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フェアリー・テール  作者: 田中 鉄也
第三部 イヴァン
21/29

1.死者と生者(2)

独ソ戦と世界大戦の決着。


《注意》いわゆるホラーではありませんが、残酷性のある叙述があるので苦手な方はご注意ください。また、この回も、当作品がフィクション(創作・虚構・作り話)だということをよくご理解の上でお読みくださると、助かります。

「1号車より各車へ伝達。ドイツ兵は残りわずかだ‥‥」

 若い前方銃手はそこで、狭い車内で右の拳を天井に叩きつけ、彼のお気に入りの文句を無線機に叫んだ。

「――蹂躙しろ! 一気にカタをつけるんだ!」

 途端に、戦車長の叱責が飛んだ。

「バカモン! 調子に乗るな! 戦場では常に生きるか死ぬかだ! 俺は『周囲に注意しつつ前進』と言ったんだ!」

 若い前方銃手は、首をすくめた。ともかく、戦車四輌は前進を始めた。

「まったく‥‥」

 小規模な戦闘の後、戦車長ユーリ・ワイネルは戦車帽を脱ぎ、ふう、とため息をついた。新たな中戦車が配備されていた。T‐34‐85。ユーリ・ワイネルが望んでいた通りの戦車だった。基本的にはT‐34のシャーシに新設計の砲塔を搭載したものであるが、戦車長と砲手を分けた五人乗りに改められるなど、新戦車と言えた。主砲は、D‐5Sを改良したD‐5T八五ミリ砲。新砲塔の重さのため、行動距離は三六〇キロと落ちたが、速度はそう変わらず、整地で五五キロを出せた(やはり型によって多少の差はある。また、これもいわゆるカタログデータである)。この新砲塔はまた前面装甲も従来のT‐34より増厚されており、また、性能は取りたてて言うほどのものではないが、無線機も装備されるようになり、これらで乗員の安全性はやや高められていた――無線機の搭載は、戦車長やハッチに近い砲手の危険を大きく減らし、攻撃をスムーズにする結果をもたらしたのだ。ただこの無線機は、車体の右側面前部に置かれ、ために前方銃手が操作することになった。実は、ワイネルのこの型は暫定生産型ともいうべきタイプであり、すでに新たに改良を加えられたタイプが生産・配備されていた。

 各戦線では待ちに待ったこの新戦車は大歓迎された。行動距離の問題は、こちらが優勢になりつつあり補給が十全に行なわれつつある現状ではさほどの問題ではない。彼らは、速度はほぼそのままの、従来のおよそ二倍の主砲の装甲貫通力と砲塔の前面装甲の新戦車を手に入れたのだ――その喜びようを窺い知ることはできるだろう。この新戦車T‐34‐85の大量産が開始されていた。ワイネルの乗車するタイプではなく、改良型のほうである。戦車兵の育成が間に合わず、戦車工場の工員を連れてきたり、四人、ときには三人でこの新戦車を稼動させることもあった。そしてユーリ・ワイネルは、中隊長としてこのT‐34‐85の部隊を任されることになったのだが、現場への配備の問題から、暫定的にこの小規模な臨時編成の部隊を率いていた。

 ここは、ベラルーシ南東部である。ワイネルの中隊も人材不足は否めず、今までの者よりもっと若い――あるいは未熟な――「戦車兵」が続々と配属されてきていた。ワイネルは、これらの新人を鍛え上げるのに苦労しながら、数々の戦闘をこなした。配属された新兵たちは、希望の目でユーリ・ワイネルを見た。いまやユーリ・ワイネルの名は、部隊外にもひそかに鳴り響くようになっていたのだ。何故ひそかになのかといえば、ワイネル自身が目立つのを嫌い、戦功を低く報告していたからである。スメルシに目をつけられることへの警戒心が、そこにはあった。そして、自分もまた少なくない部下を死なせてきたことへの思いもあった。

 ――この年の六月二二日、ベラルーシにおいて赤軍の大規模な夏季攻勢が開始された。ドイツ軍側は、攻勢を南部戦線と予想しており、彼らの不意を突くことができた。物量で勝る赤軍は彼らを圧倒し、ドイツ中央軍集団を事実上の壊滅に追い込み、彼らをベラルーシから追い出し、開戦前の国境付近まで押し戻した。


 VVSの戦闘機にも、新たな機種が続々と登場していた。すでに、スペイン内戦やハルハ河紛争により、I‐16を始めとする主力戦闘機には、性能不足が指摘されていた。ポリカルポフ設計局の偉大な戦闘機I‐16も、時代についてゆけなくなったのである。一九三〇年代にはまた、多くの航空機設計局が設立されていた。ポリカルポフとイリューシンのほか、ヤコヴレフ、ラボーチキン(ラーヴォチキン)、ミグ‥‥がそれである。同じく、主設計者の名を取った。

 ヤコヴレフ設計局が送り出したのが、Yak(ヤーク)‐1(Jak‐1)から始まる一連の戦闘機シリーズである。Yak‐1は、機体こそ一昔前を思わせる木と金属の混合であったが、最大速度は五八〇キロ以上と、性能は新時代の空中戦に対応できるものであった。同設計局のアレクサンドル・ヤコヴレフは航空産業人民委員代理(次官)を務めており、スターリンに気に入られてもいた。かつてスターリンは、この人物に対し、エジョフシチナについて、「奴は無実の人間を何人となく殺してしまった。だからわれわれは彼を銃殺にしたわけだ」とエジョフに責任転嫁する話をしている。ある夕食会の席である。それくらい関係は近かった。Yak‐1は、スターリングラード戦ほか、ドイツ空軍に対して善戦と呼べる働きをした。

 このYak‐1には幾つかの派生型がある。本機の副座練習機型UTI‐26は、元のYak‐1よりも優れた性能が見込まれたため、改良を加えられ、Yak(ヤーク)‐7(Jak‐7)として前線へ投入された。

 Yak(ヤーク)‐9(Jak‐9)は、本シリーズの決定版と呼べる機体である。スターリングラード戦で前期型と呼ばれる機体が実戦デビューを飾り、後に改良型が戦線に投入された。主力となったYak‐9D、三七ミリという大口径の機関砲NS‐37を搭載した打撃戦闘機型のYak‐9T、さらに大口径の四五ミリ機関砲NS‐45を搭載したYak‐9TD、エンジンを新型のVK‐107Aに換装したさらなる性能向上型Yak‐9U等々、バリエーションも多種に及び、また多数が生産された。ちなみに、Yak‐9Dで最大速度は五九〇キロを超え、独ソ戦初期のドイツ軍の主力対戦車砲が四五口径の三七ミリ砲であった。

 Yak(ヤーク)‐3(Jak‐3)は高性能型で、Yak―1Mを基礎として開発された。主翼はYak‐9より小さく、エンジンはより強力なVK‐105PF2エンジンを搭載、最大速度は六四〇キロを超えた。特に低高度――高度三千メートル以下(ここがVVSの得意な領域であった)で、優れた運動性を発揮した。これでやっと――この領域でなら――ドイツ戦闘機とわたりあえるようになったが、生産機数は少数にとどまった。なお、これら一連のYak(ヤーク)シリーズは、どれも同時代の戦闘機の基準では小型の部類に入る。その小さい機体に、事実上の標準機Yak‐9Dでも二〇ミリ機関砲×1、一二・七ミリ機関銃×1という重武装を装備させていた。

 ただし、これはYakシリーズに限らずソビエト製戦闘機はどれも、無線機や照準器といった面でドイツを含む西側各国機に遅れをとっていた。殊に無線機は、まったく搭載しない機体が前線に出ることも、編隊長機だけが送受信機を備え他は受信機のみ、といった状況も普通であった(しかもソビエト製のそれらの機器は、しばしば当たり前のように故障した)。また、風防のガラスも、「ビンの底から覗くような視界」と酷評されるほどの透明度の低さであった。

 他の設計局の機体を見る。ラボーチキン設計局。セミョーン・ラボーチキンが、ゴルブノフ、グドコフという人物とともに設計を行なったLaGG(ラーッグ)‐3。Yakシリーズと共にVVSの戦闘機部隊の中核を担うLa(ラー)シリーズは、独ソ戦初期にはこの機体しかなかった。戦略物資の節減のためであるが、胴体、主翼ともに全木製であり、そのため小型であるにも関わらず重くなり、飛行性能はYakシリーズに劣った。発動機だけは高出力であった。被弾した際、鋼管骨組羽布張り構造のYak‐1とは違い容易には火を噴かないという長所もあったが、逆に空中分解も起こしやすかった。粗悪品には慣れているVVSのパイロットからも酷評された。

 ラボーチキン設計局が、このLaGG‐3を、発動機を空冷式のシュベツォフM‐82系列に換装するほか大幅な改良を行ない、新しくデビューさせた機体がLa(ラー)‐5である。これは、大戦中のVVSの傑作機と呼ばれる。やはりスターリングラード戦から実戦に投入され、Yakシリーズを上回る低高度機動性を示した。La‐5Fでは発動機を一七〇〇馬力のMF‐82Fに換装、さらなる性能向上に成功した。La‐5FNは、さらにこのMF‐82Fをガソリン直噴型MF‐82FNに換装、主翼は全金属製となり軽量化され、最大速度は六四八キロのカタログデータを叩き出した。さらにこのLa‐5FNの性能向上型La(ラー)‐7も開発された。

