宙移民計画、その長期戦略目標に基づく具体的なタイムテーブルは、第一段階をすでに概成させていた。少なくとも火星への殖民までは、これで十分なはずだった。そして彼はいよいよ、軌道エレベータの基本設計にとりかかることにしたのだった。

 これにも愛称をつけたほうがいいと考えた。兵器ではないのだから、広く親しまれる名前がいいだろう。勇ましさや力強さよりも、馴染みやすい名前‥‥。

 それはすぐに、まるで天啓のように、ぴたりと来るものが見つかった。

(「ノンヌーシュカ」‥‥だ)

 この軌道エレベータ運用開始の際は、もちろん大祝賀パーティーが催される。これまでの世界史で類例を見ないほどの規模の――。当然だ。人類の新たなる旅立ちの日なのだから‥‥。歓喜と希望に満ちた世界中の人民の顔、顔、顔。幾重もの万歳の声。鳴り止まぬ祝砲。そのなかで――、

「すごーい!」

とひとりの少女が感嘆の叫びをあげているのが、彼には聞こえた気がした。声だけではなく、彼女が両手を組みあわせて瞳を輝かせている姿が、見えた気がした。「ノンヌーシュカ」――正確にはバクーの少女時代のノンナ・タカシヴィリ――だった。

 彼もとうに忘れていた思い出の姿であった。仕送りとともに、住居の移転や死亡等があれば情報が入るようにはしており、三十年代に一度、四十年代に一度、引越をしたこと、一男一女をもうけたことは、確認していた。そして、まだ生きているはずだった。

 男は不意に、久しぶりに彼女に会いに行こうか、という思いに捉われた。二十数年ぶり、彼の頭のなかではバクーでの別れの印象が強かったから、三十年‥‥という感触(おもい)があった。

 俺は昇り詰めた。もう、誰をも何をも、恐れる必要はない。世界は、俺の意のままに動くのだ――。となれば、そろそろ、本格的な俺の伝記も必要になることだろう‥‥。本だけではない。これからの時代には、映像が大きな影響力を持つ。つまり、映画とテレビジョンのドラマだ‥‥もちろん天然色(カラー)の。

 その展開は、こうだ。生い立ちを導入部(プロローグ)として紹介した後、あのバクーから本編が開始される。ボリシェヴィキに入党し、カスピ海の風に吹かれながら、慕ってくれる幼馴染の少女に涙の別れを告げる‥‥。

(映画なら、一本三時間で全一六部作――四八時間‥‥と言いたいところだが、西側の影響か、最近はわが国でも軽薄短小を好む嘆かわしい風潮が強い。残念ながらこの流れは世界的なものになり、今後も変わらない――いや、加速するだろう‥‥。時代の流れには敏感でなくては、な‥‥。一本三時間で九部作が妥当なところか――ぎりぎり短くして六部作‥‥この種の妥協は致し方ない‥‥。すべての映画館でこれの上映を義務づける――)

(テレビジョンのほうは――そうだな、この放映をする専門チャンネルを設置し、一日二四時間放映しつづけるのだ――時代背景の紹介等も入れて。これの視聴を、一二歳から義務づける。――ただ、成人の場合、一定時間以上の視聴をすれば、税制上の優遇措置を受けられることにしよう‥‥。この種のサービスこそ、リベラルな政治家というものだ。あるいは、この最低時間の二倍または三倍以上の視聴者には、別に税の一部を免除するというサービスも与えよう‥‥。われながら、惚れ惚れするような寛大さだ――)

(無論、この狭苦しい地球上だけではない。専用の人工衛星を使って電波を中継させて、月軌道まで進出できたらその全域でこの放送を休みなく流し続ける。火星まで達した段階で、まず火星に専門の放送局を置き、この放送を休みなく流し続ける。次に、小惑星帯の各方向への進出者たちにも孤独感を与えぬよう、人工惑星的な専用の宇宙船を滞宙させ、少なくとも火星軌道の内側全域で休みなく流し続ける。――その後はなかなか難しいだろうが、小惑星帯全域にこのサービスを広げるためには、この放送のためだけの小惑星基地をいくつか設置させる必要があるだろう‥‥。木星まで到達した暁には、進出者たちは強いホームシックに捉われるだろう。放送が彼らへの力強い慰めとなる‥‥。やがては太陽系全域が、その隅々までが例外なく、この間断ない放送で満たされる――)

