2.壊死国家(2)
赤軍の発展。巨大戦車T‐35登場、他。
秘密警察の改編。NKVDへ。
スターリンの最後の「人間らしさ」。
一九三〇年代に入ると、この国は独自の空軍力の確立を急ぐようになった。長期にわたった国内の混乱状態は収束へ向かい、さまざまな反体制分子は、ほぼ――スターリンの脳内以外からは――無力化された。先進欧米列強には並べないものの、航空機産業もようやく「産業」と呼べるほどの規模になった。VVS(ソビエト連邦航空隊=空軍)科学研究所は研究項目を段々と増やしていった。それらのなかには、ロケット弾や無反動砲といった新兵器についてのものがあり、軍用航空機のもっとも効果的な使用方法も研究されていた。機体上部に配置された非駆動の回転翼によって揚力を発生させ飛行する、オートジャイロと呼ばれる航空機も開発された。そして、世界的に見ても――すなわち欧米列強諸国のそれと比較しても――より近代的な、高速飛行を可能とする軍用機が、このソビエト連邦から誕生しようとしていた。
爆撃機から紹介する。ソビエト連邦では、政府から認められた幾つかの「設計局」が、軍用機の設計・開発にあたっていたが、そのうちのひとつ、先にあげたアンドレイ・ツポレフのツポレフ設計局が、SB(ANT‐40、SB‐2)という爆撃機を開発した。この機の斬新な点は、まず機体が全金属製である点、そして主翼が単葉であるという点だった。世界のほとんどの軍用機――高速性能を必要とされる戦闘機さえ――未だ全金属製にはならず、複葉主翼を備えていることを鑑みると、これは極めて革新的な設計であるといえた。主任設計者は、同設計局のA・A・アルハーンゲリスキー。SBのBは爆撃機、そしてSは高速の意である――この機の改良型発動機を積んだ機体は、カタログデータでは高度四千メートルにおいて最高速度実に時速四二三キロメートルをマークした。世界最速の爆撃機の誕生であり、同機よりはるかに小型軽量な欧米列強および日本帝国の戦闘機よりも高速だった。無論これらの国々も、新しい戦闘機の開発を進めてはいたが。また同設計局は、二十年代なかばに開発していたTB‐1という機体に次いで、この時代にTB‐3(ANT‐6)という重爆撃機を開発した。全長二四・四メートル、全幅三九・五メートル、最大積載爆弾量は二千キログラムという巨人機であった。
その一方、戦闘機開発の分野においても、革新的な機体が別の設計局の手によって生み出されようとしていた。ポリカルポフ(ポリカールポフ)設計局。すでにI‐5という戦闘機(木製の複葉機で、とりたてて言うほどの性能はない)を送り出していたニコライ・ポリカルポフという人物が率いる同設計局は、ツポレフ設計局の躍進に切歯扼腕していた。そのツポレフ設計局が、パーヴェル・スホーイというアンドレイ・ツポレフの愛弟子を中心にI‐14なる新型戦闘機の開発にとりかかったというニュースが入ってきてからは、なおさらだった。そしてそのニュースは、ポリカルポフに、より優れた戦闘機の開発を決心させた。この人物は、一時期刑務所に入れられていたが、その刑務所内でこのI‐5を設計してみせて自由の身を得たという、まったく天晴れな祖国愛と技術者魂の持ち主であった。しかし、アンドレイ・ツポレフと喧嘩してしまい、TsKBでは、主任からこのスホーイの設計チームの副主任に格下げされてしまっていた。そのポリカルポフ率いるチームは、一日一八時間を――刑務所と同じく監視つきで――設計に費やし、驚異的な短期間で、SBに勝るとも劣らぬ革新的な機体を誕生させた。単葉の主翼、そして全金属製の、まるで当時流行のレース機のような短いボディに、引込式主脚を持つその新型戦闘機は、I‐16と呼ばれることになった。またポリカルポフは、同時期に複葉のI‐15戦闘機も開発。速度はI‐16のそれを下回ったが、優れた旋回性能を示した。
搭乗する人員のほうだが、一九二五年、それまであった「ODVF(鷲友会)」と「ドブロヒム(科学戦篤志会)」という組織が合併し「アヴィアヒム」という組織ができていた。このアヴィアヒムがOSO(在郷防衛予備軍)と合併し、一九二七年、「オソアヴィアヒム」という原則民営の飛行訓練組織が誕生していた。空軍、特に戦闘機への憧れは、血気盛んな若い人間――男女を問わない――を、このオソアヴィアヒムを通してパイロットおよびその他の航空兵へと変えていった。
――この時期、新技術を投入して空軍力の整備に大きな力を注いでいたのは、ソビエト連邦だけではなかった。西方で‥‥前大戦における仇敵にして、大きな損失を蒙ったという点では似た者同士といえるドイツもまた、そうしようとしていた。その地では、ひとりのリーダーに率いられた新しい政治勢力が、権力を掌握しようとしていた。国家社会主義ドイツ労働者党――略称NSDAP、NS――「ナチス」と蔑称されるその党は、「社会主義」や「労働者」といった単語を党名にちりばめてはいるものの、政治路線は極右と言え、ドイツ共産党を徹底的に弾圧した。ヨーロッパに根差しているユダヤ人の排斥を公然と唱えるそのリーダーの名は、アドルフ・ヒトラーといった。
