2.暗闘(2)
朝鮮戦争。
なぜかサッカーの話。
スターリンの私生活、人となり。
核と世界。
混乱(いろいろな意味で)。
イグナチェフが動いていた。一九四七年から白ロシア共産党の中央委員会農業担当書記、その後、第二書記となり、一九四九年から中央委員会中央アジア局書記、中央委員会ウズベキスタン全権代表となっていた。そして、この一九五〇年には、白ロシア共産党を事実上牛耳るようになっていた。また、マレンコフの支持も得ていた。ウラルの向こうで殺戮を繰り返してきたこの男は、頬骨が高く顔はやや幅広と、どことなくアジア的な風貌をしていた。彼が笑った姿は誰も見たことがない、という噂があった。スターリンはどうやらこの男から、かつてのポスクレブイショフと同じ、シベリアのやくざ者の匂いを感じ取っているようだった。このイグナチェフが、ベリヤの前に立ちはだかるのである‥‥。
軍機構の再編が行なわれていた。無論、この国においては、政治的意図が背景にある。軍事人民委員部から軍事省となっていた官庁は、陸軍省と海軍省とに再び分割された。この迷走ぶりには、スターリンの混乱と臆病さが透けて見えるようだ‥‥。
軍内外で絶大な人気があった――だからこそなのだが――ゲオルギー・ジューコフは中央から遠ざけられ、指揮できる部隊の少ないオデッサ軍管区、そしてウラル軍管区の司令官へと左遷された。
極東で、また戦争が始まっていた。朝鮮戦争(韓国戦争)。世界の対立が、ついに現実の戦争として火を噴いたのだ。‥‥ミグ設計局は苦心の末、新型戦闘機MiG‐15の開発に成功していた。エンジンはRD‐45Fジェット・エンジン。先のロールスロイスのニーン・エンジンを改良したものだった。空気抵抗を抑え、高速を出すために、主翼は大胆な後退翼を採用していた。艤装品も必要最低限にとどめられるなど、機体の軽量化が徹底された。本機は初飛行においてYaK‐23を決定的に上回る性能を見せ、直ちに大量産が開始された。ミグ設計局の面目躍如である。もはやソビエト連邦に本機の敵は存在しなかった。
この朝鮮戦争においては、当初、共産軍側である北朝鮮軍(朝鮮人民軍)は、航空兵力――と呼べるほどのもの――をほとんど持ち合わせていなかった。国連軍が結成されており、制空権はアメリカ、イギリス等を中心とするこの国連軍の手中にあった。一九五〇年九月一五日の仁川上陸作戦の後、地上でも北朝鮮軍を北に押し返し始めた。国連軍、韓国軍は北進し、韓国軍は中朝国境の鴨緑江にまで達するなど、彼らの国は統一を果たすかに見えた。しかし秋の深まりとともに、中国人民志願軍が参戦、北朝鮮軍を助けた。そして空中には中国空軍、北朝鮮空軍のMiG‐15が出現、国連軍に挑戦してきたのである。
MiG‐15は、MiG‐9と同じ射出座席、無線装置、ジャイロつき照準器を備えており、それぞれ弾薬八〇発つきの二三ミリNS‐23機関砲と、四〇発つきの三七ミリNR‐37機関砲一門が、取り外しが容易なガン・パック式で取りつけられていた。これらの火器は、発射速度こそ遅いものの、初速は充分であり、そして――特に三七ミリ機関砲の――威力は、航空機相手には充分すぎた。
MiG‐15の登場は、米空軍のレシプロ戦闘機P‐51改めF‐51マスタング、ロッキードF‐80シューティングスター、英空軍ほかのグロスターミーティアを時代遅れのものとした。この後二機種は、大戦中に開発されていたジェット直線翼機である。戦後米国で開発され、米空軍を中心に西側諸国によって多く運用されていた直線翼機リパブリックF‐84サンダージェット(A~E型、G型)も、同様であった。開戦当初は問題は存在しなかったが、このMiG‐15の登場により、この機体は防戦気味になってしまっていた。アメリカは、MiG‐15と同じく後退翼を備えた新型戦闘機、ノースアメリカンF‐86セイバーを急遽投入せねばならなかった。
――アルバニア、チェコスロバキア、ハンガリー、ブルガリア、ポーランド、ルーマニア、東ドイツ‥‥東欧各国は、大戦において、ソビエト連邦――赤軍の戦車が到着ないし通過した地域とほぼ重なる。これらの国々の国名は、戦前の国名を引き継いだチェコスロバキア共和国、分断国家としての「建国」を余儀なくされた東ドイツを除き、「――人民共和国」となる。ポーランドも、これらの国々の仲間入りを果たす予定であった。極東において同じような条件に当てはまる国が、この北朝鮮――朝鮮民主主義人民共和国――である。これらの国々は、ソビエト連邦の強い指導のもとに置かれた。
エストニア、ラトビア、リトアニア――バルト三国――は、形だけの独立すら叶わず、ソビエト連邦に併合され、それぞれこの連邦を構成する一共和国とされた。
翌一九五一年‥‥。春、共産軍は攻勢をかけたが、これは失敗、地上は膠着状態となった。国連軍は、共産軍の前線補給および増強ルートを航空攻撃によって切断を狙う一連の作戦(ストラングル作戦)に出た。具体的には、アメリカの空軍の爆撃機および攻撃機、海軍の空母の艦載機、陸上基地の海兵隊の飛行中隊機を用い、北緯三八度一五分と三九度一五分の間の帯状の地域内にあるすべての道路、鉄道、橋、トンネルを空から攻撃するというもので、ナパーム弾、ロケット弾、機関砲、遅延爆発爆弾等がこれらの目標に大量に撃ち込まれた。しかし、共産軍は前線付近の必需物資の輸送をほとんど未舗装の道路で行なっており、この道路は彼らの未熟練の労働者の手でも比較的容易に修復可能で、思ったような戦果はなかなかあげられなかった。共産軍側からの航空攻撃は限られていたが、六月一七日早朝には小型機一機による奇襲が水原のK‐13基地に対して行なわれ、F‐86Aセイバー一機を破壊、四機を大破させ、ほか四機にわずかな損傷を与えた。七月一〇日から、開城において休戦を目指す会談が始められたが、交渉は難航した。
共産軍のMiG‐15パイロットのなかに、明らかに他と違う優れた技量を持つ者たちがいる――空軍のF‐86やF‐84、海軍のグラマンF9Fパンサーを駆って矢面に立つ米軍のパイロットたちは、まことしやかに噂しあった。空中戦――いわゆるドッグ・ファイト(格闘戦)――のさなか、どう見ても東洋人には見えない赤毛のパイロットを見た、という者もいた。スターリンの国の空軍の参戦は彼らの間でも噂され、未熟な共産軍パイロットを指導する敵の教官にあたるのではないかとの憶測から、この謎のパイロットたちは彼らに「ハンチョウ(班長)」と呼ばれた。
果たして、噂は真実であった。ソビエト空軍は、その正体を隠して、参戦していたのだ。第二次大戦中のVVSの撃墜王、イヴァーン・コジェドゥーブ指揮する第六四戦闘航空軍団隷下の第三二四戦闘飛行師団等が投入された。ちなみにコジェドゥーブは、大戦中にルフトヴァッフェのMe262を、また友軍機である同大戦に実戦参加したアメリカ陸軍航空軍の戦闘機で最強のP‐51D二機を、敵機と誤認し撃墜している(二機であるので、たまたま撃って当たったというレベルではない)。彼は撃墜されたことは一度もなく、親衛少佐となり、勝利の年の八月には三個目のソビエト連邦英雄章を受章していた。コジェドゥーブ自身は戦闘へ出撃することはなかったが、第三二四戦闘飛行師団は、朝鮮戦争における共産側空軍最強の部隊であった。しかし彼らは、その存在を秘匿せねばならず、正式に誕生したばかりのソビエト空軍のシンプルな赤い星ではなく、おもに北朝鮮空軍の青と赤の区切れた二重帯つきの赤い星のMiG‐15で飛行、戦闘を行なわねばならなかった。
九月になると効果の薄いストラングル作戦は行なわれなくなったが、さらに北方の、共産軍側が戦場に物資を運び込むにあたり大きく依存していた鉄道網を空から破壊する、新しい作戦が立てられた。アメリカは、先の通り海軍の空母――航空母艦――もこの戦争に投入していた。一六日、そのうちの一隻「エセックス」の搭載機マクドネルF2H‐2バンシー戦闘機が、出撃中に損傷、着艦しようとしたが、甲板の拘束索を引っかけそこない、保護網を突き破り前方に駐機していた仲間の機の間に突っ込んだ。ジェット燃料が派手に燃え、四機が破壊、八名が死亡、二七名が負傷という大事故になり、「エセックス」は修理のため日本に向かうことを余儀なくされた。日本はこの戦争において、国連軍――米軍への物資の補給、支援、またこのような修理のための後方拠点となり、朝鮮半島南部の大邱のK‐2基地やこの日本の福岡の板付基地は、米空軍の後方基地として連携して任務を果たしていた。
MiG‐15は、F‐86と較べても、上昇速度と実用上昇限度、そして加速と水平速度において勝っていた。旋回半径も小さかった。しかし、欠点も多かった。迎え角や速度が大きいとき極めて癖のある操縦特性を示し、また(いくら旋回半径が小さくても)急旋回する際にきりもみ状態に陥りやすい傾向も持っていた。これらは、この機に乗ったばかりのパイロットたち(この戦争における北朝鮮空軍、中国空軍のパイロットのほとんど全員が当てはまった)には手に負えないものであり、まもなく複座練習機型MiG‐15UTIが作られることになった。また、改良型のMiG‐15bisが開発・生産され、この頃、この戦争に投入された。以下、判別が難しいため、このMiG‐15bisも合わせて「MiG‐15」と表記する。なお、各種機器類は、F‐86に限らず米英を始めとする西側諸国の同時代の戦闘機のほうが、性能・質とも高い。
――一〇月になると、地上は双方にとって手詰まりとなっていたが、空中においてはそうではなかった。MiG‐15は、中国空軍、北朝鮮空軍(とそれに紛れたソビエト連邦の秘匿空軍)で合わせて五二五機に増加しており、対するF‐86Aは、四四機だった。数の上では圧倒的に劣勢なF‐86Aは、しかし、技量その他の好条件により、一〇月一日に二機、二日に六機、五日に一機、一二日に一機、一六日には一日の戦果としてはこれまでで最高の九機のMiG‐15を撃墜した。
F‐86Aを駆る第四迎撃戦闘航空団のロバート・フィッツパトリック少尉がそれを目撃したのは、一〇月二三日であった。この日、彼の乗機を含むF‐86三四機とF‐84五五機が、八機の爆撃機と共に北朝鮮の南市飛行場爆撃に出撃した。爆撃機は、先の大戦において戦略爆撃で日本の諸都市を焼き払い、原子爆弾を投下した、四発爆撃機ボーイングB‐29スーパーフォートレス。この大編隊は、三小隊八機のこのB‐29、その直援としてこれを護衛するのがF‐84たち、前衛としていわゆる前方防御網を形成するのがフィッツパトリックらのF‐86たち、という陣形である。
――その紫と黄に明滅する光は、フィッツパトリックのF‐86の前方右斜めやや上方を、彼らとほぼ同速度で飛行していた。
(まさか‥‥)
フィッツパトリックの視界のなかを、ゆっくりと移動していく――進行方向は、完全に同じではないのだ。彼の胸に、叔父から聞いたおとぎ話が思い出された。当時若かった叔父は、スペイン内戦にいわゆる義勇軍として参加していた。といっても、本人は兵士としてファシストと銃火をかまえるつもりだったのだが、メカの整備の腕が買われ、いつの間にか軍用機の地上整備士を務めることになったのだという。その叔父に、スペイン人パイロットがまことしやかに語ったという話。戦場の空を飛ぶ、紫と黄に光る謎の小物体‥‥。それも戦闘機と同速で――。
叔父から聞かされたとき、彼はまだ十代だった。到底信じられず、最初は子どもだから馬鹿にされているのかと思い、叔父が真剣と知ると、一笑に付した。
(当時の戦闘機としても、鳥や虫の類に出せる速度でもないだろうが‥‥)
ロバート・フィッツパトリックの視界のなかのそれは、少なくとも時速一九〇ノット(およそ三五〇キロ)で飛行していた。そのスペイン人パイロットは、その未確認飛行物体の向こう側に、敵機の機影を発見したのだという‥‥。
(――と、いうことは‥‥)
フィッツパトリックは、小さな紫と黄の明滅に沿って視線を動かした。だが、何も発見できなかった。やはりおとぎ話だ。
小さな紫と黄の明滅は、やがて――フィッツパトリック機のほぼ正面で――消えた。われわれより速い、ということか? B‐29を伴った飛行のため、いまは全速飛行ではない。あの未確認物体が何であるかはわからないが、わが空軍のこの新鋭機F‐86より速く飛べるのだろうか。そんなことはないはずだ。
フィッツパトリックが、かつてのファウスト・ペドレルと同じように神経を張り詰めて前方を注視していたことは、役には立った。――数分後、およそ一〇〇機のMiG‐15の大群が、彼らに襲いかかった。その大編隊は、紫と黄に明滅する未確認物体が消えた方角とさほど違わない――少しずれていた――方角からやってきたのだ。
「多数だ!」
たちまちヘルメットのレシーバーのなかは、指示と返答、怒号と興奮の声でいっぱいになった。
「楽しいパーティーだな!」
そうかもしれないが――たくさんすぎる。これが現代の戦争なのだ。のどかなスペイン内戦の話なんぞ、クソ食らえだ‥‥!
