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フェアリー・テール  作者: 田中 鉄也
第二部 ベリヤ
19/29

4.世界大戦(2)

新型戦車T‐34登場。

 ドイツ軍がモスクワに迫ってきていた。首都の喧騒は、次第に殺気を帯び始めていた。高級官僚たちは私財を満載した公用車で脱出を図っており、これに怒った労働者たちに襲撃される、という事件も起こった。近郊の農民のなかには、熊手を手にこれら高級官僚たちを襲い、彼らのダーチャを「解放」する者もいた。モスクワから南東におよそ四百マイル離れたクイブイシェフに政府機能を移転することが決まり、スターリンの住居が用意された。一〇月一五日、NKVD職員と技術者からなる部隊が、モスクワ中に地雷を敷設した。赤の広場には、スターリンの脱出用の軽飛行機が、いつでも離陸できるように待機していた。

 この月の一五日と一六日、事実上モスクワは無法地帯であった。病院は機能を停止し、商店は略奪に遭った。セックスとアルコールに狂う者もおり、そのなかに前線からの脱走兵が流れ込んでいた。この首都のパニック状態を止めたのは、スターリンのクレムリンへの帰還――とその宣伝――であった。一七日の午後から、秩序は急速に回復されていった。もっとも、ヨシフ・スターリンの猜疑心は相変わらずであった。モスクワに留まり、職務を全うしようとした勇気ある官僚のなかには「敵を迎え入れようと待機していた」との嫌疑で逮捕され、銃殺された者も少なくなかった。脱走兵の処遇については言うまでもない。本人は処刑され、家族も処罰の対象とされた。そして、スターリンと歩調を合わせるかのように、ウラル山脈の向こう側から、新しい兵士が続々と送り込まれてきた。責任を転嫁し、人を逮捕し、殺し、入れ替える。三十年代のエジョフシチナの、ミニチュア版であった(殺される側にとっては、ミニチュアであろうと同じことだ)。

 ここで辣腕(らつわん)を振るったのは、やはりラヴレンチー・ベリヤである。(治安の維持は、俺以外にはできないんだよ‥‥)と言いたげな一(べつ)をヴォロシーロフらにくれると、スターリンに報告書を手渡した。「スタフカ(スターフカ)」と呼ばれる総司令部が置かれた、特設防空壕のなかである‥‥。

 ヨシフ・スターリンは、七月一〇日にこのスタフカの議長に、八月八日には最高総司令官に就任し、名実ともにこの戦争の最高指揮官となっていた。スタフカのメンバーとして選出されていたのは、ヨシフ・スターリン、ゲオルギー・ジューコフ、ヴャチェスラフ・モロトフ、クリメント・ヴォロシーロフ、セミョーン・ブジョーンヌイ‥‥等々。またスタフカ内にスタフカ常設顧問団が組織され、そこにはラヴレンチー・ベリヤ、アナスタス・ミコヤン、ラーザリ・カガノーヴィチ、アンドレイ・ジダーノフ、ゲオルギー・マレンコフ、レフ・メフリスらの名があった。このうち五名が、政治的な影響力を大きく行使してゆく――英米からは「ビッグ・ファイヴ」なるあだ名を頂戴(ちょうだい)することになった。ヨシフ・スターリン、ヴャチェスラフ・モロトフ、クリメント・ヴォロシーロフ、ゲオルギー・マレンコフ、そして、ラヴレンチー・ベリヤ。彼もこの、栄えあるクラブに入ることができた。スターリンから見れば、「古参の親衛隊」からモロトフとヴォロシーロフ、「若き親衛隊」からはマレンコフとベリヤと、バランスをとったわけである。

 しかしこの頃より、モロトフら「古参」とは別の一群が、ベリヤの前に立ちはだかるようになる。他ならぬ、ドイツ軍と死闘を演じている赤軍のなかから‥‥。大粛清をされはしたが、またはそのために、新たな、有能な幹部たちが現れ始めていた。そして、いまは戦時、それもこちらののどぶえを狙ってドイツ軍が猛攻を仕かけてきている最中である。いくらスターリンとて、今もう一度赤軍の粛清をやることはできなかった――たとえ、少々態度が大きくても。

 その有能な指揮官の筆頭格がジューコフ――ゲオルギー・コンスタンチノヴィチ・ジューコフであった。ベリヤより少し年上の一八九六年一二月生まれ。いかつい顔に剃り上げたような頭は、すでに軍人として貫禄充分であった。ハルハ川やレニングラードでの活躍は、前述の通りである。スターリンも、赤軍内で評価の高いこの男を、スタフカ常設顧問団に加えざるを得なかった――あるいはそうすることで、赤軍を懐柔しようとした。

 そのジューコフは、ベリヤのことなど眼中にない――といったら大袈裟であろうが、ひたすらスターリンとの直接の会話を望んだ。一度ならず、ベリヤとジューコフは睨みあった。

「‥‥‥‥‥‥」

 ジューコフはベリヤを押しのけ、スターリンの部屋に向かった。いまは非常時だ、警察関係者は引っ込んでいろ、とでも言いたげな態度。戦争さえなかったら、いまのこの国において、スターリン以外でラヴレンチー・ベリヤに対してそんな態度を取れる者はいない――ベリヤの権勢は、いまや「古参の親衛隊」グループをも脅かしていた。だがジューコフは、政治のことには関心がないようで、ただひたすら軍人としての職務をやり遂げようとしていた。

 スターリンは、そんなジューコフを大事にするようになった。装備、練度、軍組織としての機能、どの点においても、ドイツ軍はかつての白軍と較べ、天と地の差ほども洗練され、優れていた。部下も人民も彼にはどうでもよかったが――捕縛されれば、自分が吊るされてしまうのだ――ヨシフ・スターリンは、きっと銃殺でなくこちらだと思った。赤軍に頼るしかないではないか。

(奴らの情け容赦の無さったらない。俺の遺骸(からだ)を三日三晩吊るしておき、人民に石を投げさせるのだ‥‥!)

 ――三日三晩‥‥? その程度で済むと思うのが彼の甘いところだったが、とにかく、ヨシフ・スターリンのこの貧しいのか豊かなのかわからない想像力も手伝い、ベリヤもジューコフには手出しできず、歯噛みするほかなかった。

(古参‥‥の奴らともども、いつかは俺の前に這いつくばらせてやる‥‥!)

 しかし、時が来るまでは、待たねばならないのだった。ドイツ軍に勝たない限りは、少なくとも負けないようにしない限りは、その機会は永久にやって来ない‥‥ラヴレンチー・ベリヤもまた、いっそう職務に励むようにした。

 さて、そのゲオルギー・ジューコフは、スターリンに対して強く求めていた。もっと、もっともっと戦車を‥‥! ――新型の中戦車は、ドイツ軍に対して有効であるようだった。他ならぬ彼らが、この新型に多大な関心を示しているらしい、との報告が前線から入っていた。それが有効の証であることは、ジューコフだけでなく、スターリンにも理解できた。工業設備をウラル山脈以東に疎開させる作業は、全速力で進めさせていた。とはいえそれは、兵士、労働者を如何に大量動員しようと、そう易々と済む作業ではない。国の工業地帯を、丸ごと移動しようというのだ。それも、ソビエト連邦のような巨大国家の工業地帯を。

「――タンコフ・ニェト‥‥!」

 スターリンは、うめくような返事しかできなかった。戦車は、もう無いのだ‥‥!


「ほら、もうすぐ革命記念日とやらだろう。奴らの」

 ゾーヤはフェアリーに言った。モスクワの、何の変哲もない集合住宅(アパートメント)の一室である。とはいえ、手に入れるのは苦労していた。鍋の臭いも、極力控えめにしていた。

「ああ、レーニンさんを思い出すね‥‥」

 空中を漂いながら、フェアリーが言った。

「思い出す、だって?」

 レーニン、そしてトロツキー‥‥。フェアリーは小さな腕を組んでしんみりと思い出に浸っていたが、その姿と、思い出す、という文句が、ゾーヤのなかの何かを、刺激したようだった。ゾーヤは笑った。その口には、抜けている歯などなかった。

「フフ‥‥。ずっと生きているおまえにも、そんなことが、ね――」

 ゾーヤは長い髪をはらった。その姿は――老婆とは言い難かった。不敵な笑みを浮かべ、プラトークこそ被っていないものの、ロシア中年女性のそれであった。髪は、白いものもまじっていないではないが、ほとんど黒髪だった‥‥。

