2.暗闘(1)
独ソ戦中どこかに行ってしまっていた正・副主人公が、作中に戻ってきます。
戦後の混乱、西側諸国との対峙。
グルジア史、諸民族の弾圧・強制移住。
新兵器群、謎の女、等々‥‥。
ジオアルコホリクス、という用語は、おそらく耳慣れないものであろう。すなわち、「飲酒地理学」――。
これは、いまだに開拓されていない学問分野である。
ある男が、鏡を覗き込んでつぶやいた。
「どちらかが密告者に違いない‥‥」
これは、三十年代の恐怖を基にしたアネクドートであるが、鏡像段階の意識化とも言えはしないだろうか。
この惑星の、戦後の世界を概観してみよう。世界の国々は、アメリカ、イギリス、フランスを有力な柱とする資本主義国家群と、ソビエト連邦を事実上の盟主とする社会主義国家群とに分かれていた。
社会主義国家群は、東は朝鮮半島の北半部から西はドイツの北東部分――どちらも大戦によるソビエト連邦の占領地域――まで地続きで、モスクワのクレムリンは、地理的には西に大きく寄っていたが、それらすべてをコントロールする司令塔であった。司令官はむろん、ヨシフ・スターリン。クレムリン宮殿の彼の執務室は、この惑星の命運を左右する司令室となっていた。
――中国大陸においても、社会主義を奉ずる共産党と資本主義を奉ずる国民党との内戦が再発していた。
大戦争に辛くも勝利したソビエト連邦人民は、ほのかな期待を抱いていた。ようやく、春が訪れたのだろうか‥‥?
いや、訪れなかった。代わりにソビエト連邦は、冬の季節に向かっていった。戦後のこの国においても、戦前の恐怖は、基本的には変わることがなかった。人民の父親は、やはり厳父であった――スターリンは、再び国内の引き締めを開始した。
ドイツ側の収容所に入れられた赤軍捕虜の生存率は、他国の軍隊の捕虜と較べて著しく低かった。その僅かなチャンスをつかんだ者たちにも、生きのびたことは福音とならなかった。同志スターリンにとって、捕虜はすなわち裏切り者だったのである。彼らは、敵国の収容所から、今度は祖国の収容所へと送られることになった。ナチス・ドイツ支配地域から、赤軍によって「解放」された者たちは、ほぼそのまま――ごく簡単な手続きを経て――ソビエト連邦各地の収容所へ。米英軍などによって解放された者たちは、束の間の希望を持つことができた。彼らの多くは西側諸国行きを望んだ。しかし、スターリンの要請によりソビエト側へ引き渡されることになった。彼らの外套には、白いペンキで――洗い落とせないように――大きく「SU」と書かれていた。「Soviet Union」の意である。そして、やはり簡単な手続きを経て、ソビエト連邦各地の収容所へと送られていった。「ウラソフ軍団」構成員は、司令官アンドレイ・ウラソフ以下、大半が処刑された。
一方、東欧諸国ではソビエト式の秘密警察が次々と設置されていった。ベリヤはそれらの創設を指揮し、リーダーを直接任命した。こうして、東欧諸国の警察組織はベリヤの命令系統――支配下に組み込まれていった。彼の警察権力の絶頂期であった。
大戦の末期、ポツダム会談の最中にイギリスでは総選挙があり、チャーチル率いる保守党は、労働党に破れていた。ウィンストン・チャーチルは、こうして世界史の表舞台から退場を余儀なくされた。大衆、人民、国民‥‥何と呼んでもいいが、彼らは酷薄だ。スターリンは、内心チャーチルに同情した。一方の大戦の覇者、アメリカ合衆国では、ルーズベルトに代わったハリー・トルーマン大統領が戦後政策を進めていたが、早くも次の選挙の下馬評が出され、欧州解放の猛将アイクことドワイト・アイゼンハワーの名が取り沙汰されるなど、落ち着かない日々を送っていた。ヨシフ・スターリンは‥‥? 彼の体制は、少なくとも表面的には磐石だったが、そのために努力もしていた。一〇月、彼は発作を起こし、休養する羽目になった。モロトフが代理で政務をとったが、これを見ると早速、西側の新聞は彼をスターリンの後継者であるかのような報道をした。これは、外務人民委員であったモロトフが、スターリンに次いで西側によく知られたソビエトの政治家であったことが大きいが――罪なことをするものだ。スターリンが黙って見ているはずがない。それでなくても彼には、ドイツ侵攻の際、恥ずかしい姿を見られているのだ‥‥。一二月、スターリンは復帰するや否や、忠臣モロトフに対する批判を展開した。政治局内に対外委員会が設立された。これは、外務人民委員部の――とりわけモロトフの権限の縮小を意味した。さらに、外務人民委員の次官に据えていたヴィシンスキーを重用する構えを見せた。
しかしモロトフの脅威――とスターリンが勝手に思ったもの――は、大したものではなかった。スターリンはすでに、六十代の後半に差し掛かっていた。老いゆく彼は、もっと大きな脅威を、これも勝手に――そのうちのひとりは、ある意味で本物の脅威であったが――見出していた。彼は、彼の忠実な従者たちのうちに、新しいトロイカの姿を発見したのである‥‥。彼らは仮面の下で、自分を狙っているように思えた。かつてのレーニンやトロツキーの立場に追いやられることなど、スターリンは真っ平御免であった。この新トロイカとはすなわち、党組織のマレンコフ、軍組織のジューコフ、そして、警察組織のラヴレンチー・ベリヤであった。彼らが新しいトロイカならば、この三人のうち新しいかつてのスターリンは、誰であろうか‥‥。
一〇月、それまでの国際連盟に代わり、新たに「国際連合(ユナイテッド・ネーションズ)」が誕生した。「世界の安全保障と経済、社会の発展のために協力する」ことが目的とされた。第二次世界大戦の戦勝国である連合国(ユナイテッド・ネーションズ)が中心であり、アメリカのサンフランシスコにおいて設立されたが、ソビエト連邦も当然、その一員として加わった。最初の加盟国は、五一の国々で構成された。一九四三年一〇月の第三回モスクワ会談で宣言された「一般的安全保障に関する四ヵ国宣言」を受けて、一九四四年八月から今度はアメリカ合衆国、イギリス、中華民国、ソビエト連邦の代表がワシントンで会議を開いて原案を作成していたものだった。ドイツと日本がまだ抗戦していた一九四五年四月から六月にかけての連合国の代表によるサンフランシスコ会議で、この憲章が採択されていた。国際司法裁判所や国際労働機関等の機関を国際連盟から引き継ぎ、また全会一致制で半ば機能不全に陥っていた国際連盟の反省を踏まえ、全加盟国で構成され各国が一票の表決権を有する総会は、重要問題については三分の二、一般問題については過半数で決する多数決制で表決が行なわれることになった。アメリカのルーズベルトが、米英ソ中を中心とした強制力を持つ執行機関の設置を提案していた。当初彼ら戦勝国――米英ソ中――の間では、「四人の警察官」と呼称された。スターリンはこの呼び名がとても気に入っていたが、発足したときには「安全保障理事会」という、もっともらしいものになっていた。これは軍事参謀委員会の助言に従い、国連軍を平和維持のために行使する権限を持った。国際連合の主要機関内でこの会が決定した条項のみが強制力と拘束力を持ち、さらに重要なことに常任理事国と呼ばれる五国――五大国――が拒否権を持った。この五大国は、戦勝国、すなわちアメリカ・イギリス・中国(中華民国)・フランス、そしてソビエト連邦であった。
一九四六年、また新たな年が明けた。栄華を誇ったラヴレンチー・ベリヤの秘密警察帝国は、分割されることになった。すでにドイツの侵攻以前に、NKGB(国家保安人民委員部)が設立されており、その後もNKVDとの統合と分離を繰り返していたことは、前述の通りである。そして、 三月、NKGBはMGB(国家保安省)として新生した。ベリヤはNKVDの議長職から離れ、後任にその職を譲ったが、MGB長官は彼の忠実な子分であり、自分は閣僚会議副議長(副首相)として、国家の治安は以前として掌握してゆくつもりであった。しかし、NKVDのほうの後任の議長は、ベリヤの子分ではなかった。さらにMGB長官の首もすぐにすげ代えられた。新任者は、あのヴィクトル・アバクーモフ。NKVDは新たにMVD(内務省)となり、これら一連の組織改編により、彼の帝国ははっきりと分割された。秘密警察組織の一本化を好まないスターリンの意向が、一本化を望むベリヤを再び抑えた格好である。
六月、ミハイル・カリーニンが死んだ。実権を持たぬ名誉職に就き、ひたすら自分が生き延びることに励んだ彼は、このソビエト連邦において自然死を迎えることができた。前年、ドイツから奪った東プロイセンのケーニヒスベルクが「カリーニングラード」と改名された。
戦争も終わったというのに、規約では五年ごとに開催されねばならない党大会は、一向に開かれる気配がなかった――正式には三年ごとという説もある。党員のほとんど誰も、これに異議を唱えようとはしなかった。
アバクーモフは、ベリヤに収容所から救い出してもらった恩義を、きれいさっぱり忘れたようだった(もっともベリヤも、その昔、キーロフによって牢獄から救い出されたことなど、二十年代のうちにきれいさっぱり忘れていたが)。彼とNKVD改めMVDの新長官は、判で押したようにベリヤやエジョフと同じ真似を始めた。組織の前のトップ――すなわちベリヤの一派を追い出すことである。三十年代にベリヤがエジョフ一派に対して行なったような派手な粛清こそなかったものの、これは、ベリヤに着実に打撃を与えていった。無論、彼らの一存ではない。背後でスターリンの意志が働いていることは、彼には百も承知だった。ただし、これらは慎重に――巧妙に成され、ために外部からは見えにくかった。ベリヤ派で生き残ったのはMVDの長官代理の人物のみであったが、ベリヤはなお、外国諜報部門――東欧諸国の秘密警察組織と西側諸国に張りめぐらした情報網――を掌握し、対外的には彼の存在感はなお大きかった。
だが、イグナチェフも動いていた。一九四三年からバシキール州委員会第一書記となり、この年、中央委員会党機関検閲局副局長という重要ポストに任命されていた。このポストが重要なのは、形式上はこの役職の裁可を経て、党と国家指導部に対する処遇が決定する仕組みになっているからである。
「若き親衛隊」――といっても、みな六歳ほど歳を食ったわけだが――は、ベリヤの意向に反し、なかなかまとまれなかった。いや、スターリンが配下たちをまとまらせなかったのである。いがみ合わせ、集団で自分に歯向かうことがないよう仕向けたのだ。イグナチェフはそれがわからず、ベリヤをライバル視していた。そして、党機関検閲局副局長の座を手に入れたのであった。
(馬鹿が‥‥)
スターリンの企図が見えていたベリヤは、彼やアバクーモフに対し、舌打ちしていた。たとえ敵であっても味方に引き入れてやる――それぐらいの器がないと、所詮は使い走りのままだ‥‥ラヴレンチー・ベリヤは、黒い闘志を燃やしていた。
(なめるなよ、俺を‥‥)
一方、マレンコフは終戦前、ジダーノフとスタフカのナンバー2の座を争い――彼らにとってこのようなことは日常茶飯事である。ほとんどこういうことだけを考えて生きている人々の集まりと考えて差し支えない――党中央委員会書記のポストを失う破目になっていた。
(単純すぎるんだよ、おまえは‥‥)
ゲオルギー・マレンコフはますます肥え太り、その肉は顔にまで溢れ、見事な二重顎になっていた。ベリヤはマレンコフとは引き続き組みたいと考えていたが、ここは思案時であった。「古参の親衛隊」は、前述の通り、筆頭格ともいえたモロトフが危機に陥っており、カリーニンは消えたわけだ。ジダーノフは、「古参」のなかでは、スターリンと接近するのは遅かったほうだ(マレンコフのほうが早くお近づきになっている)。もしかしたら、こちらに引き入れられるかもしれない‥‥。そう考えたベリヤは、ジダーノフに秋波を送ることにした。
ジダーノフは、芸術面での党と政治局のスポークスマンである。彼は相変わらずはりきっていた。お陰で、国家に選ばれたソビエト連邦人民芸術家であり、作曲家また指揮者として高名なアラム・ハチャトゥリアン――トビリシ生まれのアルメニア人であり、アルメニア・ソビエト社会主義共和国国歌も作曲している――は、自分の音楽はブルジョア的また形式主義に過ぎたと「告白」せねばならなくなった。またドミートリイ・ショスタコーヴィチは、戦中、オペラ作品のひとつを「プラウダ」からこきおろされるなど、ジダーノフによって目の敵にされていた。ジダーノフは、彼のバレエ組曲「透んだ流れ」を反ソ的と決めつけ、演奏禁止処分とした。ベリヤはショスタコーヴィチを逮捕しようと計画したが、演奏禁止処分自体に西側諸国から猛反発が出たのを見て、これはすぐにやめた。
ラヴレンチー・ベリヤは、西側の目を気にするようにもなっていた。
(難しいもんだ‥‥)
今さらだが、彼のこの日和見の才は、全体主義的な政治というものは何か特定の信念や美学を基に筋が通ったものでなくてはならない、と考えがちな人々の気勢をそぐものだろう。才能というよりは、本能のようなものと言うべきかもしれないが、いずれにせよベリヤのこの適当さは、スターリンのそれを超えていた。彼らは、何かの信念――たとえば全世界を滅ぼさんとする悪の信念――の類によって突き動かされていた人間ではないだろう。信念や美学、理想――悪の「理想」も含む――といったものから程遠い、言うなれば(究極というよりは)一芸に秀でた俗物‥‥。トロツキーはスターリンを凡庸な人物と決めつけていたが、スターリンの一芸、すなわち恐怖心に根ざした自己保存能力の高さ、それをエンジンとする負のエネルギーの強さを、彼は読めなかった。ベリヤの一芸はこの日和見の才、エンジンにあたるものは上昇志向であった。ちなみに、ハチャトゥリアンもショスタコーヴィチもこの国を代表する音楽家であり、スターリン賞(スターリン国家賞)を受賞した経験もある。
――ジダーノフは気をよくしていたが、ベリヤの協力を感謝しているようにはまったく見えなかった。国際政治家としても振る舞わねばならぬストレスを覚え始めていたベリヤは、ジダーノフに対しても苛立ちを覚えることとなった。
(小物が‥‥。キーロフがくたばったから出世できただけだろうが‥‥!)
