1.死者と生者(1)
第二次世界大戦後半。
引き続き薀蓄が多いです。
《注意》いわゆるホラーではありませんが、残酷性のある叙述があります。苦手な方はご注意ください。
八月二三日、朝‥‥。
「‥‥‥‥」
紫灰色の毛なみの猫が、奇妙な声で鳴いた。その猫はひげと耳の感覚にしばらく集中しているようだったが、くるりと向きを変えると、一陣の風のように走り出し、旧い建物の物陰に消えていった。
――ゴオオオ‥‥。やがて、不気味な音が近づいてきた。爆音だ‥‥。
市民には、情報が伝えられていなかった。この日の朝、ドイツ空軍ののべ二千機からなる航空機が、総量一千トンにのぼる爆弾を投下する猛爆撃をスターリングラード市に加えた。つづけて、B軍集団による総攻撃。ヨシフ・スターリンの名を冠されたこの街は、一瞬にして地獄へと変わった。ソビエト側は、七月一二日にスターリングラード方面軍を編成していたが、司令官となったチモシェンコ元帥は第二次ハリコフ攻防戦での敗北をひきずっており異動、次の司令官も担当していたドン湾曲部の防衛戦での敗北のため更迭、三人目の司令官を迎えていた。
市内の防衛にあたるのは、第62軍。しかしその司令官は戦況に「悲観的」であるとされ更迭、かわって九月一二日、第64軍の司令官代理だったワシーリー・チュイコフ中将が同軍の新司令官に任命された。枢軸国側の先鋒は、やはり第二次ハリコフ攻防戦において大勝利をおさめたフリードリヒ・パウルス大将率いるドイツ第6軍。市内には、第62軍のほか、チモシェンコ元帥のもと退却してきた部隊がおり、再編成が進んでいた。また、おもにウクライナ方面から逃れてきた難民も多数いた。彼らはナチのやり方をよく知っており、市民にその恐ろしさを伝えた。エジョフシチナの恐ろしさは、無論彼らも覚えていた。そしてNKVDは、相も変わらず逮捕を続けている。――どっちがましか。その判断が必ずしもついたわけでもないが、連日の爆撃――彼らには初めての体験であった――からすると、なるほど秘密警察も(珍しく)本当のことを言っているように思えた。解放軍にしては、市民の人命を考えているとは到底思えない――ナチは、赤軍を破った後、彼らを奴隷にする心づもりなのだ。
実際、ヒトラーよりもわずかに早い入党者であるNSDAP党員にして、思想家でもあった東部占領地域大臣アルフレート・ローゼンベルクは、前年、ソビエト連邦の分割を柱とする計画を提示していた。それは、残るポーランドおよびベッサラビア地域はドイツに併合またはベルリンの直轄領となり、緩衝地帯として、北からムルマンスクやアルハンゲリスク、レニングラード(名称は変わるだろう)も含む「大フィンランド」、バルト沿岸諸国、「大白ロシア」、このスターリングラード(これも名称は変わるだろう)も含む「大ウクライナ」、「大カフカース」が設置され、そして「トルキスタン」「シベリア」「ウラル」等とともに独立させ、ドイツ第三帝国と緊密な連携を取るというものであった。
ロシア人は? 彼らが主人公となれる土地は、モスクワからヴォルクタまでの「モスクヴィ」という地域に限られるというのだ。「大フィンランド」から「ウラル」までの「独立諸国」は、「モスクワを囲む壁」であり、ロシア人の「モスクヴィ」はつまり、バルト海と黒海への通路を遮断されることになるというのである。
旧帝政ロシア領エストニア出身の、このバルト・ドイツ人の靴職人の子である東部占領地域大臣殿は、ロシアはともかくとして、フィンランドやウクライナ、また「カフカース」とひとくくりにされる地域のことを、一体どれだけわかっているのだろうか。前述の通り、マンネルヘイムはドイツ側のレニングラード攻撃の要請を断っており(レニングラードすなわちサンクトペテルブルクは都市として建設されて以来、フィンランド領となったことは一度もない)、スターリングラード旧くはツァリーツィンをウクライナ領に含めるのも、かなりの無理がある。彼の「大カフカース」と、ボリシェヴィキの「ザカフカース」は、どこがどう違うのだろう――逆も言える。この人物は早くから、ナチの機関紙「フェルキッシャー・ベオバハター」紙の編集責任者でもあった。憶測だが、「トルキスタン」「シベリア」「ウラル」構想に関しては、おそらくムスリムとの連携を考えていたのだろう。だがやはり、先のスルタンガリエフに象徴される同地の人々の歴史と希望、そして複雑さを理解していたとは思えない。
――解放軍? 辛酸を舐めてきた人々は、匂いに敏感になる――コムソモール団員による義勇兵につづき、スターリングラード市の住民による市民兵も防衛軍に参加することになった。ドイツ軍による二八日までの爆撃により、数万人の一般市民が犠牲となり、また同士の市街は、これでほとんど廃墟、瓦礫の山と化した。母なるヴォルガを行く船舶にも、軍民を問わない砲撃と航空攻撃が、遠慮なく加えられた。市街地への侵入は、まだ何とか防いでいた。
九月‥‥。ヒトラーはA軍集団の司令官まで更迭し、自ら直接指揮にあたることにした。一三日、ついに第6軍が、猛烈な砲爆撃のもと、ツァリーツァ渓谷から市街地南部地区へ侵入してきた。一九日の段階で、ソビエト連邦の指導者の多くは、スターリングラードで持ち応えることは困難と言い出した。しかし現場の第62軍は、侵略者とこれら指導者たちの見通しに、激しい抵抗を示した。赤軍兵士は、瓦礫の山に隠れて撃ち、移動し、また撃った。これが、技量と装備ではるかに勝るドイツ軍を苦しめた。ひとつの建物を奪い合い、ひとつの部屋を奪い合う、文字通りの「市街戦」が展開された。ドイツ軍がデパートを占拠しても、ソビエト兵は屋上に残って頑強に抵抗した。地下道、下水道‥‥彼らはどこからでも現れた。地の利だけは赤軍側にあった。ドイツ軍の開戦以来の電撃戦も、ここでは意味を成さなかった。パウルスの、そしてヒトラーの楽観の前に、スターリングラードという名のぶ厚い壁が立ち塞がったのだ‥‥。
九月二二日、軍事会議委員や中央委員会書記らが督戦のため、激戦のつづく同市に派遣された。同志スターリンは、スターリングラードで負けることを許さないのだ。
「まさか‥‥」
禿げ頭の軍事会議委員は、何度もまばたきをした。パチパチ、パチパチと、何度も。
「その、まさか、さ。さあ、目を見開いてよおく見なよ。正真正銘の精霊様だぞ」
「まさか‥‥。有り得ん。有り得んことだ‥‥」
「みんなそう言うよ」
フェアリーは、ふわっと男に近づき、目の前のデスクに降り立った。
「なんならぼくを触ってみるかい? おじさんは少しはまともそうだから、そうさせてあげるよ」
フェアリーは、カラカラと高い声で言った。
「おじさんはキーパーソンだからね。信じてもらわないと、こっちが困るんだ。――ほら、どうぞ」
「あ、ああ‥‥」
フェアリーに促され、男はたどたどしく頷いた。そして、ゴツゴツした両手を差しのべると、フェアリーがふわっとその掌中に入った。男は、妖精を、そっと握りしめた。確かな感触があった。
「――どう? これで信じただろ? もう、いいかい?」
フェアリーは、男の手から離れた。その手に燐粉を残して。
「あ、ああ‥‥。――坊主は、その、ボスと会ったことが‥‥」
「スターリンおじさんだろ? それをこれから話そうと思ってたところさ」
予想がついたとは言え、その名をあっさりと出されたことは、男を動揺させた。
「何度か会ってるよ。その様子じゃ、ぼくの話聞いてるみたいだね。じゃあ聞いてるだろ。ぼくが何をしに来るか。――メッセージを伝えにきたんだ。聞くよね、もちろん」
「本当だったのか‥‥。またてっきりボスの戯言と‥‥」
男はうめいた。
「うーん、――‥‥さんと同じ台詞だなあ」
言ってからフェアリーは、いけね、というように小さな舌を出した。これは、言ってはならないことだった。死を待つ者以外の者に、余計な情報を与えてはならないと、ゾーヤから厳しく言い含められていたのだ。まだ混乱しながらも、男はその名を聞き逃さなかった。
「あ、あいつか‥‥。あいつにも会ったのか――?」
「あ、ああ、なんでもないっ。なんでもないよ。忘れてくれよ。忘れて、忘れて。テヘヘヘヘ」
頭を掻く小妖精を、禿げ頭の男は、まだ半信半疑の、しかし油断のならない目つきで、見つめていた。すべてを聞き出さねば――と思いながら。男の名は、ニキータ・セルゲーエヴィチ・フルシチョフといった。
市街地の南部地区はすでに制圧されており、また彼の到着の少し前に中央駅周辺が占拠され、第62軍は南北に分断されてしまっていた。市の中心の赤の広場も、敵に制圧されていた。そして、赤い十月製鉄工場への攻撃が開始されていた。
「国家危急存亡のときだ」
ニキータ・フルシチョフは、妖精を相手に、苦渋の表情を浮かべて言った。
「われわれはもう、あらゆる手段を尽くしている。退却した将校と兵士は銃殺し、そうした将校の家族は逮捕だ。兵士の場合も家族を逮捕したいが、人手が足らんし、そもそも戦死との線引きが難しい‥‥」
「そんなことやってるから、勝てないんじゃないの?」
「――おまえが何者だか知らんが、近代戦をわかっとるのか!」
「退却した人を銃殺したり、その家族を逮捕することが近代――わ、わかったよ。そうおっかない顔しないでよ。‥‥軍人さんをもっと信用しなよ。彼らはよく闘っているよ。珍しくゾーヤも感心してた」
「ゾーヤ?」
「あ、ああ、何でもない‥‥。とにかく、軍人さんたちは、ナチスと真剣に闘おうとしてるんだからさ。あんなに粛清したのに‥‥。でもトゥハチェフスキーさんは殺す必要なかったと思うよ‥‥。ブハーリンさんも――」
ニキータ・フルシチョフは、疑いの目を小妖精に向けていた。こいつは、旧反対派の生き残りだろうか‥‥。
「いま、ジューコフさんたちが作戦を立ててるだろ。それは正しいよ。彼らを信用しなって」
「わしはしとるよ! だが‥‥」
フルシチョフは言葉を濁した。彼が恐ろしくて言えなかったその先を、妖精があっさり口にした。
「――スターリンおじさんがいまひとつ信用してないんだよね。困ったもんだよ、本当に」
フルシチョフは、妖精に関するあらゆる噂を思い出していた。謎の老婆からの使者、ときには平和を求めて人々を救い、ときには地獄の使者と化す――。そしてときには‥‥。
「わしは何も言えん‥‥。長年われわれを見てきたのなら、それはわかるだろう?」
「うん」
どこまでも素直な妖精は頷いた。
「だが、もしおまえが祖国の危機を救いたいと願うならば、さっきの言葉を誰に言うべきであろうか‥‥。わかるだろう? ならば、それをやってくれ」
フルシチョフは率直な男で、スターリンや他の臣下たちのようなもってまわった言い方は苦手であったが、彼も政治家になるときが来たようだ‥‥ちなみに、中央委員会書記のほうは、ゲオルギー・マレンコフである。
「うん」
これも素直に頷く妖精に、ニキータ・フルシチョフは宣言した。
「もし‥‥もしもだが、われわれがファシストを打ち破り、勝利することができたのなら、祖国は新しい時代を迎えるだろう。戦争や粛清のない‥‥。人民の協力なしに、勝利は有り得んのだからな‥‥――同志スターリンとて、わかってくれるはずだ。いや、わかってもらえるよう、わしも尽力する」
「もうトシだしね、スターリンおじさんも。そのうち生物学的限界が訪れるよ――戦争とは関係なしにね」
フルシチョフは目を剥いた。何という恐ろしいことを、この妖精は口にするのだ‥‥!