「どんどん忘れてゆくことよ。そうでないと、身がもたない。精神(こころ) もね。それが、われらのさだめ‥‥」

 すべて他人事のようなゾーヤの調子には、フェアリーは慣れてはいたが‥‥。

「なんだい、何か気にかかるのかい?」

 釈然としない顔つきのフェアリーに、ゾーヤは声をかけた。

「そりゃ気になるさ。ドイツ軍は――今度のドイツ軍は、すごいじゃないか‥‥」

「たしかに。あたしも、これほどのものとは思わなかった。奴らの――人間の科学力の進歩は恐ろしい――目を見張るものがあるわ」

「――この国はどうなるの? ヒトラーさんに支配されちゃうの?」

「わからない」

「見えてるんでしょ? 意地悪しないでよ‥‥!」

 口を尖らせたフェアリーに、ゾーヤは言い返した。

「あたしだって、すべてをはっきりと見通せるわけじゃない‥‥。見えるのは、はしばし。そのはしばしから、行く末を導き出しているだけ‥‥」

「じゃ、いま見えてることだけでも教えてよ」

「――あのお方が、やってくるわ‥‥」

 ゾーヤは、(こと)(ほか)ゆっくりとした口調で、唱えるようにつぶやいた。

「あの‥‥お方?」

 ゾーヤは、深く頷いた。

 ――モスクワ陥落も、現実味を帯びていた。陥落後、首都機能をウラル方面に移転し、ウラル山脈を天然の要害としてなお抵抗する――それもできない相談ではなかった。しかし、首都の陥落はソビエト連邦の敗北を象徴することになるし、そうなったら反抗作戦など夢物語(フェアリー・テール)となる。モスクワ特設防空壕のなかは、殺気立っていった。このロシアの首都がドイツの――傀儡政権の――足下に踏みにじられる。それは、あってはならないことだった。ヨシフ・スターリンは、ゲオルギー・ジューコフにモスクワ死守を命じた。ジューコフはこれを請け合い、各機関や工場などのウラル方面への疎開を継続しつつ、軍属はもちろん、士官学校生やコムソモールの構成員、そして住民らを防衛任務に就かせる、文字通りの総動員体制をとった。戦車は満足にはない。だが、敵を足止めさせ、「あのお方」の到来を待つのだ‥‥。

冬将軍(ジェネラル・フロスト)さま、よ」

 いま、このロシアでは、最強の将軍が出陣の準備を整えているところだった。ゾーヤの言葉に、フェアリーは得心がいったようだった。かつて欧州の支配者を気取り、このロシアに攻め込んできた、ナポレオン・ボナパルトなる男。その男を迎え撃ったのも、この「将軍」であった。彼の軍隊は大打撃を受け、ほうほうの体で西ヨーロッパへ逃げ帰り、彼は没落した。

「大勢の兵隊が、白い雪に包まれ、埋まる。赤軍兵もドイツ兵もない‥‥」

「また、いっぱい死ぬんだね‥‥」

「そう。うんざりするほどね‥‥。嫌というほど死に顔が見える。ロシアの兵士たち、遠くアジアから連れて来られた男たち‥‥」

 遠い目をしていた彼女は、顔をしかめ、首を振った。

「このソビエトと、ドイツ――どちらが勝つかは、まだはっきりとは見えてこない。この戦は、長く続くわ。けど‥‥」

「けど?」

「どうやら、このモスクワは落ちないようよ」

 ゾーヤは、いま特設防空壕で額を寄せあっている者たちが耳にすれば、大喜びするようなことを予言した。

「とりあえず、あたしたちは安泰のよう。――やれやれ、よ。引越は大変だから‥‥」

 ゾーヤは、再び腕組みして何事か悩んでいる小妖精に、声をかけた。

「見に行ってみるかい?」

「‥‥え? 何を?」

「奴らの様子をよ。おまえが見てくれば、その分はしばしが増える。見通しも、立てやすくなる‥‥」

 フェアリーは、頷いた。自分の目で、様子を確かめたい。そんな欲が、彼の小さな胸のうちに湧いてきていた。

 ――すでに名にしおうドイツ軍装甲部隊が、モスクワ市中心と空港の中間地点にあるヒムキ市に到着していた。一一月七日、革命記念日。赤軍は、ヨシフ・スターリンのもと、例年通り赤の広場でパレード行進を行なった。これは戦意昂揚(こうよう)の効果があった。革命の行進を行なった兵士たちは、その足で前線へと向かった。それを見送る市民たちのなかに、十代の少年の姿があった。

 フェアリーは建物の高い位置に隠れ、長い隊列とこの少年とを見守っていた。ゾーヤから、この少年を見てくるよう、言われていたのだ。例によって何故なのかは、教えてくれなかった。初めて見る少年だ‥‥将来、英雄になるのだろうか? フェアリーにはわからなかった。少年は、真剣な眼差しで将兵たちを見送りながら、自分も悲壮な決意を固めようとしていた。彼の母親は、行進を見に来ようとしなかった。少年の()は、誰かに似ていた。

 人民に石を投げられる――というヨシフ・スターリンの想像も、あながち間違いではなかった。実際、特にウクライナにおいては、ドイツ軍の侵攻をスターリンの圧制からの「解放軍」と捉える向きもあった。街々に建てられていたスターリン像は、次々と倒されていた。進んでドイツ軍に協力したウクライナ人のなかには、捕虜となったロシア人の赤軍将校を「金魚」、兵士を「銀魚」と呼び、ドイツ兵が止めに入らなければならぬほど激しく彼らを虐待する者もいた。また、そこまでしなくとも、彼らの到着を十字架を振って歓迎した人々――特に農民――は少なくなかった。この人々も、ドイツ側の勝利が覆ったときの秘密警察(チェキスト)による報復を念頭に置いていなかったわけでは無論ない。それでもスターリンと「ソビエト連邦」への反抗に駆りたてるほど、彼らには今までの積年の怒りと憎しみがあった。

 しかし――ヒトラーと国家社会主義ドイツ労働者党の思想によれば、彼らは支配が必要な劣等民族なのであった。ドイツの軍隊の背後には、この国家の思想と機構があった。総統アドルフ・ヒトラー個人に忠誠を誓う、先のハインリヒ・ヒムラー配下のSS(親衛隊)と呼ばれる組織――具体的には、RSHA(国家保安本部、ライヒ公安本部、他)指揮下の「アインザッツグルッペン」と呼ばれる部隊があった。「アインザッツコマンド」や「ゾンダーコマンド」という行動部隊を配下に有していた。それらは、たちまち正体を現した。彼らはまた、占領地域において、ユダヤ人を差し出すことを求めた。


 ソビエト側の焦土作戦により、ドイツ軍にとって、補給の現地徴収はほぼ不可能であった。また、広軌であるソビエト連邦の鉄道のレールを彼らのものに取りかえる作業は、多大なマンパワーを必要とし、なかなか進まなかった。そして、その補給線自体の延伸は、彼らにも窮乏をもたらした。また、彼らの冬期装備は、貧弱であった。一〇月から天候が悪化しはじめ、降雨が増えていた。未舗装の道路は泥濘と化し、ドイツ軍の物資の補給また装甲部隊の前進を妨げた。一一月には天候は回復したが、気温がみるみる低下し始め、そして霜が降りた。装甲部隊は前進できたが、兵士たちは寒さに震えるようになっていった。この月の末には、各所でドイツ軍の進撃は挫かれつつあった。トゥーラは落とされなかった。南方からの装甲集団は、モスクワ南方のオカ川のラインで前進を停止。北方からの装甲集団はクリンを制圧してさらに前進したが、結局モスクワ突入はならなかった。西方正面からの装甲集団は、クレムリン宮殿から二五キロの地点にまで達した。彼らの前衛部隊は、宮殿の尖塔を臨んだという‥‥。

 しかしついに――例年よりも早く――冬将軍が到来した。気温は、零下二〇度を割った。オイルが簡単に固まる寒冷である――ドイツ軍の戦闘車両は、作戦行動不可能となった。火器も同様である。兵士たちも、次々と凍傷にかかっていった。ルフトヴァッフェはモスクワ近郊の街イストラを手に入れていたが、VVSの必死の反撃により、制空権はソビエト側にあった。モスクワへの空爆は一〇月二五日で終わった。この間にもソビエト側には、ウラル山脈の向こうから精鋭部隊が続々と送りこまれてきていた。日本に潜入させていたスパイ、リヒャルト・ゾルゲからの情報をもとに、「満州国」との国境方面に配備していた、冬季装備の充実した部隊であった。

「くそう、もう少しなのに‥‥!」

 ドイツ軍Ⅳ号戦車の戦車長はうめいた。彼はすでに中隊長であり、赫々たる戦果をあげていた。ヴィテプスク近郊での戦闘以外、ここまでほぼ負け無しといってよかった。――眼前で部下のⅢ号戦車を吹き飛ばされたあの巨大戦車T‐35による奇襲は、彼にとっていまだに悪夢であった。彼の戦車部隊は後退を余儀なくされ、八・()八c()mF()laK()18に何とかしとめてもらい、このⅣ号戦車部隊に転任とあいなったのだ。あれ以降、動くT‐35にはお目にかかっていなかった。しかし、より俊敏で、かつそこそこの装甲を持つ中戦車を、敵は投入し始めていた。その中戦車の部隊が、この厳寒のモスクワ正面でも迫ってきていた。