器は、なかなか大きくならないものである‥‥。
そしてベリヤの苛立ちは、ジダーノフにも伝わることになった。そのなかで起こったのが、この年一〇月に始まった「ユダヤ反ファシスト委員事件」と呼ばれるものである。この年、ソビエト連邦共産党の党員数は、およそ五五〇万人に達していた。
また、イギリスのチャーチルは、この年の三月、アメリカの新大統領トルーマンに招かれて訪米し、ウェストミンスター大学で演説を行なった。そのなかで、ソビエト連邦およびその指導下の東欧諸国との緊張状態を、彼らの観点から、
「バルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステまでヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンが降ろされた」
と表現してみせた。
「中部ヨーロッパ及び東ヨーロッパの歴史ある首都は、すべてその向こうにある」
と――。
ソビエト連邦も、原子爆弾の開発に着手していた。大戦における勝利が確定しつつあった二年前、ヤルタ会談に先立つ一九四四年一二月から、ラヴレンチー・ベリヤはこの国のその事業の監督にあたることになった。核開発は、簡単にできるものではない。核物理学者グループ、また危険を伴う様々な作業のための膨大な労働力の捻出を必要とした。スターリンはおそらくそのために、収容所を擁するベリヤに白羽の矢を立てた。この年、一九四六年には原子力委員会が設置され、ベリヤがその委員長となった。ウラニウムの採掘やその加工施設の建設や稼動、核実験の施設を建設するために、収容所の数十万人の労働力が用いられた(恐らく、その過程で被害を受けた人間もいるであろう)。
「ベリヤはグーテンベルク時代以後の本はただの一冊も読んだことがない」
という意見(?)がある。これは、彼のこの経歴だけを見ても疑問である。おそらく、ベリヤのインテリゲンツィヤ指向をからかった悪口であろう――彼の公式写真は修正してあり、顔は実際よりも長く、額はそう見えるように広くしてあった。ラヴレンチー・ベリヤは、有能な核物理学者――投獄されていた者もいた――に「原子物理学(核物理学)」の講義をさせ、丹念にノートをとった。
またこの年、アレクサンドル・カザンツェフというSF作家が、「爆発」という小説を発表した。先のツングースカ大爆発は、「墜落した異星人の宇宙船の核爆弾によるものである」という内容であった。ツングースカ大爆発については、既述の通り二十年代から調査が行なわれていたが、この意見を受け、再び、大学の研究員などを中心とした総合自主探検隊が結成され、現地へ向かった。数回の残留放射能の測定を行なったが、検出されなかった。
そして、一九四七年二月一二日、この国の極東地方、沿海州はシホテアリニ山脈の上空で、やはり爆発があり、パセカ村という寒村の近郊に落下物があった。その日の朝一〇時半頃、近隣の住人たちは「太陽よりも明るい火の玉」が北の青空高く輝き、凄まじい爆発音が轟くのを聞いた。光と爆発音は半径三〇〇キロにわたって観測された。その後、無数の火の玉が地上に降ってきた。パセカ村近郊の一・三平方キロの楕円形の地域に無数の破片が降り、いくつかはクレーターを作った。最大のものは、直径二六メートル、深さ六メートルにも及ぶものだった。科学アカデミーは、爆発の正体は、宇宙空間から落下してきた小惑星であったと発表した。この小惑星の大きさは、九〇〇トン弱はあったと推定された。回収された最大のものは三〇〇キロほどもあり、モスクワで展示されることになった。この隕石のおもな成分は、鉄であった。隕鉄である。
‥‥スキタイ人とは、おもに南ウクライナを中心に活動していた騎馬民族で、世界最古の遊牧騎馬民族国家を作り、中央アジアに鉄工技術を持ち込んだと言われている。紀元前八世紀からその国家は姿を現し、古代ギリシアの歴史家ヘロドトスによれば、西シベリアからカスピ海、黒海地方で彼らは活動していた。中国の史書においては、このスキタイ人の文化から影響を受けた「匈奴」という民族の国家がよく知られている。モンゴル族を含む、連綿と興亡を繰り広げた広大な中央アジア一帯の遊牧騎馬民族国家。その文化的ルーツとなったのが、このスキタイ人ではないかといわれる。
‥‥アッシリアは、イラン西部から一時はエジプトも支配下に置くなど、百年以上もの間、当時の世界帝国であった。その軍隊は三人乗りの戦車や破城ハンマーや投石機を備えた、古代最強の軍隊であった。しかしこのアッシリアは、大きく兵力の劣るスキタイ軍の攻撃を受け、あっけなく崩壊への道を歩むことになる。騎馬の達人であった軽装の騎兵からなるスキタイの軍に、アッシリアの重装軍は対応できなかった。アッシリア帝国領はこのスキタイの騎兵に蹂躙され、その首都ニネヴェは、他の反アッシリア勢力と共に彼らに占領されてしまった。古代世界に覇を唱えた大帝国アッシリアは、こうしてあっけなく滅亡した。時に、紀元前六〇九年のことである‥‥。
スキタイは黒海の北岸を本拠とし、ギリシアとの間には通商の関係を持っていた。黒海やアゾフ海沿岸の古代ギリシア植民都市とは、穀物、家畜、魚、ワイン、オリーブ油、装飾陶器などを取り引きした――「スキタイ」という名は、彼らの自称ではなく、古代ギリシア人が東方の騎馬民族に漠然とつけていた呼称である。ヘロドトスによれば、スキタイはウクライナ、ロシア、そしてシベリアの森林地帯とヨーロッパ方面の草原と農耕地帯を結び、毛皮の交易等に従事していた。馬を機動力とし、広大な文化圏を形成していた。
スキタイの源郷のひとつはアラル海周辺地域であったといわれているが、このアラル海に流れ込むシルダリア川の流域で、紀元前五世紀頃の鉄文化の遺跡が発掘されている。すでに粗い鉄の塊ではなく、鎧を始めとする武具また武器を生産する鉄工技術が用いられていた。この技術による軽量の鉄鎧が、スキタイに栄光を与えたとされる。しかし問題なのは、アラル海周辺は決して鉄資源に恵まれているとはいえない地域であり、またスキタイはもともと青銅の精錬技術は有していたものの、鉄工技術は持っていなかったとされる点である。スキタイの鉄文化は、古代史の謎のひとつとされる。
一般に長い間、製鉄技術の核心は、特定の家族等の一子相伝である場合が多かった。古代世界において、鉄製の武具また武器は、現在の核兵器ほどのインパクトを持っていた‥‥。実は、スキタイ人が全体として鉄工――製鉄技術を持っていたというより、製鉄技術の秘密を知るある一族ないし数部族がスキタイ人の連合のなかに入り、これをスキタイの軍が彼らの得意とする馬術と組み合わせ、先のような大活躍を可能とする高い能力を有するようになったのではないか――と見られている。その部族の由来は、さらに時代を遡り、後のトルコの地に建国し、鉄工――製鉄技術を有した史上最古の国家ヒッタイト帝国にあるのではないかといわれている‥‥。
スキタイはエジプトもおびやかし、彼らを脅威と見たペルシア帝国の挑戦を跳ね返した。彼らの繁栄は紀元前三世紀頃まで続いたが、イラン系のサルマタイ人の圧力を受けて衰退していった。いわゆるゲルマン人の大移動の後、「ルーシ」と後に呼ばれる広大な地域には、東スラヴ人と呼ばれる人々が住むようになった。彼らはスラヴ語を話し、森林地帯で農耕生活をおくっていた。スキタイ人から火葬などの文化を受け継ぎ、ひとつの文明圏を形作るようになった。なお遊牧系――騎馬民族――と異なる農耕系のスキタイ人も存在したようで、彼らはスラヴ人であったのではないかと推測されている。いずれにせよ、このような文明圏がすでに形作られていた世界があり、そこに九世紀、リューリクが登場することになるのである‥‥。「東スラヴ人」とは、後のウクライナ人、ベラルーシ人、ロシア人等のことであり、「西スラヴ人」(スロバキア人、チェコ人、ポーランド人等)、「南スラヴ人」(クロアチア人、セルビア人、ブルガリア人等)と類縁である。「スラヴ人」のホームランドは、前述のポリーシャ――プリピャチ沼沢地と呼ばれる一帯――と言われている。
アバクーモフは、意気揚々と業務をこなしていた。重要箇所をベリヤに相談することなく動いた。ジダーノフとも連携し、時にはスターリンから直々に指示されるようになった。そのジダーノフは、ますます存在感を――国内外で――増していった。その権勢が、所詮は虚仮であることに、本人は気がついていなかった。この年、一九四七年には、欧州各国の共産党の調整を目的とするとして「コミンフォルム」という組織を結成させた。これはかつてのコミンテルンの後身に相当し、ソビエト連邦、ルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、ポーランド、チェコスロバキア、ユーゴスラビア、フランス、イタリアの共産党または労働者党で結成された。しかし、かつてのその組織が労働者の統一戦線樹立を目指したのに対し、このコミンフォルムは各国ごとの共産党の情報交換が主な目的とされた。国家――「一国家の一党」が単位であった。ジダーノフは、東欧諸国、そしてフランスやイタリアといった西欧諸国の共産党への統制を強めた。これらの背後には、スターリンの意向があった。
ドイツの侵攻の際、NKVDはウクライナから退却するにあたって、再び多くのウクライナ人を殺戮していた。ナチス・ドイツの暴虐に対抗すべくウクライナ蜂起軍(UPA)が結成され、当初はおもに西ウクライナにおいて、ドイツ相手にテロ活動を行なった。しかし赤軍が到着し、彼らへの圧迫を強めると、彼らは今度はソビエトに対しテロ活動を始め、同時にガリツィア地方のポーランド人やユダヤ人を多く殺戮した。このUPAは組織として戦後も残っていたのだが、これに対する軍事行動がソビエト連邦主導のもとポーランドやチェコスロバキアと共同で行なわれた。UPAは絶望的な戦いを繰り広げたが、勝敗は見えていた。西側諸国も、彼らに対しては、干渉戦争のときの白衛軍に対するそれよりもずっと、冷たい態度を取った。
ポーランドでは、「ヴィスワ作戦」という名のもと、国内のウクライナ人の強制退去が行なわれた。ウクライナでも、ポーランド人ほかに対し、同国からほとんど姿を消すまでの強制退去を行なった。第二次世界大戦後、ウクライナ社会主義共和国の国境は旧ポーランド領であったハリチナー地方などを併合して西に拡大し、ほとんどのウクライナ人が単一国家のもとに統合された。また、これらとは別様のことだが、大戦中、ドイツ語圏のシンティ――シンティ・ロマ人――や東欧の移動型の民族ロマも、三〇万人とも五〇万人ともいわれる非常な多数がナチス・ドイツによって虐殺されている。東ヨーロッパの国境線が新しく引き直され、無数の民が無理やり移住させられた時代であった。
ソビエト連邦においても、数多くの少数民族の強制移住が進んでいた。村落も、文化も、破壊されていった。戦前の朝鮮人の追放に倣って――彼らは高麗人と自称するようになる――大戦後期から戦後にかけ、対独協力者という烙印を押された多くの少数民族が、民族ごと遠隔地に追放されていった。四〇年代、ソビエト連邦の政策により強制移住させられた人々は三〇一万人を超えた。「自発的な」移住者も含めると、その数は三二二万六千人を超えた。以下は、そのうちの一部の例である。
カルムイク人。中央アジアのステップにルーツを持つオイラト族である。カスピ海の北西の地域に居住していた彼らには、仏教徒(チベット仏教)が多い。故に「ヨーロッパ唯一の仏教地域」とも呼ばれる。石造りの仏教寺院を持つが、他の宗教と同様、共産党によって敵視された。二〇年代から三〇年代にかけて多くの寺院が破壊され、僧侶や多くの信者が強制収容所に送られるか、殺害された。一九四〇年には、すべての寺院が閉鎖か破壊されるかした。一九四三年から四四年にかけて、政府は赤軍や秘密警察等に所属している以外のカルムイク人のほぼ全住民を、中央アジアおよびシベリアへ追放した。嫌疑は「対独協力」であった。無論、とんだ濡れ衣である。なお、ウラジミール・レーニンは、母方の祖母を通じこのカルムイク人の血を引いている。