 La‐5FN、La‐7を駆ったエースとして、イヴァーン・コジェドゥーブ(イワン・コジェドゥープ)が有名である。彼は党員であり、またウクライナ人であった。「コジェドゥープの如く闘うべし」とプロパガンダのポスターにも載り、VVS内外でその名と顔はつとに知られていた。この年、一九四四年の八月一九日には、二度目のソビエト連邦英雄の称号を与えられたが、この時点で彼は四八機のドイツ機を撃墜していた。

 この「ソビエト連邦英雄」とは、その名が示す通り、英雄的な働きをした人物に贈られる称号である。最高会議幹部会から贈られる、スターリングラードでの勝利の後の一九四三年四月に創設されたソビエト連邦最高位の勲章「ソビエト連邦英雄章」(金星章、GSS、ソビエト連邦英雄金星章、「金の星」)が授与される。また自動的にレーニン勲章が下賜される。レーニン勲章は同じく最高位の勲章であるが、個人のほか、職場集団、公共施設、組織、都市等に対しても授与される。また、ソビエト連邦に貢献した外国人に対しても授与された。ソビエト連邦英雄章の資格を達成した戦闘機搭乗員は、確固とした名声を特に出身地で得られる。二度叙勲された搭乗員なら実家に記念碑が建立されるし、一度の場合でも本人の徳義を讃えあるいは追悼の意味を込めて碑を建てられることがある。

 コジェドゥーブの初出撃は一九四三年三月末と遅く、一年半足らずの期間でのこの撃墜記録(スコア)は、やはり見るべきものがあろう。初撃墜は同年七月六日(戦いが始まった頃のクルスク)であるから、なおのことである。

 ミコヤン・グレヴィッチ――ミグ――設計局が開発したのが、MiG(ミーグ)‐3である。同設計局は、開局が一九三九年と後発である。主設計者であるアルチョーム・ミコヤンとミハイル・グレヴィッチを、共に設計局名に盛り込んでいる。ミコヤン――そう、この人物は誰あろう、すでにお馴染みのアナスタス・ミコヤンの弟である。同機は、最大速度こそ六四〇キロを出してみせたが、操縦性が悪かった。エンジンに過給器をつけ高々度戦闘も可能にするなど――実用上昇限度は一万二千メートル――野心的な面もあり、違う戦場でなら見るべき結果を出せたかもしれない。しかし独ソ戦においては、YakシリーズとLaシリーズが存在することもあり、VVSの主力戦闘機にはなれなかった。

 独ソ戦において活躍したVVSの戦闘機といえば、アメリカはベル・エアクラフト社のP‐39エアラコブラの存在も忘れられない。これは、レンドリースによって同国からもたらされたものであり、操縦席の後方、胴体のほぼ中央にエンジンを置く珍しい形の戦闘機であった。このエンジンから、操縦席の下を通る長い延長軸をもって、機首のプロペラを回すのである。三七ミリという大口径の機関砲が、このプロペラ軸内に装備されていた。速度はQ型(P‐39Q)で六〇五キロをマークした。流線型のフォルムは未来的ともいえる独特なものであったが、中高度域での性能の低さ等により、同じくこの機体を受け取ったイギリス空軍では不評であった。英語で書かれた説明書を読める者は現場では皆無と言ってよく、その機体形状から来る前輪式(三輪式)降着装置は初めVVSのパイロットたちを戸惑わせたが、これが滑走時の前方視界を劇的に向上させているのだということをすぐに彼らに悟らせた――彼らは、実物もマニュアルも異言語の代物を宙に浮かせ、それで命をかけた戦闘を行なったのだ。また、ソビエト製よりはるかに性能のいい無線機、はるかにクリアな風防も、彼らに好評であった。翼内にも機銃が装備されていたが、七・六二ミリ機銃は彼らには、「ドイツ機の塗装を剥がすのにちょうどいい」と殊のほか不評で、現場で撤去された。ソビエト連邦には、四七七三機が送られた。前述の通り、VVSにおいては低高度域での活動が主であり、これは充分有用な機体であった。この機体はVVSにおいて、多くのエースを生み、育んだ。第9親衛戦闘機師団のアレクサンドル・ポクルイーシキンの乗機としても知られる。前述のコジェドゥーブと異なり、ドイツ軍侵攻時から戦場におり、陸軍でメカニックを勤めた過去を持っている。この経験が、未知の機体P‐39と出会ったとき発揮されたことであろうことは、想像に難くない。彼のようなベテラン・パイロットが及ぼす好影響が、ドイツ軍との戦闘が二年目を迎える頃から現れ始めた。ポクルイーシキンは、自身も個人五九機、協同六機――本人の主張は七二機だが未確認――の撃墜数を誇るVVS中三位のエースであるが、彼の指揮下にあったパイロット三〇名がソビエト連邦英雄となるなど、名教官でもあった。

 クリミア解放作戦におけるスルターン・アメート=ハーンの活躍と、彼の民族を襲った悲劇にも簡単に触れておく。彼の連隊が本機に機種改変する一九四三年八月の時点で、彼はすでに個人で一九機、協同で一一機を撃墜の実力あるエースであり、部隊の人気者であった。連隊のコミッサールと銀のシガレット・ケースを賭け、前述のタラーン攻撃でドイツ機を撃墜したエピソードでよく知られており、翌一九四四年のクリミア解放に大いに貢献した。

 しかしアメート=ハーンは少数民族クリミア・タタール人であり、彼の家族が属するこの民族には前述の通りスターリンの猜疑の目が向けられ、対独協力との嫌疑により、民族ごと中央アジアに追放されることになった。上官の勇気ある調停のお陰で、彼の家族だけはこの強制移住を免れたが、兄弟を救うことはできなかった。

 同じレイアウトの本機の発展型P‐63キングコブラも、やはりソビエト連邦にレンドリースされ活躍している。同シリーズとVVSは、よほど相性がよかったと見える。アメート=ハーンはまた、イギリスはホーカー・エアクラフト社の戦闘機ハリケーンをよく乗りこなしたことでも知られている。

 VVSの攻撃方法・飛行方法には、他の国々と同様、様々なものがある。「ソコ()ーリ()ヌイ()・ウ()ダール」(急降下攻撃)、「カチェーリ(ブランコ)」(全機を一隊にまとめて振り子状の飛行パターンを取る揺撃法)、「エタジェールカ(重ね棚)」(各ペアが高度と平面間隔をずらすフォーメーション)等々である。しかし、最もよく知られたものは――パイロットたちにとって不幸なことに――「タラーン」であろう。一言で言えば敵機に対する体当たりであるが、この「タラーン」攻撃については、いまだに誤解されている。ために、少しだけ解説する。

 VVS内ではおもに三通りの「タラーン」があった。後方攻撃。自機のプロペラを用い、敵機の昇降舵と方向舵の一方または両方を損傷させる。次が自機の主翼を用いる方法。主翼で敵機の操縦舵面を突き壊すか、低空ならば敵機の主翼を突つく。これでも充分に戦果をあげられたが、最後の手段として用いられるのが、敵機への直接的突入である。前二法に較べて、搭乗員の生還率は低くなる。これらがひとまとめにされて「タラーン」と呼ばれている。「タラーン」の宣伝はソビエト国民の評判を勝ち得たが、少なくとも高位の戦闘機乗りたちは、正統的な戦法ではないとして、これを支持しなかった。

「個人的に体当たりには賛成しないね。ほとんどの場合敵機を壊すだけではなくて自機も失うし、搭乗員本人が死んでしまう場合だって稀じゃない」

 ――ポクルイーシキンの言である。この一九四四年の夏、VVSの最高司令官アレクサンドル・ノヴィコフから、「タラーン」を禁止する特別命令も出されたようである。

 VVSの戦闘機部隊は、単位の変更も行なっている。一九四二年の五月頃までは、定数一二〇機と予備四機からなる戦闘飛行師団を一個師団とし、この師団二個ないし三個からなるIAK(戦闘航空軍団)が置かれていたが、以降は五個師団以上を有するより大規模なVA(航空軍)へと移行していった。小規模な編隊は、一九四三年末より、ズウェノーと呼ばれた三~四機の班から、ドイツも含む西側諸国風のペア(二機)への転換が行なわれた。また、VVSとは別に、防空を主任務とする新たなる軍隊、IAPVO(防空戦闘航空隊、防空戦闘航空軍)が創設されていた。

 なお、「独ソ」戦において彼らVVSと空中戦を行なったのは、ドイツの空軍だけではない。イタリア空軍、そしてドイツとソビエトに挟まれている東欧各国――ルーマニア、ハンガリー、スロバキア(先のスロバキア共和国=独立スロバキア)、クロアチア(先のクロアチア独立国)空軍等が戦っていた。クロアチアとスロバキアの空軍は、東部戦線においては実質的にドイツ空軍に所属して戦った。ルーマニア空軍(ルーマニア王国航空隊)の戦闘機乗りたちは、ヴナトリ――狩人――と呼ばれる。このヴナトリたちは、初めはソビエトの空軍、次にアメリカの空軍、そして最後にはドイツの空軍と戦うことになった。この年、一九四四年八月、ルーマニアは陣営を変え、連合国側に立って枢軸国諸国に宣戦していたのだ。少し前までの戦友同士による、メッサーシュミットBf109の後期型であるG型〈グスタフ〉同士の空中戦が行なわれていた。ルーマニアは、三十年代の東欧にあっては強国であった。しかし同年代末、前述のような周辺情勢の悪化により、国土を毟りとられていた。空軍は、国産の単葉戦闘機IAR‐80の開発・配備に成功していた。このIAR‐80は必要十分な性能を持ち、この大戦でも最後まで――すなわち陣営を変えた後も――活躍した。彼らの物語もまた、別の機会に語られるべきものであろう‥‥。

