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フェアリー・テール  作者: 田中 鉄也
第二部 ベリヤ
16/29

3.殺戮 ~エジョフシチナ~(1)

粛清。恐怖の進展。

スペイン内戦。フランス革命の歴史。


《注意》いわゆるホラーではありませんが、残酷性のある叙述があります。苦手な方はご注意ください。

 突然の悲劇に見舞われた同志セルゲイ・キーロフにちなみ、彼の生まれ故郷ヴャトカは「キーロフ」と改名され、その都市を首府とする「キーロフ州」が設置された。レニングラードのマリインスキー・バレエ団は「キーロフ・バレエ団」になった。重機を扱うことで知られており、ミハイル・カリーニンが少年の頃働いていたこともある同市のプチーロフ工場は、「キーロフ工場(キーロフスキー(キーロフの))工場)」と改められた。また海軍において、新時代の海戦に対応すべく新型巡洋艦二六型の建造が開始されていたのだが、その栄えある一番艦は「キーロフ」と命名された。――セルゲイ・キーロフの後任として同市の党書記に就任したのは、アンドレイ・ジダーノフ。出世主義者であるこの人物にとって、ここではりきらないでいつはりきるのか、というほどの大舞台であった。

 ジダーノフのはりきりもあり、「捜査」は進んだ。レニングラードでは、大量の逮捕者が毎日出ていた。また、警備のぬかりは、すでに誰しも指摘するところであった。前途洋々であった素晴らしい同志の死を招いたことは、たとえ国家の治安保持にあたるNKVDであっても、その責を免れるものではない。内務人民委員部のレニングラード支局長および同支局の職員たち数人が逮捕された。そのなかに、先のメドヴェドとザポロージェツの姿もあった。彼らを含む職員たちは二年から三年の刑を言い渡された――犯行当時の党本部の警備責任者だけは、一〇年の刑を受けた。メドヴェドやザポロージェツにくだされた判決は、同事件の他の関係者に較べれば、明らかに「手ぬるい」ものであった。NKVD長官ゲンリフ・ヤゴーダは、彼らが収容所へ送られる前、彼らと面談し家族の世話を請け負った。さらに囚人護送車へなど乗せず、個室つきの特別列車で収容所へ向かわせた。この二名はシベリア北東部のコルィマ地方の収容所へと送られたが、一般の囚人たちとは区別され、管理部門を統括する立場に就いた。ヤゴーダは特にザポロージェツには大いに同情し、他の部下が収容所の彼のもとへレコードとラジオを送ることを黙認していた。

 レニングラード州の党員の逮捕は、五千人に迫っていた。レニングラード市は革命の発祥地らしく、とある外国の特派員曰く、「かろうじて世論らしきものが残っていた」という、この国では稀な都市であったが、その美点も消えていった‥‥。

 ――トビリシのラヴレンチー・ベリヤは、椅子に座って煙草をふかしながら、この同志キーロフ暗殺事件を推理する名探偵ぶりを発揮したい誘惑に駆られていた。彼は、英米のいわゆる推理小説をひそかに訳させ、読んでいた。クリスティ、クイーン、カー‥‥。

(奴らの頭の中身を、少しでも知っておかねばな‥‥)

 とはいえ、われわれの脳内はこうである、などと親切かつ克明に紹介してくれる都合のよい書物が、そうあるわけではない。あったとしても、美辞麗句を並べたてた大所高所からの観点のもので、そんなものなら外交白書のほうがよほど読む価値がある――大衆小説を選んだわけだが、そのなかでベリヤの知的関心に沿ったものが、推理小説・探偵小説という分野だった。

(自分は安全な場所‥‥座りのいい椅子ででもくつろぎながら、甘い香りの危険な世界を堪能できるってわけか――。なるほど、こりゃ快楽‥‥)

 子どもの頃の自分のあだ名にも関わらず、この種のものを読んだことはなく、彼には新鮮に感じられたのだった。

(――奴らの発明品には、たしかに見るべきものも多い。ただし、あまり立派でないとされているものにな‥‥。小説以外にも‥‥あの精緻な絵を描くスペインの画家は、なんと言ったか――。いや、待て待て。いまは‥‥)

 彼を自分を戒めた。

(関心を絞ることだ。ひとつしくじれば、自分の墓穴を掘る‥‥。肝に銘じろ――)

 これは、純粋な推理ゲームを楽しめるような単一の事件ではなかった。いちばん重要なことは、この暗殺事件の真相などではなく、ましてや世の人々を頷かせる解決などではない。他ならぬ自分の身を守ることなのだ。好むと好まざるとに関わらず、どこかの作家によって、

(俺も登場人物にさせられている可能性も――)

あるのだから。その「作家」も、単独(ひとり)とは限らないのだ‥‥。(ベリヤ)は懸命に探ろうとした。

(どこで、何が起きているか、だ――)

 セルゲイ・キーロフ。彼が消えたことに、直接の下手人レオニード・ニコラエフ以外の何者かの意志が働いているのだとすれば、その何者かは、次に何を求めるだろうか。はたまた、そもそもその何者かは、キーロフの何がまずくて消えてもらわねばならなかったのか。その何者かがイコール「作家」なのかは、いまはさほど重要ではない。まあ予想はつくが――。知るべきなのは、そいつが何をしたがっているか、なのだ‥‥。

 試すための妙案が浮かんだ。「ザカフカース連邦」の解体に関する議論が行なわれている――その議論を行なうこと自体がどうやら認められたようだ、という噂を、彼は耳にしていた。その真偽を確かめ、かつキーロフの件も探ることのできる手を思いついたのだ。ラヴレンチー・ベリヤは、可能ならば常に一挙両得を狙う‥‥。彼は――秘書に命ずるのではなく――自らタイプライターのキーを叩き、モスクワに請願書を送った。

 ――同志アヴェリ・ソフローノヴィチ・エヌキーゼ中央委員会書記を、ザカフカース・ソビエト連邦社会主義共和国の元首としてトビリシへお招きしたく存じます――。

 この請願書は承認され、三月初旬のある朝、アヴェリ・エヌキーゼがトビリシ駅に降り立った。

 ラヴレンチー・ベリヤは、ここでまた両面待ちの手を使った。エヌキーゼを歓待する傍ら、その「元首」としての選任式は延ばし延ばしにした――。


 四月、一二才以上の子どもにも最高で死刑を科すことのできる布告が発表された。スターリンの狙いは、彼ら子どもではなく、その親たちであった‥‥。

 五月、中央委員会総会が開催された。この席上において「中央委員会特別部」なるものについての発表がなされた。「中央委員会特別部」という語は、実は前年、党のある文書のなかに、さりげなく、だが突然に登場してはいた。文書をよく読めば、それまでの「中央委員会機密課」が、この度「中央委員会特別部」と改称した、という内容であった。そもそも「機密課」の存在自体、党内にはよく明かされていなかった――それがそのまま、この組織の実態を端的に現していた‥‥。この「機密課」改め「特別部」は、そのときすでに党内の隅々にまで――モスクワや各都市からシベリアの果ての、ベーリング海峡に面した行政単位の隅々にまで――そのネットワークを張りめぐらし終えていた。党や行政機構だけではなく、内務人民委員部に編入された秘密警察内にも、である。例外といえば赤軍くらいのものであったが、しかしその赤軍にも、政治将校(コミッサール)による指導――監視――が行なわれていた。

 そして、ここがポイントなのだが、この「特別部」は、名称こそ「中央委員会」とついているが、組織(チーム)を率いるのは誰あろう、アレクサンドル・ポスクレブイショフなのであった。スターリンはいつの間にか、どんな遠隔地の情報も、どんな些細な――不穏な――動きも、居ながらにして独自に知ることのできるネットワークを、完成させていたのである。この「特別部」の構成員は、たとえばある党の地方委員会に形式上所属しても、情報を上げるのは常にポスクレブイショフに対してであった。その権限に介入することは、たとえその地方委員会の第一書記でもできなかった。

 秘密警察――政治警察はスターリンの武器であったが、それは武器のひとつに過ぎなかった。この「中央委員会特別部」こそ、もうひとつの武器、いわば第二の政治警察、秘密の秘密警察であった。第一の秘密警察を内務人民委員部に編入させたのも、その第一の政治警察さえも、この第二の政治警察によって監視しやすくするため、という要素があったのではないだろうか。

 さて、この中央委員会総会においては、この「中央委員会特別部」のなかに「信書検閲部」なる組織(チーム)が設置されていることも明らかにされた。この組織(チーム)は、彼らが必要と見なしたあらゆる党員また政府関係者の手紙を、厳しく検閲していたのである。書記局のシステムは、既述の通りである。この書記局と合わせ、発表は、レーニンが警告を発していた「無限の権力」、人類史上もっとも緻密で強力な独裁体制が、いつの間にか完成していたことを意味していた。

 ――無事完成を見ていた巨人機ANT(アント)‐20「マクシム・ゴーリキー」は、同じ五月の、一八日、三機の随伴機とともにモスクワ上空においてデモ飛行を試みた。しかし、近接飛行していた随伴機の一機(イー)‐5が突然宙返りし、これと衝突した。両機は空中で大きくもんどりうち、やがて墜落していき――爆発、炎上した。計四五名が死亡する大事故となった。


 五月末、ベリヤが待ちわびていた連絡が、信書の形で届けられた。同志スターリンは、親友である――はずの――古参党員アヴェリ・エヌキーゼを、グルジアの病院の支配人に任命したのであった。「ザカフカース連邦」の国家元首になるはずであったエヌキーゼは、嘲笑のなか、トビリシから去っていった。よく知られた古参党員であり、セルゲイ・キーロフの葬儀では葬儀委員長も務めた中央委員会書記のアヴェリ・エヌキーゼは、「警戒心の喪失」と「生活の退廃」のかどで、突然中央委員会から罷免された上に、党からも除名処分とされた。ベリヤは嬉しかった。自分の推理が的中した上に、大物エヌキーゼも片づけることができたのだ。‥‥いまのスターリンにとっては、自分の――真実の――過去を知る者は、たとえ親しい友人であろうとも、もはや重要ではないのだ‥‥。ラヴレンチー・ベリヤは、自分も早く「作家」になるべく、処女作の執筆を急いだ。

 この国でもっとも著名な作家マクシム・ゴーリキーは、相次ぐ除名や逮捕の報に、古参党員に対する寛容を唱えていた。一時は政府当局から持ち上げられていた彼であったが、これを言い出すと、「プラウダ」を始めとする新聞、また雑誌等で激しく叩かれ、事実上、自宅に軟禁された。

 六月、親族の犯した罪に対し、その家族の連帯責任を問うことのできる法が発布された。海外への逃亡者に限るということであったが‥‥拡大解釈の恐れは多分にあった。四月の子どもに関する布告とあわせ、以後ソビエト連邦において、奇怪な「自白」が大量生産されることになる‥‥。


 七月二一日、二二日の両日、グルジア共産党主催の人民集会が、トビリシの鉄道修理工場の大ホールにて朝から開かれた。ついに、ラヴレンチー・ベリヤの処女作「スターリンの初期の著作と活動――ザカフカースにおけるボリシェヴィキ組織の歴史」が、講演という形式で発表されるのであった。この作品のために、ベリヤは推敲に推敲を重ね、睡眠時間を削り、ときには徹夜もした。本業のほうをこなしながらである。ベリヤが意気込んでいたのは、言うまでもない。――二一日、朝。集められた党員や労働者たちで、ホールは満杯だった。時間きっかりに、若き指導者が登壇した。朝からひどく暑く、さすがに三つ揃いではないが、シャツ、タイ、背広と、一分の隙もなくびしりと着こなしていた。

「同志諸君! わが党の歴史を研究し理解することこそ、党員ならびにコムソモールに対する、マルクス・レーニン主義教育の最重要の手段である」

 聴衆たちはこれを聞いて、長くなりそうだと覚悟せねばならなかった。それから、若き指導者ラヴレンチー・パーヴロヴィチ・ベリヤは、同志スターリンのある著作に触れた上で、そのメッセージを次のようなものであると述べた。

「‥‥党が如何にして立憲民主党、社会革命党、メンシェヴィキならびに無政府主義者どもと闘い、彼らに勝利したかのみでなく、党が如何にしてトロツキー一派、〈民主中央集権主義〉、〈労働野党〉、ジノヴィエフ一派、右翼、左翼や右翼の跳ね返りどもと闘い、それと勝利したかを、党員が学ぶことを要求するものである」

 聴衆たちは、今日と明日の大体の方向性をつかんだ――しかし、この暑さのなかで耐えられるだろうか‥‥?

「‥‥最近数年間、ザカフカースの党組織は党史の宣伝と研究に顕著な成果をあげた。しかし、この分野におけるわれわれの業績が不十分なものであることは明らかである‥‥」

 レーニンとスターリンの党がいかにして創設されたか、あたりまでは聞き流していた聴衆たちも、ここで、おや、と思い始めた。この若き指導者は、何を言い出すのか――。どこでどのように拍手すべきなのか‥‥。

「ザカフカース・ボリシェヴィキ組織、ザカフカースおよびグルジアの全革命運動史は、そのそもそもの出発点から、同志スターリンの業績と名前から切り離すことはできない」

 ここで、ベリヤが紛れ込ませていたさくらが拍手を始め、迷える聴衆たちを救った。長くつづいた拍手の後、ラヴレンチー・ベリヤは、幾つかのグルジアやザカフカースの革命運動史の著作に「逸脱」があるとし、そしてやっと――すでに相当の時間この講演は行なわれていたのだが、いままでは前口上に過ぎなかったのだ!――彼の作品を披露した。

 新しい年代記の第一章は、「一八九七~一九〇四年ザカフカースにおけるボリシェヴィキ党組織の創設と形成の歴史」。

「‥‥彼の追放刑期が終わった一九〇〇年夏、党はクルナトフスキーをトビリシの革命運動に派遣した。トビリシに着くや、彼は同志スターリンと緊密な連絡をとり、彼の親友、戦友となった」

 このクルナトフスキーという人物はレーニンの友人で、一九一二年に物故していた。ベリヤにすれば、大昔のことであった。いまさら細かいことをつっこむ輩はいないだろう、というわけだ。

「‥‥グルジアの〈合法マルクス主義者〉ども――ノア・イオダニアの率いる『メサメー・ダッシィ』の大群に対する断固たる仮借ない闘争において‥‥」

 ラヴレンチー・ベリヤはここで、同志フィリップ・マハラーゼは多くの著作のなかで、この「メサメー・ダッシィ」に不正確な光を当て、その役割と意義に誤った評価をくだした、と彼を批判した。聴衆たちは、流れをつかもうと必死になりながらも、若き指導者が(マハラーゼ)を「同志」と呼んだことに気がついていた。フィリップ・マハラーゼはまだ権力の座にあり、表立ってスターリンや指導部から批判されてもいなかった――若き指導者は、細かいところにまで気を配っているようだ‥‥。