ヴォルガ・ドイツ人。旧くからのドイツ人入植者の末裔である。キリスト教ルター派を信仰し、地域に根ざした生活を営んでいた。一九一九年に、多くの同派牧師がシベリアの強制収容所へ追放された。内戦中の赤軍の侵攻、飢饉によって、同民族の実に三分の一の人口が失われた。二十年代には公式文書におけるドイツ語の使用が認められるなどしたが、第二次世界大戦の「ドイツ」による侵攻は、ロシアの地におけるこの民族に苦難を与えただけであった。この「ドイツ人」は、政府により「人民の敵」であると宣言された。ナチス・ドイツの侵攻からおよそ二ヶ月が過ぎた頃、スターリンは「ヴォルガ・ドイツ人追放宣言」を公布した。ヴォルガ・ドイツ人はすべて、やはり中央アジアやシベリアへ強制移住させられ、さらに戦後、彼らはもとのヴォルガ地域に帰らないとする誓約書に署名を余儀なくされた。
クリミア・タタール人。彼らは多くが赤軍に参加させられ、前述のスルターン・アメート=ハーンを始めドイツ軍に対し勇戦敢闘した者も少なくなかったにも関わらず、一九四四年にやはり対独協力の濡れ衣をかけられ、ほとんど全住民が中央アジアに強制移住させられた。この強制移住は、その過程だけで、同民族の多くの――一説には、半年間で三分の一にあたる――命を奪った。カラチャイ人は、男性人口の実に半数がドイツと戦ったにも関わらず、大戦末期、やはり中央アジアに強制移住させられた。
居住地が隣接していたチェチェン人およびイングーシ人はともに、一九四四年、中央アジアおよびシベリアへ、実におよそ五〇万人が強制移住させられた。カフカースの地のメスヘティア・トルコ人、カラカルパク人、クルド人、ヘムシン人、ムスリムに改宗したグルジア人。一九四四年、彼らも中央アジアに強制移住させられ、一二万人のうち実に一万人が死亡した。
一九四八年、また新しい年が明けた。出来たばかりのコミンフォルムは、早速つまずいていた。西欧諸国も含む各国の共産主義政党がこれに属していたことは前述の通りだが、摩擦は、他でもない拠点を置いたベオグラードという都市を首都とする――西欧ではなく東欧の――ユーゴスラビア社会主義連邦共和国との間に生じた。ユーゴスラビアは、他の東欧諸国と異なり、パルチザンの力によりほぼ独力でナチス・ドイツとその傀儡から独立を勝ち取っていた。同国共産党は、同国パルチザンからの指導者ヨシップ・ブロズ・チトー(ティトー)のもと、ソビエトの――モスクワの、スターリンの――一極支配に反発し、この年に彼らの第五回党大会を開催し、ソビエト連邦追従政策の取り消しと自主管理社会主義と呼ばれる独自の路線を採択した。ジダーノフはコミンフォルムの大会で演説し、ユーゴスラビアを「テロリスト国家」と激しく非難した。対立は深まった。
ドイツは戦後、ポツダム会談による米ソ英仏の四ヶ国による分割統治を受けていた。しかし、前年、米英仏占領地域における通貨改革、ソビエト側のベルリンの封鎖等により、分断して独立することになった。これはほぼ、ドイツの敗戦時に米英軍と赤軍が占領した地域である。ほぼ、というのは、たとえばゲーテとナポレオンが会見したことで知られ、またマルティン・ルターが学生時代を過ごし、修道者を志した中央部の町エアフルト(エルフルト)などは、一時は米軍の占領下にあったが後に赤軍が進駐し、この東ドイツ領となった。かつての敵国の首都ベルリンをめぐって、かつて味方同士だったソビエト連邦と、アメリカ・イギリス・フランス三国が対立した。
四月に入り、ソビエト連邦軍政当局は西ベルリンへ向かう米英仏の車両等に対し、検問を強行するようになった。そして双方の通貨改革をめぐって、対立は決定的となった。六月二四日、ソビエト当局は、西ベルリンへの陸路を完全に封鎖した。鉄道、船舶‥‥すべてがシャットアウトされ、東側占領地域からの西ベルリンへの電力供給も停止させた。ソビエト連邦軍政当局からは、都合のいい情報だけがスターリンに送られた。西ベルリン市民も米英仏に懐疑の念を抱きつつあり、さらにこの封鎖による物資不足は、彼らのストライキを招くであろう、その混乱はやがて社会主義革命を惹起すると思われる‥‥。
――ことがそんなに簡単に運ぶのなら、レーニンやラデックも苦労しないで済んだというものだ。西ベルリン市民は確かに怒ったが、それは米英仏に対してではなくソビエト連邦に対してであり、米英仏に対して援助を申し出た。
スターリンは、かつてグルジア問題で自分がレーニンを騙そうとしたときと同様、おとぎ話を聞かされ、その後厳しい現実と直面させられることになったわけである。彼の猜疑心は、自らが作り出したソビエト連邦のシステムそのものに向けられるようになった。何が悪いのか、誰が悪いのか。この国に再び、恐慌の匂いが立ち込めてきた。資本主義国における恐慌は時に紙幣の雨を降らせるが、スターリンの国におけるそれは――これまで見てきた通り――血の雨を降らせるのである‥‥。
ラヴレンチー・ベリヤは、チェコスロバキアがお気に入りであった――特に「チェコ」で――工業化が進んでいた点が、彼にとってポイントであった。同国では、一九四五年に亡命政府が帰国、チェコスロバキア共和国として再興、共産党政権が成立していた。
ここで、同国の航空産業メーカーであるアヴィア社についても簡単に触れる。同社は同国の巨大企業スコダ社の子会社であり、戦後すぐにアヴィアS‐199の名で旧ドイツ空軍の名機Bf109Gのエンジンを換装した機体を生産していた。
この年、中東はパレスチナにユダヤ人国家イスラエル国が建国されていた。同機はチェコスロバキア本国よりも、中東に誕生したばかりのこのイスラエルの空軍で、同国の「独立戦争」(第一次中東戦争、大災害、パレスチナ戦争)において活用された。大英帝国政府は、この地において二枚舌外交を行ない、パレスチナ人とユダヤ人の双方をペテンにかけ、詐欺を働いていた。この戦争においては、空中ではエジプト(エジプト・アラブ共和国)空軍所属のスピットファイアMk.Ⅸ標準主翼型とこのイスラエル空軍所属のスピットファイアMk.Ⅸ短主翼型が争い、地上ではトンプソンM1928短機関銃を備える「アラブ軍団」の兵士とリー・エンフィールド小銃を備えるイスラエル陸軍の兵士とが戦っていた。この四兵器は、イギリス製ないしイギリス経由である。イスラエルの空軍や陸軍が属するイスラエル国防軍(IDF)は、ユダヤ人自警団――軍事組織――「ハガナー」の常備部隊「パルマッハ」を基盤として、誕生したばかりの軍隊であった。同地では多くの血が流され、また上記の「ハガナー」等による攻撃のため、多数の難民が発生していた。火種は、なお未来に持ち越された。
ソビエト連邦は、ナチス・ドイツの目を見張るような先進軍事技術を、片端から持ち去っていた。さしあたり、Me262を含むジェット戦闘機と、新型Uボートのコピーが成された。これには、スターリンの号令もあった。彼は、その昔レーニンが「戦車」に示したような、技術そのものに興味を示すことはなかった。スターリンは、潜水艦のハッチに潜り込みもしなければ、ジェット戦闘機のコックピットに座りもしなかったが、それらがもたらす軍事的有用性に関しては、よく理解していた。軍の技術陣にとっては、それでじゅうぶん助けとなった。
特に潜水艦に関しては、スターリンは、大戦中のバルト海における自国の潜水艦隊の惨めな敗北を、よく覚えていた(赤色海軍潜水艦隊の名誉のために付言するならば、南方の黒海においては、彼らは幾らかの戦果をあげている)。あくまで赤軍の一部門に過ぎなかった赤色海軍は、一九四六年の軍改革に伴い、ソビエト連邦海軍として正式に独立、一個の軍隊となった。スターリンは、海軍力の整備――わけても潜水艦隊の再度の増強に努め、新編成された海軍は、ドイツの技術をもとにした新型潜水艦の開発・配備を軸に、これに応えた(潜水艦兵力整備計画)。この計画は、一九五〇年から一五年間の間に、潜水艦を実に一二〇〇隻建造するという、壮大なものであった。
まず建造に着手されたのが沿岸警備型の(航洋型とする説もある)613型である。接収した旧ドイツ海軍の新鋭艦XXI型をモデルにした。中央部の主耐圧殻の形状を単純化し円形としているが、基本となる直径は同一寸法である。主船体の形状および艦内配置もよく似ている。ドイツの技術をそのまま生かして直ちに量産に入った事情が窺える。このクラスは、ゴーリキーの造船所がリードヤードとなり続々と建造されていた。砲填兵装の違い等で、幾つかのサブタイプに分かれていた。なお、戦後しばらくは、旧式の潜水艦群も引き続き建造されていた。
潜水艦隊だけでなく、スターリンはまた大規模な水上艦隊の建設も計画した。しかしこちらのほうは、費用対効果を考えると、難しいものがあった。水上でも大艦隊をそろえ、アメリカ、またイギリス、フランスに対抗したいというスターリンの意向は海軍幹部も理解していたが、出来ることと出来ないことがある。言いにくいことであったが、大戦におけるドイツのUボートのように、まずは潜水艦隊を整えるべきだとする空気が強かった。潜水艦には兵器として大きな進化を遂げられる可能性が多分にある、近い将来の潜水艦はその進化により用兵思想にも多大な影響を与えるだろう。同志スターリンにおかれては、海軍に協力的であらせられるが、この点をいまひとつ理解していただかれていないようだ‥‥。
この新しい海軍の技術陣は悔しがり、スターリンに証明すべく、新しい技術開発に勤しんだ。また、旧ドイツ海軍の軽巡洋艦「ニュルンベルク」はソビエト連邦に引き渡され、「アドミラル・マカロフ」と改名、就役することになった。
赤軍の改編により、ソビエト連邦空軍も正式に誕生することになった。ジェット戦闘機の開発が、ドイツの技術をコピーすることで、各設計局においてしゃにむに進められた。
ヤコヴレフ設計局のYak‐15(Jak‐15)。大戦中の戦闘機Yak‐3の胴体に、ドイツのMe262のユモ004のコピー、RD‐10ジェット・エンジンをとにかく積み込み、一九四六年に完成を見たが、ある理由により初飛行は遅らされた。
その理由が、ミグ設計局のI‐300の登場である。この機体はやはりドイツのBMW003エンジンのコピー、RD‐20軸流式ジェット・エンジンを胴体に組み込んでいたが、空気取り入れ口の中央に機関砲を装備しており、これは大きな欠点であった。にも関わらず同機は制式採用され、MiG‐9として量産、実戦配備された。この機体のためにYak‐15は初飛行を遅らされ、実戦配備も見送られた。前述の通り、この設計局のアルチョーム・ミコヤンは、アナスタス・ミコヤンの実弟である‥‥。
ミグ設計局も、MiG‐9の武装配置改良型I‐308を開発することになった。ヤコヴレフ設計局も、黙って待っていたわけではなかった。Yak‐15は欠点として、レシプロ機のような尾輪式であることがあげられていた。この点を改良したYak‐15Uを開発したのである。これは翌一九四七年に初飛行を果たし、Yak‐17(Jak‐17)として量産化された。
新時代の空中戦に対応できる、より高性能の戦闘機を――。この時期、両設計局はしのぎを削った。
ボディーの設計がいくら優れていても、航空機にはエンジンが必要である。高性能機をつくるためには、それ相応のジェット・エンジンが必要であった。エンジンがいつまでも旧ドイツのコピーでは、より優れた戦闘機を開発しつつあった西側諸国に太刀打ちできないことは、彼らも、またスターリンを始めとする指導層も理解していた。その技術は、やはり同じく、西側からもたらされた。一九四五年七月の総選挙でチャーチルの保守党を破ったイギリスの労働党政権が、ソビエト連邦との友好をおもんばかり、最新型のターボジェット・エンジン、ロールスロイスのニーンと、遠心圧縮式ダーウェントMk.Vの輸出を承認していた。
ヤコヴレフ設計局は、このダーウェントMk.VのデッドコピーRD‐500エンジンを装備したYak‐23(Jak‐23)を開発した。これは、旧来のレシプロ機にジェット・エンジンを取り付け急造したといえるYak‐15等とは異なり、新設計のボディーに、無線方位計や敵味方識別装置を始め、ソビエト連邦においては性能の高い無線機などを搭載、新時代の戦闘機として高い完成度を示していた。ミグ設計局の答はどうか‥‥? いちおう前述のI‐308の生産型MiG‐9Mを送り出していたが、Yak‐23に敵う機体ではなかった。政治力だけでは、新時代の主力戦闘機の座は張れない。なお、これらのエンジンのリバースエンジニアリングは、ドイツから拉致されてきた技術者が主導していた。