「奴ら、もう負けは無いと思ってやがる‥‥」

 戦車長は、ハッチを閉め、砲手に命じた。

「引きつけるんだ。六〇〇まで来たら食え‥‥!」

「了解!」

 部下の頼もしい声がつづく。しかし、「もう少しです。もうチョイ‥‥!」という砲手の声が突然、「うわ!」という悲鳴に変わった。

「うわあああっ!」

 砲手は、目を押さえて狭い車内のあちこちに体をぶつけた。

「どうした!」

 砲手の視界に紫色の何かが入り、そしてそれは突然、強い黄色の閃光を発したのだった。両眼を射抜かれた砲手の悲鳴がつづくなか、敵戦車部隊の発砲が始まり、たちまちそのⅣ号戦車の左右に着弾の火柱があがった。凄まじい轟音と振動が、車内を襲う。着弾はつづいた‥‥。

 ――一二月五日、ドイツ軍はモスクワ攻略の中止を余儀なくされた。一六日、ヨシフ・スターリン宛に、フランクリン・ルーズベルトから祝電が届いた。しかしまたスターリンはこの厳冬期に無理な追撃を命じ、一説では赤軍将兵もおよそ百万が犠牲となったという‥‥。


 新年、一九四二年が明けた。モスクワ防衛の成功は、あくまで象徴にすぎなかった。贔屓(ひいき)目に見ても、ソビエト連邦は負けはしないことを見せることができただけであった。ベラルーシ、ウクライナ、ヨーロッパ・ロシアの多くはなお枢軸勢力の支配下にあり、旧首都レニングラードは変わらず包囲下にあった。前述の通り外部との連絡は、ラドガ湖上のルートのみである。砲撃と空襲、そして食糧不足により、すでに市民に大量の死者が出ていた。海外でも知られていた作曲家ドミートリイ・ショスタコーヴィチは、この封鎖下で交響曲第七番「レニングラード」を完成させた。また、かつてカール・ラデックがブハーリンに紹介したアレクサンドル・ベリャーエフという作家も、このレニングラード包囲戦と呼ばれる一連の戦いのなか、ドイツ占領下にあった近郊のプーシキン市で没した。

 スターリンは、英米による「第二戦線」を切望していた。ドイツに二正面作戦を強要し、その力をそぐのだ。ワシントンに派遣されていたモロトフは、一九四二年以内の第二戦線の開始をうたったホワイトハウス・コミュニケを持ち帰ってきたが、ドイツの将軍ロンメルによる北アフリカ戦線での猛攻により立ち消えとなった。イギリスは、スエズ運河を失うことを極度に恐れていたのだ。チャーチルはソビエト連邦を訪れ、ソビエト人民に対し戦争継続と勝利への強い意欲を表現するためにVサインをしながら彼らの前に登場した。「Victory」のVである。しかし、キリル文字における「勝利」のスペルは、これとは異なる。勉強不足のチャーチルと不親切なソビエト連邦のマスコミにより、これは人民に第「二」戦線開始の確約と受け取られてしまった。スターリンは、かつての干渉戦争における侵略者との会談に臨んだ。現段階での第二戦線は有り得ないことを知りスターリンは失望したが、しかし、多くの援助を引き出すことに成功した。

 ユーリ・ワイネルは、新しい戦車部隊に配属されていた。レニングラード南方の戦線でこの部隊に配属され、南下してここブリャンスク戦線に来ていた。新しい部隊は、新しい戦車をそろえていた。(テー)‐34‥‥。彼が待ち望んでいた、中戦車であった。これでドイツ軍に対抗できる――ワイネルは嬉しさで一杯だった。彼が教育することになった、新しい、若い兵士たちを前に、彼にしては珍しく上機嫌で、大口を叩いた。

「われわれは、このT‐34を絶対に敵に捕獲させてはならない――俺が恐れていることは唯ひとつ、ドイツがこの優れた戦車のコピイを生産しやしないか、ということだ」

「ハハハハ‥‥!」

 久しぶりに、若い戦車兵たちの笑いがこぼれた。

 ‥‥彼らの上空を舞いながら、フェアリーはある少女のことを思い出していた。忘れてゆくことよ、とゾーヤは言うけど――。スヴェトラーナ・トゥハチェフスキー‥‥。

 彼女が自死にあたって語った思い出のなかには、幼い頃、家族で行ったモスクワ軍管区司令部の中庭で遊んでもらった優しい女の人、というものがあった。姉によると、やはりまだ小さい姉が、その女性に、父親手製の大きな木の戦車のおもちゃをあげたということだった。自分はとても小さく、記憶も(おぼろ)だけど、たしかにその光景を覚えている、と。

「妖精さん、もしもその人に会ったら、伝えて‥‥。『この世で、あなたみたいな人に出会えて、嬉しかった』って言ってたって」

「だめだよそんなの――! 生きて、自分で伝えるんだ‥‥!」

「姉さんが言ってた。たぶん、グルジア人だと思うって。同志スターリンと訛が同じだって‥‥。あそこの司令部の中庭だってわかるのは、後から何度か行ったから‥‥――もしかしたら、姉さんやお母さんから聞かされた『話』を自分の思い出にしているのかもしれないけど――よくあるでしょ、そういうこと――でも、会ったことは本当だと思う‥‥。あの木の戦車も、記憶のなかではずいぶん大きいけど、本当は小さなものだったのかな‥‥」

「――‥‥それは、君が『大人』になったから考えられることだろ? 君には未来がある‥‥とは言えないけど――。そんなふうに考えられるのに、死ぬなんてもったいないよ!」

「――ありがとう、妖精さん。あなたにも会えてよかった‥‥」

「お礼なんかいらないよ! やめるんだ!」

 フェアリーは精一杯彼女を説得したのだが、制止は間に合わなかったのだった‥‥。

 妖精は、小さな頭を振った。彼女のことは、思い出すのはつらすぎた。ゾーヤにその女性を探すように頼んでみて、もう忘れよう。ゾーヤの言う通りなのかもしれない。抱えてゆくには、悲しい思い出が多すぎる。あまりにも。

 いまは本当にひどい時代だ。これからどうなるんだろう。でも、ゾーヤが注目するあの人(ワイネル)は、とにかく未来(まえ)へ進もうとしている――。

 なお付言するならば、スヴェトラーナ・トゥハチェフスキーの死は、無数の――本当に無数の――悲劇の、ほんのほんの一例である‥‥。


 このT‐34(T‐34‐76)の、避弾経始が考慮された傾斜装甲の車体と砲塔、特に主砲基部に防盾を備えた流線型のような砲塔は、コンパクトにまとめられ美しくさえあった。乗員は少なく、四名。T‐34よりやや小さい、ドイツのⅢ号戦車でも五名である。戦車長が砲手を兼ね、装填手とともに砲塔内におさまり、操縦手と前方銃手が車体前部におさまる。車体後部には、およそ五〇〇馬力を出すV型一二気筒ディーゼル・エンジンがおさまっていた。型によって多少の差はあったが、行動距離は四〇〇キロにおよび、速度は整地で五三キロを出せた――ただし、これはいわゆるカタログデータである。

 操縦手は車体前部の左側、肘かけのついたシートに座る。クッションがあり、調整はきかないが折りたたみ式の背もたれもついている。初期のBT(ベーテー)戦車等では自動車式のハンドルで操作したが、左右の履帯の速度をコントロールできる操縦桿で操作できるようになった。操縦手はこの他に、左から右に並んだクラッチ・ペダル、ブレーキ・ペダル、アクセル・ペダル、クラッチ・レバー(ギヤ・シフト・レバー)で、二五トン超の車体をコントロールする。操縦手の正面のパネルには水温計と油音計、そして油圧計がある。左のパネルには速度計、四〇〇から三〇〇〇回転までのタコ・メーター、電流計、電圧計、電動式の始動スイッチがある。すべて必要最低限のものしかつけられていないが、緊急の始動に対応できる圧搾空気設備も備えていた。前進三段、後身一段のギヤが、ギヤ・ボックスにある。前方銃手はその右側の同じようなシートに座り、七・六二ミリDT(デグチャリョーフ)機銃を担当する。歩兵用のものを戦車用に改造したもので、弾倉は六〇発入りのドラム型、最大発射速度はカタログデータで毎分五〇〇から六〇〇発であった。