「ベリヤさんのNKVDはどうするの? 平和な時代には必要ないでしょ?」
ニキータ・フルシチョフは、きつく目を閉じた。――男の人生には、越えねばならぬふたつの山があるという‥‥。彼にとってひとつめの山は、ボリシェヴィキ加入の決断と内戦の体験であった。そして彼は、自分がいま、ふたつめの山の前に立たされていることを理解した。その山は険しく見えた。ひとつめの山への登攀も、いま思えばたしかに冒険であった。しかし、若かったあの頃は、勢いでやれてしまったことも事実であった。正直、楽しかった。ワクワクしていた‥‥。だが今回は違う。それは苦味をともなうものであった。しかし、登らねばならないのだ。
この妖精が伝えられている通りの者ならば、自分の受け答えは、「インテリゲンツィヤ」のように諸外国へ伝播し、後世の政治家の発言の模範となるかもしれない‥‥。いわゆる言質をとられず、かつ、質問者の鋭い矛先をかわすことができる巧みな表現を‥‥できればセンスを感じさせる――。
(それに、NKVDの力を削ることは――‥‥いや、そのことはいま考えるな。目の前のことに集中するんだ。わかるはずだ。時空の結節点‥‥ソビエト連邦の――世界中の人民が、いま切なる願いとともに、固唾を呑んでおまえの回答を待っている‥‥さあニキータ、勝負のときだぞ。おまえは何と答えるんだ? ――ヤ・ブードゥ・スプレァベアッツァ‥‥いや、待て、待て‥‥)
彼もまた、国際情勢を鑑み、ささやかながら外国語を学ぶようになっていた。ただし、ドイツ語ではなく、英語を選んでいた。その脳裏には、イギリスよりもアメリカの存在があった。――彼が言う通り、アメリカはわが国と同じく資源を持つ大国だ。戦争の趨勢が如何なるものになるにせよ、重要な相手であることは間違いない。ここで自分の勉強の成果を披露するのも悪くはないだろう。妖精よ、しっかり伝えてくれ‥‥。
禿げ頭の男ニキータ・セルゲーエヴィチは、カッと目を見開いた。これ以上はない苦悩の砂漠を旅してきた男の表情だ。額の皺は、まるで涸れ川のよう‥‥。彼はうめくように神秘の国の妖精に答えた。勇躍、政治家としての第一歩を踏み出したのだった――。
「――前向きに善処する‥‥‥‥」
フェアリーは、遠くでゾーヤが大きく大きくはーっとため息をつくのを聞いたような気がした。アイル・コープ・ウィズ・ザ・プロブレム・フェイシング・ザ・フロント・バイ・ザ・グッド・ハート。彼は英語でそう言ったのだが――。正面を向いて‥‥? 妖精の知識でも、そういう「前向き」は「ポジティヴィリー(積極的に)」だろうし、「タックル・ザ・プロブレム(問題に取り組む)」と言ったほうが、これもやはり積極的な姿勢が伝わるのではないかと思えた。バイ・ザ・グッド・ハートって‥‥。
実はこの瞬間、ニキータ・フルシチョフの運命は決したのだった。同時に、彼のこの回答のせいで、世界に真の平和と安らぎが訪れる機会もまた、少なくとも百年は失われたのであった。諸外国へ伝播したかどうかは、定かでない‥‥。――当のフルシチョフは、肩から重荷をおろしたかのように急に元気になると、身振り手振りも大きく続けたのだった。
「だが、兎にも角にも、いまはナチに勝たねばならん。そのためには、スターリングラードは死守せねばならん。そして反抗作戦のためには、同志よ、君の任務は可及的すみやかに実行されなければならない‥‥」
「うん」
「無論、極秘任務である。機密保持は最優先だ(ここで彼は、これまで見たこともないような真剣な眼差しを見せた)――つまり、わしは何も言っていない‥‥。いいな?」
「うん‥‥」
こうしてフェアリーは、またもゾーヤ以外の命令で動くことになり、モスクワへと旅立った。最高指揮官代理であるゲオルギー・ジューコフ上級大将、そして参謀総長が立てている作戦を、猜疑心に満ちた同志スターリンに認めさせるために‥‥。
――一〇月三日、バルト海沿岸ウーゼドム島ペーネミュンデより、全長一四メートルほどのロケットが打ち上げられた。このロケットの名は「A4」。ドイツ国防軍配下の実験チームが、ひそかに製作と実験を行なっていたものである。これは、史上初めて宇宙空間に到達した人工物体となった。一九三八年に逮捕され、コルィマ地方の収容所に送られたソビエト連邦のセルゲイ・コロリョフは、過酷な環境下で壊血病にかかり、歯が全部抜け落ちていた。
一〇月なかば、ドイツ軍がT‐34戦車を扱っていたトラクター工場に対する総攻撃を開始した。大激戦の末ヴォルガ川に達したが、赤軍はそこに対岸から重砲等による砲火を浴びせた。一〇月末、同じくT‐34戦車を扱っていた赤い十月製鉄工場にドイツ第79歩兵師団が突入したが、赤軍兵は火を落とした溶鉱炉などでこれを食い止めた。第62軍は、広い工場の一角、またヴォルガに張りつく狭い陣地に押し込められていた。しかし、同軍将兵はそれでもなお、驚異的といえる抵抗を示した。
いまやスターリングラードは、地獄であった。犬たちはもちろん、泳ぎの苦手な猫たちでさえヴォルガに飛び込み、遠い対岸目指して泳いだ。馬たちはもう、とっくに徴用され、使役され、多くが死んでいた。ネズミを除いてはカラスたちだけが、ドイツ空軍に負けじと低空を舞い、跳梁することになった。新鮮なエサが急に、しかも大量に増えたのだ。赤軍兵の遺体は回収されないまま――息があっても追い払えなければ――彼らに好き放題ついばまれた。この「空軍」は、彼ら赤軍兵の柔らかい目玉を好んだ‥‥。
自分たちはまるでネズミだ、とドイツ兵も言い合った。彼らはカラスは追い払えたが、シラミと悪臭は防げなかった。そのなかを、かつて「建物」であったものや地下壕を伝い、また原形をとどめている四階までを自軍が占拠した建物で、五階から上を占拠している敵軍と戦うのだ。これは人間の戦争ではなく「ネズミ戦争」だ。まるで(ヒトラーが体験した)前大戦の塹壕戦だった。総統は、多くの犠牲を払ってまで、なぜこの街にこだわるのだろうか――。スターリンの名前がついているからか‥‥? こうした敵の自嘲を知ったチュイコフは、われわれは(ネズミをワナにかける)チーズになるのだ、と部下を前に宣言した。また彼は、五〇ヤード以内で敵と向かい合えと命令した。市街地で接近戦になり、お互いが入り乱れれば、空から――敵の急降下爆撃機からは攻撃がしにくくなる。この目論見は当たった。
赤軍には続々と増援が到着し――続々と殺されていったが、また続いた――狙撃師団も登場した。スターリングラード市民や赤軍兵だけでなく、もはやドイツ兵にも安眠は与えられていなかった。補給品も目に見えて減っていった。一一月‥‥。ヒトラーはヴェアヴォルフから撤退していたが、スターリングラードを、「時間の如何に関わらず必ず制圧」するとラジオで演説した。
この一〇月下旬から一一月初めにかけて、北アフリカ戦線のエル・アラメインをめぐる戦いで、枢軸国側は連合国側に敗れていた。さらに一一月八日、イギリス軍とアメリカ軍はモロッコとアルジェリアへの上陸を果たしており、枢軸国軍を挟撃する態勢を取ろうとしていた。イタリアは、リビアにおける支配権を失いつつあった。南太平洋においては、八月からソロモン諸島をめぐり日本海軍がアメリカ海軍と激突、日本側は戦果をあげ、なおも挑戦する構えを見せていたが、アメリカ側も日本側による飛行場建設が行なわれていたガダルカナル島ほかに海兵隊を上陸させるなどしていた。補給線の延伸は、日本軍も苦しめていた。枢軸国諸国にとって、未来は不透明なものになっていた。スターリングラードはどうなるのか。
一一月一一日、第6軍は7個師団をもって工場地区に残る第62軍の掃討を開始する。激烈な白兵戦が展開され、操車場は第62軍がなんとか確保、しかしドイツ軍に赤い十月製鉄工場を突破され、ついに同軍は三分割されてしまった。ヴォルガに浮氷が現れ、もともと困難だった対岸からの補給をいっそう困難にした。冬が訪れようとしていた。ロシアの冬が‥‥。さしもの第62軍将兵たちにも、絶望の色が濃くなってきた。しかし、市内の大半を抑えたドイツ軍将兵たちもまた、消耗しきっていた。
そして、同月一九日‥‥。赤軍――外部の――が、ついに反抗作戦に転じた。ゲオルギー・ジューコフと参謀総長が、およそ二ヶ月にわたり極秘準備していたこの作戦は、スターリンの裁可を得ることに成功した。天王星 作戦と命名された。
――ヒトラーは自分で指揮を執りたがったが、スターリンは有能な軍人たちを使う途を選び、その方法を学びつつあった。また、赤軍には、十月革命という戦訓があった。無論このスターリングラード戦は、それと比較にならぬほど激しく規模も大きかったが――およそ百万の将兵および九八〇輌の戦車で脆弱なルーマニア軍を粉砕し、ドイツ第6軍を逆に包囲してやるのだ。作戦目的自体、軍内部においても数日前までは極秘とされ、各部隊には無線発信の厳禁が通達されていた。悪天候もドイツ機による偵察を防ぎ、赤軍を助けた。
一一月一九日の朝、南西方面軍およびドン方面軍の重砲およそ三五〇〇門による砲撃が八〇分間つづけられた後、第5戦車軍と第21軍が、ドン川方面のルーマニア第3軍を撃破した。ルーマニア兵はパニックに陥った。彼らの後方にはドイツ第22装甲師団が控えていたが、彼らが動かせた戦車はチェコ製の38(t)戦車二〇輌余であった。そこへ第5戦車軍のT‐34戦車およそ二〇〇輌が突撃し、これを粉砕した。T‐34たちは、この日だけで雪原をおよそ五〇キロ前進した。翌日、スターリングラード方面軍の第64軍、第57軍、第51軍が南方から攻勢をかけ、ルーマニア第4軍の陣を突破した。より力強いⅣ号戦車を有するドイツ第29自動車化師団は、第51軍に攻撃を加え大損害を与えたが、パウルスは予備の兵力を追加せず、他の部隊は進撃を続行した。そのまた翌日、エーリッヒ・フォン・マンシュタインという軍人が率いる第11軍司令部が再編、ドン軍集団となり、このマンシュタイン以下幕僚は列車でB軍集団司令部が置かれていたハリコフ東方のスタロビリエスクに向かった。