また、この両設計局だけではなく、スホーイ設計局もこの競争に参加しており、Su‐9という機体を製作している。この機体は大戦末期に鹵獲に成功していたMe262をもとにしており、主翼下への二基のエンジンナセルの配置など、その形状もよく似ている。また開発は、当初は三十年代の名戦闘機I‐16――独ソ戦における敗北は、本機の責任ではない――で知られるポリカルポフ設計局などが担当していた。このSu‐9の性能は、Me262のそれを大きく超えるものではなく、スホーイは発展型Su‐11等も製作したが、ヤコヴレフ、ミグ両設計局の新型機から見れば、色褪せた旧時代の機体であった。彼らには、さらなる精進が必要なようであった。
新しいソビエト連邦空軍の主力戦闘機は、ヤコヴレフのYak‐23に決まりそうであった。なおこれらの機体は、いずれも主翼が胴体からほぼ垂直に延びる、いわゆる直線翼機である‥‥。
一方で、彼らをコントロールする人民委員部は、それまでの国防人民委員部と海軍人民委員部が統合され、軍事人民委員部に一本化されていた。そして初代軍事人民委員の座には、スターリン自らがおさまった。スターリンが一年ほど務めたこの要職の座は、一九四七年三月、ニコライ・ブルガーニンが継ぐことになった。彼は戦時中、進んで前線指導に赴いており、軍人たちとのパイプも厚く、国防人民委員代理となり、国家防衛委員会の委員にもなっていた。戦後、党内では政治局員候補――正局員の座も目前であった――にもなっており、そしてついに閣僚会議副議長(副首相)とこの軍事人民委員のポストを兼務することになった。秘密警察員出身であったが、戦時中の体験もあり――警察官というよりは――軍人気質を強く持っていた。
コミンフォルムにおける対立の溝は埋まらず、結局、ユーゴスラビアはコミンフォルムから除名処分とされた(以後、「東欧」「東欧諸国」には同国を含まない)。同組織の拠点はベオグラードから、ルーマニアの首都ブカレストへと移された。社会主義・共産主義国家の鉄の団結に、無様に亀裂が入った。スターリンは激怒した。
他の東欧諸国では、「チトー主義者」狩りが盛んに行なわれることになった。一例をあげるならば、病気のためモスクワ近郊で療養していたブルガリアの首相でありコミンテルン書記長を務めた経験も持つゲオルギ・ディミトロフという人物が急死し、ブルガリアの党中央委員会や政府部内のこの人物の同僚たちが逮捕された。チトーとその一党はブルガリアを併合する「バルカン連邦結成計画」を秘密裏に推し進めていた‥‥という「自白」が引き出された。同志ディミトロフはそのなかで急死した――というわけである。三十年代にこの国で跋扈した恐怖のフィクションは、こうして国外へも拡がりを見せ始めるのである‥‥。
――この国でも、コミンフォルムの旗振り役だった人物が、詰め腹を切らされることになった(ようである)。例によって西側の罪なマスコミが一役買い、一時はスターリンの後継者のひとりとして脚光を浴びていたアンドレイ・ジダーノフが、八月末、モスクワで急死したのである。九月二日付の「イズベスチヤ」には、同志ジダーノフがおさまった棺が立つ一方の脇にラヴレンチー・ベリヤとヴャチェスラフ・モロトフが、もう一方の脇にゲオルギー・マレンコフとヨシフ・スターリンが立つ写真が載った。いささか図式的に表現するならば、「若い」指導者たちが、中途半端な位置にいた指導者を、旧い指導者たちと板挟みにして、葬ったのである‥‥。
レニングラードに拠点をおくジダーノフ派党幹部たちには、さっそく粛清の波が襲いかかった。新任のレニングラード州第一書記、レニングラード市第一書記は、ともにマレンコフ派の人物であった。
折しも、彼らと同じタイトルの映画が公開され、話題になっていた。「若き親衛隊」――同じコムソモールの歌を元にした題名だが、その内容は、大戦中の、ナチスに抵抗する若者たちの物語である。この映画は一九四八年度のスターリン賞を受賞し、お陰で現役の「若き親衛隊」たち、すなわちベリヤらの世代のこの愛称も、市民権を得ることになっていた(念のためだが、ベリヤたちとこの映画の若者たちは、もう何から何まで、全然違う。アレクサンドル・カズベギという作家の小説もそうだが、実体化すると何故こうなるのだろうか‥‥)。
この頃、ベリヤは、フェアリーと邂逅する機会を持つことができた。ジダーノフは片づけた。モロトフに対するスターリンの追求は、相変わらず続けられていた――もはやベリヤは、彼を脅威とは見なしていなかった。
「たしか‥‥八年ぶりだな」
ベリヤにはそれは、何十年も前のことのように感じられた。このソビエト連邦に生きる者ならば、彼でなくても同じように感じただろう。この八年の間、あまりにも多くのことがあったのだ。ベリヤは、前回の邂逅を思い出していた‥‥。
いわゆるカティンの森事件、グニェズドヴォの森の一件は、うまくもみ消していた。
‥‥一九三九年九月一七日、ブク川周辺は、西からドイツ軍に、東から赤軍に追われた人々でごったがえしになっていた。特に将校たちは、次々と逮捕されソビエト側に連れ去られた。何処へも逃げられない。西もドイツ軍の手に落ちつつあったのだ。赤軍将兵は、ポーランド国旗を半分破り捨てて赤旗にした。グニェズドヴォの森の奥で、ポーランド人たちは、深い穴の前に立たされ、ひとりずつ銃弾を後頭部に撃ち込まれた。その上に、NKVDが赤軍部隊に持ってこさせた大重量のブルドーザーが、土をかけていったのだ‥‥。
殺害されたのは、軍人だけではない。技術者や知識人といった、将来のポーランドを背負うべき人材が多数虐殺されており、これは現在の同国にとって大きな打撃となっていた。
そして、ベリヤは、前回の邂逅の、フェアリーの去り際の言葉を、忘れてはいなかった。――他に会う人がいるから――。いや、ある疑問を考える過程で、思い出したのだ。彼は未だ、優秀な刑事でもあった。
「言え。あの日――一九四〇年八月だったな――俺のもとを飛び去って後、おまえは誰と会ったのだ?」
「‥‥‥‥」
ベリヤは、伝法の口調になった。
「俺のやり方は知っているだろう‥‥。おとなしく言ったほうがおまえのためになる‥‥」
「‥‥‥‥」
容疑者は黙秘していたが、ベリヤはすでに、ある推論に達していた。
「‥‥モロトフ、だな?」
いっそう鋭い眼が、眼鏡の奥から妖精を射た。ベリヤにとって幸いなことに、彼が脅しつけるまでもなく、フェアリーには嘘というものがつけない‥‥その事実をベリヤが知らないことは、ソビエト人民にとって実に幸運なことでもあったのだが。
「――ご名答。その通りだよ‥‥」
フェアリーは、心底悔しそうだった。
「やはりな」
ベリヤは、フンと鼻を鳴らした。ドイツ侵攻の際に抱いた疑問が、これで解けたのだ。
――そう、フェアリーはあの後、モロトフに会いに行ったのだった。
「あいつに何を言った」
フェアリーは幾つか口にしたが、ベリヤにとって重要なことは、次の一点であった。
「『あんたには長命の相があるんだって。そして、あと五年の間は、あんたは幸運に恵まれる――何があっても死ぬことはない』って」
計算はあっという間にできた。
「五年‥‥つまり、やつの幸運の期間は、もうすぎたってことか」
「そうだね」
「いまはもう、どうなるかわからない、ということか」
くっくっく、とラヴレンチー・ベリヤは愉快そうに笑った。
「――長命の相は変わらないけどね‥‥」
占術の類などベリヤにはどうでもよく、妖精が付け足した言葉は、ろくすっぽ耳に入らなかった。
「あのおじさんは、なんと一九八〇年代まで――‥‥」
このとき、ベリヤはフェアリーから、もうひとつのメッセージを受け取った。次は女主人「ゾーヤ」本人が、彼に会いたがっていると‥‥。
ベリヤは、いまは仕事が忙しい、来年の頭になら会ってやる、とフェアリーに告げた。
MVDの収容所管理機構、それは「行政」である。それは、ひとつの国家のようなものであるから。MVD本部から各地の強制収容所へ毎日送られる文書は、何キログラムにもなる。その機構の名称自体よそ者には馴染みにくいほど、外の世界と――物理的には近くにあっても――隔絶した、国家内の国家のようなものなのである。文書の宛先で、そのことが窺い知れる。「収容所管理庁長官」(GOULAG)宛。「鉱山冶金収容所管理局長官」(GOU.L.G.M.P.)宛。「森林収容所管理局長官」(GOU.L.L.P.)宛。「鉄道建設収容所管理局長官」(GOU.L.J.D.S.)宛。「道路建設収容所管理局長官」(GOUCHOSDOR)宛。「極東建設局(極東建設総局)長官」(DALSTROI)宛。「ヴォルガ・ドン運河管理局長官」(Glavguidrovolgodonstroi)宛。「スターリングラード・ダム管理局長官」(Glavstalingladguidrostroi)宛、等々‥‥。このうち、GOULAG(グーラグ、グラーグ)は、その名をやや知られているようだ。
これらは、どのような規模のものなのか。一例をあげれば、DALSTROI(ダルストロイ、ダリストロイ)だけで、フランス本国のおよそ六倍もの領域を支配している。この圏内では、外の世界では形だけとはいえ存在する選挙も憲法も、意味を持たない。ただダルストロイとグーラグの規則だけが効力を持つ。これらの領域で生きる人間は、しかし、その構成は単純である。若干の先住民族また鉄道従業員等の例外を除いて、すべて囚人か、元囚人、そして管理者であった。これらすべてを統轄していたのが、秘密警察長官、すなわちラヴレンチー・ベリヤである。これが、彼の帝国であった。この秘密警察の帝国とは別に、彼はグルジアを離れた今でも、グルジア共産党をその中央委員会を通して牛耳っていた。すでに戦前に、ヨシフ・スターリンがNKVDからNKGBの分離を試みたことは、前述の通りである。ラヴレンチー・ベリヤの強大な権力にスターリンが見た何事かが、窺い知れよう。
一九四九年に入り、一月、モロトフの妻ポーリーヌが逮捕された。彼女は党除名のうえ、カザフに流刑の憂き目に遭った。またスターリンの病気が始まっていたのだ。今度の標的は、ユダヤ系。前年誕生したイスラエルが、この国にも大使を置いた。ポーリーヌ・モロトフはユダヤ系であり、ウクライナ出身のそのイスラエルの女性大使ゴルダ・マボヴィッツとヘブライ語でやりとりしていたことが「問題」であるとされた。
「国際シオニスト集団による‥‥」
老いたスターリンは最近よくそのようにつぶやき、ベリヤの耳にも入っていた。スターリンのユダヤ嫌いは、ヒトラーのそれとは多少性格を異にしていたが――カガノーヴィチやメフリスはユダヤ人だ――新たな弾圧が、開始されようとしていた‥‥。
そしてベリヤも最近、気になることがあった。他ならぬ自分の出自である。といっても、政治的な経歴のほうではなく、生物学的な方面のものであった。つまり、こういうことだ。ベリヤの母親が「問題」だというのである。一九二九年に亡くなった彼の母テクル・ベリヤはメルヘウリ村近郊の生まれであるが、彼女は育ったある時期、ウリア・ソペリという名の、ユダヤ人が多い共同体にいた「らしい」のである(この共同体の「ユダヤ人」とは、おそらくグルジーム、すなわち元々グルジアに住んでいたユダヤ人――トロツキーやジノヴィエフ、カーメネフらとは系統を異にする――であろう)。このことは、ラヴレンチー・ベリヤ元帥殿の出自について何事かを暗示してはいまいか‥‥という、この国の反ユダヤ主義に基づいた噂であった。
(――どこの暇人が、そんなことまで調べやがるんだ‥‥!)
あの馬鹿のアドルフ・ヒトラーもそうだったが――‥‥この男には、そんなことが何故それほど重要なのか、それこそ生理的にわからなかった。ラヴレンチー・ベリヤは、生涯で唯一のものかもしれない義憤に駆られ、そしてそれは、彼にしてはこれもまた非常に珍しい、憂国の念に取って代わったのだった。
(そんな噂がはばをきかすようだから、わが国はいつまで経っても先進諸国に追いつけんのだよ‥‥!)