 A4ロケットは「V2」と名づけられ、その発射の模様を記録した映画で、アドルフ・ヒトラーをしばらく声が出ないほど感激させていた。ドイツ中部はノルトハウゼン近郊の岩塩採掘抗を利用した工場で、生産が開始された。九月より、ベルギーやイギリスのロンドン等を狙って発射が行なわれた。超音速で飛来するこのV2を迎撃することは不可能で、特にロンドンの市民を大きな不安に陥れた。市街地への被害も甚大であった。

 赤軍もロケット兵器を開発、前線において盛んに使用した。これは、八二ミリBM‐8、および一三二ミリBM‐13という自走式多連装ロケットランチャーである。トラック等に架装され、赤軍将兵の間では、なぜか女性名の「カチューシャ」という愛称で呼ばれた。ロケット弾を載せるための鉄レールを平行に並べ柵状にした棚と、それを支え方向と射角を調整するための支持架で構成された、非常にシンプルな構造をしていた。一般に照準器は装備されておらず、ロケット弾は大体の方角に無誘導で発射された。命中精度は望むべくもなかったが、多量に集中的に撃ち込むことで効果を発揮した。ロケット弾は、黒色火薬またはダブルベース装薬を用いた固体燃料ロケットで、安価で大量生産に向いていた。一九四三年に設計が完成し、すでに一五〇〇基以上が製造、戦線に投入されていた。

 敵軍の対戦車陣地に対し、主力部隊が突入するに先立ち、待機する友軍の主力部隊の後方から頭越しに、野砲部隊の攻撃とともに雨のように大量に撃ち込まれるこのロケット弾は、敵ドイツ兵に恐怖を覚えさせた。彼らからは、このロケットランチャーの外観と発射時に鳴り響く音が楽器を連想させるとして、「スターリンのオルガン(スターリン・オルゲル)」(ないし「スターリンのバグパイプ」)と呼ばれた。また「スターリンの逸物」という呼ばれ方もされた。開発したのはコスチコフという人物だったが、彼も投獄されていた――獄中でこのロケットランチャーの話をしたが、破壊活動家の戯言と片づけられてしまった。


 秋‥‥。そぞろ雨は、次第に強くなっていった。その雨中を、T‐34‐85の大群が、敵戦車部隊に向かって前進していた。ユーリ・ワイネルの中隊も、そのなかにあった。

 すでに改良型のT‐34‐85であった。というよりも、このタイプが本格的な生産型である。主砲はD‐5T戦車砲から、別の設計チームが開発したより優れたZiS‐S‐53という八五ミリ砲が搭載されていた。この新しい戦車砲に合わせ、砲塔自体も再設計されていた。照準器がそれまでのものからジョイント連結式のものに代わり、砲手と戦車長の席は砲塔の後部へ移動していた。無線機の配置も変わり、砲塔の戦車長席のすぐ脇に配置され、戦車長が直接、僚車へ指示を送ることができるようになった。そして、完全にではないが砲塔の旋回は電動式となった。完全にではないというのは、電動式砲塔旋回装置の精度が不十分であり、大体の位置までこの装置で旋回させた後、砲手が手動で微調整を行なわねばならなかったのである――それでも労働量は大きく軽減されたと言えるだろう。繰り返すが、大量産が行なわれていたのは、こちらのタイプのほうである。

「――中隊2号車! 7号車! 右、手前の奴に食らわせろ!」

 ワイネルは、無線機で指示を飛ばした。

「八五ミリをだ!」

 前々中隊、そしてSU‐85時代のゴルシューノフのことが思い出された。自走砲を評価していたゴルシューノフはSU‐85の中隊に残り、ワイネルとは別れていた。風の便りでは、彼の中隊は着実に戦果をあげているようだったが――‥‥八五ミリ砲搭載のこのT‐34‐85の配備により、SU‐85の存在意義は薄れ、新たに一〇〇ミリ砲搭載のSU(スー)‐100が開発されていた。‥‥それまで陸軍には一〇〇ミリ砲は存在しなかったのであるが、海軍用のB‐34一〇〇ミリ砲の砲弾の生産が行なわれており、新型砲D‐10Sが開発・搭載されることになった。このD‐10Sは砲尾が大きく、乗員の作業スペースを確保するため、戦闘室の形状は改良が加えられた。また前面装甲は、四五ミリから七五ミリへと大幅に増厚された。SU‐100は俯角がさらに落ち、たった二度しか取れなかったため、防御戦では穴を掘って配置し、それぞれの車輌に射撃地域を綿密に割り当てる戦法を採用していた。やはり戦車とは異質の兵器であり、異なる運用が求められたのであった。しかし自走砲は、戦車よりも構造が単純な分、より大きく強力な砲を搭載することができた。噂では、SU‐122、またSU‐152の性能に不満足な軍は、新型の重戦車のシャーシを転用した、より実戦向きの自走砲を開発・配備しつつあるという。新型の重戦車、それは――‥‥。

「やった! 虎をやったぞ!」

 装填手が叫んだ。狭い車内から、歓喜の声が次々と湧き起こった。

「スターリン元帥っ、万歳!」

 若い前方銃手が叫んだ。だがユーリ・ワイネルは、冷静だった。

(俺たちの勝利じゃない‥‥)

 彼はハッチを開け、外に半身を乗り出した。冷たい雨が、彼を打った。彼にはわかっていたのだ。このT‐34‐85の砲撃では、この距離、この角度から、あの虎を殺れはしない。八五ミリ砲では――。

 やがて‥‥。森の泥濘を蹴散らしつつ、信じ難いほどの巨大な砲塔を持つ鈍色の友軍戦車が一輌、姿を現した。A‐19一二二ミリ加農砲。ティーガーを殺ったのは、こいつの徹甲弾なのだ。新型重戦車IS(イーエス)‐2。見上げるような巨大な主砲を、このT‐34‐85と同じように旋回可能な砲塔に備えた重戦車は、頭文字を取り、こう呼ばれていた。

 ――ヨシフ・スターリン(Iosif Stalin)‥‥。

(まったく、だ‥‥)

 ユーリ・ワイネルは、醒めていた。

(「スターリン、万歳!」、だな)

 アドルフ・ヒトラーの千年王国、ドイツ第三帝国は、西に没しかけていた。だが‥‥。ユーリ・ワイネルは、三十年代のT‐35部隊の時代を思い出していた。戦車長の奥さんと、ブニコフを部隊から外してくださいと頼むたびに戦車長が引き合いに出していた戦車長の舅にあたる年かさの党員が、孫娘を連れて部隊に遊びに来たものだ。数年前のことだが、ワイネルにはそれは、はるか遠い昔の出来事のように感じられた。あのでかいT‐35をバックに、皆で写真を撮ったな‥‥。大きなあの写真の裏に、皆で名前を書いた‥‥。戦車長が逮捕された際のNKVDの捜索では、あれは出てこなかった。どこへ行ったのだろう‥‥?

 ――あれから、あまりにも多くのことがあった。ありすぎた――‥‥。

 解放されたキエフでも、多くの旧友・旧識に会うことはかなわなかった。ある者は亡くなり、ある者は疎開していた。「マリーヤ」女史は後者だった‥‥。

 ――彼の車輌の脇を、地雷処理戦車PT(ペーテー)‐34が通り過ぎた。T‐34の車体前面に大きなマイン・ローラーを取り付ける改造を施したもので、先の夏季攻勢から前線で大量運用されるようになっていた。歩兵の待遇は、少しはましになっただろうか――。

 何故かはわからないが、不意に、ブニコフの力説が思い出された。

「旨い物は後にとっておいてそうでないものから先に食したほうがいい、なんて罪作りなこと、一体どこの誰が言い出したかは知らないが」

 普段はだれているアレクセイ・ブニコフの瞳に、そのときばかりは力強い光が点ったものだった。

「貧乏性だって? 俺に言わせれば、そいつのほうが文化的不能だよ。俺は世の中ではだめな奴だが、これだけは信念をもって言える。――旨い物はな、真っ先に食ってこそ最高に旨いんだ」

 SU‐85の生産は、すでに打ち切られていた。しかし――先のSU‐100であるが、その一発の威力は申し分なかったが、大きくなった砲弾のために、車内への搭載数はSU‐85の四八発から三四発へと大きく減っていた。またD‐10Sは、同車をヘビーノーズ気味にさせていた。そして、この新型砲それ自体と弾薬の生産が遅れていた。これら諸事情から、SU‐100の強化された新型戦闘室にD‐5S八五ミリ砲を備えたSU‐85Mが、引き続き生産されていた。

 ユーリ・ワイネルは、自車の車内を覗いた。そして、まだ無邪気に勝利を喜び、興奮気味に彼のほうを振り返っている前方銃手イヴァン・ノヴォセロフの()を見返した。

 イヴァン・I・ノヴォセロフ。この春、SU‐85中隊の時期から彼の部下になったまだ若い兵士であり、ワイネルと共にこのT‐34‐85の中隊に移ってきたひとりだった。以前の暫定生産型T‐34‐85に乗ったとき以来、ワイネル車の前方銃手を務めていた。――ワイネルが知る由もなかったが、一九四一年の革命記念日、モスクワで兵士たちの行進を見送っていた、あの少年であった。