 それから、一九〇〇年にトビリシの労働者たちがメーデーを祝ったこと、五月から六月にかけて、また八月にストライキを行なったこと、翌一九〇一年のメーデーに市街をデモ行進したことは、同志クルナトフスキーと同志スターリンの指導であるとされた。

 第二章は、「一九〇五~一九〇七年第一次ロシア革命期におけるザカフカース・ボリシェヴィキ組織の歴史」。これは、だいたい予想がついたから、聴衆たちは比較的楽であった。同志スターリンが「ザカフカース」のあらゆるボリシェヴィキ組織を創設、指揮したとされた。

「一九〇五年から一九〇七年第一次ロシア革命期において――」

 よく知られている時代の話になった。若き指導者は、たっぷりと間を取った。――聴衆たちは、来るぞ、と身構えることができた。

「同志スターリンはレーニン路線を確固として実行した。彼こそザカフカースのボリシェヴィキ、革命的労働者ならびに農民の領袖であった」

 これがこの章のキモであることは、さくらが拍手を始めずとも誰もがわかるというものだ。若き指導者は親切だ――‥‥再び、拍手が長くつづいた。この時期、同志スターリンは同志レーニンの最大の戦友であり、「ザカフカース」にマルクス・レーニン主義の基礎を置き、「イスクラ」を支持する最初の組織を創設した、ということで、また長い拍手――それで、この日の集会は終わりであり、聴衆たちは解放された。若き指導者は、配分も考えてくれているようだ。最初はどうなることかと思ったが、どうやら明日の展開も予想できる――‥‥彼らは安堵の気持ちで、家路につくことができた。

 翌二二日も朝からひどく暑かったが、大ホールに集まった聴衆たちの気持ちは、前日よりも楽だった。今日の流れは、おおよそ予測がついたからである。午前九時、ラヴレンチー・ベリヤが再び登壇した。

 そして、第三章「一九〇七~一九一三年の反動期および労働運動復活期におけるザカフカース・ボリシェヴィキ組織の歴史」――これでもベリヤは苦心してこの章題を考えたのだ――の講演が始まった。その章は聴衆の予想通り長々とつづいたが、要点は三点であった。一点目は、反動政策をとるツァーリ政府、また彼らと結託した立憲民主党や、社会民主党(グルジア社会民主党)、メンシェヴィキ等に対し、ボリシェヴィキが勇敢に立ち向かった、ということ。二点目は、これらの闘争は、ストライキの組織から機関紙の発行に至るまで、ほとんどすべては同志スターリンの指導のもとで行なわれたということ。つまり、ブードゥー・ムディヴァーニやマミア・オラヘラシヴィリ、アヴェリ・エヌキーゼやフィリップ・マハラーゼといった、これまで一般によく知られていた活動家たちの戦歴は、ほとんどみな同志スターリンのものであるということ。そして三点目は、同志スターリンはこの時期にすでにトロツキスト――トロツキー主義者との闘争を行なっており、また彼の指導により、ボリシェヴィキはプラハ協議会の開催にこぎつけたということ。ヨシフ・スターリンはプラハの党大会には呼ばれていないのだが‥‥それは流刑の期間中であって止むを得なかったとされた。

 一五分間の休憩の後、最終章の読み上げが始まった。聴衆たちは、おや、と思うと同時に、少々拍子抜けした。「一九一三~一九二四年の時期における民族主義分派活動に対する闘争の歴史について」‥‥。同志スターリンの活躍ぶりが、いままでよりもっと濃密に、これでもかこれでもかと語られるかと思っていたのが――‥‥。ここまで来たら、もうアレクサンドル・カズベギの小説のように、偉大な十月革命や干渉戦争のヒーロー「同志スターリン」が、悪い奴をばったばったとやっつける「話」を聞きたいところなのに、この講演者は、そこは比較的あっさりと済ませたからである。特に一九一七年からは、ボリシェヴィキがもっとも激しく闘争していた時期のはずだが――‥‥。一九一三年から一九二四年というまとめ方も、何か大雑把に過ぎる、いままでの講演の長さから考えると、この時期だけで三章か四章あってもおかしくないだろうに‥‥。

 「スターリンの初期の著作と活動~」であるから、これはこれでいいのだが、ともかく聴衆たちは、拍手疲れと猛烈な暑さのために、そんな気分だった。集会が終わったのは午後三時であったが、そのときのトビリシの戸外の気温は、三九度であった。こんな日に人を集めるからには、もっと叩きのめされるぐらいの、「話」だけで腰が砕けるくらいのを聞かせてくれないとな――‥‥。あの若き指導者は優秀だそうだが、どうも人情の機微というものがわかっていないようだ‥‥。タフなグルジアの労働者たちは、そんなふうにして家路についたのであった。

 こうして、ストーリー・テラーとしてはいまひとつとの評価を受けたラヴレンチー・ベリヤであったが、この講演の草稿はタイプでコピーされ、その晩のうちに、手紙とともにモスクワのスターリン宛に郵送された。


 赤軍はトゥハチェフスキーのもと、着実に力をつけていった。一九三五年九月、赤軍は多くの外国武官を招き、キエフ軍管区において大演習(キエフ大演習)を行なった。特に彼らの度肝を抜いたものが、多数の航空機からパラシュート降下する、旅団規模の空挺部隊であった。これは、二十年代からトゥハチェフスキーがゼロから練っていた「空地の諸兵の連合」というテーマの結実である。敵地後方に大量の空挺部隊を降下させ、パルチザン等とも連携し攻撃を行なう――というトゥハチェフスキーの理論を現実化したもので、三十年代に入り赤軍内おいて急速に整備・編成されていたものであった。当時の世界最先端にして、国際共産化の前衛であるソビエト赤軍ならではの戦術とも言え、居並ぶ外国武官らに感銘と畏怖を与えるに十分であった。

 同じ九月、人民委員会議は、軍人の最高位階級であるソビエト連邦元帥の階級を創設した。そして一一月二〇日、このソビエト連邦元帥の階級が次の五名に与えられた。国防人民委員クリメント・ヴォロシーロフ、赤軍参謀総長アレクサンドル・エゴロフ、将校からはセミョーン・ブジョーンヌイ、ヴァシーリー・ブリュヘル、そしてミハイル・トゥハチェフスキー‥‥。


 ニコライ・エジョフがキーロフの後を継ぎ中央委員会書記に就任、また書記代理としてゲオルギー・マレンコフが人事を司った。彼らは、党員を細かく「調べ上げ」た。この年の終わりまでに党員のおよそ八〇パーセントが「調べ上げ」られ、一二パーセントに当たるおよそ三一万五千人が有罪となった。ニコライ・エジョフは、彼らは「ならず者、富農、白衛軍、トロツキスト(トロツキー主義者)、ジノヴィエフ派、反逆者」であると報告した。

 スターリンはまた、このような強権支配の一方で、懐柔策も各方面でとっていた。赤軍には、先の元帥ほか、階級制度が復活した。これが懐柔策となるのは、激烈な内戦を体験した上の世代のベテラン勢が、そのまま将校となれたからである。公衆の面前で制服を着用しての荷物の持ち運びを禁じられるなどしたが、これは西欧式であり、将校たちの心をむしろくすぐるものであった。

 階級対立の時代は終わったとし、新しい憲法の起草を発表した。この起草委員には、ブハーリンやラデックの名前もあった。これは党内の反対派への懐柔策――彼らの労力をこれに振り向けさせる策であった。

 「ザカフカース・ソビエト連邦社会主義共和国」――幻影のこの「共和国」に関しても、議論が進められることになった。アゼルバイジャン、アルメニア、グルジアを、それぞれ独立した共和国としなおそう、というものである。無論、このそれぞれをすべて「ソビエト社会主義共和国連邦」に組み込むことは言うまでもないが、ともかく議論することは認められることとなった。

 正教会に対しては、一九三一年に、前述の通り救世主ハリストス大聖堂を爆破して解体、また聖アンドレイ大聖堂やカザン・クレムリンの生神女福音聖堂を破壊するなどしてきたが、ここへ来て微妙な方針転換を行ない、年末にクリスマスツリーを飾ることは、この年にどうやら合法となった。スターリンは、同時に多数を敵に回すことはしないのである――正教に対する根強い信仰を前に、スターリンも考えるところがあったのだ。


 イヴァン・コズロフは、(テー)‐35の戦車長となっていた。階級は中尉。ふたりの若い部下も新たに得た。そのうちのひとりが、ユーリ・V・ワイネルというウクライナ人だった。鋭く尖った感じの、機敏で、切れ者の若者であった。そのユーリ・ワイネルは言う。

「戦車は、もっと小型にし、その分速力を重視したほうがいいのではないでしょうか」

BT戦車(ベテーシュカ)か。ありゃブリキの棺桶だ」

 イヴァン・コズロフは、この若い部下をたしなめた。

「個人的見解だが‥‥あれを戦場に出すくらいなら、騎兵による突撃のほうが有効だ」

 戦車兵にあるまじき発言であった。

「いえ、BT(ベーテー)戦車ではなく‥‥もっと装甲を厚く頑丈にし、かつある程度の速力を出せる戦車を作れないものでしょうか‥‥」

おとぎ話(フェアリー・テール)だな。戦車は、このT‐35のような重武装の重戦車か、BT戦車のような小型で軽量の快速戦車と、相場が決まっとる」

「そうでしょうか。同志トゥハチェフスキーの理論を完遂するためには、私の言うような、いわば中戦車――装甲にある程度の傾斜をつければ、避弾経始の向上は図れます――こそが、必要なのではないでしょうか」

 うるさい奴だ。実戦も知らず、体に戦傷(いくさきず) もない、若僧のくせに。だが、どこか頼もしくもあった。

 ――イヴァン・コズロフにとっての実戦とは、あの内戦‐干渉戦争のことであった‥‥。

 もうひとりは、アレクセイ・A・ブニコフという肥満体のロシア人で、ユーリ・ワイネルよりも年下で、戦車に乗るのも初めてなら、何をやらせてもだめな愚図だった。またよく食うので、仲間たちから「(スヴィニヤー) 」というあだ名がつけられていた。ユーリ・ワイネルなどは、このアレクセイ・ブニコフとT‐35に同乗することに不平をこぼしたが、イヴァン・コズロフは彼をかばった。温かい、長い目で見てやらねば。党員である妻の親父さんからも、そう言われていた。それに、ユーリのような若い世代は知らないだろうが、自分だって最初は本当に何もできなかったのだ。それがいまや将校殿、そして世界最強の重戦車の戦車長だ‥‥。

 なお、BT戦車の名誉のために付言すれば、快速戦車の別名の通り、優れた機動性を持っていた。初期型のBT(ベーテー)‐2でも、カタログデータだが、履帯(キャタピラ)をつけた状態で五〇キロ以上、また履帯を外しての装輪走行も可能であり、この場合は七〇キロ以上を出せた。武装も、単砲塔の主砲にこのBT‐2で三七ミリ砲、強化改良型のBT(ベーテー)‐5では四五ミリ砲を搭載していた。装甲はたしかに心許なかったが、BT‐5のさらなる改良型である最新型のBT(ベーテー)‐7では、この点も強化されていた。巨大な重戦車T‐35とは、設計思想、戦場で果たすべき役割が異なるのである。多砲塔戦車では、T‐35と同系列で、多くの部品を共通化させた少し小型の(テー)‐28という戦車も開発・完成を見ており、同じように制式採用されていた。


 ミハイル・トリリッセルが消えていた。秘密警察内でヤゴーダを苦々しく思っていたのは、何もベリヤだけではなく、ミハイル・トリリッセルもまたそのようなひとりであった。ベリヤと同じく、ヤゴーダもまた入党年月日の問題で悩まされたようで、彼もこの年月日を十月革命のずっと前に変更する作業を行なったようだった。トリリッセルは、己の組織のトップのこの改竄(かいざん)を嗅ぎつけ、調べあげ、スターリンに書類を提出していた。スターリンからの返礼は、昇進ではなかった。これは上司に対する不服従であるとして、トリリッセルをはるか極東地方に左遷したのであった。

 われらがラヴレンチー・ベリヤは学ぶ。入党年月日の変更は――スターリンが認めさえすれば――通る。秘密警察内でごたごたを起こすことは、通らない。いまは、キーロフ暗殺事件の「捜査」を、スターリンはしたがっている。スターリンがヤゴーダをどう思っているのかだけは、さしもの名探偵も、遠方からはわかりかねた。だが、取るべき途は見えた。スターリンがヤゴーダを使う限りは、ヤゴーダ(あいつ)に従う。いまは危ない橋を渡らず、グルジア内の政治権力を、目立たぬように、しかしできる限り掌握することに努めるのだ。苦心の作である「あれ」が出版される日を待ちながら‥‥。


 ソビエト連邦では、新しい単語が次々と生まれていた。かつてボリシェヴィキが農民を分類して規定したように、NKVDも「国家の敵」を次のように分類、規定してみせた。ブラーク(敵)、ブラージョーク(中敵)、そして、ブラージノク(小敵)、ブラージノチェク(微敵)‥‥。この順番に絶滅させていかなくてはならない、のである。「微敵」とは何なのかという問いに、きちんと答えられるNKVD職員がいたであろうか。だがしかし彼らは、「敵」を捜し、逮捕していかざるを得なかった。問いは疑いに通じ、疑いはすなわち、国家――スターリンへの反逆となったからだ。

 この年、一九三五年、モスクワにこの国初の地下鉄(メトロ)が完成を見た。祝賀パレードが行なわれた。ラーザリ・カガノーヴィチが建設の総責任者であり、現場指揮はそのカガノーヴィチおすすめのニキータ・フルシチョフがとった。ニキータはこれでスターリンのお眼鏡にかない、党モスクワ支部の第一書記に任命されていた。地下鉄にはカガノーヴィチの名が冠された。


 一九三六年の春、ニコライ・ブハーリンは西欧へ派遣された。公式には、NSDAP――ナチス体制下のドイツから持ち出されたカール・マルクスの草稿があり、その購入の交渉のためとされた。このマルクスの草稿とは「経済学・哲学草稿」というもので、カール・マルクスの初期の著作であるにも関わらず未発表であり、アドラツキーという人物らによる「マルクス=エンゲルス全集」――というもの――において、一九三二年になって公刊されたものだった。これは、原稿を自分たちの意図通りの順番に並べ替える恣意的な作業が行なわれたと言われ、内容には疑問符がついた。そしてこの派遣は、政治音痴の――としばしば言われる――ブハーリンに仕掛けられた罠であった。どこそこでトロツキー支持者または外国の諜報員と接触した、という嫌疑をかけるためである。

