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フェアリー・テール  作者: 田中 鉄也
第一部 スターリン
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1.革命(1)

ロシア革命へ向かって。

 大戦は、この国の歴史に決定的な(くさび)を打ち込んだ。一九一四年から始まった、いわゆる欧州大戦である。

 ユーラシア大陸はこの惑星最大の大陸であり、その巨大な大陸の内部には、広大な空間が広がる‥‥。気候は大陸性気候であり、ロシア帝国は、この大陸の北部から中央部を覆うように占める大帝国であった。広大な帝国領の大部分において、夏と冬の温度差は大きい。特に冬の寒さは酷く厳しく、場所によっては氷点下四十度に達することも珍しくない。この、特に強い冬のために、春と秋は極めて短い。人々の生活も、当然ながらこの厳しい環境に大きく影響を受ける。〈冬〉――この帝国における冬期とは、特別な意味を持っているのだ。

 しかしまた〈冬〉は、ただ試練と制約だけを人々に与えているわけではない。その酷寒と大量の積雪――春期に溶けることによって泥濘へと変わる――は、「冬将軍(ジェネラル・フロスト)」と呼ばれ、特に西方――西ヨーロッパ方面からの侵略者たちをもまた打ちのめし、帝国を護ってきた。先のナポレオン――ナポレオン一世による侵攻が、その代表例である‥‥欧州に覇を唱え栄華を誇った彼は、この将軍による痛手から立ち直ることができず、敗れ、彼の帝国は時代の波間に藻屑と消えた。

 ロシア帝国に対する西ヨーロッパ方面との軍事的な衝突には、他に、このナポレオン一世の挑戦から遡ることおおよそ百年前、カール一二世率いるスウェーデン王国らとの大北方戦争もよく知られている――迎え討ったロシアの皇帝(ツァーリ)は「大帝」こと、ピョートル一世であった。およそ二十年にわたったこの戦乱によって、ロシアはバルト海への進出を果たし、首都を、内陸のモスクワから、その新航路に面したサンクトペテルブルクに移した。

 一九一四年六月、オーストリア=ハンガリー二重帝国の皇太子が、バルカン半島はボスニアの首都サラエヴォにおいて、セルビア民族主義者の手により暗殺された。この事件は、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟とイギリス・フランス・ロシアの三国協商等々、それまで緊張の対立をしてきた欧州各国を、戦乱の渦のなかへ巻き込んでいった。ロシア帝国は、同じ正教文明の兄弟であるセルビアの独立を支持していた。オーストリア=ハンガリーのセルビアへの宣戦布告を受けて、皇帝(ツァーリ)であるニコライ二世は七月末、総動員令を発した。

 ツァーリへの支持は、すでに揺らぎ始めていた。一九〇五年初頭、「血の日曜日事件」と呼ばれる惨劇が起こった。年が明けたばかりの一月九日、帝国の首都サンクトペテルブルクにおいて、正教――キリスト教――の司祭の指導のもと、およそ六万人の労働者たちが、自分たちの法的な保護、露日戦争(日露戦争)の中止、憲法の制定や基本的人権の確立を、ツァーリと政府に請願する行進を行なった。これは、請願であった。教えでは、ツァーリは正教会の守護者であり、その権威と権力は神から授かったものであった。いわばツァーリは、現世における神の代理人であった。だから労働者たちは、ツァーリ――ニコライ二世への直訴により、自分たちの困苦が改善されると、素朴に信じていた。サンクトペテルブルクの労働者の半数以上がストライキを行ない、彼らを支援した。だが、そんな彼らに向けて、ツァーリ政府当局は銃弾の雨を浴びせた。この日は日曜日であったため、先のように呼ばれた。一千人以上の死傷者が出た――四千人以上が犠牲になったとも言われた。全国で抗議運動が湧き起こり、一部では暴動となった。抗議運動は、やがて反政府運動へと転化した。政府は弾圧を開始し、それは峻烈を極めた。ツァーリに対する幻想は打ち砕かれ、革命を目指す勢力によって「ソビエト(ソヴィエト)」と呼ばれる労働者・農民・兵士たちによる評議会が作られたが、やがて消滅を余儀なくされた。


 その列車は、スイスのベルンから出発し、ドイツ帝国の首都ベルリンを通り抜け、バルト海を船で北に渡りスカンディナヴィア半島へ、スウェーデンの首都ストックホルムを経て、バルト海を今度は東に渡り、ロシア帝国領フィンランドのハンコに再上陸した。ヴィボルグを通り抜ければ、帝国の首都は目前だ‥‥。これは「封印列車」と呼ばれ、途中での乗り降りが禁止された特別なものだった。

 ロシア帝国領の東西は、この惑星の四分の一に及ぶ。アジアとヨーロッパの境界といえるウラル山脈と、世界最長級の三大河が南北に横切っている。帝国領の北部は、農業や林業といった人類の営みを受けつけない永久凍土地帯、いわゆるツンドラである。この地帯の南部のラインは「森林限界(樹木限界線)」と呼称されている。つまりそこから、この惑星の北半球の森が始まるのだ‥‥シベリアと呼ばれるこの広大な地方における森林は、実にこの惑星の四分の一の樹木を有すると言われている。さらに南にくだると、やっと温和な気候のステップ(「平らな乾燥した土地」の意)となる。広大な黒土が広がり、穀物を作る人々の営みに対し、恵みを与えてくれるようになる。この緯度帯には砂漠もあり、東は隣国であるモンゴルに繋がり、西はアラル海の東まで広がる。ここもまだ、帝国領である。アラル海のさらに西には、世界最大の内海であるカスピ海が存在する。アラル海の向こう岸――ロシアから見て――にはイランがあり、またその西岸には、領土のウラル以西――いわゆるヨーロッパ・ロシア――の南方のしめくくりとなるカフカース山脈がある。この地域は、他地域にもまして異なった民族が複雑に混在し、歴史を通じてもみあってきた。あの男の故郷、グルジアもまた、この地域にあった。

 別の角度から眺めてみよう。帝国の首都サンクトペテルブルクは、帝国領の北西端にある。その北には、北極海はバレンツ海に面した都市ムルマンスクがあり、また、一九世紀初頭にスウェーデンから奪ったフィンランドを有していた。その地域にはゲリシンクフォルスという都市があり、ボスニア湾、バルト海を睨んでいた。帝国は、やはり一九世紀の早い時期、ナポレオン一世の没落によって生じた権力の空白に乗じて、ロシア皇帝(ツァーリ)との同君連合という形式で、西方のポーランドを事実上属国化、支配しており、さらに西方の強大国ドイツ、そしてオーストリア=ハンガリー二重帝国と対峙していた。サンクトペテルブルクから内陸に大きく分け入った所に、モスクワがあった。さらに南にくだり、その名もツァリーツィンという都市を過ぎると、カスピ海沿岸に出る。カスピ海の西には、カフカース山脈を挟んで黒海があり、その対岸にはオスマン帝国が鎮座していた。これらヨーロッパ・ロシアから東へ進めば、そこにウラル山脈がある。その向こう側は、もうシベリアである。シベリアには、西から先の三大河、オビ川、エニセイ川、レナ川が流れる。これらはいずれも北へ流れる――北極海を下流としている。広大なその地域の中央から南部へ斜めにくだるように、シベリア鉄道と呼ばれる長大な鉄道が、アムール地方を通り抜け、はるか東方のウラジオストク(ヴラジヴォストーク、ウラジオストック)という都市まで走っていた。シベリア鉄道の拠点都市オムスクは、西シベリア地方と東シベリア地方の分かれ目であり、同市南方には大きくトルキスタン地方が広がっていた。オムスクより東、やはりシベリア鉄道の通ずるイルクーツクの南方には、外モンゴル地方を含め長らく「清」という王朝が君臨していたが、一九一一年から翌年にかけて倒され、中華民国という国家が誕生していた。この清朝に服属を余儀なくされていたモンゴルには、ボグド・ハーン政権と呼ばれる政府ができ、独立を推し進めようとしていた。