 とはいえ、すべてが完璧というわけではなかった。この前方機銃の、現実の無駄弾を撃たない発射速度は毎分一〇〇発程度。コンパクトにまとめられた砲塔の内部は、おさまるのが戦車長と装填手の二名でも狭苦しかった。戦車長が砲手を兼ねるのは、合理的なようでいて、特に戦闘に際しては支障をきたした。全体の動きを指揮すると同時に、主砲と同軸機銃の照準を定め発射する作業をひとりで行なわねばならず、そして砲塔内の彼の仕事場の高さは、およそ一・四メートルしかなかった。

 砲塔内の二名は、詰め物の入ったシートに腰かける。これは高さの調節ができ、クッションつきの背もたれもついているが、肝心なことは、そのシートが砲塔の還部に取り付けられているという点だ。この二名、つまり戦車長と装填手は、砲塔を動かす際には、シートから身をよじらせて旋回についていかねばならなかった。主砲に採用されたのは、F‐34七六ミリ(七六・二ミリ)戦車砲といい、威力は申し分なかった。

 ワイネルらは、砲手としては潜望鏡型照準器か眼鏡照準器のどちらかで照準する。前者には上部に動かせるプリズムがついていて、ワイネルらは接眼レンズのノブを調整、照準器の十字線を目標に向ける。距離目盛は、同軸機銃用の一〇〇〇メートルまでのもの、徹甲弾用として三六〇〇メートルまでのもの、榴弾用として二一〇〇メートルまでのものの三種がつけられていた。接眼部には、ワイネルらの目や額を守るゴム製の防眼フードや額あて等がついていたが、前者はうまく光を遮ってくれず、この潜望鏡型照準器で照準する仕事はかなり難しかった。

 眼鏡照準器は、潜望鏡型よりましな照準ができた。円筒状で、動く接眼レンズの眼鏡照尺は倍率二・五倍、視界は潜望鏡型を少し上回る一四度以上あった。調整ノブで三種の射距離に合わせられた――榴弾用は五〇〇〇メートルまでを示せた。ただこちらも防眼フードがうまく機能せず、素早い照準を困難にさせ、結果として移動目標に対する偏差射撃を行なうこと等には、非常に高度な技量が必要とされた。砲座の下部のネジでとめられている柱の両側には、バネつきペダルが二枚あった。場合によっては足の先で、左のペダルを踏むことで主砲を、右のペダルを踏むことで同軸機銃を発射することも可能であった。同軸機銃は、必要に応じて、装填手が発射することもできた。

 操縦手の視界は限られているから、ワイネルらは望む位置に移動できるよう適切な指示をこの部下にくだしつつ、装填手に対して用いる砲弾の種類を伝え、照準し、射距離を計測して発射、発射の反動でおよそ三五センチ後退する主砲の砲尾から身をかわし、さらに目標に命中したか否か確認せねばならなかった――前述の狭い仕事場でである。ワイネルらは重い砲塔を手動で旋回させねばならず、そのためのハンドルは後方の妙な位置についており、左手では動かしづらかった。おまけに、ギヤは非常に重いときた。戦闘中の砲塔旋回では、ワイネルらはしばしば、右手を体の前からこのハンドルに回して操作した。上体と首をよじって頭だけを眼鏡照尺の接眼レンズにひっつけておく無理な姿勢を強いられ、頭を――つまり照準を――離さねばならないことも多かった。T‐34に搭乗し戦闘等を行なうことは、戦車長にとっては才能の発揮の機会であるとともに受難劇でもあった。

 一言で言うならば、このT‐34は人間工学というものがかなり無視されていた。これは、そのままこの国の実情を示していた。

 戦車長にとってT‐34の設計上の問題は、これだけではない。装甲の表面には気泡が浮いていた。工場の生産ライン上の問題だが、これはいい、戦車は乗用車ではないのだ。砲塔のハッチが前に開くようになっているのだが、これは前方視界を塞ぐことになり、戦車長はこのハッチの横から前方の模様を確認せねばならなかった。このためにすでに多くの戦車長が戦死していた――T‐34にとって砲手を兼ねる戦車長を失うことは、ほとんどその車輌の戦闘不能を意味し、ために他の乗員の生命も危険にさらされた。砲塔後部と車体の間には、棚のような、おかしな空間があった。戦車長が仕事に忙殺されている間に、ドイツ軍の歩兵等に忍び寄られ、この箇所に時限装置つきの爆薬を仕掛けられてしまい、破壊されることも少なくなかった。この方法で砲塔を吹き飛ばしたT‐34の残骸の横でポーズをとる兵士の写真が、ドイツ側の宣伝写真でよく見られるようになった‥‥この点は改良され、新しく生産された車輌はその空間をなくした。

 重戦車にも、新型が戦線に登場していた。このT‐34と同じF‐34戦車砲やその改良型ZiS‐5戦車砲を搭載したKV(カーヴェー)‐1(KB(カーヴェー)‐1)という戦車である。ぶ厚い装甲を誇り、ドイツ軍の砲撃等にもよく耐えた。KVはクリメント・ヴォロシーロフのイニシャルを冠したもので、主設計者は彼の義理の息子である。悪い戦車ではなかったが、ユーリ・ワイネルはこのT‐34のほうが自分に向いていると思っており、実はこのKV‐1の戦車部隊に配属されかけたのだが、現在の部隊に配属されることができていた。このKV(カーヴェー)重戦車には、一五二ミリ榴弾砲を搭載したKV(カーヴェー)‐2と呼ばれる改造型も存在したが、巨大な砲のための重さと異様な高さの車高のため、実用的とは言い難かった。たまたま、昨年のドイツの侵攻直後、リトアニア方面に進撃してきたドイツ側の戦車部隊に対し、おもにKV‐1とKV‐2からなる部隊がドゥビーサ川付近にて抗戦し大きな損害を与え、さらに一輌のKV‐2が彼らの一戦車師団を数日間にわたり寸断したことがあったが――赤軍の重戦車というものに慣れていなかったドイツ将兵たちをそのときは驚かせられたが、赤軍戦車部隊の連携の悪さも手伝い、現在ではすでにKV‐1、KV‐2とも見切られていた。それよりもワイネルは、KV重戦車には52‐K八五ミリ高射砲の対戦車砲弾を用いる戦車砲を開発すれば、搭載もしやすく、中戦車であるT‐34と分業することができるのではないかとの旨の上申書を提出し、KV重戦車には別れを告げたのだった。

 ソビエト陸軍――赤軍には他に、先の快速戦車BT(ベーテー)‐7、その改良型BT‐7Mのほか、また同クラスの四五ミリ戦車砲を主兵装とする(テー)‐26、(テー)‐50、(テー)‐60、(テー)‐70という軽戦車も存在し、枢軸軍と砲火を交えていた。

 ――赤軍技術陣は、T‐35の後継車両として装甲を強化した(テー)‐100、また別にセルゲイ・M・キーロフの名を冠したSMK(エスエムカー)という多砲塔重戦車を開発し、KV‐1と共に先のフィンランドとの冬戦争に投入していたが、この結果、重戦車でも単砲塔であるKV‐1のほうが有効であるとの判断がくだされていた。

 SMKは、キーロフスキー工場で開発が行なわれ、全長九・六メートル、全幅・全高ともに三・二メートル、重量四五トンの巨大重戦車である。主砲として一六・五口径七六・二ミリ戦車砲一門、副兵装として四二口径四五ミリ戦車砲一門、七・六二ミリ機関銃三門を備えていた。乗員は七名。エンジンは四〇〇馬力だが、速度はカタログデータではT‐35をわずかに上回っていた。試作であるにも関わらず、冬戦争に一輌が投入され、その装甲は敵の対戦車砲の猛攻に耐え抜いた。しかし、雪溜りにはまり込み――一説には地雷または集束爆薬による攻撃のため――行動不能となり、放棄された。地形と大重量のためフィンランド軍もこのSMKを捕獲することはかなわなかった。赤軍側は、同じ多砲塔戦車であるT‐28を実に六輌も投入して牽引(けんいん)を試みた。

「絶対に回収するんだ。同志キーロフの名前をもらった戦車なんだ‥‥」

 戦車兵たちは口々に言い合い、コミッサールも声を張り上げた。

「そ、そうだ! 同志スターリンの戦友、同志キーロフだぞ!」

「‥‥‥‥‥‥」

 牽引には成功したが、そのままでの輸送は叶わず、溶断して回収するしかなかった――。以降、多砲塔戦車は戦車の主役の座から降ろされ、その姿は消えてゆく‥‥。

 T‐35、T‐100を含め、赤軍のこの多砲塔戦車たちのエピソードは、また別の物語として語られるべきであろう。なお、この冬戦争においてフィンランド軍は五輌のT‐28を捕獲、戦車部隊に配備し、有効に活用した。