 ブハーリンはパリで、かつてのメンシェヴィキの有力者夫妻と会い、現在のソビエト連邦のとんでもない――恐ろしい実情を話した。そして彼は、そのソビエト連邦に自ら帰国していった。何故――と彼らは問うた。六月、ブハーリンとも交遊を持っていた作家マクシム・ゴーリキーが亡くなった。毒殺の噂が、また囁かれた。

 この年の八月、キーロフ暗殺事件に連なる「合同本部陰謀事件」なるものを裁く法廷が、モスクワで大々的に執り行なわれた。被告人が一六名であったため「一六人裁判」とも呼ばれる。かつて通信人民委員部議長(長官)まで務めていたが、トロツキーに協力し、また「合同反対派」に参加し後に逮捕されていたイヴァン・スミルノフ、またアルメニア共産党書記長ヴァガルシャク・テル=ヴァガニャン、赤軍のウラル軍管区司令官セルゲイ・ムラチュコフスキー将軍、そして、グリゴリー・ジノヴィエフ、レフ・カーメネフらが被告席に座らされた。彼らは「トロツキスト=ジノヴィエフ派・テロリスト・センター」のメンバーであるとされた。この「裁判」には、一五〇人の「一般市民」と三〇人ほどの外国人ジャーナリストが招かれた(第一回モスクワ裁判)。

 そもそもがまともな裁判ではなかった。「一般市民」の傍聴と外国のジャーナリストの招聘から「公開裁判」とされたが、これは見世物であった。検察官は、古参の党員であるアンドレイ・ヴィシンスキーという人物が務めた。筋書きは出来ており、命は助けてやると言われていた小物たちが、党のいわゆる大物たち、すなわちジノヴィエフやカーメネフらが、ナチス・ドイツやその秘密警察ゲシュタポと関係している旨の荒唐無稽な「証言」を行なった。検察官ヴィシンスキーは、社会民主労働党時代からの古参ではあったが、長い期間メンシェヴィキのメンバーであったという過去の「汚点」があり、そのため非常にはりきっていた。ヴィシンスキーは、ソビエト連邦経済の混乱や国民生活の貧困までも、これら有力者の被告人たちによる陰謀の可能性があるとした。

 この、世にも低劣な「裁判」に、自らの逮捕を予見したミハイル・トムスキーは、八月二二日、自死を企て、成功した。翌二三日、ヴィシンスキーは、このミハイル・トムスキーに加え、他二名の有力者――党員を「捜査」していると述べ、また次回の法廷の開催の可能性をほのめかした。ひとりは、アレクセイ・ルイコフ。そしてもうひとりは、ニコライ・ブハーリンであった。この三人が「右派」グループを形作りスターリン派と対峙、敗北したことは、既述の通りである。かつての「右派」三人組が、ジノヴィエフやカーメネフらの次に、狙われたのであった。ルイコフはあの一九二九年にロシア連邦共和国首相を解任、翌年には人民委員会議議長、労働防衛会議議長も辞任に追い込まれ、政治局員も解任されていた。一九三四年、ブハーリンもルイコフも中央委員候補――投票権が無い――に格下げされていたものの、まだ中央委員会に籍を置くメンバーである。それにも関わらず、一介の検察官が名指ししたのだ。これはもはや、党員であることのみならず、中央委員会のメンバーであること、またどれだけ党歴の長い所謂「古参党員」であろうと、身の安全が保証されないことを意味していた。党内は、恐怖に塗り込められていった‥‥。


 ミハイル・トムスキーの取った行動は、ある意味で正しかった。八月二四日、「トロツキーと連携しセルゲイ・キーロフの暗殺を実行、同志スターリンたちも暗殺しようとした」という――やはり荒唐無稽な――罪状により、裁判長から被告全員に対し銃殺刑が宣告された。助命の嘆願は、一名を除き却下された‥‥。

 レフ・カーメネフ、グリゴリー・ジノヴィエフのゲームは、終了であった。しかし彼らは、最後のカードを切ることを、忘れなかった。助命の願いが聞き届けられないと知るや、ジノヴィエフは泣き喚いたが、「よせ‥‥」と、カーメネフがこの仲間を諭した。

「威厳を持って死んでいこう‥‥」

 彼らは、法廷の置かれた労働会館から、まっすぐ刑の執行場所へと連れて来られていた。銃殺刑宣告の翌日深夜二時である‥‥。この一点だけ見ても、どのような性格の「裁判」であったか、想像できるであろう――「起訴状」にはあらかじめ、「いかなる助命嘆願も拒否すること」という命令書が付加されていた‥‥。

 執行には、ヴィシンスキーと裁判長も立ち会った。

「スターリンに伝えてくれるか」

 レフ・ボリソヴィッチ・カーメネフは、検察官ヴィシンスキー、裁判長、そして銃殺隊に対し、こう述べたのだった。

「私は諸君らよりもずっと昔から彼を知っている。私の言葉をきちんと伝えれば、諸君らは安全なはずだ‥‥。この私、レフ・カーメネフが保証しよう‥‥反対に、伝えなければ、彼は――スターリンは――また猜疑心に駆られるだろう。その場合、諸君らの身の安全は、このレフ・カーメネフは、保証できない」

 銃殺隊が、ヴィシンスキーと裁判長の顔を見た。

「死とは何か? 世界中に無数に人間がいるなかで、よりによってこの自分が死ぬ、とはどういうことか‥‥? ――‥‥『生とは、すなわちこの現実とは、夢ではないか』。――これは、常識や恐怖感といった邪魔物さえ取り除ければ、万人が――子どもでも――可能な思考実験ではないか。いつか、同志レーニンに、これをわが国の初等教育に採り入れられないかと提案したところ、同志クルプスカヤに相談してみると快く請け合ってくれた。残念ながらその直後病に倒れ、相談してくれたかは聞けずじまいだったが‥‥。そのうえで、同志レーニンは私に聞いてきた。『カーメネフ、人がこの現実を夢ではないかと考えられるのは何故だ?』。私は答えた。『可能性として、それが考えられ得るからです』‥‥同志レーニン。『なるほど。しかしそれは、常識や恐怖感に捉われているからこそ出てくる発想ではないか? 人としては当たり前のことだが‥‥』『‥‥確かに。とすると、この思考実験に意味はないのでしょうか』『意味はある。大いにある。だがその答では、教師の頭脳に対して小学生に疑念を持たせるだけだ』。‥‥同志レーニンは苦笑したよ、コーバ‥‥」

 己には理解できぬ世界の話に、アンドレイ・ヴィシンスキーは呆けたようになっていた。

「『この場で私が思いつける返事はカーメネフ、こうだ――人がこの現実が夢ではないかと考えるには、二通りの立場が存在するであろう。ひとつめの立場は、夢としか考えられない派。もうひとつは、夢とも考えられる派。わかるか、この違いが』『語義としてはわかります』『小学校教師は難しいぞ。――この二派の違いは明確だ。まったく違う‥‥。‥‥トロツキーは、夢などでは有り得ない派に対して二派で共同戦線を張ることを、政治と言うだろう。わしは違う。後者は前者に対し優越感を持つだろう。自分のほうが自由意志に基づいて選択ができていると。自立した近代人であると。その優越感を使って、後者に前者を指揮させている、という夢を見させる。これが政治だ。哲学的には、その優越感もまた夢ではないかという、まあ言わば超・夢としか考えられない派だな』『――‥‥独裁、ということでしょうか‥‥。夢話でも‥‥?』『常識で武装する有り得ない派は強大だ。夜に同志だった者が翌朝にはもう転向していることもしばしばだろう。民主集中制が必要ではないかね‥‥?』。――――‥‥刺激的で、有意義な時間だったよ、コーバ。君にわかるかな‥‥。――職業革命家とは、自分は覚醒しているという夢を見ている者ではなく、夢を見ていると自覚して夢のなかで覚醒している者なのかもしれないな‥‥その自覚と覚醒という夢中夢を見させるのが指導者なのか‥‥いや、それはやはり独裁‥‥‥‥。――‥‥同志レーニンは、死を恐れなかった。きみはどうだ? 私? 答えたくても答えられない。コーバ、君がそうしたんだ。じゃ、失礼するよ」

 レフ・カーメネフは、顔を見合わせるばかりの銃殺隊に合図さえした。顔を強張らせていたヴィシンスキーがはっと気がつき、混乱したまま必死に彼らを促した。銃声が轟いた。

 だが、仲間の死に際の落ち着いた態度とわずかな時間とが、ジノヴィエフにも、彼らしさを取り戻させていた。

「スターリンに伝えろ」

 今度はグリゴリー・エフセーエヴィチ・ジノヴィエフが、彼らに向かって、堂々と言い放った。

「私は諸君らよりもずっと昔から奴を知っている。私の言葉をきちんと伝えれば、諸君らは安全なはずだ‥‥。この私、グリゴリー・ジノヴィエフが保証しよう‥‥反対に、伝えなければ、奴は――スターリンは――また猜疑心に駆られるだろう。その場合、諸君らの身の安全は、このグリゴリー・ジノヴィエフは保証できない」

 銃殺隊の間に、動揺が拡がった。

「何をしているっ。撃て‥‥撃てぇっ!」

 ヴィシンスキーがかすれ声で命令したが、すぐには発砲されなかった。

「――ダントンは、ロベスピエール邸の前で何と叫んだか? 無知なコーバよ、私の最期にあたって、その言葉をおまえに贈ることにする‥‥。――私が十月革命に反対したのは、より確実な勝利のために慎重を期すべきと判断したからだ。知っての通り、私は名誉欲がたいへん強い‥‥名誉欲は、権力欲よりも優れたものだ。何故ならば、権力は生きている間だけのものだが、名誉は死後も残るからだ‥‥。権力に酔うのは、言わば若僧が酒に酔っぱらうのと同じだ。確かに楽しいが、それだけだ。しかし、名誉に酔うのは違う。それは大人の――精神的に成熟した人間だけが味わえる――楽しみなのだ。たしなみ、なのだよ。史上の権力者が、なぜ愚かに描かれるか、わかるか? それは、この点に気がついていない、あるいは気づいたときには遅かった、本当の愚か者だからだ‥‥。――おお、わが名誉よ! 後世、おまえに臆病という名がつけられてしまったときは、どうか私を――」

 ここでやっと銃声が轟き、グリゴリー・ジノヴィエフも死んだのだった。――両名の最期の言葉(カード)は、後になってスターリンに伝えられた。公にされることはなかった。

 九月一日には、同じ「事件」で逮捕されていたレニングラード党支部の関係者およそ五千人が全員、銃殺刑に処された。ここまでしておきながら、一方でスターリンは、NKVDの仕事ぶりに対しても手ぬるさを覚えていた。大量の「反逆者」を逮捕できたのは、ポスクレブイショフの「中央委員会特別部」、例の第二の秘密警察によるところもあったのかもしれない‥‥。党員の大量逮捕と処刑が一息ついたこの九月、ゲンリフ・ヤゴーダは、内務人民委員を解任された。


 ヤゴーダの後任をどうするか、スターリンは選択する必要に迫られた。ベリヤか、エジョフか。有能さ、優秀さなら、ベリヤ。自分への献身という点においては、エジョフであった。スターリンは無論、秘密警察にはなみなみならぬ関心を抱き、その能力を向上させたかった。だが同時に、彼は――内戦期の――ジェルジンスキーを欲してもいた。自分の「ジェルジンスキー」を。彼はあの時期、レーニンとジェルジンスキーの強固な結びつき(ライン)を、ほとんど渇望の思いで眺めていた。それが手に入るときが、ついに到来したのだ。

 自分への忠実さならばヴラーシクもいたが、彼の所属は赤軍だった。スターリンは一度、ヴラーシクにOGPUへの転属をすすめたことがあるのだが、ヴラーシクは首を横に振った。

「あっしには軍隊が天国なんでさあ!」

 天国? 共産党員にあるまじき言葉遣いだ。この男は、はたして十月革命の意味がわかっているのだろうか。さしものスターリンもこの男を警護役にしたことを少し後悔し、それでヤゴーダらGPU隊員から選抜した警備チームを作らせた、そういう経緯があった。

 ‥‥ニコライ・ヴラーシクは、ナジェージダの死後、それまでにも増してつけあがるようになっていた。既述の通り、この男はほぼ文盲に近く、後のスヴェトラーナの言葉を借りれば「信じ難いほど教育が無」いにも関わらず、(スターリン)の文化関係の問題についての口述役にさえなりつつあった。美術、音楽、映画、演劇、バレエ‥‥ソビエト連邦のこれらの分野の名士たちにも、苦難の日々が訪れていた。

 またスターリンは、かつてトフストゥーハのもとにおり赤色教授大学の聴講生であったメフリス――レフ・ザハロヴィッチ・メフリスを取りたててやっていた。「プラウダ」の編集長代理、次いで編集長に引き立てられたこの党員は、同紙上において「スターリン」を党の偉大な領袖、八宗兼学の天才に仕立て上げることで、恩に報いた。

 ――国外においては、八月一日から八月一六日にかけて、ドイツはベルリンにおいて、第一一回夏季オリンピックが開催されていた。このベルリンオリンピックは、ドイツの政権党の大いなる宣伝の場となった。

 九月二六日、ヤゴーダの後任、新しい内務人民委員の座には、ニコライ・エジョフが就いた。


 果たして、エジョフはスターリンの期待を裏切らなかった。この小柄な男は、その名をこの大量殺戮を指す呼称に刻まれるまでになるのである‥‥。党内、そして前任者ヤゴーダのもとでたるんでいたNKVDの組織の粛正、そしてまた――。

(悪く思うな、ベリヤ‥‥)

 エジョフにだけわかる、標的があったのだ。まずは、あの大物である‥‥。

 この男の脳裏には、少し前の屈辱の体験が焼きついていた。そしてまた、その体験をスターリンと共有していたのである。これが、ベリヤを()いて彼が秘密警察のトップに立てた一因でもあった。無論、ベリヤが慎重に、事態の推移を見守っていた、という点もあるが‥‥。――ニコライ・ブハーリンが西欧から帰国し、彼への党内からの批判、批難の大衆キャンペーンが盛り上がり、いまは亡きカーメネフとジノヴィエフも彼を告発していた時期であった。ブハーリン自身も主筆として名前が載っていた「イズベスチヤ」のコラムでも、逮捕すべきとの要求が()り――やらせが、頂点に達しようとしていた。満を持したスターリンはエジョフを伴って、中央委員会席上において、ブハーリンを弄び、とどめの一撃を食わせようとしたのであった。