 ウラジオストクの東には、海を挟んで日本帝国があった。過ぐる一九〇四年から翌年にかけて、ロシアはこの新興アジア国家と争った。露日戦争と呼ばれるこの戦争は、ロシアの敗北に終わり、大国ロシアの没落ぶりを世界に晒してしまった。そのさなか、先の通りサンクトペテルブルクで「血の日曜日事件」が起こった。日本は李朝(李王朝)の朝鮮半島を支配下に置き、ユーラシア大陸への勢力拡大の野心を見せていた。

 アムール地方の北には東シベリアがのび、北極圏でベーリング海峡を挟み、アメリカ領アラスカと向き合っていた。北極海には、東から、このベーリング海峡のあるチュクチ海、東シベリア海、ラープチェフ海、カラ海、と名がついていた。北緯度は実に七〇度線を越えるこの海域には、東から、ヴランゲリ島、ノヴォシビルスク島、セヴェルナヤ=ゼムリャ島、ノーヴァヤ=ゼムリャ島といった比較的大きな島々があった。無論、どれも酷寒の地である‥‥。

 この大戦は、前世紀の普仏戦争以来、欧州における四十年ぶりの本格的な戦争であり、またロシア史にとって――結果的にだが――大きな転換点となった。一九一四年八月、ロシア帝国はオーストリア領ガリツィア、またドイツのいわゆる(オスト)プロイセン地方に侵攻を開始したが、オーストリア軍のぶ厚い戦力、また近代兵器を有するドイツ軍の前に、一九一五年春には軍を後退させざるを得なくなった。同年九月、ニコライ二世は多くの反対を押し切って、自ら最前線へと赴いた。西欧の旧い物語を思わせるこの天晴れな騎士道精神は、しかし近代の戦争の前に、あまり役に立たなかった。戦争が長期化するにつれて、兵士と民衆の不満は増大していった。

 一九一二年二月末、はるかシベリア東部はレナ川に面したイギリス系企業、レナ金鉱株式会社が経営する金山で、劣悪な生活条件に抗議する鉱夫たちのストライキが始まった。四月のある日、陽気に整然と行進をしていた彼らに向けて、またも軍隊が発砲した。これは一五〇人以上の死者を出し、また多数が負傷した。この事件は全国的な抗議の嵐を巻き起こし、遠く首都サンクトペテルブルクほか、各地で何十万人という人々が連帯のストライキに入った。議会(ドゥーマ)のアレクサンドル・ケレンスキーという議員を長とする、調査委員会が設置された。ツァーリと、ツァーリの政府と軍隊への信頼は、ますます揺らいでいった。

 露日戦争後、退廃の宮廷内にグリゴリー・ラスプーチンという祈祷僧が入り込んでいた。この祈祷僧は皇太子の病を「治して」みせ、たちまち皇后アレクサンドラの信頼を勝ち得た。ラスプーチンは宮廷にたびたび呼ばれ、やがて隠然たる影響力を政界にまで及ぼすようになっていった。閣僚や姻戚関係にある諸侯らがニコライ二世に苦情を申し入れたが、彼と皇后はこの男を守り、これら政治の有力者たちは、苦虫を噛み潰したかのような顔で事態を憂えた。今次大戦におけるニコライ二世の前線行きも、このラスプーチンの「助言」によるものであった。ラスプーチンは妖しげな――性的な――言動や催しまで行ない、これに皇后までもが浸っていると、新聞でも報じられていた。夫であるニコライ二世が自ら戦地へ赴いているというのに――‥‥皇后アレクサンドラの評判は、日増しに落ちていた。アレクサンドラは、いまはドイツ帝国の一部となったヘッセン大公国のルートヴィヒ四世の娘にしてイギリスのヴィクトリア女王の孫でもあり、ドイツ名を持ってもいた。ヨーロッパにおける王室間の国際結婚はさほど珍しいことではなく、ニコライ二世が彼女を愛して結婚したことは事実であったが、ロシアの人々から見れば、彼女は現在交戦中のドイツの人間なのであった。ニコライ二世の不在もあり、殊に首都を始めとする都市部においては、階級の区別なく、皇后に対する批判が公然と口にされるようになっていた。


 首都「サンクトペテルブルク」はドイツ語風であるとして、ロシア語風の響きの「ペトログラード」と改称されていた。一九一六年の一二月なかば、このラスプーチンは、国を憂う若い貴族たちの手によって暗殺された。人々の多くは安堵を覚えながらも、先行きの見えない戦争と宮廷の混乱に、不安を募らせていた。そんななか、あの男――われらがヨシフ・ジュガシヴィリ――は、フェアリーと再会した。新年、一九一七年が明けた頃だった。フェアリーは重要な、非常に有益なメッセージを彼に伝えた。革命が起こること、そしてその先の未来で、彼が何になれるか――。妖精が言うには、なんと彼は「新しい(ノーヴィ・)ツァーリ」になれるというのだ‥‥! 妖精はまた、「ゾーヤ」なる自分の女主人が、会いたいと言っている、と伝えた。

 コーバ――われらがヨシフ・ジュガシヴィリは、徴兵を免れていた。左腕がうまく動かないことで、兵士には不適格とされたのだ。しかしまた彼は、このときも自由の身ではなく、アチンスクというシベリアの片田舎の鉄道町に住むことを強要されていた。帝国政府により、また流刑にされていたのである。フェアリーは、「ゾーヤ」もそれを知っており、彼女がペトログラードから会いに来てくれると言った。この頃になると、ヨシフ・ジュガシヴィリは、普段の好奇心を取り戻していた。「ゾーヤ」が老婆の姿をしていることを、フェアリーから聞き出してもいた。

 流刑といっても様々なものがあり、このときの彼には、アチンスクの町内に限り多少の行動の自由はあった。定められた日の午後遅く、アチンスクの鄙びた宿屋の一室のドアを、われらがヨシフ・ジュガシヴィリはノックした。

「誰じゃ‥‥?」

「あんたに呼ばれた者だ。ヨシフ――」

 われらがヨシフ・ジュガシヴィリは、名乗った。

「スターリン、だ」

「入るがよい‥‥」

 室内は暖かく、嗅ぎなれぬ異臭が彼の鷲鼻に感じ取られた。その匂いが、老婆が掻きまわしている小さな鍋から生じているのだということに気づくのに、長い時間はかからなかった。部屋は薄暗くされ、彼女が目深に被ったプラトークと呼ばれるこの国のショール――黒く、擦り切れていた――からは、水気というものがまったく無さそうな白髪がこぼれ出ていた。そしてその傍らには、何でもないことのように、あの妖精(フェアリー)がたたずんでいた。

 老婆は、相当な歳であった。七十を越えているのは間違いなく、八十、いや九十を超えていると言われても驚かないと、われらがヨシフ・ジュガシヴィリは思った。あるいは、それ以上でも――‥‥。顔じゅうが皺に埋め尽くされ、その切れ目が口や目なのであった。

 ヨシフ・ジュガシヴィリは、外套を、断ることもなく、小卓にかけた。老婆はこの無礼に、ジロリと彼を見たが、何も言わず、小鍋を掻きまわす手も止めようとしなかった。幾つかのやり取りの後、老婆――ゾーヤは、昨年の話を始め、そして何でもないことのようにラスプーチンの話を持ち出してきた。

「実は、あの男にはわしが〈力〉を授けてやったんじゃが、ちとやりすぎたのう。人の忠告を聞かんからじゃ‥‥」

 ヨシフ・ジュガシヴィリは、老婆の語るラスプーチンの話にも興味はあったが、まだ半信半疑でありつつも、それよりも気になる本題を聞きにかかった。

「婆さん、革命は、可能なのかい?」

 老婆は、再びジロリと彼を見た。そして笑った。

「フォフォ、気になるか‥‥。答えるのは簡単じゃが‥‥それを聞いてどうするのじゃ?」

「婆さん、俺はこの――‥‥妖精だろう? こいつの言う通りに行動してきた。あんたが飼い主だというのなら、聞く権利はあるはずだ」

 「飼い主」という表現に、ぼくは小鳥じゃないやい、と言いたげにフェアリーは彼を睨んだが、われらがヨシフ・ジュガシヴィリは、じっと老婆だけを見つめていた。フェアリーはそっぽを向き、老婆は小声でぶつぶつと何事か唱えながら鍋を掻きまわし続けた。小鍋の、肉の腐ったような、しかしどこか甘い、異様な匂いが部屋を支配していった。こんなときは大抵、われらがヨシフ・ジュガシヴィリは、相手が先に何か言い出すのを待っていた。議論を得意としない彼が、いつしか身につけていたやり方。近頃は、このやり方を、彼はむしろ得意とさえしていた。だがこの場合は、そうはいかないようだった。仕方なく、われらがヨシフ・ジュガシヴィリは、自分から口を開いた。