この男はまた、東方――ドイツから見て――を「生存圏」と勝手に名づけ、その獲得をも唱えていた‥‥。
空軍力だけではなく、陸軍力の整備も急がれた。新兵器の研究と開発が進められた。この年の五月一日、メーデーの軍事パレードに、全長一〇メートル近くもある巨大な国産戦車が登場し、観覧者の度肝を抜いた。多数(五基)の砲塔を持つ多砲塔戦車と呼ばれるもので、このときは暫定的にT‐32と呼ばれていたが、その後改良が成され、八月にT‐35として赤軍に制式採用された。
その赤軍では、機構上のある問題点の改良が成されていた。赤軍を特徴づける、政治委員制度である。政治委員の仕事はプロパガンダと党への忠誠の保持であり、実際に作戦を司る赤軍指揮官とは、権限、指揮系統が分離されていた。これは、完全な分離であった。まさにそうすることで当初は目的を果たそうとしたわけであるが、内戦‐干渉戦争の時期が過ぎ、安定期また整備期に入ろうとしていた赤軍の現場では、この政治委員が作戦事項に介入して混乱を招く事例が頻発、「二元統帥問題」として大きな問題になっていた。このため、一九三一年、政治委員制度は廃止された。しかし、赤軍――労働者・農民赤軍は、どこまでも「党の軍隊」である。「指揮官政治補佐」――「政治将校」という役職が置かれ、引き続き部隊内の思想問題を担当した。
ニコライ・ブハーリンは、ナジェージダの墓参りによく足を運んだ。そこには、オルジョニキーゼの妻の姿もあった。彼女は、ナジェージダの親しい友人であった。政治に興味がないようで、あまり口を出すほうではなかったが、親友の死を心から嘆いていた。
「‥‥なんとか、なりませんの?」
「‥‥‥‥‥‥」
ブハーリンは、二十年代末の手痛い政治的敗北から、完全に立ち直ってはいなかった。また彼は、トロツキーのような、使命感を強く持つタイプでもなかった。この頃は「イズベスチヤ」の編集に力を注ぎ、その才を発揮してもいた。若い編集者の指導にもあたり、尊敬されてもいた。オルジョニキーゼの妻は、ブハーリンに何か政治的なことを頼んだわけではない。しかし、政治に関心がない彼女も、ナジェージダの死にあたり、近頃の情勢の改善を願っているようだった。
「無駄かもしれませんけど、夫に言ってみますわ‥‥」
人生の酸いも甘いも噛み分けたような彼女の物言いに、ニコライ・イワノヴィチ・ブハーリンは、自分も再び何かすべきなのだろうかと考え始めた‥‥。
セルゲイ・キーロフの人気は、日を追うごとに高まっていった。党への忠誠、勇敢さ、思想、バランス感覚、どれをとっても秀でていた。彼をめぐる逸話はいろいろあったが、特に人気があったのは、まだずいぶん若い時分のエピソードだ。彼の父親は家庭を捨て、母親も早くに亡くなり、彼は祖母や親戚の家、そして孤児院で育った。職業学校に通い、十代でボリシェヴィキの前身、社会民主労働党の活動家となった。この頃ロシア帝国においては、憲法制定を求めるとして小ブルジョア(プチ・ブルジョア)がよく「解放宴会」なるものを催していた。演者は後の立憲民主党に参加するような、また客は彼らを支持するような人々であり、社会民主労働党員などお呼びではなかった。地元の社会民主労働党員のひとりが、小金持ちどもの「改革」の演説にまじって自分たちの主張を必死に唱えたが、笑い飛ばされただけであった。この社会民主労働党員が野次のなか退場させられそうになったとき、若きセルゲイ・キーロフが登場する。彼は客たちに激鉄を起こしたリボルバー式拳銃を突きつけ、同志の話を最後まで聞くよう要求するのである‥‥。この社会民主労働党員は、とりあえず最後まで演説を続けることができた。また、これを勇敢さと捉えるかは人によるだろうが、彼は高級幹部となった今でもひとりで狩りを行ない、狼や熊を銃でしとめる――そこまで接近する――度胸を持っており、スターリンに手ずから毛皮をプレゼントしたこともあった。
思想面においても、少なくとも二十年代は「正しかった」。彼はトロツキーに一度も近づいていないし、近づくそぶりも見せず、党指導部に対する反対派たちを強く批判し続けた。レニングラードに派遣され、この都市に根強いジノヴィエフ派の狩り出しに力を注いだ。農業集団化の際も迷うことなく、「今ここで止めたり撤退を試みたりすれば、すべてを失うことになる」と熱烈に支持し、これは戦争なのであるとまで述べて、軟弱な党員の尻を叩いていた。
しかしその一方で、リューチンの一件もあった。元中央委員で「右派」のリューチンという人物が、スターリンの追放と農業集団化の批判を行なっていたのである。一九三二年九月、スターリンが彼の処刑に対する支持を取りつけようとしたが、政治局においてキーロフは、処刑には反対する力強い演説を行なったのだ。キーロフの主張は、オルジョニキーゼやカリーニンの支持すら取りつけた――無条件でスターリンを支持したのは、カガノーヴィチだけであった‥‥。