そして、一一月二三日夕刻、スターリングラードの南西、その名もソビエツキー村において‥‥。南西方面軍の第4戦車軍団とスターリングラード方面軍の第4機械化軍団の戦車部隊が、ついに合流を果たした。両部隊の指揮官は固く握手し、兵士たちとともに抱擁しあった。
侵略者に対する包囲の環は、閉じられたのだ。赤軍は、この環のなかに敵将兵三十万余を囲んでいた。ルーマニア軍は、第5軍団が降伏し、五個師団が壊滅した。ドイツ第6軍には燃料が六日分しかなく、同日、パウルスは、スターリングラードからの全軍撤退の許可を南バイエルンはベルヒテスガーデン――近郊オーバーザルツベルク――ヒトラーの山荘「ベルクホーフ」ほかナチ党幹部の山荘があった地域として知られる――に求めた。翌日、ヒトラーは、これを即座に却下し、死守を命じた。空軍を統轄する立場にあり、ナポレオン戦争以来のプロイセン‐ドイツの最高勲章である大鉄十字章を飾る国家元帥ヘルマン・ゲーリングは、スターリングラードへの兵站すべてを空輸で行なうとの方針を示した。ヒトラーは、この一九二二年以来の勇猛なナチ党員の主張を受け入れた。マンシュタインは、ノヴォチェルカースクの第4装甲軍司令部に五日がかりで到着した。
一二月一二日、ドン軍集団が包囲を解除すべく「冬の嵐作戦」を開始した。戦車二三三輌を集めた第57装甲軍団を主力に、アクサイ川を突破した。しかし、天候が再び赤軍に味方した。翌日から突然豪雨になり、雪の平原は泥原となった。赤軍戦車のほうが有利となる。一六日、南西方面軍とヴォロネジ方面軍が、チル川方面で作戦(小土星作戦)を開始した。気温は急激に下がり、また吹雪になっていた。赤軍第6軍と第1親衛軍はイタリア第8軍を撃破、またドイツ軍の兵站基地等を襲撃しながら南下、ドン軍集団の側面を牽制する格好になった。一九日、それでもドン軍集団は互いの照明弾を目視できる距離まで第6軍に近づいた。しかし、第6軍は一向に動こうとしなかった。マンシュタインは空路で使者を第6軍司令部に派遣し突破を求めたが、パウルスはヒトラーの死守命令に忠実であろうとし、参謀長は燃料不足を申し立ててこれを拒否した。
パウルスは体調を崩しており、第6軍の作戦指揮の実権はこの参謀長が握っていた。彼らが動かせる戦車は、わずか七〇輌ほどであった。二三日、赤軍第6軍の第24戦車軍団がタツィンスカヤのドイツ空軍基地を急襲、輸送機七二機を撃破、彼らのスターリングラードへの兵站能力に大打撃を与えた。ドン軍集団は、赤軍第2親衛軍に、第6軍の陣地まで五〇キロ弱のムイシコワ川で進撃を阻まれた。ロシアの冬の嵐が到来していた。マンシュタインは、救出作戦の中止を余儀なくされた。カフカースのA軍集団にも危機が迫りつつあった。南方軍集団全滅の危機も現実味を帯びていた――。二七日になって、ヒトラーはようやくA軍集団の退却を許可した。これにより、第6軍の孤立は決定的なものとなった。包囲の環の外周には、一平方キロあたり一〇〇門の高射砲が設置されていた。物資は満足に届かず、この空中補給作戦遂行のためにすでに四八〇機ほどの輸送機とおよそ一千名のパイロットが失われていた。ゲーリングの目論見は、まったく外れたのである‥‥。
――スカンディナヴィア半島北方海域を通るイギリス側からソビエト連邦への援助が、再開されていた。これに対するドイツの妨害も続いており、この一二月末、船団護衛の任に就いていたイギリス艦隊とドイツ艦隊との海戦が起こっていた。ソビエト連邦はコラ湾へ向かうPQ改めJW51B船団の妨害を、ドイツ海軍が図ったのである。世に言うバレンツ海海戦である。
ドイツ側の呼称は「虹」作戦。三〇日午前、ドイツ海軍のUボートがJW51B船団を発見、ドイツ側はアルタ・フィヨルドから先の「アドミラル・ヒッパー」、「リュッツォウ」、駆逐艦数隻を二手に分けて出撃させた。三一日朝、イギリス駆逐艦たちがドイツ駆逐艦、次いで「アドミラル・ヒッパー」を発見した。イギリス側は煙幕を張る作戦に出た――駆逐艦隊は煙幕を張りながら「アドミラル・ヒッパー」の前面に展開――勇敢である――船団の各船は発煙フロートを一斉投下した。PQ17の悲劇を受け、彼らは入念に事前の打ち合わせを行なっていた。それが功を奏した。「アドミラル・ヒッパー」が砲撃を始め、直衛のイギリス駆逐艦一隻がこれで大破した。「リュッツォウ」とドイツ駆逐艦三隻も商船を捕捉したようだが、商船たちは煙幕と吹雪のなかに隠れた。大破した駆逐艦は煙幕を展開しつづけるも、二時間後に力尽きて沈没。だが、イギリス駆逐艦隊は「アドミラル・ヒッパー」の船団接近阻止に成功した。正午前、援護部隊のイギリス軽巡洋艦「シェフィールド」「ジャマイカ」が到着、砲撃を開始し、「アドミラル・ヒッパー」に命中弾を与えた。味方だと誤認して接近してきたドイツ駆逐艦二隻のうち一隻にも、「シェフィールド」は砲撃で加えこれを撃沈。「アドミラル・ヒッパー」と「リュッツォウ」が、このイギリス軽巡洋艦二隻に対して挟撃を試みるも叶わず、二隻の砲撃により撤退を余儀なくされた。これとは別に、イギリス側は掃海艇一隻を失っているが、ともかくもドイツ艦隊の撃退には成功し、PQ17船団の際の汚名を払拭できたといえた。反対にドイツ側は、商船を一隻も沈めることができず、ほぼ無傷で逃してしまった。「虹」作戦の主目的である船団への妨害は、失敗に終わった。アドルフ・ヒトラーは華々しい戦果を徹夜で待っていたが、この敗北に激怒し、新年早々、海軍総司令官エーリヒ・レーダーを呼び出した。
エーリヒ・ヨーハン・アルベルト・レーダーは、旧ドイツ帝国の海軍軍人であり、第一次世界大戦ではフランツ・フォン・ヒッパーのもとで、一九一六年五月末のユトランド沖海戦ほか主要な作戦に参加していた。戦後、いわゆるヴァイマル共和政時代も、レーダーは海軍に残った。一九二〇年の、共和政府の転覆を目的としたいわゆるカップ一揆に巻き込まれ、戦史編纂課長へ左遷されるなどしていた――もっとも、古今東西の優れた人物がそうであるように、彼はこの時期に戦史や政治・経済についての知識を蓄えた。二十年代、レーダーは北海軽艦隊司令官、バルト海司令官を経て、海軍大将また海軍統帥部長官に就任、海軍の実権を握ることになった。これによりエーリヒ・レーダーはドイツ海軍の再建を図ることにしたが、カップ一揆の一件による「政治」というものへの苦い思いも忘れていなかった。しかし、NSDAP――ナチスによる軍靴の響きは、そんな彼をも政治に巻き込んでいった。
一九三三年一月のアドルフ・ヒトラーの首相就任自体は、レーダーは歓迎した。ヒトラーは当初から再軍備を考えていたが、レーダーに対しては、イギリスとの戦争は考えられないことだ、と確約した。レーダーはヒトラーの言葉を信じ、一九三三年二月末の国会議事堂放火事件、また翌一九三四年六月末から七月初めにかけてのいわゆる長いナイフの夜――突撃隊(SA)、党内左派などの「反ヒトラー勢力」、ほか反NSDAPの人物などが虐殺された事件――などに何かを感じつつ、これらに海軍関係者を関わらせないよう腐心した。一九三五年、ヒトラーの再軍備宣言により、レーダーは新生ドイツ海軍の総司令官に任命、翌一九三六年四月の彼の六十歳の誕生日には、ヒトラーから海軍上級大将の地位を贈られた。一九三八年、エーリヒ・レーダーは「Z計画」を提出した。水上艦艇を中心に、イギリスの海上兵力に対抗できる艦隊を創設するというものだったが、Uボートを重視する潜水艦隊司令官カール・デーニッツらの批判にさらされることになった。予算から見てもこのZ計画には無理があり、計画はひとまず進められたものの、ヒトラーが翌一九三九年にポーランドへ侵攻開始とことを急いだために、途絶されることになった。ドイツ海軍は、イギリスほか連合軍に対して、海上戦力では劣勢のまま開戦を迎えることになっていた。開戦前の同年四月一日、レーダーは海軍元帥に昇進していた。
翌一九四〇年からの北欧侵攻で海軍は大きな役割を担うことになったが、イギリス海軍の攻撃により大きな損害も被ることとなった。その後のイギリス本土上陸作戦は、前述の通りバトル・オブ・ブリテンの失敗やこの北欧侵攻時の損失により、実行できなかった。ヒトラーは、いまひとつ戦果のあげられない海軍――特に水上艦隊――に対して、不満を抱くようになった。前述の通り戦艦「ビスマルク」も失い、また新型短波レーダー導入等による連合軍の対潜戦術の向上のため、この一九四二年になると、Uボートによる通商破壊戦も難しくなってきた。そして、この「虹」作戦の失敗は、彼の海軍への不信を決定づけた。レーダーを呼び出したアドルフ・ヒトラーは、水上艦隊の解体を命じた。これはレーダーを絶望させるに十分だった。
スターリングラードでも、ドイツ第6軍兵士の絶望のなか、新たな年が明けていた。ゲオルギー・ジューコフは、市街地への即時突入を求めるヨシフ・スターリンを、「まったくの兵力の無駄です」と諌め、スターリンもこれを受け入れた。一月八日、赤軍のヴォロノフ砲兵大将およびドン方面軍のロコソフスキー司令官が、アメリカ南北戦争のグラント将軍を真似て、第6軍に幹部の帯剣を認めた「名誉ある降伏」を勧告、しかしパウルスに拒否された。一〇日、赤軍は七個軍で包囲の環の縮小を図った。鉄環作戦の開始である。この作戦の実質的な指揮権は、この攻防戦開始以来の方面軍司令官だったエレメンコという人物ではなく、ジューコフの部下が握ることになった。一六日、赤軍はマリノフカの突出部に攻め込み、大きな損害を被りつつも、ピトムニク飛行場を占領した。NSDAPは、遠いロシアでの第6軍の被包囲を、国民に対してやっと政府発表するに至った。一八日、戦功により、ゲオルギー・ジューコフはソビエト連邦元帥に昇格した。赤軍は、残るグムラク飛行場に向かった。ヒトラーの許可により僅かな軍人や技術者が脱出したが、軍医はその全員がおよそ二万名の将兵とともに残された。歩ける者だけがスターリングラードの市街に戻った。二一日、赤軍はグムラクを占領。飛行場を占領し、歩けなかった者を病院ごと焼き払った。これにより、第6軍への補給、また彼らの脱出は、完全に不可能となった。翌日、零下三五度のなか、赤軍は最終攻勢を開始、第6軍を市内の防衛線まで追い込んだ。