「婆さん、俺はこいつから言われた‥‥革命が成功し、政治が安定すれば、『ノーヴィ・ツァーリ』になれる、と」

 返答次第では――もしも嘘や冗談の類ならばこの場で殺すぞ、とでも言いたげなわれらがヨシフ・ジュガシヴィリであったが、老婆は涼しく答えた。

「そうじゃ。そう伝えるよう、わしが言うた」

 小鍋を掻きまわす手を、止めない老婆である‥‥。

「わしは嘘は言わん。そうなれば、ぬしは〈ツァーリ〉になる」

 老婆とヨシフ・ジュガシヴィリの鋭い視線が、空中で衝突した。

「――――‥‥。しかし‥‥」

「しかし?」

「俺が、この俺が、いったいどうやって‥‥」

 もごもごと言うヨシフ・ジュガシヴィリの口髭が動く様を、老婆はじっと見ていた。

「革命が成功‥‥われわれボリシェヴィキが勝利したとして、俺が‥‥?」

 そう、われらがヨシフ・ジュガシヴィリが所属する政治組織は、ボリシェヴィキといった。カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスによる、いわゆるマルクス主義に基づき、共産主義社会を至上の目標に、社会主義革命を目指している政党であった。

「わしは、ぬしらの革命とやらが成功して‥‥ぬしが最初の〈ツァーリ〉になる、とは言っておらんぞ」

「‥‥なるほど」

 われらがヨシフ・ジュガシヴィリは、やっと話が半分飲みこめたというように、頷いた。革命が成功すれば、即、この自分が、ボリシェヴィキと社会主義ロシア国家のトップになれる――。「新しいツァーリ」とはそういうことだと、いままで思っていた。われらがヨシフ・ジュガシヴィリのとんだ勘違いだったわけだが、これは彼自身意外なことに、怒りは湧いてこなかった。彼は、しばしば粗暴な面を見せたが、驚くべき粘り強さもまた、あわせ持っていた。それが実は彼の傑出した点――ボリシェヴィキの他の有力活動家たちと較べても――であったのだが、この時期には、彼の周囲も、そして本人も、そのことに気づいていなかった。要は待てばいいのだ。待つ。これができずに身を滅ぼした優れた才の持ち主は、古今東西、枚挙にいとまがない。

「‥‥では、最初のツァーリとは‥‥?」

 われらがヨシフ・ジュガシヴィリは、妙に芝居がかったように問うた。神学校時代の地が、いまでもこのようにして顔を出す。だが老婆は彼のペースにはまらず、ニヤリと笑い、逆に問い返した。

「それは、ぬしもよくわかっているんでないかえ?」

 そう、われらがヨシフ・ジュガシヴィリにはわかっていた。ボリシェヴィキの天才的指導者(リーダー)、ウラジーミル・レーニン‥‥。「レーニン」とは「レナ川の人」という意味の気取った変名(筆名)で、「スターリン」という名も彼に倣ったものであった。

「革命とやらは、二度起こる‥‥」

「二度‥‥だと?」

 われらがヨシフ・ジュガシヴィリは、耳をそばだてた。

「われわれボリシェヴィキ以外のものも、革命を起こすと‥‥?」

「‥‥いま、西の大戦(おおいくさ)で、この国は疲れきっておるじゃろう‥‥」

 老婆はつと手を止め、語り始めた‥‥。

「待て、待て‥‥」

 われらがヨシフ・ジュガシヴィリは、小卓にかけた外套のポケットから、折りたたんだ紙を取り出した。


 果たして、老婆の言う通りになった。厭戦気分とツァーリ政府への疑問は帝国中に拡がり、国際婦人デーの二月二三日、首都ペトログラードで数万人規模のデモが起こった。これは、最初は食料配給の改善を求める、穏健なものであった。しかしデモは拡大してゆき、首都の労働者の大半が参加する事態となった。首相は前線のニコライ二世に辞任を申し出るも、拒否された。二六日、デモの人々に対し、警官隊が発砲した。

 ボリシェヴィキにとって、この事態は好機であった。国内、また世界各地の同志――タヴァーリシュチュ――たちは、ペトログラードへと向かうことになった。とはいえ彼らは、この事態に関して何かできるわけではなかった。

 警官隊の発砲は、火に油を注ぐ結果となった。首都に駐屯する連隊の兵士たちのなかにも、デモに加勢する者たちが現れ始めた。これはすでに反乱であった。ニコライ二世は、数個連隊を首都へ進撃させて鎮圧を命じ、また議会(ドゥーマ)(国会)に解散命令を出した。二七日には、連隊ごと反乱に加わる部隊が出始めた――反乱軍の数は、すでに数万人に及んでいた。鎮圧命令は守られず、反乱軍と対峙する部隊では兵士の脱走が相次いだ。同日、内陸の第二の都市モスクワでも同様の動きが起こった。議会の自由主義者たちは、ツァーリの解散命令を拒否、冬宮殿に臨時委員会を樹立し、逆にニコライ二世への説得を試みた。

 ――専制を止め、立憲君主制へと移行するときが来たのです――。

 議会と王家が共存する西欧諸国のように‥‥。

 しかし、ニコライ二世は、この申し出を突っぱねた。三月になり、他の諸都市でも反乱が始まる気配があった。すでに首都ペトログラードは、実質的に無政府状態と化しつつあった。

 ――陛下は、状況を理解しておられない‥‥。

 人民とツァーリの板挟みの状態にあった政府首脳は、軍部の支持のもと、決断をくだした。三月二日、西部の都市プスコフにおいて、ニコライ二世を退位させたのである。

 ニコライは弟に皇位を譲ろうとしたが本人の拒否に遭い、ロマノフ朝の歴史は終止符を打つことになった。翌三月三日、臨時政府が発足したが、各都市では混乱が続いていた。この革命は「二月革命」と呼ばれてゆく‥‥。


 ボリシェヴィキは、この革命に何ら手を打たなかった――打てなかった。臨時政府は、議会の議員たちで構成されていた。首相には、内相を兼ねてゼムストヴォという地方自治機関の指導者リヴォフ公(ゲオルギー・リヴォフ公爵)が就任、ほか各大臣を、それまで議席を保有していたカデット(立憲民主党)やエスエル(社会革命党)、オクチャブリスト(一〇月一七日同盟)の議員、また無所属の議員が担った。そのなかに、先のアレクサンドル・ケレンスキーの姿もあった。

 ――ペトログラードはクラスノアルメイスカヤ通りの一画、そこに目指す場所があった。アチンスクで聞いたことは、念を入れて、幾つかの帳面(ノート)に書き写しておいた――誰にも見られぬよう隠しておいたことは、言うまでもない。老婆に言われた住所を記したそのうちの一冊を手に、外套を羽織ったわれらがヨシフ・ジュガシヴィリは、まだ寒さの去る気配のないペトログラードの街を歩いた。やがて、ごみごみした目立たない路地の、目指す地下室へ降りる階段を探し当てると、ゆっくりとそこへ降りていった‥‥。