ベリヤの近辺にも、キーロフの人気は及んでいた。グルジア共産党の、かつてザカフカース・ビューローでキーロフとともに働いたこともあるナザレティアンという党員が、集団化の行き過ぎを非難する文書を繰り返し書いていた。スターリンはこれに報復しようとしたが、キーロフはオルジョニキーゼらと共にこの人物を救ったのである(昔のベリヤ救出の一件といい、ずっと昔の「解放宴会」での立ち回りといい、彼は「同志」――と見なした人物――の苦難を見過ごせないのである‥‥たとえそれが「観客」を意識した振る舞いであったとしても)。
ブハーリンの執務室が科学者か動物学者のようであるなら、キーロフの執務室はさながら工学者か地質学者のそれであった。彼は他の多くの高級幹部のように空々しいスローガンや贅沢品で部屋を飾り立てることを好まず、数字と実際を重視した。こんな人物が、党内で人気が出ないわけがない。
ただし付言しておけば、彼はレニングラードの党指導者として、前述した白海・バルト海運河建設に責任を負う立場でもあった。建設に従事させられたのは、これまで様々な理由により各地の収容所に送られていた、およそ一〇万名もの囚人たちであった。この大事業は、作業のほぼ全てを人力に頼って行なわれた。一九三一年末から工事が始まり、翌年の夏にはゲンリフ・ヤゴーダが現場全域を視察してまわった。そして一九三三年初頭――厳冬期――には、ヤゴーダおよびモスクワより突貫作業の命令が出され、その夏にわずか二〇ヶ月あまりで完成を見ていたが、四メートルという最小深度ゆえ通過船舶の大きさが限られる、そして冬期は凍結のため運用できない、という制限がついた。この建設工事は、少なくとも一万九〇〇名の犠牲者を出したといわれる‥‥。これだけの人命の犠牲の上に完成した同運河には、〈I・V・スターリン(И・В・スターリン)記念〉という文字が冠せられた。「I・V」は、「ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ(Iosif Vissarionovich)」である。単に白海運河とも呼ばれる。また、さらに多くの犠牲者を出した農業集団化に関しても彼の意見は前述の通りである。
セルゲイ・キーロフは、すでにスターリンとの間に溝が生じ始めていたオルジョニキーゼ、「右派」のブハーリンらと親しくするだけにとどまらず、旧トロツキー支持者すらも温かくレニングラードに迎え入れていた。キーロフの人気は今やうなぎのぼりであった。オルジョニキーゼや、グルジア弾圧に関しては彼と――キーロフとも――対立していたマミア・オラヘラシヴィリ、その他幾人かの中央委員や政治局員までもが、彼を来たる第一七回党大会において新しい書記長に担ぎ出そうと話し合う会合を持つに至った。しかし、キーロフ自身がこの提案を斥けた。一九三四年二月に開かれたこの党大会においては、ヨシフ・スターリンの中央委員への選出に対してすら、一九六六名の代議員のうち二七〇名ないし二八九名が、反対票を投じている‥‥。
この国のこの時期はまた、近代的ではあるが誇大妄想的な高層建築が始まった時期でもある。建築家の集団や組織はすべて廃止され、政府が検閲を行なう「ソビエト建築家組合」を経て、一九三三年には「ソビエト建築アカデミー」が創設された。また同年、新築する「ソビエト宮殿」のコンペが行なわれた。建築計画自体は一九三一年に発表されており、敷地予定地とされた救世主ハリストス(キリスト)大聖堂はダイナマイトで爆破され、解体されるという憂き目に遭っていた。同コンペで一等に輝いたのは、ニューヨークの自由の女神を上回る高さ一〇〇メートルのレーニン像を頂に掲げた、全体でやはりニューヨークはマンハッタンのエンパイア・ステート・ビルディングを上回る高さ四一五メートルという、世界一の、しかし誇大妄想的な超高層建築物の設計案であった。政府は、またスターリンは、資本主義の大国・アメリカ合衆国はニューヨークの摩天楼に対抗すべく、このモスクワに何十棟もの超高層ビルを建設するつもりだったのだ。これも「社会主義リアリズム」の表現のひとつであるとされ、早速、建築可能なものから設計が始まっていた。
ベリヤが書き進めていた新しい「歴史」――スターリンが大活躍するボリシェヴィキ党史――の執筆は、実は、オルジョニキーゼもスターリンから依頼されていた。だが、彼は書けなかった。スターリンは大作家マクシム・ゴーリキーにも依頼していた。だが、断られた。ベリヤの処女作に、チャンスがまわってくるのである‥‥。ラヴレンチー・ベリヤは、とりあえずタイトルからつけていた。「スターリンの初期の著作と活動――ザカフカースにおけるボリシェヴィキ組織の歴史」――われながらいいセンスをしていると、ベリヤは思った。後は内容だ。マミア・オラヘラシヴィリには「ザカフカース共産主義運動史」、前述のフィリップ・マハラーゼには「ザカフカース一九〇五年」その他の著作があった。内容は、タイトルが示す通りのものである。それらのなかでは、ヨシフ・スターリンは「数百人のうちのひとり」よりは幾らかましな扱いであったが、特に目立つ活動はしていないのであった。これではいけない。