ラヴレンチー・ベリヤの思いは続く。
(人間で最も重要なのは、その機能ではないのか。「性能」と言うと反発を受けることも多いが、まあしかし、それだろう‥‥。――人間は、もっともっと数値化され、序列化されるべきなのだ‥‥)
(人間という存在の数列への没入が中途半端だからこそ、様々な、つまらぬ問題が生じるのだ。しかし何故か、問題の発生に際し、逆向きの解決策が採られる――人間は統計学上の数字ではない、序列化はいかん、というような‥‥)
(アホか。社会において人間は統計学上の数字だ。そうでないなら、なぜ統計学などというものが発明されたのだ? 問題が生じるのは、人間の数値化・序列化が徹底されていないからこそなのだ。――数字。この人類の最も偉大な発明品を、社会の諸問題に素直に当てはめようとした途端、愚かな抵抗に出会う‥‥何か不穏当なこととされてしまう。そういうからくりが出来上がっている。――エジョフはそれを、キリスト教的倫理のせいにしていたが、少し違う気がする‥‥)
‥‥一宗教としての「キリスト教」ではなく、いまや世界に蔓延し、個々人の内面に深く食い込んでいる「キリスト教的なもの」についての話である‥‥。
(キリスト教文明圏以外にも文明はある、というような話ではない。現に、かつてはそうだったアジアの中国も日本も、独立したあの朝鮮も、結局この文明の価値観を受け入れ、その内部で右だ左だと葛藤しているのだから‥‥)
ここでいうところの「キリスト教的倫理」「キリスト教的なもの」を、ひとつ挙げる。――経済的に貧しくとも「心が豊か」である者の方が「本当は」尊い人間なのだ、というような言説がある。その「本当は」は、本当なのだろうか‥‥? 経済的に豊かであり、かつ「心が豊か」である者だっている――その逆もまた。それは、社会に生きる者ならば、実感としてみなよく知っている。しかし、何故か言い出しにくい。そしてこういったことを指摘すること自体、何か不穏当なこととされてしまう‥‥。
この抑圧の構造も問題だが、真に問題なのは、こういった言説がなぜ発明され流布されたのか、その発明者また流布者たちの意図だろう。人間社会に対するある種の感度を備える者たちは、そこに権力の匂いを嗅ぎつける。彼らはなぜ、それが実現可能かどうかは別として「(経済的にも『心』の面でも)皆で豊かになろう」と言わなかったのか‥‥? それは、こういった言説によって救われ、慰められる者たちが少なからずおり、言説の流布の初期段階から、流布者たちの念頭にあったものは人々の経済的な貧しさや「心の貧しさ」ではなく、その救いと慰めを求める者たちからの熱い支持であり、それを基盤とする、自らの権力ではなかったのか、先のような言説は、そのための「装置」にすぎなかったのではないか‥‥。こういった指摘は、さらに不穏当なものとされる。指摘をする者には「権力志向」であるというレッテルが――陰に陽に――貼りつけられる。
(――違うな‥‥。問題の根は、優れた能力を持つ者への嫉妬、なのだ。そんなものは、キリスト教の流布以前、原始時代にだって存在しただろう‥‥)
男には、あのエジョフが有していた、人間社会の欺瞞に対するある種の感度が備わっていなかった――備わっていることがいいことだとは言えないが‥‥。
(‥‥――たしかに家族は、社会構造を捉える上で重要な要素だ。だが、血統に何の意味がある? なるほど、遺伝子は連続しているだろう。だが、そのことと、社会的生物としてのその者の存在に、何の関係があるんだ‥‥? ――いや、『連続』という表現もおかしいな。連続してはいない。複製が行なわれているのだ。親と子はたしかによく似ているが、決して同一ではない。そのものではない。誰でも知っていることだ)
(‥‥目の前の問題から常に逃げようとする――そういう習性が染みついている――ボンクラどもの暇つぶしに、退屈している奴ら、努力をしない奴らが乗っかるんだ‥‥。バカバカしい。それこそ人類の文明を汚染する悪習だ‥‥)
男はそこまで考えたところで、
(習慣といえば‥‥あいつは、肉を喰わなかったそうだが――。俺もやってみるか‥‥)
と、ある人物のことを思い浮かべた。
(機能、効率を考えれば――たしかに目の前の肉料理は旨い。ベフストロガノフ、グルジアのカバビ、ムツヴァディ‥‥。思い出すだけでよだれが垂れそうだ――だが、中長期的観点からは、身体を冷やすし、何より思考の流れを乱すともいう。それは、効率的ではないだろう‥‥。煙草も同じだ。そのときそのときの小さな誘惑に負けていては、やがては健康を害することになる。昔から言われていることだ‥‥。――くそっ。俺ともあろう者が、こんな単純な理にいままで無頓着だったとは――)
そして、男は自分のデスクの上の煙草の箱から一本を抜き出し、憎々しげな視線を注いだのだった。
(聞いた話じゃ、アメリカの大手煙草会社の重役連以上は皆、煙草を吸わぬそうじゃないか‥‥。馬鹿な労働者は広告を信じて金だけ払ってくれりゃよし、あとは肺癌で死ねってか――。まったく、あいつらの発想ときたら‥‥)
(こいつを『棺桶に打つ釘』とは、よく言ったもんだ。こんなものは、親分を西側に見せるときのあのパイプ姿のような、広告で充分なんだ。――こちら側の「広告」に少々嘘がある? 馬鹿言え。おまえらに較べりゃかわいいもんだ。少なくとも、おまえらにどうこう言われる筋合いはない。われわれの嘘はたしかに大がかり――国家規模のものだが、単純だ。そっちほど手が込んじゃいないぜ‥‥)
(――愛、勇気、誠心、義侠心、向上心、冒険心、探究心‥‥俺が言うのも何だが、人間の、ありとあらゆる美しい感情を巧みにカネに替える複雑な資本主義‥‥見ていて感心するほどだよ、本当に‥‥。‥‥なるほど、おまえらの国に政治犯の収容所はないかもしれん。しかし――俺も知ってるぞ――恐慌のときはどうなんだ? 不況が長引くときは‥‥? 自殺や殺人が多発するんだろう‥‥? 自由がない? 平等ではない? では、おまえらの国に自由はあるのか? 努力をしさえすれば、誰もが求めるものを――望む人生や尊敬を――平等に手に入れられるのか? スタートラインとやらは、本当に平等なのか? ‥‥そういう手の込んだ嘘で、頭の弱い労働者を丸め込んでるだけだろう? ――まあ、嘘吐き同士、仲良くしようぜって話だ‥‥)
このすぐ後、男は、私的に二冊のノートを用意した。一冊は禁煙用、もう一冊は肉類を絶つためのものであった。それぞれに目先の小さな欲望――衝動が起こった日付と時刻を記入し、さらにそのときの行動や思考をも簡単に記してゆき、それらからパターンの抽出を試みていった。
――向上心は、この男の唯一のものかもしれない長所である‥‥。
(あいつも、こういう努力をしていたのか‥‥?)
その脳裏の端には、面識はないが顔はよく知っており意識していた、先の人物の存在があった。男の思いは、その人物が属した体制や、政治と芸術との関係に対する批評へと移った。
(ナチス‥‥ナチズム――。乗り越えられんよ、あのような方式では‥‥。教会に対する闘争も結局、中途半端だったしな――。国家規模に拡がった集団神経症にすぎん‥‥。俺は――もっと広く、大きく、やる‥‥。――芸術は、芸術に留まるからこそ意味があるのだ。「分をわきまえる」べきだ‥‥。――建築は芸術的側面だけではないし、華美なだけの建築物などゴミだ。そんなものは、単なる大きな彫刻だ。実用性を主体としてこそ、建築物というものさ‥‥。‥‥うちのあいつのやり方を「政治芸術」などと呼ぶ物好きもいるが、それは「芸術のような政治」なのであって、芸術そのものでは決してない。そんなことを認めてしまったら、教会の偽善性だって芸術だし、社会そのものも芸術だろう‥‥。――人間が関わるものすべて、いや関わらなくても森羅万象すべて「芸術」となり、そうでないものなど存在しなくなるだろうが‥‥。所詮、概念をいたずらに拡散させるだけの、言葉遊び好きなインテリのたわ言にすぎん‥‥)
ひとりごちた男は、そういう自分が好む芸術家の作品を見たくなり、デスクの引き出しの奥から、大型の帳面に擬した特製の画集を取り出した。そこには、黒い、異様な絵が貼られていた。戦争を逃れてアメリカに渡っていた、スペインはカタルーニャ出身の画家サルバドール・ダリの「メランコリックな、原子的、ウラニウム的田園詩(原子力の憂鬱)」という、核兵器の脅威をアメリカ文化・文明への警鐘とともに描いた作品であった。日本のヒロシマへの原子爆弾投下に影響されて描き、自分の個展に際し発行した小新聞に掲載したものである。シュルレアリスムの画家、作品であり、この国において許されるものではない。しかし彼は(前衛芸術は嫌いであったし印象派はさっぱりわからなかったが)精緻でエロテッィクな画風のこの画家をひそかに好いており、彼の秘密警察網を使ってこれを入手させていた。彼の建築学への関心が、極めて技巧的かつ計算しつくされた作風を持つ、この画家への関心につながっていた。この画家が「商業主義」などとして、他の画家や一部の前衛美術愛好家たちから批判されているということも、彼にすれば「いい話」であった。もったいぶった長たらしいタイトルも、彼の著作――虚構のスターリン伝――を思わせるようで(ダリが聞いたら怒るだろう)気に入っていた。
(なあ、同志よ‥‥)
男は、また別の、何かの資料のように偽装した新聞を貼りつけたファイルを取り出し、ブジョーンヌイやヴィルヘルム二世にも確実に勝つであろうピンとユーモラスに跳ね上がった髭のサルバドール・ダリの写真を見て、ひとりごちた。
(批判、陰口、スキャンダル‥‥。うすら間抜けどもは、俺たちのような優れた人間を妬み、足をひっぱることで自分を慰める。それどころか、恥を知れなどと言い出す――恥を知るのは、せめて黙って天才の仕事を見ているということができない、おまえらのほうだ‥‥。――そう言いたいんだろ、おまえも‥‥?)
‥‥このような絵を、この国で堂々と見られるようになるのは、いつのことであろう? ラヴレンチー・ベリヤはため息をつき、おとぎ話から現実に戻った。いまの彼にとって義憤や憂国の念(やダリ)よりも重要なのは、噂が明らかに悪意をはらみ、しかも黙認されているという点であった。この国において、それは、スターリンが黙認していることを意味していた。ベリヤは軽率に動きはしなかったが、頭のなかの帳面に注意書きすることを忘れなかった。
――すでに、先の「ユダヤ反ファシスト委員事件」が起こされていた。ヨシフ・スターリンは、すなわち政府は、「国際的シオニズム」の脅威を訴え、国民に対し注意を呼びかけるようになっていた。
四月、イギリスやフランスが主体となり「北大西洋条約」が結ばれた。これは、ソビエト連邦や東欧諸国――ヨーロッパの共産圏を抑え込むことを目的とした、西側諸国の軍事同盟のための条約であった。加盟国(原加盟国)は一二国――イギリス、フランス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、デンマーク、アイスランド、ノルウェー、イタリア、ポルトガル――これらの国々だけならば(英仏はなお強力であったが)ソビエト連邦と東欧諸国にとっても、それほどの脅威ではなかったかもしれない。だが‥‥「北大西洋条約」なのである。海を越えた向こうのカナダ、そして強大国・アメリカ合衆国もこれに加わっていた‥‥。この強力な軍事同盟は、北大西洋条約機構――NATO――と呼ばれることになった。
この一九四九年は、ソビエト連邦にとっても、記念すべき年になるのであった。二十年前に何があったか、思い出してみよう。あの年も、勝利の年だった。宿敵トロツキーを追放し、反対派を黙らせ、そして年末には‥‥。――そう、同志スターリンは今年、生誕七十周年を迎えるのだ。その盛大極まる式典の準備が、各所で進められていた。
「スターリンはこんにちのレーニンである」
御用学者が書き、途方もない数が刷られ、ソビエト連邦のみならず全世界に頒布された「スターリン略伝」で、そのようにうたわれた。スターリンは、勝利者であった。その輝きは、永久に不滅のもののように思われていた‥‥。
――ラヴレンチー・ベリヤは、妖精の女主人と会う機会を持っていた。「ゾーヤ・アリゾフ」――妖精が言っていた名を名乗る女が、その日の午後、ほぼ時間通りに現れた。この日に先立つおよそ一週間前、この名前の主からベリヤのもとへ、一冊の古い雑誌が送られてきていた。発行は、一九四一年とあった。女性職員によるボディー・チェックを経て、女はベリヤの執務室に、警備四名に付き添われてやって来た。ベリヤは、いいからと、警備の者をさがらせた。