グムラクから東と東南の方向の雪原では、倒れたドイツ兵が凍死していっていた。市街でも、兵士たちは似たような状況であった。日々、零下三〇度を下回った。飢えと寒さは、彼らを戦争どころではなくさせていた。しかし、総統は降伏を許さなかった。凍死か、餓死か、自決か‥‥実質的な戦力は、毎夜ごとに低下していった。二六日、赤軍第13親衛狙撃師団が、ドン方面軍の第21軍とママエフ丘にて合流した。これにより、第62軍は五ヶ月ぶりにドイツ軍の包囲から解放された。彼らは、バラバラにされながら最後まで抵抗を止めず、勝者となったのである。そして、今度は逆に、ドイツ第6軍が南北に分断されることになった。三〇日は、NSDAP政権にとり発足一〇周年の記念すべき日であった。ヒトラーは、パウルスを元帥に昇格させた。しかし降伏は許さなかった。三一日、司令部のみの投降という形式で、パウルスと幕僚たちは地下室から姿を現した。パウルスは、自分の拳銃をグリップを先にしてソビエト第64軍将校に差し出した。ドイツ史上初めてとなる、元帥の降伏であった。
二月二日までに、第6軍は個別に降伏していった。史上最大の市街戦となっていたスターリングラード攻防戦は、ここに幕を閉じたのである‥‥。
翌日、ソビエト側は勝利宣言を行なった。ドイツ側はラジオでベートーヴェンの「運命」を流し、宣伝相(国民啓蒙・宣伝大臣)ヨーゼフ・ゲッベルスが三日間の服喪を発表した。ドイツ本国では、将兵は全員玉砕したと報じられていたが、パウルス元帥を含む九万六千名余が生きていた。ベケトフカに設けられた仮の収容所まで徒歩で移動させられ、落伍した者は銃殺されるか、放置されて凍死した。どちらがよかったのかは、わからない。それでも彼らは、戦友たちを支え、雪道を歩いた。この仮収容所での発疹チフスの大流行等により、数週間でおよそ五万名が死亡した。生き残りは、はるか遠いソビエト連邦各地の収容所へと送られていった。
終わったのは、独裁者同士の都市攻防戦なのである。彼らの闘いは、まだ始まったばかりであった‥‥。
この死闘において、赤軍はおよそ五十万名、ドイツ軍と枢軸軍はおよそ三十万名の戦死者を数えたとされる。七万名近くの赤軍捕虜がドイツ第6軍に協力し、同軍に動員されたが、生存者はほとんどいなかった。一方、ラヴレンチー・ベリヤのNKVDも督戦に努め、自軍将兵の逃亡阻止に奮闘した。この攻防戦において、NKVDによって処刑された赤軍将兵は、およそ一万三千名に及んだ。また、戦前は六十万を数えていた同市の住民は、一万人以下になっていた。疎開できたものもいたが、少なくとも二十万人の民間人が死亡したといわれる‥‥。これらの凄惨な殺戮の一方、三月六日には、また新しいソビエト連邦元帥が誕生した。ヨシフ・スターリンその人である‥‥。
こうして、ドイツ軍の夏季攻勢「青」作戦は、第6軍と第4装甲軍の主力が全滅という、悲惨な結果に終わった。また海軍ではエーリヒ・レーダーが海軍総司令官の職を辞し、後任の総司令官にカール・デーニッツが選ばれていた。A軍集団はマンシュタインの采配により、辛くもハリコフ方面に撤退を果たした。赤軍は、スターリングラード包囲に釘づけとなっていたのである。ドイツ軍の損害は甚大すぎるほど甚大であり、これ以降、東部戦線において広い正面攻勢をかけられる戦力を持つことができなかった。イタリア、ルーマニア、ハンガリーといった枢軸同盟国軍にとっても、大きな痛手であった。イタリアは特に、北アフリカ戦線での敗走もあり、外相がドイツからの離反を図るなど、ムッソリーニ政権は大きく動揺した。スペイン、そしてトルコが枢軸側に立って参戦する可能性も、これで永久になくなった。二月六日、ヒトラーはパウルスやゲーリングの任命責任だけは認めるという旨のことを、マンシュタインに対して語った。一六日、ジューコフにつづき、開戦時は一少将であった参謀総長もソビエト連邦元帥に昇格した。ジューコフに次ぐ、めざましい昇進であった。
ソビエト将兵の士気も回復しつつあった。赤軍大粛清の傷痕の上に、かさぶたが出来はじめていた。また、おおよそ三十歳以上の将兵は、少年期から青年期、あるいは幼年期においてロシア内戦(干渉戦争)の混沌を体験していた。生育過程で飢餓を体験した者も少なくない。同攻防戦においては、母国でありまた防衛側であった点とともに、この点が心理面における枢軸軍に対する彼らの強さを形作っていた。またこれ以後もその強さは、士気の回復とともに発揮されてゆくことになる。第62軍はその武勲を讃えられ、第8親衛軍の称号を得た。またこの「青」作戦による、ドイツ側の占領地域およびその地帯周辺に住んでいた少数民族に対しては、スターリンの猜疑の目が向けられることになる‥‥。
ドイツ本国においては、一八日、ヨーゼフ・ゲッベルスが、ベルリン・スポーツ宮殿において、大観衆を前に総力戦演説(総力戦布告演説)を行なっていた。彼は、NSDAP党旗とハーケンクロイツ、大文字で「総力戦‐最も短期間の戦争」と書かれた旗のもと、ドイツ国民に戦争継続の覚悟を聞き、「二千年に及ぶ欧州の歴史は危機的状況にある」と結論づけた。またドイツの敗勢は「ユダヤ人のせい」であり、ソビエト連邦の大量動員を「悪魔的」と形容してみせた。――この大観衆は、入念に選出されていた。これはまた、NSDAP幹部による、第三帝国が深刻な状況に陥りつつあることを公式に認めた、最初の告白であった。
遠く太平洋戦線においても、ガダルカナル島からの撤退を日本の「大本営」は決定せざるを得なくなっており、この二月から――海軍艦艇による陸軍将兵の――撤兵を開始させていた。枢軸国諸国は、斜陽の季節を迎えていた‥‥。
ドイツ側は、パウルスとヤーコフ・ジュガシヴィリ――彼は軍人となるにあたり、この姓を選んだ――の交換を申し出たが、スターリンは拒否した。
四月、ソビエト連邦最高会議幹部会により、NKVDとNKGBが再分離された。そして、NKGB下に「スメルシ」が創設された。副国防人民委員も兼任するヴィクトル・アバクーモフが指揮する、野戦政治警察部隊(督戦部隊)である。耳慣れないこの名は、それ自体には意味はなく「スパイに死を」を意味するキリル文字の頭文字の略称である。正式には国防人民委員部防諜総局であるが、防諜任務は、彼らの仕事のほんの一部でしかなかった。この組織構成員のおもな仕事は、撤退する、あるいはしようとする、あるいはしようとしていたと目される赤軍将兵の射殺や、捕虜となった者の射殺や、赤軍の各部隊の政治指向を探ることであった。政治指向を探り、反逆者はもちろん、反逆しようとした、あるいは反逆しようとしていたと目される将兵の逮捕、場合によっては射殺であった。各方面軍の各部隊に配置され、通報者――密告者も、階級ごとにおおよそ決められた人数が放たれていた。「しようとしていたと目される」容疑者の人数は、本物の容疑者や「しようとした」容疑者のそれよりも、多くなっていった。彼らに目された将兵は、証拠の有無に関わらず、よくて逮捕、悪ければ射殺された。赤軍将兵たちは、前からのドイツ軍に加え、「督戦」の名のもとにあるこの組織に、後ろから圧迫を加えられてゆくことになる‥‥。
ユーリ・ワイネルが、左頬の傷をぬぐうように撫ぜる。彼は、それから戦車帽を着用するのだ。それは、ひとつの儀式であった。激戦と、勝利の証でもあった。戦闘前には、それが部下たちに覚悟と希望を持たせた。戦闘後には、生き残れた喜びと、この男の部下であることの誇りを持たせた。その傷は、短く刈り込んだ髪とともに、彼の風貌に凄みを持たせていた。ドイツ軍との戦闘による名誉の負傷なのであると噂され、誰もが信じて疑わなかった。彼はすでに少なからぬ数のⅢ号戦車、また数台のⅣ号戦車をも撃破しており、中隊内でも名戦車長の呼び声が高かった。
――ワイネル少尉がいると、楽をできるが損もするんだ。何故なら、少尉殿のT‐34は、いつも真っ先に敵戦車部隊に突っ込んでゆき、どの車輌よりも早く、多く、食っちまうからだ――。
彼は戦闘中、中隊の他の戦車もよく護った。ために中隊の死傷者は他と較べて格段に低いという話も流布し、ユーリ・ワイネルはすでに事実上の副中隊長として、中隊内では中隊長に次ぐ発言権も得ていた。部下たちは、彼の技量とともに、T‐34の性能もまた、信じた。ドイツ軍の戦車より優れている、という者もいた。ワイネルのなかにも、こういった性能較べに燃えてみたい気持ちはあったが、彼は自分のなかのそれを戒めた。
(戦車は、騎兵とは違うのだ‥‥)
ワイネルは、ジューコフの考え方を理解しているつもりだった。戦車は――T‐34は――個別の戦闘局面において時には高速を生かした突撃を行なう必要があるが(その場合でも重砲等による支援が重要である)、全体的な観点から考えれば、歩兵とともにジリジリと前進し、ローラーをかけるように面制圧を行なうべきなのだ。一対一の対決など必要なく、故に、一輌ごとの性能の比較は、さほど重要ではない(無論、性能差が圧倒的な場合は、話は別である)。少なくとも、物量を頼みとする赤軍には、また今のこのソビエト連邦の西部戦線には、合った考え方であると思っていた。ドイツ戦車兵と意見交換する場があれば、彼らは何と言うであろうか。