 行き当たった樫の木のぶ厚い扉を、いささか乱暴にノックすると、まもなく室内からくぐもった声が聞こえてきた。

「誰じゃ‥‥?」

「俺だよ――」

「‥‥俺だよでは、わからん‥‥」

 彼は名乗った。

「――ヨシフ・スターリン、だ‥‥」

 しばしの沈黙の後、老婆の声が聞こえてきた。

「入るがよい‥‥」

 彼が重い扉を押すと、それはギイイ‥‥と音を立てて軋んだ。地下室は思ったよりも広く、暖かかった。しかし、外の凍てつくような寒さのほうがましだと思えるほどの、あの肉の腐ったような、何ともいえない異臭が、再び彼の鷲鼻を襲った。それは、アチンスクの宿屋での臭いの数倍はあろうかというほどで、生温い室内の空気と合わせ、頭がくらくらしさえした。黒いプラトークのあの老婆が、子どもか、小柄な大人なら手足を折りたためば入るのではないかというほどの、大きな鍋を掻きまわしているのだった。そして傍には、やはりあのフェアリーがたたずんでいた。室内には他に、小卓に乗った革表紙の大きな本など、様々なものがあった。ヨシフ・スターリンは、またも外套を、今度は聖像箱に断りなしにかけ、異臭に耐える努力をしながら、口を開いた。

「婆さん、すべてあんたの言う通りになった。あんたのまじないは、大したもんだ‥‥」

 老婆――ゾーヤ――は、黒いプラトークの陰から、ちらりとそんな彼を見やったが、巨大な鍋を掻きまわす手を止めようとはしなかった。

「今日は、これからのことを聞きに来た‥‥」

 老婆は別に、そんな約束をしてはいなかった。いいの?‥‥というように、フェアリーが老婆を見ていたが、老婆はやはり、小声でぶつぶつ言いながら大鍋を掻きまわしていた。

「これから、二度目の革命が起こるわけだな‥‥?」

 老婆はゆっくりと――どこか茫洋と――頷いた。

「婆さん、これは大事なことなんだ。しっかり答えてくれ。俺ひとりの問題じゃない。同志たちの運命がかかってるんだ」

 今日のわれらがヨシフ・ジュガシヴィリは、職務に忠実な党員であるようだった。だが老婆はそんなことなど斟酌してくれないようで、それよりも鍋の中身が気になるらしく、味見を試みては、皺だらけの眉根を寄せたりしていた。仕方なくスターリンは、自分のほうから念を押さねばならなかった。

「われわれは――ボリシェヴィキは革命に成功するんだな、たしかに」

 老婆は、やっと手を止めた。そして杖を手にすると、近くの年代物の肱掛椅子まで腰を曲げてゆっくりゆっくり歩いてゆき、億劫そうに腰をおろした。

「する。さほどの困難はない。むしろ、その後が大変じゃ」

 そのときスターリンは見た。老婆の、暗い洞穴のような口には、数えられるほどの歯がまばらにあるだけなのを‥‥。

「それは‥‥?」

 いま大事なことは、老婆の口の中身ではなく、そこから洩れる情報だ‥‥ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリンは、老婆の言葉を聞きもらすまいと、耳をそばだてた。

「――国外から軍隊が攻めてこようのう。ツァーリの残党、ぬしら、ツァーリにもぬしらにも与せぬ者‥‥有象無象が、この大地にひしめくじゃろう。多くの血が流れる‥‥」

 まるで、未来のその光景が見えるとでもいうように――いや、彼女には見えていた――老婆はゆっくりと頭を振り、深く深く嘆息した。そして、われらがヨシフ・ジュガシヴィリの脳裏にも、その光景が浮かんできた。実はこれは、老婆のイメージを読み取ったフェアリーがサポート能力で彼に見せていたのだが、彼はそれには気づかなかった。

「われわれは‥‥勝てるのか?」

「わからん‥‥」

 老婆はうつむき、低くつぶやいた。――その口元の端がかすかに歪んでいたのを、うかつにもわれらがヨシフ・ジュガシヴィリは見逃していた。警戒心と猜疑心にかけては人後に落ちないこの男にも、隙というものがあるのだ。なぜならいま、彼の思いは、別のところにあった。勝たなければ。そう、ボリシェヴィキが勝利せねば、未来のツァーリの話も何も、あったものではない。蜂起したとして、政権を獲れなければ意味はないし、ツァーリの残党軍や外国軍に破れれば、未来などないのだ。ボリシェヴィキにも、自分にも。捕縛されれば、処刑されることも有り得るだろう‥‥。われらがヨシフ・ジュガシヴィリは、その考えに、身震いした。フェアリーはふわりと飛び、老婆の前にくると、物言いたげに彼女の目を見た。だが老婆は何も言わず、フェアリーの視線から目をそらし、われらがヨシフ・ジュガシヴィリに告げた。

「仲間と協力することじゃ。あいつを出し抜こう、足を引っ張ろう、やっつけよう、などとせずにな‥‥。それが良い道となる。ぬしの〈ツァーリ〉への、そしてその後の‥‥。たとえ遠回りに見えようと、な」

 われらがヨシフ・ジュガシヴィリの耳には、老婆の言葉は、遠く虚ろに聞こえていた。

「じゃが、もしぬしが悪い道を歩めば――つまり権謀術数に頼れば‥‥それはいつか必ず、ぬしのもとへ跳ね返ってくる。ぬしが思いもよらぬ形でな‥‥。これは忠告じゃ。心しておくがよい‥‥」

「‥‥‥‥」

「言えることは、これぐらいじゃ‥‥」

「‥‥‥‥‥‥」

 今日、われらがヨシフ・ジュガシヴィリは、もっと多くの――できれば見通しが明るくなる――情報を期待してここに来たのだが、立ち去るときが来たと知った。頭のなかは、老婆から聞いた未来像でいっぱいで、外套を羽織ることすら忘れかけたほどだった。

「わしは忠告したぞ‥‥」

 老婆は、ヨシフ・ジュガシヴィリ――スターリンの背中に向かって低くつぶやいたが、彼は振り返ることなく、少し足をひきずりながら、階段をのぼり、地上へ出ていった。戸外の冷気が、地下室へ入り込んできた。

「‥‥外見は全然違うけど、あのラスプーチンと、どこか似てる感じだね」

 フェアリーは不安そうに、老婆を見た。老婆は、何も言わなかった。わからないことが多すぎて、フェアリーの不安はつのるばかりだった。

「ゾーヤ」

 フェアリーは空中から、問わずにはおれなかった。

「なぜ、教えないの?」

 そう、ゾーヤ――老婆には、未来が見えていたのだ。ボリシェヴィキが勝利するか否か、答えることはできたはずなのだ。老婆は、フェアリーを見上げた。その目には、悲しみがあった。

「‥‥これで、精一杯なのじゃよ」

 フェアリーは驚いた。目だけではなく、老婆――ゾーヤの声は、悲哀に震えていたのだった。フェアリーは、きっと深い事情があるのだと黙るしかなかったが、疑問は解けないままであった。大鍋が、グツグツと音をたてて煮え始めていた。老婆は、杖を頼りに、また億劫そうに立ち上がり、そちらへ歩いていった。重い樫の木の扉が、ギイイと軋みながら、ひとりでに閉まっていった。


 ロシアでは、奇妙な状態が続いていた。前述のように臨時政府が発足していたが、労働者や兵士たちによる評議会(ソビエト)が、再びペトログラードほか各地で結成されていた。労働者の代表、兵士の代表、エスエル、そしてメンシェヴィキという政党からなるペトログラード・ソビエトは、冬宮殿の別棟に置かれ、臨時政府に対抗した。彼らは自分たちこそがこの国の政府であるとして、三月一日には命令第一号を発布していた。このような二重の権力の状況下、ボリシェヴィキのメンバーたちは、続々とペトログラード入りを果たしていた。

 そして、ボリシェヴィキの指導者を乗せた封印列車が、ペトログラードは「フィンランド」駅に到着した。


  旧い世界は棄て去ろう! その埃を脚から払い除けよう!