フィッツパトリックは、未確認物体も、叔父の話も、頭から追い出すことにした。飛行隊長は乱戦を避けろと叫んでいたが、それは叶わなかった。ヘタクソな共産軍パイロットが相手とはいえ、およそ三倍の敵機を相手にしては、フィッツパトリックたちF‐86たちも、混戦状態を余儀なくされてしまった。だが、
(力量の差を見せてやる――!)
と、フィッツパトリックは一機のMiG‐15を追いかけまわしながら、耐Gスーツの圧力に歯噛みして耐えていた。この耐Gスーツを履かねば――というより、これとパイロットスーツ、ヘルメットで全身を覆わねば、とてもこのF‐86を操ることなどできない。これが現代戦だ。人間同士の闘いというより、機械同士の闘いに、人間が参加させられているようなものだ。フィッツパトリックは、追いかけつつも、おそらくは奴らの目標であろうB‐29がいる方向に注意を払うことを忘れなかった。見たところ、まだ一機も抜かれていない。同僚たちも、同じ注意をしているようだ。空中戦の戦域は、B‐29の編隊が飛ぶ空域から、むしろ遠ざかりつつある。
――と、視線を戻した彼は、一機の戦闘機が火を噴くのを確認した。ミグだ。三倍もの敵機はちりぢりになり、逃げてゆく機体もある。奴らは狙いを果たせていない。どうだ、これが、わが第四航空団の実力だ。
フィッツパトリックが、早く自分も手柄をあげようと、降下しながら逃げる自分の獲物に追いつくべく乗機を増速させたときだった。
「‥‥――に、新たな敵編隊!」
という悲鳴のような声が、レシーバーに飛び込んできた。
「二〇‥‥三〇――‥‥!」
フィッツパトリックは、それが何を意味するかに気がついた。だが、遅かった。
「――五〇機はいる! こっちに突っ込んでくる!」
「戻れ! 戻って来てくれっ!」
フィッツパトリックが聞き覚えがあるB‐29の機長の声も聞こえた。見るとその新手がはるかな天空から、F‐84しか護衛がいないB‐29三小隊八機のほうへ物凄い速度で降下してゆくところだった。それは先刻、小さな紫と黄の明滅が消えた辺りだった。
罠にかかったのだ。
フィッツパトリックの視界のなかを、F‐84たちが整ったMiG‐15の編隊に立ち向かっていった。しかし、その護衛の網は突き抜けられ――そして、地表めがけて逆さ十字が堕ちていった。遠目にも判別できた。――B‐29だった‥‥。
「メーデーメーデー! メーデーメーデー‥‥!」
レシーバーから、聞き覚えある声――絶叫が入ってきた。耳‥‥というより、脳に直接突き刺さるような――。フィッツパトリックたちが追いかけまわしていた多数のMiG‐15たちは、急に勇敢になり、立ち向かってきた。相変わらず操縦は下手であったが、F‐86を友軍の狩り場に行かせるつもりはなさそうだった。
「突破するんだ!」
飛行隊長の指示が飛んだ。しかしこの頃にはすでに、F‐86たちはMiG‐15たちと同様、広い空域にバラバラになっていた。フィッツパトリック機の正面から、一機のMiG‐15が対進状態で突っ込んできた。相対速度は、音速をはるかに超えていた。ミグの機体前面の大きなエンジン空気取り入れ口が、まるで彼を飲み込む悪魔の口のように、一瞬のうちに迫ってきた――‥‥。
――この日、南市飛行場に落ちた米軍の爆弾は、ひとつもなかった。およそ二十分間の空中戦で、後に米空軍司令部には、F‐86が二機、直援のF‐84が一機、B‐29が装備された機銃で五機のMiG‐15を撃墜したと報告があった。しかし、虎の子のB‐29八機のうち、三機が撃墜され、四機が損傷――つまり無傷は一機だけ――という大損害を受けていた。高速で飛び回るMiG‐15に、大戦で日本軍の防空戦闘機を苦しめたB‐29自慢の中央火器管制システムは、充分についていけなかったのである。編隊の周囲でF‐84対MiG‐15の死に物狂いのドッグ・ファイトが行なわれたが、最初の一機につづき、さらに二機のB‐29が撃墜され、F‐84一機も撃墜された、とのことであった。米空軍にとり、開戦以来最大となる損害であった‥‥。
――なお、この日の攻撃のMiG‐15の機数について、これより大幅に少ないとする異説がある‥‥。
韓国の首都ソウルにほど近い金浦のK‐14基地の周囲の山々には、パイロットたちが〈歯医者〉と呼ぶレーダー施設が設置されていたのだが、それらは普段は、
「敵編隊ナンバー2がミズ(=水。北朝鮮と中国の国境の河、鴨緑江の水豊ダムのこと)の上空‥‥」
というように、おもにパイロットたちをウキウキさせるような情報を教えてくれる。しかしこの日はまるで、葬列を迎える墓所の木々のように、陰気に立ち並んでいた。
NR‐37機関砲の威力は、凄まじかった。K‐14基地に着陸したB‐29の機関砲弾の破口には、人間が通り抜けられるほどの穴もあったという――B‐29だからこそ、被弾しても帰投できたのだ。
翌日、MiG‐15部隊により、さらに一機のB‐29が、一六機のグロスターミーティアと一〇機のF‐84が護衛していたにも関わらず、撃墜された。国連軍側、特に米空軍は、死活の教訓を得た。空にMiG‐15がいる限り、もはや昼間爆撃は不可能であると‥‥。
ミグ設計局は、主翼の後退角度をMiG‐15の三五度から四五度と鋭くするなど、機体そのものを大きく改めた、さらなる高性能の完成型も開発した。これにはMiG‐17という新たなナンバーが与えられ、西側の戦闘機に十分対抗できるとされた。イリューシン設計局は、大戦中の名攻撃機Il‐2の後継機Il‐10を開発(この機体もこの戦争に参加している)、さらに新時代に対応したジェット攻撃機Il‐28の開発に成功していた。これら新型機の開発の一方、旧式のポリカルポフU‐2改めPo‐2も、相変わらず前線の国連軍将兵を不眠に陥れるような活動を行い、「不寝番のチャーリー」などと呼ばれた。先の六月にK‐13基地に奇襲をかけたのが、この機である。このPo‐2による攻撃は、その後も空軍基地だけでなく、あらゆる国連軍側の地上施設に対し断続的に続けられていた。
規模はまったく異なるが、国連軍側――米軍も、一〇月の惨劇以降、夜間爆撃を余儀なくされることになった。なお、グロスターミーティアを運用していたのはイギリス空軍だけではなく、同機を駆るオーストラリア空軍も高い戦果をあげている。
この戦争は、このような空の戦いだけがそのすべてでは、無論ない。国土をローラーのように戦線が移動し、すでに多くの無辜の民が犠牲になっていた。それは、別の機会に語られるべきものであろう‥‥。そしてスターリンは、中華人民共和国を参戦させることで、米中両国を朝鮮半島に釘づけにしようと狙っていた。
Po‐2の後継機として開発されたアントーノフ設計局のAn‐2にも簡単に触れておく。一九四七年に登場したこの機体の写真を見た西側の空軍関係者は、笑いをこらえることができなかったという。それは全長一二・四メートル、全幅一八・二メートルの、箱のような胴体を持つ飛行機であった。箱の部分に人員や物資が入ることは容易に推測できたが、それは今時なんと複葉機だったのである。このジェット機の時代に、星型レシプロ・エンジンはともかく複葉機はないだろう、というわけであった。しかし、彼らはこのAn‐2の複葉主翼がもたらすSTOL(短距離離着陸)性能や、頑丈さ、未整備の滑走路で離着陸できる能力、整備性や安定性に優れている点などを見落としていた。同機はソビエト連邦を始めとする東側諸国の航空関係者の高い信頼を勝ち得、人員や物資の輸送、農薬の散布、消防など多方面で活躍することになった。ソビエト連邦においては、軍やアエロフロート航空、各軍を支援する「DOSAAF」と呼ばれる準軍事的な巨大な「民間団体」等々が、このAn‐2を多用した。
この時期には、ヘリコプターも開発された。三十年代からオートジャイロやヘリコプターの研究を行なっていたミハイル・ミーリという技術者を中心としてミーリ設計局(ミル設計局)が設置されていた。ミハイル・ミーリは四十年代末、ヤコヴレフと共にクレムリンに呼び出され、ヨシフ・スターリンからこのように命じられた。
「ただちに手がけて、一年以内に優秀なヘリコプターを作れ‥‥」
すでに西側諸国では、ヘリコプターの研究、軍への配備が進んでいた。ミーリ設計局は、Mi‐1、またMi‐4という実用的なヘリコプターを開発した。ヤコヴレフ設計局は、ヘリコプター開発においてはミーリ設計局に及ばなかった。ヘリコプターを手がける設計局としては、他にカモフ設計局があった。
大戦中のIAPVOを覚えているだろうか? この組織が、VVSとは別個のものであることは、前述の通りである。IAPVOは一九四八年に再編され、防空軍(PVO)として、そのまま独立した軍隊となった。ソビエト連邦には、陸、海、空の各軍のほかに、この防空軍が存在した。これら四軍と別に、軍隊ではないが、MGBも独自の警備部隊を持っており、地上部隊のほか、高速の哨戒艇や航空機も保有した(この他にさらに、先のDOSAAFが存在する)。強制収容所の管理は、前述の通りMVDの管轄であるが、その警備業務はMGBの警備部隊と分かち合わねばならず、管轄争いもあったようである。
陸軍では、大戦中すでに新設計の車体を持つ革新的な戦車T‐44が開発されていた。これは実戦に投入されることはなかったが、このT‐44を経て、一〇〇ミリの主砲を搭載したT‐54が開発された。このT‐54が、西側諸国の戦車に対抗し得る新時代の主力戦車として、配備されつつあった。
「ミングレル事件」と呼ばれるのは、先のベリヤの「部下」たちの勇み足が引き金となった、グルジアにおける新たな弾圧――粛清のことである。ミングレル――ベリヤの出自を通して、古代ギリシア神話まで連なるミングレル人の存在が、不幸な形で西側の情報機関関係者に呼び起こされた。
そして、人事があった。ベリヤから見ればアバクーモフはスターリンの子分だったが、スターリンから見ればアバクーモフはベリヤの関係者であった(スターリンの猜疑心には際限がないのである)。スターリンはアバクーモフを国家保安相(MGB長官)の任から解き、後任にセミョーン・イグナチェフを据えた。イグナチェフは、グルジアのベリヤの子分たち――と目された人々――を全員逮捕することができる非常大権とMGB隊員の大部隊を与えられ、グルジアに送り込まれた。