ユーリ・ワイネルはまた、敵であるドイツ軍の戦術等について、丹念にメモを取っていた。――T‐34に乗り組んだ若い戦車兵の多くは、それまで自動車すら運転する機会を持たなかったソビエト連邦の田舎から徴集された者たちであった。党と赤軍と秘密警察関係者用のもの以外の(トラックではない)乗用車が走る姿すら、徴兵されて連れて来られるまで、ろくに見たことのなかった者も少なくない。しつこいようだが、ソビエト連邦の人口の八割を占めるのは、農民である‥‥。前述のように、この時期のT‐34には、人間工学的な側面から見れば、幾つもの欠点があった。しかし、ワイネルのような、ある程度の経験と知識を持つ一部の者以外には、それは(比較の対象がないため)よくわからなかった。捕獲した敵戦車――多くがドイツ製――の内部を見る機会は、彼らにはほとんど与えられていなかった。少なくとも、生身で敵の砲火にさらされる歩兵よりはましだ――彼らのこの多くの共通見解は、T‐34に対する信頼を高めた。ワイネルは、T‐34の欠点の改良が早く進められることを願い、上申書の提出を続けていた。
なお、T‐34の構造上の欠点で受難に遭っていたのは、何も戦車長だけではない。多数の砲弾が搭載されていたにも関わらず、装填手のすぐ手の届くところに置かれていたのは、左側の壁の砲弾架に六発、右に三発のみであった。残りは金属の箱に分けられ砲塔の底部に置かれていたのだが、ここにはゴムのマットが敷かれ、砲塔――戦闘室の床も兼ねていた。戦車長/砲手もそうだが、何でも兼ねればいいというものではない。お陰で装填手は、戦闘中、九発を使い切ってしまうと、床を剥がして砲弾を取り出す作業を行なわねばならなかった。主砲の発射の度に灼熱した薬莢がその床に散らばるなかで、である。前方銃手は、せっかくのよい機銃を与えられていながら、視界と射界の狭さのために、彼の前方機銃が必要とされる戦闘の際、思うように撃てなかった。前述の戦車長/砲手の諸問題と合わせ、これらの欠点は、特に戦闘の最中に露わになることが多かった――設計思想上の問題と思われる。また、エンジンとトランスミッション(変速機)が後部にあるため、前述のクラッチ・レバーが非常に重く、操縦手はハンマーでこれを引っ叩かねばならなかった。この欠点は戦闘中以外でも――もちろん戦闘中はなおさら――露わになった。乗用車というものが普及している社会であれば、設計の段階で気づかれ、防げた欠点ではないだろうか。
T‐34は、かように多くの構造上の欠点を抱えながらも、多数が生産され、多大な戦果をあげていた。戦車兵たちの苦労が、その陰にあった。
――かつてワイネルが目にした、旋回砲塔を持たない自走式砲撃兵器は「自走砲」と呼ばれ、ソビエト、ドイツ両軍が戦線に投入していた。
‥‥ドイツ空軍のシュトゥーカは、まだわがもの顔で空を舞っていた。友軍戦車は、いとも簡単に彼らに食われていた。わが方のVVSは、何をしているのだ‥‥。
ワイネルは歯がゆかったが、だいたい察せられた。空の事情も、この陸と同じなのだ。われわれは、敵であるドイツ軍から学ばねばならぬ点が、まだ山ほどあるのだ。だがこれを表立って口にすれば、スメルシに目をつけられる。下手をすれば逮捕だ。そこがどんな前線であっても、スメルシはそうする。奴らは、なぜ邪魔ばかりするのだ。
(――ベリヤめ‥‥!)
ワイネルは心のなかで、眼鏡のNKVD長官の中途半端に四角い丸顔を思い浮かべ、罵った。
(この戦争が終わったらな、俺はこのT‐34でルビャンカに突っ込んで、おまえをゆっくり漬けてやる‥‥。ご自慢の――硫酸風呂にな‥‥!)
車体後部上面のエンジン用エア・フィルターの縁に乗っかっていたフェアリーは、遠くでゾーヤが拍手するのを聞いたような気がした‥‥。‥‥機構上は、スメルシのことでベリヤを呪うのは筋違いなのであるが、彼らはベリヤのもとに一本化されていたNKVDから人員や機構を引き継いだのだから――逮捕はずっと続いていた――先方が移管したとて前線将兵にしてみれば同じことだ。もっと言えば、ベリヤのもとで彼らが洗練されてゆくのを、ユーリ・ワイネルはいままで、肌で感じ取っていた。新組織のトップの座にアバクーモフが就いたのは、政治的な結果に過ぎない。
‥‥ドイツ戦車部隊が迫っていた。
中隊長の旗が振られる。――先頭車につづき、突撃せよ‥‥。
赤軍においては、一部の特別な部隊を除き、多くの戦車に無線装置は搭載されていなかった。
「一番前に出ろ。本車の後に各車がつづく形で、あいつらを蹂躙するんだ」
中隊長――部隊長は、信号旗を振るためハッチから半身を出さねばならず、より危険度は増すのである。ワイネルら指揮下の戦車長も、この旗を確認するため戦闘中でもハッチを開ける必要があり、また狭い車内のさらに上部に常に身を置くようになる。シートのクッションが、皮肉に思えてくる‥‥。
「死んだら殺すぞ! いいな!」
それでもユーリ・ワイネルは、今日も部下たちに檄を飛ばす。戦闘開始だ‥‥。
スターリンは英米に援助を求め続け、極北における各国船員たちの犠牲的な闘いにも関わらず、物資が足りない遅いと文句を言い続けた。その一方、ラヴレンチー・ベリヤは、モスクワ近郊のブィコヴォに大学を設立していた。スパイ養成学校である。NKVDの優秀な将校、またおもにモスクワ大学の関係者、舞台俳優や映画俳優までが住み込みで訓練を受けることになった。体育、地図解読、無線操作、暗号、妨害‥‥そして英語の訓練が行なわれた。この英語の講義には殊更念が入れられており、イギリス英語の講義とアメリカ英語の講義がそれぞれ別にあった。ベリヤ自らも、これら教育課程の案出に加わった。この監督のもと学生たちは、ロシア人、またソビエト連邦人民であることを捨て、俳優となるために多くを学ばねばならなかった。ソビエト流のアネクドートなんてもちろんダメだ。アメリカ人やイギリス人の習慣や生活様式から、彼らのジョークまでもが教科に入っていたのだ。また、男色の傾向がある有力者に近づく方法、彼らの政府機関で働く女子職員を口説く方法までもが教えられた。
一方、ソビエト連邦の悪行が西側に暴露されようとしていた。カティンの森事件。先にフェアリーがベリヤと会った際に言及した、NKVDによるポーランド軍将校、技術者、知識人、国境警備隊員、警官、一般官吏、聖職者等の虐殺事件である。
虐殺の正確な場所は、スモレンスク近郊の村グニェズドヴォの森である。およそ一万数千人とも四千四百人ともいわれる人々が、犠牲となった。前述の通り、一九三九年九月、ポーランド共和国はナチス・ドイツとソビエト連邦に挟撃された。このうちソビエト連邦の占領下に置かれたポーランド東部で、武装解除されたポーランド軍人や民間人が赤軍の捕虜として収容所へ送られた。一九四〇年の春から夏にかけて、この「捕虜」たちの何割かを「帰国が許された」という嘘でNKVDが西へ連れ出した。
――グニェズドヴォでは、たくさんのポーランド人が列車で運ばれてきて、銃殺されたという噂が絶えなかった。劣勢となったドイツ側は、かねて仕入れていたこの噂に基づき、調査を開始した。そしてこの年の二月末、ドイツ軍の中央軍集団の将校がカティン近くの森で――埋葬されたというよりは――埋められたポーランド人将校の遺体を発見したのだった。三月二七日に再度の調査が行なわれ、将校たちの遺体が七つの穴に幾層にもわたって埋められていることを発見した。明らかに虐殺の跡であった。中央軍集団参謀により「カティン虐殺事件」として報告書が国民啓蒙・宣伝省に送られ、ヨーゼフ・ゲッベルスは本格的な調査を命じた。四月九日、ゲッベルスはワルシャワ、ルブリン、クラカウの有力者とポーランド赤十字社に調査を勧告した。プロパガンダの匂いを感じ取ったポーランド赤十字社は協力を拒否したが、各市の代表は調査に立ち会った。一三日には世界中の各紙でこの虐殺が報道された。ドイツでも正式に発表された。
一五日、ソビエト連邦と赤軍は、これは一九四一年のドイツ侵攻時のドイツ側による殺害であると、苦しい言い訳を行なった。ポーランド亡命政府はソビエト連邦に対する不信感を強め、ポーランド赤十字社には問い合わせが殺到した。一七日、ポーランドとドイツの赤十字社はジュネーブの赤十字国際委員会に、中立的な調査団による調査を依頼した。スターリンは、すなわちソビエト連邦は、同政府への猛烈な批判を始め、結局、この圧力により赤十字国際委員会は調査団派遣を断念した。二四日、ソビエト連邦はポーランド亡命政府に対し、同事件は、「ドイツの謀略であった」と声明するよう要求した。ポーランド亡命政府が拒否すると、二六日、ソビエト連邦は同政府との断交を通知した。ポーランド赤十字社は調査を行ない、またドイツもポーランド人を含む連合軍の捕虜や、中立国ほかのジャーナリストの取材を許可した。ソビエト側の犯行であることを匂わせる証拠や、拷問に遭った遺体などが発見された。しかし、赤軍がスモレンスクに迫っており、二四三体の遺体が確認されたところで、調査は中断を余儀なくされた。
赤色海軍の潜水艦隊にとって、前年はいちおう成功の年といえた。だが今年は、そうはいかなかった。ドイツ海軍が、長さ九五キロ以上にも及ぶ大防潜堰を、ポルッカラ半島からタリン(レーヴェリ)沖の島まで、フィンランド湾を横断するように敷設してきたのである。この防潜堰は、二列の防潜網の間に一万一千発の炸薬信管と八四五四発の機雷を備えていた。赤色海軍の一五〇隻あまりもの潜水艦たちは、フィンランド湾の狭い水域に、雪隠詰めにされてしまったのである。
「だめだ! 突破できない!」
SC型潜水艦の艦内で、誰かが悲鳴をあげた。ミハイル・ソコライエフは、唇を噛み締めた。彼の乗り組むSC型のこの一隻は、去年はバルト海に躍り出はしたものの、これといった戦果はあげられずじまいであった。潜水艦乗りは赤色海軍のエリートであり、彼もその例に洩れなかった。それが――。
(敵と戦うことすら叶わないとは――‥‥!)