 「ラ・マルセイエーズ(労働者のマルセイエーズ)」の大合唱、赤い旗、軍のボリシェヴィキ支持派部隊が捧げる銃の林が、ボリシェヴィキの指導者ウラジーミル・レーニンの到着を出迎えた。ドイツは、交戦国ロシアの混乱を拡大させようと、この過激派の首領の帰国に同意、ご丁寧にもこの特別列車を用意してくれたのであった。当初は、パリやロンドンを経由し、スカンディナヴィア半島をノルウェー沖にぐるりと船で周って帝国北方の港湾都市ムルマンスクに上陸するルートが考えられていたが、イギリス軍による逮捕――それは(レーニン)にもドイツ帝国にとっても望むところではない――を避けるため、前述のルートをとった。


  われわれは苦しむ兄弟のもとへ行く 飢えた人々のもとへ行く


 プラットホームに降り立ったウラジーミル・イリイチ・レーニンを、たちまち大勢の人間が取り囲んだ。ボリシェヴィキの代表団たち、またメンシェヴィキの党員たち、そして大勢の彼の支持者――労働者たちであった。禿げ上がった頭、口髭と顎鬚、やや猫背ぎみ‥‥優しそうでもあるが強情そうでもある目つき、どこかアジア的な顔の輪郭‥‥ウラジーミル・レーニンは、彼らと次々に握手と抱擁を交わした。ただ、二月革命の成果について説明を始めたメンシェヴィキたちは(レーニン)はあまり相手にせず、そしてその場で演説を始めたのだった。

 ――この戦争は帝国主義戦争であり、やがて内乱となり全欧州へと波及し、戦争を始めた者たちの体制を崩壊させるであろう‥‥。

 臨時政府は、戦争を継続していたのだ。そして、「諸君たちが成し遂げたロシア革命は、その発端であり、新しい時代の始まりなのだ。――世界的社会主義革命万歳!」と結んでみせた。

 人々の興奮のなか、ウラジーミル・レーニンが駅舎の外へ出ると、投光器の光、ボリシェヴィキと支持者の赤と金の旗、そして何千という労働者――都市部の労働者階級(プロレタリアート)たちが、さらに彼を出迎えた。彼は用意されていたロールスロイスに乗り込もうとしたが、熱狂した彼の支持者たちは、なかなかそうさせてくれなかった。レーニンは車の屋根によじのぼり、もう一度、帝国主義諸国や「資本主義的新興成金」を批判する演説を行ない、そして「インターナショナル」という歌をともに歌おうではないか、と提案し、自ら歌いだしたが、呼応する歌声は、あちこちからまばらにしか起こらなかった。労働者のほとんどは、レーニンの言うその歌を知らなかったのだ。


  起て勤労大衆よ! 敵に立ち向かえ飢えた人々よ!

  響け人民の復讐の叫びよ! 前へ!


 「ラ・マルセイエーズ」の合唱は続いた。


 ウラジーミル・レーニンの到着は、臨時政府にとり好ましくないものであった。アレクサンドル・ケレンスキーは、エスエル党員であり、ペトログラード・ソビエトからソビエトの代表として入閣していた。法相であったが、労働者と兵士からの支持を背景に、臨時政府の実権を握りつつあった。一方、ウラジーミル・レーニンは、帰還後すぐに「四月テーゼ」という綱領を発表、あらためてこの戦争に絶対反対、また臨時政府は資本家(ブルジョアジー)の政府であるから支持しない、そしてソビエト権力の樹立をめざす旨を発表した。ボリシェヴィキは、党全体としては臨時政府と全面対決の姿勢をとっておらず、レーニンの提案は、彼らボリシェヴィキの多くにも衝撃と当惑をもたらした。しかし三週間後には、ボリシェヴィキは党として、これを正式に採択した。ケレンスキーは五月には陸海軍相に就任、改革の方針を打ち出す一方、戦争をやめようとはしなかった。

 臨時政府内も含め、この時期には様々な政治勢力がそれぞれの改革方針を掲げていた。カデット――立憲民主党は、自由主義政党で、この国に議会制民主主義や議院内閣制を定着させることを唱え、二月革命後は内閣に五つの閣僚ポストを得るなど臨時政府の中心勢力と言えた。彼らは、改革を望んでいた自由主義貴族、ブルジョアジー、また社会主義の観点からは労働者と資本家の中間であるとされる小ブルジョア(プチ・ブルジョア)と呼ばれる商店主や職人、弁護士や医師といった(下位)中産階級たちの支持を受けており、また欧州大戦においてはロシアの参戦に賛成していた。エスエル――社会革命党は、一九世紀なかばのナロードニキ運動の流れを汲む政党であり、社会主義を目指し、労働者たちの支持を得ていた。臨時政府内でも力を持っていたが、また直接行動を是とする党風を持ち、ペトログラード・ソビエト内でも労働者と兵士の支持を集めていた。メンシェヴィキもまた社会主義を目指す政党であり、やはり臨時政府、ペトログラード・ソビエトの双方で力を持っていた。ボリシェヴィキは、社会全体においても、ペトログラード・ソビエト内においても、僅かな勢力でしかなかった。この他に、これらの政党と距離を置くアナキスト――無政府主義者や、彼らすべてを右側から批判するツァーリ復活派を含む保守派の存在があった。各派は競い合ったが、確かな未来は、誰にも見えていなかった。少なくとも人間界においては――。唯一人、われらがヨシフ・ジュガシヴィリを除いて‥‥。

 そんなある日、あの老婆との邂逅を反芻していたヨシフ・スターリンは、ウラジーミル・レーニンに呼び出された。ある人物を紹介したいのだという。レーニンの執務室で彼を待っていたのは、眼鏡をかけた知的な容貌の男だった。年齢はスターリンと同じくらいであろうか‥‥キリッとしており、誠実で実直そうな雰囲気を漂わせていた。しかし同時に、その風貌にはどこか、敏捷で力強い猫科の動物を思わせるところもあった。――あるいは、メフィストフェレスを――‥‥。

 そうでなくてもインテリゲンツィヤ・タイプの人間――男は無論、女はなおのこと――ボリシェヴィキ内に山ほどいた――を生理的に好きになれない彼が、この男を警戒しないはずはなかった。

「トロツキーだ。レフ・トロツキー。知っているはずだな、コーバ」

 そう、彼はこの男を見知っていた。一九〇七年、イギリスはロンドンでの第五回ロシア社会民主労働党大会。そこで顔を合わせてはいた。当時すでに、目立ちたがりの奴だと煙たがっていた――「美男子」であると、皮肉まじりに言及してもいる。二月革命まで、ヨーロッパから地球の裏側のニューヨークなる都市(想像も及ばぬ土地であった)に逃れ活動していたこの男の名は、ヨシフ・スターリンの耳にも届いていた。呼びかけられた彼は、しかし、答えなかった。曖昧な、奇妙な無表情――。その瞳の奥を覗き込む者があれば、そこに、様々なものを見出したことであろう。それは、とても一言で形容できるものではなかった。敵意、嫉妬、恐れ‥‥およそ人間のあらゆる否定的なものが、そこには入り乱れていた。トロツキーと呼ばれた男も、コーバ――ヨシフ・スターリンのその目の色を見てとり、少なくとも好意の類は微塵も見出せなかったから、口を開こうとしなかった。

「コーバ、彼はわれわれの仲間に加わることになってくれる見通しだ。正式にはもう少し先となるだろうが‥‥」

 ふたりの男の間に平和がないことを見たレーニンは、たどたどしくスターリンに言った。しかし、コーバ――スターリンは、無反応だった。仕方なく、レーニンはもうひとりの男に向き直った。

「トロツキー、君にはまたペトログラード・ソビエトの議長をやってもらおうと思っている。もっとも、党内の賛成を取りつけねばならんし、その後に他派の支持も――が、まあそれは、わしは楽観的に見ている。むしろ問題なのは‥‥」

 トロツキーへのレーニンのこの言い渡しは、スターリンのほうを大きく動揺させた。そのためか、言葉の続きはよく聞こえなかった。が、いまの彼にはそんなことはどうでもよかった。要するに出し抜かれたのだ。たしかに噂は聞いていた。だが、なんといっても、元・メンシェヴィキではないか! 裏切り者の‥‥!