中央委員会書記のバラミア、ジバリーゼ、シャドゥリア、最高会議幹部会議長のゴグア、共和国検事総長のジョーニア、法相のパナヴァ、コムソモール中央委員会第一書記のゾジェーラヴァ――‥‥中央委員会書記局一一名のうち、つごう七名が逮捕された。これら有力者だけでなく、多くはグルジア人であるベリヤの個人的な友人、またミングレル人の党活動家全員に逮捕の波が襲いかかった。「ブルジョア民族主義者」として逮捕された州・市・地区委員会の書記は、発表されただけで四二七名にのぼった。そして、一般党員や非党員であるインテリゲンツィヤ層にもイグナチェフ‐スターリンは襲いかかり、何千人もの人間が処刑された。三十年代のエジョフシチナからおよそ一五年、グルジアは再び大粛清に見舞われるのである‥‥。
一方、東欧においてもベリヤへの間接的な攻撃がつづけられていた。アヴィアS‐199ほか、チェコスロバキアからイスラエルへの武器供与は、ベリヤの裁可を受けていた。一九五一年一一月、同国プラハの彼の部下たちが一斉に逮捕された。嫌疑は「シオニズム」「コスモポリタニズム」――彼らは処刑され(プラハ裁判)――なお同様の「調査」が、ポーランドはじめ他の東欧諸国で進行した。
一九五二年‥‥。夏を前にしたグルジアでは、大量逮捕、処刑がつづいていた。六月、ウクライナ共産党中央委員会総会が開催された。主要議題は、ずばり(ウクライナの)「ブルジョア民族主義」。スターリンの国に住む人々ならずとも、ここまで見てきたわれわれには、もう次に何が起こるかわかろうというものだ。グルジアの次には、ウクライナも再び狙われていた‥‥。
七月二七日、「航空デー」という一大イベントが、モスクワはトゥシノ飛行場において開催された。航空ショーである。地下鉄、電車、バス、そしてトロリーバスは、朝から群衆ではちきれんばかりであった。いつものように、これでもかこれでもかと同志スターリンの偉業がスピーカーから大音量で流されつづけた。
午後二時、ヨシフ・スターリンが政府特別席につくと、飛行場の隅々から、何万という人民による、
「偉大なるスターリンに栄光あれ!」
という叫びが一斉にあがった。そして、スターリンの肖像が描かれた大きな赤旗を引いた一機が、人民の頭上を通過した。ショーの始まりである。
耳に訴えた次は、目に訴える番である――六〇機ほどの編隊が現れ、空中に「スターリンに栄光あれ」の大きな文字を描いた(高度な操縦技術である)。次には、DOSAAFのパイロットたちによるアクロバット飛行。クライマックスとして、空軍の編隊飛行が行なわれた。
指令所でこれを指揮するのは、ワシーリー・スターリン中将。父親の威光でここまで成り上がれた彼は、広大なダーチャを構え、馬と犬を飼い、有名スポーツ選手や映画監督、女優らと交流していた。この絵に描いたような御曹司は、また絵に描いたようにつけあがり、絵に描いたように堕落していた。朝から酒を飲み、アルコール依存に陥り、女性関係や、サッカー――フットボールやホッケーのチームとのいかがわしい噂が絶えなかった。プールやスタジアムの建設を行なおうとしては、すべて失敗していた。これには莫大な費用がかかった――出所は、国庫である。情婦や、ときには警官を殴り飛ばした。情婦のひとりの夫を殺したという噂もあった。もともとこの次男を愛していたわけではないヨシフ・スターリンは、この「航空デー」を花道に、彼のモスクワ空軍管区司令官の職を取り上げる準備を進めていた‥‥。
ミコヤン・グレヴィッチMiG‐15の編隊が通過した。この戦闘機を駆って朝鮮の空で戦っている空軍のことは、国民には結局知らされていなかった。ヤコヴレフYaK‐23等の戦闘機の編隊がつづき、爆撃機イリューシンIl‐28の編隊もつづいた。これは、国内外にソビエトの空の戦力を誇示するショーでもあった――西側諸国は、この国の空の戦力とともに、独裁者に対する個人崇拝ぶりにも目を見張ったのだが‥‥。そして、三十年代からの伝統を持つ大落下傘部隊の降下が行なわれ、重装備を施したミーリ設計局のヘリコプターの編隊も登場した。空対地戦略も万全、というわけである。
この「航空デー」につづくようにして、八月、バレーボール世界選手権がこの国で開催された。それまでの男子に加え、世界選手権としての女子の試合も初めて行なわれた。結果は、素晴らしいものだった。ヨーロッパ勢のほか、イスラエル、レバノン、インドといった非欧州勢も加わり、そして男女ともソビエト連邦チームが優勝したのである! 諸外国に、ソビエト連邦の大戦からの復興を印象づけるべく、大きな宣伝が行なわれた。
「航空デー」やバレーボール世界選手権と重なるようにして――というより、これらがそちらに重なっていたのだが――すぐ近くのフィンランドはヘルシンキにおいて、七月一九日から八月三日まで、夏季オリンピックであるヘルシンキオリンピックが開催されていた。西側諸国を始め、世界の話題はやはりそちらが中心であった。スターリンは悔しがった。おまけに、ソビエト連邦の国際スポーツへの復帰となったこのオリンピックに送り込んだサッカーの代表チームは、一回戦で敗北を喫した。しかも対戦相手国は、こともあろうに裏切り者のユーゴスラビア。スターリンは物凄く悔しがった。
この代表チームの核となったのは、革命前から存在していた――サッカー部門だけではない――チームを赤軍のクラブとして改めたソビエト連邦を代表するチームで、「CDSA」といった。国内では何度もリーグ優勝や優勝を果たしていたソビエト連邦自慢のクラブチームであったが、この敗北により、CDSAは解散させられてしまった。この他に、ウクライナにも「ディナモ・キエフ(ドィナーモ・クィーイィウ)」という強豪チームがあった。設立は一九二七年。NKVD、MVDの資金によって支援されており、赤軍‐軍部のCDSAと比較すると、秘密警察のチームという傾向が強かった(あくまで傾向であり、選手=秘密警察員ではない)。
遅ればせながら、サッカーの事情にも簡単に触れておく。第二次世界大戦は、スポーツの世界も破壊していた。サッカー・ワールドカップは一九三八年のフランス大会を最後に長い中断を余儀なくされており、一九五〇年にようやくブラジル大会が開催されていた。戦禍、また経済の混乱により、出場を辞退する国が相次いだ。ソビエト連邦は、残念ながらまだワールドカップには出場できていなかった。チェコスロバキアでは、一九世紀末からの歴史ある強豪チーム「スパルタ・プラハ」――名称の由来は、都市国家スパルタではなく、剣闘士スパルタカスのほう――が有名であり、また同国代表は一九三四年のムッソリーニ政権下のイタリア大会において準優勝を果たし、フランス大会においても準々決勝まで駒を進めていた(その直後に、彼らの祖国はバラバラにされてしまった)。ユーゴスラビアにも「レッドスター」ことツルヴェナ・ズヴェズダ・ベオグラードというチームが誕生し、代表はブラジル大会に出場を果たしていた。ブルガリアにも「CSKAソフィア」という軍のチームが誕生していた。
旧ナチス・ドイツにおいても、彼らの党や軍のサッカー・チームが存在していた。やはり一九世紀末からの歴史ある強豪チーム「フライブルガーFC」(「フライブルクFC」)の地元フライブルクは、現在のバーデン=ヴュルテンベルク州にある。同州は、バーデン、ヴュルテンベルクの両州が合併して今年誕生した州であり、ヴァイマル共和政時代、フライブルクはバーデン共和国の一都市であった。そのバーデン共和国のエンゲンに、あるサッカー好きな少年がいた。ヘルマンというその少年は、鍛冶屋の三男であり、家計は苦しかった。そのため小学校より上に進学することは叶わず、鍛冶職人見習いとなった。彼は、単に好きなだけでなく、実際にゴールキーパーとしての才を持っていた。その後、市役所に勤めていたが、そのうちに、彼は自分のもうひとつの才能に気づいた。飛行機の操縦である。スポーツ航空クラブに入会し、一九三三年にグライダー免許、一九三六年にはエンジンつき航空機操縦免許を取得した。
しかし、時代は彼をある方向へ押しやることになった。有事の際に備える予備役下士官として登録された後、多発機パイロットの要員に選定された。しかし彼は戦闘機パイロットを希望、訓練を受け、ルフトヴァッフェに入隊した。そこでもすぐに芽が出たわけではなく、一九四〇年には技量未熟としてメルゼブルクの戦闘機訓練所へ送り返されたりもしたが、一九四一年八月四日、東部戦線において初撃墜を記録、以後は着実に戦果を重ね、ルフトヴァッフェきってのエースとなった。彼、ヘルマン・グラーフが率いたのが、ルフトヴァッフェのサッカー・チーム「赤い狩人(猟兵、戦闘機)」である。
ナチスから見ても、彼は格好の宣伝材料であり、グラーフは有名人となった。チーム名にちなんだ飛行隊章を愛機にペイントし、また彼らの党のサッカー・チームと親善試合を行なうなど、彼らの宣伝に協力的だった。この赤い狩人は戦時中、ディナモ・キエフと対戦してもいる――二試合を戦い、いずれも敗北した。
グラーフは、最終階級は大佐まで昇進、宝剣付柏葉騎士十字章までを受章、総撃墜数は二一二機(一七日間で四七機撃墜という記録もある)に達した。しかし、やはり同章まで受章していた三五二機撃墜で知られる第二次世界大戦の撃墜王、VVSからは「黒い悪魔(南部の黒い悪魔、ウクライナの黒い悪魔、南ロシアの悪魔)」と恐れられたエーリヒ・ハルトマン大尉(最終階級)――このハルトマン、グラーフ、そしてヴァルトマンが所属したJG52は、部隊合計で一万機以上を撃墜していた――らと共に、戦後、アメリカ軍からソビエト連邦に引き渡されてしまった。行き先は無論、強制収容所である。
ヘルマン・グラーフは、ここでも協力的な態度を見せた。ソビエト空軍で働きたいと申し出て、ルフトヴァッフェの内情を洗いざらいMVDに話したのだ。グラーフは一九四九年末に、ようやくドイツ連邦共和国‐西ドイツに戻ることができた。エーリヒ・ハルトマンは、まだこの国の強制収容所において屈辱的な日々を送っていた。
祖国でヘルマン・グラーフを待っていたのは「裏切り者」という罵声であった。旧パイロット仲間も彼を白眼視し、村八分にした。戦中、グラーフは、己の名声を利用して祖国ドイツの最高のサッカー・プレーヤー全員を前線勤務から引き揚げさせることに努めた。かつてのサッカードイツ代表であったフリッツ・ヴァルターもそのひとりで、一度は赤軍の捕虜となったものの強制収容所へ移送される過程で逃亡に成功し、ハンガリーの収容所を経た後に帰国、昨年には有力選手としてドイツ(西ドイツ)代表に復帰していた。サッカーは戦争、代替戦争だとよく言われるが、やはり平和がなければ成り立たない。サッカーは、収容所を必要としない。フリッツ・ヴァルター始めドイツ代表は、今度は平和のなかで勝利を勝ち取るべく、再来年のワールドカップであるスイス大会に向け、闘志を燃やしていた。