 ニコライ・エジョフは、この同名の教養人を、「いま現在もひそかにグループを作りトロツキーと共謀し(ナチス・ドイツの)ゲシュタポとも結んでいる」とし、彼とルイコフを党から除名の上、反逆罪で起訴すべきである、と熱弁をふるった。しかし驚くべきことに、お約束の満場の拍手は起こらず、委員会は、スターリンがいるにも関わらず、この荒唐無稽を通り越した珍奇な――しかし逮捕と処刑を伴う――説に、沈黙でもって返したのであった‥‥。ブハーリンの力(としか、スターリンやエジョフには解釈できなかった)を、まざまざと見せつけられたのである。この時期、あらゆる「キャンペーン」の集中砲火を浴びてなお、ニコライ・ブハーリンとは、このような支持を――消極的であるにせよ――受けられる人物であった。

 エジョフは蒼ざめ、慌てて(スターリン)を見た。スターリンは、動かなかった。ブハーリンは、同志スターリンとそこのエジョフなる者こそ党を乗っ取ろうとしており、「権力を握らんとしているのはブハーリンではなく、スターリンとNKVDである」と言い切った。驚くべきことに、このとき、エジョフ案――スターリンへの賛成票は、委員会の三分の一に満たなかった。白票があり、また反対票も見られた。このとき、スターリンとエジョフは、退却を余儀なくされたのであった‥‥。

 この年の秋、ニコライ・ブハーリンは党での仕事をすべて奪われていたが、クレムリン内に住み、一一月七日の革命記念パレードにおいても、末席ながら観閲壇に席は用意されていた。まだ彼を必要としていた対外向けの御為倒しが、この国にはあったのである。ブハーリンが――彼ひとりではない――精魂を込めた、新しい憲法であった。

 新憲法「ソビエト社会主義共和国連邦憲法」の発布は、例によって国民的大祝典となり、ここでブハーリンは最後の脚光を浴びた。この新憲法下では、「労働者の代表であるソビエトに全ての権力を帰属させ、生産手段の私有を撤廃」し(=プロレタリアート独裁)、また「労働者の利益に従って」満一八歳以上の国民すべてに選挙権が与えられ、普通・平等・直接・秘密選挙制を採用するとされていた。また民族の平等の権利、信仰の自由、人民民主主義の理念等も提唱されていた。しかしこの憲法は、悲しいコースを辿ることが、最初から定まっていたも同然の代物であった。ソビエト連邦の国内では、ますます陰惨な逮捕と殺戮が増えてゆき、また少数民族の民族ごとの追放が始まるのである。これが、フェアリー・テール――おとぎ話の憲法版、(対外的な)宣伝材・広告の類に過ぎないことに、ニコライ・ブハーリンが気づいていたのかどうかは、不明である‥‥。

 この年、「ザカフカース・ソビエト連邦社会主義共和国」は解体され、「グルジア・ソビエト社会主義共和国」、「アルメニア・ソビエト社会主義共和国」、「アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国」が「独立」した。中央アジアにおいても、「カザフ自治ソビエト社会主義共和国」が「カザフ・ソビエト社会主義共和国」として、「キルギス自治共和国」が「キルギス・ソビエト社会主義共和国」として、それぞれ行政上の「独立」をした。従来の「ウクライナ」「白ロシア」「ロシア」「ウズベク」「トルクメン」「タジク」、そしてこれら「アゼルバイジャン」「アルメニア」「グルジア」「カザフ」「キルギス」。ソビエト連邦は、これら一一の「社会主義共和国」を束ねる連邦として、その陣容を整えたと見せようとしていた。

 何か変わるのだろうか? 逮捕は減るのだろうか? 同志スターリンの耳に、われわれの声は届くのだろうか? 人民の儚い期待と現実的な不安のうちに、この年は暮れていった‥‥。


 また、新たな年が明けた。一九三七年。革命二十周年にあたるこの記念すべき年は、逮捕と追放――と処刑――がエスカレートした恐怖の年として、この国の人々の記憶に刻印されることになった。

 一月中旬、ブハーリンとルイコフは、正式にその職を解かれた。「イズベスチヤ」は、一月一七日号から、ニコライ・ブハーリンが主筆であることを記さず発行された。そして、一月二三日、「第二回」モスクワ裁判が開かれた。検察官はヴィシンスキー、裁判官も、彼らの姿勢も、その見世物ぶりも、からくりも、何もかもが同じ。当然だが、被告の面々だけが違っていた。今度の被告人は、一七名。今回は、ヴィシンスキーは最初から「ソビエト連邦産業への妨害」も訴因とした。これはつまり、単なる見世物であるだけでなく、失政を誤魔化すための国家宣伝事業と化しつつあることを意味した。

 ソビエト連邦国家計画委員会(ゴスプラン)の副議長やソビエト連邦重工業人民委員部代理(次官)の経歴を持ち、かつてブハーリンら「右派」を、「一五〇パーセントの――」と笑った古参党員ゲオルギー・ピャタコフ、十月革命と内戦期に活躍し、赤軍のモスクワ軍管区司令官、農業人民委員部副議長(次官)、チミリャーゼフ農業アカデミー学長となり、ロシア連邦ゴスプランの幹部会員といった経歴を持つ、かつてトロツキーに味方したニコライ・ムラロフという人物、やはり古参党員でネップ期の財務人民委員(蔵相)として知られ、駐英ソビエト大使、外務人民委員部副議長(次官)、軽工業人民委員部副議長(次官)といった経歴のグリゴリー・ソコリニコフ、そしてまた、カール・ラデックの姿も被告席にあった。

 再び、全員が「自白」した。「ドイツおよび日本の手先となって、同志スターリンの暗殺を企図した」との罪状により、一月三〇日には銃殺刑が宣告された。翌日にその刑が執行されたのも同じ。異なる点は、ラデックとソコリニコフだけが懲役一〇年の刑で済んだことである。ラデックは、次々にくだる死刑判決の後の自分の「一〇年」の判決に、殊更(ことさら)大袈裟に驚いてみせた。これが演し物であることを、よく承知していたのである。ラデックらの例外措置には、何らかの取引があったと考えるほうが自然である‥‥。

 ニコライ・ブハーリンは、クレムリンのアパートメントから、なおスターリンに手紙を書きつづけた。この「第二回」の裁判のすぐ後に、モスクワで中央委員会総会の招集が決まった。中央委員たちに届いた総会日程には、ふたつの主要問題が載っていた。そのうちのひとつは、ニコライ・ブハーリンとアレクセイ・ルイコフである、と名指しされていた。ブハーリンは事態を悟った。スターリンは、かつて「右派」グループに属していた彼とルイコフを、中央委員会と党から除名する気なのだ。ブハーリンは、自分にできる闘争手段をとることにした。ハンガー・ストライキである。これは、スターリンまた若干の中央委員たちも知るところとなった。

 NKVDにとって、逮捕それ自体が業務化されていた。地域ごとの逮捕人数の割当まで、エジョフから指示がおりてきた。ベリヤもまた、カフカースにおいて多くの粛清を行なった。ネストル・ラコーバはベリヤによって逮捕されており、前年末に処刑されている(逮捕はせずに、ベリヤ自らが私用を装って会い、殺害した――という異説もある)。民間人でも、少年時代の彼を使っていたスヴィモニ・イェルコモシヴィリという人物が二十年代のうちに「獄死」したことは、既述の通りである‥‥。これらはほんの一例であり、彼は怨恨を晴らし、また怪しげな過去を消すためという個人的動機から、この粛清ほかボリシェヴィキの強権支配を利用したのだった。そしてこの時期、「ザカフカース」の共和国が解体され、それぞれ独立したことは、彼のこの行動を(特にエジョフから)見えにくくした。

 (ベリヤ)はそのままグルジアの首都になったトビリシで仕事をしていたが、NKVD内の粛清は彼の理解を超えていた。彼はヤゴーダ派では全くなかったし、ヤゴーダをくだらない人物だと思い心から軽蔑してもいた。だからヤゴーダの解任は何とも思わなかったし、エジョフにより提案されていた各地域のNKVD組織の「整理」も、それ自体は賛成できた。ただベリヤは、スターリンの狙いはあくまで党の旧指導層のみだと考えていた。地方の党委員会そのもの、またNKVD組織の破壊をもたらすような大きな「整理」は、彼の想定外であった‥‥。

 さて、われらがラヴレンチー・ベリヤは、どうするか? 人民、党員、またNKVD職員を代表して、同志スターリンに直訴する? それは、成功すれば、たしかに英雄になれるかもしれない。だが、成功の確率は、(人間が宇宙に行けるくらい低い‥‥)と、ベリヤは考えた。スターリンに直言できる人間――党員たちも、誰もそれを試みようとはしなかった。

(俺がエジョフなら‥‥)

 彼はまた、思うのだ。

(ラヴレンチー・ベリヤの首を、そのままにしておくだろうか‥‥)

 さしもの(ベリヤ)も、対外的には保身に集中せざるを得なかった。実はこの時期、妙な――といっても、国家システム全体が狂っているのだから、何をどのような基準でそのように形容できるかはわからないが――風潮が起こっていた。あまりの粛清の激しさに、党内のそこかしこから「グルジア関係者」への期待が、ひそかに高まっていたのだ。

 つまり、同志スターリンの同郷で、彼に近い党員であれば、彼に軌道修正の直言をしてくれるのではないか、それが成功するのではないか――という勝手な、しかし切実な願望であった。キーロフは死んだ。ミコヤンはアルメニア人で「同郷」とは言い難いし、またこの嵐に対し、沈黙を守っていた。とすると残るは‥‥というわけで、この時期、ベリヤにもこの妙な期待がかかって来ていたのだ。ベリヤは――彼のような犯罪者気質の人間は、まず、相手も自分と同じように(犯罪的なことを)考えるだろう、と考えるのが常である。そこでベリヤも、エジョフの脳内を考え、推理することになったのだ。

(いま目立つのはまずい‥‥)

 ベリヤは、慎重に考える。勝負の鉄則は、勝てる見通しが立たないときは動かず、いざというときに持てる力の全てを発揮して、相手を完膚なきまでに叩きのめすことだ、と。

 第一、グルジアとは関係ないが、自分よりスターリンとつきあいの長い、

(ヴォロシーロフにカリーニン‥‥、カガノーヴィチにモロトフも――!)

 皆、だんまりを決め込んでいるではないか!

(どいつもこいつも、大物ぶりやがって!)

 ラヴレンチー・ベリヤの脳髄に、彼らの面々が、憎しみとともに刻まれた。

 こんな状況で、ひとりで飛び出すのは、ベリヤの計算では、得策ではなかった。ベリヤはNKVDの所属であり、エジョフがその気になれば、彼らよりも首が飛ぶ可能性が高かった。無論、失職する、というだけの話ではない。取り調べに名を借りた拷問、そしてよくて収容所送り、少し悪ければ極寒の収容所で重労働、もっと悪ければ銃殺――全部ベリヤがやってきたことだが――スターリンが許可すればの話だが、それが一〇〇パーセント無いとは言い切れない。

(それに、グルジアなら‥‥)

 ベリヤは――いや、実はこの時期、他の党員の多くも、

(あの人がいる‥‥)

と、思い出していた。

 誰だって命は惜しい。ましてラヴレンチー・ベリヤは現実主義者(リアリスト)であった。(スターリンにさえあった)英雄願望はあまりなく、ただ権力とそれに付随する名誉だけが欲しい男なのであった。英雄になれるのならそれに越したことはないが、確率が低いのであれば、保身に力を傾注するのが彼にしてみれば当然のことなのであった。

 いちおうミハイル・カリーニンの名誉のために付言すれば、彼はこの時期、おもに党員からの請願に応え、時には裁判に介入し、幾らかの人命を救っている。厳父スターリンに対する、「優しき祖父、カリーニン」というわけである。しかしそれは、いくらか――全体から見れば、ほんのわずかに過ぎず、また、すべて自分が安全圏にいる場合、そのことをよくよく確認した上でなければ、指一本動かそうとはしなかった。

 セルゴ・オルジョニキーゼ。この大役を引き受けざるを得なくなったグルジア関係者は、スターリンと「腕を組み合う同志」(というタイトルの写真があった)の、この男であった。また、処刑されたゲオルギー・ピャタコフは、彼の部下でもあった。‥‥オルジョニキーゼはスターリンに、大量逮捕はやめるべき時期に来ていると説き、実際にNKVDに取り調べられようとしていた幾人かを守ったのである。スターリンとオルジョニキーゼの過去の交友は周知のことであったから、青帽たちも退かざるを得なかった。しかし当然、そのことはエジョフ、そしてスターリンの耳に入ることになる‥‥。

 中央委員会総会が近く予定されていたのだが、党内では、ある不穏な噂が拡がっていた。この同志オルジョニキーゼがその席上において、ついに同志スターリン批判の大演説を行なう、というものであった‥‥。しかし、総会に先立つ二月一八日に政治局でグルジアについての討議が行なわれ、その二時間後、「セルゴおじ」ことグリゴリー・コンスタンティノヴィチ・オルジョニキーゼは、遺体で発見されることになった。彼の死は自殺であると発表され、葬儀は、彼のクラスとしては盛大に執り行なわれた。追悼演説はスターリンが行ない、彼の遺骨はクレムリンの壁に同志キーロフと並べて葬る、と述べた。

 ラヴレンチー・ベリヤは、この機会を逃さず、かつてグルジア問題においてスターリンやオルジョニキーゼと対立した、グルジア共産党の長老ブードゥー・ムディヴァーニ他、スターリンの過去をよく知る党員たちを次々と逮捕させた。オルジョニキーゼの死が本当に自殺なのかどうかは、ベリヤにはどうでもよかった。それよりも、スターリンの脳内に入り込む努力をしていた彼には、見抜けた構図があったのだ。現在のスターリンにとって、すなわちベリヤの捏造スターリン伝にとって、消えて貰わねばならぬ党員たちがこの地方にいるのだ‥‥。

 ――オルジョニキーゼの葬儀の関係で、中央委員会総会の開催は一週間延期され、中央委員は――ブハーリンも――新しい日程を受け取った。そこには先の二項目のほかに、「反党行為としてのブハーリンのハンガー・ストライキについて」という項目が付け加えられていた。ブハーリンは妻と話し合い、ハンガー・ストライキを止め、二月二五日から始まった総会に出席した。

 ブハーリンとルイコフについての報告、そして他の旧反対派の「スパイ加害行為」の報告を、ニコライ・エジョフが行なった。ブハーリンとルイコフを特に激しく攻撃したのは、モロトフであった。ニコライ・ブハーリンの発言が認められると、議場は緊張に包まれた。ブハーリンがすべての「告発」をはねつけると、モロトフは、「自白しないこと、その一事であなたがファシストの走狗であることを証明している。彼らは自分たちの新聞で、われわれの裁判が挑発だと書いている。逮捕するぞ、自供したまえ‥‥!」と無茶苦茶な論理を――といっても、人民に対しては、このような論理による逮捕や有罪の判決が、すでに当たり前になっていた――ヒステリックに喚き始めた。キエフ州委員会総会では、カガノーヴィチが、州委員会の指導者たちを、「トロツキー派」と結びついている、と非難していた。およそ三〇名からなる委員会が設けられ、ブハーリンとルイコフの「問題」はそこに一任された。