すでに数隻がドイツの防潜堰の突破を試みていたが、いずれも失敗に終わっていた。損傷した艦も少なくなかった。くぐもった爆発音と共に、船体が大きく揺れた。
ユーリ・ワイネルには、捕獲したドイツのⅢ号戦車、Ⅳ号戦車の内部を見る機会を与えられていた。その度に彼は、その精密な作りに目を見張っていた。彼と部下たちが命をかけて相対せねばならぬ敵の技術力に‥‥。特に、かねてより彼が強敵と感じていた、より強力な七五ミリ主砲を搭載したⅣ号戦車‥‥喉頭マイク、ヘッドセット、車内通話装置といった装備は戦闘中の会話を容易にすることが理解できたし、その照準器は、ノドから手が出るほど欲しいと思った。
また最近、彼はいやな噂を聞いていた。ドイツ軍が、このⅣ号戦車をはるかに凌駕する強力な新型戦車を配備し始めたというのだ。それは、彼らの八八ミリ高射砲を転用したと推定される巨大な主砲を搭載した「二階建ての家のような」重戦車だという‥‥。無論、赤軍のかつてのT‐35のような時代遅れの戦車などではなく、おそらくドイツの最新技術が結集された、極めて高い戦闘力を持つ戦車だという。その八八ミリ主砲はT‐34の装甲をたやすく撃ち抜き、その装甲は傾斜こそ特につけられていないが、このT‐34の七六・二ミリ主砲をたやすくハネ返すという‥‥。この驚くべき重戦車は彼らのⅥ号戦車であり、「ティーガー」すなわち虎というのが、その重戦車の呼び名らしい、とのことであった。出来れば出会いたくないものだ、とワイネルは思った。だが、スターリングラード戦以後も、ドイツ将兵たちの粘りは、彼らの数からすれば驚異的であった。いずれ、対峙せねばならぬときが来るだろう。
ワイネルは、新たな上申書を提出しようと考えていた。以前、KV重戦車に搭載を提案した、52‐K八五ミリ高射砲の対戦車砲弾を用いる戦車砲。それを、このT‐34のボディーに搭載できないものか‥‥。しかし、T‐34の砲塔の大きさで、それを搭載するのは難しい。現状の砲塔に無理をして搭載すれば、兵器としてのバランスを崩してしまいかねない。搭載するためにはどの点を改めるべきか。ユーリ・ワイネルは、八五ミリ砲の搭載を希望しつつ、この問題点にも言及した上申書を提出した。
ジューコフは、政治面におけるスターリンがそうであるように、前線の現場においては厳父でもあった。彼はまた、司令官たちの間で、余りにも兵を無駄づかいすることでも知られていた。彼は多くの勝利をもたらすとともに、「卑怯者」「裏切り者」に対しては多くの銃殺をもたらすイメージ(あくまでイメージである)を兵士に持たれてもいた。赤軍の将校は、兵士のおよそ百倍(!)の給料を貰えるようになった――元となる兵士の給料が低すぎたという点もあるが、この待遇は悪くない。ジューコフはモスクワ攻防戦の最中に――この戦いにおける彼の功績は、前述の通りである――レフ・トルストイの「戦争と平和」を読むなど文人肌の一面も持ち合わせていたが、この文人肌の面をより強く持っていたのが、彼の副官イヴァン・コーネフであった。
イヴァン・ステパノヴィチ・コーネフ。一八九七年生まれのこの軍人は、この戦争の初期、ヴャジマ攻防戦での敗北により、国防委員会の特にヴォロシーロフの不興を買っていた。彼は軍法会議にかけられそうになっていたところを、ちょうどレニングラードから帰ってきたジューコフに救われ――ジューコフの影響力がわかろうというものだ――彼の副官となっていた。コーネフはスターリンに忠実であった一方、アルコール類を口にせず、また前線視察の際には外套で階級を隠すという繊細な神経――赤軍将兵たちを困らせないためである――も持ち合わせていた。そのカバンには、古代ローマ時代のリビー、またトルストイ、プーシキン、ゴーゴリ等の本がいつもおさめられていた。
ジューコフに助けられた高級軍人には、ほかにコンスタンチン・ロコソフスキーがいる。コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ・ロコソフスキーは、大粛清当時に逮捕されてしまっていたが、彼の才を惜しんだゲオルギー・ジューコフの嘆願により釈放されていた。一八九六年生まれ――このロコソフスキー、コーネフ、ジューコフらは、みな同世代である。この戦争においては、機械化軍団長として、一九四一年一一月から第16軍を指揮、一九四二年七月からはブリャンスク戦線司令官に任命、スターリングラード攻防戦でのドイツ第6軍の逆包囲に貢献することになった。
彼らより少し下の世代に位置する高級軍人として、キリル・モスカレンコがいる。この辺りの微妙な世代差は、経験の違いとして大きく現れる。先の三名が帝政ロシア軍人としてキャリアをスタートさせたのに対し、一九〇二年生まれのこのモスカレンコの世代は、最初から赤い旗のもとに――すなわち赤衛隊ないし赤軍の軍人としてキャリアを積み重ねてきたのだ。キリル・モスカレンコはモスクワの戦いに参加し、また再編された第1戦車軍の司令官として、やはりスターリングラード攻防戦に参加、勝利していた。
「阻止砲火であいつの足を止めるぞ! 銃手も撃ちまくれ! ――装填手! いい仕事をしろよ‥‥!」
七月から八月にかけて、世にいうクルスク会戦(クルスクの戦い)が行なわれた。クルスク戦車戦という別名の通り、独ソ両軍の戦車が大量に投入された会戦である。
「次弾でいただく! 発射後に‥‥操縦手――前進! 全速だ!」
部下たちに檄を飛ばすユーリ・ワイネルの姿も、そのなかにあった。
「蹂躙しろ!」
この会戦中、特に激しい戦車戦が行なわれたのは、七月一二日のプロホロフカの戦いと呼ばれるものである。この死闘もまた、別の機会に語られるべきものであろう――大きな犠牲を払いながらも、ともかくも赤軍側の勝利に終わった。
ブニコフ――アレクセイ・A・ブニコフは、歩兵として前線へ出ていた。彼ら歩兵には、様々な、楽ではない仕事があった。突撃に際しては、背後に督戦部隊の機関銃が設置された。最高指導者ヨシフ・スターリンは、「赤軍においては前進よりも退却に勇気を要する」と述べたものだが、この精神を具現化したものであろう‥‥。物資に余裕があるときは、恐怖心を紛らわせるためにウォッカ等の酒が振る舞われることもあった――我に返ったら地獄の一丁目、というわけである。敵軍の銃砲火の真っ只中を、T‐34にしがみついて突撃させられもした。また、戦車部隊を苦しめる地雷の探査とその処理の問題は、ドイツを含め多くの国の軍隊を悩ませていたが、ソビエト連邦においてこれは、歩兵の仕事であった。歩兵たちは、長い棒を持たされ、地面や草むらをそれで突つきながら前進せねばならなかった。爆発音と煙柱と共に歩兵が吹き飛ばされれば、それで探査と処理を同時に行なったことにされた。これでもまだ、生命が保たれる可能性がわずかでもある分、懲罰兵に較べればましであったかもしれない。彼らは、自分の足で地雷の探査と処理をさせられた‥‥。そんなある日、アレクセイ・ブニコフは戦場でそれを見つけたのだった。
襲撃機が、地上のドイツ軍を襲っていた。そのぶ厚い装甲は、ドイツ空軍の戦闘機の弾丸をハネ返した。シュトゥルモヴィーク――Il―2は、空からのスチームローラーとなり、枢軸勢を蹂躙していた。イリューシンIl―2は、TsKBの設計主任、セルゲイ・イリューシンの設計した機体をもとにイリューシン設計局が開発した対地攻撃機である。対地攻撃は苛烈な任務であり、装甲の重要性は以前から指摘されていた。胴体のほぼ前半分を高張力鋼の鋼板で覆い、また機体の一部は木製で大重量となったが、大きな翼面積を持たせカバーした。この装甲された攻撃機は、大抵の機関銃弾を跳ね返す頑丈さを持ち、地上のドイツ兵からは「黒死病」と恐れられた。極めて多数が生産され、勝勢に大きく貢献した。
この時期のソビエト側爆撃機としては、他にペトリャコーフPe‐2、ツポレフ設計局のTu‐2があげられる。Pe‐2は、ウラジミール・ペトリャコーフという技師の設計した原型機VI‐100をもとにしており、このいわゆる独ソ戦の比較的早い段階から前線に投入された。Tu‐2は、独ソ戦の中盤から投入された、より高性能の機体であった。このペトリャコーフ、そしてツポレフ設計局の主任技師アンドレイ・ツポレフは、エジョフシチナの被害者である――VI‐100およびTu‐2は、獄中で設計されている。大量産されたIl‐2ほどではないが、両機種とも独ソ戦において戦果をあげた。
ポリカルポフU‐2は、意外な働きをした小複葉機である。離着陸の滑走距離が短く、巡航速度が極めて遅いため敵戦闘機に撃墜されづらく、前線での連絡・偵察・着弾観測等に便利に使うことができた。しかし、本機が最大の効果をあげたのは、何よりも夜間襲撃機としてである。小型で木製帆布張りの本機が低高度を飛ぶと、レーダーでは捕捉しづらかった。消音器を装備した本機は夜間、忍び寄るようにドイツ軍の空軍基地等を襲撃した。彼らを安眠させないために。この小複葉機は、夜間、いわゆる「飛行機」の飛行のイメージからするとかなり低高度を、かなり遅い巡航速度で飛ぶことができた。ベッドで寝ていたら、本機の乗員に窓から顔を覗き込まれたと、真顔でこぼすドイツ空軍兵もいた。
ナチス・ドイツの支配に抵抗したのは、正規軍だけではない。パルチザンと呼ばれるゲリラ部隊が、ドイツ軍の後方で道路や鉄道など輸送機関の破壊活動を行なった。ただし、旧ソビエト連邦地域のそれは、基本的にはモスクワ放送等でソビエト連邦政府による指導および命令を受けていた。ロシアにおけるパルチザンは、侵攻の年一九四一年の夏から活動していた。ベラルーシは交通の要衝であったため、ソビエト政府もパルチザン活動を重視した。この地域では、一九四二年三月まで、パルチザンはほとんど支援なしにドイツ軍と戦った。
ほかに、東欧諸国でも同様のナチス・ドイツに対する抵抗運動――破壊活動が行なわれた。ユーゴスラビアのパルチザンは独自の意志決定機構を持ち、モスクワの指揮下には完全にはなかった。アルバニアにもこのパルチザン活動があり、東欧ではないがギリシアでも抵抗活動が行なわれた。
(メシだ‥‥)