九月、グルジア共産党の第一五回党大会が開催された。大会は自分たちの中央委員会に対する逮捕を承認し、事実上同党の第一書記を務めていたアブハジア州党書記は、「旧い指導部の犯した深刻な誤り」を非難してみせた。大会は、今度こそヨシフ・スターリンを満場一致で同党の中央委員に、またこのアブハジア州党書記を正式に同党第一書記に選出した。ベリヤは中央委員に選出されなかった。
暗闘は続けられていた。スターリンの病的な猜疑心、それにつけこむベリヤの天才的な狡猾さ‥‥。それらは複雑に絡み合い、結果、他の臣下たちには、ひどい疑いがかけられることになった。モロトフとヴォロシーロフはイギリスのスパイ、ミコヤンはトルコのスパイにされかかっていた。
忠臣モロトフと旧友ヴォロシーロフも気の毒だが、ミコヤンが「トルコの」スパイというのは、いくら何でも無茶というものである。かつてのトルコ人民族主義者によるアルメニア人虐殺、その歴史に基づくアルメニア人とトルコ系住民との民族対立は、カフカースの人間ならば知らぬ者はいないはずなのだが‥‥。トルコにはなおアルメニア人が住んでいるとはいえ‥‥。あるいは、スターリンは知っていて敢えてこの嫌疑をミコヤンにかけたのかもしれない――そう思えるほど、これは無茶である。ここにベリヤの暗躍があったのかは、不明である。もしこれが彼の発案であるとしたら、カフカースの人間として、やはりその厚顔ぶりは大したものである。スターリンは、あるいはベリヤは、どんな顔でこのような滑稽なフィクションを考えついたのであろうか‥‥。
ちなみにそのミコヤンには、地元のエレヴァンにおいてロシア語で演説を行なった際、アルメニア語をひとつふたつそのなかに盛り込もうとして、なかなかそれが出来ず大汗をかいた、というエピソードがある。彼は母国語を忘れてしまっていたのだ! ――それだけロシア化していたわけである。
グルジアの子分たちを根こそぎやられたラヴレンチー・ベリヤは、追い込まれていた。しかし、ここで引き下がる彼ではない‥‥。
一〇月、全国党大会がやっと開催されることになった。前回の、一九三九年の第一八回党大会以来、何年ぶりになるだろう。前述の通り、これは党規約違反であるにも関わらず、ほとんど誰もこれについて異議を唱えてこなかった。
先のグルジア、ウクライナ他、ソビエト連邦を構成する一六共和国の共産党の党大会が、この全国党大会に先立って開かれていた。工業、商業、農業、そして党機構などあらゆる分野で「欠陥」が「発見」され、「ブルジョア民族主義」の文字が各国の新聞で躍った。来たる全国党大会がどのようなものになるのか‥‥人民、とりわけ党員たちの頭上に、暗雲が垂れ込めてきていた。五日、第一九回党大会の開会式が執り行なわれた‥‥。
スターリンが第一九回党大会をここまで引き延ばしたのは、グルジアの粛清が一段落つき、新体制が固まった要因が大きい。スターリンは、ベリヤを恐れていた。勝った、と思っていたのかもしれない。だが、ラヴレンチー・ベリヤは勝負に出た。この全国党大会の壇上において、慎重かつ入念に練りあげた、長く質の高い演説を行なったのである。それは、おもに歴史に関する演説であった。
「(大祖国戦争における)ソビエト人民の勝利を鼓舞し組織したのは、スターリンに指導された共産党であった‥‥」
これがなぜ勝負であるかは、スターリンへの凄まじい個人崇拝を念頭に置く必要がある。ラヴレンチー・ベリヤが言うには、「鼓舞し組織した」のは、スターリンに指導された「党」なのだ。戦後ずっと、この役割は、同志ヨシフ・スターリン「が」果たしたとされてきた。ベリヤは、スターリンの偉大さをこれでもかと讃える一方、さりげなくこのような歴史の書きかえを図ったのである‥‥。
「マルクス・レーニン主義の理論で武装した共産党が‥‥」
ラヴレンチー・ベリヤは、演説の結びにも、再び党という語句をはっきりと入れた。「同志スターリンの指導のもとに」という決まり文句は、文頭ではなく末尾辺りに置かれていた――。
この演説は、特に正統主義者たちへの訴求力と説得力を持っていた。同志スターリンより若いあの指導者は、口を滑らせたわけではないようだ。自信と気迫に満ちたあの演説‥‥。
「党」。
普段当たり前のように耳にしているが、そのときの彼らには、妙に新鮮な響きがあった。そう、われわれは(国歌にならえば)偉大なる同志レーニンにより往く手を照らされ、現在の同志スターリンの指導のもとにある党員なのだ‥‥。
‥‥――この頃、ヨシフ・スターリンは、国内では幾重もの複雑な波に絡まれて、ずっと旧くからの仲間や、かつては新しかったがそろそろ旧くなってきた仲間とは、心が通わなくなってきていた。
――スターリンはひとりぼっち? 大丈夫。心配しなくていい。国外では、もっと新しい頼もしい仲間が、着実に育っていたんだ。さみしくなんかない――‥‥。
同党大会にはまた、各国の共産党、社会党、労働党、勤労者党、等々‥‥の指導者たちが顔をそろえた。このうち東欧の人民民主主義諸国からの来訪者たちは、すでに政権の座にあった。チェコスロバキア共産党の大男クレメント・ゴットワルト、アルバニア労働党の奔馬エンヴェル・ホッジャ‥‥。スターリン路線の忠実な支持者、ソビエト連邦に忠勤する同志――すなわち彼の「弟子」にして、自国においてそれぞれ「小スターリン」である指導者連中だった。
三年前に勝利を勝ち取ったばかりの中国共産党からは、かつて東方勤労者共産大学で学んだナンバー2の劉少奇が出席していた。この国は、東欧諸国とは事情が異なっていた――戦争を指導したのはスターリンではなく、先の毛沢東という彼らの指導者であった。政権獲得を成しえていない各国からも、共産党、社会主義政党、労働者党が代表を送ってきていた。
大会終了後、クレムリンの聖ゲオルギーの間において、白大理石のレーニン像が見守るなか、大晩餐会が催されていた。彼らをもてなす役は、クリメント・ヴォロシーロフが務めた。各国――実に四十四ヶ国にも及んだ――の代表と一回ずつ乾杯を行ない、その度ウォッカかペルツォフカの杯を飲み干さねばならなかった。スターリンも各国代表とそれぞれ挨拶を行ない、乾杯をしたが、ワインをちびりちびりと飲るだけだった――パイプをくゆらせるスターリンの姿は国内、また西側にも広く知られ、パイプは言わば彼のトレード・マークになっていたが(パイプについてのアネクドートもあるくらいである)彼はこの頃、禁煙に努めてもいた――。彼がもう高齢であることはその場の誰もが知るところだったから、宴席におけるこの振る舞いについての異議は出なかった。同時に、不吉なことも、もちろん言えなかった‥‥。ソビエト連邦では、人間の寿命はどれくらいなのだろうか。多少の事情通ならば、こう聞きたかったことであろう――カフカース地方には長寿の人間が多いと聞くが、同志スターリンにもそれは当てはまるのだろうか‥‥。不吉でもあり、それは彼らの――特にスターリンの忠実な支持者であるゴットワルトやホッジャには――心配事でもあったのだが、そんなことは口にできなかった。
無論、不安はそれだけではない。米英仏を始めとする資本主義諸国は、依然として強力であり――特に新大陸のアメリカ合衆国は、スーパー・パワーともいうべき非常に強大な軍事力、経済力を持ちつつあった。彼らとどう向き合えばよいのか――。対決すればよいのか。しかし、原子爆弾を落とされたら、どうすればよいのか‥‥。不安も、疑問も、アルコールに溶かされ、飲み干された。‥‥それまでは「全連邦共産党」であった党に、一九三四年より「ソビエト連邦共産党」という呼称が現れ始める。しかし、この党名が正式なものになったのは、実はこの年、一九五二年なのである。
ところで、彼らはまた、「彼」の弟子でもある。――饗宴がつづくなか、白大理石のレーニン像は、どこか中空を見つめていた‥‥。
ベリヤにとってのこの第一九回党大会の手応えは、すぐに出ていた。大会終了日前に、反ベリヤであったはずのグルジア共産党中央委員会書記が、次のように演説したのである。
「党綱領の最初の文句は、『プロレタリア革命の導き手であるレーニンとスターリンの創設したソビエト連邦共産党は』という言葉で始めるべきである」
これは、一〇月一五日付の「プラウダ」にも掲載された。ベリヤはずっと、政治局員の読み上げ順位(同国では、ヒエラルキーを如実に示す)では、モロトフ、マレンコフに次いで三位を保ってきた。それが、この党大会の六日午前の大会議事録では、五位に落ちていたのである。おそらく手違いでないことを証明するために、当日午後にも繰り返されている。ミングレル事件の影響は、明白であった。そのようななかで、彼は勝負に出たのだ。そして、この一五日付の「プラウダ」に掲載された大会最終日の議事録において、ベリヤの順位は、再び三位に戻っていたのである‥‥。
ベリヤは、まるでオセロ・ゲームのように、あっという間に逆境をひっくり返してみせたのだ‥‥政治局はグルジア共産党書記の提案をしりぞけはしたものの。
この党大会での演説において、ラヴレンチー・ベリヤはまた、党の民族政策における様々な偏向を危険性の高い順にあげるなら、第一が「大国的排外主義」の危険、第二が「ブルジョア民族主義」の危険、第三が「国際的コスモポリタニズム」の危険である、とも述べている。これは、スターリンに対する挑戦、公然とした論争の持ちかけでもあった。なぜならスターリンは、ベリヤの言う第二と第三ばかりを危険視してきており(スターリンが言う「シオニズム」はこの第三に含まれる)、明言こそしないものの、この第一については、危険視どころかむしろ称揚してきたのだから。ベリヤの演説のこの部分は、スターリンへの挑戦であるとともに、おそらく、この第二の烙印を押され多くが犠牲になったグルジアと、そしてまた西側の聴衆を意識した発言であろう。スターリンの大ロシア排外主義(=大国的排外主義)に疑問を呈する、リベラルな若き指導者――西側からはそう映るであろう、と‥‥。
スターリンともあろう者が、何もしなかったわけではない。彼は、幹部会と書記局に、ベリヤらより下の世代の新人を大量に入れるという手を打った。世代的に彼らは、あのレーニン記念入党者たちが多かった。彼らと「若き親衛隊」世代を競わせようとする腹である。
――しかし、こんな三十年代から散々やってきた旧い手が、通用するだろうか‥‥?