 ミコヤンが議長を務めるこの委員会の作業のため、総会は二日間中断されることになった。委員会で記名投票――起立し、自分の意見を述べる――が行なわれた。ヴォロシーロフは、「逮捕し、裁判し、銃殺する」の三語を述べた。スターリンは慎重に、「事件を内務人民委員部に渡す」と述べた。ミコヤンはさらに慎重に、議長であるからとして、自らは意見を述べなかった。――スターリン方式の意見もあったが、多数決ではヴォロシーロフ方式であった。

 二日後、総会が再開された。ブハーリンとルイコフは、委員会の決定を聞くために呼び出された。ブハーリンはアパートメントで九ヶ月の息子に接吻し、自分よりずっと若い妻の前に涙ながらに膝を折り、許しを求めた。彼は、妻子に待ち受ける苦難を理解していた。そして立ち上がって言った。

「アーニャ、覚えていておくれ。私にはどんな罪もないことを。歴史にはありとあらゆる転換がある。息子を強いボリシェヴィキに育てておくれ‥‥」

 総会のホールへ向かう携帯品保管所へブハーリンとルイコフが入ると、そこに他の委員の姿はなかった。彼らがオーバーを預けると、待機していた八人の人間が四人ずつブハーリンとルイコフに近づいてきた‥‥。これが逮捕であった。ブハーリンとルイコフは、総会が開かれている建物からまっすぐ、ルビャンカ刑務所へ送られた。彼らの逮捕場面、移送先については、異説もある‥‥。


 ゲンリフ・ヤゴーダも逮捕され、エジョフの手により、NKVD内におけるヤゴーダ派は、彼の言葉を借りるならば「一掃された」。党幹部たちの「調査」も続いており、前年秋、すなわちエジョフ就任直後から、逮捕者はうなぎのぼりに増えていた‥‥。「右派」「トロツキスト(トロツキー主義者)」「ジノヴィエフ・センター」「ドイツ・ファシストの手先」「日本・ファシストの手先」等々、あらゆるレッテルが犠牲者たちに貼られた。

 三月‥‥。中央委員会総会の席上、スターリンは、キーロフ事件以後の「教訓」なるものを述べた。「階級闘争が前進するほど、打ち破られた搾取者階級の残党たちの怒りはますます大きくなり――」これは「階級闘争激化論」と呼ばれ、定式化されることとなった。

「(彼らは)ソビエト国家にたいしてますます低劣な行動を取り‥‥」

 ――理不尽な大量殺戮(ジェノサイド)は、なおも続くのである‥‥。

 ニコライ・エジョフは各地域のNKVDトップを交代させ、指揮権を現地の党組織からモスクワの己のもとに事実上集中させ、仕事をやりやすくした。またスターリンの指示のもと、地方の党組織の粛清も開始し、各地方党組織の有力者たちを次々と逮捕していった。組織化された大量逮捕により、地区委員会、州委員会、そして共和国委員会までが、丸ごと消えていった。スターリンの狙いは、党そのもの、正確には「オールド・ボリシェヴィキ」と呼ばれる旧指導層全体に向けられていたのだった。ツァーリ体制下、かのオフラーナも成し得なかった共産主義者たちの大量逮捕・殺害を、スターリンとエジョフは行なっていったのである。夏に向けて、粛清のペースはさらに加速していった‥‥。


(お次は‥‥)

 ニコライ・エジョフは、ひとりごちる。ブハーリンをとりあえず片づけ、オルジョニキーゼほか「グルジア関係者」も「片づけ」、また片づけつつあったスターリンとエジョフは、次なる標的に襲いかかろうとしていた。

(あいつらだ――)

 エジョフの司令塔は、無論スターリンである。人民はもとより、党、政府、そして秘密警察‥‥これらを完全な監視下に置いていた(スターリン)にとって、残る潜在敵など存在するのだろうか? ひとつ在ったのだ、強力な組織が‥‥。祖国防衛の任に就く、赤軍である。

 赤軍は、一九三五年のキエフ大演習につづき、前年には、白ロシアはミンスク付近において火砲一八門や自動車を伴う師団規模の空挺演習を成功させていた。さしものスターリンとNKVDも、このように軍事力を顕現させ、緊密な同志愛を持つこの大組織には、なかなか手を出せずにいた。赤軍は、粛清の嵐が吹き荒れるこの地獄のソビエト連邦において、天国とは言えぬまでも、唯一の安全地帯であった。しかし、前年七月、キエフ軍管区の戦車隊司令官ドミトリー・シュミット将軍がNKVDに逮捕され、拷問されて廃人とされ、赤軍内の「共犯者」の名前を「自白」していた‥‥。スターリンは、ついにいとぐちを見つけたのである。

 粛清の理由は‥‥。――先の、ブハーリンを苛め抜いた挙句に除名処分にするはずだった中央委員会席上での投票において、赤軍の代表は、クリメント・ヴォロシーロフ以外の全員が、反対票を投じていた。

「――――‥‥」

 トゥハチェフスキーの力強く鋭い視線が(エジョフなど無視して)スターリンを射抜いた。ヨシフ・スターリンは、口をもごもごと動かし、ニコライ・エジョフを伴い、這々の体で退散したのだった‥‥。スターリン(とエジョフ)は、彼らを――スターリンを恐れない彼らを――恐れたのである。

「麦の山からは、(のぎ)をよりわけ、これを取り除かなくてはならない‥‥」

 ヨシフ・スターリンは、そう呟くのである‥‥。この国の他の人々と同様、軍人に対する逮捕、取り調べ、拷問、裁判、追放、処刑‥‥が相次いでいった。

 高級将校――彼も例外ではなかった。五月、ミハイル・トゥハチェフスキー元帥が陸海軍人民委員代理を解任、ヴォルガ軍管区司令官に左遷された。そして、逮捕‥‥西側諸国でもその名を知られ、恐れられていたミハイル・トゥハチェフスキーは、NKVDの手によって「調書に血の痕が残る」ほどの、激しい拷問を受けた。そして解任からちょうどひと月後の六月一一日、他の赤軍高官――キエフ軍管区司令官、白ロシア軍管区司令官、レニングラード軍管区副司令官、フルンゼ陸軍大学校校長、赤軍人事部長――たちとともに「ナチス・ドイツのスパイ」の嫌疑で秘密裁判にかけられ、翌朝銃殺された。‥‥トゥハチェフスキーの妻ニーナ、母、ふたりの弟、四人の姉妹、娘ふたりも「陰謀に加担」のかどで逮捕、強制収容所へ送られ、妻とふたりの弟は銃殺刑に処された。このうち一二歳の末娘だけは、難を逃れることができた。自死に成功したのである。たまたま、スターリンの娘と同じ名であった。スヴェトラーナ‥‥。

「死にたいんじゃないの」

 事態の急変に、ゾーヤもついてゆけずにいた。フェアリーは本来、妻ニーナに会いに行くはずだったが、時すでに遅く、この少女の最期に立ち会うことになった。

「消えたいのよ。こんな世界から」

 フェアリーの制止を振り切って、スヴェトラーナ・トゥハチェフスキーは望みを達したのだった。短い人生での思い出を妖精に語って‥‥。――ミハイル・トゥハチェフスキーの処刑は諸外国にも衝撃を与え、また赤軍は安全地帯では完全になくなった。

 この六月には、かつてスターリンにマルクスやヘーゲルを個人教授したヤン・ステンも処刑された。七月には、グルジア共産党の長老ブードゥー・ムディヴァーニが処刑された。

「ダントンの次は‥‥!」

 ムディヴァーニもまた、銃殺されるにあたって、ジノヴィエフの最期と同じ人物の名を出した。それは、トビリシのメチェフスキー監獄全体に響きわたるような絶叫だったという‥‥。

「――ロベスピエールの番であったことを、スターリンよ! 忘れるな!」

 これで動揺が拡がってはまずい‥‥。ラヴレンチー・ベリヤは顔をしかめていた。しかし、あいつらは歴史をよく知っている。ここぞというところでああいう決め台詞を吐けるよう、俺もフランス革命について勉強せねば‥‥。

 この頃になると、逮捕と処刑はこの国において日常の一部と化していた。

「この二週間の処刑の数は、いつもより少なめでした。イルクーツクではありふれた罪状により五十人の党員がまた射殺‥‥」

 外国の報道機関も、このような特電を普通に流すようになった。この年の初めから、政府による人口調査は正式に取り消されていた――急激な人口減がわかってしまうからである。調査にあたる、ソビエト連邦国家計画委員会(ゴスプラン)の中央統計機構のスタッフたちも逮捕された。八月のなかばからは、逮捕後の「尋問が単純化」された――つまり、すぐに拷問が加えられるようになった。人間が簡単に消えてゆく社会になっていた。密告が盛んになり、人は他人を信じられなくなった。職場の人間関係、私的な友人関係‥‥すべてが疑心暗鬼に満ちたものになった。銀行役職者が頻繁に入れ替わるため紙幣から署名が消え、党委員会のメンバーの名前がつけられていた街の通りや公園の名前も頻繁に変わり、ついには無名のまま放置される公園もあった。都市部の人々は、朝、仕事へ出かける際、家族に別れの言葉を言うようになった。悲愴な抱擁も交わされた。何故なら、無事に帰ってこられるかわからないから‥‥そのまま五年の、十年の、あるいは永遠の別れになるかもしれないのだ――これは大袈裟な話でもなんでもない。「人間が消える」ことが、日常、なのだ‥‥。

 老人や子ども――片親、また両親とも逮捕されるという事態はもちろん、彼ら自身――も、安全ではなかった。ある地域では、入院中の七三歳の女性が、「自分の選挙区の候補者はブハーリン(この名前も、彼女は別の人物と間違えていた)」である旨の発言をして病院から救急車でNKVD本部に搬送され、ある地域では一〇歳の子どもが、七歳のときに、「ファシスト・グループの一員であった」旨を「自白」して、逮捕された。


 極東で、日本(大日本帝国)の動きが活発化していた。七月七日、盧溝橋事件。わずか四日後、日本政府は華北への出兵を発表した。月末に日本軍は華北で総攻撃を開始、日本と中国は本格的な戦争状態に突入していった(日中戦争)。八月一五日に日本政府は中国国民政府の「断固膺懲(ようちょう)」を発表、海軍機が南京に対して初の渡洋爆撃を行ない、中華民国側は総動員令を発令した。

 これらを受け、ソビエト政府も、次なる集団の追放を実行する。朝鮮半島はすでに彼ら大日本帝国の植民地となっていたが、朝鮮人の居住地域は朝鮮半島に限られず、中国、そしてソビエト連邦の国境地域でも彼らは生活していた。八月二一日、中ソ不可侵条約調印。同日、政府と党中央委員会は「日本のスパイ活動の浸透を阻止するため」、この朝鮮半島との国境地域から朝鮮人を追放する措置を、ひそかに決定した。翌日、中国西北共産軍が国民革命第八路軍に改編された。九月に入り、日本海軍は全中国沿岸の封鎖を宣言した。一三日、中国国民政府(南京国民政府)は日本軍の行為を国際連盟に提訴、二八日、国際連盟総会で日本軍による中国の都市空爆に対する非難決議が満場一致で採択された。また二三日、国民政府の指導者「蒋介石(チアン・カイシェック)」は、中国共産党の合法的地位の承認を発表した(第二次国共合作)。

 極東地方の朝鮮人の強制移住は、九月の初めから一〇月の初めにかけて大きく二回に分けて行なわれ、一〇月末には完了した。鉄道が用いられ、約七万八千人が、はるか中央アジアのカザフ・ソビエト社会主義共和国やウズベク・ソビエト社会主義共和国に追放された。ある民族の民族ごとの追放という点では、すでに一九二〇年春、北カフカースのコサックが、ボリシェヴィキに抵抗したため、土地を取り上げられ、強制移住させられている。コサックの定義は難しい。北カフカースのコサックは、血統という観点上では主にロシア人で構成されていたが、独立した「民族」であるとも言えた。いずれにせよ、今回の極東地方からの朝鮮人の大規模な追放が、スターリンの政府に味をしめさせ、今後これがモデル・ケースとなるのである‥‥。


 ――宵闇のなか、兵営の表に四台の車が止まった。NKVDだ。ばらばらと、幾つかの影が車から降りてきた。

「来たなチェキストめ」

 カーテンの陰から窓外を見るイヴァン・コズロフはつぶやき、眼鏡を直した。

 ユーリ・ワイネルは、どうすればいいのか、わからなかった。気持ちは、イヴァン・コズロフを助けたかった。だが、その必要はないと、彼は昨晩、この兵営を訪れ、部下――T‐35の乗員を集めて言ったのだ。

「奴らの狙いは俺だ。俺を逮捕する気なんだ」

 イヴァン・コズロフは、苦渋の表情で続けた。

「告白する。俺はナチ・ファシストの手先であり、レニングラード・テロリスト・センターの指令を受けていた。そしてジノヴィエフ支持者だ。おまえたちを陥れようとした」

 それは、軍事教練以外には、帝政ロシアの初等教育しか受けていないイヴァン・コズロフが精一杯学んだ、政治の世界の用語(ことば)であった。他の者は、どうすればよいのかわからずぼうっと突っ立っている者、男泣きに泣く者、むっつりと黙り込んでいる者‥‥と、様々だった。アレクセイ・ブニコフは、普段はノロマのくせに早くも次の算段をしているようであった――ユーリは彼を殴りつけたかった。同時に(ユーリ)は気がついていた。上官が、ある名前を巧妙に避けていることを‥‥。ユーリは、あるとき、時間が遅くなり兵営に泊まることになったこの上官が、夜中、うめくように寝言を言うのを、聞いてしまったことがあった。

「同志トロツキーよ‥‥!」

 それは、口にしてはならぬ名、ソビエト連邦を破壊しようとした呪うべき反対派のリーダーの名であった。NKVDに告発すべきだろうか? だが、ユーリはそうしなかった。若いユーリは、その男のことを知らなかった。もしかしたら、本当に悪魔なのかもしれない。しかし、彼はウクライナはキエフの出身であった。都市部で育ったため、農村部の悲劇は詳しくは知らなかったが、それでも「話」は伝わってきた。彼は告発しなかった。そしていまも、上官が隠しておきたいらしいその名前を、言おうとは思わなかった。

「すべては俺ひとりの責任だ。おまえらを逮捕させやしない」

 ユーリは知っていた。彼がすでに離婚し、奥さんと息子さんを逃がそうとしていることを。

「みんな家族なんだ」

 イヴァン・コズロフは言った。

 ‥‥ドミトリー・シレプチェンコは、拳銃のグリップを握りしめ、その仕事道具がちゃんと機能することを確かめた。彼にとって、これは初の大仕事であった。これまでにも、民間人また党員の逮捕現場には立ち会ってきた。だが、赤軍将兵相手は初めてであった。