第一七回党大会において、キーロフは書記長に選出されることこそなかったが、中央委員会の書記局員に選出され、しかもスターリンが辞任を望んでいたレニングラード州委員会第一書記のポストはそのまま、兼務することになった。いまや彼は「穏健」路線、苦しい時代を過去のものとする「自由化」ムードの象徴であり、また主唱者でもあった。同志キーロフは、同志スターリンよりも若い。この大会においてはだめだったが、次の党大会では新しい書記長に‥‥という空気は、党内のそこかしこにあった。
「よろしいので‥‥?」
珍しく、カガノーヴィチが自分のほうからスターリンに意見を求めた。
「‥‥‥‥」
よろしかろうはずがない。しかし、キーロフはいい奴だ。なにより、自分に隠し立てをしない(先の会合にしても、キーロフは自分のほうから報告してきたのだ)。人気が高いのも、頷けるというもの。では、どうすればよいのか‥‥? ヨシフ・スターリンは顔を歪め、思い悩むのである。
カガノーヴィチにとっても、いまやセルゲイ・キーロフは脅威であった。彼が新書記長にでもなれば、自分の行く末など目に見えていた。しかし彼は、直接キーロフと対決する力も党内の支持も持っていない。親分に頼るほか、ないのである。
「‥‥‥‥」
カガノーヴィチもまた、思い悩むことになった‥‥。
この党大会においてセルゲイ・キーロフはまた、ニコライ・ブハーリンと並んで、反共を掲げるナチスの脅威を訴えた。ニコライ・ブハーリンは、演壇から、アドルフ・ヒトラーの著書「わが闘争」を読み上げた。
「――『われわれは欧州の南方および西方に向かう永遠のゲルマン人の移動をやめ、東方の地に視線を向ける。われわれはついに戦前の海外植民地および貿易政策を清算し、将来の領土政策へ移行する。だがわれわれが今日欧州において新しい領土について語る場合、第一にただロシアとそれに従属する周辺国家が思いつかれるにすぎない‥‥西方路線も東方路線もわが国対外政策の将来の目標と成り得ず、わがドイツ民族に必要な土地という意味での東方政策が目標なのである』‥‥」
ブハーリンはこれを、単なるドイツ国民向けの宣伝であるとは考えていなかった。同じ壇上で彼はまた、日本の将軍たちによるシベリア「解放」計画に関する大言壮語を読み上げた。そして、次のように総括した。
「(ヒトラーは)彼の厚顔な強盗的政策を、彼がわれわれをシベリアに押しこもうと欲している(と定式化し)、日本の軍国主義者は、われわれをシベリアから押しだそうと欲しているというように定式化している」
ニコライ・ブハーリンは、いまやソビエト連邦が東西から命取りの危険に晒されていることを見抜いていた。しかしスターリンは(ファシストであるムッソリーニ政権の)イタリアがさしたる脅威とはなっていない、として、これに取り合わなかった。歴史的であるとともに今日的でもある東方への野心を持つドイツ、そして一九三一年九月の南満州鉄道の爆破事件(柳条湖事件)を口実に、中国大陸において軍を進め、ソビエト連邦と国境を接する傀儡国家を切り取っていた日本の脅威を見抜いていたニコライ・ブハーリンの警告を、無視したのである。
スターリンの神格化は進んでいた。指導者――これは、スターリンただひとりだけを指す称号であった。一九二九年の、彼の生誕五十周年祝賀会の時期のアネクドートに、こういうものがある。――ある日、同志スターリンが、カール・ラデックを呼び出し、あまり冗談を言うなと命じた。
「承知しました」
と、ラデック。
「でも、あなたがわれわれの指導者だという最近の冗談は、私のじゃありませんよ」
さすがに実話ではなかろうが、スターリンへの皮肉・批判と同時に、当時の人々、特にモスクワ等都市部住民が抱いていたラデックの人物像――実際がどうだったかはともかく――も垣間見え、興味深い。
しかしこんなアネクドートで笑えたのも、もう遠い昔のようだった。神格化は加速していた。「空前絶後の比類なき栄光に満ちたスターリンの時代に生きることに思いを馳せるとき、私は声を大にしたい、叫びたい、歓喜の雄叫びをあげたい。われわれの息吹を、血を、生命を――捧げる。おお偉大なるスターリン」と物書きが書けば、「スターリンによってのみアリストテレスの予言は具現され、十分に説明された。スターリンこそソクラテスと並んで人智の最高峰を示すものである」と哲学者は述べた。
彼の追放が行なわれたモスクワのカザン駅には、ヨシフ・スターリンの彫刻と肖像画が一五一も並んだ。スターリンは個人崇拝を求め、臣下たちは忠誠を示すべく競い合った。植字工は、党員を記す場合に「同志」の省略形の頭文字だけをつける方式を慣習としていたが、「同志スターリン」に対しては禁止され、フルスペルで記さねばならなくなった。また、ハイフンを用いて二行にわたることも禁止された。「賢明」や「天才」という類の形容をせずに、文章でスターリンに言及することはほぼ不可能となった。大人たちだけではない。幼稚園児たちは、食事の後、その幸せをスターリンに感謝せねばならなくなった。