「あいつの主は、婆さんだと聞いていたが‥‥」
ベリヤは、嫌らしい表情で、眼鏡の奥から、女の全身を舐めまわすように見た。
(こりゃまた‥‥)
そして、内面の獣性、この男の本来のものが、ほくそ笑んだ。
(悪くない。俺の好みとは少し違うが、十分許容範囲だ。しかし‥‥)
ベリヤは、いやベリヤでなく誰でも抱くであろう大きな疑問を、問うた。
「おまえは、どう見ても‥‥」
どう見ても女は四十代か、うんと若作りした五十代に見え、三十代と言われてもおかしくなかったのだ。スターリンは、ゾーヤのことをベリヤに話すとき、彼女のことを「老婆」、あるいは口汚く「皺くちゃの婆あ」、あるいは、彼なりに幾らかの親しみを込めて「魔女の婆さん」などと呼んでいた。顔が隠れるほどの長い白髪や、腰を曲げて杖をついているようなことにも言及していた記憶が、ベリヤにはある。スターリンがゾーヤ本人に直接会ったのは、彼の言葉が正しいとすれば、もう二十数年前のはずだ。とうに死んでいてもおかしくはない。フェアリーは、姿形を変えることなく現われつづけたが‥‥。――目の前の、ゾーヤを名乗る中年女は、腰も曲がっておらず、仮に染めているにせよ、目立つ白髪もない。若作りにも限度があるだろう‥‥。
「私は、二代目です」
と、その女は言った。
「同志スターリンがお会いしたのは、私の祖母なのです」
女は、肩にかかる黒髪をはらい、なまめかしい目でベリヤを見た。
――ロシアの大地には、ウピールチカなる女吸血鬼が棲まうという‥‥。
「なるほど‥‥」
ベリヤは、眼鏡の奥の嫌らしい目つきはそのまま、自分の顎を撫でた。人並み以上の欲情をなんとか抑え、国家の重鎮、政治家としての表情を取り繕った。権力の階段を昇るのは、楽しいことばかりではない。なにしろ、ラヴレンチー・ベリヤといえば、このソビエト連邦ばかりか、いまや西側諸国にも、老いたスターリンよりも冷静な現状分析が出来るリベラルな(!)政治家として知られつつある立場なのだ。昔のように誘拐や強姦(ベリヤはひそかに、その恥ずべき行為を「プレイ」)と呼んでいた)は、少なくとも大っぴらには出来ないのだ。国内にはすでに西側とシオニストのスパイ網が張りめぐらされており、党内にもそれは及んでいると、この頃スターリンは臣下たちにしきりに匂わせていた。それが彼らへの脅し――新たな粛清への――スターリンは常に臣下たちに不安を与えることでコントロールしようとする――であるとともに、親分特有の妄想であることは、冷静なベリヤは承知していた。しかし、かといって、「シオニスト」はともかく、西側諸国、とりわけイギリスとアメリカの情報機関が何も手を打っていないと考えるほど、彼は無邪気ではなかった。目立つことは、避けたほうが賢明なのだ。
スターリンが何歳まで生きるのかはわからないが、生物学的限界はいつか必ず訪れる。順番からいえば、ベリヤよりはるかに早く。
(その後、だ――)
大戦の最後の年の春、ヒトラーが死に、ドイツの敗北が確実なものとなった頃から、ベリヤは予想していた。ナチス・ドイツは滅び、日本帝国も長くはなく、ヨーロッパの東半分はわれわれソビエトの支配下に置けはするが、その後は西側諸国――特にアメリカ、イギリスとの対峙が始まるだろうと。そしてそれは、現実のものとなっていた。ベリヤの世界情勢の読みは、少なくともスターリンのそれよりは確かなものだった。
(あの野郎の後は、この俺が――)
ベリヤは思っていた。己が後を継ごうと。同時に、焦りと抜け駆けは危険だとも。焦らないこと。これは親分の卓越した才能だと、ベリヤは彼を軽蔑すると同時に、率直に認めてもいた。ヒトラー。そして噂に伝え聞くトロツキー。あるいは史上の人物、ナポレオン。彼らは確かに天才、あるいは天才的資質の持ち主だったかもしれないが、しかし、皆、焦った。己が才覚に溺れ、ことを急ぎ、焦り、やがては敗北した。親分はそうではない。ベリヤはそれを、念頭に置いてきた。
抜け駆けに関しては、スターリンの目にとまる危険性、という要素が大きかったが、自分と並ぶスターリンの子分たちの存在も意識していた。すなわち、マレンコフ(ベリヤは、彼とは特に仲良くしようと努めていた)、ブルガーニン、フルシチョフ‥‥。皆、油断ならぬ相手だという認識があった。親蛇の毒を受け継いだ――客観的に見れば、一番の猛毒の持ち主はベリヤなのだが――子蛇たち。ここは、毒蛇の巣なのだと。そうでなければ、このシステムのなかで生き残っていられるはずがない。例外といえば、優秀な官吏だが少々とろいところのあるミコヤン――彼との縁など、ベリヤはすっかり忘れていた――ぐらいだろうか、と。そして、軍部にはジューコフもいる。彼は、軍部は言うに及ばず、人民からも強い支持を得ていた。党内にすら、彼へのひそかな支持は強くある。大戦中、作戦について、彼が物怖じせずスターリンに意見する姿は、ベリヤも見ている。他の者もそうだろうが、ベリヤも、最初は肝を冷やしたものだった。しかし、こと作戦の具体的な点については、スターリンは彼に従うことも少なくなかった。根っからの軍人らしく、いまのところ政治的野心は見せていないが、将来はわからない。目立つことを警戒しているだけなのかもしれない。自分と同じく、ひそかに牙をといでいるかもしれないのだ‥‥。スターリンの死後、覇権を己が手に握るためには、慎重の上にも慎重さが求められるのだと、最近のベリヤは自分に言い聞かせていた。
(そういうものか、しかし‥‥)
二代目云々は真っ赤な嘘で、ベリヤの目の前に立つゾーヤは、あのゾーヤ本人だったのだが、さしものベリヤにもそれは見抜けなかった。とはいえ、違和感はあった。違和感のもとは、ゾーヤの不遜な態度、特に、彼女の正体を見抜こうとするベリヤの心の奥底を、逆に見透かさんとするゾーヤの不思議な目の光にあったのだが、ベリヤはそれに気づけなかった。権威と権力(と性欲)の忠実な使徒であるこの男の観察眼の力点は、その性質の必然として、常に対象の権威、社会的地位、そして女である場合はその容姿に置かれていた。だからこそここまで昇り詰められたのであって、ゾーヤのような存在の本質を見抜く眼は、それほどではなかったのだ。
「私たちの一族は、代々、長女が『ゾーヤ』の名と秘術を継ぐんですの。男だけの場合――子どもに娘がいない場合は、しかたがないので、一代飛ばして孫娘が継ぎます。長男の、孫娘が‥‥。私も、そうなのです――。同志スターリンや同志レーニン(この名前が平然と出てきたことには、さしものベリヤもたじろいだ)が会った私の祖母は、女の子に恵まれず‥‥。私が〈二代目〉を名乗るのも、実はそれなんです。私の――私の知る――『ゾーヤ』は、私の祖母だけですから。覚えてますわ、小さい私を膝に乗せて、お爺ちゃまが『おまえが生まれたときは本当に嬉しかった。弟と手をつないで踊ったものだよ』って、しみじみ話していたのを。お爺――祖父が言うには、自分たちの子どもの時代に、私たちがいなかったから、ロシアは滅茶苦茶になってしまったそうですわ。宮廷は腐敗し、気の狂ったあかがはびこり‥‥とね」
ゾーヤは、ニヤリと笑ってみせた。しかしラヴレンチー・ベリヤは、そんな挑発には乗らなかった。逮捕することはもちろん、この女をどんな目に遭わせることも可能であったにも関わらず。
(馬鹿な女だ。しかし‥‥)
そう、ベリヤは根っからの犯罪者であると同時に、根っからの警察官でもあった。引き出せる話は、可能な限り引き出す必要がある。料理するのは、それからでも遅くはないのだ。そんなベリヤをどう見たものか、熱に浮かされたようなゾーヤの長広舌は続いた。
「娘が生まれない場合は、本当に大変なんですの。夜な夜な、村中、町中を歩きまわって子種漁りまでしなければなりません‥‥。それで後ろ指さされるようなって、淫売呼ばわりまでされて‥‥。だから、住む場所を変えなきゃならないこともあるんですわ――それも簡単ではありませんが、まあやりようはあるのです‥‥私たちの一族が去った所は、悲惨なことになるんですのよ。大抵はさびれますし、場合によっては大火事とか――聞いた話ですよ」
ラヴレンチー・ベリヤは、頃合いを見計らっていた。どこまでが聞き出すに足る情報か‥‥。
「――一度だけ、二代、娘が絶えたこともあるそうです。一七世紀から一八世紀にかけてのヴェリキイ・ウスチュグ周辺の歴史を詳しく詳しく調べてみれば、わかるそうですよ。幾つかの村が、十年から二十年おきくらいに大火事に遭っていると‥‥。――なんでも、いまから九十年ぐらい前に、そのことに気がついて、私たちの一族を調べようとしたお役人がいたそうです。名前は私も聞いていません。で、返り討ちにしてやったそうです。お気の毒ですが、秘密は守らなければなりません‥‥」
‥‥ウピールチカは、一四世紀末から一五世紀の古文書では、ベレギーニャと称されている。この時期においては、天候を自在に操る力を持っている霊とされており、吸血鬼らしい特徴はみられない。ウピールチカは地中に巣を作り、そこで生活している。これを倒そうとする挑戦者は、まず巣の周囲に大量の聖水を撒かねばならない。聖水の効能によりウピールチカの逃亡を事前に阻止した後、次に心臓に杭を打ち込むのである。これで倒せる。しかし、注意せねばならぬ点がある。杭打ちにおいては、絶対に一撃でとどめをささなくてはならない。この一撃を外したなら、たとえ二撃目を加えたとしても、葬られるのは挑戦者のほうになってしまうのである‥‥。
女の長広舌が終わると、ベリヤは書類カバンからトゥルスキー・トカレヴァ1930/33を抜いた。国産の軍用拳銃――俗に言う「トカレフ」である。オートマチック・ピストルだ。彼は、こういうことは、すでに数え切れないほど行なってきたのだ。射撃には自信があったし、ましてこの距離で外すはずもない。
安全装置の解除を忘れるな? それは無用な忠告だ。ここソビエト連邦においては、生産効率というものが最優先される。兵器や武器の類においては、なおさらだ。このトカレフに、そんなものは無い。
ベリヤは、憧れのコルト・ガバメントM1911A1を手に入れており、最近まで使っていた。弾薬や部品はひそかに入手させており、使い勝手のよさから気に入っていたが、最近、性能の劣るこのTT‐1930/33に変えていた。トカレフとコルト・ガバメントの外観の違いは、拳銃を見慣れているものにとっては一目瞭然である――自分に対する政治的な圧力を感じ、万が一のスターリンへの密告を懸念しての判断であった。ここソビエト連邦では、どんな些細なことでスパイの嫌疑をかけられるかわからないのだ。そのシステムを洗練させたのは、他でもないベリヤ本人なのだが‥‥。
「悪く思うな」
ラヴレンチー・ベリヤは、トリガーを引き絞った。
一九四四年、カナダ生まれのアメリカの研究者により、DNAが形質転換の原因物質である証明が成されていた。遺伝子については、DNAであるのかタンパク質であるのか論争が起こっていたが、これでほぼけりがついた。
戦後のベリヤは、対外的には「穏健な」路線を目指していた。先の原子力開発――原子爆弾の開発プロジェクトを任され、核兵器への造詣を、おそらくスターリンの廷臣のなかでもっとも深く持っていた。西側、特にアメリカとの核開発競争で優位に立てる見込みが少ないことを、彼は承知していた。このような局面において彼は、冷徹なパワー・ポリティクスの信望者となる。信望というより、動物的な勘がそうさせるのであろうが。アメリカを始めとする西側諸国との全面対決――第三次世界大戦――に、ソビエト連邦が挑む理由も、勝てる見込みも見出せない以上、穏健路線をとるのは、理に適うことなのだ。党内的にも、彼の計算は働いていた。大戦争が終わったのだから、安定した新たな社会の建設に力を注ぐべきだ――スターリンを怖れるあまり、みな口に出さないが、それが大勢の空気であると彼は読んでいた。
ベリヤは、あの男になろうとしていたのだ――セルゲイ・キーロフに。あの時期、必要に応じて「民主的な」あるいは「穏健な」路線をとるという術、そのことによって党内の人心を掌握するという術を、彼から盗んでいたのだ。無論ベリヤも、そのキーロフがどういう最期を迎えたかはよく知っている。彼は、身辺警護を怠らなかった。