「何といっても奴らは戦車兵だ。万が一のことも考えられる。十分に気をつけろ」

 そう指示されていた。ドミトリー・シレプチェンコは、まだ見たことのない、イヴァン・V・コズロフという、眼鏡の赤軍将校の写真つきのファイルを思い出していた。自分より八歳年上、サラトフ県――現在はサラトフ州――の貧農出身。これらはさほど気にならなかったが、内戦‐干渉戦争期の第1軍出身――しかもそこで戦果をあげている――という経歴は、シレプチェンコの目を引いた。

(線の細い面をしてるが‥‥)

 彼は、逃げ出したかった。

(実は、凄えつわものかもしれねえ――。第1軍だぜ‥‥)

 内戦‐干渉戦争の頃の兵士には、そういう手合いが多いと聞いていた。しかし、「行くぞ」と、上官が無情にもシレプチェンコに告げた。危険な任務であった。同時に、手柄をあげるチャンスでもある――そう思うことにした。他の隊員が、兵員宿舎のドアをノックした。

「NKVDです」

 ドアが静かに開いた。大抵の民間人と同じようにこの死の通告で相手が震えあがっていることを願いつつ、ドミトリー・シレプチェンコは、他の隊員たちとともに宿舎のなかに入っていった。しばらくして、一発の銃声が響いた。さらに数発の銃声が続いた――‥‥。

 軍隊とは、何かのために戦う組織、そのために武装した組織である。その「何か」は、時代や社会体制によって異なる。赤軍――労働者・農民赤軍――という、(少なくとも建前上は)イデオロギーのために戦う軍隊という存在は、やはり異彩を放つものである‥‥前述の通り、トゥハチェフスキーは中央委員会のメンバーでもあった。この時期、赤軍という枠組み自体は存続したが、粛清により、組織はガタガタになった。また、政治委員制度が復活した。


 キーロフ暗殺に端を欲した「捜査」は、当のセルゲイ・キーロフの側近たち――キーロフ派――にも及んでいた。レニングラードでのキーロフの一般告別でスターリンやモロトフ、ヴォロシーロフとともに亡き同志の棺を担ぎ、その後はレニングラード州委員会第二書記として彼の路線を続けようとしていたチュードフという人物、またキーロフとは一九一九年以来の盟友であり、レニングラード市執行委員会議長であったコダツキーという人物――昨年末には新憲法の起草委員会にも任ぜられていた――もすでに逮捕されており、一〇月三〇日、処刑された。また、先に党を除名されていたエヌキーゼを含む元中央委員一三名も、同日――異説もある――処刑された。

 これはトビリシのベリヤにとり、最後のゴーサイン――合図であった。ラヴレンチー・ベリヤはスターリンの動向に気を配り、彼と歩調を合わせて、グルジア――旧「ザカフカース」の、彼にとって目障りな人間たちを、消していった。オラヘラシヴィリも処刑場へ送られ、銃殺された。勇敢に闘う人々もいた。アルメニア共産党第一書記アガシ・ハンジャンは、ベリヤが執務室で尋問しても「自白」はおろか、助命を嘆願することもせず、逆に彼を罵り、蹴りを加えようと――手には手錠があった――さえした。ラヴレンチー・ベリヤは、政治家にしては大胆な行動を取った。デスクの引き出しから拳銃を取り出すなり、その場で手ずからこの人物を射殺したのである‥‥。


 西欧においても、緊張が高まっていた。スペインで、同志たちが危機に陥っていた。一九三〇年、二十年代からの軍事独裁政権を倒した同国の民衆は、翌一九三一年、この政権と結びついていた国王を無血のうちに退位させ、王制を廃して共和国政府を樹立していた。しかし、軍部ほか右派と共和派の対立が激しさを増し、ついには彼らの反乱を招き、内戦となっていた(スペイン内戦)。共和派といっても、議会制民主主義者から社会主義者、共産主義者、無政府主義者(アナキスト)と様々であり、なかなか統一が取れていなかった。

 ドイツでは、「全権委任法」と俗称される法律の採択等により、国家社会主義ドイツ労働者党――ナチス――による独裁政治が行なわれていた。同党の「総統(フューラー)」アドルフ・ヒトラーは、前大戦における敗北により調印したヴェルサイユ条約を破棄、再軍備を宣言していた。スペイン内戦は、緊張を増す西欧のホットポイントとなった。反ファシズムを旗印に、共和国政府――人民戦線派を支援する義勇軍が結成された。これにはコミンテルンも一枚噛んだ。軍部ほか右派の反乱軍には、ドイツやイタリア――ファシズム国家がバックアップについた。

 ‥‥時計の針を数ヶ月戻す‥‥。

 ――ファウスト・ペドレルがそれを目撃したのは、一九三七年四月中旬のある日の午後遅く、もう夕方に近い頃のことであった。空中、スペイン東部の都市アルカラ・デ・エナレスから北北西へおよそ三〇キロ‥‥。彼は、このスペイン内戦における共和国政府軍(共和国軍、人民戦線派)に所属する戦闘機パイロットであり、右派の将軍フランシスコ・フランコ率いる反乱軍と対峙していた。二月八日、地中海に面した南部の都市マラガを占領したフランコ将軍は、人民戦線派の守りの固いマドリード攻略からイベリア半島北部地域の制圧へと、戦略転換を図ってきていた。

 ペドレルの愛機は、ソビエト連邦より渡されたポリカルポフ(イー)‐16タイプ6。彼は自由への信念を持った男であったし、この時代、後発の単葉・全金属製の戦闘機は各国で作られていたが、I‐16は未だ一線級で活躍できる性能を持っていた。しかし彼は、ロシアから来たNKVDの連中は好きになれなかった。彼らの目は――たまにわざとらしい笑顔を見せることはあっても――冷たく、態度は官僚的と言えた。ペドレル個人の感想ではない。同僚の共和国軍パイロットたちもそう言っていたし、アナキストの友人が彼らに逮捕されたと憤る者もいた。ロシア人のパイロット、整備士たちも、ペドレルらスペイン人パイロットたちがたどたどしいロシア語で話しかけても、周囲にちらちらと目をやり――ペドレルたちは、それがコミッサールと呼ばれる彼らの委員やNKVD隊員の目を意識してのことだと気がついた――曖昧な、ときには困惑の表情を浮かべ、なかなかまじわろうとしなかった。ファウスト・ペドレルは、このタイプ6の性能には――乗り心地以外は――満足していた。しかし、この機体を含めI‐16は、ある物と引き換えに、ソビエト政府から渡された代物だった。ファシスト勢力軍の精強ぶりに危機感を抱いた共和国政府の切実な援助の要望に対し、ヨシフ・スターリンはなんと(きん)での支払いを要求したのであった。遠国の同志、国際共産主義運動の偉大なる先達からのこの要求を共和国政府は結局受け入れ、一九三六年九月、スペイン南東部のカルタヘナ港に、多数のI‐16タイプ6、パイロット、地上整備士たちが降ろされた。これは、軍事力という面では大いに共和国派の助けとなったが、「労働者の国際連帯」というスローガンには微妙な影を落とすことになった。それは、「労働者の祖国」ソビエト連邦、その明かされぬヴェールの向こうで何が起きているのかという疑念を、彼らと西欧の労働運動関係者たちに持たせた。

 ――僚機の一機が、雲を避けてゆるやかに上昇を始めた。つづいて、一機、また一機と。彼らの機数は六機。すべてI‐16タイプ6である。ペドレル機は、最後に上昇に入った。

(敵機が近いという情報だが‥‥)

 まだ、発見できていなかった。先手を取る必要があった。ファウスト・ペドレルが目撃したそれは、紫と黄に明滅していた‥‥。

(――なんだ?)

 高度七〇〇メートルから七五〇メートルの辺りであった。紫と黄に明滅するその光は、ペドレル機や僚機のやや下方を、雲をぬうように飛んでいた。彼はそれを注視した。

(――そう遠くない‥‥)

 それは、快速のこのI‐16タイプ6とほぼ同じ速度で飛行していた。

(小さい‥‥)

 飛行機にしては、である。ペドレルは落ち着いていた。敵機ではない、しかし、鳥や虫の類は、あのように光るものではないし、あの速度で飛べもしない。では、何だ‥‥? しかし、疑問はそこまでだった。ファウスト・ペドレルの目が、そこで大きく見開かれた。彼は、その謎の光る小物体のさらに向こう側に、今度こそ間違いなく敵機の機影を発見したのだった。ファシスト勢力軍の複葉戦闘機――奴らがナチス・ドイツから受け取った、ハインケルHe51だ。あるいは、「コンドル軍団」などと名乗るドイツ人たちが乗っているのかもしれない。

(全部で五機――六機か‥‥)

 同数だ。だが位置取りは、こちらが有利だ。

 タイプ6に無線装置はない。ペドレルは機体を全開に加速させて僚機に異変を知らせると、自らは真っ先に機体を傾けて雲のなかへ飛び込ませた。もうすぐ、ファシストの編隊は、上方からの奇襲を受けて逃げ惑うことになる‥‥。

 ――このスペイン内戦には、先のツポレフSB(エスベー)も投入されていた。高速爆撃機の名に恥じず、ファシスト勢力軍の複葉戦闘機を上回る速度を示し、彼らを翻弄した。彼らは、急降下することでしかこのSBを迎撃する術を持てなかった。また(イー)‐15も投入され、善戦した。

 ポリカルポフI‐16タイプ6は、空中においてファシスト勢力軍機の多くに対し優位を示したが、複葉機でもイタリア製のフィアットCR.32は、運動性でほぼ互角の性能を示してきた。さらに、「コンドル軍団」は、ドイツ製の新型戦闘機を戦線に投入してきた。ごく少数であり、実戦テスト的な意味合いが大きかったが――Bf109と呼称されるその機体はI‐16を大きく上回る性能を示し、速度においてもツポレフSBを上回った。

 このスペイン内戦は、空中戦だけが行なわれていたわけでは無論ない。国土を戦線が移動し、すでに多くの無辜(むこ)の民が犠牲になっていた。それらの物語は、別の機会に語られるべきものであろう‥‥。

 四月二六日、バスク地方の都市ゲルニカが、ドイツから送り込まれた義勇軍航空部隊「コンドル軍団」の爆撃を受けた。空襲の巻き添えとなった市民およそ三百人が死傷した。五月六日、そのドイツから発った飛行船ヒンデンブルク号が、アメリカ・ニューヨーク近郊の空軍基地に着陸する際、爆発・炎上し、乗員・乗客三五名と地上作業員一名が死亡する大事故を引き起こした。五月二五日には、フランスでパリ万国博覧会が開幕した。五月二八日、イギリスでは保守党のネヴィル・チェンバレンの内閣が成立した。スペイン内戦がつづくなか、この人物は、ドイツとイタリアに対し宥和的であった。八月二七日、ローマ法王庁がスペインのフランコ政権を承認した。一一月六日、イタリアが日独防共協定に加入し、ここに日独伊防共協定が成立した。

 翌日、一一月七日‥‥。ソビエト連邦はモスクワ・赤の広場において、恒例となった革命記念式典が執り行なわれた。人民の勝利の二十周年を祝うこの式典に集まった――集められた――「人民」は、五列の軍隊を隔て、スターリンから四分の一マイル離れたところに立たされた、ほんの少しの学童ぐらいのものであった。本物の群衆がいないので、「人民の歓声」は、ラウド・スピーカーから流された。歓声は、青帽たちの隊列の際、特に大きくされたが、行進する彼らもまた、仕事道具である拳銃をホルスターに入れることを、認められていなかった。――この学童のうちのひとりは後に、ハンス・アンデルセンの童話「皇帝の新しい服」(「はだかの王様」)は創作ではないのではないか、という大胆な仮説を、教室内で披露したという‥‥。

 この一一月に入り、極東では日本軍が上海を占領、二〇日には国民政府は南京から重慶へ遷都した――同日、日本帝国は「大本営」を設置した。そして一二月一三日、日本軍は南京城を陥落、旧首都南京を占領する。


 誇大妄想的な建築は、ホテル・モスクワの完成・開業という、いちおうの成果を出しつつあった。この――高層建築ではないが――壮麗なホテルは、しかし、正面から見て一目でわかるほど左右の様式が違っていた。構成主義と古典主義が、そのまま混ざってしまったのだ。ミスか、あるいは敢えてそうしたのか――。ミスだとしたら壮大な規模の設計ミスであり、敢えてそうしたのなら現代建築界への驚くべき挑戦である――とはいっても、壮麗な建物なのに一目でわかるほど左右が違うのは、端的に言って「変」である(何といっても、ここはホテルだ)。いずれにせよこの巨大な建物は、「スターリンの気まぐれ」として歴史に残ることになった。

 また、パリで開かれていた万博には、ソビエト連邦パビリオンが置かれていた。このパビリオンの設計者は、前述の「ソビエト宮殿」の設計案で一等を勝ち取った人物である。高さ一〇〇メートルのレーニン像を頂に持つ、高さ四一五メートルという世界一の超高層建築の――。しかし、これらスターリン様式(という表現ができていた)の建造物の前に、立ち塞がるものが現れていた。パリ万博においては、対峙するように向かい合って建てられたドイツのパビリオンに、高さで負けて睥睨されてしまった。

 モスクワにおいては、救世主ハリストス大聖堂跡地の泥の海が、このスターリン様式の「ソビエト宮殿」の建築を頑なに拒み、基礎部分の完成のめどすら立たせてもらえていなかった。

 一二月二〇日、党はボリショイ劇場において、秘密警察の創設二十周年を祝う大祝典を催した。スターリンの巨大な肖像と隣にエジョフの肖像が掲げられた会場の、花で飾られた壇上で、アナスタス・ミコヤンがニコライ・エジョフの仕事を賞賛した。

「同志エジョフから、同志スターリンの方法を学びましょう‥‥!」

 当のニコライ・エジョフは、うつむき加減で、恥ずかしそうな笑みを浮かべていた。ヨシフ・スターリンも、この模様を眺めていた。――このように二十周年を祝ったNKVDであったが、前述の通り、粛清にあたる当の彼らもまた、粛清の対象となっていた。この年だけで、先のメドヴェドやザポロージェツも含むおよそ三千人の職員が処刑されている。


 一九三八年‥‥。粛清は続けられていた。恐怖の新年が、また明けたのだ。一月、日本の首相が、中国の情勢に関し「国民政府を対手とせず」との声明を出した。三月‥‥。二日、第三回モスクワ裁判が開かれた。二一名の被告のなかに、アレクセイ・ルイコフ、ゲンリフ・ヤゴーダ、そしてニコライ・ブハーリンの姿があった。この法廷は連邦会館ホールに設けられ、およそ五百の傍聴席は埋め尽くされた。彼らはほとんど全員がNKVD職員であったが、特にニコライ・ブハーリンに関して、世界中から注目が集まっていた。ホール後方の暗がり、全体を見下ろせる位置に、特別に貴賓室が設けられていた。決して広くはないが、ゆったりとくつろげるように工夫された部屋では、断続的にパイプから立ちのぼる煙があった。