 この時期に戦車としての役割をほぼ終えることになった戦車の系譜として、これらT‐35やT‐100、SMKとは逆に小型の、豆戦車(タンケッテ)と呼ばれるものもある。厳密な定義は難しいが、総じて軽戦車よりもさらに小型・軽武装の戦車である。

 赤軍は(テー)‐27という豆戦車を開発・保有していたが、多くが対戦車砲の牽引車に改造された。(テー)‐20「コムソモーレツ」は、装甲牽引車という分類になり、密閉型のシャーシに乗員二名をおさめ、機関銃を備え、対戦車砲や重迫撃砲を牽引した。操縦手と銃手の後方上部には背中合わせのベンチシートがあり、六名の砲兵を搭乗させることができた。幌を取り付けることも可能で、支柱に大雑把に防水布をかけただけのものから、窓つきの形の整ったものまであった。またその小さな車体上部に、豪快にZiS‐2五七ミリ対戦車砲を取り付けた、ZiS‐30と呼ばれる兵器も誕生していた。これらの他に、おもに車輪走行式の装甲車があった。これはさらに軽装甲車と重装甲車に分類され、軽装甲車はおもに機銃を搭載、重装甲車にはBA(べーアー)‐3、BA(べーアー)‐6‥‥とあり、BA(べーアー)‐10に至っては四五ミリ砲を搭載していた。

 失われたポーランド共和国(ポーランド第二共和国)陸軍は、TK‐3、また改良型のTKSと呼ばれる、全長二・六メートル、全幅一・八メートル、全高一・三メートルほどの豆戦車を保有していた。また同陸軍は装甲列車を運用しており、七六・二ミリや一〇〇ミリの野砲を備えたものもあった。一九三〇年代のポーランド第二共和国は、ソビエト連邦に次ぐ編成数を誇る装甲列車大国でもあった。これら装甲列車はしばしば戦車運搬車を運用し、このTK‐3やTKS、ルノーFT戦車を発進させた。

 ポーランド陸軍の第53装甲列車「シミャウィ(シミャーウィ)」は、一九三九年九月一日――初代の編成は、独立の一九一八年に行なわれており、先のポーランド・ソビエト戦争にも投入されていたが、時代を経て大幅に強化されていた――ヴィスワ川西岸方面においてドイツ第4装甲師団と二度の戦闘を行ない、騎兵旅団等の協力をもとにドイツ側戦車およそ四〇輌を撃破、初日の戦闘を白星で飾った。その後、九月一四日にはドイツ第10装甲師団と戦闘、一七日からは東部へ移動し、新たな侵略者・ソビエト連邦の赤軍に対し、祖国降伏の日までリヴィウ(リヴィフ)方面で戦いつづけた。同列車は赤軍に鹵獲され、その装甲列車部隊に編入されていたが、今度はドイツ軍によって鹵獲され、ドイツ側の装甲列車として運用されていた。すでに見た通り、装甲列車はロシア内戦(干渉戦争)では大きな活躍を見せ、この第二次世界大戦の間までにこのポーランド陸軍、ソビエト陸軍――赤軍を始め、各国で開発・運用されたが、やはりこの時期に各国の主要兵器の座から降りることになる。この「シミャウィ(シミャーウィ)」ほかポーランド陸軍の装甲列車や豆戦車たちの物語もまた、別の機会に語られるべきものであろう‥‥。

 戦争は、ソビエト連邦の大地だけで戦われていたわけではない。六月上旬、北太平洋上ではミッドウェー海戦が行なわれていた。アメリカ海軍の攻撃により、日本海軍は機動部隊の主力空母四隻とその艦載機からなる航空戦隊を失い、太平洋戦域における戦いの主導権を失った。七月には、北アフリカはエジプト北部、地中海に面する都市エル・アラメインをめぐって、イタリア軍とドイツ軍が、アメリカから多くの増援を受けたイギリス軍と、イギリスのかつての植民地であり一九三一年のウェストミンスター憲章において成立した「イギリス連邦」の加盟国であるオーストラリア軍とニュージーランド軍、そしてインド軍――第一次大戦において自治の約束のもとイギリスに戦争協力したにも関わらず彼らに裏切られて未だ彼らの統治を受けていた――と対峙していた。緒戦における枢軸国側の勢いは、ここへ来て停滞を見せ始めていた。


 ワイネルの心配のひとつは、杞憂に終わりそうだった。ドイツはT‐34を捕獲しても、コピー生産することはなかった。これはワイネルにはわからなかったが――T‐34のエンジンにはアルミニウムが用いられていたのだが、ドイツの工場設備はこれの大量生産には合わなかったのである。

「いいタマだぜクソッたれめ!」

 ユーリ・ワイネルは、本日も戦闘なり。十日ほど前から交戦していた敵部隊を撃退し、その背が高い新兵器を、多数の砲弾ごと捕獲することに成功していた。このドイツ軍の新兵器はマルダーⅡといい、その主砲はなんと彼らが捕獲した赤軍の七六・二ミリ野砲を改造したものであった。シャーシは、彼らのⅡ号戦車という軽戦車を転用したものだ。少し話がややこしくなるが、ワイネルは、この自走式兵器の性能を高く見ていた。あれを捕獲して調べてみたいと常々思っており、この日の戦闘で、それに成功したのだ。

 何だこれは。履帯がついている。だが旋回砲塔はない。これは「戦車」か‥‥? いや、呼び名はどうでもよい。このように旋回砲塔を無くせば、その分、同じ車体重量で重く強力な砲を搭載できる。単純な話だ。ワイネルには、T‐34での戦闘に対する自信と誇りがあったから、そのような兵器に乗りたいとは思わなかった。だが、わが赤軍の未熟な戦車兵たちには、こういう兵器もいいのではないか――車高が高いのがいまひとつと思われたが、このような兵器は、ドイツよりもむしろ、わがほうにこそ必要なのではないか‥‥? ジューコフの戦術にも適合するであろう――。ワイネルは、その旨の上申書を書き送った。

 またこの鹵獲マルダーⅡを少し塗り替えて、実戦で試してみようと考えた。主砲は同じようなものだし、旋回砲塔がないぶん単純そうだから、使い方は大体わかるというものだ。――ドイツがソビエトから捕獲した野砲を(改造して)ドイツの車体に搭載してソビエトとの戦闘に投入した兵器をソビエトがドイツから捕獲してドイツとの戦闘に投入する。チョット話はややこしくなるが、まあいい、車体がぶっ壊れるまで使ってみよう。戦力にもなる。「収奪者から収奪せよ!」と、党の教示にもあったような。それでワイネルは、部下たちとともにその自走式兵器の胴体に赤い星を描く作業を進めたのだが、この試みは、ちょうど赤いペンキが乾いたところでNKVDの「阻止砲火」に遭い、実現しなかった。


 チャーチルは、スターリンの求めに応じ、イギリス本国艦隊の負担増を承知で、できるだけ早期に、ソビエト連邦北部の港へ、定期的に武器と補給物資を届けさせようとした。イギリス側からソビエト連邦への援助が、北海、ノルウェー海、バレンツ海を経由するルートで行なわれることになった。イギリス海軍から出されていた四〇日という出発間隔の希望は、チャーチルにより一〇日とされ、実際には約一五日となった。スカンディナヴィア半島を越え、目指すはムルマンスク、または白海のアルハンゲリスクである。

 ムルマンスクには、その名も「インターナショナル・クラブ」という、船乗りのための娯楽施設さえ用意されていた。当たり前と言うなかれ、ここはソビエト連邦、ついこの間まで事実上の鎖国状態にあったスターリンの国なのだ。兎にも角にも、そこでは電熱式のサモワールで沸かされた熱いコーヒーを飲むことができた。味のほうは不明だが、アメリカに行ったらアメリカのコーヒーの味に慣れる必要がある、それと同じようなものだ。チェスの道具や、六ヶ国語の古雑誌も置かれていた。ロシアで、それも戦争中に、これ以上を望むものではない。

 この援助物資を積んだ船団はPQと呼ばれ、その後に編成番号がつけられた。反対にソビエト連邦からイギリス側に向かう船団は、QPである。これらの極北の海域では、強風、二〇メートルにも及ぶ波、驚くほどの寒さ、そしてドイツ海軍が待ち受けていた。一九四一年末までに、戦車約七五〇輌、戦闘機約八〇〇機、車輌約一四〇〇輌、物資約一〇万トンの輸送に成功した。

 しかしドイツ海軍は、侵略し彼らの拠点としていたノルウェー中部の都市トロンハイム付近のアース・フィヨルド錨地に、「ビスマルク」の同型艦である戦艦「ティルピッツ」、前年「ビスマルク」と行動をともにした重巡洋艦「プリンツ・オイゲン」、遠くインド洋で戦ってきた重巡洋艦(ポケット戦艦、小型戦艦)「アドミラル・シェーア(アドミラル・シェア)」等の艦を集めるなど、圧迫を強めていた。PQ船団は7、8、9、10、11の各船団がすでに何とか成功していた。一九四二年三月、QP8船団のソビエト船一隻が撃沈され、PQ12船団は「ティルピッツ」の巨砲を辛うじて免れていた。