ヨシフ・スターリンは核兵器の開発を重視し、原子力委員会から週ごとの報告を要求した。しかし困ったことに、それがどのようなものであるかについて、彼はまったく疎かった。どうも、「非常に強力な爆弾」という程度の認識しか、持っていなかったようである。この年、一九四九年八月末、カザフ・ソビエト社会主義共和国はセミパラチンスク核実験場において、この国最初の核実験――プルトニウム型原子爆弾――がやっと成功を見ていた。ラヴレンチー・ベリヤは、「水素爆弾」もまもなく完成の模様、というような、調子のいいことをスターリンに吹き込んでいたようだ。しかしこの国において、核開発の進展は捗々しくなかった。恐らくこの点も、スターリンの戦後のベリヤへの不信の一因になったのではないだろうか‥‥。アメリカほか西側との全面核戦争に仮に突入した場合、どういうことになるのか――。これをベリヤだけでなく、他の指導者たち、特に「若き親衛隊」世代の者は、徐々に理解し始めていた。スターリンがちっとも理解していないことも‥‥。
――最初のコルキス王国の誕生は、実に紀元前一三世紀に遡るという‥‥。この時期、先進地中海地域においても都市国家の成立以前、アガメムノンの黄金の仮面で知られるミケーネ文明(ミュケナイ文明)という、ギリシア文明以前の段階である。西ヨーロッパは未開の地であった。エジプトは新王国時代。古代王朝最大のファラオ、ラムセス二世がヒッタイトとのカデシュの戦いを経て、世界で初めて成文化された平和条約を取り交わしたとされるのが、紀元前一二八五年から紀元前一二六九年頃だと言われている。そのラムセス二世のエジプトから、迫害に苦しんでいたイスラエルの民(ユダヤ人)をモーセなる人物が率いて脱出したとされるのが、紀元前一二六〇年頃とされている。そのような時代に、黒海沿岸は現在のグルジア西部に、このコルキス王国は誕生していたといわれるのである。この王国は後にギリシア文明に植民されるが、その神話のなかでうたわれることになる‥‥。
時代をくだり、地中海地域がローマの時代となったころ、東グルジアに別にカルトリ王国が興り、グルジア史の主役となる。この地域は六世紀までにキリスト教の洗礼を受け、西グルジアのコルキス王国(ラジカ王国)は東ローマに、カルトリ王国はサーサーン朝ペルシア帝国に支配される。後のアラブ圏の興隆により、その圏内に置かれる。九世紀にアラブから解放され、一一世紀末にバグラト朝が成立、グルジアは独立の王国として統一される。後に東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の属国となり、文化的な影響を受ける。その後、やはりアラブ圏――イスラム教――のセルジューク朝(セルジュークトルコ)の脅威を受けたが、これは押し返すことができた。しかしその後のモンゴル帝国(タタール、ティムール)には敵わず、支配を受ける。さらに再度イスラム王朝のオスマン帝国、サファヴィー朝ペルシア等の異民族(異教徒)支配を経て、同じ正教のロシアに接近した。
一七八三年のギオルギエフスク条約を経て、一八〇一年にはグルジア東部はロシア帝国に併合される。ヴラジカフカースは、このような情勢のなかでロシア帝国により建設された、カフカース地方の支配を目指すための都市である。軍用道路が、ここからトビリシまで延びた。五度にわたる露土戦争は、この黒海沿岸の地をめぐる争いでもあった。一八七三年、ローマよりもギリシアよりもなお旧い歴史をもつグルジアは、ロシア帝国に併合された。
グルジアは、ウクライナから教訓を学ばなかったのである。同じ正教徒の国であっても、優しいとは限らないのだ。併合の時期は、ロシアが近代化をしゃにむに推し進めようとしていた時期と重なる。ロシア帝国の近代化とは、狭義の「ロシア」とロシア人を優遇する政策に他ならなかった。「帝国」の意味を、グルジアは解していなかったのである‥‥。
グルジア人は、自国の旧い歴史をよく知っていた。キリスト教への改宗という点においても、グルジアの民はルーシの民より先んじている。それにも関わらずの仕打ちに、併合後も独立の煙はくすぶりつづけた。
グルジアにとって、一九世紀とは、ロシア帝国への併合の百年であった。その一九世紀の終わりごろ、「反逆者」(「父殺し」)という大衆小説が、グルジアにあった。作者は、アレクサンドル・カズベギ。その内容は、虐げられた山岳民族のアウトローの主人公が指導者となり、ツァーリ政府に戦いを挑む‥‥というものである。重要なのは、その主人公の名前である――その名は「コーバ」。この「コーバ」が、裏切り者のグルジア人をかっこよく倒す場面が、この小説のクライマックスとなっている。後の、実体化したほうの「コーバ」は、このロシア化政策の進むグルジアで育った。小学校の最初の二年間は、グルジア人教師にグルジア語で教えられた。一八九〇年からは、教師の多くはロシア人に、授業用語はロシア語に変わった。これ以後、学校内においては、グルジア語は外国語となるのである。スターリン――ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシヴィリは、このような環境下、世の中を知っていったのである。
‥‥ロシア帝国内の混乱も相まって、煙は二〇世紀まで残り、そして一九一七年のボリシェヴィキの権力掌握を迎えるのである。それがグルジアにとってどのような悲運であったかは、既述の通りである。フィクションから実体化した「コーバ」は――正確には元・コーバは――ツァーリ政府に戦いを挑む立場には立ったが、自らが裏切り者になってしまった。
ラヴレンチー・パーヴロヴィチ・ベリヤの場合は、もう少し事情は複雑であるが、ロシア化政策の進むグルジアにおいて育った点は同じである。学校教育に関しては、ヨシフ・ジュガシヴィリよりも時期が遅いため、小学校の最初から授業用語はロシア語であった。
スターリンがソビエト連邦全体の(神に比肩するような)指導者となったのに対し、ベリヤはグルジアに太い人脈を持ちつづけた。幻影の「ザカフカース・ソビエト連邦社会主義共和国」は一九三六年に解体され、構成国だったグルジア、アルメニア、アゼルバイジャンが、それぞれ独立の――無論ソビエト連邦内の――国家となったことは、既述の通りである。グルジアが単独で「独立」したことも、ベリヤのグルジア人脈の育成に一役買っていた。三十年代の大粛清はグルジアにも及んだが、ベリヤはできるだけ自分のグルジア人脈――というより手下――を守った。無論、すべては己のためである。組織の上のひとりを守るために、下のふたりに消えてもらうことは厭わなかった。ベリヤという男にとって、権力構造上そうすることは、むしろ当然のことであった。だから、グルジアのベリヤの部下たちは、彼の劣化コピー人間の如く、エジョフの語ったレーニン風に言えば――まず何よりも出世と保身を――目指し、表立ってはスターリンに、そしてひそかにベリヤに忠勤したのである。そうこうするうちに、ベリヤはエジョフを片づけたのだった。
ベリヤはまた、エジョフシチナを巧みに利用した。グルジア共産党の中央委員会の書記局、州、市、地区レベルに至るまでの書記たちを、自分が信頼できる人間で固めていったのである。秘密警察に関しては言うまでもない‥‥。
二十年代の大弾圧――というより征服戦争、三十年代のエジョフシチナを経て、グルジアには現指導部に――すなわちスターリンに――反抗する勢力など、もはや草の根わけても探し出せるはずもなかった。にも関わらず、またしてもグルジアを舞台にした粛清が行なわれることになるのである‥‥。
「彼らは何者かね‥‥?」
グルジア共産党の第一四回党大会、それに提出する予定の中央委員会の書記局員のリストを、ベリヤがスターリンに提出したとき、それは始まった。
「全員が党のメンバーかね――?」
結果的にこのリストを含め、ベリヤが提出したグルジア共産党の――グルジア・ソビエト社会主義共和国の――新指導部の人事案は承認された。そして、グルジア共産党中央委員会総会で、ベリヤがこれを正式のものとすることになった。傍から見れば順調なこの成り行きも、しかし、問うた時のスターリンの眼を忘れないベリヤには、警戒心を呼び起こす流れに他ならなかった。
ベリヤはまた、彼の先達たちがどのような最期を迎えたかも――これは一般人の知識とそれほど大差なかったが――知っていた。フェリックス・ジェルジンスキーに、ヴャチェスラフ・メンジンスキー。彼らの死には不審な点があった(ベリヤは賢明にも、再調査させてスターリンの目にとまる愚を冒さなかった)。NKVDに統合されてからの、ゲンリフ・ヤーゴダに、ニコライ・エジョフ。彼らの死は、ベリヤにもより身近なものと言えた。この両名の死は、当時すでに、ベリヤにしてみれば、ある種の教訓を与えていた。スターリンの国で警察組織のトップの座にあるということは、強大な権力を手中にできるとともに、常に最悪の危険を背負うということでもあるのだ。それを可能にしていたのは、例の第二の政治警察であった。ポスクレブイショフ率いるこの機構は、大戦により、かなりの程度その機能を失っていた。しかし、ここへ来て、また再建の兆しが見えていた。それが自然なものであろうはずがない。ヨシフ・スターリンは気まぐれな男であったが、こと政治という盤上では、偶然の手を決して打たないことをベリヤはよく承知していた。これまでのスターリンの手は、常に必然である。必ず目標があった(――同時代また後代の同業者で、密かにその徹底ぶりに舌を巻き羨む者は多かったのではないか)。――再建がスターリンの意志に基づくとすれば、その目標は何だろうか。かつての名探偵、ラヴレンチー・ベリヤは、考えをめぐらせるのである‥‥。
グルジアの手下たちは、親分の逡巡にも関わらず、ことをやらかしてしまった。グルジア共産党の第一四回党大会は一九四九年一月に盛大に開催されたのだが、その機関紙「ザリャー・ヴォストーカ」はグルジア人民に対して、格別の幸福をあげてみせたのある。それによると、ソビエト連邦の他の諸共和国と異なり、グルジアにはふたりの「父」がいるのだという。ひとりは、言うまでもなく他の諸共和国と共通する、ヨシフ・スターリンである。しかし、グルジアにはもうひとり、ラヴレンチー・ベリヤという偉大な「父」がいるのだ、と‥‥。
これが人民向けの醜聞だったとすれば、次の「事件」は党内のものであった。彼らは、グルジア共産党の名誉中央委員を選出するということを行なった。これは秘密投票において行なわれた。箱が開けられると、選挙管理委員会は困惑――というより、苦境に立たされることになった。同志ラヴレンチー・ベリヤは満票で選出されたが、同志ヨシフ・スターリンに対しては、なんと多くの棄権票が出てしまったのである!
この新しいグルジア・ソビエト社会主義共和国の指導部にはまた、ある見えやすい特徴もあった。政府の指導者、構成する各州の行政担当者に、ラヴレンチー・ベリヤと同じ少数民族ミングレル人が、人口比率からすればかなり多かったのある。ベリヤが己の同族に、同じ民族ゆえのシンパシーを感じていたわけではない(これまでのボリシェヴィキの党派争いを思い起こそう。彼らに「同じ民族ゆえのシンパシー」など存在するだろうか‥‥)。ただ前述のようなベリヤのグルジア支配の遂行が、結果としてこのように顕現したのである。しかし、グルジア共産党の第一四回党大会の諸々といい、この顕現は、スターリンの不興を買うのに――というより猜疑心を刺激するのに、十分であった。
民族という観点から見れば、スターリン――ヨシフ・ジュガシヴィリは、グルジア人の裏切り者と呼べるだろう。ラヴレンチー・ベリヤは、同じミングレル人の、それも少なからぬ数の人間を、結果的に追放と死に追いやった粗忽者となってしまうのである‥‥。
モロトフは妻の逮捕に続き、自身もこの年の三月には外務人民委員を解任、名ばかりの第一副首相に事実上降格されていた。後釜にはヴィシンスキーが座った。ヴィシンスキーは国際連合のソビエト連邦首席代表も務め、総会(国連総会)が世界人権宣言を採択した際には、同宣言を嘲笑した。ベリヤは表立って嘲笑することはせず、
(――「天才の誉れは泥にまみれるど、凡庸のわざは空高く掲げられる!」か‥‥。まったくだ‥‥!)
と、ひとりごちるにとどめた。各地の巨大な収容所地域を管理・運営するのに、どれほど頭を絞ったことか‥‥。秘密警察の半分をMGBとしてもぎ取られたことが、ベリヤには痛かった。アバクーモフの裏切りも許し難かったが、ベリヤはなお、彼を使えると見なしていた。
(再統合せねば‥‥)
ベリヤは、考えをめぐらせる。MGBとMVDを、である。しかしそれは、スターリンが認めないだろう‥‥。では、どうするか――‥‥?