 メンシェヴィキは――というより、ボリシェヴィキとメンシェヴィキは、元は先のロシア社会民主労働党という一九世紀末に誕生したひとつの政党であり、両派はいわば兄弟分の党であった。とはいえ、その関係は良好ではなかった。

 一九世紀末、長らく遅れた農業国であったこのロシアも、工業化が進んだ。そして、それに歩みを合わせるかのように労働運動もまた起こり出し、組織化され、幾つかの多様な社会主義グループが生み出されていた。ウラジーミル・レーニンが中心となって一八九五年に結成された「労働者階級解放闘争同盟」も、そうしたもののうちのひとつであった。やがて、全国的な組織――「(パティラ)」の創建を求める機運が高まった。キエフのグループが中心になり、一八九八年、ミンスクにおいて「ロシア社会民主党」として結成された。しかしこの結成大会直後、弾圧を受け解体、その後名称を「ロシア社会民主労働党」とし、地下活動をつづけた。

 ウラジーミル・レーニンは一九〇〇年、同志たちとともに機関紙「イスクラ(火花)」を発刊し始め、影響力を増していった。一九〇三年、第二回党大会が開かれた。四三名の代議員の過半数はレーニンたちのグループで、イスクラ派と呼ばれた。党には中央委員会、党評議会が置かれ、「イスクラ」が党の中央機関紙となった。しかし、大会中にレーニンの出した提案――「イスクラ」編集局の構成員を自分と自分に近い同志のみとする――を巡り、大いに揉め、案は採択されたものの、反対派は批判をつづけることになった。この反対派たちに「メンシェヴィキ(少数派)」の名がついたのである。対する大会決定支持派が「ボリシェヴィキ(多数派)」――主導権を握ることに成功したためで、必ずしも彼らが多数であったわけではない――である。双方の溝は埋まらず、論争の末、レーニンは編集局から脱退、「イスクラ」は事実上メンシェヴィキの機関紙となり、ボリシェヴィキとレーニンを激しく批判し始めた。溝は深くなる一方で、労働者らの期待をよそに組織は両派に分裂、やがて来たるべき革命の戦術に関しても対立していった。

「さあ、握手だ」

 スターリンの内心の動揺など知る由もなく、レーニンは言った。硬い表情は崩さないまま、トロツキーという男が、ゆっくりと右手を差し出した‥‥。

 一九〇五年一月、「血の日曜日事件」とその後の反政府運動、そしてその収束は、前述の通りである。労働者らは両派の政治的対立など望んでおらず、メンシェヴィキとボリシェヴィキは統一交渉を始めた。一九〇六年、スウェーデンはストックホルムにおいて統一党大会を開き、国政――議会政治への進出を決め、社会民主労働党として選挙に参加、少数ながら議席を獲得した。この国会は第一国会と呼ばれたが、これはすぐに解散、翌一九〇七年の第二国会では社会民主労働党は約八分の一を獲得し、議会政党としての道筋をつけたかに見えた。

 しかし、反動が始まった。同年六月、時の首相ストルイピンはこの第二国会を解散、同党の議員を逮捕し始めた。選挙法も改悪され、党は追い込まれていった。党内では――メンシェヴィキもボリシェヴィキも――再び論争が過熱していった。ボリシェヴィキには、国会議員を召還すべきという、召還主義グループと呼ばれるグループ等が生まれ、またメンシェヴィキ内には、非合法の地下活動を止め、合法的な大衆政党を目指すべきだという者たちも現れ、それぞれレーニン派と対立した。メンシェヴィキのうちでも、ともに「イスクラ」を創刊したプレハーノフという人物を中心とするグループらはこれらの動きに対し、レーニン派に歩み寄る姿勢を見せた。

 一方、一九世紀末から南ロシア労働者同盟というグループで活動し、後に社会民主労働党に合流しレーニンと出会い、党の分裂ではメンシェヴィキに所属したものの、そこからも離脱、再び地下活動を行ない、「血の日曜日事件」後のサンクトペテルブルク・ソビエトの指導者となるも逮捕され、護送中に脱走、ウィーンで雑誌を創刊するなど活発な活動を始めた、有能で、気骨のある男がいた。彼こそ、このレフ(レオン)・ダヴィードヴィチ・トロツキーである。トロツキーと彼を中心とするグループは、党の再統一を主張、一九一〇年にはパリにおいて党の中央委員会総会を開催、各派間の一定の和解を得ることに成功していた。

 しかし一方、レーニン派はプレハーノフ系のグループ(党維持派メンシェヴィキ)と組み、一九一二年、オーストリア・ハンガリー領の都市プラハにおいて党協議会(プラハ協議会)を開き、独自に中央委員(中央委員会委員)を選出、反対派を追放、権力を掌握した。トロツキー・グループを含む反レーニン諸派はこれに対抗し、同年、再びパリにて協議会を開催したが、具体的な成果を出せないまま欧州大戦を迎えていた。メンシェヴィキにも失望した彼は、最近では、社会民主労働党時代からの古参であるアドリフ・ヨッフェという同志らとともに、どちらにも所属しない「メジライオンツィ(地区連合派、統一社会民主主義者地区間組織)」という独自の小グループを立ち上げ、精力的に活動していた。

 ‥‥差し出されたトロツキーの右手を前に、スターリンはしかし、動かなかった。スターリン――コーバの如才ない面を知っている者が見れば、いぶかることであろう。握手を交わし、ときには笑顔を見せて、相手を見定める。それが彼のやりかたなのだった。レーニンもそれは知っていた――スターリンの、その深さまではこの時点では思い至らなかったが――から、これには戸惑った。しかし、彼はすぐに、落ち着きを取り戻した。コーバごときに気を遣う必要など、ないのだ。そして、重々しく、普段の威厳をもって、呼びかけた。

「コーバ」

 事実上、命令であった。スターリンも、これには従わないわけにはいかない。それでも彼は、さらに数秒の間を置いて、ようやく、渋々と手を差しのべたのだった。まるで、この右手に触れる者に呪いあれ、とでもいうように。それは、さながら格闘技か何かのように見えた。時間が止まっているかのような張り詰めた空気のなか、二本の手がゆっくりと触れ合い、互いに握り合った‥‥。先にそうしたのはスターリンだったが、ふたりとも、不自然なほどの握力を、己が右手に込めていた。傍らのレーニンにも、それはわかった。異様な握手であった。レーニンはしかし、ふたりの葛藤につきあっている余裕はなかった。事態は切迫しており、やらねばならぬことは、山ほどあるのだ。それでレーニンは、笑いながら、握り合う両者の手の上に己が手も重ね、まるで街の若者のようにおどけた、快活な声で、ふたりに呼びかけた。

「――仲良くやろうぜ!」

 こんなレーニンの姿は滅多に見られるものではなく――彼はウィンクさえしたのだ!――極めて貴重な場面ではあったが、残念なことに、この三人の誰もこのことを他言しなかったため、記録には残っていない。

 ‥‥レフ・ダヴィードヴィチ・トロツキーは、スターリンとほぼ同年齢で、一八七九年、ロシア領ウクライナ南部は海が近いヘルソン県に、裕福なユダヤ人農家の子として生を受けた。裕福な農家――富農といっても、先祖伝来そうだったわけではなく、父親は、自らの勤勉さで土地の買い入れと賃借りを繰り返し大土地所有者となった、いわば農村部における企業家であった。母親は、もとは農民でなく、オデッサ近郊の市民であった。「トロツキー」は変名であり、本名はレフ・ダヴィードヴィチ・ブロンシュテイン。先のようにサンクトペテルブルク・ソビエトの指導者となり、大いに活躍したが、そのときはまだ二十代であった(スターリンとは大違いだ)。逮捕されたときは、終身流刑という厳刑を受けている――それだけツァーリ政府当局にも目をつけられていたわけだ。ウィーンへ逃れ、ボリシェヴィキには加入しないまま、社会民主労働党系の活動家として活動していた。欧州大戦勃発後は、スイス、そしてフランスに移り、戦争支持を決めたドイツ社会民主党、フランス社会党等を雑誌上で批判、その後フランスから追放され、スペインを経由して、アメリカのニューヨークで、ロシアの革命派の新聞に参加していた。ひたむきな文筆家でもあり、文芸評論家でもあった。


 ケレンスキーら臨時政府は、戦争でドイツに勝利した後に、国内の改革に本格的に取りかかる算段をしていた。夏‥‥。混乱の度合いを深めてゆく首都ペトログラードで、臨時政府は総動員令を発令した。また前線においては攻勢を試みたが、これらは人民の彼らへの期待を裏切るものだった。先の通りケレンスキーはエスエル党員であったが、入閣以降、その視線が人民や党とは別の方角に向けられていることが、次第にあからさまになってきた。