 この戦闘の後、ワイネルは自車の砲手を部隊に新たに増備されたT‐34‐85の戦車長にし、ノヴォセロフを自車の砲手にしていた。彼とてこの夏の攻勢作戦を体験しており、頃合いだという言い訳は可能だろうと判断した。無論、人員を入れ替え、彼ら自身と部隊とを鍛え上げるという目的もあったが‥‥。若いノヴォセロフは、戦車を戦車たらしめている主兵器、主砲を撃てることになったことに感激し、ワイネルに礼を言った。

「楽じゃないぞ。おまえがちゃんとした仕事をしなけりゃ、この戦車の存在意義がなくなるんだ」

「わかってますって! イヴァン・ノヴォセロフ、務めてみせます!」

 嬉しさを顔いっぱいに浮かべて敬礼するノヴォセロフの素直さに、ワイネルは、配置転換の個人的な理由を口にすることはできなかった。彼は、まだあどけなさの残るこの若い兵士を、できるだけ近くに置いておきたかったのだ。守ってやるために。

 左頬の傷が、疼いた‥‥。他の兵士たちに対しては、この内密の贔屓のことですまない気持ちでいっぱいになり、それがいっそうワイネルを勇戦に駆り立てた。

 ――兵士たちは、よく歌を歌い、奏でた。各々の故郷の民謡であることも多かったが、特にノヴォセロフのような若い兵士ほど、軍歌を好む傾向があった。なかでもイヴァン・ノヴォセロフが一番好きなのが、一九四一年の首都防衛に際してつくられたという、その名も「モスクワ防衛軍の歌」であった。


  鋼と固く隊伍を組みてわれらは戦いへ赴く。

  母なる都モスクワ(マスクヴァー)よ、猛くもわれら敵を阻まん。


 彼は後方におり、この戦いそのものを直接は知らない。敵とともに、どれだけの赤軍将兵が犠牲になったのかも‥‥。ただ、この歌の勇ましい節回しと歌詞がお気に入りだった。


  われらは首都のため戦に臨む。モスクワは愛する故郷ぞ。

  不壊の防壁、鋼鉄の護りとなりてわれらは敵を撃ち砕かん。


 何か歌おう、と部隊の誰かが提案すると、彼は決まってこの歌を希望した。自ら音頭を取って歌い始めることもあった。


  命令一下戦列は整い、部隊は大地を揺るがし進む。

  われらの後ろには愛しき工場とクレムリンの赤い星。


 しかし、ノヴォセロフのこのお気に入り、その歌声を聴くと、ゾーヤは顔を歪め、「いやな歌だ」と、吐き捨てるようにつぶやくのだった。

「耳につく‥‥」

 以前のロシアは、豊かな調べで満たされていた。このソビエト連邦に組み入れられた、ロシア以外の多くの国々もそうだ。それらの調べは、近代西欧的な尺度では洗練されてこそおらず、おっとりとしたものが多かったが、その土地に深く根づいたメロディーであった。しかし、この戦乱が始まってからというもの、耳にするのは、テンポの速い、勇ましい軍歌ばかりであった。極めつけがこの歌であった。勇壮な歌詞とメロディーも、ゾーヤ曰く、「無理やりひとを動かそうとする‥‥」ということであった。彼女には、異様な歌に聴こえるのである。

「それだけ、今回のドイツの侵攻が、今までのとは違うってことじゃないの?」

 フェアリーが鋭く指摘する。

「‥‥‥‥」

 ゾーヤは黙り込むのであった。

 この年、新国歌も完成し、盛んに演奏されていた。通称、「祖国はわれらのために」。国歌の座を追われた「インターナショナル」は、共産党の党歌となった。


  自由なる諸共和国の揺るぎない同盟(サユース)は、

  偉大なるルーシ(ロシア)によって永遠に結びつけられた。


 一番の歌い出しから、意味深長な歌詞であった。大ロシア主義を疎み嫌ったレーニンが聴いたら、何と言っただろうか。


  人民の意志によって建設された団結した

  力強きソビエトの(サヴィェーツ)同盟(連邦)(キイ・サユース)、万歳!


 それはまさしく、スターリン国家の捏造(ねつぞう)された叙事詩であった。二番もまた、この国家の恐怖の側面を覆い隠す。


  雷雨を貫いて自由の太陽はわれらに輝き、

  偉大なるレーニンは往く手を照らした。

  スターリンはわれらを指導した、人民への忠誠を‥‥


 トロツキー、また名前を借用されたレーニンは言うに及ばず、スターリンのかつての同僚たちは、嘆き悲しむか噴き出すかのどちらかに二分されたであろう。イヴァンたちの歌声はつづいた。


  (たた)えられて在れ、

  自由なるわれらの祖国よ民族栄光の頼もしき砦よ!

  ソビエトの旗よ、人民の旗よ勝利から勝利へと導き給え!


 歌は、三番、コーラスを経て終わった。

 この新国歌にも顕著な大ロシア主義は、この戦争において、政府、スターリンによって、大きく称揚された。大ロシア主義、それはしばしば排外主義を伴う、危険なものである‥‥。


 V2であるが、総統の感激だけでは、彼らの敗勢を覆すことはできなかった。むしろ、イギリス人に心理的脅威を与え、また驚異的な兵器であったことは、かえって彼らの発射基地制圧の意志を高めさせた。連合軍の攻撃により、V2はその能力を失っていった。このV2の生産にあてられた労働力は、強制収容所の収容者たちのものである。過労による死亡者数、また警備員の手によって殺害された人数は、およそ一万名にものぼった。これは、実際の攻撃による被害者数をはるかにしのぐことになった――多くは、フランスと赤軍の戦争捕虜であった。

 ソビエト連邦地域や東欧諸地域と同様、西欧――おもにフランス――においても、ナチス・ドイツの支配に対し、レジスタンスという抵抗運動が行なわれていた。ただし、こちらは地形の関係もあり、大規模な破壊工作活動はしにくかった。それでも一九四三年以降、北アフリカを失ったことによる傀儡政権へのドイツ当局の締めつけの強化により、このレジスタンス運動はより活発さを見せていた。

 スカンディナヴィア半島、そして北海をめぐる海の戦いにも、決着がつけられようとしていた。すでに前年一二月、「シャルンホルスト」はノルウェーの北部海域において英海軍と交戦、撃沈されていた(北岬沖海戦)。同型艦「グナイゼナウ」はすでに一度大破、その後、先のバレンツ海海戦の敗北によるヒトラーの命令により廃艦に追い込まれていた。そしてこの年、一九四四年一一月、巨大戦艦「ティルピッツ」は、やはりノルウェーのトロムソ・フィヨルドにおいて英空軍の爆撃を受け大破、一千名以上の乗組員とともに転覆してしまった。救助隊は、船体に開けた穴から、かろうじて上部に逃れたおよそ八十名の乗組員を助けられただけであった。


  ドイツよ、すべてに冠たる、世界に冠たるわがドイツよ!


 艦内から、閉じ込められた者たちの歌声が聞こえてきた。それはドイツの国歌であった。

 救助隊の水兵たちは、耳を覆い男泣きに泣いた。彼らには、どうしてやることもできなかった。浸水が進んだ。悲痛な歌声は次第にか細くなり、やがて消えていった‥‥。

 ――「プリンツ・オイゲン」は、バルト海に戻っていたが、この一〇月、「ライプツィヒ」の艦橋と煙突の間に艦首を突っ込んでその竜骨(キール)まで切断するという大事故を引き起こしていた。自らも艦首が捻じ曲がってしまい、また「ライプツィヒ」を行動不能に追い込んでいた。


 アレクセイ・ブニコフは、ドイツ軍指揮下のロシア人部隊に入ることができていた。これは非常な幸運だった。なぜなら、赤軍捕虜はまともな扱いをされず、次々と死んでいったのだから。「ジュネーブ条約」なるものがあり、祖国がそれに加盟していないことは、こちら側に来てから知った。アレクセイは、他のこのロシア人部隊の兵士たちとともに、フランスでレジスタンスの掃討に従事させられていた。

 最初は、まるで天国のようだと思った。見る物すべてが新しく、人々の暮らしは豊かで、季候は暖かかった。彼はうまい物を食べ、ジュランソンのワインも飲んだ。アレクセイは一度だけ、グルジアワインも飲んだことがある。あちらのほうがうまいと思ったが、そのためだけにスターリン(とNKVDと赤軍)のもとに戻る気にはならなかった。何より、粛清の恐怖に怯えずに済むことが、しみじみ嬉しかった。彼の成績、つまりレジスタンス狩りは――ロシアにいたときと同様――まったく振るわず、ドイツ人の指揮官を嘆かせた。レジスタンスたちは、ゲシュタポと呼ばれる秘密警察やSD――共にRSHA下の組織――(やアレクセイたち)の目をかいくぐり、時には勇敢に闘った。この部隊に回される前にドイツ軍の将校が話していたこととは、事情が少し違っていた。フランス人の娼婦も抱いた。何回かあったその機会の翌朝、やはり一度だけ、特別にBMW・R75のサイドカーに乗らせてもらい、街中を風を切って流しもした。最高の気分だった。