 ‥‥フランス革命は、西暦一七八九年に勃発し、五年後の一七九四年(革命暦では「二年」)に終焉した。一七八〇年代、ブルボン朝フランス王国においては、国王を頂点とする階級社会に対する怒りが鬱積していた。知識人層の間では、当時すでに没していたが、作家であり哲学者のヴォルテール、また特に同じく作家であり哲学者であり思想家であったルソーによる社会契約説が広まっていた。また、一七七六年のアメリカ独立宣言と彼らの独立戦争の勝利が、社会――特に都市部の住民――に大きな影響を与えていた。そしてフランス王国は、戦争の出費、宮廷の浪費等により、歳入のおよそ九倍にもおよぶ財政赤字を抱えていた。第三身分――平民=都市住民および農民――は、重税に苦しめられていた。アンシャン・レジームと呼ばれる社会体制に、ほころびが目立っていた。

 当時の国王ルイ一六世は、聖職者と貴族の特権を制限する財政改革を試みたが、貴族階級の反発に遭い財務長官が辞任、これは頓挫した。次の財務長官も同じように、特権身分の反対に出くわした。パリ高等法院は、全国三部会という身分制議会のみが課税を決める権利があるとし、国の人口の大部分を占める第三身分の多くから支持を受けた。ルイ一六世は一七八八年の七月、全国三部会の開催を約束し、翌年、つまり一七八九年、各地に選挙による議員が誕生する。五月、ヴェルサイユにおいてこの三部会は開かれたが、ルイ一六世は最初から、この議会の主導権掌握を狙っていた。

 しかし開催直後から、特権階級である第一身分(聖職者)の代表および第二身分(貴族)の代表と、第三身分の代表等が、議決方法をめぐり対立、むなしい「議論」が四十日間続けられた。第三身分の代表たちは、国王の腹に気がつき、三部会を見切り、「国民議会」という独自の議会を発足させ、フランスの代表とした。いわゆる球戯場(テニスコート)の誓いが成された。憲法の制定と、国王への国民議会の承認(=正式な議会と認める)を求めたのである。この国民議会に、第一身分、第二身分の代表からも参加者が現れ、その数は増えていった。やむなくルイ一六世はこの要求を飲み、彼に説得され他の第一身分、第二身分の代表も合流した。国民議会は憲法制定国民議会と改称、憲法を定める作業を始めたが、一方、反対派に押された国王政府は、ヴェルサイユとパリに軍隊を集結させ始め、緊張が高まっていった。国民議会から支持を得ていた財務長官が解任されると、民衆は立ち上がった。彼らは一七八九年七月一四日、絶対主義の象徴であるバスティーユ牢獄を襲撃した。フランス革命の始まりである‥‥。


 第三回モスクワ裁判の二一名の被告のなかで無罪を主張したのは、ニコライ・クレスチンスキー――やはり社会民主労働党時代からの古参党員――唯ひとりであった。ブハーリンやルイコフと同じく十月革命前からの中央委員であり、有能な組織者であることで知られていた。その手腕を買われ、最初のソビエト組織局員となり、また前述の通り政治局員にも選ばれた。さらに書記局に加わり、党の筆頭書記となっていた。

 ‥‥パリ市のバスティーユ牢獄は、もとは要塞として建設された堅固な建物で、少ないながら守備隊も詰めていたが、すぐに陥落した。バスティーユの司令官は捕縛され、市庁舎に連行された。道中、怒り、興奮していた民衆は彼を殺そうとしたが、市民の代表が、彼にも裁判を受ける権利があると述べ、何とか市庁舎までは引っぱっていった。しかし結局、その市庁舎に着いたところで、司令官は群集の手によってもぎとられ、広場で首をはねられた。同じく捕らわれていた三名の士官と三名の守備兵も、同じように殺害された。続いてパリ市長も、市民への対応を裏切りと咎められ、射殺され、さらに首をはねられた。彼らの首は槍首にされ、高く掲げられた。

 この「事変」はルイ一六世と国王政府にショックを与え、軍のパリ市からの撤退と財務長官の復職が決定された。さらに「国民衛兵」(民兵)とパリ市政の「一新」を承認せざるを得なくなった。これが伝えられると、混乱はフランス全土に拡がった。農民たちは領主の館を襲い借金の証文を焼き捨て、フランス各都市では市民の代表が市政の実権を掌握していった。この一方で、国王の譲歩を弱腰と捉えた王族たちと第一身分、第二身分は、これら「暴動」への武力行使を唱えた。八月四日、国民議会は封建的特権の廃止を宣言、また二六日には人権宣言を採択した。まだ主権者は国王であり、法令として制定するには国王の承認が必要であった。

 ルイ一六世は、これを拒絶した。一〇月五日、混乱と不作による物価高騰に怒った女性数千人が、武器を手に雨のパリ市役所前広場に集結した。彼女たちは食糧を要求し、ヴェルサイユ宮殿に突入した。結果、ルイは人権宣言を承認し、同じパリ市のテュイルリー宮殿に家族とともに移った。革命は進んでゆくのである。市民は、アメリカ独立戦争に従軍した闘士であり、第二身分代表にも関わらず第三身分側に立っていた自由主義貴族ラファイエットを、新しい軍隊の総司令官に任命した。このラファイエットや、同じく貴族でありながら三部会で第三身分側に立ったミラボーという人物が、フランス革命初期の牽引者である。彼らが目指すのは――共和制ではなく――あくまで立憲君主制であった。

 聖職者や貴族たちは国外逃亡を始めた。一七九一年、四月、国王側と市民側の橋渡しをしていたミラボーが亡くなり、六月、ルイは家族とともにフランス脱出を目論むも、ヴァレンヌで発見され捕縛された。ルイの一家はパリへ護送、以後テュイルリー宮殿に軟禁される。王の逃亡と革命に対する嫌悪が露わになり、市民にショックを与えた。八月、オーストリアとプロイセンは国王の地位を保証せねば開戦(侵攻)するというむちゃくちゃな脅迫をかけ(ピルニッツ宣言)、ルイは国王の座に留まったが、市民からの支持はほぼ完全に消えていた。

 九月、憲法が正式に制定され、フランスは立憲君主制国家となった。平民であっても一定以上の税金を納めた者は、選挙権を持つことができた。一〇月、新憲法のもとで選挙が行なわれ、新議会「立法議会」が成立した。この議会では、フイヤン派とジロンド派と呼ばれるグループが二大勢力となった。フイヤン派は、立憲君主制(王権)の維持を唱える、自由主義貴族やブルジョアジー(ブルジョワジー)層のグループ。一方のジロンド派は、共和制(王権の廃止)を志向する、やはりブルジョアジー層のグループであった。王党派の亡命貴族(エミグレ)は諸外国でフランス革命を非難、なかには侵攻を扇動する者もいた。先のピルニッツ宣言もあり、フランス革命は危機に晒されていた。ジロンド派内閣は革命維持のため、対外戦争に踏み切った。

 一七九二年四月、革命政府はオーストリアに対して宣戦布告した(フランス革命戦争)。しかし負け戦が続いた。貴族階級である軍の士官はサボタージュし、王妃マリー・アントワネットが敵に作戦を流していた。プロイセン軍がフランスの国境を越えると、政府は祖国の危機を訴え、各地で義勇兵が組織され、続々とパリに集まった。マルセイユの義勇兵たちは「ラ・マルセイエーズ」を歌い、進軍した。八月一〇日、ダントンの演説に鼓舞されたパリ市民と義勇兵がテュイルリー宮殿を襲撃、国王一家のスイス人衛兵を殺害、ルイ一六世とマリー・アントワネットら国王一家をタンプル塔に幽閉し、王権を停止した。

 国王の護衛がなぜ外国人兵士なのかというと、そもそもこの時代あたりまで、欧州各国の軍隊の兵士は基本的に傭兵であった、という事情がある(これに異を唱え、国民軍の創設を企図したのが、これより時代をさらに遡るフィレンツェ共和国のニッコロ・マキャヴェッリである――定着しなかった)。スイス人傭兵は優秀であり、そのため各国で雇われていた。その歴史のなかで異端の兵士として現れいでたのが、このフランス革命による「義勇兵」たちであり、彼らによって組織された軍隊は、兵士たちが「祖国のために戦う」という目的を持つという点で、異端の軍隊であった。「国民軍」――しかしこれが、その後の歴史で主流となってゆく。アメリカ独立戦争もまた、この――事実上の――「国民軍」を誕生させたという点で、大きなエポックであった(とはいえ、この戦争を戦ったのは、イギリス人と「アメリカ人」だけではない。「ランツクネヒト」と呼ばれるドイツ人傭兵部隊――このスイス人傭兵部隊を範として結成されていた――を始め、各国出身の傭兵たちも戦場にいた)。フランス革命またアメリカ独立革命が「革命」たる所以の、一例である‥‥。

 ジョルジュ・ジャック・ダントンは一七五九年生まれ、弁護士、のち王室顧問会議つき弁護士となり、フランス革命を迎える。ジャコバン・クラブに加入し、コルドリエ地区の議長に選ばれ。コルドリエ・クラブを創設した。一時イギリスへの亡命を余儀なくされたが、帰国、パリ・コミューンの第二助役に選ばれていた。よく知られた雄弁家であった。また急進派であったが、ジロンド派内閣の司法大臣となっていた。九月二日、ヴェルダンでフランス軍降伏の報が入ると大演説を行ない、市民を鼓舞した。彼の演説を契機として、反革命派の捕縛と虐殺が始まった。ヴァルミーの戦い以後、フランス軍は反攻に転じ、敵軍を国境外まで押し戻すことができた。立法議会が廃止され、全ての男子に選挙権が与えられ(普通選挙制)、選挙により新議会「国民公会」の議員が選出された。国民公会は、王政廃止と共和政の樹立を宣言した。

 革命急進化の様々な要因のうち大きいものに、サン・キュロットと呼ばれた下層民階級の発言権の増大があげられる。彼らは義勇兵――「国民軍」に参加したのだった。このサン・キュロットの強い支持を受け、ダントンも所属するジャコバン派が、大きく台頭してゆくのである。共和政府は、ルイ一六世を革命裁判にかけた。戦争にあたり政府と国民に対する裏切りの証拠が、数多く提出された。国民公会は、ぎりぎりの僅差でルイの死刑判決を議決した。翌一七九三年一月二一日、およそ二万の群集の前で、ルイ一六世はパリ市の革命広場において処刑された。処刑の道具として用いられたのは、ギロチンであった。


 ギロチン(ギヨティーヌ)は、前年の四月二五日に、フランスで正式に処刑道具として認められていた。この時代、公開処刑は普通のことであった。平民には晒し刑でもある絞首刑が適用され、斬首刑は貴族階級に対してのみ認められる、名誉な刑であった。斧や刀が用いられていたが、執行人が下手で、受刑者の首に何度も斬りつけるなどの残酷な事例が頻発しており、死にゆく者に――無駄で――多大な苦痛を与えていた。また、車裂きの刑なども行なわれていた。国民議会の議員で内科医であったジョゼフ・ギヨタンという人物がこの事態を憂い、身分に関わりなく斬首刑を適用できる平等かつ人道的な処刑を行なうよう議会で提案し、採択された。こうして断頭台の設計が始まったが、依頼を受けた外科医のアントワーヌ・ルイという人物が作成したその設計図の刃は、三日月形であった。これを見たルイ一六世は、刃の角度を斜めにすればどんな太さの首でも素早く切断できると提案した。試作品がチェンバロ製造業者に発注され、死体を用いた実験の結果、この斜め刃が採用された。この新しい処刑具は当初、設計者ルイの名をとり「ルイゼット」また「ルイゾン」と呼称されたが、提案者ギヨタンの名をとった「ギヨティーヌ」が定着した。

 一七九三年六月に、ギロチンを各県に一台ずつ配置する旨の政令が出され、計八三台のギロチンが設置された。この新式の処刑具は、革命期のヒット商品となっていた。その証拠に、不当な安売りや政治活動によってまで業者による激しい受注競争が起こっている――最初のチェンバロ製造業者の独占権は、しかし何とか守られた。裁判所の判決により死刑執行の場所が変わるため、組み立て運搬式で、執行の後は再び分解して運び去られた――後のソビエト連邦では、馬車を用いた移動式ギロチンが作られ、各地を巡回することになった――後にはトラックを用いた自走式ギロチンも製作されている。このギロチンの登場により、死刑執行人とその助手に関して、かなり大幅な人員削減が可能となった。――なおフランスでは、一九三八年時点においてもギロチンによる公開処刑は行なわれていた。


 革命政府による国王の処刑は、欧州各国を震撼させるに充分であった。イギリスを中心に対仏大同盟が結成され、ほぼ全ヨーロッパが革命のフランスを敵とし、続々と侵攻してきた。政府は大量の兵の募集を行なうが、これは国民の反発を招き、反乱が発生し、それが王党派と結びついて拡大していった。食糧危機もあり、フランス国内の情勢は、不安定化の一途を辿った。ジロンド派は下層市民の味方ではなく、彼らの支持を受けるジャコバン派の山岳派(モンターニュ派、モンタニャール派)と呼ばれるグループの主要メンバーを、拘束し始めた。またジロンド派は、食糧危機に対策を講じない旨を宣言、下層市民の怒りの火に油を注いだ。

 五月末、この山岳派の実力者であるロベスピエールという人物が演説し、より強い支持を集めた。彼の指導と鼓舞により、六月初めにはジロンド派は国民公会より追放、さらに逮捕された。革命の急進化――ジャコバン派独裁体制の確立である。六月二四日、さらに新しい憲法が採択された(ジャコバン憲法、山岳派憲法、モンタニャール憲法)。「人民主権」を柱とし、二一歳以上の男子の普通選挙権を認めた(一定の条件を満たす外国人にも参政権を認めた)。

 マクシミリアン・フランソワ・マリー・イジドール・ド・ロベスピエールは、一七五八年生まれ。貧しさのため苦学を余儀なくされたが、十代のころよりすでに秀才の呼び名が高かった。判事、弁護士を経て、三〇歳で先の三部会のアルトワ州第三身分代表となり、政治の世界に登場する。ジャコバン派の山岳派に属し、国民公会においては、ルイ一六世の即時処刑を強く主張していた。