 首都だけでなく、前線もすでに破綻をきたしていた。ラーヴル・コルニーロフという将軍が新たな総司令官に任命されていたが、兵士の脱走は日常茶飯事、独自の判断で「解散」してしまう部隊も続出、という有様であった。当然、攻勢は失敗に終わり、逆にドイツ軍の反攻により、前線は全面にわたり崩壊してしまった。

 これを契機として、労働者と兵士の不満が爆発した。ボリシェヴィキがこれを扇動し、彼らを率いて蜂起を開始した。ペトログラード沖合の島の軍港都市クロンシュタットからは、およそ二万名の武装した水兵がペトログラードへと行進した。「全ての権力をソビエトへ」――全体でおよそ四十万人といわれる彼らのスローガンであった。この動きはモスクワへも飛び火し、やはり労働者たちの蜂起が起こった。ペトログラードでは市街戦が起こり、臨時政府指揮下の部隊はやっとのことで蜂起を鎮圧した。ケレンスキーは首相兼陸海軍相となり、内閣の実権を名実ともに掌握していたが、これで労働者と兵士の支持を失うことになった。逆にボリシェヴィキは、彼らの間に支持者を増やしていった。

 臨時政府は、ウラジーミル・レーニンを含むボリシェヴィキ幹部幾名かの逮捕命令を出した。レーニンは、スターリンに口髭と顎鬚を剃り落としてもらい、変装してフィンランドへ脱出した。他の狙われた幹部も潜伏生活を強いられた。組織としては厳しい局面に立たされたわけだが、党内の空気はともかく――レーニンに自首を促す意見も出されていた――彼らへの人民の支持は、じわじわと高まっていった。

 ボリシェヴィキには、党の意思決定を行なう中央委員会という機関があった。党内から選出された、委員および投票権を持たない委員候補で構成されていた。社会民主労働党時代から存在したものであったが、現在のそれは、先の一九一二年のプラハ協議会において設置されたものを基盤としていた。中央委員および中央委員候補には様々な意見を持つ者がおり、彼らは議論と会議を非常に重視した。同委員会は、レーニンに対するこのような意見も出されるなど、この時期においても決して一枚岩ではなかった。これには、彼らのレーニンの権力に対する思いもあったであろうが、委員会外の一般党員の一部の声を反映したものでもあった。

 ボリシェヴィキは、七月末から八月初めにかけて、ペトログラードでひそかに第六回党大会を開催した。党大会とは在籍する全党員のもので、これによっても党の意思決定が行なわれる。中央委員や中央委員候補は、基本的にはこの党大会においてその都度指名され、選出される仕組みになっていた。彼らは権力を持っているわけだが、ずっと固定されているわけではなく、この試練を経るために一般党員の声に耳を傾けざるを得ないのである。一般党員は中央委員会を常日頃よく眺め、党大会において誰を支持し選ぶかを決める権利を持つ‥‥謎の老婆ゾーヤから得た情報を巧みに駆使し、ヨシフ・スターリンはすでに、この中央委員であった。この党大会において、フィンランドで潜伏中のレーニンに対し、なお自首を促す意見が一部の党員から出された――臨時政府に裁判をやらせ、それによって逆に世論を味方につけようという主張であったが、これは通らなかった。また、トロツキーが属していた「メジライオンツィ」は正式にボリシェヴィキに統合され、スターリンは党機関紙「プラウダ(真実(正義))」の編集長および憲法制定議会の議員に選ばれた。また、中央委員にも再選されることができた――党内の慎重論に対し、彼はレーニンの急進主義を支持する毅然とした姿勢を見せた。‥‥スターリンも議員に選ばれた憲法制定議会とは、二月革命以降、臨時政府が開催を引き延ばしていた会議のことであり、ボリシェヴィキはこの点でも臨時政府を批判していた。民意を反映した憲法を作れ――と。

 一方、ケレンスキーと臨時政府を見限ったのは、労働者と兵士たちだけではなかった。コルニーロフが保守派からの支持を頼りに、指揮下の部隊をペトログラードに入らせたのだ。ケレンスキーはコロニーロフを恐れ、解任したが、この反乱を前に、結局ボリシェヴィキの支援を仰ぐことになった。労働者は自分たちの軍隊を組織し、クロンシュタット海軍基地の水兵やボリシェヴィキの軍隊的な組織「赤衛隊」の援護のもと、コロニーロフの部隊に対抗した。コロニーロフは逮捕されたが、この事件以降、臨時政府は目に見えて衰弱していった。


 九月、レフ・トロツキーがペトログラード・ソビエト議長に就任した。彼は、特に兵士たちから圧倒的な支持を受けた。ペトログラード・ソビエト、またモスクワ・ソビエトを始め、ボリシェヴィキは都市部の住民の間で急激に支持を伸ばしていた。機は熟さんとしていた。ボリシェヴィキは、一九〇五年の闘争を「第一革命」と呼ぶようになっていた。今年の二月革命は「第二革命」。われわれはさらなる革命を期する、というわけである。見てきた通り、どちらの闘争もボリシェヴィキが果たした役割は小さかったわけだが‥‥。

 一〇月‥‥。ウラジーミル・レーニンが、潜伏中に執筆していた著作「国家と革命」を携え、ペトログラードへ帰還した。他のメンバーも復帰し、ボリシェヴィキの中央委員会が開かれた。二一名中一二名の中央委員が出席でき、彼らはレーニンが提出した武装蜂起の動議に対する投票を行ない、一〇対二でこれを採択した。二名の反対者は、レフ・カーメネフとグリゴリー・ジノヴィエフという委員であった。彼らは、「第二回ソビエト大会(第二回全ロシア・ソビエト大会)の前にはいかなる企ても行なうべきではない」と主張した。

 ボリシェヴィキの党本部は、ペトログラードのスモーリヌイ女学院というところに置かれていた。非常に長い建物であった――移動には自転車が必要だ、とボリシェヴィキたちは冗談交じりにこぼしたものだ。スターリンはこの頃、トロツキーを恐れるあまり、このふたりに接近した。両名とも、一九〇三年の第二回社会民主労働党大会の後の党の分裂時、すなわちボリシェヴィキ創設時からの生え抜きの党員であり、支持者も多い人物であった。

 レフ・ボリソヴィッチ・カーメネフは、一八八三年、モスクワで鉄道技師の家庭に生まれたユダヤ人で、グルジアのティフリス(トビリシ)の中学校に通っていた時期にマルクス主義サークルと関わるようになり、一九〇一年、社会民主労働党に入党した。以後はボリシェヴィキに所属し、次第に頭角を現した。西欧への亡命や、そこでの活動歴もあり、逮捕と亡命を経て、一九一四年に帰国、「プラウダ」の編集の指導にあたった。欧州大戦勃発後再び逮捕され、東シベリアのエニセイ県に流刑された。社会民主労働党時代からコーバ――後のスターリンと出会っており、この最後の流刑でもスターリンと一緒にされているが、まだ未来がどうなるかわからない時期であり、特に近しい関係というわけではなかった。二月革命後にペトログラードに戻り、再び「プラウダ」の編集にあたっていた。先のように彼は武装蜂起に反対した。臨時政府を条件つきで支持する代わりに、政府に対する関与を強めようという立場であった。このようにレーニンとは考えを異にしていたにも関わらず、レーニンの支持を得て、中央委員に選出されていた。なお「カーメネフ」は変名である。

 スターリンはレフ・カーメネフに尋ねた。

「トロツキーを、どう思うか」

 カーメネフももちろん、トロツキーの評判は聞き知っていた。

「非常に有能だと聞いている」

 スターリンは、内心穏やかではなかったが、努めて平静をよそおい、ゆっくりと言った。

「同志レーニンに取り入っている」

 レフ・カーメネフは実は、トロツキーの義弟にあたる。一九〇三年、彼はトロツキーの実妹オリガ・ブロンシュテインと結婚していたのだ。しかしそういった縁戚関係と、政治とは、彼のなかでまた別の話のようであった。レフ・カーメネフ。人の好さと温厚さとで党内に知られるこの男の眉が、ぴくり、と動いたのだ。しめた、とスターリンは思った。やはりこいつも、近頃のトロツキーには内心穏やかざるものがある――普段の温厚さなど仮面なのだ。人の好い人物、という評も、こいつが演じ、作り出しているものなのだ。ボリシェヴィキ、殊に幹部クラスに、そのような好人物などいるはずがない‥‥。