 しかし、そのうちに、彼は気がつき始めた。自分は結局、スターリンに代わり、ヒトラーの権威をかさにきているだけの、豚野郎なのだ。女たちの目つきが、それを物語っていた。そして、自分はロシア人なのだ。祖国から遠くはなれた土地で、今さらながら彼は痛感した。イヴァン・コズロフのことが思い出された。そうこうするうちに、西側諸国の連合軍がフランスはノルマンディーの海岸に上陸した。彼は仲間たちとドイツに戻された。冬が来た。ドイツ政府はベルリン放送等を通じていいニュースを流していたが、戦局が悪化していることは、アレクセイも仲間たちも察した。こういうのは慣れていたのだ。そして、彼らの移籍の話が起きていた。彼ら「東方部隊」は、ロシア人の司令官のもと親衛隊所属(!)となり、東部戦線で赤軍と戦うことになるという話だった。

 奮い立つ者もいた。ついに、スターリン(とベリヤとNKVDとスメルシと赤軍)と闘えるときが来たのだ――正規の戦闘部隊で、という意味である。前線における赤軍捕虜による戦闘への参加は、すでに行なわれていた。怯える者もいた。スターリン(とアバクーモフとスメルシ)は、彼らを許さないだろう‥‥。アレクセイのなかには、どちらの感情もあった。しかし彼にはまた、フランスでもドイツでも、言えなかったことがあった。ユダヤ人のことだ。

 アレクセイは、上官イヴァン・コズロフのアパートメントに招かれたことがあった。そのときそこには、奥さんとひとり息子、そしてその奥さんの年とった父親がいた。その父親――イヴァン・コズロフの舅は、グリゴリー・シュティッヒという党員で、なぜかアレクセイのことを気に入り、イヴァン・コズロフに、よく面倒を見るように、それが党員の務めだ、と諭してくれた。それからほどなくして、そのシュティッヒから手紙が来た。孫の誕生日のパーティーを開くので、よかったら来てくれないか、というものであった。

 行ってみた誕生パーティーは、アレクセイが初めて体験する、異文化の香りがした。党員である父親はあまりユダヤ教式のムードを歓迎していないようだったが、イヴァン・コズロフの義兄にあたる人物がそうしたがっているようだった。イヴァン・コズロフの姑にあたる――ロシア人の――その老党員の後妻も、むしろそれを望んでいるようだった。孫というのは、その義兄にあたる人物の、娘であった。レア――レア・シュティッヒ――短めの黒髪の、可愛い娘だった。アレクセイは、一目惚れしてしまった。

 しかし、理由をつけ二度、三度、四度‥‥とそのアパートメントを訪れるうち、彼を微妙な気配が迎えるようになった。義兄とその父親で、将来についての重大な意見の違いがあるようであった。義兄は、一家で「パレスチナ」という土地へ引っ越そうと言っていた。父親は、自分はここに残る、と言っていた。その一家には、アレクセイには立ち入れない領域があるようだった。ほどなくしてアレクセイは、その義兄一家が――つまりレア・シュティッヒも――引っ越していったことを知った。行き先はイヴァン・コズロフさえ知らなかったが、アレクセイはわかる気がした。

(きっと、「パレスチナ」だ――)

 レアは、オリーブの葉で美しく彩られた絵皿を見せてくれた。そこがどんなところか、地球上のどこにあるのかさえ当時のアレクセイは知らなかったが、美しい、平和な土地に違いない、と思った。アレクセイは、レア――レア・シュティッヒの幸運を祈った。そうこうするうちに、赤軍に対する粛清が始まった。あの恐ろしい日々、そしてイヴァン・コズロフが逮捕され、ユーリ・ワイネルが頬に傷を負ったあの夜が‥‥。

 アレクセイはただ恐ろしくて、NKVDにイヴァン・コズロフの告白を正直に話した。彼は放免されたが、ワイネルと衝突した。戦車長を失った彼らは、およそ半数が別の部隊への転属命令を受け、ワイネルはそのまま部隊に残り何故か昇進までしたが、アレクセイは降格のうえ戦車兵としての資質が疑問視されて、新しい転属先――歩兵――に移らされたのだった。同じ時期に彼は、老党員グリゴリー・シュティッヒが、別ルートからの容疑でNKVDに逮捕されたことを知ったのだった‥‥。

 ――フランス人もドイツ人も何も語らなかったが、アレクセイには察しがついた。この、一見豊かな土地でも、同じようなことが行なわれたのだ。街にも村にもユダヤ人がいない――たまに隠れ家を発見されては、SDに逮捕されていた。SDは、彼らをどこかへ連行していった。最近では、裁判にかけることもなく、何のかんのと理由をつけ、その場で射殺することもあった。子ども――ほんの幼い子ども――であっても、彼らは容赦しなかった。アレクセイはやっと悟った。ここも同じなのだ‥‥。

 年の暮れ、アレクセイと仲間たちに、国防軍や親衛隊のお古の制服が配られた。制服はまちまちであったが、アレクセイに配られたものには、SDの髑髏の襟章がついていた。

(レア‥‥)

 カチカチ、と髑髏の襟章に人差し指の爪を当てながら、アレクセイは想った。

(俺はきっと、馬鹿なんだろう‥‥)

 のろのろと袖を通しながら、アレクセイはひとりごちた。しかし、馬鹿には馬鹿なりに、考えること、やるべきことがあるように思えた。

 何をなすべきか。――どこかで聞いたような、気がした。


 一九四五年、また新たな年が明けた。おそらく、戦争はもう長くないであろう。勝利は赤軍のものだ。だが‥‥。

 ‥‥その日も、朝から雨であった。大隊長から司令部へ出頭せよと言われたときから、ユーリ・ワイネルは、いやな予感がしていた。拳銃を預けろと命ぜられたときは、なおさらであった。部屋に入ると、将校の間から四人、そして背後の扉から四人、計八人のスメルシ隊員が出てきて、彼の前後を取り囲んだ。そして彼は、こう告げられた。

「貴官は逮捕されました」

 ――こうして、ユーリ・ワイネルの戦歴は、唐突に幕を閉じることになった。ドイツ軍との死闘の末にではなく、味方の、ソビエト連邦の機関の手によって。それは、一月末、折しもクラクフをドイツによる占領から解放した、数日後のことであった。


 東方占領地域からのドイツ人の脱出が始まっていた。ロシア人に捕まれば、男は殺され、女は犯される――恐怖にとらわれた人々は、われ先に西へと急いだ。旅客船「ヴィルヘルム・グストロフ」の悲劇は、そのような情勢下で起こった。一月三〇日、(オスト)プロイセンから避難しようとしていた民間人、傷病兵一万六百人近くを乗せてゴーテンハーフェン(グディニャ)から出発したこの船に、ソビエト潜水艦S‐13が魚雷攻撃をかけた。乗客は九千人ちかくが民間人で、大半が女性と子どもであった。救命用具は、本来の乗客数の五倍以上のこの乗客の、半数にも満たなかった。この日の水温はマイナス一〇度からマイナス一六度――氷の漂うバルト海に、人々は投げ出された。犠牲者は九三四三人。大半が民間人で、また半数以上が子どもであった。これは、史上最大の海難事故といわれている。

 二月四日から一一日にかけて、クリミア半島はヤルタに、連合国の首脳が集まった。アメリカからはフランクリン・ルーズベルト、イギリスからはウィンストン・チャーチル、そしてソビエト連邦からはヨシフ・スターリンが出席し、見えつつあった勝利の後の未来について会談を行なった。


「突撃! 突撃! 突撃!」

 無線機を通して、うるさいほどの通信が耳に入ってきた。

魔剣(サモショーク)1より全車へ、聞いての通りである。サモショーク2、3は本車と共に右に回れ。サモショーク4、5、6は左から。7、8、9は――」

 中隊長車から、細かい指示が飛んだ。

「サモショーク2、了解」

「こちらサモショーク7‥‥」

 雑音だらけの無線機から、中隊の各車輌――T‐34‐85――からの通信が入った。イヴァン・ノヴォセロフも、中隊長に答えた。

「こちらサモショーク5、了解しました」

 ノヴォセロフは曹長に昇進、そして若くして臨時の戦車長になっていた。対戦車戦闘において、大きな戦功をあげたのである。車輌はそのまま前中隊長ユーリ・ワイネルから引き継ぎ、中隊長には別の車輌の戦車長がなっていた。装填手のドゥリャーギンは、自分の仕事にこだわりがあるらしく、その部署に留まった。彼は、ワイネル中隊長のSU‐85中隊においてもノヴォセロフよりも先輩の部下で、ノヴォセロフよりも経験豊富な兵士であった。彼の直言でワイネル中隊長が、それまで控えていたSU‐85でのティーガーとの対決を決心したと、部隊内では語られていた。黙々と自分の仕事をこなす彼に、ノヴォセロフは言えなかった。あの時期、装填手の仕事が嫌で嫌でたまらなかったこと、もっとかっこいい部署――操縦手や砲手――につきたい思いでいっぱいだったことを‥‥。