 ノルウェーのより北部の港湾都市ナルヴィクもドイツ側の拠点となっており、アルタ・フィヨルド(アルテン・フィヨルド)錨地に、この「アドミラル・シェーア」に加え、前大戦における有名なユトランド沖海戦(スカゲラックの戦い、ジュットランド沖海戦)を戦った巡洋戦艦「リュッツォウ」ほか駆逐艦六隻がそろえられた(このユトランド沖海戦のドイツ艦隊の指揮官ラインハルト・シェアが「アドミラル・シェア(シェア提督)」である)。トロンハイムの部隊には新たに「アドミラル・ヒッパー」(「プリンツ・オイゲン」と同型艦。ネームシップはこちら)が加えられ、同艦と「ティルピッツ」ほか、やはり駆逐艦六隻をそろえた。PQ16船団の時期になると、Uボートと航空機の攻撃により、船団は七隻を失うことになった。

 スターリンは援助を強く求めつづけた。六月末、アイスランドのハヴァル・フィヨルドから出発したPQ17船団の悲劇は、よく知られている。ムルマンスクの港湾施設は最近ドイツ空軍機によって破壊されており、前年一一月のPQ5船団以来およそ七ヶ月ぶりに、彼らはより遠いアルハンゲリスクを目指さねばならなかった。七月二日、PQ17船団はQP13船団とすれ違い、ドイツ機から魚雷攻撃を受けたが損害はなかった。すでにUボートによる追跡も始まっていた。

 なお、これらPQ船団を護衛するのは、多くはイギリス海軍の(フネ)であったが、ロンドンにおいて設立されていたフランスの亡命政府、自由フランス政府下の艦や、ソビエト連邦の潜水艦の姿もあった。PQ17船団の商船は、およそ三分の二が米国船であり、残りのほとんどはイギリス船であったが、やはりこの自由フランス政府の商船やソビエト船、またオランダ船もいた。なお船籍という観点から見れば、この「米国船」のなかにはいわゆるパナマ船籍の船もいた――ただし、船員はアメリカ人である。

 商船の数は、過去最多の三六隻――もっとも、すでにデンマーク海峡で、数メートル先も判然としないミルクのような濃霧と大浮氷に遭遇し、イギリス商船二隻がお互いに、またアメリカ商船一隻が浮氷と接触、損傷し、アイスランドへ引き返し、この頃には三三隻となっていた。これにイギリス海軍の給油艦や防空船、救助船がついていた。他に直衛の護衛隊として、イギリス海軍の掃海艇、対潜トローラー漁船、コルベット艦が随伴する。このコルベット艦のうちの一隻は「ラ・マルーアン」といい、この自由フランス政府下の自由フランス海軍の艦で、船員はフランス人であった(ただし護衛隊の指揮権はイギリス海軍にあった)。ちなみに、前回PQ16の護衛隊には、別のフランス人の乗艦のほか、ポーランド人の乗艦「ガーランド」やインド人の乗艦「ハイダラバット」等も加わっていた。

 この他に、イギリス本土北部のスカパ・フローから出撃したイギリス海軍駆逐艦六隻、潜水艦二隻が六月三〇日にPQ17と合流を果たしていた。そして七月一日、より強力なイギリス海軍の巡洋艦隊が、アイスランド島北東岸セイディス・フィヨルドを出撃した。その陣容は、イギリス海軍重巡洋艦「ロンドン」、準同型艦「ノーフォーク」、ほか駆逐艦二隻、アメリカ海軍重巡洋艦「タスカルーサ」、「ウィチタ」、ほか駆逐艦一隻。そして、この巡洋艦隊より足は遅いがさらに強大な打撃力を持つ、イギリス本国艦隊が六月三〇日にスカパ・フローから出撃していた。陣容は、戦艦「デューク・オブ・ヨーク」、航空母艦「ヴィクトリアス」、やはり「ロンドン」と準同型の重巡「カンバーランド」、軽巡洋艦「ナイジェリア」、「マンチェスター」、ほか駆逐艦一二隻、アメリカ海軍戦艦「ワシントン」、ほか駆逐艦二隻。この空母「ヴィクトリアス」は、先の「ビスマルク」追撃戦に参加している。西側連合軍の力の入れようがわかる。ドイツ側は、トロンハイムの駆逐艦三隻が座礁してしまったため、レーダー総司令官が「ティルピッツ」「アドミラル・ヒッパー」に、駆逐艦一隻のみをつけてナルヴィクに向かわせていた。

 さて、七月二日の夜から、船団は再び濃霧に包まれた。これは、ドイツ側の索敵から彼らを護りもしたが、同時に不安にも陥れていた。三日午前中まで、この濃霧はつづいた。午後三時、南からドイツ爆撃機二六機が飛来するも、雲が低く視界が悪く、これだけの部隊で来た割には、船団は命中弾を食わなかった。そして、ドイツ機が去るのを待っていたかのように、天候は回復。船団のすべての船がはっきりと見渡せるようになり、船員たちは神が味方したと喜びに湧いた。ほぼ同時に、巡洋艦隊の姿も視認された。追いついたのだ。しかし、頼もしい助っ人の登場にも関わらず、各国船団員たちの顔は、先ほどの空のように曇った。巡洋艦隊は、彼らの左舷側、つまり北側に位置していたのである。ドイツ側が南から来ることは、わかっているはずだ。俺たちを守りに来た艦隊が、なぜ北側、すなわち非敵側にいるのか‥‥?

 これには、巡洋艦隊側の理由もある。指揮官は、実は前日から、船団の北側四〇マイルを見えないように併走させてきたのだ。それなりの技量を必要とさせる。理由は――空軍ではなく――ドイツ艦隊が出てきた場合、反撃するために、である。しかし四〇マイルも離れている必要があったのか等々、この行動の判断は難しい。ともかく三日、PQ17船団はバレンツ海のビュルネイ島(英名ベア島)沖を通過した。四日、船団のうちのアメリカ船は、星条旗を新しくし、彼らの独立記念日を祝った。この日、ドイツ機からの攻撃で商船三隻が沈み、一隻が大破した。夜、イギリス海軍本部から同船団に、三回の命令電が発せられた。

「緊急信。巡洋艦戦隊は高速で西へ退避せよ」

 この「高速で」の語句が、巡洋艦隊の指揮官に冷静さを失わせてしまった。

「至急信。水上艦艇による脅威あり。船団は散開してソビエト連邦の港へ向かえ」

 この突然の指令は、船員たちを混乱させた。

「緊急信。船団は分散せよ」

 そして、いかにも切迫したこの最後の命令電は、混乱に拍車をかけた。

 船団は大混乱に陥った。てんでに回頭し、衝突しそうになった二隻もあった。右に、左に、あるいは直進する船――。多国籍にも関わらず、今までは保つことができていた海の男たちの船の陣形は、たちまち滅茶苦茶に崩れ、四散した。これは、イギリス海軍本部の責任であろう。‥‥船団の頼みの綱の巡洋艦隊は、船団から離れ去っていった。彼らだけではない、直衛の駆逐艦六隻まで――。

 何だかんだ言っても、七つの海を制覇してきたイギリス海軍には、この時代でも誰もが一目置いていた。だからなおのこと、商船の船員たちには、訳のわからない命令の上に、いま視界から遠ざかってゆく強力そうな軍艦たちの行動は、自分たちを見捨て遁走する行為と映った。船団のおよそ三分の一を占めるイギリス船の船員たちが、何のために税金を納めているのか疑問に思っても不思議はない。海軍の艦隊が商船の船団を、軍隊が自国民を、放り出すようにして去っていったのであるから。この厳しい海域で、それも、敵に捕捉されている状況下で‥‥。あれだけの艦隊ならば、ドイツの「水上艦艇」が出てきても対抗できるだろう――アメリカ船ほか他国の船の船員たちも思った。

 現実問題としては、特に三八センチ砲を持つ「ティルピッツ」が出現したら、いくら巡洋艦や駆逐艦が数をそろえていても大損害を被る。巡洋艦隊や直衛の駆逐艦隊はそのような判断をしたわけだが、だからといって民間船を置いてきたことに変わりはない。

 五日午前、これらのイギリス艦隊の退避を、ドイツ側も確認した。「リュッツォウ」も座礁してしまっていたため、「ティルピッツ」「アドミラル・シェーア」「アドミラル・ヒッパー」ほか駆逐艦七隻からなる艦隊が、船団の進路をアルハンゲリスクと判断し、それを遮断すべくバレンツ海を東進した。ノルウェー領スヴァールバル諸島のスピッツベルゲン島の東には、この季節でも浮氷群があった。ここは北極圏である‥‥。