これらの崇拝に執心する一方、スターリンは相変わらず地味な服装を常とした。目立つことに対する、動物的とも言える警戒心が、彼を縛りつけていた。一方のベリヤは、グルジアですでに党の要職にあったわけだが、特に外出の際は、私服の刑事のような服装――というのも難しい表現だが――を選ぶことが多かった。護衛がいたにも関わらず、カバンには書類とともに常に拳銃を忍ばせ、射撃練習も怠らなかった。この男には、これも動物的と言える行動力が染みついていたのである。
――さて、以前ブハーリンがベリヤに話した際に出た巨人機ANT‐20は、無事完成を見ていた。エンジンは実に八発、国威発揚の宣伝のために、機内には放送設備を始め、印刷機、映写機、撮影機、さらには資料室までもが備えられていた。空飛ぶトロツキー列車‥‥とは、スターリンの手前、誰も呼べなかった。機体名のほうは彼がベリヤの案を受け入れず――つまり、何がしかの警戒心が働いたのだ――「マクシム・ゴーリキー」――彼の作家生活四十周年を記念するとして、そのように名づけられた。
一九三四年五月、OGPUのメンジンスキーが死んだ。彼はもともと病気持ちで、死因は狭心症であったが、妙な噂が流れた。空白となったOGPU議長の座は、ゲンリフ・ヤゴーダが代行することとなった。本人は明かしたがらなかったが彼は元薬剤師である‥‥実は同志ジェルジンスキーも‥‥という、この不穏な噂は、スターリンとヤゴーダの睨みにも関わらず、党内で囁かれ続けた。
そして、この秘密警察自体も、大きな機構上の改編期を迎える。このゲンリフ・ヤゴーダを初代議長(長官)――内務人民委員――として、その所属が人民委員会(人民委員会議)から、内務人民委員部の直轄となったのである。チームとしてのGPUは残ったが、内務人民委員部の略称で呼ばれるようになってゆく。NKVDと‥‥。
この年の夏、スターリンはソチのダーチャにキーロフを招き、カザフに行ってくれないかと切り出した。同地は未だ政情が不安定であるが、政治局の代表として人気があるきみが行って監督すれば、穀物の収穫作業もはかどるだろう、というのである。そして、それが終わったら、レニングラードからモスクワに戻ってくれないか、と再度頼んだ。キーロフは、ひとつめの頼みは快諾したが、ふたつめのほうは、きっぱりと断った。
「‥‥‥‥」
スターリンは、言葉もなかった。
「気をつけろ。あそこはまだ‥‥」
別れ際、スターリンはキーロフに手を差し出し、カザフ――カザフ自治ソビエト社会主義共和国の政情不安を口にした。
「わかってるさ」
キーロフはスターリンの手を力強く握り返し、そしてがっしと抱擁してきた。
「グルジア式だ」
ロシア人の同志は、グルジア人の同志に言った。
「同志の友情には感謝している。俺はグルジア人に生まれればよかったと、心底思ってるんだ」
「‥‥‥‥」
「ところで、そのグルジアだが‥‥。『ザカフカース』はやはり、無理があるよ。なあ、もしよければ、グルジアを――アゼルバイジャンとアルメニアも――再び独立させないか。俺たちは、やはりやり過ぎた」
「‥‥カフカースの雑草は、しぶといのだ‥‥。あそこで育った者でなければ、わからん‥‥」
「だからこそさ。それで反対派への懐柔にもなるだろう‥‥。――それとも何か? 俺はやっぱりよそ者なのか‥‥? グルジアワインをたしなむだけの、イギリスのチャーチルと同じか?」
「どうしたんだ、キーロフ‥‥」
つきあいはそれなりに長くなっていたが、こんな彼を見るのは、初めてのことであった。
「コーバ‥‥いや、同志スターリン‥‥。あんたが酷い父親に殴られて育ったことは、よく知っている‥‥」
「‥‥‥‥」
「だが俺には、その父親も、いないも同然だった‥‥」
「わかるさ、キーロフ。その気持ち――」
「――わからないさ。孤児院や親戚の家をたらい回しにされる気持ちは‥‥。俺は生涯奴らを許さないと誓った――だが同時に、それが理不尽な怒りだということも、子供心にわかっていた。怒りと同時に、引き裂かれていたんだ。ガキの頃からな‥‥」
「‥‥‥‥」
「俺には党が家庭なんだ。同志は家族なんだ‥‥。もう、処刑は止めてくれ‥‥」
「――‥‥‥‥」
「いや、すまん。今日の俺は、どうかしてるな。――だが『ザカフカース』の件は、考えておいてくれ。悪い話ではないはずだ。もちろん、責任は俺も取る。われわれの未来のためなんだ」
「‥‥わかったよ、同志キーロフ」