アレクセイ・ブニコフの目が輝いた。彼が見つけたそれは、ドイツ軍の野戦炊飯車であった。管理していたドイツ兵たちは、T‐34の襲撃に逃げていったのか、姿は見えなかった。そのT‐34部隊も、新たに救援に駆けつけたドイツ軍戦車との戦闘に向かっていた。つまり、周囲には誰もいなかった。その野戦炊飯車には、まだ温かい肉のスープが用意されていた。皿とカップ、フォークとスプーンもあった。不幸なドイツ兵は、これにありつく直前に襲撃されたのだ。スープには玉葱も入っており、しかも肉は牛肉だ――どちらもふんだんに入っていた。空腹だったアレクセイは、さっそく皿に盛り、ガツガツと食べ始めた。その味は、いままでに味わったことがあるかというほど、美味であった。空腹であった点を除いても、俺の人生でこんなうまい物を食ったことがあるだろうか‥‥。戦場では無論のこと、全人生において――。赤軍にも野戦炊飯車PK‐43はあり、アレクセイも世話になったことはあるが、設備といい中身といい、こちらのほうが格段に上だった。コーヒー沸かし器までついているではないか。カップはそのためなのだ‥‥! アレクセイは、遠くに砲声を聞きながら、コーヒーを沸かし始めた。その砲声には二種類あり、片方はT‐34、もう一方はドイツ軍の新型戦車のものであったが、ブニコフにはそれは聞き分けられず、というより聞く気もなく、ひたすら味覚に神経を集中させた。
(コンソメとバター、トマトだな。そして、塩と胡椒か‥‥)
舌鼓を打ちながら、コーヒーが沸くのを待つアレクセイは、幸福感に包まれていた。
「ドイツ文化は素晴らしい‥‥」
ブニコフはひとりごちつつ、あることを思い出していた。
(そういえば、あの家に行ったときも、うまい物を食ったな‥‥)
ソビエト連邦での彼の暮らしのなかにも、これに匹敵する食の幸福に出会ったことがあるのだ。やはり祖国を賞賛するべきか? しかし、あれは、ロシア料理ではなかった‥‥。
幸福な煩悶に浸っていたアレクセイ・ブニコフの耳に、キャタピラの音が聞こえてきた。遠く土煙の向こうから現れ出でた戦車は、T‐34ではなかった。ドイツ軍の新型、Ⅴ号戦車こと「パンター(豹)」であった。その名を知らぬアレクセイも、それが自分の所属の軍隊と敵対している側のものであることはわかった。逃げ出すべきだろうか? いまならそれが可能だ。兵隊ひとりを追い回しはしないだろう‥‥。しかし、アレクセイはそれをせず、その戦車が近づくのを待ち、やっと沸いたコーヒーをカップに注ぎ、一口すすると、両手をあげたのだった。
一九四三年の冬を前に、ユーリ・ワイネルは結局「自走砲」に乗ることとなった。
SU‐85。
‥‥一九四三年一月、レニングラードにおいて「ティーガー」が捕獲されており、これと戦闘可能な自走砲の開発が急がれていた。八五ミリ高射砲と一二二ミリ榴弾砲を、T‐34のものを流用したシャーシに搭載することが検討され、一二二ミリ砲のSU‐122が先に開発・配備されていた。そのSU‐122のシャーシに、これも有用と判断されたD‐5S八五ミリ砲が搭載されることになったが、同車輌の砲架は直接照準器を装着できなかった。そこで、直接照準器を装着できる新型の球状形態の砲架の開発と戦闘室の再設計が行なわれた。この再設計により、固定砲塔――戦闘室内に八五ミリ砲弾四八発、機銃の弾薬一五〇〇発、ほか自衛のための手榴弾を搭載可能となった。これがこのSU‐85で、この秋から戦線に投入されていた。主砲は車体の中心線よりやや右側に配置され、T‐34より乗員が動きやすいスペースがあった。目玉を思わせる球状形態の砲架の、瞳にあたる部分から突き出した長槍のようなD‐5S八五ミリ砲が印象的であった。ワイネルもSU‐122とその戦闘を見る機会を持っていたが、一二二ミリ榴弾砲の発射速度や砲弾初速の遅さは、対戦車戦に向いているとは言い難かった。KV‐2の二の舞とは言わないまでも、ただ大口径の砲を載せればよいというわけではない――ワイネルがまた上申書を提出しようかと迷っていたとき――不向きだからといって、自分が使いもしない兵器について口を出すのはどうかとも思った――昇進とともにこのSU‐85の中隊を任せられたのであった。
SU‐85の主砲は、左右それぞれ一〇度が旋回限度であり、仰角は二五度、俯角は五度しか取れなかった。この俯角が五度というのは、傾斜のある地形での砲撃、また近接攻撃においてハンディとなるであろうと、ワイネルは思った。ただ、装填手は戦闘室の主砲の後方を自由に動き回れるようになり、T‐34に較べてずいぶん仕事がしやすくなった。その戦闘室は、正面で五〇度、両側面で二〇度の傾斜のついた、およそ四五ミリの装甲で守られていた。なお「自走砲」はおもに赤軍側の呼び名であり、ドイツ側の戦車部隊での同様の兵器の呼称は「駆逐戦車」である。
「ティーガー」とは、すでに不幸な出会いを持っていた。クルスク会戦の終わり頃である。ワイネルが所属していたT‐34の中隊は、そのとき一三輌いたのだが、たった四輌の「ティーガー」の奇襲を受け、全滅させられたのだ。ワイネル車が他車との共同でやっと敵の二輌を動けなくし、彼らは戦車から脱出し逃れたのだった‥‥。
混乱のため、ワイネルは後退容疑でスメルシに逮捕されることはなかった。敗北の責任は、すべて戦死した中隊長に負わされた。しかし彼は、戦績を誇る気にもならなかった。T‐34の七六・二ミリ主砲は、至近距離でも「ティーガー」の装甲を貫けなかった。「ティーガー」、それは、ユーリ・ワイネルの悪夢の名であった。――ティーガーを相手にする際は、少なくとも三倍、なるべくなら五倍、可能なら七倍以上の数で相手にすること――。このSU‐85の中隊を任せられたとき、部下たちにそう下命し、自らも実行してきた。元の中隊の生き残りは少なく、あの戦車の恐ろしさを知らない若い兵士が多かった。
「おまえらを死なせたくないんだ」
それからユーリ・ワイネルは少しの間、言葉を探すのだ。
「みんな家族なんだ」
後方は、わかってくれるだろうか。あの化け物が、今までのⅢ号戦車やⅣ号戦車とは、根本的に異なるのだということを‥‥。「ティーガー」対策として、KV‐1Sのシャーシに、かつてのKV‐2とは異なる強力な一五二ミリ砲を備えたSU‐152自走砲が開発され、すでに実戦投入されてはいたが‥‥。
偵察に出させていた部下二名が戻ってきた。ひとりは、かつての中隊の数少ない生き残りのゴルシューノフだった。経験豊かな、そしてあれを見たことがある‥‥。
「敵戦車、二輌です。大きかったです」
配属されたばかりの若い兵士が興奮気味に、両手を大きく広げて報告した。ワイネルは、ゴルシューノフの顔を見た。
「間違いありません。奴です。ティーガーです」
いかつい顔の古参戦車兵ゴルシューノフは、きっぱりと言った。ワイネルは迷った。
「やりましょう中隊長」
「やりましょう中隊長。何のための八五ミリかわからなくなる」
ゴルシューノフも、力強く重ねた。彼はワイネルと同等の経験を積んでおり、当時は中隊長の車輌の装填手であり、あの悪夢の日、長年付き添ってきた愛車と中隊長ほか二名の同僚を、同時に失っていた。ワイネルのことはT‐34の中隊の頃から信頼しており、ワイネルの部下となってからは彼に忠実で、新しく配属された若い兵士たちをよく教育してくれていた。KV‐1には軽量化と駆動系の改良により高速化を図った先の改良型KV‐1Sが登場していたが、ゴルシューノフはワイネルと同じくKV‐1よりもT‐34を高く評価しており、またワイネルのT‐34への八五ミリ砲の搭載案に感心し、彼を評価してくれてもいた。これらの点においてはワイネルの同志と言えたが、ワイネルとは違い、このSU‐85を高く評価していた。彼が前中隊で、装填手というポジションにこだわり続けてきたことも、ワイネルはよく知っていた。
「そうだな」
ワイネルは、彼らに、また自分自身に言い聞かせるように言った。
「キエフはもうすぐだ」
すでにKVシリーズにも、KV‐1Sのシャーシに新型の砲塔を取り付け、同じD‐5T戦車砲を搭載したKV‐85が登場していた。T‐34への同砲の搭載も、可能と思われた。以前の上申書で触れた問題点は、砲塔そのものを大型化することで、解決が可能ではないかと考えた。ユーリ・ワイネルは、また上申書を書き送った。ただ大型化するだけではなく、問題のある四人編成を改め――ドイツ戦車のように、とは書けなかったが――戦車長と砲手を分けた五人編成とするべき、砲塔大型化による重量増加に伴う速度および行動距離の若干の低下は、致し方ないのではないか‥‥等々。
――一一月六日、赤軍はウクライナの首都キエフを奪還した。
アレクセイは、自分の判断が正しいと思った。彼は(元戦車兵であるにも関わらず)戦車や自走砲の類には食物以上の興味を持てなかったが、ドイツ軍のBMW・R75サイドカー付オートバイだけは格好いいと思い――運転は大変そうだからサイドカーのほうに――乗ってみたいと思った。食物だけでなく、ドイツが優れており、ソビエトが劣っている象徴のように、彼にはそのマシンが見えていた。
ラヴレンチー・ベリヤの努力は功を奏し、秘密警察の彼の配下のスパイたちは、特に英米の上流社会に食い込み始めていた。彼らの仕事のひとつに、スターリンとソビエト連邦のイメージアップがあった。パイプを小道具に――時にはくわえ、また時には左手に持った――「ジョセフおじさん」(「ジョーおじさん」)の姿は、英米国民たちにも親しまれるようになった。ジョセフおじさんの国はなお謎に包まれているが、狂ったアドルフ・ヒトラーを倒すために彼の国と連合したことは正しかったのだ‥‥というわけである。
ウクライナは、ほぼ全土が戦場となっていた。ソビエト政府は、それまでの「南方戦線」という呼称を「ウクライナ戦線」と命名し、ウクライナ人の心を少しでも懐柔しようと努め、彼らを前線へと送り込んだ。
一九四四年一月、ドニエプル河畔‥‥。この河のキエフ南方にある大きな屈曲部を赤軍に渡してはならないというヒトラーの意向により、マンシュタインのドイツ南方軍集団がその場所を守っていた。ドニエプル河の西には、ポリーシャ(プリピャチ沼沢地)と呼ばれる地域が広がる‥‥。