一一月一日、太平洋中部、マーシャル諸島はエニウェトク環礁において、原子爆弾よりもさらに強力な核爆弾の爆発実験が行なわれた。水素爆弾――アメリカ合衆国の新兵器であった。実用化にはなお改良が必要とされたが、彼らはこの超兵器を手に入れようとしていた。
スターリン同様、ベリヤも自身の健康には気を遣っていたようだ。彼は、かつての同業者同様いつからか菜食主義者となり、宴席でスターリンに言われても、肉そのものは無論、肉の入ったスープもなかなか口にしようとしなかった。それでもスターリンが命ずると、しかたなく肉スープを口にしたようだ。「主義」といっても、彼はこういう男である。細い金属縁の眼鏡を好んでかけるようになった彼は、体形と毛髪量を除けば、その同業者ハインリヒ・ヒムラーにますます似てきた。しかし、ずんぐりとした体形はともかく、後退が進む額は、これぞロシアの秀才の印と、彼はむしろ密かに喜びを覚えていた――先の通り、公式写真は修正させていた。西側とは美の基準が違うのである‥‥。付言するならば、ロシアにおいて聡明であるとされていたのは、秀でた額である。単に禿げた頭では断じてない。――ベリヤも含め、卓を囲む全員がスープを口にしたところで、スターリンは言ったものだ。
「これには毒を入れた‥‥。少量でよく効く――」
臣下たちは互いに顔を見合わせる。このボスが性質の悪い冗談が好きなことはみな承知であるが、同時にまた、この国では多くの人間が不審な死を遂げていることも、彼らはよく知っていた。そして彼は、ぐるりと見渡して、こう言うのだ。
「――スターリンは、口をつけなかった‥‥」
こうしてスターリンは、一番初めに退席するチキンを、残る者たちと笑い飛ばすわけである――ベリヤもたまらずその場で唾を吐き、退席したこともあったようである。その場で笑わない者には、それこそどんな危険が待っているか知れない。キーロフのように派手に暗殺されるなら、まだましなほうだ。交通事故、心臓麻痺、自殺‥‥。このようなスターリンの度が過ぎた悪ふざけは、長らく臣下たちを苦しめていた。
酒宴、そして前述の新聞や雑誌の切り抜きのほか、スターリンのこの二十年来の趣味は、映画鑑賞であった。夕食の後、しばしば手下を従えては映写室に赴き、一本または二本の長編映画を楽しんだ。時には三本観ることもあった(長編物を、一晩に、である)。それらの映画の多くはアメリカ製で、西部劇やチャーリー・チャップリンの作品をよく好んだが(チャップリンの「独裁者」には、かのアドルフ・ヒトラーを不快にさせた、という逸話があるが、これはスターリンにも同様の効果を与えたようである)、「ターザン」シリーズも、それまで上映された全作品をそろえていた。映画にキリル文字の字幕はなく、映画大臣による同時通訳が入ることになったが、スターリン自身が画面のアクションを解説し「実況放送」を行なうこともあった。
外に出て、オペラを鑑賞することもあった。「ボリス・ゴドゥノフ」や「アイーダ」も観たし、ウクライナのキエフ出身のロシア人で小説家でもあるキリスト教徒の劇作家ミハイル・ブルガーコフの「トゥルビン家の日々」という作品に至っては、実に一七回観に行ったという。これは、彼の小説作品「白衛軍」を戯曲化したものである。ブルガーコフは内戦中、その白衛軍側で軍医として働き、デニーキン軍にも従軍した過去があった。中流のこじんまりしたアパートメントに住む一家の男たちが、赤衛軍と戦う物語である。この作品はなぜか検閲によって排除されず、そしてなぜかスターリンはこの芝居を好んだ。中流の生活というものを知ることがなかった彼にとって、己の知らない世界を垣間見せてくれる(彼にとっては)おとぎ話だったのかもしれない。
もちろん、彼が観劇する際は、大騒動であった。モスクワ市民は彼から離れなければならず、スターリンが移動するラインを中心に街角には非常線が張られた。窓ひとつ開けていただけで、遅くとも翌日にはその家に青帽が踏み込んできた‥‥。このような、自ら作り出した状況が、ヨシフ・スターリンを映画鑑賞や切り抜きといった趣味に向かわせたようだ。この男は、自国の何千万という人間――いわゆる収容所に送った人間だけではない――とともに、自らをも牢獄に閉じ込めたのである。
しかしまた、ある観点に立てば、この男はまた、己のおとぎ話に自分だけを住まわせることに成功した人物でもある。彼の国で、何百万という人間が死んでいった。だが彼自身は、二十年代初頭の内戦‐干渉戦争終結以降、三十年以上にもわたり、妻ナジェージダの死を例外として、まともに血を見たことがあるかどうかすら疑わしい。すべて、ベリヤを含む配下に手を汚させてきた。そしてこの男は、一九二八年初頭の訪問以来、ただの一度も――形だけにせよ――農村の視察等を行なっていない。
音楽に関しては、グルジア民謡「スリコ」を好んだことは既述の通りであるが、独裁者にありがちなことに、この国で新しく出されるレコードをすべて試聴し、おもに「良い」「悪い」「下らない」の三分類のみという余りにも乱暴な論評をくだし(これをヴラーシクが伝えるのである)多くの音楽家たちを苦しめた。これは映画も同じで、この国で製作される映画をすべて鑑賞し、自分の承認なしには上映させなかった。正確な統計は取りようがないが、俳優や演奏家、画家、ボリショイ劇場関係者たちの逮捕ないし銃殺される確率は、他の職業の人間と比較して低かった(他が高すぎたのだ)――とはいえ、少なからぬ作家、詩人が粛清されている。
イギリスでは、チャーチルが再び首相に返り咲いていたが、彼も国際問題また自身の健康問題に悩まされることになった。アメリカでは、トルーマンは一九四八年の選挙では勝利したが、中国共産党による中華人民共和国の成立、朝鮮戦争の行き詰まり等で、一九五二年の選挙には不出馬を表明していた。その間隙を縫うように、共和党から立候補したアイゼンハワーが夏の同党全国大会を経て、首都を目指し怒涛の進撃を開始していた。――クールなキャッチコピー「アイ・ライク・アイク!」を叫べば、みんな仲間だ。
太平洋岸、いわゆる西海岸はオレゴンから、内陸に入ってアイダホ、ユタ、アリゾナ、モンタナと進 軍 歌 は続いた。ワイオミング、コロラド、ニューメキシコ、ウィスコンシン‥‥。
民主党はウェストバージニアは守ったが、ペンシルベニアは取られてしまった。また、政治学者ら人間の専門家よりも、三台の機械のほうが正確な選挙結果予想を弾き出していた。同国レミントンランド社の万能自動計算機「ザ・ユニバック」ことUNIVAC I。世界初の商用コンピュータで、前年に発売されていた。
メイン、ニューハンプシャー、マサチューセッツ。もう大西洋岸、東海岸だ。ロードアイランド、コネティカット、デラウェア――。ワシントンは目前だ‥‥。
スターリンのもとを、またフェアリーが訪れていた。ユーゴスラビアとの件では、スターリンはまだ怒りを――恐れを――抱いていた。アルバニア、チェコスロバキア、ハンガリー、ブルガリア、ポーランド、ルーマニア、東ドイツ‥‥それぞれの国について、フェアリーに尋ねた。それで東欧にはしばらくは大きな動揺がないと聞くと、一安心した。これらの国々の指導者や指導部のことも、根掘り葉掘り尋ねた。彼、スターリンの手法をよく学んだ、国外の弟子連中‥‥。先のホッジャ、ゴットワルトほか、ハンガリーの小男ラーコシ・マーチャーシュ、ブルガリアのヴルコ・チェルヴェンコフ――トドル・ジフコフという若い奴もいたな‥‥ポーランドのボレスワフ・ビェルト――ヴワディスワフ・ゴムウカは投獄中だが奴はどうか‥‥ルーマニアのゲオルゲ・ゲオルギュ=デジ、東ドイツの鉄人ヴィルヘルム・ピークにヴァルター・ウルブリヒト、チェコスロバキアにはアントニーン・ノヴォトニーという奴もいたか‥‥。スターリンが気にするのは、もちろん彼らの忠誠であった。フェアリーはそれにも答えた。
ルーマニアのあの若僧‥‥チャウシェスク――ニコラエ・チャウシェスクだったな。切れ者のようだが、あの目の光はどうも気になる‥‥。そうだ、ホッジャだ。目の光がどこか似ておる‥‥。あのホッジャの、ネジミエというつれあい、あれはいい女だ! わしもこの歳で女性観というものが変わるかもしれん‥‥。切れるのはホッジャよりもむしろあの嫁、というのが最近のわしの見立てで――あれだな、ヤンキー(アメリカ人男性のことらしい)やサー(イギリス人男性?)が言う「イケてる女」というやつだな。いや、むしろムッシュー(フランス人男性だろう)の好みなのか‥‥あいつらのセンスも、最近わかるようになったわぃ‥‥(と得意げに髭をいじるスターリンであった)。彼独自の人物評は、フェアリーの知識にない人物にまで及んだかと思うと――クルプスカヤにコロンタイ、あのいけ好かない女どもときたらまったく‥‥と知る人物のことに戻ったりと、長々と続いた。
フェアリーは老スターリンの記憶力に感心しながら、その人物評価基準がまったく理解できなかったが、とにかくそれが一区切りついたところで、アジアのことへ話題を移した。
「まだもうひとり、重要なのがいるよ。いま戦争をやっているところの」
「――金日成か。奴は、どうなのだ」
まだ四十歳の、朝鮮労働党の指導者の名であった。
「あいつは、戦争には勝てないけど――負けることもない。引き分けさ――長持ちするよ。あいつは、あの地に自分のための国家を作り上げる。あんたを真似てね」
「ほう‥‥。あの若僧がか」
東洋人は概して童顔に見える――数年前に会った際の印象を思い出し、スターリンは意外そうにまた髭をいじり、目を細めたのだった。フェアリーの皮肉は、まったく通じていなかった。
「――とはいえ、いずれは死ぬんだけどね。でも、息子に跡目を継がせる」
「息子に、だと。馬鹿な‥‥」
スターリンは唸った。
「で、その国は、少なくとも今世紀中はもつよ」
フェアリーは、五十年後の世界の一部を垣間見せてくれたが、スターリンは、長男ヤーコフのことを思い浮かべていた。
(生きてる間は‥‥俺の前では――)
パウルスとの交換拒否を知った後、ヤーコフはドイツの収容所で行進中に、鉄条網に向かって駆け出し、「撃て!」とドイツ兵に向かって叫んだという‥‥。
ドイツの警備兵は発砲し、ヤーコフ・ジュガシヴィリは死んだのであった。スターリンの息子らしからぬ、壮絶な最期であった。しかしこの長男の死に様は、ヨシフ・スターリンを内心苛立たせた。公の場では、悲嘆にくれる父親像を演じてみせた――スターリンにとって、そんな演技は朝飯前のまた以前だった。
(――愚鈍の極みだったくせに、死ぬときだけは英雄のつもりか‥‥!)
また、次男のワシーリーを思い浮かべた。苦労を知らぬ、酔っ払いの馬鹿息子。権力を譲り渡すなど、とんでもないことだった。自分の父親、「ベソ」ことヴィッサリオン・ジュガシヴィリも思い浮かべた。子ども――俺だ‥‥! ――を殴るしか能のない、飲んだくれのろくでなし。あの父親でなければ、俺は今の俺でなかったか。そんなことはない。ヨシフ・スターリンにとって、肉親・血縁者は、信ずるに値しない相手であった。
‥‥既述した、ヤーコフがスヴェトラーナに自分たちの父親が「昔はグルジア人だった」という「大ニュース」を語ったというアネクドートだが、彼と妹との年齢差を考えると、妹がこれを理解できるくらいの年齢の時期ならば、父親が「グルジア人だった」ことは彼には既知のはずで、「大ニュース」とは言い難い。このアネクドートは、実際は、自らの意志とは関係なしに特別な家庭に育つことを余儀なくされた彼が、年齢の離れた異母妹に語った――おそらくは複雑な思いを込めた――「話」を、脚色したものではないだろうか‥‥。
ヨシフ・スターリンは、ふと我に返り、フェアリーに聞き直した。
「待て、いま、その国はもつ、と言ったな。他は、どうなのだ。ポーランドは。チェコスロバキアは。ドイツ、ハンガリーにルーマニアは?」
「それは聞いてない‥‥。でも、ゾーヤはそういう言い方してた」
「アメリカに‥‥やられるのか? それともイギリスか?」
「わからないよ。ぼくには」
「中国はどうなのだ。あれが、簡単にアメリカにやられるとは思えんが‥‥」
「それは、ちょっと言ってた。もう少ししたらこの国と仲違いするって‥‥」
「なに‥‥! ユーゴのようになるのか!」
「そこまでは聞いてないよ」
「あの毛沢東か? 奴か? 奴がしかけてくるのか? 油断ならん奴だと思っていたが――」
「聞いてないって」
だがスターリンの耳にはもう、フェアリーの言葉など入っていなかった。
「芽を摘まねばならん――奴め、助けてやった恩を忘れおって‥‥。チベットの件も‥‥」
大戦中、スターリンは毛沢東率いる共産党軍と対立する国民党軍を助けたこともあるのだが、そんなことは、彼の脳裏からはきれいに拭い去られていた。
チベットの件とは、一九五〇年に中華人民共和国の軍が同地に侵攻し、反対・抵抗を鎮圧し翌年には実質的にその全域を支配下に置いたことで、弾圧は現在進行形であった。チベットのラサ政府は国際連合に対しこの侵略を訴えたが、国際連合は、先の通り国連軍を組織し関与していた朝鮮戦争への対応に追われ、これを事実上無視していた。
「チャーチルはいつまで――? アイクは‥‥?」
「チャーチルおじさんはこの四年間だけ。アイゼンハワーおじさんは大統領ってのを、結局八年もやるよ。でも次の選挙で別の人に変わる。――えーとね、たしかケネディっていう、うんと若い‥‥」
だがスターリンは、チャーチルが四年で消えるという話だけで充分らしく、フェアリーの話を遮った。
「哀れなもんだな。――で、われわれは、アメリカに勝てるのか?」
フェアリーは、話の腰を折られたことにムッとしながらも、答えた。
「部分部分ではね」
「ほう? どんなことだ?」
「――あんたの国は、まもなく、宇宙へ人を送るのさ。ぼくらも預かり知らぬ世界さ。すごいよ」
「フンッ。なんだ、そんなことか――」
フェアリーは両手を広げて目を輝かせていたが、スターリンはつまらなそうに鼻を鳴らしただけだった。
「アメリカも、すぐ同じことをするけどね」
「――第三次‥‥世界大戦は有り得るのか? われわれはアメリカに勝てるのか?」
「それは言えない‥‥。でも、少なくともあんたが生きてる間には起こらない」
「――ほう。まずは僥倖だな。それで、わしは、何歳まで生きるのだ」
「それが‥‥」
フェアリーは言いよどんだ。
「どうした。おまえの飼い主から、聞いておるのだろう?」
スターリンは、ニタリと笑った。その双眸には、確信めいた光があった。彼なりの奥深い洞察があったのだ。長年にわたったフェアリーとの邂逅で、人知の及ばぬ超常の世界にも、法則性のようなものがあることを見抜いていたのだ。妖精は、「飼い主」(とスターリンは相変わらず呼んでいた)のメッセージを、すべて伝えなければならないのだ。――フェアリーは、しばしためらった後、言いにくそうに告げた。
「あんたは、もうすぐ、死ぬってさ」
この年、ヒョウガエルの除核卵に胞胚細胞から取った生きた核を移植すると移植核は染色体の変化を起こすことが、ある実験において示された。胞胚期の細胞をドナーとして、核移植によってオタマジャクシを作ることに成功したのだ。クローン動物の誕生である‥‥。
――カエルで出来て、ヒトで出来ない法があろうか‥‥?