 ノヴォセロフが若くして臨時戦車長になれたのは、彼に取り立てて言うほどの戦車兵としての才があったというより、ワイネルが残したメモのお陰であった。スメルシはメモをすべて押収したが、戦闘に役立ちそうな一部のものは部隊に返却してくれていた。そのうちのひとつ、逮捕直前の彼が特に注目し図入りで詳細に記していたドイツ軍の戦法を、イヴァン・ノヴォセロフは折を見て中隊内で提案し、これが採用されたのだ。射撃ゾーンを、小隊ごとに例えば縦にA、B、Cと分け、さらにそれぞれを縦横のマス目のゾーンに細分し、これにも例えば1から9までのナンバーを振る。これで目標をわかりやすくし、例えば「Aの6」「Bの1から4に移動中」(の目標を狙え)というように、指示伝達を円滑にする。そして単一目標に対し、小隊の戦車ごとにその全火力を集中させた砲火を浴びせるのである‥‥。これが西側で「パックフロント」と呼ばれる、移動する戦車という目標に対する当時最新の戦法であることは、イヴァン・ノヴォセロフは知らない。そして、これをドイツ軍から学んだものであると誰かがスメルシに通報すれば、ノヴォセロフもまた逮捕されてしまうだろう。だからこの戦法も、他の多くの部隊と共同で作戦をこなすことが多くなった最近では、提案することはやめていた。それで戦果をあげられることがわかっていても‥‥。

 ユーリ・ワイネルの突然の逮捕は、中隊内に恐怖の釘を打ち込んでいた。みな口には出さないし、忘れようと務めていた。だが、その釘の赤錆が、見えない形で中隊を侵食していっていた。ノヴォセロフも、逮捕は真っ平御免であった。モスクワの母のことが思い出された。

 彼の父親は、小さいときにいなくなった。それから母親は、苦労して彼を育ててくれたのだが、父親のことはほとんど口にしなかった。父親が軍人であったことはイヴァンも知っていたが、当時は何が起きたのかわからなかった。母オリガは、ただ泣いていた‥‥。やがて、わかるようになった。父は逮捕されたのだ。軍人ではあったが、恥ずべき反対派であったのだ。イヴァンは、こんな家庭(いえ)は自分のところだけだろう、と惨めな思いを抱きながら成長した。いなくなったときよりもむしろ、いまになって父親を憎むようになっていた。目の前の装填手の家庭もまた同じようなものであることなど、夢にも思わなかった。実兄がエスエルに関わったという嫌疑で彼の父親が二十年代のうちに逮捕されており、その後母親は大変な苦労をして息子すなわちこのドゥリャーギンを育てたことなど‥‥。

 ――イヴァンは、父がいなくなってしばらく、イヴァン・シュティッヒと、母の姓を名乗ることになった。しかし学校では、ドイツ人の苗字だ、とからかわれた。もちろん、本当にドイツ人であったら、その学校にいられるはずがない。これには含意が込められているのだ。ロシアのユダヤ人は、ドイツ風の姓を持っていることが多いのである。そのたびに彼は、俺はロシア人だ、と言い張った。ほどなくして母は、いまの彼女の夫と再婚し、イヴァンは現在のイヴァン・ノヴォセロフになった。そうだ、俺はロシア人だ。

「やった! SU‐152(ズヴェロボーイ)が虎をやったぞ!」

 ノヴォセロフよりも後輩で年下の、砲手のアリゾフが叫んだ。狭い車内から、歓喜の声が次々と湧き起こった。友軍自走砲の一五二ミリ砲から発射された徹甲弾ないし徹甲榴弾が、敵ティーガー戦車を粉砕したのだ。自分たちの戦果ではないが、勝利は勝利だ。

「スターリン元帥っ、万歳!」

 アリゾフよりも後輩の、まだ新米もいいところの前方銃手セメントフが叫んだ。臨時戦車長イヴァン・ノヴォセロフ――イヴァン・シュティッヒ――イヴァン・コズロフも、唱和するように声を張り上げた。

「万歳! 万歳! 万歳!」

「いや、違う‥‥」

 やがて姿を現したのは、SU‐152ではなかった。急造された同自走砲とは異なり、同じ一五二ミリ加農榴弾砲を搭載し、IS(イーエス)系の車体を転用したより重装甲の新型自走砲、ISU(イースー)‐152‥‥。巨大な主砲と、異様にごついその基部が、印象的であった。エンジンの最大馬力は六〇〇馬力、装甲は、前面上部と下部で実に九〇ミリ、前面中部は六〇ミリだが、側面でも七五ミリを備えていた。かつての多砲塔重戦車T‐35の装甲は、基本三五ミリである。

 また最近、彼はいやな噂を聞いていた。ドイツ軍も、従来の戦車をはるかに凌駕する強力な新型戦車の配備を進めているというのだ。Ⅵ号戦車、その名も「ケーニッヒス・ティーガー」。すなわち王虎――‥‥。おそらくドイツの最新技術が結集された、信じ難いほど高い戦闘力を持つ戦車だという。パンターの発展型とも言われていたが‥‥一回りは大きく、その新型八八ミリ砲の有効射程はこのT‐34‐85の三倍ほどもあり、その装甲は従来のティーガーよりも大幅に増厚され、さらに傾斜装甲であり、このT‐34‐85の八五ミリ主砲をたやすく弾いてしまう‥‥。

(そんな化け物と――出会いたくない‥‥!)

と、ノヴォセロフは祈るような思いであった。戦車、自走砲は、この大戦を経て、驚くべき進化を遂げていた‥‥。

 彼のT‐34‐85は部隊の他の車輌、そしてISU‐152またIS‐2の部隊と共に、森の脇の雪道を、地響きを立てて進撃した。アドルフ・ヒトラーの千年王国、ドイツ第三帝国は、もう虫の息だった。「ロシアは」またも侵略者を打ち破ったのだ。だが‥‥。

 イヴァン・ノヴォセロフは、前中隊長ユーリ・ワイネルを思い出していた。中隊長こそ、イヴァンの心の父であった。彼は、どこへ連れて行かれたのだ?


 ハンス・ヴァルトマン中尉が、乗機であるジェット戦闘機メッサーシュミットMe262A‐1aでそれを目撃したのは、三月一八日のことであった。ドイツ北部はハンブルク郊外、カルテンキルヒェンの上空‥‥。彼は、一九二二年生まれである。ドイツ空軍(ルフトヴァッフェ)における最年少の騎士十字章(騎士鉄十字勲章)授章者のひとりであった。一九四〇年に同軍に入隊し、一九四二年八月、伍長として、東部戦線で名高い第五二戦闘航空団第二飛行隊第六中隊(6./JG52)に配属され、ソビエト連邦の空軍と戦ってきた。この年のうちに同軍機二〇機を撃墜し、若手の有望株として脚光を浴びた。おもにBf109Gグスタフを駆り、翌一九四三年八月までに計八四機を撃墜したが、九月にはフランスに出向した。そこでも米空軍のB‐17一機を撃墜し、一九四四年の二月五日、騎士十字章を受章した。その二月のうちに東部戦線に戻り、四月には計一〇〇機の撃墜記録を達成した。若くハンサムな彼は、「フェルキッシャー・ベオバハター」紙にも載り、「ダッケル((かも)猟師)」という愛称で親しまれ、女性からのラブレターも多かった。

 しかし戦況は、彼らにとり悪化する一方であった。六月、連合軍がノルマンディーに上陸した。6./JG52は改編され、彼もフランスに戻った。このときまでに、計一二五機撃墜を達成していた。西部戦線でも爆撃機を含む敵機(カモ)を撃墜しつづけたが、ソビエト連邦の同類より練度と性能で勝る西側諸国のカモを相手には、東部戦線のようには撃墜記録(スコア)は伸びなかった。それでも計一三二機に達していた。一二月、ヴァルトマンは、南部はアウクスブルク近郊、オーストリアとの境に近いラーガー=レヒフェルトに配置され、従来のレシプロ(プロペラ)機と異なりジェット推進によって飛行するこのまったく新しい戦闘機、メッサーシュミットMe262への転換訓練を受けながら、年を越した。一九四五年、彼が配属されたこの新型戦闘機で編成された第七戦闘航空団第Ⅰ飛行隊は、極北戦線の撃墜王(エース)として知られ、すでに二〇〇機撃墜の記録を持つ、より高位の騎士十字章である柏葉騎士十字章の授章者テーオドール・ヴァイセンベルガーに率いられ、活躍を開始した。

 しかし、戦況は彼らにとり、すでに絶望的なものとなりつつあった。新年の始まりとともに開始された大規模な反抗作戦――航空攻撃は戦果をあげはしたが、ルフトヴァッフェの力もまた大きく消耗させていた。二月二二日、ヴァルトマンはMe262で初出撃、たちまち二機の米軍機――ノースアメリカンP‐51Dマスタング(ムスタング)をしとめていた。これにより、若年にもかかわらず柏葉騎士十字章の授章へ推薦されていた。

 ‥‥三月一八日、カルテンキルヒェンの天候はとても悪く、厚い雲が低く垂れ込めていた。滑走路の端が、霧にけむる状況であった。しかし、ヘルマン・ゲーリングは出撃を命じた。爆撃機一三〇〇機を含む(アメリカ)航空部隊による、ベルリン大空襲が予想されるのだという。悪天候を理由に出撃は見合わせたほうがよいとする歴戦のパイロットたちに、ヘルマン・ゲーリングは、「この腰ぬけどもが!」と電話口で怒鳴った。何処も軍隊勤めとは悲しいものだ。出撃は四機編隊(シュヴァルム)で行なわれるはずだったが、一機が出撃直前にジェット・エンジンのタービンの故障を起こし、離陸できなかった。

(――どうしろというんだ‥‥!)