この屈曲部には、兵力の減ったドイツの部隊が、ジトーミルの南東およそ二〇〇キロのコルスン付近に集結していた。彼らはいまや、南北からの挟撃の脅威に晒されていた。北からは赤軍の第1ウクライナ方面軍によって、また南からは第2ウクライナ方面軍と改称された部隊によって。この第2ウクライナ方面軍の前進により、マンシュタインは追い込まれた――この軍を率いていたのが、イヴァン・コーネフである。彼の用兵を見てみる。
マンシュタインの装甲予備は大部分が使い果たされており、この包囲された部隊――うちひとつは、武装親衛隊の「ヴィーキング」装甲師団であった――のために、増援ないし退却の道を確保する手段がない状態であった。コーネフの部隊には、名高い第5親衛戦車軍が含まれていた。この戦車軍は、クルスク会戦以後、すでに完全に補充されていた。コーネフの方面軍の右翼部隊は、一月二四日、ドニエプル河のドイツ軍突出部に突入し、奥行き約一三キロ、正面約二七キロにわたって戦車と歩兵を展開させた。その二日後、北の第1ウクライナ方面軍が前進を開始、二八日、赤軍のこれらふたつの挟撃部隊の長は、スヴェニゴロドゥカで固く握手した。マンシュタインは、残り少ない指揮下の戦車を用い、南方に通じるルートを保持しておこうとした。これに対しコーネフは、第5親衛戦車軍を派遣した。また、支援として騎兵一個軍団を投入した――この戦車部隊の用い方それ自体が騎兵隊的なものでもあったが。ヴァッフェンSSの「ヴァロニェン」旅団の一員で、この戦闘に参加したある兵士が、第5親衛戦車軍の襲撃をこのように記している。
「T‐34は数波になって押し寄せ、われわれの補給車輌や大砲を履帯の下に押し潰し、文字通り退却するわが軍の上を駆け抜けたのだった。わが軍は、ようやくある河のほとりにたどり着き、兵士たちは衣服を脱いで氷のような水を湛えた河を渡ろうとひしめきあっていた。そこへT‐34が、群がりもがく集団に機関銃火を浴びせながら土手を駆けおりてきた」
ヴァロニェン旅団――SS突撃旅団「ヴァロニェン」は、おもにベルギーのワロン人義勇兵によって構成された部隊である。
「数千の兵士は、ある者は裸のままで、ある者は凍りつくような衣服を身につけて雪の上を逃げ回り、ついには機関銃の銃声とともに次々に倒れていった」
脱出を試みていた別の縦隊も、二月一七日夜、シャンデロフカの村のはずれで襲撃を受けた。村のこの集落めがけ、赤軍は一晩中、激しい砲火を浴びせていた。夜が明け、彼らはともかく動き出そうと行進の態勢を作った。ヴァッフェンSSのヴィーキング師団とヴァロニェン旅団が外側に、国防軍(陸軍)の歩兵部隊が内側に位置していた。その後何が起こったかについて、赤軍の騎兵軍団のある少佐が、次のように記している。
「それは午前六時頃だった。われわれの戦車と騎兵隊が、まっすぐ敵の縦隊に突っ込んでいった。‥‥ドイツ兵は、たちまち、ちりぢりになって逃げ去った」
ヴィーキング装甲師団――第5SS装甲師団「ヴィーキング」――はその精強さで非常に名高いが、この頃には大きく疲弊していたようである。
「四時間というもの、われわれの戦車は草原を北に南に駆けめぐり数百の敵を踏み潰した」
騎兵隊は、この大戦においてすでに時代遅れであったことは間違いないが、戦車の部隊と組み合わせるこのような用い方もコーネフはした。
「わが騎兵隊も戦車と競いながら、戦車が追いかけるには難しい谷間などでドイツ兵を追いまわした。そして何百名という騎兵が軍刀を振りかざして襲いかかり彼らを切り刻んだ」
この小さな地区で、二万名以上のドイツ兵が殺害されたと言われる。赤軍側も多大な死傷者を出したが、コーネフはこの戦い(コルスン包囲戦)の勝利により、二月二〇日、元帥に昇格した。
赤軍側――ソビエト連邦は、包囲の成功という点で、この戦いをスターリングラード戦の再来と喧伝したが、実際には脱出に成功したドイツ将兵も数多かった。その分は、赤軍側の失敗と見なしてよいのではないだろうか。
ベリヤは、この戦争においては、国内問題にも対処した。収容所の数百万もの囚人を、戦時生産活動に使役した。また、ゲオルギー・マレンコフとともに、武器、航空機、航空機エンジンの生産を監督した。ベリヤとマレンコフとの本格的な接近――同盟の始まりであった。
春‥‥。ワイネルの中隊は、ドイツ軍との戦闘の末、ウクライナからベラルーシに入った地域のある村を解放した。集められていたのは、その村の住民だけでなく、近郊から移動させられてきた人々もおり、女と子どもたちがほとんどだった。聞けば、男たちは、どこかへ連れて行かれたという‥‥。ユーリ・ワイネルは、その女たちのひとりに目をとめた。古びた服装、頭を包むプラトーク‥‥といった身なりは、他の女たちととりわけて違いはない。一見、どこにでもいそうな中年女だが、どこかしら凛としたところがある。他の女たちが、地面を叩いて、あるいは抱き合って喜びを表現し、ワイネルら戦車兵に感謝を捧げ、また夫や息子や父親を取り戻してくれるよう懇願していたが、その女は、何をするでもなく、そこに突っ立っていた。かといって、突然の解放という幸運に放心している――というようでも、ない。ワイネルがその女に目をとめたのは、その女のそうした様子が第一だったが、それだけでなく、彼の心に、もうひとつ、引っかかるものがあったからであった。どこかで、会ったことがあるような気がするのだ‥‥。ユーリ・ワイネルは、その女に歩み寄り、声をかけた。女は、まるで声をかけられるのを待っていたかのように、いや、ワイネルがそうすることをあらかじめ知っていたかのように、ゆっくりと向き直った。
(俺はこの女と、どこかで会ったことがある――!)
ワイネルの漠然とした思いは、確信へと変わった。だが、肝心の、いつ、どこで――は、皆目見当がつかなかった。女とワイネルの周囲に、奇妙な静寂が訪れた。どのくらいそうしていたろうか、ユーリ・ワイネルが我に返ると、他の女たちがふたりを見て、ひそひそと囁きあっていた。見ると、怯えた目つきの者もいる。ひとりの、若いインテリゲンツィヤ風の女が、ワイネルの前に立つ女を指さし、何事かまくしたて始めた‥‥。
「ドイツの言葉を話していました」
「私たちは食べ物も与えられず、動けずにいたというのに、この女はずっと元気だ」
「同志スターリンを悪く言っていました」
なかにひとり、温和そのものといった風の、かなり年のいった老婆がおり、「私の病気を治してくれたよ。ドイツ軍に捕まる前より、元気になったくらいじゃ」と、党員に見せてあげたいほどの弁護もしたが、大勢の声に掻き消された。
「ドイツの兵隊が、見せしめのためにこの女を撃ち殺そうとしたんです。この女を立たせて撃ったんですが、外れました。他の兵隊たちが笑いました。それで今度は近づいて撃ちました。三メートルくらいしかなかったのに‥‥弾が外れたんです! そいつも他の兵隊たちも、気味悪がって、怖気づいてしまいました」
「しばらくして、奴らの上官が怒鳴りながら出てきたんじゃ。そいつは、この女をまた立たせて、すぐにピストルで撃った。――また外れたよ! 二メートルもあるもんかい! ‥‥その将校は蒼くなりながら、兵隊に女を押さえつけさせ、直接この女の頭にピストルを突きつけた。そのときのこの女の恐ろしい目! ありゃあ、この世のもんじゃなかったよ。‥‥将校は大声で喚きながら、撃ったんじゃ――兵隊は顔を背けていたな――‥‥。ところが、なんとしたことか! 飛び散ったのはこの女の脳味噌じゃなく、ピストルのほうだったんじゃ! 暴発、というのか‥‥。 ‥‥将校は怪我をして運ばれていった。どうも、少し、気がふれていたようじゃ‥‥。魔女じゃ! この女、魔女に違いない‥‥!」
「他にもあります。べつのところで、やはりこの女を叩いたドイツ兵が、その晩高熱を発しました。叩いた手が大きく腫れ上がっていたようです」
などどいう、にわかには信じ難い証言も寄せられた。女は、BA‐64Bでやって来たスメルシに連れて行かれた。そしてそれっきり、中隊内ではその女の話題は禁忌 となった。ワイネルは気になりつづけたが、どうすることもできなかった。もしスメルシに問い合わせでもしたら――‥‥彼らは、モスクワにだけ忠実な、飢えた狼だ。些細なことで食らいつき、将兵を逮捕する。強運の彼とて、逃れられないだろう‥‥。
――ベラルーシには十月革命と当時のドイツ軍の占領の後、一九一八年にベラルーシ人民共和国(ベラルーシ国民共和国)が樹立されていた。しかし、すぐに赤軍の侵攻により「白ロシア・ソビエト社会主義共和国」としてソビエト連邦に組み込まれた。そして、ポーランド・ソビエト戦争後成立したリガ条約により、西半部がポーランドに割譲されてしまっていた。一九三九年の赤軍のポーランド侵攻を機に、これらの地域はこの「白ロシア共和国」に戻されたが、今度はナチス・ドイツに占領されていたのであった。
BA‐64は赤軍のジープとも呼ばれた軽装甲車で、よく用いられていた。同様の軽装甲車にはほかに、D‐8、D‐12、D‐13、FAI、BA‐20、PB‐4、PB‐7、BA‐30等があった。このほか、英米から供与されたジープ、トラック等も多く用いられた。赤軍には他に、アエロサンと呼ばれる独特の走行兵器も存在した。それは、航空機用エンジンで回すプロペラ推進の、橇を履いた戦闘用スノーモービルである。ソビエト連邦ならではの兵器といえる。ANT‐Ⅳ、NKL‐16、NKL‐26、RF‐8、ASD‐400等があり、一例としてNKL‐26は七・六二ミリ機関銃を装備し、多少の装甲(フロントで一〇ミリ)が施されていた。
2014年7月27日、本文の体裁を整えました。
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PDFでは一部のルビと一部の文字がうまく表示されないようです。「?号戦車」の「?」はローマ数字の「3」「4」「5」「6」の誤表示で、それぞれ「3号戦車」「4号戦車」「5号戦車」「6号戦車」となります。「パンター」は5号戦車、「ティーガー」は6号戦車です。PDFでない横書き版のほうを参照してください。どうもすみません。