「彼は急進的にすぎる」

 黒い帽子のひさしの陰から、レフ・カーメネフの、穏やかさは崩していないが、深みのある不思議な光の眼がスターリンを見つめていた。

「そして、単独で走りすぎるきらいがある‥‥」

「同志、俺もそう思う」

 スターリンはゆっくりと頷き、用意しておいたことを言った。

「奴は危険だ、われわれの革命が成功した後、独裁者になるかもしれない‥‥」

 スターリンが口にした「独裁者」という用語は、この時期にはまだ、二〇世紀という時代が落とした、独特の暗い影を帯びてはいない‥‥。カーメネフは、これにも鋭敏に反応した。目の前の男の心の奥底を見通そうとでもいうように、スターリンが気おされるほどじっと、彼を見つめていた。

 ――なお、ソビエトの新聞には、「プラウダ」のほか、「イズベスチヤ(ニュース)」という新聞もあった。元はペトログラード労働者ソビエトの新聞であり、メンシェヴィキとエスエルの観点からの論調のものであった。二月革命を経たこの八月には、ペトログラード中央執行委員会ソビエトの機関紙となり、そしてこの頃には労働者・兵士ソビエト中央執行委員会の機関紙となっていた。

 スターリンは次に、グリゴリー・ジノヴィエフに、まったく同じ質問をした。

「トロツキーを、どう思うか」

 ジノヴィエフは、彼自身は知る由もなかったが、カーメネフと寸分違わぬ回答を、スターリンに言ってよこした。

「非常に有能だと聞いている」

 これを聞いたスターリンは、苛立ちとともに、軽い眩暈すら覚えた。

(――まったく同じとは!)

 しかしスターリンはめげることなく、これまたまったく同じことを、同じようにゆっくりと言った。

「同志レーニンに取り入っている」

 グリゴリー・ジノヴィエフ。この雄弁家の眼が、鋭く光った。しめた、とスターリンは思った。こいつも、近頃のトロツキーには内心穏やかざるものがあるのだ‥‥同じ雄弁家――トロツキーもその呼び名が高かった――として。雄弁にして勇敢、己の利害を省みない男のなかの男――という評も、こいつが演じ、作り出しているものなのだ。好色の噂も聞いている。ボリシェヴィキは――殊に幹部クラスは――一筋縄ではいかない者ばかりなのだ。

「彼は急進的にすぎる」

 ジノヴィエフの言葉が、またしてもカーメネフのそれと寸分違わぬものであることにスターリンは気づいたが、もうかまわなかった。骨ばった、力強い顔つきのグリゴリー・ジノヴィエフは、いっそう眼を鋭くした。

「そして、単独で走りすぎるきらいがある‥‥」

「同志、俺もそう思う」

と、スターリンはゆっくりと頷く。

「奴は危険だ、われわれの革命が成功した後、独裁者になるかもしれない‥‥」

 口にした者が誰であるかを考えれば、それは、この上ない皮肉な台詞であった。ジノヴィエフは、これにも鋭敏に反応した。目の前の男の真意をさぐるように、これまたスターリンが気おされるほどの、まるで猛禽類のような目つきで、スターリンを見つめていた。

 ――グリゴリー・エフセーエヴィチ・ジノヴィエフは、同じ一八八三年、ロシア帝国領ウクライナ(ユクライナ)のヘルソン県エリサヴェドグラート(エリザヴェトグラード)で、ユダヤ人酪農家の息子として生まれた。やはり少年時代から革命運動に参加し、後に社会民主労働党に入党、ボリシェヴィキ結成時からのメンバーとなった。ウラジーミル・レーニンと近く、「レーニンの副官」の異名を取った。やはり亡命と逮捕を繰り返し、一九〇六年、社会民主労働党サンクトペテルブルク委員会のメンバーに選ばれ、国外で発行される機関紙「フペリョート(前進)」の編集に携わった。また雄弁で知られ、労働組合におけるオルグ活動等で大いに活躍した。欧州大戦時においてはスイスに亡命、ここでレーニンと夫婦ぐるみの親しい交際を持ち、レーニンとともに封印列車で帰国していた。社会主義を目指す他政党、ソビエト委員、その他グループ、個人らとの広範な連携を唱えており、ここでレーニンとやや齟齬をきたしていたが、やはり中央委員に選出されていた。この夏の労働者と兵士の蜂起にも反対し、行動を止めようとしたのだが、臨時政府当局からはレーニン他とともに逮捕命令が出され――それだけ目をつけられていたのである――やはり潜伏を余儀なくされていた。帰還後、中央委員として、前述のようにレフ・カーメネフとともに武装蜂起反対の投票を行なった。なお「ジノヴィエフ」も変名である。

 一〇月の一一日から一三日にかけて、北部地方労働者・兵士ソビエト大会が開催された。ペトログラートを始め、モスクワ、クロンシュタット、アルハンゲリスク、ユリエフ、ノヴゴロド、ヴァルミエラ(ヴォルマール)、レーヴェリ(レヴァル)、ナルヴァ、ヴィボルグ(ヴィーボルク)、ゲリシンクフォルスなどのソビエトから、代表が集った。ペトログラートの労働者およそ四十万(内、赤衛隊員約一万)、ペトログラート守備軍兵士十数万、バルト海艦隊水兵およそ六万、第42軍兵士およそ五万‥‥等々の代表たちであった。大会代議員は、ボリシェヴィキとエスエル左派とで議席の大半を占めた。

 ――エスエルは、長い活動を経て、社会民主労働党と同じく、この頃には幾つかのグループに分かれていた。前述の通り首相ケレンスキーもこのエスエル出身であるが、特に彼に批判的なメンバーが、ソビエトを基盤に独自のグループを形作っていた。これがエスエル左派(左翼社会革命党、左翼エスエル)である。なお、メンシェヴィキも方針の違いにより、幾つかのグループに分かれていた。

 一二日、ペトログラード・ソビエトは「軍事革命委員会」を設置した。元々は首都防衛を目的にメンシェヴィキが提案したこの委員会の設置に、ボリシェヴィキは大賛成した。武装蜂起の方針を打ち出したボリシェヴィキは、そのための統率機関を必要としていたのだ。メンシェヴィキは同委員会への参加を拒否、委員会はボリシェヴィキ四八名、エスエル左派一四名、ほかアナキスト四名という構成となった。

 一六日、総会が開かれ、軍事革命委員会の設置は最終決定された。当初のメンシェヴィキ案ではソビエト執行委員会、兵士部会幹部会、守備軍代表から構成されることになっていたが、ボリシェヴィキが主導権を握ったことで、全国艦隊中央委員会、鉄道労働組合、郵便電信労働組合、工場委員会、労働組合、ソビエト参加諸党軍事組織、「人民軍社会主義者同盟」、労働者・兵士ソビエト中央執行委員会軍事部、労働者民警、フィンランド地方ソビエト委員会の各代表を加えることとされ、その構成は大幅に拡大された。この総会の軍事革命委員会についての討論の際、ボリシェヴィキ側の報告者でもあったレフ・トロツキーは演説した。

「われわれは、権力奪取のための司令部を準備している、と言われている。われわれはこのことを隠しはしない――」

 ボリシェヴィキはまた、自らを組織として、よりしっかりとコントロールするため、中央委員会内にさらに政治局というものを置いた。組織全体を統轄する中央委員会、その中央委員会をさらに政治面で少数のメンバーで統轄するものである。メンバーは、ウラジーミル・レーニン、レフ・カーメネフ、グリゴリー・ジノヴィエフ、アンドレイ・ブーブノフ、グリゴリー・ソコリニコフ。そして、ヨシフ・スターリン。彼もこの、栄えあるクラブに入ることができたのだ。またそして――レフ・トロツキー。この、計七名であった。


今回の作中で引用している歌詞には、著作権は発生していないと私は認識しています。

字数の都合上、本来の一章を二分割して掲載しています(以後、特に断らない限り、この二分割がつづきます)。

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