 ヴァルトマンはひとりごちた。彼は、先の新年の反抗作戦が行なわれるまでは、自分の所属する組織を疑ったことはなかった――同作戦は、経験豊かなベテラン・パイロット、現場指揮官の多くが反対していたにも関わらず、強行されたのだった。国防軍の連中、また自分が属するルフトヴァッフェの経験豊かなベテラン・パイロットたちが口にする、ゲーリングへの批判が、ようやくわかるようになっていた。

(二千機だって‥‥?)

 今回予想されるという鴨の羽数――米軍機の総計である。ヴァルトマンにとっては、非現実的な数字であった。しかし、その大編隊の真っ只中に飛び込み、交戦することになるかもしれないのだ‥‥!

 ヴァルトマンは、昨年の一一月に会った、ある大尉――パイロット――の言葉を思い出していた。彼とその大尉が、ふたりきりになったある夜のことであった。大尉はモーゼル=ザール=ルーヴァーのワインを開け、Me262による初の戦闘機隊――世界最初のジェット戦闘機部隊――の指揮官であり、北西部のアハマー基地等に展開し活躍したが、総撃墜数二五八機にしてその月の八日に戦死してしまったエース、柏葉騎士十字章より高位の剣付柏葉騎士十字章、そしてそのさらに高位の、当時のドイツ空軍における最高位の勲章である宝剣付柏葉騎士十字章の授章者、ヴァルター・ノヴォトニー少佐の戦勲を語り、その死を嘆いた。

 しかしその後、大尉は急に、彼からすればずっと若いヴァルトマンに、自分が目にした歴史の話をしはじめたのだ。ヴァルトマンがまだほんの子どもだった頃の一九二九年の終わりごろから一九三二年の夏ごろまでの大不況のひどさ、その時期に総統(フューラー)(まだ国家のフューラーではなかったが)と国家社会主義ドイツ労働者党がどれほど力強く輝いて見えたか――つまり彼は投票したのだ――アウトバーンを初めて目にしたときの感動‥‥。ヴァルトマンは相槌を打っていたが、そんな話がなぜ突然始まるのか、よくわからなかった。

 その語り口には妙な響きがあった。また表情も、感動を語るにしては奇妙なものであった。大尉の目は確かに遠くを見ていたが、そこに喜びの光はなく、やがて表情は渋面へと取って代わられた。そして、憂国の嘆きがもれた。

「合理精神こそ、ドイツ文化の美点ではないのか‥‥! 部下の命を救うための合理的な判断をくだした人間を、敗北主義者だと? ゲッベルスめ‥‥!」

 僚機が降下に入った。ヴァルトマンも続き、低く垂れ込めた厚い雲のなかへ乗機を飛び込ませた。

(――なんだ?)

 高度八〇〇メートルから七五〇メートルの辺りであった。ヴァルトマンは、厚い雲のなかに、紫と黄にゆっくりと明滅する何かを見つけた。彼はそれを注視し、驚愕した。

(――すぐ近くだ!)

 そう、それは、彼の機体の風防(キャノピー)のすぐ斜め上を、Me262と同じ速度で飛んでいた。

(ロケット弾? いや、あんな色には――)

 ヴァルトマンを、さらなる驚愕が襲った。とても小さいその物体は、人の姿に似ていた。ただ、違う点は――小さな――羽が見え、そして紫と黄にゆっくりと明滅していることだった‥‥。彼を、恐怖と懐かしさが入りまじった感情が襲った。

(グラーフ大尉、いや、ハルトマン中尉――?)

 東部戦線にいた頃、部隊のパイロットの誰かが言っていたことを思い出した。――戦場を舞う、紫と黄に明滅する妖精‥‥。国防軍やヴァッフェンSSの将兵の間でも、ひそかに噂されていると聞く。ときには幸運の使者であり、ときには――。

 噂の噂だが、クルスク戦でそれを目撃することになった国防軍の戦車兵の話では、通常の物理法則など、それの前ではまったく通用しないのだという。

「‥‥必ずしもイワンの味方だとは限らないようだが、少なくとも俺たちの味方じゃないようだ。俺は祈ったよ。しかし祈っても無駄な場合もあるそうだ。神の御使いだとしたら、旧約のほうだな――おっと、これはまずいか」

 不意に(ヴァルトマン)は、自分でも何故かはわからなかったが、それを目に映したのは、その戦車兵やかつての部隊のパイロットたちだけでなく、スターリングラードの疲労困憊した兵士たちや、幻惑(ダズル)迷彩の「ティルピッツ」の乗組員たち――甲板上で水兵が、自分たちを狙う英爆撃機(ランカスター)のさらに上空にこちらを発見していた――もであったことを理解した。イギリス人の姿もあった。商船の甲板で海面を睨む船員のひとりが、こちらを指さし何か叫んでいる。ここは‥‥北海‥‥。PQ17船団、か‥‥。――バルト海‥‥。悲鳴を上げて海に投げ出される女子供たち――水兵ではなく、船員ですらない‥‥。「ヴィルヘルム・グストロフ」か‥‥――(むご)すぎる。

 ――これは、何だ‥‥? ――収容所? わがほうの‥‥。社会秩序に反する者を労働で正す更生施設‥‥。だが、あの大きな煙突は何だ? あんな煙突が必要な工場を収容所内に置くのは、保安上危ないのでは――。‥‥では、何を焼いているんだ? あの煙の臭いは――‥‥。

 ヴァルトマンの両眼が、大きく見開かれた。

「――――――!」

 彼は錯乱し、気がつくと無線機にありったけの声で喚いていた。

 過呼吸の状態をなんとか整え‥‥――やがて、彼がすべてを理解したとき、その視界に、ゆっくりと別の物体――大きな――が入った。正面やや上方――。――僚機、別のMe262であった‥‥。尾部、そして胴体と、エンジン・ナセルを吊り下げた主翼‥‥。自らも乗るこの機体の優美さは世界一のものだと、彼はあらためて思った。だが‥‥。

(われわれは、未来を手に入れた――)

 彼の頭のなかでは、先の大尉の嘆きのつづきが、木霊していた。

(――はずだった‥‥)

 妖精が、ヴァルトマンの視界から一瞬にして飛び去った。

 ‥‥この日、一九四五年三月一八日、ドイツ空軍の若きエース、ハンス・ヴァルトマン中尉は、乗機Me262A‐1a「黄の3」で僚機と空中衝突を起こした。二機は墜落し、衝突されたほうのパイロットは生還したが、ヴァルトマン中尉はかなり離れた場所で発見された。安らかな表情をしていたが、その頭頂部は砕けて剥き出しになっていた。米軍のP‐51に撃墜され脱出したもののパラシュート降下中に銃撃され戦死したもう一名とともに、正式な軍葬の礼をもって埋葬された。


 四月一二日、アメリカのルーズベルトが亡くなった。脳卒中による死であったが、スターリンは駐ソ大使から聞かされた時、大きなショックを受け、大使の手を強くつかみ、しばらく離さなかったという。ヨシフ・スターリンは、自分の国の基準からして、てっきり彼が暗殺されたものと思い込んだのであった。

 ベニート・ムッソリーニは、中立国であるスイスに向かう途中、パルチザンに捕まり、銃殺された。四月二八日であった。彼の遺体は、同行していた男女たちの遺体とともにミラノのロレート広場において逆さ釣りにされ、見世物にされた。この事実は、ヒトラーに強い衝撃を与えた。また、日本帝国で首相、陸相、参謀総長を兼務していた東條英機(東条英機)にもショックを与えていた。勝ちがほぼ確定していたとはいえ、同じ独裁者であったスターリン、またベリヤがどう思ったかは、明らかではない‥‥。


 三〇日、ナチス・ドイツの総統アドルフ・ヒトラーは自殺した。彼の遺言により首相に就任したヨーゼフ・ゲッベルスも、翌五月一日、六人の幼い子どもたちに青酸カリを与えて殺害した後、夫人マグダ・ゲッベルスと共にヒトラーのもとへ行った。またこの遺言によりデーニッツが後継者に指名され、その夜、ヒトラーの死とともにこのことがラジオで流され、デーニッツもその旨の演説を行なった。二日早朝、最後のベルリン防衛軍司令官が、第8親衛軍司令官チュイコフ大将に降伏を申し入れて来た。ワシーリー・チュイコフはこれを受け入れ、ベルリンの戦いは終わった。民間人女性およそ一〇万人が赤軍将兵により強姦され、うち一割が性病に罹り、またやはり一割が亡くなった。これはベルリンだけでなく、赤軍に占領されたドイツ各地で起こったことであった。ベルリン中心部にある国会議事堂(ライヒスターク)に、赤軍兵士の手により釜とハンマーの赤旗が掲げられた。