ラヴレンチー・ベリヤが見落としていたかもしれない、そしてわれわれも見落としてしまいがちなポイントがある。ベリヤの虚構のスターリン伝は、ヨシフ・スターリンの事実上正式な伝記となっていた。これが虚構であることを知る人間は、少なくなった。だがそれでも、ふたりは確実に存在する。ひとりは、誰あろうヨシフ・スターリンその人である。そしてもうひとりは、著者ラヴレンチー・ベリヤである。
この単純で当たり前の事実は、しかし、論理的に考えれば、次の答を導き出す。ラヴレンチー・ベリヤが(虚構であると)知っていることを、ヨシフ・スターリンが知っていたこと、である。三十年代の大粛清において、スターリンは自分の過去を知る人間を、可能な限り消した。そして、現在の体制を作り上げた。見てきたように、その体制作りにベリヤが果たした役割は大きい。しかしスターリンから見れば、そのベリヤもまた、自分の過去を知る人間なのである‥‥。奸智に長けたがゆえ自信過剰気味であった彼が、この単純な「問題点」に気がついていたかは、定かではない。
実はもうひとり、似た条件に当てはまる人間がいる。レフ・メフリスである。彼は三十年代、「プラウダ」紙上で、スターリンを天空の高みにまで持ち上げた。このことをメフリスは自覚していた。しかしこの人物は、スターリンが天空の高みにまで持ち上げられるまでは地上にいたということをメフリスが知っているとスターリンが知っている、という点に、おそらく十分に留意していなかった。
「ウラジーミル一世は国を開いた‥‥」
坊主頭のドミトリー・A・シレプチェンコは、その歌のような一節を聴きながら、今日も作業場に向かった。ここは、中央アジアはバルハシ湖に近いモイントゥイ収容所。立地としてはカザフ・ソビエト社会主義共和国の東部にあるが、行政機構上はMVDとMGBの管理下にある。この歌のような奇妙な嘆き節は、最近、このモイントゥイで少し流行っていたものだった。作者は不詳である。ご存知の通り彼はNKVD隊員であったが、戦争の終わり頃、わけのわからないことで逮捕されてしまっていた。彼はもともと曖昧な――深く考えない――無神論者であったが、この一件以降、それはより強固な信念へと変わった。つまり、やっとボリシェヴィキになれたのだ。もっとも、彼はずっと同僚たちと共にわけのわからない逮捕をする側であったのだから、これは神の裁きという解釈もできないことはない。ただシレプチェンコは、そう思わなかった。思いたくないというより、彼はそもそもそんな発想をする男ではなかった。自分が酷い目に遭った――遭っているのだから、神などいるはずがない‥‥。その程度の思考回路の男であった。ドミトリー・シレプチェンコはロシア人だが、秘密警察員としてのキャリアを、二十年代のグルジアからスタートさせていた。
(あの頃は楽しかった――‥‥)
彼でなくても、現在の厳しい暮らしと、思わず対比したくなるというものだ。その頃は党内の風紀も緩く、秘密警察員は、要領さえよければ、楽しい目に遭えたものだ。トビリシで、ある有力な党員が一流ホテルに部下を集めて。パーティーを催したことがあった。酒は旨い、女たちは美人ばかり。駆け出しのシレプチェンコも、下級隊員とはいえそのパーティーに加わることができ、実においしい思いをすることができた。しかし、乱痴気騒ぎは一転、悪夢に変わってしまった。ホストの党員が、酔っぱらって拳銃を乱射、女性職員ひとりを射殺してしまったのだった。いくら有力な党員とはいえ、また参加者が秘密警察員たちとはいえ、うやむやにできることではなく、結局、党の地元の有力者たちに泣きついて、なんとかもみ消してもらったのだ。そのもみ消し作業に骨を折ってくれた、今は偉大な同志の名と顔は、よく知られていた。ラヴレンチー・ベリヤ。いまでは元帥殿だ。取り調べで、シレプチェンコは何度も、その同志の名前を出し、自分は親しい知り合いだと主張した――実はこれは危険を伴う行為でもあったが――とにかくその手は通用せず、こうしてずっと収容所暮らしというわけだった。もちろん、収容所でも何度も何度も口にした。だがその度に、笑われただけだった。アヴェリ・エヌキーゼ、マハラーゼ兄弟、長老ブードゥー・ムディヴァーニ、マミア・オラヘラシヴィリ‥‥実力者たちは皆、殺された。「セルゴおじ」ことオルジョニキーゼの最期も、シレプチェンコはもちろん知っていた。それらの陰に、あの若き同志や、クレムリンに住む偉大な同志の意志が働いていたことは、長い時間をかけてシレプチェンコにも推察できていた。グルジアの過去は――それもそう遠くない過去は――語ってはならぬものなのだ‥‥。
「ロシアの憲兵は、怠け者‥‥」
先の嘆き節よりずっと前から流行っている、これは他の収容所でもあるらしいアネクドートがあった。ロシア帝国ティフリス憲兵隊の隊長――すなわちドミトリー・シレプチェンコの大先輩にあたるような人物――「ポロゾフ大佐」なる人物に関する小話である。
――一八九四年一一月二八日、憲兵隊により若い強盗一味が逮捕され、この大佐の前に引き据えられた。
「マハラーゼ。正教会信者だそうです」
「銃殺だ。次」
「カンダリヤ。イスラーム教徒」
「マホメットがいる所へ送ってやれ。次」
「ペトロシアン。ええと‥‥無神論者だそうです」
「――‥‥他のふたりと同じ所へ送って、たっぷり説教してもらえ。次」
「ジュガシヴィリ。ティフリス神学校の生徒のようです」
「ん? ‥‥なんだ、靴屋のジュガシヴィリの倅じゃないか。神学生がなんてことするんだ。なに? もうしない? 当たり前だ。――お、そろそろ昼メシだな。オイ、誰かこの小僧の頭に拳骨を一発食らわせろ、それでおっぽり出せ」
千載一遇の機会をみすみす逸したこの大佐の仕事ぶりを、やつれた青白い顔の男女の囚人たちは、剃られた頭を振りながら、
「ああポロゾフよ、ポロゾフよ‥‥!」
と、歌うように嘆くのだ。
――同じ頃、同じくカザフ・ソビエト社会主義共和国にあるカラガンダ収容所では、やはり頭を剃られた元赤軍将校が、この「歌」を聴きながら手押し一輪車を押していた。マメが出来ては潰れ、出来ては潰れてずるずるになっていった。タコとあわせて、掌はもうガチガチだ。
この収容所でのおもな作業は、石炭の採掘である。今日は、幸運にも地上での作業だった。地下では、事故その他で人間が死ぬのは日常茶飯事だった――地上でも死ぬが、確率はやや低いといえた。一九四五年初頭に逮捕された彼は、同年六月、内務人民委員部の特別審議により「ASA」とされ、「一〇ルーブル札」を食らっていた。
「ASA」とは、彼らの特審――特別審議による容疑のひとつで「反ソビエト煽動」のことである。条項には他に、「KRD(反革命活動)」、「Psh(スパイ容疑)」、「SVPsh(スパイ容疑へ導く関係)」、「KRM(反革命思考)」、「VAS(反ソビエト感情の醸成)」、「SOE(社会的危険分子)」、「SVE(社会的有害分子)」、「chS(家族の一員)」、そして「KRTD(反革命トロツキスト活動)」、「PD(犯罪行為)」といろいろあった。
要は、彼らは嫌疑はなんでもいいのだ。KRTDの「T」は収容所暮らしをより厳しくするものであり、最後のPDは、逮捕歴・収容所歴のある人間に対して好んでつけられる、彼らにとって便利な札であった。特審の巧妙かつ象徴的なところは、これが「判決」ではなく行政処分(行政的処罰)である、という点であろう。ひとりの人間を一〇年なり、二五年(!)の強制労働に従事させることが、である。ソビエト連邦は、収容所による生産を経済システムに組み込み、それをあてにする国家になっていた。「一〇ルーブル札」は一〇年の刑の隠語であり、二五年の刑はそのまま「四半世紀」と呼ばれた。
なお、これらのいわゆる収容所外の普通の職場においても、警察機構の監視下で働かされる者たちが少なからずいた。後に、この国のある作家は、強制労働を使役している業種を列挙するより、それを使っていない唯一の分野をあげるほうが容易だ、と指摘している(ちなみにそれは、食品加工業である)。
彼には移動の話が来ていた。もちろん、娑婆へ戻れるわけではない。他へ移動するだけだ。元赤軍中尉――ユーリ・V・ワイネルは、左の頬にある長い傷にそっと手を触れた。頭を剃るのはシラミよけの意味もあるのだが、この傷とあいまった凄みある外観のために、彼は収容所内では、刑事犯からの暴力――収容所では一般的なものである――はあまり受けずに済んでいた。元戦車兵‥‥という話も、どこからか洩れ伝わったようであった。
(このクソッタレの体制を、いつかブチ壊してやる‥‥!)
ユーリ・ワイネルは、目を暗く鋭く光らせた。行く先は、モイントゥイ収容所と知らされていた。移動は貨車。豚小屋発犬小屋行きの特別急行というわけだ。
‥‥「ウラジーミル一世」とは無論、この国においても、一般には西暦一千年前後にキエフ・ルーシを最盛させた「聖公」と呼ばれる人物のことを指す。しかしこの国では、ときには、別の人物を指す呼称ともなる。すなわち、ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリンの先代、ウラジーミル・イリイチ・レーニンのことである。「一世」に込められた意、また大公という今日から見ればはるか旧時代の政治指導者との比較が、この表現のなかに見てとれる。
一九四九年一二月、ヨシフ・スターリンの生誕七十周年を祝う行事が、盛大に催された。
モスクワ市内西方に、ノボジェービッチ修道院がある。この国の有力者やその関係者で、神聖中の神聖といわれるクレムリンの壁に葬られない人は、ここに葬られるのが慣わしであった。彼女もここに埋葬――土葬――されていた。一九五〇年‥‥。この頃、ヨシフ・スターリンは定期的に、ここを詣でていたという。彼女が眠る、この場所を‥‥。
世界では‥‥。西側の大国すなわち米英仏――先のNATO加盟国――と、ソビエト連邦との対立が深まっていた。前年一〇月、中国共産党の指導下に中華人民共和国が成立したこともあり、前述の資本主義国家群と社会主義国家群はより鮮明に対峙してゆき、この惑星は新たな対立の時代を迎えていた。甚大な犠牲者を出した世界大戦の終結から、五年を待たずして‥‥。対立は尖鋭化してゆき、後戻りすることは――してくれればよかったのだが――なかった。
クンツェヴォのダーチャは建て増しされ、外観はそれほどでもないが、内装はより豪華で壮麗なものとなっていた。建国を果たした中国共産党の毛沢東という指導者も、去年、このダーチャの二階の大広間で、盛大な歓待を受けたものだ。ここの警備の厳重さは、言うまでもない。ダーチャから数十メートル離れた庭園の一角に、優に百名以上を収容できる警備隊宿舎があった。不測の事態に緊急対応できるよう、八角形をしており、瞬時に文字通り四方八方に警備兵が飛び出せる仕掛けになっていた。ダーチャ内のスターリン専用の寝室は四室あり、どれも同じような作りになっていた。スターリンがその夜どの部屋で寝るかは、そのすぐ直前まで、警備の人間も含む誰にも知らされることはなかった。
――いまはもう老いたその男の目は、虚ろだった。彼の妻は十数年前、息子と娘を残して、この世を去っていた。男はそれ以来、時折このような目をすることがあった。しかし、彼の周囲は激動の世界であり、伴侶の死を悲しむ彼の想いが、理解されることはなかった。
(俺は、あいつと一緒に、何かを失ったのだろうか‥‥)
そんな思いが男の脳裏に棲みつくようになったのだが、男はまた、内省という作業がうまくなかった。これは、彼が母語と違う世界で生きることを選んだためでもあった。
彼の娘は長ずるにつれ、母親、すなわち失った彼の伴侶に似てきた‥‥。
この頃はまた、スターリンの言語学への挑戦が行なわれていた時期でもあった。N・Ya・マールという、三十年代にすでに他界していた言語学者の理論を、批判し始めたのだ。「プラウダ」紙上で、マールの学説をめぐり、スターリンも加わった学問的な論争が巻き起こった。とはいえ、ヨシフ・スターリンが――神にも等しい絶対的最高権力者にして、政治的陰謀を張りめぐらせることがもはや常態と化している――絡むのだから、純粋に学問的なもので済むだろうか‥‥。
ヨシフ・スターリンは、ソビエト言語学がマール主義のために損失をこうむったとした。スターリンは、帝政時代以来基盤が変わったにも関わらず言語は変わっていないとして、言語は上部構造の一部であるという見解に反対した。ヨシフ・スターリンはまた、思想と言語は不可分であり、あらゆる思想には言語が必要であり、言語とは別個のものである意味論は、「分をわきまえる」べきであると主張した。
遅ればせながら、ヨシフ・スターリンによる有名な定義を紹介する。「民族」に関する定義である(彼が革命後、民族人民委員の役職に就いたことを思い起こそう)。一九一三年、彼は、論文「マルクス主義と民族問題」において、民族とは、
「言語、地域、経済生活、および文化の共通性のうちに現れる心理状態の共通性を基礎として生じたところの、歴史的に構成された人々の堅固な共同体である」
と定義してみせた。
わかりやすい定義である。わかりやすすぎる、とも言えるだろう――例外はないのか? しかしともかく、このわかりやすさと後の彼の権勢のために、特に社会主義諸国には、この定義は広く受け入れられることになった。己の出身グルジアを始め、複雑な民族問題を抱える地域にスターリンがどのような態度で臨んだかは、既述の通りである。
(ナジェージダ‥‥)
スターリンは空中に呼びかけた。
(教えてくれ‥‥。俺は、どこかで間違えたのか‥‥?)
無論、返事はない。茫漠とした静けさだけが、いつもそこに在った――墓所でも、他の場所でも。一度、クンツェヴォのダーチャで深酒したまま寝てしまい、彼女の名を呼んだのを、警備兵に聞かれてしまったことがあった。亡き妻に想いを寄せることは、悪いことでもなんでもない。ただ、スターリンの場合、警備兵に聞かれたということが問題なのだ。
スターリンはこの頃、しきりに亡妻を追憶していたようだ。彼は新聞や雑誌の類から、写真を自分で切り抜くことをよくしていた。コルホーズで働く農婦や、ピオネールで学ぶ少年少女たち、といったものが主だったが、スヴェトラーナや亡妻のものもあったようだ。国中の美術館からどのような名画でも一声で持って来させることができたにも関わらず、この男は質がいいとは言い難いそれらの切り抜きで部屋を飾り立てた。ひときわ大きなモノクロ写真のナジェージダが、そんな彼を見つめていた‥‥。
(耄碌したか‥‥)
以前、ベリヤの性暴行の話を聞いたとき、スターリンは笑った。警備兵から話を聞き出して、今度はベリヤが笑う番だった。
ダーチャの内装は豪華で壮麗なものだったが、四室ある寝室は、どれも質素な作りであった。これらの部屋にも、新聞の切り抜きが飾られていた。スターリンは、長年の癖で、いまだにブーツを履いたままベッドに入ることもしばしばあった。常に警戒を怠らない革命精神の現れ? いや、これは単に面倒くさいだけであった。
巨大な国家を、世界の半分を、双肩に背負う重みを、孤独を、一体誰がわかるというのか。そんな思いが、この独裁者を、ある映画にのめり込ませてもいた‥‥。
PDFでは一部のルビと一部の文字がうまく表示されないようです。「スピットファイアMk.?標準主翼型」は「スピットファイアMk.9標準主翼型」、「スピットファイアMk.?短主翼型」は「スピットファイアMk.9短主翼型」です。PDFでない横書き版のほうを参照してください。どうもすみません。