先の第一七回党大会において、中央委員会書記にアンドレイ・ジダーノフという男が選出されていた。アンドレイ・アレクサンドロヴィチ・ジダーノフ。一八九六年のウクライナ生まれで、ボリシェヴィキとして十月革命に参加、以後は党内で順調に出世コースをたどり、ついにここまで昇り詰めた人物であった。革命の闘士というよりは、管理と運営を得意とする官僚タイプであった。このジダーノフは、これ以上昇り詰める――すなわちスターリンの歓心を買う――途を見出した。それは、芸術分野であった。先の建築アカデミーと同様、この年、ソビエト連邦第一回作家同盟大会なるものが設立された――ちなみに、議長はマクシム・ゴーリキー。席上、アンドレイ・ジダーノフは、芸術分野における「社会主義リアリズム」の推進を強く提唱した。ロシア・アヴァンギャルドは、完全に息の根を止められた。
セルゲイ・キーロフは、ほぼ九月いっぱいカザフ自治ソビエト社会主義共和国に赴任し、荒廃した農村部を現地視察し、立て直しを図った。この国で彼は、交通事故に遭った。スターリンの忠告通り、やはり政情不安によるものだった。
「大丈夫か‥‥」
スターリンは、側近に他言無用を命じて、キーロフに電話をかけた。
「ああ、大したことはない。それより、ここの農村は酷いもんだよ。なんというか‥‥壊死してしまっている」
「――詩人だな‥‥君らしくもない」
「‥‥なあコーバ、いま、ロシア人であること、またこの国の人間であること、そこにしか誇りを見出せない若者が増えている‥‥」
「‥‥‥‥」
「コーバ、これはまずいことだよ。なるほど、彼らはわが党に、われわれ指導部に忠誠を誓うかもしれない。しかし、その忠誠は、一見強い鋼のように見えるかもしれないが、実は極めて脆いものだ‥‥」
「‥‥わかっているさ」
「――コーバ、いや、同志スターリン、彼らを利用しようとするのは危険だ。自分が鋼鉄のつもりの人間が己の弱さを見出したとき――見出してもそれを『弱さ』と捉えられない場合、鋼は、ぽきっと折れる――」
スターリンは、不吉な喩えが苦手だった。
「自分を『弱者』だと認めたくない――認められない――ある種の弱者がその社会に増えてゆけば、その社会は空洞化する。壊死してゆくんだ。いくら体面を取り繕おうと、そんなうつろな体制は、悲劇的なものしか生まない。外から見れば、それは喜劇であるかもしれない。‥‥『外』というのは、単に外国という意味だけじゃあない。未来のその社会も、やはりその『外』にあたるだろう。つまり、後世だ。後の時代の人々に笑われないような、あるいは後ろ指をさされないような、そういう政治をしようや。そのためには、勇気が必要なんだ。この社会の現状を直視する勇気が。誰よりも、俺たち『政治家』に‥‥」
「‥‥‥‥」
「――遅すぎることなんてないはずだ。考えておいてくれないか‥‥」
ヨシフ・スターリンはそれに答えることなく、話題を変えた。
「‥‥なあ、キーロフ、モスクワに――」
「またその話か。俺はレニングラードへ戻るよ。やり残した仕事がたくさんある」
「‥‥そのレニングラードだが、不穏な動きがある。これは君のためを思って言っている‥‥」
「気をつけるよ。俺は大丈夫だ」
「‥‥‥‥‥‥」
たしかに、レニングラードへ戻ったキーロフをおかしな報告が待っていた。しかしそれは、スターリンの言う「不穏な動き」とは逆の――スターリンによって引き起こされたものだった。内務人民委員部レニングラード支局長のメドヴェドという者のその報告は、支局長代理のひとりであるザポロージェツという部下が、自分の許可を受けずに(モスクワの)内務人民委員部の本部から五人の職員を連れてきて、レニングラード地区の要職に勝手に就けてしまった、というものだった。これでは指揮系統が二元になってしまいます、というその報告に、キーロフも頷いた。そして州委員会を招集した。
同委員会は、全会一致でこのザポロージェツという支局長代理ならびにその新しい職員たちの解任を決議した。今度はキーロフがスターリンに電話をかけ、この旨を伝えた。しかしスターリンは、その支局長代理がなにかまずいことをしたのか、内務人民委員部は機構を改め直したばかりであり、この人事もその改革の流れに沿ったものだ、とその決議を認めなかった。これに対しキーロフは、もしザポロージェツとの間で問題が生ずるようなら、自分はメドヴェドを応援する、と言い切った。
「――ところで同志キーロフ、この間の話を考えたのだが」
「ん? ああ‥‥」
「たがをゆるめれば、この国はバラバラになる。君にだからこういう言い方をするが‥‥他ならぬロシア人である君が、それはよくわかっているんじゃないのか?」
「――‥‥そうだな。それはそうかもしれない‥‥。しかし、恐怖で人民を抑えつづけられるはずがない。歴史が証明するところだ。欺瞞の帝国主義諸国はいま、大恐慌からの延命を図っている。いまが、いまこそチャンスなんだ。この国が生まれ変わる‥‥。そう思わないか?」
「‥‥キーロフ、君はいい友人だ。私は、君を失いたくはない‥‥」
「――どういう意味だ?」
「‥‥‥‥‥‥」
夏の抱擁は、すでに遠くなっていた。電話線を通して、冷ややかな空気が流れた。