「君たちは生後間もない子猫のように目が見えない‥‥」
スターリンは、臣下たちにこう問いかけ、恫喝したものだ。
「スターリンなしでどうしてやっていくのかね――?」
これまで見てきた彼の臣下たち――ベリヤも含む――に「子猫」という形容が適当かどうかは大いに疑問があるが、ヨシフ・スターリンも自分の死を意識していないわけではなかった。しかし、彼の前では――何百万人という人間が彼の政策により殺されていながら――「死」は禁句であった。老いゆくスターリンは、古代ローマ人が刑死した人間に対して用いたとされる、特殊な用語法を好んだ。曰く、レーニンは生きた、ブハーリンは生きた、キーロフは生きた――。オルジョニキーゼは生きた、カーメネフも、ジノヴィエフも、生きた――‥‥。このような奇怪な言い方が、彼、ヨシフ・スターリンの前では当たり前のように交わされていたという。
またスターリンは、科学アカデミーのアレクサンドル・ボゴモーレツという学者の「生命の延長」という著作を、熱心に読んでいた。この学者は、スターリンによって「社会主義労働英雄」の称号やソビエト連邦最高会議の代議員の席を贈られ、同志スターリンを自分の長寿法で百歳以上までその生命を延長してみせると請け合っていたが、本人は六五歳で亡くなった。このことは、ヨシフ・スターリンに打撃を与えたようである‥‥。
彼は「個人」ではない――彼ほど「個人」ではない人間も少ないだろう。その彼のこのような志向は、社会一般にも反映される。
「われらには喜び、敵には恐怖なる父よ、永久に生きたまえかし」
一九五〇年、「プラウダ」に掲載された大きなスターリンの写真の下に寄せられた、ある詩人による短文である。この時代のこの国の、いわばキャッチコピーであろう。
さて、「子猫」たちであるが、彼らも戦後からこっち、いつまでも変わらない状況に疲れ、苛立ち、古代ローマのカエサルの、晩年の周りの人間のような心境になっていた。
ラヴレンチー・ベリヤから、三匹の子猫に、ある連絡が入った。
――最近、よいレコードを何枚か手に入れた。ついては、私のダーチャまで試聴に足をお運び願えないだろうか‥‥。
「古参の親衛隊」には何かを起こす元気はなく、三匹はすべて「若き親衛隊」の子猫たちだった。
――モーツァルトのレコードも含まれる次第――‥‥。
定められた日の午後遅く、二重顎の子猫、軍人風の子猫、そして禿げ頭の子猫が、ラヴレンチー・ベリヤのもとに集まった‥‥。場所はモスクワ郊外である。まず森で狩りを楽しみ、その後でレコードを聴くという趣向だ、という口裏合わせをした。どこであれ屋内で秘密会合を持つほど、彼らは愚かではなかった。
‥‥彼らは生後しばらく経ち、目は開いていたが、まだ踵を地面につけないいわゆる「猫歩き」はできておらず、また会話も、当然のことながら、
「ニャーニャニャ、ニャーニャ」
「ニャ?」
「ニャニャーニャ、ニャグルー‥‥ニャーニャニャニャ」
「ニャー。ニャニャニャニャーニャ‥‥」
というように、猫語で交わされている。しかしそれらをこと細かに正確に描写すると、人間には読めなくなってしまう。よって、誠に遺憾ながら、あくまで便宜上の措置として、彼らがまるで人間であるかのように擬人化した描写を行なうこととする。猫族の諸兄諸姉には失礼は承知の上である。大目に見ていただきたい‥‥。
‥‥森の道を歩きながら、彼らは頭を悩ませていた。ことがそんなに簡単に運ぶのなら、誰も苦労しないというものだ。これまで見て来た通り、彼が指導者になって以来、三十年代から考えても二十年以上もの間、暗殺が試みられたことはただの一度もない。それだけ彼は用心し、警戒し、注意を怠らなかったのだ。そして無論、失敗に終わったときの恐ろしさを、彼らは想像しないわけにはいかなかった。ヒトラー爆殺に失敗したドイツのシュタウフェンベルク大佐は銃殺ですんだが、彼の同志たちは拷問の挙句、ピアノ線で吊るされたというじゃないか――痛そうだ‥‥。わが国の場合、基本は銃殺だが、ことがことだけに、あの男が気まぐれを起こさないとも限らない。家族ももちろん逮捕され、拷問、あるいは処刑されることだろう‥‥。人民の前でわれわれ四人を並べて絞首刑に処し、失政をすべてわれわれのせいにする――古典的な手だが、有り得るセンだ‥‥。拷問は――痛そうだ――真っ平ごめんだし、またぞろヴィシンスキーが出て来るかもしれない、奴の勝ち誇った面を見させられるのは、それだけでひとつの刑罰みたいなものだ‥‥。まあそうならないためにも、逮捕前に自分で頭を撃ち抜くか‥‥。
計画失敗のときはあれだな、俺はナガン・リボルバーを持ってるから、あれでみんなでルーレットをやろう。当たれば、拷問を受けずに済む上に、末代までの語り草になることは間違いない。外れでも調書には残せるから、俺たちの勇気は、人民の話題をさらうことだろう‥‥。――弾は何発入れるんだ? 戦争中ブリャンスクで、四人の赤軍将校が三発入れて実行したというが‥‥。――おいおい、スターリングラードじゃ、四人がふたりずつ二組に分かれて、それぞれ五発入れてやってたぞ。それで俺は言ってやったんだ。諸君、その勇気をファシストどもにぶつけてやりたまえ! とな‥‥。
また、彼らは政治家であったから、自分の名誉についても敏感になっていた。失敗した場合、百科事典に自分の業績はどれくらい残るだろうか――まさか、すべて消されやしないだろうが――‥‥。こんな具合で、話はなかなか前に進まなかった。悲観論者たちを前に、ベリヤは、お待ちかねのモーツァルトのレコードに針を落としたのだった。
――まず周りから片づけるのだ‥‥。
「ヴラーシク‥‥?」
肥えた二重顎の男は、嫌悪も露わにその名を口にした。
「それと――ポスクレブイショフだ‥‥!」
ベリヤは、語気を強めた。二重顎の男ははっきりと驚き、軍人風の男と禿げ頭の男も、おや、という表情になった。ラヴレンチー・ベリヤが自ら手の内を明かす。この男とのつきあいはそれなりに長くなっていたが――こんなことは、いままでついぞなかった。ベリヤもそれは自覚していた。だが、構わなかった。かつてエジョフを片づけ、最近ではジダーノフとイグナチェフを片づけていた彼には、自信があった――イグナチェフは死んだわけではない、はっきりとした手を打てば、味方につけられる――そういう自信もあった。奴は出世がしたくて焦っていただけだ。俺に怨恨があるわけではない。見たところ、その出世の「天井」が見えてきて、何やら考えあぐねているようじゃないか‥‥。
そしてベリヤは、不快な出来事を思い起こしていた。あれは、原子力問題、また西側諸国との共存路線のことで、ボスに説明に赴いたときだった。ポスクレブイショフに遮られたのだ。
「おまえに用はない。そこをどけ」
「同志スターリンは、いまは誰とも会わない、と仰っています」
「おまえは会っているじゃないか。もう一度聞いて来い。俺の名前を出せ」
「――同志ベリヤ、指揮系統が違うぞ‥‥」
この言い方を聞いて、ベリヤは、目がチカチカするほどの怒りに襲われた。
「――‥‥! 俺を誰だと思っている! 元帥殿とつけろ! おまえなどいつでも‥‥!」
「‥‥‥‥」
ポスクレブイショフは謝るどころか、言い直すことさえしなかった。彼も時間の経過に伴って、銀髪の、実年齢よりも老けて見える男になっていたが、かつての雰囲気――残酷なやくざ者のそれ――は変わらず、いや増してさえいた。
元帥になれたことは、ベリヤを心底嬉しがらせていた――彼は出世主義の権化であった。ちなみに、ラヴレンチー・ベリヤはソビエト連邦きっての勲章持ちであり、レーニン勲章だけでもしめて七個を受章している。
(ただの側用人が‥‥!)