 ジャコバン派は、もとはジャコバン・クラブという多様な思想のメンバーからなるクラブであった。源は三部会の第三身分、ブルターニュ出身議員のブルトン・クラブというグループである。後にパリ市のジャコバン修道院で集会を持つようになり、この名称がついた。フイヤン派やジロンド派もこのクラブに入っていたが、革命の加速化に伴いまずフイヤン派が脱退し、ジロンド派は前記の通り追放され、山岳派が同クラブに残ることになり、「ジャコバン派」は事実上、彼ら急進主義の共和派グループとなった。身分特権の廃止や財産の平等を唱える彼らは、国民公会において左側の席に陣取り、これは「左翼」の語源となった。

 国民公会は、革命の推進のため、前年に治安維持を担当する保安委員会を、この三月に革命裁判所を、この四月には行政・軍事を担当する公安委員会を、それぞれ設置していた。公安委員会は一四名の委員からなり、審議は秘密裡に行なわれた。もとは革命戦争に対しての戦時体制を確立するための委員会であったが、この時期は事実上、政治の最高執行機関として機能することになった。同委員会は、世界初の秘密警察であると言われる。ロベスピエールはこの公安委員会の委員であり、ジロンド派追放以降、政治の実権を掌中にしていった。ジャコバン派――公安委員会――ロベスピエールは、王党派は無論、ジロンド派を含む反対派を次々と逮捕させていった。革命裁判所はこれら「革命の敵」を次々と裁き、次々に死刑判決をくだした。

 医師であり、ロベスピエールの盟友で、同じ山岳派のジャン=ポール・マラーという実力者がいた。ダントン、ロベスピエールと並び、「ジャコバン三巨頭」と呼ばれていた。「人民の友」紙を発行するなどし、また先のテュイルリー王宮襲撃事件等を扇動し、ジロンド派攻撃の急先鋒でもあった。この頃は持病で自宅で療養していたのだが、七月、このマラーが、ジロンド派支持者に暗殺された。ロベスピエールはジロンド派を強く非難する一方、死したこの友人を神格化し、ジャコバン派内部での彼のリーダーシップをより強固なものにした。

 ジャコバン派独裁のもと、ギロチンの稼動が続いた。一〇月、元王妃マリー・アントワネットの首筋にも、ギロチンの刃が落ちた。ジャコバン派(山岳派)の独裁は続き、反対派の粛清のお陰もあり、フランス国内の治安は回復されていった。

 しかし恐怖政治を巡りジャコバン派内に論争があり、同派はさらに派閥に分裂していった。最も急進的であったのが、ジャック・ルネ・エベールを筆頭とするエベール派である。下層貧民の支持を受け、議会外から強い後押しを受けていた。政府の革命の進め方を手ぬるいと批判し、さらなる革命の推進を要求していた。また、反キリスト教政策を掲げ、「理性の崇拝」を唱えていた。これの反対に位置していたのが、ジョルジュ・ダントンを筆頭とする寛容派である。ジロンド派との闘争にあたっては、彼らとの融和を図り、反対派の処刑と政治の急進化(過激化)に対し、寛容な態度を要求したことからこう呼ばれた。また、フランス革命戦争の停戦などを主張していた。ジョルジュ・ダントンは、幅広い層に人気があった。ロベスピエール派はこの中間に位置し、便宜上、中道派と呼ばれた。


 公安委員会は改組を繰り返し、七月にダントンらは排除され、この九月に最終的に委員は一二名にされていた。同派のクートンとサン=ジュストがロベスピエールと三人組となり、同委員会に対する支配力を強めていった。同委員会を中心に、最高価格法や革命暦の採用などが行なわれた。マリー・アントワネット処刑の後には、ジロンド派実力者が消されていった。国民公会は三日間しか弁論の期間を与えず、二一名のジロンド派全員に死刑判決をくだし、一名は自死、他二〇名を一〇月末に処刑した――ギロチンの効果は高く、執行はおよそ三八分で済んだという。

 一一月になると、同派の黒幕的存在であった子爵夫人、ジロンド派の女王とも呼ばれたマノン・ロラン(ロラン夫人)も処刑された。かつての内務大臣であり、この年に失脚し逃亡していた夫のラ・プラティエール子爵ジャン=マリー・ロランは、この報を聞き自死した。さらにフイヤン派に所属していた革命後の最初のパリ市長となったジャン=シルヴァン・バイイという人物、フイヤン派の結成者であり、雄弁家としても知られていたアントワーヌ・バルナーヴという人物も一一月のうちに処刑された。ルイ一六世の祖父ルイ一五世の公妾であったマリ=ジャンヌ・ベキュー(デュ・バリー夫人)も、一二月に入り処刑された。

 この時期、公安委員会の主導のもと、メートル法が採用され、またカトリック色の強いグレゴリオ暦を廃止、「革命暦」(「共和暦」)という新しい暦が採用されていた。革命暦は、グレゴリオ暦一七九三年一一月二四日から使用された。全ての月を三〇日とし、従来の週と七曜制を廃止、代わりにひと月を三つの「デカード(旬、週)」に分けた。年初を共和制宣言が行なわれた一七九二年九月二二日とし、この「年」を一年(元年)とした。各月には詩人による文学的な月名がついた。秋のヴァンデミエール(葡萄月)、冬のプリュヴィオーズ(雨月)、春のプレリアル(牧草月)、そして夏のテルミドール(熱月)‥‥。さらに時間の単位も変更し、一日を一〇時間、一時間を一〇〇分、一分を一〇〇秒と、メートル法と同じく十進法を採用した。彼らは、合理性の精神のもと、全てを新しくするという意気込みを持っていた。しかしここでは、グレゴリオ暦(西暦)で記述することにする‥‥。

 パリではジャコバン派が政治権力を掌握していたが、地方では王党派、ジロンド派勢力が残る地域もあった。革命政府はパリから議員を派遣して反対派の粛清を企図し、彼らの抵抗により、フランス全土は事実上の内戦に陥っていた。南東部の工業都市リヨンでは、派遣議員の指導のもと教会の略奪が命じられ、反対派の処刑が四ヶ月で二千件を超えた。南部の港湾都市トゥーロンでは、一月末までに一千人以上が処刑された。信仰心に篤い西部のヴァンデ地方の反乱(ヴァンデの反乱、ヴァンデ戦争)では、指導者を失い軍事的に敗北し、故郷に帰ろうとしていたカトリック王党軍こと農民軍およそ八万人に対し、政府軍によって四、五千人が残るだけの殺戮が行なわれた。

 西暦一七九四年一月八日、ロベスピエールは、寛容派とエベール派を激しく非難する演説を行なった。粛清はまずダントン派に向けられ、横領の発覚を口実に、同派議員や支持者である銀行家、投機家が逮捕された。

「民衆の革命政府の原動力は徳と恐怖である。徳なき恐怖は有害であり、恐怖なき徳は無力である」

 ますます尖鋭化してゆく革命を懸念する声に、二月、ロベスピエールはこう演説した。

 一方のエベール派だが、民衆に再蜂起を促すなどし、元々ロベスピエール派とは感情的な面も含め対立があった。三月、エベール派のメンバーは、外国と通じ、市民を腐敗させる計画を練っていたとの嫌疑で、指導者ジャック・ルネ・エベールを始め次々と逮捕され、処刑された。

 ダントンとロベスピエールは個人的には友達であったが、ロベスピエール派の公安委員会は、三〇日、ダントンや同派の有名人であったカミーユ・デムーランという人物らを逮捕させた。革命裁判所は、四月四日、ダントンやこのデムーランを含むダントン派のメンバーに死刑判決をくだした。刑は翌日執行され、これでロベスピエール派の独裁体制が確立することになった。

 この革命裁判所の検事であったのがフーキエである。アントワーヌ・フーキエ=タンヴィル。彼はデムーランの遠戚にあたるが、またロベスピエール派の方針に忠実であり、この親戚も迷わず断頭台に送った。なお公安委員会は、この二月四日には全フランス領での奴隷制の廃止を決議するなどもしている(プリュヴィオーズ一六日法)。これは、西欧世界初である。

 ‥‥ニコライ・クレスチンスキーは、二十年代中ごろまでトロツキー及び左翼反対派を支持していたが、一九二八年には完全に彼らと袂を分かっている。政治局、組織局、書記局の地位は失っていたが、駐ドイツ大使となった。この時期のソビエト連邦にとって、ドイツとの関係は――常に微妙であったが――重要なものであった。

「私は決して『右翼トロツキー・ブロック』のメンバーではないし、そんなものの存在すら知らない」

 外国暮らしをしていたクレスチンスキーの陳述は人として当たり前のものであったが、スターリンの国においては当たり前のものではなかった。

 ニコライ・ブハーリンも抗弁している。しかし彼は、「陰謀」の証拠の提出を明言した。彼がその後に述べたのは、最優先の課題であると考えていた反ファシズム闘争の問題であった。このために、彼は有りもしない証拠の提出などを申し出たのだ。

(ヒトラーと対決するためには、コーバには協力せねば――)

 懊悩の末の、彼の悲壮な思いであった。

 さて、肝心――であるはず――の同志セルゲイ・キーロフ暗殺事件についてであるが、検察側はどうやら事の「真相」を突き止めたようであった。レオニード・ニコラエフは、キーロフ暗殺前の二ヶ月から一ヵ月半ほど前、すでにNKVDによって不審人物として拘留されていた。このときNKVDはその所持品のなかから、拳銃やセルゲイ・キーロフがいつも通る道などを記した地図を発見していた。にも関わらず、NKVDレニングラード支局長メドヴェドと対立していた支局長代理ザポロージェツが、この男を釈放してしまったのである。それは、ゲンリフ・ヤゴーダの命令によるものとされた。そのヤゴーダは、アヴェリ・エヌキーゼに指示されたということであったが、その証拠は明示されなかった。ヤゴーダの判決後、メドヴェドやザポロージェツに与えていた「特別待遇」も暴露された。


 ‥‥公安委員会はロベスピエール派によってほぼ占められ、マクシミリアン・ロベスピエールを筆頭に、ルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュスト、ジョルジュ・クートンによる、事実上の三頭政治が行なわれた。先の「ジャコバン三巨頭」に倣いこの三名も「ジャコバン三頭」と呼ばれたが、政策の豊かさが減じてきたことは、ロベスピエール派以外の誰の目にも明らかになりつつあった。ジロンド派に組していたコンドルセという数学者であり哲学者でもあった人物は、隠れていたところを逮捕され、三月末に獄中で自死していた。どこまでも西暦に基づくが、五月一〇日、ルイ一六世の妹エリザベート王女も処刑された。

 革命暦に合わせた統計では、革命裁判所が死刑宣告をした人数は、一七九三年九月中旬から一〇月中旬までに一五人、次のひと月では六五人だが、翌年の二月中旬から三月中旬には一一六人、四月中旬からのこのひと月では三五四人と増加していた。ここでもやはり、裁判手続きの簡素化が図られている。六月一一日からは、審理を経ない略式判決が認められ、粛清はさらなる加速を見せてゆく。人々はただロベスピエール派による告発を恐れ、従うだけの日々をおくるようになっていった‥‥。


 三部会のアルトワ州第三身分代表であった頃のロベスピエールは、死刑廃止法案を提出したり、犯罪者親族への刑罰を禁止する法案に関わることなどもしていた。これは、当時の感覚としては、驚くべきものである。彼は弁護士であったのだ。人道的見地からではないが、対外戦争にも反対する立場を取っていた。

 法律による保護や人身の自由がうたわれた「人権宣言」は、空文句に過ぎなかった。フランスがまだしも幸いであったのは、このロベスピエール派独裁による、いわゆる恐怖政治の期間が、後のソビエト連邦のそれと比較すれば、短くて済んだことである。

 地方に派遣されていた――虐殺を行なっていた――議員たちも、告発される危機があった。ロベスピエール派の追及を恐れた彼らは、先制攻撃を画策した。一方、戦乱の収拾に伴って、公安委員会内にも新しい穏健派が登場していた。ロベスピエールは六月半ばから公の席にほとんど姿を見せなくなり、七月二二日には権限をめぐり対立関係にあった公安委員会と保安委員会の合同会議が持たれたが、彼はもはや、サン=ジュストの忠告にも耳を貸さなくなっていた。また一方で、参政権を得た下層市民や無償で土地を得た農民たちは、インフレーションによる生活の圧迫、相次ぐ逮捕また逮捕の現実を前に、革命政府に対してより強い懐疑の目を向けるようになっていた。

 七月二六日(テルミドール八日)、国民公会の席上にいてロベスピエールは、「粛清されなければならない議員がいる」と演説した。議員からはその名前をあげる要求があったが、ロベスピエールは拒否した。この宣言が行なわれることは、サン=ジュストらも知らされていなかった。翌日、すなわちテルミドール九日(七月二七日)、国民公会の場において、公安委員会のメンバーでもある議長のジャン=マリー・コロー・デルボワや、南西部に位置する都市ボルドーに派遣されていたジャン=ランベール・タリアンという議員が、ロベスピエールらの発言を阻止した。「暴君を倒せ」という声が上がり、議場は騒然とした。このタリアンはロベスピエール派の逮捕を要求、この日のうちに、サン=ジュスト、クートン、そしてロベスピエールらを逮捕する決議が通過した。その後、パリ市のコミューンが蜂起し、ロベスピエールらはパリ市庁舎に逃げ込んだ。市庁舎には国民衛兵とまだ彼を擁護しようとする群集が集結したが、国民公会ではロベスピエールたちに従う者を法の外に置くことを決定していた。深夜になって国民衛兵は引き上げ、国民公会側の派遣軍は市庁舎を占領した。なかには自死に成功した者もいたが、ロベスピエール本人は自死に失敗、顎に重傷を負って逮捕された。世に言うテルミドールのクーデター(テルミドール九日のクーデター、テルミドールの反動)である。略式判決導入の六月一一日からこの日までで、パリ市の革命裁判所は一三七六人を処刑していた‥‥。

 フーキエは、あくまでもシステムに従った。翌日、彼はロベスピエール派の面々に死刑判決をくだした。その日のうちにロベスピエールと彼の弟オーギュスタン、サン=ジュスト、クートンら二二名が革命広場でギロチンにかけられ、この世を去った。

 革命期フランスにおけるこの恐怖政治の時代、反革命容疑で逮捕された者はおよそ五十万人とされ、裁判により処刑されたものはおよそ一万六千人、内戦地域において裁判ぬきで殺害された人々を含めると、犠牲者はおよそ四万人といわれる。

 ‥‥一九三八年三月一三日。モスクワ裁判の判決――二一名の被告人全員の死刑判決――がくだされた。同日、ナチス・ドイツが、オーストリアを併合した。

(いまこそ‥‥)

 われらがラヴレンチー・ベリヤは、考えるのである。

(動くときだ――)


2013年8月25日、括弧(かっこ)とルビの不備を修正しました。


言い訳ですが、この章は作者としても読み返すのがもっともつらく、不備の確認が滞りがちになっています。すみません。

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