一一月七日の革命記念日の軍事パレードには、さらに数を増した巨大戦車T‐35が行進した。その一輌に、装填手として彼が乗り組んでいた。イヴァン・V・コズロフ。あの内戦‐干渉戦争では、ミハイル・トゥハチェフスキーの部隊に配属され、白衛軍を相手に、次いでポーランド軍を相手に――ポーランド・ソビエト戦争――で戦功をあげた。また二十年代に結婚し、一男をもうけていた。妻は、ユダヤ人の古参党員を父親に、ロシア人を母親に持つ女性で、オリガといった。彼、コズロフ自身も党員となっていた。この晴れの舞台に彼はもちろん緊張していたが、同時に不思議な感慨を覚えてもいた。思えば、不思議な人生だ。一介の農民の子に過ぎなかった自分が、いまやこんなものに乗っている。
――あの同志と出会い、装甲列車に飛び乗ったことによって‥‥。彼の勤勉さもあったし、党員となった影響もあったが――。
イヴァン・コズロフは頭を振り、眼鏡を直した。同志ミハイル・トゥハチェフスキーの栄光の第1軍、それ以前の過去。それは、明かされてはならない過去、今では口に出せば危険な過去、故に思い出してはならない過去であった。党指導部、政治指導者たちの揺らぎをよそに、T‐35の車列は粛々と行進した。
そして、一二月一日、夕刻。レニングラード党本部――十月革命の際、ボリシェヴィキ本部が置かれたあの元スモーリヌイ女学院――の三階の廊下で、一発ないし二発の銃声が響いた。高い人気を誇り、スターリンの後継者と目されていたセルゲイ・ミローノヴィチ・キーロフが、凶弾に倒れたのである‥‥。キーロフは首の後ろあたりに銃弾を受け、すぐに医師による応急手当が施されたが、まもなく息を引き取った。現場で気を失っていたレオニード・ニコラエフという容疑者が、すぐに逮捕された。
ヨシフ・スターリンは、この事件に関心を示した。いや、関心を示したどころの話ではなかった。事件のわずか一五~一六時間後の一二月二日の朝、自らレニングラードへと赴いたのだ。これには、モロトフ、ヴォロシーロフ他、スターリンの手下たちも同行した。彼らの突然の来訪に、朝のレニングラードの「モスクワ」駅は、警備の内務人民委員部員たちによって、ものものしい雰囲気に包まれた。同委員部レニングラード支局にとって、これは初の大仕事となった。しかしそれが、極めて不名誉なものになってしまったのだ。寒い朝であったが、それどころではなかった。メドヴェドとザポロージェツは互いに、おまえのせいだ、という視線を飛ばしあっていた。側近や護衛の後に、同志ヨシフ・スターリンがゆっくりと列車のデッキから登場し、NKVD職員たちをじろりと睨みわたした。――これからどうなるのか、誰にもわからなかった。
党本部と同じ建物に――スモーリヌイは長大な建物である――捜査本部が置かれた。そもそも、ここは党本部である。当然、警戒は敷かれていた。それなのになぜ暗殺者が、それも三階まで、入り込めたのか? 重要人物である同志セルゲイ・キーロフに、やすやすと近づけたのか‥‥?
ヨシフ・スターリンはなんと、容疑者との直接の面会に及んだ。――因縁の建物の一室で、スターリンは、レオニード・ニコラエフに犯行の動機を尋ねた。口調は、穏やかであった。これにニコラーエフは、内務人民委員部の関係者を指し示し、それは彼らに聞くべき、と答えた。モロトフの顔色が変わった。ヴォロシーロフは、苦笑まじりの薄笑いを浮かべた。スターリンは、眉ひとつ動かさなかった。レオニード・ニコラエフは、すぐに引っ立てられていった。部屋を出た一行を、奇妙な沈黙が包んでいた。
「‥‥あの男はおそらく、気が狂っているんでしょうな」
沈黙を破ったのは、ヴォロシーロフ。相変わらずの、無責任そうな口調だった。
「そ、そうですな‥‥! そうでしょうとも!」
モロトフが、親分の顔色をうかがいつつ、これに合わせた。スターリンは、歩みを止めなかった。ふたりに、内心うんざりしていたのだ。この旧い仲間たちは、何故かくもセンスに欠けるのか‥‥? が、しばらくの沈黙の後、ようやく重い口を開いた。
「いや、あの男は、狂人などではない‥‥」
モロトフとヴォロシーロフ、それに他の手下たちも、互いに顔を見合わせた。
「‥‥被害者は、ただの人間ではない。セルゲイ・キーロフなのだ‥‥」
手下たちは、スターリンの言葉に耳をそばだてた。
「――あの男には、明確な政治的意図があったのだ。奴の背後には、党と国家の転覆を狙う巨大な政治勢力が存在するであろう‥‥」
スターリンの腹の内は、その場の全員に伝わった。
「そ、そうですな‥‥! そうでしょうとも!」
モロトフが、冬だというのに汗を拭きながら、先刻よりも上ずった声をあげた。
「これは明らかに政治的事件ですっ。党としても徹底的な調査の必要が‥‥!」
モロトフの空演説が続くなか、スターリン一行は、かつての革命の本拠地の長い長い廊下を歩んでいった。