 イギリス本国艦隊は、九隻の潜水艦を、船団とドイツ艦隊との間に割り込ませようとした。「ウルスラ」、「トリビューン」、「シーウルフ」、「トライデント」、その南側に、「サヒーブ」、「スターゼオン」、「アンライバルド」、「アンシェークン」、自由フランス海軍の「ミネルヴァ」である。そしてそのさらに南側に、ソビエト海軍――赤色海軍の潜水艦六隻が展開していた‥‥。


 ‥‥ロシア革命後、海軍力増強の必要性を感じた海軍首脳は、大規模な艦艇建造計画を革命軍事会議に提案していた。ただし、この「海軍」――赤色海軍は、あくまで赤軍の一部門に過ぎなかった(これは「空軍」――VVSも同様である)。一九二六年、革命軍事会議は計画を承認、第一次五ヶ年計画、その後の第二次五ヶ年計画において、新時代の海戦に対応すべく実行に移した。これは、自国領土近海の防衛を目的とした、沿岸海軍としての戦力整備であった。そのため、ソビエト連邦は、特に潜水艦の建造に力を傾注することになった。これは悪くない――軍事的に妥当な線である。

 ドイツの侵攻当時、赤色海軍は潜水艦およそ二五〇隻を有し、数の上では世界第一位であった。おもに三十年代に建造された艦は、小型の哨戒型潜水艦M型(マリュトカ級)、中型の哨戒型潜水艦SC型(シチューカ級)、それより大型の攻撃潜水艦S型(スレドニャーヤ級という呼称だが、しばしばスターリネツ級と呼ばれた)、さらに大型の艦隊潜水艦K型(クルージング級、しばしばカチューシャ級)、および機雷敷設潜水艦L型(レーニネツ級)である。このうち、SC型、S型はさらにサブタイプに分かれていた。

 SC型のあるサブタイプで、全長五七・〇メートル、全幅六・二メートル、喫水は四メートル前後、基準排水量は水上五七八トン、水中七〇五トン。兵装は、五三三ミリ魚雷発射管が前方四門、後方二門、四五ミリ機関砲一門。S型のあるサブタイプでは、全長七七・八メートル、全幅六・四メートル、喫水は四メートル以上が多く、基準排水量は水上八四〇トン、水中一〇七〇トン。兵装は、五三三ミリ魚雷発射管が前方四門、後方二門、一〇〇ミリ砲一門、四五ミリ機関砲一門、一二・七ミリ機銃一門。K型になると、全長九七・七メートル、全幅七・四メートル、喫水は四メートル以上、基準排水量は水上一五〇〇トン、水中二一〇〇トンに達した。兵装も、五三三ミリ魚雷発射管が前方六門、後方四門、一〇〇ミリ砲二門四五ミリ機関砲二門と強力になり、さらに機雷を搭載できた。このK型とS型で、可潜深度は八〇メートル(異説あり)。SC型で七五メートル(これも異説あり)。L型潜水艦も全長八三・三メートル、基準排水量は水上一一〇〇トン、水中一四〇〇トン、喫水も四メートル以上と比較的大型であった。

 この他に艦隊潜水艦P型(プラウダ級)、おもに二十年代に開発された旧式の巡洋潜水艦D型(デカブリスト級)等があったが、見るべき性能はなかった。また、やはり旧式で、アメリカ合衆国で設計され、イギリスのヴィッカース社の子会社ヴィッカース・カナダで建造、ロシア帝国により発注されていたホーランド602型潜水艦も軍籍にあった。他に、イギリス海軍からの供与艦、旧エストニアの敷設潜水艦が数隻あった。

 赤色海軍は、太平洋艦隊は別としても、欧州方面でも大きく三艦隊に分けられた、というより、分けざるを得なかった。大洋海軍でなく、沿岸海軍としてもそのようにしなければならないところに、ソビエト連邦の地理的条件――から来る制約――があった。バルト海艦隊、黒海艦隊、そして、一九三三年設置と最も若い艦隊であり、ムルマンスクに司令部を置き、白海やバレンツ海など北極圏の防備を担当する、北方艦隊(北洋艦隊)である。ここで白海・バルト海運河――一万九〇〇名以上の犠牲者を出した――これは忘れていいことではない――の建設が、意味を持ってくる。しかし‥‥これら各艦隊の潜水艦たちの活躍は、他国のそれに較べ、あまりにも精彩を欠いていた。彼女たちの性能はたしかにそれほどのものではなく、ドイツ軍の急進撃のために基地を失った点も考慮されようが、とはいえ圧倒的といえるほどの数をそろえ、乗組員には赤軍のそれなりの選りすぐりが集められていたのである。この原因は、戦略や戦術にこれといったドクトリンもないままひたすら建造だけを続けてきたせいであり、また大粛清による赤軍の混乱がこれに輪をかけていた。

 フィンランド湾のタリンとクロンシュタットを基地とするバルト海方面潜水艦部隊は、実にその数およそ一七〇隻をそろえていたが、前年のドイツ軍侵攻により一〇隻あまりが破壊され、五隻は爆破された。この年の同部隊の戦果は、ドイツ商船一隻撃沈、のみである。あまりの不甲斐なさに、二〇隻あまりが他の海域へ回航された。このうち一五隻は、白海・バルト海運河を経由して白海――北極海方面――に回航された。データからのみ考えれば、同運河の水路の深さは四メートルとあるので、M型、SC型、そしてS型の一部のみ回航可能で、S型の大半、K型、L型は不可能ということになりそうである‥‥。また、ウラジオストクから太平洋艦隊所属の潜水艦五隻が、パナマ運河経由という冒険的な航路で同方面へ回航されたが、そのうちの一隻L‐16は、日本潜水艦伊二五にアメリカ潜水艦と誤認され撃沈されている。ドイツの侵攻開始時、北極海方面には潜水艦約三〇隻が配備されており、これらを合わせてそれなりの数をそろえたが、やはり目立った戦果はなく、小型貨物船をいくらか沈めただけであった。

 一九四二年五月、フィンランド湾の氷が砕けると、やっとバルト海艦隊のソビエト潜水艦の攻撃行動が開始された。ドイツ海軍はこれに機雷堰で対抗したが、数隻がこの突破に成功し、ドイツ、フィンランド船舶二七隻を撃沈するという戦果をあげていた。


 PQ17船団は、文字通り四散していた。真北に向かった商船三隻とトローラー漁船一隻のグループ。コルベット艦一隻、防空船二隻、給油艦一隻、救助船二隻と共に南東に向かった主力グループ。この間の海域で散り散りに逃げ惑う商船たち。この商船たちの南側のコースを取ったグループ。彼女たちに、ドイツの爆撃機とUボートが、てんでに襲いかかった。主力グループは、二隻の防空船の必死の反撃もあり、最初は爆撃機による犠牲を出さなかった。しかしUボートの攻撃で米商船一隻が沈められ、グループ内で足の速さの違いから分散が始まると、二度目の空襲で給油艦一隻が航行不能にされ、救助船一隻が沈められた。ある米商船が――彼女たちには七・五センチ砲を装備した船もあった――爆撃機に反撃を試みているが、結局航行不能とされた。この船員たちがボートに乗り移った頃、一隻のUボートが浮上したまま接近してきた。

「怪我人はいないか?」

 Uボートの司令塔のメガフォンを持った士官が、流暢な英語で聞いてきた。ドイツ人たちは、一番近い陸地の方向を教え、見逃してくれた。しかし、これは幸運な例外であった。この五日だけで全体で一二隻の商船が撃沈または航行不能にされ、船員たちが犠牲となった。極北の海で、六日には二隻、七日に二隻、八日にさらに一隻、一〇日までにさらに二隻の商船が沈められた。この最中にも、救命筏に乗った船員にUボートが近づき、近い陸地の情報とパンと清水を与えている――もっとも、彼らの船を沈めたのはこのUボートなのだが。

 ‥‥さて、イギリス本国艦隊の九隻と共に南寄りの哨戒区を受け持った赤色海軍の潜水艦六隻とは、D‐3、K‐21、K‐22、SC―402、SC―403、M‐176である(先の各型を参照)。うちD‐3とM‐176は、ドイツ海軍の機雷の犠牲になったようである。ドイツ艦隊は、引き返していた。K‐21は、この帰途の「ティルピッツ」を発見、魚雷を発射――したまではよかったが、「ティルピッツ」を大破させたと誤報告を打電し、混乱に拍車をかけた。