 男は、かつてのスターリン像の雲への投影を思い起こした。

(宇宙でもあれをやる‥‥。移民計画第三段階。近傍の他星系への進出――恒星間飛行‥‥これはさすがに、遠い未来のこととなるだろうが――。長期にわたり進出者たちの秩序を維持するのは、並大抵のことではないだろう。地球への通信でさえ、何年、何十年とかかるのだから。サボタージュや反乱の類が起こらないと考えるほうが、不思議というものだ‥‥。進出者全体の生命を――大袈裟でなく――危険に晒すこれらの事態に、どう対処するか。軍隊を同行させる? では、その軍隊をどう統御(コントロール)するのか。文民(シビリアン・)統制(コントロール)の話だ――。現代のわれわれのコミッサール制度が、先駆けとして脚光を浴び、再評価されるであろう‥‥。――さて、他星系への進出者たちのホームシック、望郷の念は、木星の場合のそれと較べて、強いものになるだろう。当然だ‥‥。帰還の際に、彼らを迎えるにあたって、宇宙空間への映像の投影が必要になる。技術的な点は、恒星間飛行同様、未来に期待せねばならないが‥‥。具体的には、少なくとも一辺が地球の直径ほど、可能ならば木星の直径ほどの俺の映像を、この太陽系のあちこちに無数に映し出しておくのだ。つまり、どういうことかというと――)

(‥‥数光年、数十光年を旅してきて、故郷(ふるさと)へ辿りついたら、目にするのはまず俺の顔、というわけだ‥‥。進出者たちは、これまでの苦労が報われたと声も出ないほど感激し、ふるさとへ帰ってきてよかったと強く実感する‥‥。――送り出す場合も然りだ。漆黒の宇宙空間に力強く浮かぶ巨大な俺の顔は、進出者たちひとりひとりの胸に刻みつける。何があっても絶対にここへ帰ってくるのだという強い決意を‥‥)

(このサービスはむろん、地球をはじめとする各惑星・衛星等、各地の居住地にも与えなくてはな。不公平感を抱かせてはいけない‥‥。――大気の有無、状態に関係なく、基本的に、人々が「空」を見上げたら、そこには常に俺の顔が浮かんでいるようにするのだ。それも大きく、昼も夜も‥‥。木星の四大衛星、いわゆるガリレオ衛星の空には巨大な木星が浮かび、さぞ壮観な眺めだろうというが、それくらいの面積を占めるように‥‥。映像技術の発達を考えれば、空間での映像の合成も可能になるはず‥‥地球市民も宇宙市民も、常に俺に見守られ、安心して日々の生活をおくることができる、というわけだ‥‥。われながら(かしこ)まらざるを得ない‥‥人類へのこの厚い博愛精神、寛仁(かんじん)大度(たいど)――‥‥)

(そして‥‥もし、もしも、知性を持つ地球外生命体というものが存在し、われわれ人類と邂逅(コンタクト)するときが来たならば、彼らも発見することになるのだ。この太陽系文明を黄金時代へと導いた、ある巨大な叡智の存在に‥‥)

 この後も、男の想いは広大な宇宙空間へと拡がってゆき、さらに多くの上質紙が消費されていった。夜は、長く長く続きそうだった‥‥。


 東ベルリンで、労働者たちが道路から剥がした敷石で、過重ノルマに対する抗議を行ない始めた。そして次には火炎ビンをもって、ソビエト連邦による支配そのものへの闘争を始めた。それが忽ち、東ドイツ各地に飛び火していた。他の東欧諸国へも拡がる気配を見せていた。これは、実はわれわれが注目する人物たちにとって都合がよかった。西側の注意の目を、そちらに向けさせておくことができるからである。ソビエト連邦から鎮圧のための部隊が送られ、多くの流血とともに六千人以上が逮捕された。これは、今後の東欧の未来を予告していた‥‥。