一二月二日、同志セルゲイ・キーロフを襲った悲劇が「プラウダ」に載った。「犯人の身元については目下確認中」とのことであった。翌三日、犯人――レオニード・ニコラエフ――の身元が明らかにされた。一九〇四年生まれの労働者であること、農民監察部の元職員であること‥‥捜査はなお継続中であると発表された。翌四日、セルゲイ・キーロフは棺に入り、列車でモスクワの「レニングラード」駅に到着した。正装して安置されたキーロフの遺体を見た際、ヨシフ・スターリンは「胸をつまらせ」その亡骸に接吻した。同日、「ソビエト権力の労働者に対するテロ攻撃を準備した容疑で最近逮捕された白衛軍の事件」が、二日のうちに最高裁判所軍事法廷に送られたことが発表された。六日の午後には、国葬が営まれた。葬儀委員長はアヴェリ・エヌキーゼが務めた。スターリンは棺を佇立しこれを護る儀式に加わり、盟友であった同志の死を嘆いた。党内穏健派の期待の星セルゲイ・キーロフは、こうして消えたのである‥‥。
革命戦争が未だ終わっていないことが、これによって明らかになった。同志キーロフは、警戒の隙を突かれ、凶弾に倒れたのだ‥‥。「革命の敵」の摘発が大声で叫ばれた。一二月一八日までに、レニングラード、モスクワ、白ロシアのミンスク、そしてウクライナのキエフといった都市部にひそんでいた「白衛軍の残党」一〇二名が裁判により有罪とされ、処刑されたことが発表された。彼らは、ラトビア、フィンランド、ポーランド、ルーマニア等から侵入した、とのことであった。キエフで処刑された人々には、ウクライナ文化の復興に取り組んでいた有名な人物と、その関係者が多かった。
一方、党内においてもこの問題は厳しく追及されねばならなかった。警備の者は、いったい何をしていたのか‥‥? 合理的な説明とされたものは、これは広い意味での内部犯行である、というものであった。すなわち党内に、強大な支援組織が存在する、というのである。警察的な意味での捜査と別個に、党内における調査チームが作られることになった。そのチームの長には、「ニコライ・エジョフ」という、あまり聞いたことのないNKVD職員が就任することになった。無論NKVD職員であるから、彼はゲンリフ・ヤゴーダの配下であり、警察的な意味での捜査と連携できるわけである。
さて、このニコライ・エジョフの「調査」により、「レニングラード・テロリスト・センター」なる党内の秘密組織が「暴かれた」。暗殺者レオニード・ニコラエフは、日記や声明文を残していた。それによると、同志セルゲイ・キーロフはニコラエフの妻と不倫の関係にあった。このために殺害を決意したのだという。しかしまた、ニコラエフはこの「テロリスト・センター」に所属していたとされ、レニングラードの「ジノヴィエフ派」がその背後にあるとされ、彼らは次々と逮捕された。この「レニングラード・センター」は「トロツキー=ジノヴィエフ派の綱領」に基づき、現在の党指導部の弱体化を狙ったとされ、グリゴリー・ジノヴィエフならびにレフ・カーメネフといったかつての最高幹部らも逮捕された。――ただ、彼ら有力者は、一二月二〇日には証拠不十分であるということで、不起訴処分となった。
一二月二八日から二九日にかけて、起訴された者たちの裁判が、非公開形式で行なわれた。当のニコラエフだけは何故か、他の被告たちから離れた仕切りの陰に座らされた。そして彼だけが有罪を認め、他は全員が無罪を主張した。判決は、全員が有罪――死刑であった。彼らに対するこの刑は、その二九日の夜に、リテイニ刑務所の地下室で執行された。
北方航路の開発は進んだ。一九三三年とこの一九三四年の試験航海の結果、来年にもこの航路は正式に開通し商業利用に供される運びとなった。西から、バレンツ海に面するムルマンスク、アルハンゲリスクを始まりとして、ハバロヴォ、アムデルマ、オビ湾に深く入ったノヴイポルト。カラ海に入って――面する――ディクソン島、そしてエニセイ川に入ってウスチ・ポルト、ドウジンカ、ノリリスク、ラプテフ海に入って――面する――コムソモリスカヤ・プラウダ島、コジェヴニコフ湾、ノルドヴィク、チクシ。東シベリア海に入って――面する――ニジニー・コリィムスク、アルバルチク、ペヴェク、チュクチャ海を越えてベーリング海峡に面するプロヴィデニヤ湾、アナドゥイリ。そして大きく南下して――もう太平洋である――港湾都市ペトロパブロフスク・カムチャツキー、ソビエツカヤ・ガヴァニ、ウラジオストク、である。
一九三五年。新しい年が明けた。一月一六日、同志セルゲイ・キーロフ暗殺事件は新たな展開を見せた。今度は「モスクワ・センター」なるグループの存在が明らかになり、そこには他の者たちとともに、再びグリゴリー・ジノヴィエフおよびレフ・カーメネフの名があげられていた。ヨシフ・スターリンが自らこの事件の捜査(調査)に乗り出したことは、前述の通りである。「捜査」は進展を見せ、そしてソビエト連邦は――その社会全体が――狂うのである‥‥。
一部に改行がおかしな箇所がありますが、ルビの表示を考え、このようにしています。ご理解をお願いいたします。