 ドイツ水上艦隊も、最期の日々を迎えていた。連合軍のノルマンディー上陸作戦には有効な手を打てず、先の通り、旅客船「ヴィルヘルム・グストロフ」も守れなかった。制空権、制海権は、すでに連合軍側のものであった。三月三〇日、「ケルン」が北海に面したドイツの港湾都市ヴィルヘルムスハーフェンで、米航空部隊の爆撃により大破、着底。四月九日に「アドミラル・シェーア」が、一六日には「リュッツォウ」が、英空軍の爆撃により、それぞれキール軍港のドック内で転覆、バルト海沿岸の港湾都市スヴィネミュンデ(シフィノウイシチェ)で損傷、着底していた。「アドミラル・ヒッパー」は、五月三日の空襲でやはりキール軍港のドック内で損傷、着底。「プリンツ・オイゲン」は前述の事故後修理されており、何とか生き残った。「ライプツィヒ」も修理を受け、避難民の移送や事実上の移動砲台として活動した。他には「ニュルンベルク」と駆逐艦十数隻だけが、海上に浮いていた‥‥。前述の「ビスマルク」の戦いも含め、このドイツ水上艦隊の物語もまた、別の機会に語られるべきものであろう。

 赤軍捕虜により編成された親衛隊所属の「東方部隊」あらため「ロシア解放軍」は、ロシア人司令官アンドレイ・ウラソフのもと、およそ五万名の兵力を有していた(装備や練度はともかく、この時期における軍事的な数字としては悪くない)。制服の左袖と、聖アンドレイ軍旗の地に「ロシア解放軍」を示す略称の三文字、白と青と赤の縁どりの盾の腕章が、彼らの印であった。この「ロシア解放軍」、俗称「ウラソフ軍団」は、およそ二万名の第一師団が三月に出動命令を受けていたが、混乱のさなか、ドイツ国防軍の指揮下にないことを理由に、命令をなかなか遂行しようとしなかった。四月にチェコスロバキアに入ったが、すでに西側連合軍と赤軍がプラハに向けて軍を進めていた。ナチス・ドイツに対する武装蜂起を準備していたチェコのレジスタンスは、この情勢を知らなかった。そして、この第一師団に支援を要請した。彼らは、二度目の態度変更を行なった。このチェコ・レジスタンスの側に立って、親衛隊(SS)と交戦状態に入ったのである。五月七日、連合軍の到着前に、レジスタンスと彼らの手でプラハは解放された。

 ドイツ代表と連合国軍司令長官ドワイト・D・アイゼンハワー将軍が、ドイツの無条件降伏文書に調印した。中央ヨーロッパ時間で五月八日二三時過ぎにはすべての戦闘を中止せよ、という命令が出された。これとは別個に、五月八日、ベルリンに置かれた赤軍司令部で、ゲオルギー・ジューコフとドイツ代表が降伏文書に調印した。モスクワ夏時間で、五月九日未明のことである。欧州戦線は、これで終結した。

 ドイツ占領下、またドイツ国内の収容所が次々と解放されていた。親衛隊によって管理と運営がなされていたこれらの収容所のなかには、労働のための収容所(キャンプ)ではなく、「ガス室」が設置されるなど、収容者の殺害を主目的とした絶滅収容所と呼ばれるものもあった。また、絶滅収容所でなくてもガス室が設置されていた収容所もあった。これらの存在が明るみに出たことは、欧米の人々を、次いで世界の人々を、大いに驚愕させ、その心胆を寒からしめた。

 降伏直前に彼らの党から除名されていたゲーリングは、アメリカ軍に身柄を拘束された。ハインリヒ・ヒムラーは、スウェーデン赤十字社のフォルケ・ベルナドッテ伯爵を通して、またアイゼンハワーに会って米英とは講和しようとしていたが、ヒトラーにより逮捕命令が出され、変装して逃亡中の五月二二日にイギリス軍によって身柄を拘束、翌日自殺した。同日、フレンスブルクに置かれていた臨時政府のカール・デーニッツも拘束された。


 ‥‥ドイツの侵攻から四年目にあたる六月二二日から、モスクワにおいて対独戦勝記念式典が行なわれた。礼装の仕立て屋は大忙しとなった。クライマックスは、二四日の赤の広場におけるパレードとその後のある儀式であった。ここで馬上より将兵を閲兵するのは、本来は最高指揮官であるスターリンの役割であった。しかし、スターリンは練習中に馬から振り落とされてしまい、この栄誉ある役はジューコフに譲られた。また、この戦勝パレードの行進には、ある制限が設けられた。見映えが考慮され、男性兵士は一七二センチ以上の身長がないと、参加できないことになったのである。身長差で戦争の勝敗が決まるのだろうか‥‥? これは、ジューコフが止めさせた。そして二四日、ラッパが吹き鳴らされるなか、ふたりのソビエト連邦元帥が馬上から勝利記念の閲兵を行なった。コンスタンチン・ロコソフスキーが黒馬に、そしてゲオルギー・ジューコフが見事な白馬に騎乗して現れた。大祖国戦争の功労者が赤軍であることが、誰の目にも明らかであった。

 ふたりの元帥の閲兵が終わると、五月一日にベルリンの国会議事堂に赤旗を掲揚したつづきの儀式が執り行なわれた。二百旗ほどのヒトラーの軍隊の旗が、ウラジーミル・レーニンが眠る廟のもとに、大歓声とともに次々と積み上げられたのだ。――ソビエト連邦は、ドイツ第三帝国に勝利したのである‥‥。


 七月なかばから、ドイツはベルリン郊外のポツダムに、アメリカ、イギリス、そしてソビエト連邦の首脳が集まった。ポツダム会談である。先のヤルタ会談につづいて欧州の戦後処理と、日本帝国の処遇が話し合われた。ソビエト連邦からは、もちろんスターリンが、そしてベリヤも参加した。モロトフ等に較べ、ラヴレンチー・ベリヤはまだまだ西側諸国にとって、未知の男であった。ベリヤはこの会談に先立つ七月九日、栄えあるソビエト連邦元帥となっていた。軍人、軍関係者でもないのに、元帥――? ヨシフ・スターリンは興味津々の米英首脳たちに、ラヴレンチー・ベリヤを紹介することにした。彼ら個人の関心事ではない――無論その面もあろうが‥‥。

 この頃になるとスターリンは、彼らの国々の仕組みを理解するようになっていた。彼らが常に、周囲を飛び回るマスコミというハエに悩まされ、また国民からは説明責任という厄介な荷物を背負わされていることを‥‥。

(スターリンは、どれだけ偉大に存在になろうとも、学ぶ姿勢を忘れないのだ‥‥。マスコミや国民の好奇心を阻害しようものなら、彼らの国々ではどんな大物政治家であっても、まるでパンか、あのイタリアのピッツァの生地、あるいはボク()シュ()ウォ()スキ()・ミ()ショ()ークのように、袋叩きにされるのだ‥‥! これでもかこれでもかと‥‥。そうすればいい味が出るかと言わんばかりに――‥‥!) 

 ――気の毒な彼らに、わかりやすく簡潔に、この男の役割を教えてやる必要があるだろう。キャッチコピー‥‥そうだ、奴らの国々では、そういうものがありがたがられ、重宝されるのだ‥‥‥‥鷲鼻の下にたくわえられたジョセフおじさんの髭がむくむくと動き、満面の笑みがこぼれた――。

「うちのヒムラーですよ」

 これで伝わるだろう。国際政治の舞台では、繊細な配慮と豊かなサービス精神、そして抜群のセンスが必要とされるのだ‥‥!

 ――ちなみにスターリン自身は、ベリヤに先立つ六月二七日、新たに創設されたソビエト連邦大元帥となっていた。これは元帥のさらに高位にあたり、ヨシフ・スターリンただひとりのものであった。

 大元帥ともなれば、さすがに地味な身なりというわけにはいかない。人前に出る際、特に公の場では、肩章等で飾られた服装を選ぶことが多くなった。これを見て、それまでは異様な警戒心で抑制していた彼の本来の目立ちたがりの性格がついに漏れはじめた――隙ができた――ことに鋭く勘づきひそかにほくそ笑んだのが、彼に紹介してもらったラヴレンチー・ベリヤであった。


 八月‥‥。残る日本帝国にも、最期のときが来た。六日、アメリカ軍が史上初めて、日本帝国の都市に原子爆弾を投下、これを壊滅させた。八日、東方に部隊を移動させていたソビエト連邦は、日本帝国に宣戦を布告した。そして翌九日の午前零時、ドイツとの戦闘で鍛えあげられていた赤軍の大部隊を、彼らの勢力範囲である中国東北部に雪崩れ込ませた。同じ九日午前のうちに、アメリカ軍は二発目の原子爆弾を日本の別の都市に投下した。一五日、日本帝国は、ポツダムにおいて出された宣言を受諾、無条件降伏した。九月二日、彼らの降伏文書調印式が、米戦艦「ミズーリ」の甲板上で行なわれた。第二次世界大戦は、ここに終結を見た。


 この大戦争の惨禍は、あまりにも大きかった。世界中で、およそ六千二百万人の人々が命を落としたとされる。ソビエト連邦の人間も、おおよそ一千万人が命を落とした。この人数は、各国中ワースト一位である。戦場で約六六〇万人、ドイツ側の捕虜収容所でおよそ三六〇万人が死亡したとされる。


2013年10月2日、ルビの不備を修正しました。


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今回の作中で引用している歌詞には、著作権は発生していないと私は認識しています。

また、PDFでは一部のルビと一部の文字がうまく表示されないようです。「?号戦車」の「?」はローマ数字の「6」の誤表示で、「6号戦車」となります。PDFでない横書き版のほうを参照してください。どうもすみません。


次章『暗闘』。舞台は戦後の世界へと進みます。

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