 六月二六日‥‥。ロシア――モスクワにしてはとても暑い、肺のなかに沈殿しそうな空気の日であった。こんな日、ソーダ水やレモネードの売店前には、子供たちだけでなくいい歳をした大人たちも集まる。クワスも飛ぶように売れる。人々ののどを潤し、頭をシャキッとさせるのだ。クワスにはまた、炭酸とともに、微量のアルコールも含まれている‥‥。

 午後四時近く、クレムリンの大会議室に、共産党の指導者たちが集まってきた。臨時の拡大党幹部会が開かれるところだった。マレンコフ、ブルガーニン、フルシチョフ、そして、ラヴレンチー・ベリヤ。「古参」のメンバーおよび軍の最高司令官たちも、後ほどこの大会議室に姿を現す予定になっており、彼らはそれぞれ代理の者を寄越していた。「古参」のなかでは、若手のアナスタス・ミコヤンだけが最初から直接出席し、会議の議長役を務めることになっていた。

(奴は、少々焦っているようだ‥‥)

というのが、最近のベリヤの見立てであった。年寄りグループに入れられては叶わん、ということだろう。いいだろう、仲間に入れてやる‥‥。

「今日の議題は?」

 ラヴレンチー・ベリヤは、上機嫌で広い室内の面々――彼に言わせればうすのろども――に尋ねたものだ。会議が始まると、まず自分から、ざっくばらんに報告を始めた。

「ドイツの件は、どうやらカタがつきそうだ。逮捕は順調で、組織的にはほぼ壊滅させた。他の国も時間の問題だ。われわれは、完全に事態を掌握している」

 ベリヤは、得意気に眼鏡を直した。

「なるだけ静かに片づけるのに苦労した。明日は『デカブリスト』だからな。ハハハ‥‥」

 (ベリヤ)が口にしたのは、明日、ボリショイ劇場で催されるユーリ・シャポーリンのオペラ「デカブリスト」の初演のことだった。これには各国外交団も招待しており、ベリヤら党・政府関係者もこぞって出席することになっていた。オペラを共に鑑賞しつつ、新体制下におけるソビエト連邦の文化の充実ぶりを各国、特に西側の連中に実感してもらおう、というわけだ。

 自分たちの国の近くで火炎ビンが乱れ飛んでいると考えたら、あちら側の連中も、せっかくの素晴らしい革命劇を、リラックスして楽しめないだろう。このサービス精神を、奴らがなかなか理解しないのは何故かな、ハハハ‥‥。

 しかし、(ベリヤ)の乾いた笑いは、まるで虚空に吸い込まれるように、出席者たちの間に消えていった――。

「‥‥‥‥‥‥?」

 訪れた奇妙な沈黙は、そう長くは続かなかった。

「本日の議題はひとつです。党員としてお話しいたします‥‥」

 議長のアナスタス・ミコヤンが口を開いた。

「同志ラヴレンチー・ベリヤ、あなたの処遇についてです」

 それは三十数年前、ベリヤが彼に初めて会ったときと同じ声、同じ素っ気ない物言いだった。

「む‥‥? 何だと?」

 後を引き継ぐように、別の男が言い直した。

「ベリヤ、おまえのことだ」

 その声には、ただならぬ――不穏な――ものがあった。


 第二の後、第三の偽ドミトリーも出現していた。この偽ドミトリー三世はコサックによってツァーリに推され、彼らを恐れるプスコフの有力者に支えられたが、捕縛され、処刑された。

2013年7月20日、本文中の、段落やルビの不備の箇所を修正しました。

2013年8月4日、本文中の、段落の不備を一箇所修正しました。

2013年8月5日、本文中の、段落の不備を二箇所修正しました。

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このスヴェトラーナさんは、2011年11月22日にお亡くなりになりました。

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