 七月一一日の時点で、アルハンゲリスクおよびその西数キロのモロトフスクに到着した商船は、数隻に過ぎなかった。港外にマストが見えるたび大騒ぎになり、熱いコーヒーが電熱サモワールで沸かされ、医者は仕事だと伝えられた。彼らにしてみれば、まだ二〇隻以上の僚船が――仲間が――まだ北極海をさまよっているはずなのであった。船員たちは岸壁で、毎日毎日首を長くして、仲間たちの到着を待った。一六日、自由フランス海軍の「ラ・マルーアン」を含む英コルベット艦三隻、そしてソビエト連邦の海軍――赤色海軍――の駆逐艦「グレミヤシチー」からなる救助艦隊が出航し、二四日、商船六隻を連れ帰った。船団崩壊より、実に二〇日が経過していた‥‥。さらに四日後の七月二八日、もう一隻の商船がひょっこりモロトフスク港外に姿を現した。アイスランド出航から、すでにひと月以上が経過していた。だがこれが最後であり、結局、ソビエト連邦にたどり着けた商船は、たった一一隻に過ぎなかった。――PQ17船団は、二二隻の商船と一五三名の船員、積荷の四三〇台の戦車、二一〇機の航空機、三三五〇輌の車輌、およそ一〇万トンの物資を失ったのである‥‥。ドイツ側の損害は航空機五機のみ。彼らの圧勝と言ってよかった。ベルリン放送が「PQ17船団の最期」というニュースを詳しく報じたのも無理はない。

 加えて、QP13船団も悲劇に見舞われていた。彼らは、濃霧と低い雲のために自己の正確な位置をつかめず――六分儀も使えない――さらに先導船の航海士がアイスランド島西北端を同島の北岬と誤認してしまった。そのことに気づかぬまま西に寄ってしまい、グリーンランドとアイスランドとの間、デンマーク海峡の中央部に足を踏み入れてしまった。その海域には、味方のイギリス海軍によって敷設された機雷が待ち受けていた。次々と――商船六隻が沈み、三隻が大破した――うち一隻は、船体の三分の二が沈没して船首の部分だけ浮いている状態であった。奇しくもそれは、はるか東の海域でPQ17船団が悲劇に遭っていた、七月五日のことであった。

 イギリス側では、ロンドンのBBC放送を始め、すでに一九四二年二月の、巡洋戦艦「シャルンホルスト」と同型艦「グナイゼナウ」、そして「プリンツ・オイゲン」等に白昼堂々ドーバー海峡を北海方面へ突破された一件で海軍への批判を強めていた各マスコミが、これを激しく非難、あげつらった。

海軍(ネイヴィ)の艦が、民間の商船を見捨てた」――。

 イギリス海軍は、あくまで形式上の話だが、陸軍や空軍よりも上位に置かれている。その分、このときのマスコミほか国内各層からの批判は、極めて激しいものだった。いまやドイツ艦隊のほかに自国民からも砲火を受けることになったイギリス海軍は、名誉挽回を図らねばならなかった。米国――軍・政府筋以外――からも、この友邦に非難が殺到した。水兵にとって寄航の際の上陸は何よりの楽しみだが、先のアメリカ海軍戦艦「ワシントン」の水兵たちは、スカパ・フローを経由してアイスランドへ回航した際、後ろ指を指されるのが嫌だと上陸を拒んだ。これは彼らのヤンキー魂でもあろうし、また比較的設備の整った戦艦だから、という理由もあろう。


 モスクワの鉄道駅は、物悲しかった。ある詩人はうたった。「レニングラード駅」「クルスク駅」「キエフ駅」「ルジョフ駅」「ベラルーシ駅」‥‥どこへも行けない‥‥。――かつて帝国ロシアが、そしてまたボリシェヴィキ‐共産党政権が支配したウクライナを、今度はナチス・ドイツという新たな侵略者が蹂躙し、その資源を奪い取ろうとしていた。クリヴォイ・ロークからは鉄を、ヴォロシロフグラード(旧ルガンスク、ウクライナ語で「ルハンシク」)からは石炭を‥‥。

 そして侵略者は、次にカフカース地方に目標を定めたのだった。おもな狙いは、油田である。マイコープ、グロズヌイ、そしてバクー。加えて、イラン経由の英米からのレンドリースのルート、いわゆるペルシア回廊も、このカフカース地方経由である――極北のルートは、PQ17船団以降、壊滅に近かった。またドイツは、今次対戦においては中立を保っていたトルコを味方に引き入れることも、勝手に期待していた。これらを目的に「青」作戦が立てられ、アドルフ・ヒトラーにより四月五日に命令がくだされた。

 六月末、この作戦は開始された。ドイツ南方軍集団は、ドネツ川沿いに進んでドン川を渡りカフカースの油田地帯へ向かう兵力およそ百万のA軍集団、その側面をドン川沿いに進みながらヴォルガ川をその西岸の南北八〇キロにわたる重工業都市において封鎖せんとする(イタリア、ハンガリー、ルーマニア等の枢軸国軍を含む)兵力およそ三十万のB軍集団に分けられ、進軍を開始した。ドイツ第三帝国はヨーロッパを覇し、いまや絶頂期にあるといってよかった。

 ソビエト連邦は緒戦の大きな痛手から完全に立ち直っていたとはいえなかったが、おもにウラル以東に疎開させた工業設備が、生産を再開していた。レニングラードからチェリャビンスクに移ったキーロフ工場は、同市の「トラクター工場」などと一体化し、戦車生産を主目的とする巨大計画工業地域(コンビナート)「タンコグラード」を形成しようとしていた。赤軍の機械化部隊は急速に再建されつつあった。強大な打撃力という剣を右手に、反撃の誓いという盾を左手に、それぞれ携えて‥‥。

 七月二五日、ドン川河畔のロストフ・ナ・ドヌが、市街戦の末、ドイツ軍に占領された。しかし、そこからが問題であった。カフカース山脈の複雑さは、土地勘のない侵入者に優しくはない。これはかつてのロシア帝国、また赤軍に対しても同様であった――この地の利が、今度は赤軍に味方する。赤軍はカスピ海、黒海、そして陸路から増援を受け、激しく抵抗した。ノヴォロシースクでは海軍兵が港湾施設で抵抗をつづけ、バトゥミへの侵攻も簡単にはさせなかった。赤軍は、焦土作戦の基本通り、油田を破壊した。これは彼らにとっても高くついたが、侵略者の手に渡るよりはましであった――ドイツ軍は、重要目標を達成できず、次第に燃料の欠乏を見る。燃料なしには、彼らの優れた戦車も機能し得ない。作戦指揮をめぐってヒトラーと対立していた南方軍集団の司令官は、更迭された。


 八月‥‥。油田破壊は功を奏した。補給の限界、そして防御ラインの構築により、戦線は膠着状態となった。ヒトラーは、油田の入手が困難ならばと、もうひとつの目的、すなわちヴォルガ川遮断に力を傾注する。赤軍は、撃墜したドイツ空軍機よりヒトラーの意図がわかる命令書の入手に成功していたが、スターリンの余計な猜疑心によりこれは罠であるとされ、ブリャンスク方面軍は後退戦術を採れず、ヴォロネジ市街での抵抗を強いられることとなった。しかし、これが結果としてドイツ軍の足止めとなり、枢軸国側のドン川下流の制圧が成ったのは七月の下旬であった。この思わぬ遅滞に怒ったヒトラーは、現地司令部をB軍集団のもとに統合させた。また、一三世紀のドイツ騎士団領に端を発する(オスト)プロイセンの「狼の砦(ヴォルフスシャンツェ)」から、ウクライナ西部のヴィーンヌィツャに設置された「人狼(ヴェアヴォルフ)」へと、総統大本営を大きく東へ移動させた。ヒトラーの本気度はこの点からも窺える。

 枢軸軍は進撃をつづけたが、赤軍も戦略的と呼べる後退をつづけた。ヴォルガ西河畔の重工業都市、スターリングラード。その街が、決戦の場所となった。


 2013年7月26日、一箇所の「。」を「、」にする修正と、モスクワ戦後の次の箇所の修正を行ないました。元の原稿では「二」に強調点が振ってあります。

(修正前)勉強不足のチャーチルと~、これは人民に第二戦線開始の確約と受け取られてしまった。

(修正後)勉強不足のチャーチルと~、これは人民に第「二」戦線開始の確約と受け取られてしまった。

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 一部に改行がおかしな箇所がありますが、ルビの表示を考え、このようにしています。

 また、PDFでは一部のルビと一部の文字がうまく表示されないようです。「?号戦車」の「?」はローマ数字の「4」か「3」の誤表示で、それぞれ「4号戦車」「3号戦車」、「マルダー?」の「?」は「2」の誤表示で、「マルダー2」ということになります。PDFでない横書き版のほうを参照してください。どうもすみません。

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