ラヴレンチー・ベリヤはそのとき、熱した鉛を飲み込んだような怒りに捉われながら、クンツェヴォのダーチャを後にしたのだった‥‥。
「――俺に任せろ」
ラヴレンチー・ベリヤの頼もしい宣言は、暮れゆく森に吸い込まれていった。反論の声はなかった。あの男の暗殺を未然に防いでいた物理的な壁である警護部隊の長と、機構上の網であるあの男個人の情報機関の長を片づける――部下ももちろん――それは、たしかに順当な手であった。だが、それだって今まで反対派が思いつかなかったわけではないだろう――そんなにうまくことが運ぶものだろうか‥‥。三人は、互いに顔を見合わせた。
「ふたりともだ‥‥」
ベリヤは、臆病な羊どもに重ねて言ってやった。彼らは、政治的には羊の皮を被った狼たちである。誰も彼も、手を――大量の――血に染めて、ここまで来ていた。だが、ある意味ではやはり羊なのだと、ベリヤは近頃では思っていた。こいつらに、俺様の力を見せてやる‥‥。
「時期は‥‥?」
肥えた二重顎の男は、声の震えを隠しきれていなかった。その震えには、大きな賭けを前にした男の興奮は微塵もなく、ただ怯えだけがあった。フン、とベリヤは鼻を鳴らした。所詮、こいつは官僚だ。こいつの冒険は、二十年代のトロツキー襲撃で終わってる‥‥。
「――今年中だ」
ヴラーシクとポスクレブイショフについては、いわば前奏であった。「モーツァルト」は、それからしばらくの間、彼らの間を流れた。ラヴレンチー・ベリヤの得意げな顔と、三人の顔とが、幾度となく見合わされた。
「来年は、いい年になるだろう‥‥」
そのつもりはなかったが、ベリヤの声は、まるで彼らを前にしたボスのそれのように、聞く者の不安を煽るものになっていた。狩りの成果が思わしくなく、また用事が入り、レコードの試聴はせずに解散した、ということにした。これは不自然に思われる可能性もあり、難しいところだが、こんな話をした後で部屋で普通にレコードを楽しんでいるかのような芝居が打てるほど、彼らに役者の才能があるわけではない。
「彼らはどうする‥‥」
その夕方の別れ際、禿げ頭の男が気になることを口にした。「古参」の連中のことであった。先の話だが、確かに重要なことだ。そして――後で気がついたのだが――これはその場で思いついたというより、おそらく彼が前々から考えてきたことなのだ。夕暮れのなか、ラヴレンチー・ベリヤの細い金属縁の眼鏡が、夕陽を反射してキラリと光った‥‥。
この禿げ頭の男だが、口には歯の欠損のためスチールのブリッジがかけられ、顎は極めてがっしりとしていた。三十年代のモスクワの地下鉄建設の際には、坑道内を熱心に歩き回ったものだ。ウクライナの党第一書記をしていた時代には、無気力に捉われたコルホーズの農民たちの前で、黒土のぬかるみのなかへずかずかと入り、野兎がどんなに旨いものであるか長広舌をふるったこともあった。その粗野なエネルギーは、加齢とともに多少の落ち着きを見せていたが、まだこの男の体内に溢れていた。
彼らは動き始めた。黙っていろよ、などという念押しは必要なかった。彼らの誠意など、これっぱかりも信じてはいない。ただ、ベリヤは秘密警察網を駆使し彼らの動きを手に取るようにわかるようにしており、そのことをほのめかすことも忘れなかった。密告を企てれば、その前に自分が密告され、消える――彼らは、その点をよくわかっているようだった。
(いいじゃないか‥‥)
ラヴレンチー・ベリヤは、満足げにひとりごちた。密告の動きは、その後も網にかかることはなかった。未来のボスが誰なのか、彼らは飲み込んだようだ。
驚くべきことが起こった。長年スターリンに仕えてきた側近中の側近、忠臣中の忠臣である「特別部」のポスクレブイショフが遠ざけられ、警護部隊長ヴラーシクも逮捕・投獄されたのである。背後にはラヴレンチー・ベリヤの動きがあったと言われる。機密度の高い、おそらく極秘といえるスターリンの文書が、ポスクレブイショフの部屋から紛失した。単に「なくした」で済まされることではない。スターリンの猜疑心は、この長年の忠義の士にすら向けられたのである。党・政府内部にも、外国のスパイが入り込んでいる――それが、こんな身近にまで食い込んでいたのだ‥‥! ヨシフ・スターリンは、即座にポスクレブイショフを解任したという。もちろんポスクレブイショフは、反論したであろう。これは陰謀です、と。しかし、いままで自ら無数の陰謀の主犯であった老いた主に、それは通じなかった。スターリンの猜疑と恐怖にくらんだ目は覚めることなく、この男を追いやったのである‥‥アレクサンドル・ポスクレブイショフは、銃殺だけは免れた。
ポスクレブイショフの部屋とて、そう簡単に、またそこいらの者が、部屋の主に知られず自由に出入りできるわけではない。この文書紛失事件は、ラヴレンチー・ベリヤが、大胆にも自らの手で盗み出したようである。彼の権威は、警備の人間の口を塞ぐことを可能にした。そう、あのエジョフを片づけたときと似た――やや手の込んだ犯行だった。ある人間のもとから、大事な物が消え失せる。騒ぎとなるなか、しかし、颯爽と登場するような真似はせず、あくまで平静を装ってラヴレンチー・ベリヤが登場するのである。それらしいことを、動揺するスターリンに匂わせたのかもしれない。われらがラヴレンチー・ベリヤにとって、小学校時代にすでに身につけていたやり方だった。颯爽と登場したり、第一発見者を装ってみせなかったのは、彼もそれだけ大人になったということだ――数十年かけて、それだけしか大人になっていなかった、とも言えるが‥‥。
狙う相手を追い落とす、また自分の名誉ないし地位を高める。小学校時代には、このふたつを目的とした盗みを無自覚にやることで、彼は名探偵となれた。無理もない。いかに奸智に長けているとはいえ、若い――というより幼い――心というものは、どうしても逸るものだ。逸ったことにより、その後没落を見た少年は、教訓を得た。そして大人になり、極力自分の印象を淡くしつつ、前者だけを狙う手を打ったのである。ラヴレンチー・ベリヤは、スターリンの猜疑心と恐怖心のからくりを、誰よりも正鵠に見抜いていた。今までもそれを利用してきたが、今回は特に巧みに、最大限に利用したのである。
ニコライ・ヴラーシクにも何らかの嫌疑がかけられ、逮捕されることになった。彼が陰謀だと反論したかどうかは、何とも言えない。ただ、この時期のヴラーシクは、機構上はMVDの指揮下にもあり、ベリヤにとってこの男を片づけることは、ポスクレブイショフの場合よりもたやすかったであろう。警護部隊の人員も総入れ替えとなった――それまでの構成員は、逮捕されたかもしれない。
さて、しかしよりによってヨシフ・スターリンを、一日とて護衛なしで居させられるわけがない。さっそく、新しい「警護」部隊のチームが、クンツェヴォのダーチャに配置された。問題は、この新しいチームの人員が、すべてラヴレンチー・ベリヤの秘密かつ厳密なコントロール化にあったということである。変えられたのは、彼らだけではない。スターリンの侍医、クレムリンの診療・衛生部長、そして保健相までもが逮捕された。新しく保健相になったのは、党や政府ではそれまで誰も知らないといってよいような人物であった。この新保健相も、ラヴレンチー・ベリヤの旧知の医師であった――ともかく、いちおうは本物の医者であっただけでもましかもしれない‥‥。
ヨシフ・スターリンの文章は悪評が高い。本人が草稿を書いた演説も同様である。内容もさることながら、繰り返しが多く、話があちこち飛ぶのだ。ついていくのは大変である。繰り返しについては、彼が少年時代に触れた神学問答の影響とする向きもある。話が飛ぶのは、彼の内面の顕現であろうか――。演説の内容を分析的に理解しようとして聞いていると、結局何を言いたいのかわからず、途方に暮れるともいう。本人がどこまで自覚していたかは定かでない‥‥。
彼はまた、奇矯としか思えないことを言い出し、周囲を困らせることがあった。――モスクワ戦の頃、ジェドフスクという小さな町がドイツ軍に占領されたと知ったスターリンは、ただちに町を取り返すことをゲオルギー・ジューコフに命じた。
しかしジューコフが調べたところでは、ジェドフスクという村はたしかに存在していたが、そこは赤軍の手中にあり、占領されたのはジェドボという小村であった。ジューコフは彼にその間違いを指摘したが彼は受け入れず、とにかく取り返せと命じ、ジューコフに奪還の全責任を負わせた。戦車二輌とライフル小隊がこのためだけに派遣され、ドイツ軍の小部隊を追い払わねばならなくなったという‥‥。この後スターリンは、次第にジューコフら軍人の意見に耳を傾けるようになり、スターリングラード戦では彼らが立案した反抗作戦を受け入れるまでになる。この過程に、妖精の介在があったかどうかは、定かでない‥‥。
なお、敵方の捕虜になった赤軍将兵に対するスターリンの態度は、すでに独ソ戦に先立つ冬戦争で示されている。SMKを取り返すため勇戦した際の描写は、あくまでも事実の小口断面図を――つまり、ほんの一部を切り取り、ある観点から活写したものである。あの極度に寒かった冬、約三万名がフィンランド軍の捕虜になっているが、彼らは、ポーランドとフィンランドに対して防衛戦を戦っているのだと主張して無知をさらけ出す一方、その驚くほどの無気力ぶりでもフィンランド人の興味を引いている。この捕虜たちは、送還時こそ祖国の軍楽隊と花束によって迎えられたが、ほぼそのまま祖国の収容所へと送られた‥‥。さらに先立つ一九三七年――エジョフシチナ期――の時点ですでにスターリンは、第一次世界大戦での送還捕虜が当時のドイツ軍により徴用された可能性があるとして、逮捕する準備を進めてもいる。二十年前の戦争の参加者を、である。スターリンとはこのような人間である。
‥‥チェコスロバキアのアヴィア社に話を戻すと、同社はMe262の生産を戦後も続け、チェコスロバキアはこの機種をアヴィアS‐92、CS‐92と呼称していた。また接収したMe262のジェット・エンジン004Bをコピーし、それらをソビエト連邦に送っている。S‐92、CS‐92もおそらくソビエト連邦に送られたであろう。旧Me262はソビエト連邦の技術陣にとって大いに参考になり、またこのエンジン自体も他の旧ドイツのジェット・エンジンとともに再生産され、後のジェット機開発の一助となっている‥‥‥‥‥‥。
ヨシフ・スターリンとその体制にとって、西側世界で「自由主義」と物質的豊かさに触れた捕虜たちは、祖国に黴菌を持ち込む伝染病患者であった。だから、少なくとも隔離しなければならなかった。
「スターリンは大戦において、二点の大きな過ちをおかした」
西側にもラデックのような者たちがいた。彼らは言ったものだ。
「イヴァンにヨーロッパを見せたことと、ヨーロッパにイヴァンを見せたことだ」
後者は、大戦末期のドイツにおける赤軍兵の行動が裏づけていよう。自嘲と自虐による誇張があるにせよ、前者を裏づける「イヴァン」たちの声も多くある。
「ドイツの家畜は、わが国の人間よりもましな生活をしている」
「アメリカ兵の食べるチョコレートは、わが軍兵士の食べるジャガイモの分量を上まわる」
ある作家によれば、ヨシフ・スターリンは、五分間以上意識を集中せねばならないような考えを表明することができなかった。そのため、いわゆるゴーストライターはもちろんゴーストシンカーまでを大規模に使うことになり、彼の名が署名された文章のほとんどは、彼自身の作ではないという。しかしそれにしては、もう少しこなれた文章を出してきそうなものだ、という見解もある。強制労働使役業種の列挙よりも使っていない分野を‥‥と指摘した先の作家――苦難の収容所生活を余儀なくされた――は、己の人生を破壊した主犯たる彼の文章のなかに、夜半ひとりきりで白紙に向かい苦吟する、同業者の姿を見出している。オリジナリティという、実は不確かなものにこだわる人種の性は、本人の社会的立場に関わらず発露――顕現してしまうものではないだろうか‥‥。三十年代に粛清された既述のヤン・ステンは、ヨシフ・スターリン自らが雇い入れている。また神学校時代には、詩作を試みることなどもしている(グルジア語で、である)。
この神学校よりさらに以前、グルジアはゴリ、教区の小学校時代の彼については、ある元同級生が――外国で――このように記している。
「何かを得ようとしたり、何かをやり遂げようと決心すると、彼は不安定な、自制を失った、激情的性格になった。彼は自然を愛したが、生き物を愛したことは決してなかった。彼は人間や動物に憐みを感じることができなかったのだ。子どもの頃でさえ、彼は学友たちの喜びや悲しみに対し皮肉な笑いを浮かべて応じていた。私は彼が泣いたのをついぞ見たことがない」
この精神と態度は、その後半世紀以上、彼の呼び名の変遷、また社会体制や彼個人を取り巻く環境の激変にも関わらず保持され、見てきた通り、文字通り世界へと反映されてきた。
――一九三九年一二月、アドルフ・ヒトラーはヨシフ・スターリンに六十歳の誕生祝いの挨拶を送っているのだが、「プラウダ」にリッベントロップの祝電と、次のようなスターリンの返電が掲載された。
「大臣閣下、祝電に感謝申し上げます。熱き血潮で結ばれたソ独両国民の友情は永遠に不変でありましょう」
この時期の国際情勢を考慮するならば、「血潮」とは、ポーランドにおける彼らの蛮行の被害者たちのそれと考えるのが妥当であろうか‥‥。自己顕示欲についてはベリヤが見抜いた通りであろう。あるところでは「天才スターリン」と自署した。先の生誕七十周年記念の際には、夜間、モスクワ・クレムリン宮殿の上空の雲に、投光器を使って大きな彼の横顔を投影するということが行なわれた。このスペクタクル・ショーの趣向は、ラヴレンチー・ベリヤのアイデアによるものといわれる。
スターリンの手によるとされる文章は、悪評が高い。本人が草稿を書いた(とされる)演説もまた、同様である。ただ文章のほうは、自宅でひとりで読む分には、演説のように拍手をしなくても、命取りにはならない(もっとも、家族や同居者にもじゅうぶん気をつけねばならないが。彼らが密告しないという保証は、本当にどこにもない)。そのことは、素直に感謝すべきだろう‥‥。
誰に? 神にだろうか。しかし、ソビエト連邦に神はいない。とすると、同志スターリンに感謝を捧げるべきなのだろうか――‥‥。
飲酒地理学とは、いまだに開拓されていない、ヨーロッパ中心の観点の、そしていささか大胆な学問分野である‥‥。
これによると、この惑星の北半球の旧大陸(旧世界)の諸地域は、その土地の主要なアルコール製品および、それが飲酒者にどのような影響をおよぼすかによって決定される、一連の水平な帯状地帯によって分類することができるという。その分析は、ヨーロッパを中心に、特にユーラシア大陸をおもな対象としている。
最北部の帯状地帯は、穀物蒸留酒地帯。スコットランド、スカンディナヴィア半島、そしてこのソビエト連邦の大半が含まれる。穀物蒸留酒を飲む者は、できるだけ早く酔おうとし、ワインの類も飲むが、愛するのは穀物蒸留酒である。彼らはビールを、強い酒の後に飲むチェイサーの類と見なす。
この南部に位置する帯状地帯が、そのビールを主製品とする地域である。イギリス、北フランス、いわゆるベネルクス三国、そしてルール地方‥‥。この地域は、最初の産業革命のための労働力を供給した。遠く極東においても、近代化の後、また特に大戦後には、日本でも大量のビールが消費されるようになり、これらの地域の仲間入りを果たしたようである。ビール力を侮る誤った風潮があるが、この理解については以下の事実をもって反証できる。すなわち、これらの地域においては勤勉が美徳であるという、特殊な意識が人々の間で形作られていることである。
この南部に位置するのが、ワイン地帯である。イベリア半島から南フランス、イタリア、ギリシア、南ドイツ、オーストリア‥‥。これらの地域では、ワインを飲んで楽しくなった人々が「カフェ」という文化を花開かせた。
このさらに南部に位置するイスラーム文化圏では、アルコールは基本的にご法度である。薄荷茶、砂糖菓子、そしてハシシュがたしなまれる。
これら各地帯においては、その内部から己の属する社会の特徴を指摘する者には、貼りつけるレッテルがあらかじめ用意されている。一例を上げるならば、ビール地帯――文化圏――における「怠惰」「怠け者」転じて「非生産的」等であろう。反対派狩りは――時にひそかに、時におおっぴらに――日常的に行なわれ、誰もが見て見ぬふりをする。一個人としては何かおかしいと感じていても、体制の力を恐れみな口には出さない。物心がついた時点から繰り返し繰り返し刷り込まれている洗脳から脱するのは、容易なことではないのだ‥‥。
付言するならば、カール・マルクスはビール地帯に近いワイン地帯――名高いモーゼルワインの生産が盛んな――ワイン文化圏の出身であり、青年期にビール文化圏に移動、その後はこの二文化圏をさまよいつつ、思想を形作っていった。彼が「労働」というものをどのように捉えていたかは議論の分かれるところであるが、この観点からの研究が、今後待たれるところである‥‥。‥‥ひとりの人間として見た場合――これもある(特定の)観点だが――後者の文化圏においては、彼 は明らかに労働不適格者であった。
さて、ソビエト連邦は‥‥? ――緯度帯としては属しつつも、気候風土のため、ビール地帯はない。この広大な地の全域にわたって、人は基本的にこの地の穀物蒸留酒――すなわちウォッカを飲むのである。ウォッカは、ソビエト連邦のみならず、ポーランドでもよく飲まれている(ポーランド語では「ヴートカ」)。ただ、ソビエト連邦の南西部、いわゆるカフカース地方では、ワインがこのウォッカと拮抗、あるいは勝っている。グルジアワインのように、美味かつ飲んで楽しくなれるとくれば、それで言うことはない‥‥。
どこかが、おかしい。何かが、狂っている。確かなことなど、何ひとつない。そう、この俺だって――。
その老いた男は、鏡を覗き込んで、問うた。
「おまえは、誰だ‥‥?」
鏡のなかの、彼と寸分違わぬ外見の男は、しばらく考え込んでいるようであったが、結局のところ、決まりきった返答をするしかなかった。
「俺は――‥‥スターリン、だ‥‥」
老いた男は、敢えて灯を暗めにしていた。その宵闇のような暗がりは、彼の周りを優しく包んでいたのだが、彼には、優しさというより、それが世界が不吉なものである証拠のように思えて、ならなかった。
「どちらかが『スターリン』なのは、間違いない‥‥」
老いた男は、なおも続けた。
「そして、おまえは、間違いなく『スターリン』だ‥‥」
彼が鏡に映った老人をそう断定すると、老人もまた同じようにした。
「同志よ‥‥しかし、おまえがスターリンであることが、俺がスターリンであることの証拠にはなるまい‥‥?」
「――俺は、鏡に映ったおまえだ。俺がスターリンなのだから――‥‥おまえも、スターリンなのだ。知っているはずだ」
鏡のなかの、老いたみすぼらしい痘痕面の男は、彼にそう宣告し、
「同志、だって‥‥? 俺と、おまえが‥‥?」
と、ニヤリと鏡のなかから彼に笑いかけた。
「――『同志スターリン、助けてください‥‥!』」
彼は、その声が自分のものでないことに気がついたが、鏡を割る気力も、体力も、もう彼には残されていなかった。
「明日、食べるものがありませんのです‥‥!」
「夫が、連れて行かれました‥‥!」
「ドイツ軍が、村中の女子供を納屋に押し込め――わたしの妻と娘もそのなかに――そして火を放ちました‥‥!」
「ぼくは何も悪いことをしていないのに、お父さんはぼくをぶちます。こんなに寒いのに、石炭を買えるお金でウォッカを買ってきて、お母さんを毎日泣かせています。ぼくらはいつまで、穴のあいた靴をはかなくてはならないのですか‥‥!」
老婆のような声、中年の女のような声、中年の男のような声、小さな男の子の声が、次々と彼の耳に飛び込んできた。声はなおも続いた。
「同志‥‥」
「同志よ――‥‥!」
「タヴァーリシュチュ‥‥!」
嘆願のような悲鳴のようなそれらの声は、幾重にも重なり合い、増幅していった。農村で、都市で、そして戦場で‥‥彼の肖像画と公式写真に向けて放たれていた、何十万、何百万、何千万もの声‥‥。
声はやがて増幅をやめ、今度は――縮小するわけではなく――絞り込まれるように鋭く尖りながら独唱ならぬ独声へと変化していった。彼にとってよく聞き覚えのある――、
「――人民の声が聞こえるぜ、同志スターリン」
その声は、ラデックのようであった。
「――人民の声が聞こえるな、コーバ」
その声は、トロツキーのようであった。
「‥‥人民の声が聞こえるわ、あなた」
その声は、ナジェージダのようであった。
「‥‥人民の声が聞こえるぞ、うすのろのコーバよ‥‥!」
最後の声は、レーニンのようであった。
声は再び幾重にも重なり合ってゆき、さらに増幅していった。次第に和音となり、重唱となり、誰でもありまた誰でもない声、世界に響きわたる音となり、彼に襲いかかった。老人は、かすれ声のような悲鳴を上げながら、崩れるようによろよろとその場を立ち去った。
普通の人間ならば、あるいは逃げ出すことができたかもしれない。物理的にはできなくとも、心理的には、いわゆる自分だけの夢の王国へと‥‥。だが彼には――世界中で彼だけは――それはできない。何故なら、夢の内でも外でも、彼は「スターリン」なのだから‥‥。
どこかが、おかしい。何かが、狂っている。
ポスクレブイショフとヴラーシクを片づけたのは、誤りだったか‥‥? しかし――どこかに原因があるはずだ‥‥。
アルコールで錆びついていった人間は、古今東西、枚挙にいとまがない。九等官マルメラードフ氏然り、身を滅ぼした者も‥‥。妄想、幻想、偏執――‥‥しかしここで問題なのは、彼が九等官ではなく、史上類稀な強大な権力を手にした独裁者であったということであった。
ソビエト連邦において、新年早々の一月、医師団陰謀事件というものが起こっていた。いや、起こされていた。例によって、スターリンの妄想が原因である。
比較的有名な、九人の医師が逮捕されていた。一九五三年一月一三日付の「プラウダ」紙のタス通信のコミュニケによると、「国家保安省の機関はしばらく前に、有害な医療によってソビエト連邦の指導的人物の生命を縮めようとしたテロリスト集団を摘発した」とのことであった。アンドレイ・ジダーノフともうひとりの政治局員が、彼らの犠牲になったとされた。イヴァン・コーネフほか軍の高官・幹部多数も狙われたが、彼らは無事だったということであった。
この九人のうち、六人がユダヤ人であった。この「医師団」は、アメリカの情報機関の命令を、ソビエト国内のあるユダヤ人民族主義者を通じて受け取っていたというのだ。この「ユダヤ人民族主義者」は、実名をあげられていたが、すでに五年前に物故していた人物であった。
五年以上前から活動していて、同志ジダーノフほどの有力者の殺害に成功していながら、軍の高官・幹部のひとりも殺るどころか、かすり傷ひとつ負わせられない「テロリスト集団」とは‥‥? 軍人のガードは固いのか、では、一時は同志スターリンの後継者とまで目されていた同志ジダーノフの警護はどうだったのか‥‥? しかしこの国では、そのような点は無視され、とにかく裁判に突入してゆくのである。そう、三十年代のあのセルゲイ・キーロフ暗殺後のように。
――書き添えれば、彼の愛娘スヴェトラーナが戦時中連れ添った恋人も、ユダヤ人であった。一九四一年後半、それまで病死と信じてきた母の死の真相を――少なくとも病死ではなかったことを――彼女は知ったのである。ほどなくしてスヴェトラーナは、二十歳以上も年長のユダヤ人映画監督アレクセイ・カプレルと恋に落ちた。ヨシフ・スターリンはこの映画監督を逮捕、北極圏近くに一〇年間追放した。長男ヤーコフが捕虜となり、やがて死を遂げた時期と重なっている。これは軍律の厳格な適用とも言えるが、ヤーコフの妻も、夫がまだ存命中に――つまりドイツの収容所にいる時期に――逮捕され、この国の収容所へと送られていた。彼女もユダヤ系であったと言われる。軍律は都合よく利用された感がある。
ソビエト政府は――すなわちスターリンは――ヒトラーのように大声でユダヤ人排斥を唱えたりはしない。ただ、ほのめかすだけである。ソビエト連邦の――とりわけロシア、ウクライナ、ベラルーシ地域の――人々にとっては、それで十分なのである。かつてのツァーリ同様、ユダヤ人を叩くことを、お上は見逃してくれるのだ。いや、見逃してくれるどころか、白衣をまとい、医療と称して自分たちに毒を盛るユダヤのエリート医師たちを告発することを、政府はむしろ奨励しているのだ――これは何処の国でもさほど変わらない西洋医学への人々の怖れ、エリート風を吹かす医師たちへの妬みの感情が、民族差別と結びつけられ、利用されようとしていた。スターリンの帝国の反ユダヤ主義は、政策として明文化こそされないものの、いまやヒトラーのそれの域に達しようとしていた。
レフ・メフリスすら、この反ユダヤ主義の犠牲になった。軍人としては大将、政治家としては一時期、国家監督相まで務めていたにも関わらず。医師団が公判を待つ間、ヨシフ・スターリンはかつて「プラウダ」紙上で自分を天空の高みにまで持ち上げてくれたメフリスを、サラトフに派遣させてそこで、有力者であったからひっそりと逮捕させた。メフリスは、モスクワのレフェルトフスカヤ監獄に移され、スターリンが必要としていた供述をした後、一九五三年二月一三日に死んだ。春になると、ソビエト政府はユダヤ人に対して、高等教育を受ける場所や大都市の居住区域の制限など、公的な差別政策をとり始めた。ポグロムが、現代に復活せんとしていた。ウクライナでは、すでに組織だった虐殺が始まっていた。そして、ソビエト連邦に居住するすべてのユダヤ系住民をシベリアおよびカザフ共和国に強制移住させるという恐るべき計画が、水面下で進められていた‥‥。
2013年7月20日、本文中の、日本語として不自然な箇所や文意が掴みにくい箇所等、ごく一部を修正しました。
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このスヴェトラーナさんは、2011年11月22日にお亡くなりになりました。
もはや何の話だかわからなくなってきましたが、あとは最終章とエピローグを残すのみです。もう少し、おとぎ話におつきあいください。
次回、最終章『再び、指導者の死』。お楽しみに。




